徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    タグ:小説

         前回の柳原白蓮に関連して・・
    ◎林真理子の『白蓮れんれん』
    (以下文中敬称略します)
    林真理子は 現在NHKで放送中の大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』の原作者でもありますが

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    柳原白蓮の伝記小説『白蓮れんれん』も書いています(1994=平成6年から雑誌「婦人公論」連載 のち文庫化) 
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    その“白蓮の伝記”を書いた前後の状況・心境をKADOKAWA発行の「本の旅人」という文芸小冊子
    (とでも言うのでしょうか?2015年11月号)への寄稿文で次のようなことを述べています

    「直木賞をいただいたあと ヒットが出ない時期が
    長かった中で初めて挑戦した歴史小説が好評だった
    ためか伝記小説の依頼が来て 選んだ題材が柳原白蓮」でした 幸いに宮崎家から門外不出の"白蓮と龍介のラブレター”※を見せていただくなどして    書いたのが『白蓮れんれん』である うまく書けて 柴田錬三郎賞をいただいたことは大変嬉しかった その後この本は文庫で細々ではあるが売れ続けていたところ 思いがけないことが起こり NHKの朝のドラマ『花子とアン』によって柳原白蓮がスポットライトを浴びることとなった そして20年前に書いた『白蓮れんれん』文庫本は にわかにベストセラーになり この本は私を語る時に欠かせないものなった」

    ※晶子と白蓮関連のNHK番組内で そのラブレターは700通以上もあり 中には一日に2通 3通も書いているものもあると紹介されました

    その他にも林真理子は 『流転の歌人柳原白蓮 紡がれた短歌とその生涯』という本を馬場あき子 東直子 白蓮の娘である宮崎蕗 との共著(NHK出版)で2014(平成26)年に出しています

    ◎文学賞を渇望した林真理子
    林真理子(1954=昭和29年4月1日~)氏の受賞・受章歴は・・直木賞 1986(昭和61)年 (前年発表の『最終便に間に合えば』 『京都まで』の評価による) / 柴田錬三郎賞 1995(平成7)年  (『白蓮れんれん』の評価による) / 吉川英治文学賞 1998(平成10)年 (『みんなの秘密』の評価による) / 島清恋愛文学賞 2013(平成25)年 (『アスクレピオスの愛人』の評価による) / 紫綬褒章 今年2018(平成30)年11月3日 / レジオンドヌール勲章のシュヴァリエ※ 2011年(※フランスへの「卓越した功績」のあった者に与えるもの但しシュヴァリエは最下等級)
     
    このように多くの賞を授与されていますが 氏は31才の時に直木賞をもらった直後から 次なる賞の獲得を必死に目指したことを率直に公言しています 前出の「寄稿文」で・・

    「有名な文学賞は芥川賞 直木賞であるが これがゴールというわけではない。作家は次のハードルに向けて頑張る。芥川賞を受賞した作家なら、野間文学賞、直木賞ならば、柴田錬三郎賞、吉川英治賞というものが待っているのだ 直木賞をいただいた私であるが ヒットが出ず それからが長くつらかった。 『それ見たことか』という声がきこえてくるような気がした。作家によっては いったん名前を知られた後はエッセイや講演 テレビ出演などで それなりに稼げる人もいて 私もそのタイプと思われていたので、なおさら努力した。そうして柴田錬三郎賞をいただいて、新聞のインタビューを受けたら、『馬に喰わせるほどある文学賞の一つを貰ったことが、そんなに嬉しいのか』とかなり皮肉られたが、それは作家の実態を知らないからだ。直木賞の後、作家は必至で書く。書いて書いて、前を走っていくグループに入らなくてはならない。そうした作家にとって、出版社が出す大きな賞はどれほど励みになるだろう」と述べています

     
    そして今年の紫綬褒章受章直後のコメントは・・世間からちゃんと作家として認めてもらえるまで本当に時間がかかった 愚直にひたすら書いてきたことが認められて とても光栄に思います 小説を書くことが私を成長させてくれました」
     
    そして今 林真理子は直木賞をはじめ 講談社エッセイ賞 吉川英治文学賞 中央公論文芸賞 毎日出版文化賞の審査委員になっています
     
    ◎芥川賞を審査員に懇願した太宰治
    太宰 治(本名:津島修治)  (1909=明治42年6月19日-1948=昭和23年6月13日※)
     ※愛人の山崎富栄と入水心中した日は6月13日だが発見されたのは 太宰の誕生日と同じ6月19日でした
     
    太宰は学生時代から芥川に異常なほど傾倒していたことはよく知られています
    学生時代のノート余白には芥川龍之介の名前や似顔絵を多数書きこんだ落書が残されています
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    出典NHKニュース/kajipon.sakura.ne.jp
     
    また芥川の有名な写真のポーズを真似ていたこともよく知られています
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     芥川龍之介       
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    若い頃の太宰 出典takro.blog25.fc2.com

    芥川の1927(昭和2)年7月24日の自殺を知った太宰は 当時旧制弘前高等の学生で 相当のショックを受けて 住んでいた下宿にしばらく閉じこもっていたそうです また友人に「作家はこのようにして死ぬべし」というようなことも言っています そして太宰は最後の自死までに数回の自殺未遂までして芥川の真似をしたような行動とります

     
    このような芥川への心酔者である太宰にとって芥川死後に菊池寛が創設した『芥川龍之介賞』は絶対に必要なものとなりましたが その第一回選考で候補者になったものの 結果は次点で落選
     
    そこで第二回芥川賞を獲得したいがために 『当時選考委員の一人だった佐藤春夫に 受賞できるように懇願する手紙を複数送っていますが 2015(平成27)年になって4メートル超の長さの和紙の
    巻紙に毛筆で書いた手紙(1936=昭和11年1月28日付け)発見されました その文中では・・
     
    「芥川賞は、この一年、私を引きずり廻し、私の生活のほとんど全部を覆ってしまひました・・第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます。私はきっと、佳い作家に成れます。御恩は忘却いたしませぬ・・」・・ということを述べています』『』部分は朝日新聞2015年9月8日の記事より一部引用 (下の写真も)
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    しかしながら芥川賞は「過去に選考候補になった者は対象外とする」という選考規定が設けられたことで 太宰は芥川賞を貰うことはありませんでした
     
    ◎実家が本屋だった林真理子と「幸福書房」
    今年2018年2月に東京・代々木上原の駅前で40年間ひらいていた書店「幸福書房」が閉店しましたが そのニュースが複数の新聞やNHKのニュースにまでもとりあげられ また閉店予告をして以後は
    「昔 この店をよく利用
    していた人」が遠くの移住先から駆けつけてくれたり 閉店日には店前の路上にまで溢れるほどの人たちが感謝の言葉を伝えに来たということで いかに素晴らしい本屋さんであったことかが分かります 例えば・・
    ・店主の岩楯幸雄さん(68才)が弟さんと奥さんと家族経営で 8時から夜11時まで 元日除く364日営業
    ・小さな書店ながら単行本などの中身は硬いが本好きが食いつくような本を厳選して並べていた(経営採算のため雑誌販売もしたが 量的には全体の半分以下)
    ・「書棚へ置く本を通じてお客さんと会話する」と岩楯さんは言い 常連客には その人の好みに合わせた本を仕入れて並べるなど  魅力的な本棚だった

    そして 日本中でここだけというサービスが・・林真理子の本を買うと その本に直筆サインがもらえる』というものでした 
    実は林真理子は代々木上原に住んでいて 幸福書房を贔屓にしてくれていたので 「ある日 林さんにサインをお願いしたのがきっかけで 5,6年前から林さんのサイン本のサービスを始めたのです 店内の一番目立つ場所には林真理子コーナーを設けて 新刊が出るたびに全国からファンが訪れて買う「聖地」のようになり 新刊が出るたびに 遠くは関西や東北などから来店してサインを依頼する熱心なファンがいます ここから読者に届けられた林さんのサイン本は約1万冊にものぼります」・・岩楯さんは言う 「」内は「弁護士ドットコムhttps://www.bengo4.com/internet/n_7461/」より引用

     
    林真理子は本屋の娘だったので この幸福書房を愛していて 閉店日には来店して 
    集まった皆さんの前で 店主への感謝と惜別の挨拶を 涙を流しながら述べたそうです (ネット上ではその際の涙の挨拶写真も流れています)


    ◎幸福書房は南長崎でブックカフェになった
    代々木上原の店を閉じる前に予告していた通り 閉店後間もなく 岩楯さんは東京都豊島区南長崎の地にブックカフェを開きました 実は元々昔からこの場所にご自宅があって岩楯さん自身はここから毎日 自転車で1時間をかけて店まで通っていたのです しかも1977(昭和52)年にこの南長崎に最初の幸福書房を開店して1980(昭和55)年に代々木上原の店を開店するまでは ここが自宅兼本屋だったのです こうして原点の地でブックカフェ開店にこぎつけたのですが ご本人が言うように  なにぶん未経験の業態なので試行錯誤の状態だそうです
     
    先日の夜に私はそのお店の前まで行ってみました 閉店もまじかなようで中には入らなかったのですが 率直に申し上げて お店としての体裁は未完成で 岩楯さんの予告では店名を幸福茶房」とするようだったのですが まだお店の入り口の上には「幸福書房」のままの看板がありました 今後の発展整備の余地が多くあるので むしろこれからが楽しみです
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    まだ「幸福書房」の看板が・・        
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    外から見たブックカフェ店内 中央右のダンボール箱には「一人二冊まで 無料でさし上げます」と文庫本が在中
    林真理子の通った日本大学藝術学部(略称:日芸)文芸学科のある東京都練馬区江古田にあるキャンパスもこのブックカフェから直線距離にして2、3キロの近くですから 日芸出身の名士である林真理子には 講演依頼などされて江古田に来られた際には店に寄っていただけるのではないでしょうか・・
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎踊子の名←実際の兄の名←川端の父の名・・の構図
     
    川端康成の小説「伊豆の踊子」は殆どが氏の実体験に基づくもので 主人公はほぼ氏自身である・・ということはよく知られています            
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    しかし登場人物の名前の設定には ある思惑を込めて 事実が操作されています

    氏は この小説の中の「私」に「二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでゐる」・・と語らせていますが それは即ち「孤児根性」をもつ氏自身のことでもありました 
     
    氏は生後2才になる前に父親を亡くし 翌年には母親も亡くして 姉芳子と二人きりになってしまったので 氏は母の実家に引き取られ 姉は伯母の家に預けられます 氏が七才のとき祖母が死に 十才のときに姉も亡くなり その後は祖父と二人暮しを始めたものの 十六歳のとき祖父が亡くなって ついに孤児となってしまいましたから
     
    「孤児根性」をもつのは無理もないことでしょう   ただし・・   
     
    『 氏のいう「孤児根性」とは、世間一般ですぐに想像される「性格上のひねくれや陰気さ」ではないようです。
    氏の初期の小説に『葬式の名人』があり、その中で「・・・・生前私に縁遠い人の葬式であればあるだけ、私は自分の記憶と連れ立って墓場に行き、記憶にむかって合掌しながら焼香するような気持ちになる。
    だから少年の私が見も知らぬ人の葬式にその場にふさわしい表情をしていたにしても いつわりでなく、身に負うている寂しさの機を得ての表われである。」・・とあり この「身に負うている寂しさ」が、言わば「孤児の感情」なのです。 それは後々までも、氏の文学の一つの根となっています。』

    ・・この様な「氏の心情」を踏まえた上で 「伊豆の踊子」における登場人物の名前を考えると・・
     
    踊子の名前の「薫」は・・実際に氏が出会った旅芸人の踊子の兄の名前が「時田かほる」だったことと この兄が氏と伊豆山中で会ってから下田の波止場で 別れるまで 何かと氏を気遣ってくれた上に 帰京した後の氏としばらくの期間は文通もしたというような関係から 氏が 親密さを感じていた”この兄の名「かほる」を「小説中の愛着のある踊子」に「かほる=薫」として「移入」したのでしょう

    それと同時に・・
    「小説中の踊子の兄」の名には・・氏が「孤児根性」という心情の中で 顔も覚えていない亡き父を慕う気持ちで 氏の父の名前である「栄吉」を これまた 移入したのでしょう
     
    ところで もう一つ 「実際の踊子の兄の名」を「小説中の踊子の名」にしてしまうには好都合な状況があったことも見逃せません それは・・
     
    すなわち 男の「かほる」を女の「薫」に変換しやすかったということで 氏が「伊豆の踊子」を執筆した当時は既に「薫」は男女兼用だったからです

    ◎「薫」と男女兼用名前の苦労

    「薫」は 古くは1千年前の世界初の長編小説である「源氏物語」に男の名として登場しますが・・いつ頃から 「薫」が男女兼用になったのでしょうか とにかく現在は兼用ですね
    有名無名ざっとあげると・・
    男性では・・小山内薫(劇作家、演出家)  / 丸山薫(詩人) / 蓮池(拉致帰還者) / 小林(俳優) / 藤原(子役からの俳優) / 井上薫(弁護士)/ 斎藤(私の高校教師) /  黒澤(私の高校同級生)
    女性では・・鳩山薫(元首相鳩山一郎夫人 鳩山由紀夫の祖母) / 中丸薫(国際政治評論家) /  八千草薫(女優 宝塚歌劇) / 髙村薫小説家 /  奥貫薫(女優 ナレーター ) / 麻生薫元宝塚歌劇団男役俳優川地民夫の二度目の妻)/ 木村薫(新橋・料亭 新喜楽の女将) / 千波薫(宝塚歌劇)/ 青木薫(ブータン日本語学校校長) / 野崎(私の知人:元経産省勤務)
    【ひらがな名:兼高かおる(本名:兼高ローズ) /  野辺かほる(女優) / 淀 かほる女優 宝塚歌劇花組男役 旧芸名は淀 かをる )/ 箙 かおる(えびら かおる 元宝塚歌劇 男役 雪組組長)/ 久美かおる(元宝塚歌劇)
     
    この状況では「薫」という名を見ただけでは 男女の区別がつきかねますね
    そこで 思い出される有名な例としては・・鳩山薫(元首相鳩山一郎夫人)さんの名に「子」をつけて・・鳩山薫子・・という名前がマスコミも含めて一般的に流布されていました
     
    「薫子」なら確かに女性とわかりますが 「子」をつけて呼ぶ理由が他にもありました
     
    飛鳥時代には男性名に「子」が付きました・・小野妹子 蘇我馬子 など しかし以降の時代は主に高貴な女性につけられ 江戸時代に一時これが途絶えたものの 明治になって再び華族の女子において復活したが 明治中期には 文化人らが・・は身分にかかわりなく付けてよい」「 は実名に限らず自称でも他称でもかまわぬから付けるのがよい」など提唱して以降 女子の名への 付けが一般庶民にも広まった
    ・・しかし歴史的にみても は女性に対する尊称・敬称的な意味合いがあったわけです
     
    つまり 鳩山薫さんに対する尊称として が付けられ 鳩山薫子と呼ばれるようにもなったのでしょう(氏は才色兼備しかも政治家の妻の鑑といわれていました)
     
    さて男女兼用の名には 他にも・・「香織」 
    男性では・・宮崎香織(柳原白蓮と宮崎龍介の長男 学徒出陣して戦死) / 野口香織(私の高校同級生)
    女性では・・江國香織(小説家)/ 持田香織(シンガーソングライター)/ 小林香織サックス&フルート奏者、 作曲家)/  坂上香織(女優、歌手)

    「忍」 
    男性では・・坂上忍(俳優) /  橋本忍(脚本家) / 押阪忍 (アナウンサー) / 齋藤忍(俳優) / 川崎忍(私の従兄)
    女性では・・中山忍(俳優  中山美穂の妹)  /  茂木忍(AKB48) / 大野忍選手(なでしこジャパン)    
     
    「慶」
    男性では・・佐藤慶(俳優) /  井川慶(元ニューヨークヤンキース投手)/ 上地慶(俳優) /  須永慶(俳優)
    女性では・・大浦慶 (江戸時代末から明治前期の実業家/日本茶貿易の先駆者)/    佐橋慶(エッセイスト 日本初の女だけの会社「アイデア・バンク」設立)
    ここで興味深いのは・・佐橋慶さんで・・1980年代前半頃から 氏自ら名前の後ろにの字を追加して 「佐橋慶女」として執筆活動されています  これは「慶」が男女兼用ゆえに「私は女です」という表明の必要があったからでしょう(私はお会いしたことありますが 氏のヘアスタイルはボーイッシュです)

    蛇足的連想ですが・・「更科日記」の作者は実名不詳なので「菅原孝標女」とされ この表記の最後尾の「女」は「むすめ」と読ませて・・「すがわらのたかすえのむすめ」となっていますね
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      ブログ開始から 主に野辺かほる 美空ひばり 伊豆の踊子関連の内容で綴ってまいりましたが そろそろネタが尽きましたので !! 次回からは ランダムなテーマ 内容になりますが 今後もよろしく"ご開覧"お願いいたします

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