徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    タグ:事件

    これまで私は  東京都豊島区南長崎 あるいは その旧町名である椎名町に関係した題材を多く取り上げてきましたが 皆さんの中には「椎名町」という地名を聞けば・・あの「帝銀事件」を思い出される方もおられることでしょう
    今や「椎名町」という名は 西武池袋線の「椎名町」駅と私がかつて通い  今も存続する「椎名町小学校」にしか残っていません この小学校も近年の少子化による統廃合で名前が消えるかもしれません
    しかし「帝銀事件」は日本の社会史または犯罪史の中に残るでしょう それゆえに「椎名町」の名は消えることはないでしょう
     
    ◎帝銀事件のあらまし
    1948(昭和23)年1月26日
    東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店で 
    行員たち16人が毒を飲まされて12人が殺され現金と小切手が奪われた事件・・これが通称「帝銀事件」
    ※帝国銀行は後の三井銀行 現在の三井住友銀行
    椎名町支店は1950年に統合閉鎖され廃店
    事件詳細は「シェアチューブ」(sharetube.jp/article/12965/)など参考下さい
     
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    事件直後の帝国銀行椎名町支店jaa2100.orgより引用

    警察の捜査の結果 テンペラ画家(※1)の平沢定通(ひらさわさだみち)が逮捕され  1955(昭和30)年に死刑が確定したものの 冤罪の可能性は否定できないために 代々の法務大臣が平沢の恩赦請求は退けながら死刑執行命令書には署名しないまま年月が過ぎ 平沢は 獄中生活30余年経過した
    1987(昭和62)年5月10日 肺炎のため95才で死去
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    平沢貞通 
    en.wikipedia.comより引用

    1:テンペラ画とは“顔料に卵黄を混ぜて作った絵具”を使って描いたもの

    ◎平沢貞通は犯人か?
    平沢が犯人とされた決定的証拠は無く ただ過去に銀行詐欺4回の犯歴があるくらいで その他は“可能性はあるが確定はできない”理由ばかりです
    中には “後日 いわゆる「面通し」として被害者に平沢の顔を見せたが 犯人の顔と断言できる者は皆無だった“ということもあったとのこと そして 犯行に特殊な毒薬を使った手口は 高度な知識と経験を持つ者以外では不可能なもの
     
    「歴史に“もしも”は無い」と よく言いますが “ある一つの歴史”がその後の人や社会に悪い状況を招いたならば それは いわゆる「歴史の教訓」として反省材料としなければならないもので そこで必要となるのは“もしも”の状況設定です
     
    帝銀事件に関しては大量の研究・考察結果情報が出ているようですが 私が読み取った範囲から言えるのは・・平沢貞通は 下記のような“もしも”によって そもそも逮捕もされず 獄死もせずに済んだのでは?ということ
     
    “もしも1”・・事件で奪われた金額とほぼ同等の大金を事件直後に所持していたことが判明していて 平沢はそのカネの出どころをガンとして説明しなかった ゆえに これが証拠の一つとされたが・・
     
    平沢の養子となって“冤罪追求”活動をしていた故平沢武彦氏が 生前の2000(平成12)年6月に『平沢貞通氏を救う会』のホームページhttps://www.gasho.net/teigin-case/jiken/shunga/shunga.htm「平沢が 死刑確定の約8年後に『平沢貞通氏を救う会』の初代事務局長であり武彦の実父であった作家の森川哲郎に・・「実は(あの大金は)『秘画12カ月』(春画)というものを描いて得たカネです」と告白していたし 小樽在住の“平沢の親族は 終戦後に 平沢が春画をよく描いていた事実を認めている」・・と発表している
    そして同じ2000年にNHKテレビが“小樽のある家で発見された 平沢作の『秘画12カ月』とみられる巻物を武彦が実際に見て調べているシーン” を放映している・・
    このことから・・もしも 平沢が「所持している大金は春画を描いて得たものです」と一言 言えば 罪を被せられることも無かったのではないだろうか・・まさに“言うは一時の恥 言わぬは一生の獄中生活”

    ※戦後の混乱と生活困難期には 大物の画家の中にも春画を描いていた人が多くいたことは後年 知られるようになったが 当時 平沢は文展無鑑査(現在の日展にあたる美術展に審査無しで出品できる) および日本水彩画会の審査員という高い身分であったゆえに 春画を描いているとは とても言えなかったことは想像に難くない
     
    “もしも2”・・帝銀事件での毒殺の手口は 前述のように とても 一般人では不可能ゆえに 犯人は旧陸軍「731部隊」または同「登戸(のぼりと)研究所」(双方とも毒や細菌で人体実験などして 兵器化の研究など行った)の関係者が容疑者であるとにらんで 捜査が進んだが すぐにGHQから その筋の捜査中止命令が出された
    GHQは旧日本軍の「731部隊」や「登戸研究所」の存在を感知していたので そこに関与した者たちへの戦犯不問とする交換条件として 研究結果資料や証言を731部隊長だった石井中将をはじめ 元部隊員や元登戸研究所員から収集していた そこに帝銀事件発生で警察が動き さらにマスコミまでが動くと “731や登戸”などの存在と資料が・・当時既に 米国が敵視し始めていたソ連側に漏れることを恐れたことは間違いないだろう
    もしも ソ連敵視の米国が中心のGHQの存在が無かったら・・「731部隊」か「登戸研究所」の関係者が真犯人となり 平沢は逮捕さえされなかったことになる
     
    ◎帝銀事件以前に同様な事件が2件発生していた
    第1件目:1947(昭和22)年10月14日 安田銀行(後に富士銀行 現みずほ銀行)荏原支店で 後の帝銀事件と全く同じ手口で犯行が行われようとしたが 毒殺も金品奪取も未遂に終わっている
     
    第2件目:1948(昭和22)年1月19日 つまり帝銀事件の1週間前に 三菱銀行中井支店で 現れた男が“前年の安田銀行の場合と同様な言動をした”ものの支店長の機転で未遂に終わっている
     
    ◎三つの事件はGHQがやらせた? 
    GHQは敗戦した日本を占領した「連合国軍最高司令部」のことであり 形式的には 米国 英国 ソ連 中華民国が関与したが 実質は米国の独占的権限が行使されて 米国は自国の軍事的優位性確保のために 前述のように 独占的に また秘密裏に“旧日本陸軍の毒薬や細菌による兵器開発資料“を731部隊あるいは登戸研究所に関与した人間から引き出して利用しようとするが・・
    ここからは私の推測ですが・・ 
    その引き出した情報を本国に送る前に その真偽性を確認しておこうとして 一つ“特殊な毒薬”の効果を“731または登戸にいた人間”に実証させようとしたのではないか その実行役を指名された人間は“実行すれば 戦犯不問にする”という交換条件を出され また絶対的権力を持つGHQの指示は拒否できるものではなかったであろう・・この推測の背景となるのが・・
    『帝銀事件の捜査主任であった成智(なるち)英雄警視は昭和47年に 雑誌の中でこのように述べている「アリバイが無いことと 事件の生き残りの者の証言による犯人像にピッタリ一致したのは 731部隊に所属していた医学博士のS軍医中佐ただ一人であった」(実際は“S”部分は実名)』
    『』内は「シェアチューブ:12人を一度に毒殺した「帝銀事件」とは」sharetube.jp/article/12965/より引用一部省略
    これに加えて・・
    帝銀事件の際 犯人は「GHQのホートク中尉の指示で先に来た」「ホートク中尉は消毒班を連れて後から来る」‥のように“GHQ”と“ホートク中尉”を口にしている
    ホートク中尉はGHQに実在する防疫関係の軍人であり その名前がスラスラと出るというのは 犯人がGHQと何らかのつながりがあったと考えられるので “SはGHQの指示で犯行せざるをえなかったのではないか”とも思える
     
    ◎帝銀事件現場跡は今・・
    帝銀椎名町支店が在った場所は 現在の東京都豊島区長崎1-7-1で 西武池袋線の椎名町駅から北に40mほどの距離に在り 現在はマンションが建っています 私も最初は場所が特定できずに 駅に張り付いたカタチで在る交番で「元帝銀事件が在った場所」を訊ねたのですが・・「分からない」という答えが返ってきたのには驚いた 聞けば「時々同じ問い合わせはある」と言うのにもかかわらず・・であり これは“何かある?” と勘繰らざるをえない 
    そう言えば 最近 帝銀跡地のマンションの住人が “大量殺人事件があった跡地とは知らされていなかった”として クレームをつけた・・というような話を聞いています
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    帝銀跡地に建つ茶色のマンション 
    この道路を40mほど先に進めば椎名町駅 

    この道路左側に在るのが長崎神社(下写真)
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     ・・・・・・・・・・

    天城山心中した「ラストエンペラーの姪」の両親が暮らした家に行ってきました

    ◎「天城山心中事件」は天城トンネル東1,5kmの地点
    小説・映画「伊豆の踊子」での一高生も通った「旧天城トンネル」は・・ 
    ・正式名称:「天城山隧道」(地元での呼称は「旧トン」) ・完成:明治37(1904)年 全長:445m / 4.1m (現存する日本最長の石造トンネル) ・道路トンネルとしては初の国指定重要文化 (平成13(2001)年に指定)
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    旧天城トンネル 北側(湯ヶ島側)
    このトンネルの下田側(南側)の出入り口に向かって右脇の山道から入り ほぼ東にある八丁池の方向に約1,5km進んだ場所で起こったのが・・ 
    「天城山心中事件」 
    発生年月日:昭和32(1957)年12月4日 (←死亡推定日であり 発見は10日) /場所:天城山中の雑木林 /心中者:愛新覚羅慧生 (あいしんかくらえいせい  当時19) 大久保武道(当時20歳)・・青森県八戸市の名士の息子 /死因:拳銃による頭部銃弾貫通
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    (写真:ブログ「生死無常事件史」より引用)
     
    「愛新覚羅慧生」(心中した女性)・・父は「愛新覚羅溥傑」(あいしんかくらふけつ)=清朝最後の皇帝 いわゆるラストエンペラーと旧満州国皇帝にもなった愛新覚羅溥儀の実弟  
    つまり 慧生はラストエンペラーの姪 
    母は「嵯峨浩」(さがひろ)・・侯爵嵯峨家の出(結婚後も中国慣習で名字不変)
             
    明らかな政略結婚だったこの父母のあいだに 昭和13(1938)年に長女として 満州国新京市(現・長春市)で生まれた(昭和15(1940))年に次女・嫮生(こせい)も誕生)
     
    日本と満州国の間で居所不安定な両親と妹とは離れて 母の実家である嵯峨家(東京)に預けられ 幼稚園から大学まで一貫して学習院に通う
     
    学習院大学生の時 同じ学部の大久保武道と知り合い 彼の境遇などに同情するうちに愛情が芽生えるが 嵯峨家は猛反対
     
    その他の事情も重なり悩める大久保武道が自殺決意して 慧生も心中を実行するような遺書らしきものも残して 大久保がピストルをもって伊豆に心中目的で行くのに同行して ついに心中・・
     
    先日 私のブログで「明日待子さん」関連情報を昨年12月8日のテレビ番組『爆報THEフライデー』から引用しましたが・・なんとその1週間前の12月1日の同番組で「天城山心中事件」を取り上げて 放送されたそうです
     
    それによると 慧生は・・心中のため伊豆まで来たものの 最後は決行を思い留まる考えに変わっていた・・その表れとして・・『天城山へ向かう2人を乗せたタクシーの中で 彼女は運転手にバスの時間を確認した上で・・「ここまで来れば気が済んだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と何度も言っていたのを聞いたと運転手が証言している』
     
    また 従来通説とされていた 事件現場の様子は・・「慧生は大久保武道に腕枕をしてもらうような状態で亡くなっていた」とされるが 第一発見者の証言では・・慧生さんは木に寄り掛かったように座り 大久保くんは1m離れた場所で倒れていた」・・そうです
     
    ◎母の浩が慧生を身ごもったのは千葉県稲毛に在住時
    愛新覚羅溥傑と嵯峨浩は昭和12(1937)年4月3日に東京で結婚式を挙げた 当時溥傑は日本の千葉市に在った陸軍歩兵学校に在籍していたため 二人は千葉市稲毛に新居を構えた後 同年9月に溥傑が続いて10月には浩が満洲国の首都新京へ渡ったので 二人がこの家に暮らしたのは約半年で この時期に浩は慧生を懐妊している 
    その新居だった家は 現在「愛新覚羅溥傑仮寓」と呼ばれ 千葉市地域有形文化財であり またの名は・・「千葉市ゆかりの家・いなげ」
     
    私は 先日 その稲毛の家に行ってみました(入館無料)
    場所は 国道14号沿いの小高い丘の一角で 昔は海岸線にあたり 松林が続く中に 別荘や別邸が多く存在したところ
     
    木造平屋瓦葺きの建物に小さな離れ付きで 玄関から家の中に入ると 室内は一般家庭向けより少々凝っているものの決して贅沢ではない造りで 中には参考資料 書籍 写真 書道家でもあった溥傑氏の
    自詠自筆の書などが 数は少ないが 展示してあります
     
    いくつもある部屋の庭に面したガラス戸は全て開放されていて 真夏猛暑の中 エアコンは勿論 扇風機も無しでしたが なんとか見学できました それは ここが高台に在り しかも植栽が多いから気温が少しだけ低めなのでしょう
    焚かれた蚊取り線香の香りが漂っていたのは心地良さと同時に当時を偲ぶには良い雰囲気でした
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    愛新覚羅溥傑仮寓」玄関
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    から家屋を見る(パンフより)
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    婚礼時の愛新覚羅溥傑と嵯峨浩  (パンフより)              
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    乳母車に乗る長女慧生を囲む愛新覚羅溥傑と嵯峨浩   この20年足らずの後に慧生が亡くなろうとは・・(展示パネルより)
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    溥傑独特の書風の書  これは溥傑が後年この家を再訪しての感慨を述べたもので新婚当時の夢のような生活、いとしい妻の笑顔を思い出す」・・というような内容 (この家の床の間に飾ってある) イメージ 7 
    屋内から庭を見る

    話はちょっと飛びますが・・ 
    ◎東京裁判で偽証したラストエンペラー溥儀
    ・・それを傍聴していた私の父・・

    日本敗戦により満州国皇帝の座消滅の愛新覚羅溥儀はソ連に捕らわれていたが 昭和21年5月3日から同23年11月12日に東京で行われた極東国際軍事裁判 (通称:東京裁判) に昭和21年8月に
    証人喚問されたのですが 自分に責任は無かったように偽証した(後の自伝の中で謝罪している)
                
    さて 私の父親の遺品の中に見つけた 父自筆の「覚書」のようなものには・・「小生()は東京裁判を2回 傍聴したことがあり その内の1回は愛新覚羅溥儀が証人に立った日であった」
     
    「この法廷では開廷中に途中離席すると 席に戻ることは不許可だったゆえに 便所にいくのを我慢することが非常に苦痛であった」・・と記されていました
    ・・・・・・・・・・・・

    終戦直後日本で例外的に許された河野兼光先生の剣道場 !
      お断り:前回ブログで予告の「野辺かほる、美空ひばり関連のお話」は今回の急な話題挿入によりまして 次回にさせていただきます
     
    その剣道場の名は 「明武館」 
    存在した場所は 東京都 豊島区 椎名町 (現、南長崎)
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    右側が明武館の2階の瓦屋根で 道場はこの下1階部分に連なって左側に在った(昭和42年頃)
     
    実は私は子供の頃から この道場の隣に20年間ほど住んでいましたので 今回の居合道の事件に因んで お話します
     
    河野兼光先生は明治29(1896)年 高知県生まれ 昭和43(1968)年9月25日に72歳で亡くなりました
    警察官として目白警察署(東京都 豊島区 目白)に勤務しながら昭和12年に 明武館を開きました
     
    その流派は 無双直伝英信流 という居合道 その流祖は江戸時代・永禄年間の人で その後 第7代目が 発展させて 無雙直傳英信流 を生み出し 延宝二(1675)年に第9代目が土佐藩に仕えてから無双直伝英信流は土佐藩で広まったそうです
     
    土佐藩の坂本龍馬は藩内では 小栗流を 江戸に出ては北辰一刀流を修得したとされますが
     慶応3(1867)年 京都の近江屋で暗殺された際には帯刀していなかったそうで もし 居合の無双直伝英信流を修得していて 帯刀していたら難を逃れていたかもしれません
     
    河野兼光先生は第19代目だそうですが 実際は居合道と剣道両方を指導されていました
     ※この稿を書くにあたって色々調べましたら無双直伝英信流も河野兼光先生より前の時代に分派しているようです
     
    GHQに直談判した河野先生
    GHQが終戦の年昭和20年末には学校教育での剣道禁止、翌年には町の剣道場でのそれも禁止・・という命令を発しました (柔道なども同様)
     
    「武道禁止令出したGHQに強硬異議申し立てた河野先生」については 先生の死後に 某スポーツ紙がとりあげたことで 私も初めて知った次第で その記事の内容は 殆ど覚えていないのですが ・・・
     
    GHQに直接出向いたのか 文書を送ったのかは 忘れましたが 河野先生は「現在の剣道というものは(GHQが心配するような )人を殺傷するための剣術ではなく 克己して精神を磨くものである」(「 」内は私の想像で恐縮です) ・・というようなことを力説されたのではないでしょうか
     とにかく結果として 日本で只一か所 剣道場として開場の許可をとりつけた・・そうです
     
    明武館 寸描
    GHQをも説得するほどに威厳に満ちておられた河野先生のお姿は・・ツルツルの禿げ頭で 常に稽古着で 私は 洋服姿は見たことがありませんでした
     
    道場には 5~6人の制服の警察官のグループも竹刀など剣道具を持って 頻繁に稽古に来ていました 当時は その理由が分かりませんでしたが 後年になって 先生が目白警察署に勤務されたことがあるということを知って納得しました
     
    いうわけで 私は物心ついた頃から 道場から聞こえてくる竹刀の打ち合いの音が 心地よいBGMとなっていました
     
    道場の音と言えば もう一つ 耳に残っているのが・・
    月に三回 ( 一日、十日、二十日・・だったか ? ) 朝に先生が打ち鳴らす大太鼓の音で・・最初の一打と次の二打の間は5秒、そして三打との間は4秒、・・のように 打数が増えるにしたがって段々と間隔が短くなって最後は連打でドドドドド・・・・・となるものでした
    今思うに これも精神統一的な意味合いがあるような気がします
     
    道場の隣に私は祖父とも一緒に住んでいましたが その祖父が 年間通して色々な花を栽培していていたので  時々 切り花を何本か束ねたものを 道場に差し上げるために届ける役目を私がしていました その花はいつも奥様に渡していましたが 私の帰り際に・・「お駄賃 (今では死語 ? ) がわりですよ」 と言って鉛筆を3本下さるのでした
     
    こうして先生が建てられた道場は 先生亡き後も昭和48(1973)年に新道場に建て替えられるまで存在していました その後 後継の方がそこで指導を続けられたようですが その道場も移転した結果 現在は一般の住宅が建っています
     
    厳格であった河野先生 今回の居合道の事件をどのように見ておられるのでしょうか ?
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