徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    タグ:その他文化活動

    ◎アキバのパーツ屋が無いとロケットも飛ばない!?
    今や家電量販店の各地への進出で あるいはネット販売などで 家電製品は どこでも購入できるようになりました しかし電気・電子部品(通称:パーツ 例えばコンデンサ 抵抗 IC  真空管 配線用リード線など)は家電量販店では売っていませんし ネットでは一部買えても 目的にぴったりの部品を見つけることは難しい状態です・・これを解決できるのがアキバのパーツ屋です

    私も高校生時代に アンプ製作で 部品探しに三日連続でアキバに通ったこともありました
     
    ところで アキバ以外で電気・電子の街と言えば 大阪市中央区の日本橋※が有名で 「電気のまち でんでんタウン」というキャッチフレーズで約40店舗ありますが 残念ながらパーツ屋はごく僅かしかありません(※日本橋は大阪では「にっぽんばし」と読み ゆえに日本橋1丁目は通称「日本一」)・・というわけで・・
     
    電気・電子を使った新製品のために試作品を作ろうとする 色々なメーカーの人たち あるいは 電気・電子を使って実験を行おうとする大学や研究機関の人たちが必要とする部品はアキバで調達することが多いものです
     
    今年2019年5月4日に打ち上げ成功で話題になった 民間製の小型ロケット(ホリエモンこと堀江貴文氏が出資する 宇宙ベンチャーのインターステラテクノロジズ=ISTの「MOMO3号機」)にはアキバで調達した部品が多く使われているそうです
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                             撮影:白井伸洋氏

    そして アキバと筑波研究学園都市を最短45分(1190円)で結ぶ「つくばエクスプレス」に乗って 各種研究機関から多くの研究者が部品調達に来ています
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                      新型車両TX-3000系電車の外観イメージ(画像:首都圏新都市鉄道)

    ・・という訳で アキバのパーツ屋は 国家にとっても重要な存在なのです
     
    アキバの街でパーツ屋が 集合している建物がいくつかあって それぞれに名前があり・・「ラジオスーパー」「ラジオガーデン」「ラジオデパート」などです もう一つ「ラジオストア」というのもありましたが残念ながら2013(平成25)11月30日に閉館しました 残ったパーツ屋さんには 何としても存続を切望せずにはいられません
     
    ◎「ヤマギワ」のロゴマークは亀倉雄策氏のデザイン
    アキバの電気街が隆盛を極めた頃 中には品格のある店舗がいくつか存在しました その筆頭が「山際電気(ヤマギワ) 現YAMAGIWA」で その他 「山田照明」「シントクエコー」などでした
     
    「ヤマギワ」は昔も今も 商品陣容をほぼ照明器具に特化していますが アキバに店舗を持つ会社としては異例と言える・・“有名グラフィックデザイナー亀倉雄策氏に依頼してロゴマークを作ったのです
    1966(昭和41)年に亀倉氏作成のマーク(正確にはコーポレートロゴマーク)が下図上段です
    ※当図はモノクロですが 当初はアタマの角が丸い十字のような部分は紺色がベースで 中に黄色の放射光のような細線というデザインでした
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    しかし近年 ヤマギワは経営苦境に陥ったため 現在は 電子部品メーカーのMARUWA」の完全子会社となり 2014(平成26)年に 再び有名デザイナーの佐藤卓氏にマークを改作依頼して 現在使用されているものが上図下段です・・前者よりアタマの図を小さくし アルファベットの字間を広げ カラーはモノクロです
     
    現在 YAMAGIWAは実店舗を持たないもののショールームは3都市にあるという変わった営業スタイルですが オンラインショップ(ネット販売)注力しています
    その扱い品目は やはり照明器具がメインですが その中でも内外の有名なデザイナーの手掛けたものが多いのが特色です
     
    一例は・・NHK朝の連続ドラマ「まんぷく」で安藤サクラ演じるヒロインの今井福子が勤めるホテルのフロントのカウンターに置かれていたフランクロイドライトがデザインした照明スタンド・・
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    ライトがデザインしたライト 
    TALIESIN(タリアセン)1」74,520円(税込み)

    さてヤマギワ以外にも 品格があった「山田照明」はアキバの街の北端とも言える地に 昔も今も在り ケバケバしい看板など無く ホームページでも高い意識のコンセプトをあげています この会社の最大のヒット作は・・
    「ゼットライト」 1954(昭和29)年に登場してから改良を続けながら65年の長きにわたるロングセラーです
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    そして大型電器店「シントクエコー」はと言えば 昔のアキバで食事をしようにも ちょっとした店が無かった時代に このビルの上層階に 正装をしたウエイターがいるレストランありました そして一階には某放送局のサテライトスタジオもあったシャレた店舗でした 
    現在はゲームの「SEGA」の店舗になっています(下写真)
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    ◎亀倉雄策と言えば1964東京オリンピックのポスターが超有名なのですが・・
    ここからはアキバから飛んでしまう飛話ですが・・(文中敬称略)
    亀倉雄策(1915=大正4年~1997=平成9年)は前述のように当時有名なグラフィックデザイナーで 代表作が1964年の東京オリンピックのポスターです 
    但し 図や写真を使ったデザインは亀倉作ですが 文字デザインは 別のやはり某有名デザイナーの作だそうです 
    “文字の書体とその文字を並べるデザイン”を「レタリング」または 最近では 本来の意味から拡大した言葉として「タイポグラフィー」とも言いますが 文字の並べ方の基本は・・文字が複数並んだ場合に 全体的に見て “文字どうしの間隔”が“感覚的に等しいか” です
    その観点からすると このポスターのレタリングにおいては 英文字の並べ方に少し難点があると言われます・・パッと見て KとYの間が広いですね その他細かいにも問題があると言えるでしょう
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    これらは連作で 大きな赤丸のポスターが第一作目で1961(昭和36)年 つまり58年前のことでした この事例も影響したのか・・1970(昭和45)年に開催された「日本万国博覧会(大阪万博)」では 英文字を使った各種の表記(レタリング)は(以下 私の記憶があいまいなのですが) 英語圏の外国人の専門家に“任せた”か“指導を得た”か どちらかの方法で行われています
    半世紀前では日本人の英文字レタリングのレベルが未熟だったのでしょう
     
    飛んで 2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」のエンブレムのデザインは ご存知のように すったもんだの末 野老朝雄(ところ あさお)氏作のデザインに決定しました
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                                野老朝雄と作品のエンブレム(出典:Tokyo2020)
    今回のエンブレムではTOKYOのレタリングは良くなっていますが 惜しむらくは 文字太さがやや細いことで 遠くから見た際の判読性がやや劣ることです
    ・・・・・・・・・・・・
                  
     

    前回に “トランジスタ(三極鉱石)を発明したのにノーベル賞を逃した内田秀男氏”(以降文中敬称略)のお話をしましたが 今回はその後の内田の研究と夫人から伺った秘話などをご紹介します
    とは申したものの・・ 
    本当の“秘話中の秘話”というのは文字通り 秘密にしておかないと 人さまと社会に波風をたてるであろう性格のものがあるので 特に具体的名称や人名は記述できない部分もあることをご了承下さい
     
    ◎内田秀男の“その後”(1)横型マジックアイの開発
    内田がNHK放送技術研究所を退職の数年後に画期的開発をしたのが・・
    「横型マジックアイ」 マジックアイとは ラジオやテレビが放送電波を正確にとらえているか つまりチューニングの度合いを示すもので それまでは “視力検査の判読記号のC”のような形をした緑色に光る丸い帯で 〇の形の一部が欠けてCの文字のように表したもので その欠けている部分が少ないほどチューニングが正確で 受信最高状態では完全な丸い帯の輪で表示されるもの“で これも一種の真空管でした これは私もよく目にしたものです
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    マジックアイ:上が内田が開発のもの 
           下が従来品
    内田は 丸い帯状の表示ではなく直線の帯状の表示にして 見やすいマジックアイの真空管を開発して1961(昭和36)年に発売されて 多くの機器に使われました

    ◎内田秀男の“その後”(2)超常現象の研究
    世の中の超常現象を科学的に解明しようと 様々なテーマに取り組みました
    例えば・・「事故が多い“魔の踏切”」「13日の金曜日」「地震予知」「虫の知らせ」「テレパシー」「夜泣き石」「相性」「心霊写真」など これらについては雑誌の「電波技術」に連載されて 後に単行本の「四次元世界の謎」シリーズとして1970(昭和45)年から出版されました
     
    ◎内田秀男の“その後”(3)大型イオンクラフト開発
    その後の大きな研究テーマは 「イオンクラフト」でした これは“高電圧の電気をかけて発生するコロナ放電によって起こる風で 空中に浮く飛行体”であり 米国のマジョール・デ・セパルスキーが発明したものです
    内田は 軽いバルサ材木を骨組みにして円形に組み それに銅やアルミの電極と電線を付けて作りました
    1971(昭和46)年頃 日本テレビの当時の人気番組「11PM」を担当していた矢追純一(超常現象やUFO関連番組で当時有名なディレクター)が内田宅を訪ねてきて “番組の中で「イオンクラフト」の浮遊実験をする”という依頼され 後日テレビで見事実験成功の様子が放映されて大反響を呼びました
    その後内田は 「イオンクラフト」の大型化と効率化に取り組み 最大規模は 直径2,5メートルまでになりました
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    保管用の箱に入った直径1.3mのイオンクラフト
     
    私が内田夫人から直接聞いた話では 「イオンクラフト」に関しての ある特許申請したところ 通常は申請書類の文章と説明図だけで審査が行われるものを 特許庁の審査官から 実物の稼働状態の
    確認の必要があるとされ 大型の「イオンクラフト」試作機を特許庁まで運び入れ 庁舎屋上で稼働させて見せた・・そうです
     
    ◎内田秀男の“その後”(4)オーラメーターの開発
    夫人の著書によれば・・「オーラを辞書で引くと『その人から発散されていると感じられる、並の人には無い、独特の雰囲気』とありますが、ここでわたしたちがいうオーラとは、霊能者だけに見える、人体を取り巻く謎の光と言った方がよいかもしれません。その正体は『気』という人もいれば、『エネルギー』という人もいて、いまも議論されていますね。(中略)主人はオーラを微弱な電場と仮定しました。それならば、非常に感度の良い電流計で、人間のまわりを測定すれば、オーラの形がわかるのではないか、そういう意図で作られたのが『オーラメーター』です。」
     
    『オーラメーター』が人の周囲で反応する点を 沢山記録して その点を三次元的に並べてみるとオーラとみられる形が現れました 測定事例からは“過去の手術跡や骨折箇所に特殊反応があり また冷房病ではオーラが減少する”ことなどが分かったので 医学に利用できないか研究していましたが 内田は道半ばで世を去りました

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    据え置き型オーラメーター

    私は内田ご本人に直接会ったことはありませんでしたが 電気関連雑誌に掲載の写真でお顔は見ていました 最後に拝見したのは 『オーラメーター』を使って 植物からのオーラの感知を試みる姿がテレビで放映された時でした

    ◎夫人の内田久子さんについて
    1926(大正15)年 神奈川県箱根生まれ 箱根の老舗旅館 環翠楼の支配人の長女として生まれ 内田秀男と結婚し2男1女をもうけ 内田(夫)がNHK放送技術研究所を退職後に始めた各種研究の助手的役割もはたした
    夫が1985(昭和60)年に脳梗塞で倒れてからは 夫が研究仕事と並行して経営していた「内田ラジオアマチュアショールーム」店頭にも出るようになり 2014(平成26)年に88才で亡くなるまで店を続けた(晩年近くからは週に4日 店に出てその他はアルバイトや店員にまかせました)
     
    久子の父は陸軍のパイロット 久子の二人の兄も一人は飛行機内の通信士 もう一人は海軍で 戦後は日本航空でパイロットになり 連合赤軍による「ダッカ事件」でハイジャックされた飛行機の機長でした
     
    育てた長男と次男はともに東海大学の理学系の教授となり 長女はバイオリニストでしたが他界 長男の妻とその息子(久子の孫)も理学博士など 理系一族で特に次男さんが内田秀男の研究を一部引き継いでいるようです
     
    このような環境の中 久子自身は子供の頃から活発で 健康優良児で表彰されたり 現在で言う「山ガール」で富士山は二度登山 駒ヶ岳や雪山にも登っています また 眼を悪くしていた夫に代わって自動車の運転が必要になり1958(昭和33)年に免許取得しましたが その時点では東京都での女性免許は5番目か6番目と言われています そして乗り回したのが米軍の払い下げたクライスラー社の大きなクルマ
     
    そのような資質なので 内田の研究の多くも手伝い 例えば・・
    「イオンクラフト」の浮遊には2万ボルトの電気を供給する可変変圧器の操作を担当しました また 内田が執筆担当していた電気雑誌の記事のテーマ決めに際して 久子が「超常現象」を提案して これが後に内田の一つの研究テーマに発展 そして内田の店を任されるようになってから 電気電子の基礎や電気機器の猛勉強をしました 
     
    ◎内田久子が語った秘話
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    私が久子夫人に直接お会いしたのは計3回 いずれも 秋葉原電気街の「ラジオスーパー」という 電気電子部品の店や中古ラジオの店などの小規模店舗が集まる建物の2階にある「内田ラジオアマチュア
    ショールーム」の店頭で 最初は1996(平成8)年なので 内田秀男死去1年後で 最後は2013(平成25)年でしたが 久子夫人の記憶力は抜群で 昔のことでも人名や固有名詞が ポンポン出てきました・・そして こんな話が・・(個人名 会社名などは伏せました)
     
    ・夫人は内田の「三極鉱石」を はなから否定した上司の名前をはっきりと口にされ それほどまでにその名前を夫婦共有記憶していたことに 私は驚きました
     
    ・内田がNHK放送術研究所を退職後 某電気メーカー勤務の時期があって その頃の同僚の一人が 後にノーベル物理学賞を授与されましたが その授賞理由となった”あるモノの発見発明”については その発見のいきさつの話があるのですが このブログでは書けないのが残念です
     
    ・2013年に夫人からお聞きした時には その少し前に 三極鉱石発明にからんだ その後の周囲の対応に落ち度があったとして ある関係者が謝罪をしにこられたそうです
     
    ・沢山のマスコミからの取材に対応しましたが なぜか因縁のNHKからの取材が最も多くありました その中の一つが2009(平成21)年の「ブラタモリ」シリーズ番組でタモリが秋葉原を探索する中で来店して 店頭に並ぶ真空管の中でも特に「807」という真空管で話は盛り上がったが それもその筈 タモリの多趣味の一つ「アマチュア無線(通称:ハム)」で この「807」を使った送信機を持っていたからだそうです
    私はハム免許を持っていなかったのですが 自作の短波受信機でハムの人たち同士の会話はよく聞いていて その中で「807」という名称は頻繁に飛び交っていたのを覚えています
    『ブラタモリのロケの数日後 タモリは一人で来店して真空管を数点購入していきました』・・この『』内の内容は 久子夫人著の本の中で語られていますが 同じことを私も直接聞きました
     
    ◎後を受け継いだ「池之谷ラジオ商会」
    高齢になった久子夫人に乞われて 店の運営補佐をしていたA氏は 夫人亡き後 店を引き継ぎ 店名は変えたものの 真空管や電気部品の販売 真空管アンプやラジオの修理 アンティークラジオの販売などの業務を引き続き行っています
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    ↑晩年の久子夫人と後継者のA氏 店の中は今も同様で変わらない(A氏がこの写真パネルを店に置いておられます)
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    A氏と「池之谷ラジオ商会」店頭
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    「ラジオセンター」内の他の店の様子
    現在の秋葉原は「フィギュア」「ゲームソフト」そして「メイドカフェ」どの店が多数を占めてかつての「電器街」の面影はほぼ無くなりましたが・・
    実は電気電子部品(パーツ)や真空管を販売する店が固まって存在するのは ここ秋葉原以外には無く まだまだ貴重な電気街なのです
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    文中挿入のモノクロ写真は全て内田久子著「秋葉原、内田ラジオでございます」より引用
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    このブログを綴るにあたってネット上からも補足資料を得ようとした中で 内田秀男についてのウィキペディアの記述で 明らかに かつて私がある所に向けて今回のブログ内容の一部と同じことを書いて印刷されたものが参考に使われていることが判明しましたので 驚きとともに 私も少しは役に立っているのかな?と思っている次第です
    ・・・・・・・・・・

    世の中には 画期的な発明や発見あるいは偉業を成したにもかかわらず  何らかの不運な事情で正当な評価を得られなかった人が大勢います
    このような人たちをとりあげた日本のマンガ「栄光なき天才たち」というタイトルのシリーズ(作:伊藤智義 画:森田信吾)が1986(昭和61)年から マンガ雑誌「週刊ヤングジャンプ」で連載が始まり 
    1992(平成4)年で終了したものの その後も (別の作者たちによる) 続編が続きました
    また 2017年にはアニメとドキュメンタリーを組み合わせたテレビ番組としても放映されました
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    その間 登場人物は約40人に及びましたが  私が このシリーズに取り上げてほしいと思っている人が登場していないのです 
    その人が・・内田秀男氏 (以降文中敬称略)



    内田秀男(1921=大正10年~1995=平成7年)は 福井県生まれの電気・電子技術者 NHK技術研究所などに勤務した後に「内田ラジオ技術研究所」など経営しながらラジオや無線関連の雑誌への寄稿も多かったゆえに  かつてラジオ少年などとよばれていたラジオやテレビやアンプなどを自作していた人たちの間では誰でもが知る存在でした
     

    ◎トランジスタを発明していた!?内田秀男 
    内田秀男は小学生の頃から鉱石ラジオ(方鉛鉱や黄鉄鉱という鉱物と細い銅線を巻いたコイルと 今で言うヘッドホン から成るラジオ)自作するラジオ好き少年でした 長じてNHKの放送技術研究所に勤務するようになり ラジオ技術の研究を始めました
    イメージ 2 内田秀男
     (写真はwww.fureai.or.jp/~oomiya/UFO_jinbutu_gaide1.htmlより引用)

    イメージ 3 初期の鉱石ラジオ
     
    ところで当時既に存在していた真空管は 言わば真空の電球”の中の2点(2極)の間で電子を移動させる2極真空管というものがあり  発展形として2極の間にもう1極を加えた3極真空管 同様に4極 
    5極と出現するのですが  2極真空管の働きは「検波」(放送電波から音声信号を取り出すこと)または「整流」 (交流を直流にすること)  そして3極真空管以上の働きは「電流の増幅」です
    一方 鉱石ラジオで使われる鉱物は その鉱物の表面上のある2点に接触している金属を通じて「検波」作用をするので2極真空管と同じ働きをすることになります
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    ↑図の灰色部分が鉱物(方鉛鉱など)で左側の箱型の金属部分を1点として右側の矢印で表されている部分(実際は金属製の針先)をもう一つの点とします 図は(株)ティーアンドシーテクニカルのHP「古典音響機器ギャラリー」より引用
     
    内田は それならば・・
    その鉱物に3点で接触する金属を通じれば電流の「増幅」作用が得られるのではないかという着想が浮かび 実験を開始
    多くの種類の鉱物で効果を試すため 方々で鉱物を探し回り ある時は栃木県の日光付近の山奥に入って鉱物採取もしましたが 幸いにも叔父が秋田鉱山専門学校(※1)の教師をしていたため 様々な鉱物を提供してくれたりして実験を進めた結果 結局は質の良い ある方鉛鉱を使って それを3点で接触する金属線を介すると・・
    従来の鉱石ラジオでは不可能
    だった北京やハブロフスクの放送が聴こえるようになり これは真空管の3極管と同様に 電流を増幅するような効果が発生していると理解して 内田はこれに「三極鉱石」と名付けました それは戦時中の1943(昭和18)年のことでした
     
    その後 軍隊に応召しましたが 戦後 NHKの放送技術研究所に戻り 直ちに画期的な効果の「三極鉱石」の研究を再開しようとしたところ 上司から「そんな効果はありえない」と はなから否定された上に・・「君は朝 味噌汁で顔を洗ってきたのか」とまで言われてしまい
    研究テーマに採用されなかったが内田個人で密かに研究を進めた結果 1947(昭和22)年に「三極鉱石」が電流を3倍に増幅することを確認しました
    これこそ後にトランジスタと呼ばれるものと同じものでした
     
    内田はこの発明を直ちに上司に報告しましたが まったく認められないので雑誌に発表しようとしましたが (内田本人や事情通の人たちの推測では 研究所またはGHQによる阻止で)掲載されませんでした
    また特許出願しようにも研究所組織の中では上司の承認なしでは無理でした そのうちGHQが研究所に来て 内田の研究成果も含まれた資料を持ち去っていきました その半年後の1948(昭和23)年に
    米国のベル研究所の3人(ジョンバーディーンとウォルターブラッテンとウイリアムショックレー)連名の固体による増幅素子の発明発表されてしまいました 
    これは後に「トランジスタ」と呼ばれるモノの発明とされ この3人は1956年にノーベル物理学賞を受賞した
     
    ところで内田は1948(昭和23)年の5月6日に結婚しましたが それから間もない6月30日にベル研究所からトランジスタ発明の発表があったため
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    内田秀男夫妻の結婚記念写真

    新婚の気分は吹っ飛び 「地団駄踏んで悔しがった」と・・内田から聞いたとしてNHK放送技術研究所の先輩である杉本哲は 氏の著書「初歩のトランジスターの研究」(1958=昭和33年 山海堂)の中で記しています また「内田さんは たしかに三極鉱石の増幅作用があることがわかり(中略)相談にきた これがアメリカでトランジスタの発表になった年のお正月のことです 内田さんの発明はその前年の秋ごろなのです」と記述して証言しています 
     
    私も小学生の高学年時の鉱石ラジオの自作から始めてラジオ少年はしくれみたいになっていましたから 前出の杉本哲著の本「初歩のトランジスターの研究」を読みました 
    それは薄緑青色の表紙で厚さは1センチに満たない本でしたが その中に内田秀男の三極鉱石(トランジスタ)の発明という記述があったので衝撃を受けた記憶は今でも忘れていません
     
    実はベル研究所でトランジスタ的効果の基礎的発見は1947年であり 内田は 同様な効果を1943年に発見していたのですから・・その効果を上司が認め 現代のように先ず画期的効果発見または発明
    として世界に発信してから 組織的に強力な研究推進をしていたならば こちらの方がノーベル賞を受賞していたのではないでしょうか

    内田のこの件について”「たら・れば」話の例が多くある”としてネガティブに言われているようですが これは よくあるように 歴史上の「たら・れば」語りのようなやや興味半分のようなモノ
    とは異なり 切実さが存在しているのではないでしょうか
     
    このような事態の後どうなったか・・内田の奥様である内田久子さんが2012(平成24)年に上梓した「秋葉原 、内田ラジオでございます」中で・・「主人は研究所生活に嫌気がさしてきたようで、
    のちの決定的事件で辞めることになります」と記しています・・その事件とは・・
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    内田久子著「秋葉原 、内田ラジオでございます」
     
    ◎“放射能の影響がテレビ画面に出る”発見の発表
    内田は失意の中 NHK放送技術研究所内で今度はテレビ受像機の研究に着手していましたが 当時 ソ蓮や米国の核実験による放射能を帯びた塵が日本へも飛来して大気中に浮遊していると テレビ画面に“あたかも塵が浮いているように見える”(ノイズ)状態が現れることを発見して研究所内で発表したものの これも無視されたので 多分 三極鉱石の件の二の舞はイヤだと思ったのでしょう 内田は意を決して この発見内容を1956(昭和31)年に 職場の許可無しに雑誌「科学朝日」に寄稿した結果 国内外の新聞に取り上げられ 朝日新聞では内田の顔写真付き記事でした そこで研究所にも取材者が押し寄せることになるのですが 研究所側は当所には関係ないこととして 取材拒否しました
     
    そこで(久子夫人の著書によれば)・・「以前からの思いがオリのように積もって、たえられなくなったんでしょう。『辞表を出してきた』と、主人がタクシーに荷物を積み込んで帰ってきたのが昭和32年
    (1957)のことでした。」・・という結果になりました
     
    当時 私も確かにテレビ画面で放射能によるノイズ現象を見ていましたが 多分 この現象を見られたご年配の方も多いのではないでしょうか 
    ・・・・・・・・・・・・
    以上は 文中にも記した 杉本哲 著「初歩のトランジスターの研究」内田久子 著「秋葉原 、内田ラジオでございます」からの引用がありますが 実は私 20数年前に 内田秀男の奥様 久子さんにお会いして直接お話を伺っていますので その際の内容も記しています
     
    次回には 内田久子さんからお聞きした秘話も含めて綴りたいと思っています
    ・・・・・・・・・・・・
    ※1・・秋田鉱山専門学校は財界からの寄付もあって 当時 鉱物資源が豊富であった秋田県に   1910(明治10)年に官立校として設立され 1949(昭和24)年に国立秋田大学鉱山学部になり 2014(平成26)年に 同大学の国際資源学部と工学資源学部になった
     ・・・・・・・・・・・・

    ◎「水師営の会見」の場に生えていた棗(なつめ) その孫木が東京の旧乃木邸敷地にあります

    これは 歴史のワンシーンを見つめていたであろう ある樹木にまつわるお話です

    日露戦争でロシア側の旅順要塞を陥落(※1)させた乃木希典(まれすけ)大将は 降伏した敵将ステッセルと1905(明治38)年1月5日に水師営という村(現在の大連市内)会見しました(※2)
    その場所には一本の棗の木が生えていました
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     ↑自邸玄関前に立つ乃木希典大将(以下文中一部敬称略)
     
    ※1:要塞攻略における乃木大将の戦法に否定的見方があり これは多分にS氏の小説内容による
    影響があるようですが  軍事専門家によれば S氏の小説には事実との違いが多々あり 乃木戦法は正しかったのだそうです
    ※2:敗戦の将ステッセルに対する乃木大将の対応はことごとく仁愛と礼節に満ちた武士道精神的であり 例えば・・詰めかけた内外の報道陣に ステッセルが屈辱感を味わうような映画や写真を撮らせなかったりしたので その乃木の振る舞いは全世界に配信されて 称賛された 
     
    私の亡父は7年間も戦場にいた経験からか 戦後も軍歌と国威発揚の歌のレコードを時々聴いていましたので子供の私らも それらの歌が一部記憶に残っていて その中に「水師営の歌」があります  
    その作詞はあの歌人・佐々木信綱 作曲は岡野貞一 で昔は文部省唱歌になっていたそうです その歌詞が・・
    旅順開城 約成りて(やくなりて) 敵の将軍ステッセル
    乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営
    庭に一本(ひともと) 棗の木 弾丸跡もいちじるく(“いちじるしく”ではない)
    くずれ残れる民屋(みんおく)に 今ぞ相(あい)見る二将軍
    ・・(この後にまだ歌詞は 続きますが 割愛します 実は私もここまでしか覚えていません)
     
    歌詞の中に出てくる「棗」 その棗の孫になる木が かつての乃木邸がそのまま保存されている敷地に植えられています 
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     旧乃木邸の門 
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    旧乃木邸(左側が正面玄関)
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    旧乃木邸玄関に向かって左手前に棗の木があります
     
    この旧乃木邸の所在地は現在の東京都港区赤坂8丁目 その東側には乃木神社  南側に小さな乃木公園がありますが ここに隣接しているのが乃木坂で 現在では女性アイドルグループの「乃木坂46」で有名になりましたが・・ここの住所は赤坂といっても 地下鉄の六本木駅から歩いても8~9分で 六本木ヒルズから直線距離で850メートルです
     
    実は乃木希典は長州藩の支藩である長府藩の武士の子なのですが 江戸の上屋敷で生まれたもので その場所こそが現在の六本木ヒルズの地でした
     
    そして乃木希典はこの赤坂の自邸で亡くなったのです それは ご存知のように明治天皇崩御に伴う殉死 静子夫人も一緒にでした
    この現存する乃木邸で 二人が自刃した部屋が建物外から見られるようになっています 遠い過去のことですが 思いいたせば やはり衝撃を感じます
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     乃木邸南東角のこの窓のある部屋で二人は自刃(手摺が付いた回廊が邸外側に在り そこから部屋内部が見える)

    ◎マッカーサーが植えたハナミズキ
    さて この旧乃木邸敷地に もう一本注目すべき木があります
    それは・・戦後日本に君臨したダグラスマッカーサー連合国軍最高司令官が 日本到着後の早い時期に この乃木邸を訪れて植樹したハナミズキです

    その行為の理由については確定的な説が無いものの 大きくは二つの説があり
    一つは・・
    マッカーサーの父親が日露戦争後に乃木大将に会ったことがあり 
    その際に乃木大将の武士道精神的な話を聴き感銘を受けたため 息子のダグラスマッカーサーには常日頃「サムライ精神をもった乃木希典のような軍人になれ」というような教育をしていたため 敬意を表したもの

    もう一つは・・
    1912年(第一次世界大戦勃発2年前)に日米親善のために
    米国に桜が贈られ 返礼として米国からはハナミズキが贈られたが 太平洋戦争中に 敵国の樹木として多くが伐採されたので それを知っていたマッカーサーは意趣返しの意味でハナミズキを植えた・・というもの

    いずれにせよ マッカーサーの心の中には乃木希典の存在が大きかったことは間違いないことです
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    マッカーサーが植樹したハナミズキと説明看板
     
    昨年8月の私のブログで取り上げた❝マッカーサーの剣道禁止令に抗議して 日本で唯一 閉鎖されなかった剣道場の主 河野兼光先生❞を思い出しました
    多分 河野先生は武士道精神的な内容を含めた言葉でマッカーサーを説得したのではないでしょうか

    ◎水師営の棗の❝ひ孫❞作りには・・
    旧乃木邸の棗の話に戻りますが・・水師営に植わっていて 歴史の1シーンを見ていたであろう棗の木の“ひ孫の木“を育てたいと考える方がいましたら・・ 
    この旧乃木邸の棗の木は 毎年9月頃に この木の下の植え込みに実を多数落としますから その実を拾って中の種から“ひ孫”を誕生させられることでしょう
    ただし この植え込み部分を含めて庭をよく掃除する方たちがいて 実も片付けられてしまうので 実を入手するタイミングがむずかしいものです

    東京の旧乃木邸に隣接の「乃木神社」ですが 京都にも伏見桃山陵(明治天皇陵)の麓に同名の「乃木神社」があります また栃木県の那須塩原市にもあります
    ・・・・・・・・・・
    ◎寿命尽きて枯れた 庭の「たらの木」
    現在 ウチの庭に幹直径約5センチのたらの木が2本 立っていますが これらは この庭においては2代目で 初代は直径約1.5センチのときに庭に植えて20数年経ち 幹直径が約8センチになっていた昨2018年に命が絶えました その日はまさに突然やってきた・・という感じでした 
    虫に喰われたわけでもなく 病気になったでもない そして段々と弱ったふうでもなく まさに突然死 言わば“ピンピンコロリ”でした 
    調べたら たらの木の平均寿命は7年くらいとの指摘が多いので ウチの木は超長寿命だったわけです
    草花はともかく 樹木の突然死を目のあたりにして 人の死のような妙な気分になったものです
     
    “山菜の女王”と称される“たらの芽”ですが 戦時中の食糧難の中で この芽のおいしさを味わった人が増えたと言われます
    我が家でも自家製?の“たらの芽”を毎年 少量ですがてんぷらにして味わってきました 初代亡き後 今年は2代目だけの“たらの芽”を頂戴するはずでしたが 忙しかったこの4月のある日 ふと気が付くと なんと“たらの芽”は芽の時期を通り過ぎてしまっていました 残念!
     
    近年 “たらの芽”はスーパーマーケットでも買えるようになりましたが これらは種類が少し違うもので しかも発芽を人工的に操作したりで 天然ものより味が落ちるそうなので 来年こそはウチの“たらの芽”を忘れずに食べようと思います 
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    ↑今年4月22日のたらの芽 左写真真中に細く一本まっすぐ伸びているのが 食べるには 成長し過ぎた芽 右の写真のように全体に葉が出揃いかけてしまっていました
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    <出羽三山参り>
    私の認識不足でした 「出羽三山参り」は西の「伊勢参り」と対峙するほどの存在であり 「西の伊勢参り 東の奥参り」と言われるそうです (“奥参り”は“出羽三山参り”の別称)
     
    ◎出羽三山とは
    出羽三山は山形県のほぼ中央部にある 羽黒山(はぐろさん414m)  月山(がっさん1984m) 湯殿山(ゆどのさん1504m)ですが  それぞれは独立峰ではなく連峰です
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       最前が羽黒山 すぐ後ろが月山 最奥が湯殿山
     
    ◎昔は神仏習合 今は神社だが・・
    今から約1400年前に開山して山岳信仰が始まり 修験道の地となり 日本三大修験山の一つとされています (他は熊野三山と英彦山)一方で 三山巡りで五穀豊穣を願い 先祖を供養し 自身が生まれ変わられるという信仰が一般民衆の間に広まり 神仏習合のかたちで修験と信仰が続いてきましたが 明治政府によって強制的に神道系にされ 現在は三山にそれぞれ神社があり・・
     
    羽黒山・出羽神社=羽黒山は本来は伊氏波神(稲倉魂命)を祀るが 出羽神社の三神合祭殿には他の二山の祭神も併せて祀っている
    月山神社 =月読命 を祀る
    湯殿山神社=大山祗神 大巳貴命(大国主神)少彦名神(3神)を祀る
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    羽黒山の三神合祭殿(A)
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    ↑羽黒山の国宝 五重塔(B)
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    月山山頂と月山神社(C)
    写真ABCとも出羽三山神社のHPより引用
     
    しかしながら三山信仰の実態は以前のような神仏習合の性格が残っていて それを表す例として・・
    “三山登拝は 過去 現在 未来を巡ることになる”と
    されることで ここでは仏教上の意味が与えられています・・羽黒山=現世(祀る正観世音菩薩の観音浄土は現在を表す) 月山 =前世(祀る阿弥陀如来の阿弥陀浄土は過去を表す) 湯殿山=来世(祀る大日如来の寂光浄土は未来を表す)
    これによって 三山を巡ることを「三関三渡(さんかんさんど)の旅」とも「生まれかわりの旅」とも言います また「男の死支度」とも言われました
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    写真はhagurokanko.jpより引用
    もう一つの例は・・信仰する人たちが「梵天(ぼんでん)」と称する祭器を使うことで 「梵天(ぼんでん)」は 仏教の守護神として帝釈天とともに対を成す存在の「梵天(ぼんてん)」が由来考えられるからです(梵天の実際は後述)
     
    なお 湯殿山にある いくつかの寺には「即身仏」が存在していますが これも 死してもなお仏法による救世済民をしようとしたからだと言われています
     
    ◎出羽三山信仰は東日本で特に現在は千葉県で目立つ
    昔は当然のように現在の山形県 宮城県 福島県で出羽三山参りは盛んで 江戸時代後期からは 現在の千葉県でも特に市原市や袖ケ浦市などの上総(かずさ)地域でも盛んになりました
    “男は一生に一度は「三山(みつやま 又は さんやま)」に行くもの”と言われていて 江戸時代から現在に至るまで三山登拝が盛んです ※出羽三山は1997(平成9年)までは女人禁制でした 但し山麓には女性が遥拝できる施設は以前からありました
     
    また他の参詣地と同様に「御師(おし)」が存在していて 各地に出向いて 登拝の勧奨を現在でも行っていて それによってできた“信者の集まっている地域”を「檀那場」と呼んでいます
     
    ◎ここでも「講」が存在
    出羽三山参りを行うにあたって 伊勢参り 金毘羅参りと同様に「講」が組織され 現在でも存在していて 千葉県では少なくとも33カ所に存在します これが前出の檀那場ともなっているわけです 現代の講は拝礼と親睦の場となっています
    出羽三山参りを経験した人を特に「行人(ぎょうにん)」と称し その行人の集会所のことを「行屋(ぎょうや)」と称しています
     
    ◎登拝記念碑が多数存在
    出羽三山登拝を終えて行人となり一人前と認められる記念にと 各地には碑が建てられています 下の写真は私が撮影した千葉県市原市のもので 高さ約3mの塚に大小10数基の石碑があり 碑の裏面にある年号で 判読可能なものでは 「宝暦13年」(1763) 「明治11年」(1878) 「平成28年」(2016)などがあり 江戸中期から つい最近までも登拝が続いていることがわかります
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    ◎梵天(ぼんでん)
    講の中で出羽三山登拝前や年間行事 そして行人の葬儀には “竹棒の先に 出羽三山や行人を表した紙飾りをつけた「梵天」と称するものを立てます その様式や作製方法は講により全て異なり同じものは一つとしてありません 
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    梵天関連の写真は全て「千葉県立中央博物館」制作「梵天に見る房総の出羽三山信仰」より引用
     
    ◎江戸末期の出羽三山参りの旅の記録一例
    (浅井 信氏作成資料より引用)
    江戸時代末期1840年頃に出羽三山登拝した人の記録によれば・・
    現在の千葉県袖ケ浦市出発→日光東照宮→出羽三山登拝→松島→筑波山→銚子→袖ケ浦・・細かくは途中に沢山の寄り道があり 全行程   :1400km 所要日数:42日 費用      :3両(現在価格約30万円)
     ・・・・・・・・・・
    次回は「大山(おおやま)詣」についてです

    前回は富士山参詣に関係する講や富士塚についてふれましたが・・
    その他 遠路はるばるの旅を伴う参詣 それは「〇〇参り」や「〇〇詣」と呼ばれて有名なものがあります・・お伊勢参り 金毘羅参り 善光寺参り などのあまり知られていないものとしては・・大山(おおやま)詣 出羽三山参り 日光東照宮参り など
     
    これらを行うには 長い日数と大金が必要になるために 「富士講」と同様に地域ごとに「講」を作って 順番に代表者を「お参り」に送り出すという仕組みが多く採用されました その講は現在でも一部が残っています
     
    ただし現代の「四国八十八カ所巡礼」の旅の途中で色々なおもてなしや施しがいただけるように 昔もお参りの旅の道中に施しが得られて「懐」が助かったので 中には その施しだけを目的にした不届きな連中も現れたそうです
     
    またこれも富士山の場合と同様に お参り先への勧誘や案内 現地での世話などをする「御師(おし)」という人たち または これらの役目も兼ねる「山伏」が存在していているところがありましたが これも一部 現在でも続いています
     
    江戸時代には 天下泰平となり 江戸を中心とした「五街道」(東海道 中山道 日光街道 奥州街道 甲州街道)が整備されて 各地へのお参りは盛んになり 普段は農民・町人などは関所通過は簡単ではなかったものの こと「お参り」目的と申告すれば簡単に通行手形が得られて 街道通過がほぼ自由にできたそうで その結果 驚くほど多くの庶民が「お参り」をしています(ただしキリシタンは許可されなかった)
     
    例えば「お伊勢参り」に関する記録によれば 江戸時代では特に多数の集団がまとまって押し寄せた状態を「お陰参り」「お陰詣」と呼び これが約60年周期で3回あったとされ その内の一つは・・
    江戸中期の1705(宝永2)年の ある2か月間に約350万人が伊勢神宮にお参りしたそうで 当時の日本の全人口が約2770万人の内で 長旅が可能な年齢を16才から60才までとして この層はこの当時の人口の約6割を占めていたので お伊勢参りが可能な人口は約1660万人となり その内の350万人は約21%にあたります
    つまり2か月の間に 日本人の(子供と老人を除いて)5人に一人は伊勢神宮にお参りしたという超驚異的現象だったことがわかります
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     歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」の図では「おかげまいり」と書いたのぼりも見える
     
    これらの大きなお参りの旅は 信仰が深まるだけではなく 途中の各地で見聞を広め 新情報が得られ また一般的なお土産だけではなく 自分たちの住む地域のものより優れた技術や道具 優良農作物の苗や種も持ち帰ったりして 各地の発展にも寄与しました また帰り旅の途中では名所旧跡歓楽地などに寄り道する楽しみがありました
     
    今回 調べて気が付いたのは “一生に一度は〇〇参り”という言葉が 「お伊勢参り」に限らず 他の「〇〇参り」でも使われていることです それだけ「〇〇参り」は大切で 一大事なことであることがわかります 
     
    ◎お伊勢参り
    〇〇詣 〇〇参り と称される中では最も有名で最も参詣者数が多い“お参り”です 
    伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の神であり  五穀豊穣の守り神でもあったので 親や店の主人は 子や奉公人が“お伊勢参りの旅”に出かけたいと申し出たら これを認めなければならないとされていたそうで さらには 親や主人に無断で“お伊勢参りの旅”に出ても お参りした証拠のお札などを持ち帰れば許されたので お伊勢さんに比較的近い関西※の子供や奉公人が この無断の旅に出た事例が多いようで 「抜け参り」という言葉があり その由来には諸説あるものの  “無断で家や職場を抜けて旅に出た”ことを表現したとも言えましょう
     
    ※伊勢神宮への旅の所要日数は・・江戸からは片道15日  東北の陸奥国釜石から100日に対して 大阪から5日 名古屋から3日 
     
    富士講と同様な「お伊勢講」が各地で作られて 選ばれた者が代表で参詣する所謂 「代参」が行われました 一方 参詣に行きたくても事情で行けない人に代わって犬を参詣の旅に出すこともあって その場合の犬を「おかげ犬」と言うそうです 「おかげ犬」は お伊勢参りに行く人たちに連れられて行きますが 道中は多数の人たちが世話をしてあげて お守りなど受けて無事に帰還します
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      歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」の図の中には「おかげ犬」も   首にお札のようなものを着けて描かれています
     
    ◎金毘羅参り
    現在の」香川県仲多度郡琴平町の象頭山にある神社が金刀比羅宮(ことひらぐう)別名「こんぴらさん」また「金毘羅宮」「琴平宮」とも書かれる
    御利益は・・五穀豊穣 大漁祈願 商売繁盛・・と幅広い
     
    平安時代から栄えたものの戦国時代には荒廃したが 江戸時代初期には盛り返して 江戸中期には ここでも「金毘羅講」ができて お参りは非常に盛んになって それは お伊勢参りに次ぐ規模になったとされます
     
    そして江戸後期には あの有名な民謡「金毘羅船々」・・こんぴらふねふね)追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ  まわれば 四国は 讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり)象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現こんぴらだいごんげん)・・が流行り出しました
     
    お参りするには1368段の石段を登ってこその献身感がご利益をあずかることにつながると考えての有難みで人気があるのでしょう
     
    「こんぴら狗(いぬ)」登場・・お伊勢参りの「おかげ犬」と同じ役目をする犬が 金毘羅参りにも使われました 首にかけた袋には お札や賽銭 餌をくれた人への礼金 などが入っていて それで道中の人々に助けられながら 飼い主の代わりにお役目をはたして帰還しました
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     「こんぴら狗」の像 写真は「ウラスピNAVI」より引用
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    神札授与所では「こんぴら狗」の置物や絵馬などがあるそうです 写真はwww.konpira.or.jp/about/dog/dog-2011.htmlより引用
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     次回は 他の「〇〇参り」の例をとりあげます
    ・・・・・・・・・・・・

    以前に「文化」と「文明」の解釈を綴ってみましたが 江戸・東京において・・富士山が見えなくても別に生活に困るわけでもないのに何かとこのお山に関する人々の行為が多様に生まれ それは文化になっています
     
    現代の東京から見える富士山・・特に冬はクッキリ見え しかも黒っぽく見える丹沢山地などの後ろに真っ白な姿が強調されて 東京から見ても心が洗われてスッキリするような感じになります
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      (画像は田代博「東京から見る富士山と丹沢山地との関係」のHP yamao.lolipop.jp/fuji/tokyo/fuji.htm より引用)
    ◎葛飾北斎や歌川広重の富士山入り浮世絵
    葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「江戸名所百景」「富士三十六景」も江戸っ子に人気の富士山を素材に浮世絵文化を盛り上げました
     
    『北斎の「富嶽三十六景」は、通称「赤富士」と呼ばれる「凱風快晴」を含む名作で1831年頃に刊行されたと言われ 当初はタイトル通り36の富士山を描いた風景画でしたが 好評だったため10景追加され 最終的に46景にまでなりました このことは 江戸っ子たちの富士山に対する愛着や篤い信仰心があったからでしょう
    一方、広重の「富士三十六景」が刊行されたのは「富嶽三十六景」が大ヒットの約30年後 1859年のこと 実は広重が亡くなったのは前年の1858年のことであり 晩年描きためたものを預かっていた版元が 没後に刊行したと言われている 広重が北斎の「富嶽三十六景」を強く意識して描いていたことは間違いない』『』内はism.excite.co.jp/art/rid_Original_05323/より引用一部割愛
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    葛飾北斎 富嶽三十六景武州玉川
    (現在の多摩川 六郷の渡し)
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    歌川広重 名所江戸百景「日本橋雪晴」
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    歌川広重 名所江戸百景「水道橋駿河台」(すいどうばしするがだい)
    (以上の浮世絵画像は全て「アダチ版画研究所」サイトより引用)
     
    ◎「富士講」
    古来 日本では万物に神宿るの思想あり 特に山に対しては その思いが強く ついには山岳信仰となり文化となってきました 日本各地には特に信仰の対象として崇められて多くの参詣者が参る有名な山がいくつかありますが 中でも富士山は日本一の高さで独立峰として気高くそびえ 裾野は末広がりの縁起の良い美しい姿で 当然のように人気あり 富士山信仰する人たちが多くいますが その人たちの作る組織が「富士講」と呼ばれて江戸時代から現代まで各地に存在しています
     
    「富士講」の歴史は・・
    江戸時代の初期に富士山で修行した角行藤仏(かくぎょうとうぶつ)という行者が富士山信仰を起こし その後継行者が18世紀に 富士信仰を真面目に働く庶民のための宗教とするとともに 信仰の男女平等提唱して女性の富士登山を可能にしたために信者は江戸を中心に関東で大いに増えて その勢いが好ましくないとして幕府から何回も禁止令が出たものの講の勢いは衰えず・・江戸時代後期には「江戸八百八講 講中八万人」と言われたそうですイメージ 5
    江戸時代の富士山に登る富士講の人たち(二代目 歌川国輝)(matome.never.jpより引用)
     
    富士講というのはその信仰の結社を指すとともに信仰行為そのものも指す言葉になっています その講は町や村ごとにあって 毎月に祈祷などを行うとともに 講の参加者の中で順送りに数名の代表者を決めて毎年の夏富士山に派遣していました(その費用は共同で積み立てしました)


    富士山の各登山口には「御師(おし)と呼ばれる人が居て 講から派遣
    されてきた人たちに 信仰を説き 宿を提供し 登山の道案内もするなどしました また各地に出向いて布教兼富士登拝勧誘もしました 江戸時代の最盛期には富士吉田口には御師の家が百軒近く在ったそうです

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     富士山での富士講の人たち  (画像はFuji-news netより引用)                     

    1871(明治4)年に御師という職業を政府が認めなくなったりして 富士講も衰退していきますが 現在でも御師と富士講は残っています
    講の数は激減したものの その所在は日本全国にあって北は北海道から南は長崎県まで約70か所あります やはり最多は東京で20数か所 僅差で千葉県の約20か所ですが実は千葉県の特に東京湾に近い地域から見える富士山は東京(都内)から見える大きさとあまり変わらず 視界をさえぎる高層ビルも東京ほどには多くなく しかも東京湾越しに見えることになるので障害物が無いという好条件なのです

    面白いのは 富士講の存在が 静岡県でゼロ 山梨県でわずか一つという現状で これは以前にもふれましたが 富士山が常に身近に存在して見える静岡や山梨よりも たまに小さくちょっとだけ見える東京のほうが
    有難みを感じやすく 感激度合いが強くなるというウェーバーフェフィナーの
    法則的な現象の影響でしょう

     
    ◎「富士塚」
    富士講によって毎年順番に富士山詣でしますが 中には順番がなかなか回ってこない人や健康上の問題で実行困難な人たちが出てくるので 江戸時代後期から現在に至るまで 特に江戸・東京で人工のミニ富士山が作られ それは「富士塚」と呼ばれて そこに多くの人々がお参りするようにもなりました。

    江戸最古の富士塚は1779(安永8)年に高田藤四郎によって造られたもので 「高田の水稲荷境内の富士塚」と言われています その後 各地に富士塚が作られました。その多くは富士山から持ち帰った溶岩も使われ 中には小山に三合目 五合目など標識を設けた塚もあります

    また本来は富士塚頂上からは本物の富士山が見えるように作られたものの 現在はビルなどに囲まれて直視不可能となっています しかも通常は登山禁止の富士塚も多く 本家の富士山の山開きと同日の7月1日と他のもう1日の 年間2回だけ解禁とする所が多いようです

     

    多数あった富士塚も 東京都内に現存するのは約50か所と言われる中で特に東京都内の3か所と埼玉県の1か所が 国の重要有形民俗文化財に指定されています
    ()「江古田の富士塚」(東京都練馬区小竹町・茅原浅間神社境内) ()「豊島長崎の富士塚」(東京都豊島区高松・富士浅間神社境内) ()下谷坂本の富士塚(東京都台東区下谷・小野照崎神社境内) ()木曽呂の富士塚(埼玉県川口市東内野)
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    「江古田の富士塚」普段は柵から入られない
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    江古田の富士塚」本体
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    音羽富士塚(頂上)
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       東京都内現存最大富士塚の「品川富士」(品川神社境内)
       
    ◎東京の銭湯の「富士山の壁絵」
    銭湯は最盛期の1968(昭和43)年に日本全国で1万8325軒あったものの 現在では激減して4000軒を切るまでになりました その内 東京では約600軒 スーパー銭湯の類を含めば700余軒あるそうです
     銭湯は東京(関東)と大阪(関西)では ちがいがあります 
    東京の銭湯の壁には「富士山」の絵がある・・浴場奥中央の壁には富士山を中心とした風景がペンキで描かれています 大阪の銭湯にはそれが殆どありませんが 絵があるとしたらそれは別の題材をタイル片で 構成する絵であることが多いそうです
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    「銭湯に初めて富士山が描かれたのは大正元年 東京千代田区にあった銭湯『キカイ湯』の経営者が施設を増築する際 「子どもたちに喜んで湯船に入ってほしい」と浴室の壁にペンキで絵を描くことを発案して 川越広四郎という画家に依頼したところ 彼が 故郷の富士山を描いたのがはじまりで これが評判になり 真似をする銭湯が続出して広まりました」(「」内は日本銭湯文化協会談を載せた「ライブドアニュース」http://news.livedoor.com/article/detail/11022269/より引用)
    早朝6時から開く銭湯として有名な「燕湯」(東京都台東区上野)浴場は富士山の絵だけではなく富士山の溶岩を使った岩風呂まであります まさに“富士山好きの東京人”向けの銭湯です↓
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    東京には神社仏閣のような宮づくり様式の「東京型銭湯様式」が定番で 特に建物の入り口屋根が特徴的です その起源は 関東大震災(1923=大正12年)の復興時期に ある腕の良い大工が 世の中を元気付けようと銭湯の建物に「唐破風」を取り入れたところ 人気が出て 以降の銭湯がこのスタイルを採用した この様式は関西では殆どありません(道後温泉と京都の某銭湯にはあります)
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    唐破風の銭湯「明神湯」(東京都・大田区)
     

    ・大阪は混浴の銭湯が多かった・・江戸時代は全国的に混浴風呂が多かったのですが 明治10年に政府から混浴禁止令が出て 消滅に向かうものの大阪には混浴銭湯がいくつか残り 私の記憶でも 昭和30年代にはまだ在ることが当時のテレビで紹介されていました
    ・大阪では 温泉でなくても「〇〇温泉」と称した銭湯が多くありましたが 東京では それはありません
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎川端康成と坂
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    前回に坂の在る所に文士ありと綴りましたが 中でも川端康成(大阪生まれ)とは特に縁が深いようです 例えば・・
     ・川端は現・文京区の「中富坂」に住んでいた菊池寛を頼っていた
    川端は1920(大正9)年に一高を卒業し東京帝大に入学して 間もなく今東光らとともに文芸雑誌「新思潮(第6次)」※を自分たちで継承して復刊しようとして その了解を得るべく 「中富坂」にある菊池の居宅を訪問した 以後川端は何かと菊池からの支援を受けている (菊池は川端が大学生の頃から文才を認めていた) ※「新思潮」は1907(明治40)年に小山内薫が創刊したがふるわず以後 休止と復刊を繰り返して第3次と第4次復刊時には菊池が関与した
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    菊池寛
    ・「伊藤初代」と出会ったのが「壱岐坂」のカフェ
    下戸である川端は友人たちとカフェや食堂によく出かけたが 1919(大正8)年のある日に 現・文京区の「壱岐坂」にある「カフェ・エラン」で可愛い少女の女給の「伊藤初代」に出会って 彼女を見染めてしまい 1921(大正10)年9月に 婚約までしたものの 11月になって彼女から一方的に婚約破棄されています
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    初代との婚約記念写真まで撮ったのだが・・
    ・「切通坂」にある料理屋「江知勝」で牛鍋(すき焼き)をよく食べた
    1921(大正10)年11月に菊池寛宅で「横光利一」と初めて会った折に 現・文京区「切通坂」にある牛肉料理屋の「江知勝」に行き 牛鍋を菊池の驕りで3人一緒に食べた その後も川端はこの店を利用しています (その他にも夏目漱石 芥川龍之介 森鴎外らもこの「江知勝」をよく利用 この店は明治4年の創業以来 現在も続いておりすき焼きの老舗として また川端の贔屓の店として知られています)所在地は東京都文京区湯島2-31-23(湯島の白梅でおなじみの湯島天神そば)
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    ↓川端が1953(昭和28)年に「江知勝」を訪れた際の芳名録に名前が残っている
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    店入口と芳名録の画像はイントゥジャパンWARAKU MAGAZINEhttps://intojapanwaraku.com/travel/20160301/695/p3 より引用
    ・坂の多い「馬込文士村」の住人だった時期がある
    尾崎士郎に誘われて現・大田区のいわゆる「馬込文士村」に1928(昭和3年)5月から1929(昭和4)9月まで住んでその間に・・宇野千代 子母澤寛 萩原朔太郎 室生犀星 川端龍子 伊東深水らと交流しました
    ・妻の秀子が「臼田坂」で転倒して流産した
    臼田坂」は馬込地区の坂の一つであり そこで1928(昭和3年)の夏に 妊娠6カ月の秀子が風呂の帰りに転倒して流産してしまいました
    ・東京・千代田区駿河台の坂の上にある「山の上ホテル」も執筆場所にした
     このホテルについては後述します
     小説「伊豆の踊子」冒頭部分にある期待を抱きながら坂を駆け登るという記述をした
    「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨足が杉の 密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。(中略) 私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。(中略)  折れ曲がった急な坂道を駆け登った。・・」
    これは以前にふれましたが坂の持つ効用・性質の一つである坂の上に待つ あるいは存在するであろうモノやコトへの希望・期待を 誘発する”ことを まさに表現したものでしょう・・
    この小説では旅の途中で何度か遭遇している旅芸人の一行の中で可憐な魅力を感じさせる踊子にまた会える のではないかというのが”一つの期待だったわけです
     
    ◎「菊富士ホテル」と「山の上ホテル」
    東京で文人がよく利用したことで有名なホテルがあります これらのホテルはいずれも坂の上に建っていました(建っています)
     
    ≪菊富士ホテル≫
    前回にふれました文京区に多い坂の中の一つの「菊坂」 この菊坂の上に かつて「菊富士ホテル」(と称しても実態は高級下宿とも言われています)大正3年の開業から戦災で焼失するまで在り 世に名前を知られた多くの人たちが利用したそうです
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    かつての菊富士ホテル
    止宿した人たちとは・・宇野千代 尾崎士郎 直木三十五 広津和郎 竹久夢二 谷崎潤一郎 宮本百合子 坂口安吾 大杉栄 伊藤野枝 正宗白鳥などの文士 アナーキスト 政治家 学者など
     
    建物は戦災を受け焼失しましたが、跡地には昭和52年にこのホテルの創業者の羽根田氏の子孫により止宿者の名を刻む石碑が建立されました

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    菊富士ホテル跡地に建てられた碑
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    詳しくは近藤富枝 著「本郷菊富士ホテル」を参照下さい 
    ≪山の上ホテル≫
    東京・JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口(西口)から南に 緩い下り坂になっている明大通り(めいだいどおり)を歩いて5分に在る小道を右に曲がって 一方通行の坂を登ると「山の上ホテル」があります
    (現在では昔と異なりJR駅以外にも地下鉄4駅が利用できます)
    少し詳しい住所では東京都千代田区神田駿河台なのですが 神田という地域はかつて出版社が多数存在していたこともあり 小説家が滞在して執筆したり 出版社が遅筆な作家をいわゆる「缶詰」にするために利用されました
    ここを定宿とした人たちは・・川端康成 三島由紀夫 池波正太郎 伊集院静
     
    このホテルが利用された基本的理由は・・
    ・坂上の丘※に在り 気分よく静かで落ち着いた環境 ※このホテルの英語表記は「HILLTOP HOTEL」
    ・建物の外観・内部は(外国人の設計)アールデコ調を採用して美しいこと
    ・客室35部屋の内部は全てレイアウトが異なり 中には日本庭園付きのスイートルームや畳部屋付きルームもある
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    このホテル常用者の三島由紀夫は こういう言葉を残している
     

    「東京の真中にかういう静かな宿があるとは思わなかった。設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人っぽい処が実にいい。ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」


    ・・・・・・・・・・・・
     
    以上のように「坂」の在る所に文士・芸術家ありなのです
     
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎「大阪に坂が無いから文化が育たない」(私の上司の言)
    前回に「文化」と「文明」の解釈を綴ってみました
    そこで昔 私の上司(生まれも育ちも大阪)が発した言葉・・
    「大阪に文化が育ちにくいのは 坂が無いからや」・・の意味について考えてみます

    繰り返しますが 東京の坂の多さには比べられないものの大阪にも坂は沢山ありますし 大阪からも文化人・文化作品が多く生まれています
    近松門左衛門(浄瑠璃:曽根崎心中 心中天網島) 竹本義太夫(浄瑠璃語り)
    この二人は大阪を代表する文化の人形浄瑠璃(文楽)を大いに発展させ その他・・
    井原西鶴(浮世草紙:好色一代男 浄瑠璃) / 上田秋成(読本作者:雨月物語) / 織田作之助(作家:夫婦善哉) / 開高健(作家:オーパ) / 小出楢重(ならしげ:洋画家) / 小松左京(SF作家:日本沈没) / 安藤忠雄(建築家:住吉の長屋)・・など 大阪に生まれ 大阪で活躍して文化に貢献した(している)人たちは多くいます
    しかし惜しいことに 大阪生まれながら成年して江戸・東京()に移住して開花した文化人も多いもので・・与謝蕪村(俳人 俳画創始者) / 与謝野晶子(歌人 作家:みだれ髪) /佐伯祐三(東京よりパリ在住が長かった洋画家:郵便配達夫) / 川端康成(作家:雪国) / 小田実(作家:何でも見てやろう)  /
    丹下健三(建築家:東京都庁舎)など
     
    逆に 東京生まれだが大阪に行った文化人を 私は多くを知りませんが・・早川徳次(シャープ創業者) / ミヤコ蝶々(コメディアン) / 茶川一郎(コメディアン) / 藤田まこと(コメディアン 俳優) 
    ※ただし早川徳次と谷崎潤一郎は関東大震災での被災を契機に移住したもので しかも谷崎は大阪ではなく京都と神戸に住み 後に静岡県の熱海に定住しました
     
    というわけで せっかくの大阪生まれの人材 とその人から生まれる文化は 一部が東京などへ流れてしまっているのも文化が生まれにくいという感じを助長させているのでしょう
     
    さて坂と文化の関係については前回にふれましたが 坂によって得られる感動・憧憬・発奮など文化的所作の原動力は 坂の数に比例して増えることになり そうすると 坂の数が大阪より多い東京に利点があることになりますが それだけではなくて・・
    これも前回ふれましたように坂の位置と構造によって 坂から見える情景の質のちがいを生じてこれも影響します 東京では谷底のくぼ地のような景色がみえる坂があったり 向きも東西南北さまざまで それぞれから得られる情景は変化に富んでいます
    見える山に関して言えば・・富士山が見える坂もあれば見えない坂もあり・・という具合ですが それに対して大阪の坂は基本的に上町台地の西側のやや急な坂からは六甲の山 東側のなだらかな坂からは生駒の山が常にと言ってよいほど近くに見えるので 大まかに言えば 大阪の坂から見える情景は東京のそれに比べればやや単調で 感動・憧憬・発奮の発生も多くはないことになるのでしょう
    東京からわずかにでも見える富士山は 文化のための材料となるものの 大阪から生駒と六甲の山は ランドマークという利便性を担った性格なので 文化的な意味合いを感じにくいものです
     
    ただし六甲山が文化に影響した例で有名なのは・・石坂洋次郎原作の「青い山脈」の映画化での主題歌で西條八十作詞に服部良一が作曲する際に 「梅田から省線※に乗って 京都に向かう途中のこと 日本晴れのはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちに にわかに曲想がわいてきた」と氏の著書の中で述べています ※”省線”とは鉄道省の鉄道のことであり 鉄道省はのちの国鉄 現在のJR 私の祖父もよく「省線電車」という言葉を使っていました
     
    また 大阪の人が東京など関東に行って帰ってきた際には・・「生駒山と六甲山に囲まれるようにみえる大阪に帰ってきてホッとする 山の見えない東京では落ち着かなかった」というような言葉がよく聞かれるそうですが この場合は生駒と六甲の存在が心情的に作用して文化的ニオイがします
     
    蛇足ながら・・大阪では「浪速の商人」の伝統なのか・・「〇〇してなんぼ」という意識のもと 何事もスピード重視で 言葉は短縮して  例えば・・
    東京では「日本橋一丁目」が大阪では「日本一」 牛丼を食べ終わる速さは東京より確実に早い 信号が赤から青になって発進するクルマや歩き出す人の早さは大阪がリード 券売機は初期には硬貨を一枚ずつ入れていたのを数枚まとめて入れられるようにしたのも大阪から・・などなど これらの所作は 
    文化というより文明的な性格が優先されているきらいがあることも影響しているのではないでしょうか
     
    ◎坂と文士・芸術家
    以前に取り上げました東京の中の いくつかの文士村・・実は これらは皆 坂のある地域()だったのです
     
    「田端文士村」は東京都北区田端に在って芥川龍之介らが居住したのですが 田端駅に近い芥川の居宅から南に向かって下る坂の村でした
     
    「馬込文士村」東京都大田区・馬込 山王 中央の地域(現 地下鉄馬込駅の南東部の約2.5キロ四方)に 芥川の死後に求心力を失った田端から関東大震災を契機に移り住んだ文士も多かったのですが この地も坂が多く 山王から馬込にかけては「九十九谷」と言われるほどです
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    「落合文士村」は東京都新宿区上落合から中井にかけての地域にありましたが ここも坂が多い地域があって「一の坂」から「八の坂」までの連番の坂のほかにも 名前の付いた坂がいくつかありました
    ここでの文士や芸術家たちは坂下に居住した人たち坂沿いまたは坂上に住した人たちの2派がありました 前者は主にプロレタリア作家 のちに大勢が入れ替わって 尾崎一雄らの新興芸術派作家たち 後者は美術家と林芙美子たち
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    「四の坂」脇にある旧林芙美子邸入り口
    (私の母を車椅子に乗せてのこの坂の上り下りは大変にきつくて苦労しました)
     
    そして文士村とまでは言えないものの東京のその他の坂沿いには文士が多く住み または坂沿いや坂の上に在るホテルなどに宿泊しました
     
    ところで東京で「坂」と言えば文京区 ! なにしろ東京23区で名前の付いた坂最も多いのが文京区で126か所 僅差で港区が121か所・・というわけ     
     
    東京都文京区にある団子坂」は その周りに住んだ小説家も多く しかも彼らが執筆した小説に団子坂が出てくる作品も多くて・・森鴎外・・「青年」の中で  ・二葉亭四迷・・「浮雲」で ・夏目漱石・・「三四郎」の他
    多くの作品にも登場させました そして江戸川乱歩は団子坂住人ではないものの この坂の名を小説名にしたのが・・D坂殺人事件」 
     
    同じ文京区の「炭団坂」沿いには正岡子規が住みながら団子坂の情景を詠んだ句も作っています そして坪内逍遥もこの坂の上に住んで「小説神髄」を執筆しました
     
    また同じ文京区の「菊坂」沿いには樋口一葉が住み この地では処女作の「闇桜」などを執筆したそうです また宮沢賢治も住んでいたことがあります
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    在の菊坂 写真は「佳景探訪」www.natsuzora.com/dew/tokyo-east/hongo-kikuzaka.html より引用

    同じく「中富坂」には菊池寛が住んでいました
     
    このように坂のあるところ文士・芸術家・文化ありですが・・まだ続きがありますものの 長くなるので次回にまわすことにします
    ・・・・・・・・・・・・

    “東京と大阪の坂のちがいの続きですが 
    その前にちょっと・・
    ◎ウェーバー・フェヒナーの法則から
    人は 常に存在する又は当たり前のように存在するモノやコトに対しては意識が無いか もしくは薄い・・という性質があります 結果としてそれらの存在の意義 有難み“感動を感じにくい
    ものです 例えば・・空気” ”家の周囲の見慣れた風景などに対してなど またこの性質の結果強い臭いをかいでいると それに慣れてしまって 感じなくなることにもなります
     
    このような人間の感覚の性質には「ウェーバー・フェヒナーの法則というものがあり その説明には必ず数式が出てくるものなのですが ここでは省略して簡単に言えば・・人は・・
    (A) 小さな刺激を受けている状態では 刺激量が少し増減しただけで変化を感じる 
    (B)大きな刺激を受けている状態では その刺激量が激増または激減しない限り 変化したと感じない・・というものです
    もう少し具体的にこの法則が現れる例で言うと・・小音量で聴いている音楽を2倍に聞こえるようにするためには ほんの少しの音量アップですみ 例えば・・強さが2の音を4にするだけで 2倍の音量に聞こえますが・・大音量で聴いている音楽の音量を2倍の大きさに感じるように聴こうとするには 音量を単純に2倍にしたのでは全くだめで 2乗倍しなければならないというもので 例えば強さが10の音の場合は10倍の100にまで上げないと2倍に聞こえない
     
    この感覚現象の法則は 刺激を増やす場合だけでなく 減らす場合も同様で ある感覚が減ったと感じるためには その刺激の量を大幅に減らさないとダメなのです

    この法則があてはまるのは「五感」すべてにおいてで・・したがって視覚においてもです
     
    ◎東京には富士山が見える(見えた)坂が多い
    前述のウェーバー・フェヒナーの法則を踏まえて・・富士山を見ての感じ方にちがいが出るケースを
    前記の(A)(B)に当てはめると・・
    (A)富士山からちょっと離れた一都六県(東京 神奈川 埼玉 群馬 栃木 茨城 千葉)では 富士山が遠くに小さく見え しかも天候や大気汚染で 常には見られないという状態なので たまにその小さな富士山が見えるだけでも 小さな視覚的変化(刺激)になり 感動をおぼえます
     
    (B)静岡県や山梨県で富士山が常に間近に大きく見えることが当たり前の人々の感覚では 少々の変化は
    気にならず 例えば富士山が噴火でもして
       非常に大きな変化(刺激)あったなら あらためて富士山の大きな存在を感じることでしょう (ちなみに 記録が残る富士山噴火は過去16回で その内 平安時代が最も多くて10回  江戸時代の「宝永噴火」以降無し)
     
    私が住んでいた東京都豊島区椎名町では昭和30年代なら 二階から富士山を見ることができる家は多かったものです (余談ですが 私が中学生の時に2階の教室の窓から 建設中の東京タワーが日ごとに高くなっていくのが見えていました)
     
    しかし東京では高層ビルなどが増えて 富士山が見える機会も激減して 現在では よほどの高所からしか富士山が見えませんので たまにチョットでも小さいながら富士山が見えることは 前述の(A)のような状態に当たり つまり ちょっとしたことが刺激に感じる=感動になるわけです
     
    そこで 東京では昔も今も富士山がよく見える場所として意識されてきたのが「坂」で 坂の上から風景を眺めた場合の視線を遮るものは無いか少ないのが普通で 東京には神奈川県にある丹沢山地とその後ろの富士山がセットで見える坂が多く それらには「富士見坂」という名がついて 東京23区では16カ所以上あり さらに 本名がありながら別称として富士見坂と呼ばれるものも含めると24カ所以上ある言われています しかし現在は坂と言えども視界を邪魔するビルが前方に建つことが多くなり 
    今 実際に富士山が見える坂は・・文京区の護国寺(ちなみに歌手の尾崎豊の葬儀が行われた寺)の脇の
    富士見坂や 目黒区の大岡山の富士見阪などで 少なくなってきました その他 有名だった荒川区西日暮里の富士見坂は現在 ビルとビルの間からかすかに覗ける「すきま富士」状態になりました 
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    1999(平成11)年のこの富士見坂と富士山
     荒川区報200011日号表紙より

    この坂での見え方の変遷を記録された方の写真から引用させてもらいますと この25年間で「すきま富士」になったことが下の2枚の写真からわかります
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    1994,1,4↑ ↓ 2019,1,10
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    「西日暮里富士見坂からの眺望の変遷」yamao.lolipop.jp/fuji/fujimizaka/nishinippori.htmより
     
    このように東京には富士山が見えるまたは見えた坂が多いのですが  大阪の場合は坂からに限らず台地上や台地以外の平野部からでも ビルなどが視界を邪魔しない限り 東方向には「生駒山地」(奈良県との県境に主峰の生駒山(642m)に数個の山が連なったもの)近くに見え 北西方向には六甲山(931mで兵庫県南東部にある)山並みが これも近くに見えるので 大阪ではこの二つの山並みがランドマークなっています つまり二つの山並みは大阪では視覚的にも身近な存在であり 東京での富士山の見え方と比べれば 刺激・感動は湧きにくいものなのです
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    近鉄線の新石切駅からみる生駒山地
    https://tozanmotetai.com/ikoma-date/から引用   

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    六甲山系立体図:大阪はこの地図の右下方向
    「やまつみ」のHPより引用 

                                                                       
    ◎文化と文明のちがい 
    文化と文明それぞれの解釈・定義と相互のちがいに関しては 辞書のみならず 学者から一般人までから実に様々な説明がなされていますが 私が調べた限りでは 完璧なものは無いようなので 諸説の一部私見を加えて大まかに表しますと
    「文化」は地域性があり 効率を追求するものではなく” 心を満たすもの” 結果として基本的には持続性がある” 無くても生活には困らない

    「文明」は”普遍・汎用性があり” 効率を追求するもので” 心を満たす為のモノが満ちるもの結果として 常に変化し時には消滅する “生活に便利なもの
    ・・このように言えるでしょう 
      ・・・・・・・・・・・・
    次回は 今回の「文化と文明の観点」をふまえて "大阪の文化"と"坂と文士"についてみてみます

    ◎坂は心を振るわせ奮わせる
    古今問わず 坂はドラマを生み 絵画や小説を生み 文化を醸成してきました 
    坂を上る時も下る時も 目に入る風景は刻々と変化して面白く 坂の上から下を見れば 街や村あるいは自然風景が俯瞰でき それは見渡すということで一種の巨視的情報が得られる一方で 街の家々の一軒々々の暮らし 仕事に励む人それぞれの姿 行き交う乗物など こまごましたことにも思いをはせることができ 坂の下から上を望めば 何か新しいものが見える期待感が湧く 司馬遼太郎の「坂の上の雲」のように・・
    こうして 坂を介しての感動・高揚感や考察は人の心を奮わせます 
    その心の内を 感受性と表現力に優れた画家や小説家が作品に仕立て上げる例は多いもので・・坂の上から見た絵になる風景や坂そのものの絵画は多数あり また 坂を題材にする あるいは坂を登場させる小説  そして坂の名をタイトルに取り入れた小説も多いものです 歌川広重 岸田劉生 司馬遼太郎 石坂洋次郎の作品しかり・・
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    歌川広重 東海道五十三次「田坂」
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    歌川広重 東海道五十三次「庄野」

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    岸田劉生「道路と土手と塀」に描かれた切通しの坂     
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    佐伯祐三「落合風景
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           ↑石坂洋次郎原作「陽のあたる坂道」日活映画より

    ◎「民の かまど」
    坂の上からではないのですが 高所から家々の暮らしをうかがうという例で思い起すのは 「民のかまど」の逸話・・それは
    仁徳天皇が、ある日 高台に登って遠くを見られた際に 人々の家からは、食事準備のための煙が上がっていないことに気づかれ 「煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのであろう 都がこのような状態であれば、地方はなおひどいことであろう」と思われたので 三年間、税を免除しました。

    そのために朝廷の収入は無くなり 宮殿が荒れる中で 天皇も衣を新調されずに耐えられました

    三年がたち、天皇が同じ高台から眺められると 今度は、人々の家々から煮炊きの煙が盛んに立つ様子が見えたので 天皇がこのように言われた・・「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」

    そして、「私は豊かになった。喜ばしいことだ なぜなら 国とは民が根本である。 その民が豊かでいるのだから、私も豊かということだ」と言われ、引き続き、さらに三年間、税をとることをせずに、六年が経過してから課税を復帰させた

    そこで宮殿の修理をしようとされたらば 長年の免税を感謝していた人々は 進んで宮殿の修理に参加して すぐに立派な宮殿ができあがったといいます』『』内は 「美しく 樹つる 石が根」さんのブログより引用一部割愛
    ◎東京と大阪の坂のちがい 
    かつて私が大阪勤務(計10年)していたある時に上司(生まれも育ちも大阪)が ある時 会話の際に ふと 「大阪に文化が生まれにくいのは 坂が無いからや」と 自虐的?発言をされました 確かにこの「大阪」という地名表記は古くは「大坂」とされていたというにもかかわらず 東京に比べると坂が非常に少ない印象を受けますので 文化云々もむべなるかなでしょうが しかし大阪にも坂は沢山あります
    (当欄で対象にしているのは 東京でも大阪でも都市部の坂であり 両都府ともにある山沿いの坂は対象外とします)
    さて大阪の都市部には只一つ小高い場所である「上町台地」というものがあり これは大阪府南部の住吉大社のあるあたりから北へ向け(現在日本一高い建物「あべのハルカス」のある)天王寺を通り 長さ12キロ 幅2キロで細く半島のように伸びたカタチになっていて その台地北端に大阪城が建っています ですからこの上町台地の周囲には当然のように多数の坂があるわけです
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    図の中央の半島のようなものが
    「上町台地」その右薄青部分は古代の「河内湾」 
    左薄青部は古代の「大阪湾」
    atamatote.blog.fc2.comさんからの引用に追加記入
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    図の右が北で「上町台地」の北端に大阪城が建つ
    matomenaver.jpさんより引用

    しかし なぜ大阪には坂が少ない印象なのでしょうか それは 大まかな表現をするならば大阪の場合 ただ一つの高台である上町台地と 広く平坦な低地とを結ぶ坂だけにほぼ限られるからであり
    東京の場合は 西から東に広がる武蔵野台地において川による浸食で出来た谷底低地(窪地)”と”浸食されなかった台地部分の段差を結ぶ坂であるので この低地から見れば右と左の両方に坂(または崖)が存在することになり  東京の坂の数は大阪とは比較にならないほど多くなるわけです
    ※大阪の「上町台地」のような小高い所を 東京では「上野台」「本郷台」のように「台」と呼び それをまとめて「武蔵野台地」と称しています
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    大阪の坂は上町台地の東側と西側だけ
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    ↑東京の坂は 沢山ある谷(窪地)に一対ずつあり非常に多い  ※実際は「河岸段丘」という地形もあって坂や崖はより多い
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    ↑東京(武蔵野台地)は谷だらけ・・茶色部分が縄文時代ころの陸地 図のほぼ中央のお堀に囲まれた表現になっているのが現在の皇居で その前身の城を太田道灌が築いた頃はまだ海に面していました
    宮川典久氏の「スリバチとは何か」の「東京都心部の凸凹地形図」より引用
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    武蔵野台地東部 山手線周辺の地形模式図 市ヶ谷 四谷 千駄ヶ谷 渋谷など「谷」の付く地は やはり谷(窪地)になっています(五百尺智也著「歩いてみよう東京」の図に「地下水学会」が引用加筆したものを引用
    ・・・・・・・・・・・・
    次回は 坂の多い東京と文化の関係をみてみます

    ◎「馬上 枕上 厠上」(ばじょう ちんじょう しじょう)
    中国の北宋時代の欧陽 脩(おうよう しゅう:1007~1072年)政治家・詩人・歴史家ですが 「文章を練るのによい状況」としてあげているのが・・「馬上 枕上 厠上」・・それは・・
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      欧陽脩・『晩笑堂竹荘畫傳』より
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    「馬上」東海馬事苑HPより↑ 
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    「枕上」 
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    「厠上」
     
    「乗馬している時」「枕して布団に入っている時」「便所での用たし時」なのだそうで 「馬上」は「電車などの乗り物に乗っている時」と置き換えられます しかも 「文章を練るのによい状況」 というのは 「ものを考えるのによい状況」に置き換えられます こう考えれば この「三上」は経験上から誰もが納得できるものでしょう
     
    ◎外山滋比古 博士の説は三上・三中・三多
    英文学者にして言語学者 評論家 エッセイスト 文学博士 であり全日本家庭教育研究会元総裁でもある外山氏が1986年に上梓した「思考の整理学」はおよそ30年間に200万部以上も売れて 特に東大や京大などの大学生のあいだでベストセラーともなっていたそうですからこの本の内容をご存知の方も多いと思われますが
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    良い考えの生まれやすい状況を分類して提示されているのは・・
    「三上」 = 馬上・枕上・厠上
    「三中」 = 無我夢中 散歩中 入浴中
    「三多」 = 看多 做多 商量多 
     ・・であり 「三多」が分かりにくいのでくだいてみると・・看多 = 多くの本を読むこと 做多(さた) = 多く文をつくること(做は作の俗字) 商量多 = 工夫を多くして 推敲すること


    ◎ブランコ上/揺り椅子上/会話中/歩行中も
    「三上」 「三中」 「三多」 の他にも 私の経験上 思考のためになる良い状況・良い場としてあげることができるのは・・
    「ブランコ上」 = ブランコに座ってゆっくりと体を前後に揺すっていると考え事がよくできます・・映画やテレビドラマなどでも そのような設定のシーンがよく見られます 黒澤明監督映画の「生きる」での 志村喬演じる役所勤めをしてきた男がブランコに揺られながら それまでの人生と最後にやり遂げた仕事の意味を吟味しながら ゴンドラの唄を口ずさむシーンが眼に浮かびます         イメージ 8
    映画「生きる」から
    「揺り椅子上」=揺り椅子(ロッキングチェア)は座って自分で揺らせば これもブランコと同様な状況なので考え事がよくできます この経験ができる機会は多くはないと思いますがお勧めです (赤ん坊の揺り籠のように自分以外の人に揺らしてもらうと気持ち良すぎて眠くなりますが・・)
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    「会話中」 = 他人との会話の中では 新たな・自分には無かった情報が得られ 逆に自分の話・意見を口
    にする際には自分の頭の中の
    思考を整理する必要があることから 思考のためには有効 

    「歩行中」 = これも経験上 納得できる方も多いと思います ドラマなどでは 人が部屋の中を歩き回りながら考えるシーンは多く また考えを整理しながら言葉を選んで口述して それを秘書に筆記(現代ならパソコン入力)させるシーンも多かったものです 海外ドラマの「刑事コロンボ」の主人公は・・尋問などを終えての帰り際に数歩ばかり歩いたところでいつも もう一つ問いただしたい事を思い出すという設定のシーンが定番でした

    ※外山氏の提示について雑感
    ◎「三上」 「三中」 は・・思考や発想のためになる状況・環境提示であり 「三多」は・・思考や発想のための方法の提示
    ◎「三中」の中の「無我夢中」は 字面通りに受け取ると誤解が生じます・・と言うのは・・あまりにも あることばかり考えていると脳は疲れ 思いもつかないような情報が入り込む余地が無くなる危険性があるからで 外山氏自身もその本の中で・・「見つめるナベは煮えない』という外国の諺を紹介されて 何かを考え始めてから答えが出るまでは必死の努力よりもむしろ時間をかける方が大切で 早く煮えないかと頻繁に鍋蓋を開けていては いつまでたっても煮えないように 一途に考え詰めていると 良い考えは出ないものであり・・また「セレンディピティ予想外のものを発見することや 何かを探しているときに 探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること)は 脱線することで得られることがある」と言うようなことも述べられています 
     

    ◎「アルキメデスの原理」につながるヒント発見は まさに「入浴中」
    アルキメデス(紀元前287年頃~同212年)は古代ギリシャの数学者・物理学者・発明家・天文学者でした 
    ご存知のように「アルキメデスの原理」とは 流体(水など)中の物体は その物体がおしのけた流体(水など)の重さ(重力)と同じ大きさの浮力を受けるというものですが そのヒントになる発見をしたのが入浴中だったと言われ・・そのいきさつは・・


    ある時 アルキメデスはギリシャの植民地シラクサの王であるヒエロン2世から「金細工師に材料として純金を渡して作らせたこの王冠が その純金だけでできているか調べよ」と言われ

    王冠の質量(比重)を調べればすぐ分かることだが そのために王冠を溶かして体積を測れる形にしてしまうわけにもいかず ちがう方法を見つけるのに苦慮していた中で 気分転換に風呂につかっている時に 浴槽からあふれる湯を見て ひらめいたアイデアが・・水を満たした容器に王冠を沈めた場合金細工師に与えたのと同じ量の金を沈めた場合“それぞれ溢れる水の量を比べて同じなら王冠は純金のままであり 金に質量(比重)の小さい銀や他の金属を混ぜたならば (王様から預かった金と同じ重さにするために) 王冠の大きさが大きくなって 溢れる水の量も多くなる・・ということ


     このアイデアがひらめいたアルキメデスは思わず「Eureka」(ユーレカ※=「私は見つけた」「私は分かった!」の意)と叫んで裸のまま街に飛び出したそうです
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     入浴中の考えるアルキメデス
     

    現在このエピソードが「アルキメデスの原理」発見時の状況として語られる事が多いのですが 原理を導き出したのはその後のことであり つまり間違った話が流布されているわけです

     

    Eurekaの表現としては「ユーレカ」以外に「ユレカ」「ユーリカ」「ユリカ」「ユウレカ」「ユリイカ」などが使われていますが 最近はNHKテレビ番組のタイトルにおいて「(又吉直樹の)ヘウレーカ」
    という表現も使われています

     
    ◎「思考・発想のためになる状態」考
    ・身体と脳が弛緩しながら揺れる状態・・「馬(乗物)上」「ブランコ上」「揺り椅子上」
    ・身体と脳の血の巡りが良い状態・・「入浴中」「歩行中」
    ・視覚上の邪魔が入らない状態・・これについてはNHKのテレビ番組の「チコちゃんに叱られる」の昨年9月(今年2月にも再放送)に・・「人は考える時になぜ上を向くか」という質問への答が 『考える際に 目から入ってくる「余計な情報をシャットアウトするため」に 何も無いような天井や空を見上げる』というもので これが参考になります この理屈からすると・・「枕上」では あお向けで天井を見ることが自然に多い状態 又は目覚めていても目を閉じた状態では 余計な視覚情報は無い状態 「厠上」では空間が狭い上にモノが無いので視覚上の邪魔が少ない状態 「ブランコ上」「揺り椅子上」では目には映像が入っていてもそれが  揺れ動くために視点を定められないことが多く 結果として視覚上の情報としての認識がなされない状態
    ・通常とは異なる視点でモノが見える状態・・「馬上」 初めて乗馬する人が よく口にするのが・・「(またがると)高い !」・・こうして高い位置から 普段とはちがうモノが見えるようになります 
    「三多」の中の「看多」は 以前のブログに綴った「獺祭」 (だっさい)が これに当たる例の一つでしょう 
     
    ◎メモも大切
     外山氏もメモの大切さを説かれていますが ユダヤ人に優秀な人が多いのはとにかくメモを重視し活用するからと言われます 
    シルバー川柳に「寝て練った 良い句だったが 朝忘れ」というのがあるそうですが 高齢者でなくても 特に「枕上」で得られたアイデアはメモが大事でしょう
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎童話・童謡の発信「児童文化運動」発祥地であった豊島区
    (文中敬称略します)
    1918(大正7)年に現在の豊島区・目白(旧 高田)の地で鈴木三重吉により児童向け雑誌「赤い鳥」が創刊されました 三重吉のモットーは・・「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して 子供の純性を保全開発する」というもので芸術性の高い童話や童謡を子供たちに提供しました
     
    これに創刊時から参加した北原白秋は童謡歌詞「からたちの花」や「この道」を発表し その他 芥川龍之介は童話「蜘蛛の糸」を 新美南吉は童話「ごん狐」を 西条八十は童謡歌詞「かなりや」を それぞれ誌上で発表しました
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    「赤い鳥」第一号

    そして 坪田譲治豊島区・西池袋(ここも旧高田)に住みながら「赤い鳥」に「河童の話」という童話を寄稿しています 坪田は小川未明と浜田広介らとともに「戦後童話界の三大御所」一人となりました なお坪田を鈴木三重吉に紹介したのは・・池袋モンパルナスの童画画家の深澤省三でした

     
    「赤い鳥」に続いて同様な雑誌「おとぎの世界」「金の船」「童話」が創刊されて 童話・童謡・童画など「童心主義」とも称される清新な内容とスタイルを採用しました
    この子供のための文化推進をした動きを「児童文化運動」と称しましたが それは東京の豊島区から生まれたものでした
     
    ◎「自由教育運動」の発祥地でもあった豊島区
    一方 ”公立学校の画一的で個性の芽を摘み取るような教育に反対して 子供の自由を教育の基本理念にした私学校が続々と豊島区に現れました

    1912(明治45)年に「帝国小学校」が開校

    同じ1912(明治45)年に「成蹊実務学校」が開校 後年に中学校 小学校なども開校 後に成蹊大学(現在地:東京・吉祥寺)にまで発展  (安倍晋三首相も同大学の卒業生)

     1921(大正10)年 羽仁吉一/羽仁もと子夫妻により「自由学園」開校※
    1924(大正13)年 「池袋児童の村 小学校」開校・・と続きました
     
    ※羽仁夫妻は現在も続く婦人雑誌出版の「婦人之友社」をつくりましたが 児童向け雑誌の「子供之友」も出版して坪田譲治の童話も同誌に掲載されました つまり児童文化運動と自由教育運動が結びつくかたちになっていたわけです 
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    ↑東京都豊島区池袋の東京芸術劇場の近くに在る「成蹊学園発祥の地」の碑 右の石板には成蹊の由来となった中国の古い諺 「桃李不言 下自成蹊」※の文字が 創立者の中村春二による書で刻まれています   ※成蹊学園のホームページによると その書き下し文は・・「桃李(とうり)ものいはざれども 下 おのづから蹊(こみち)を成す」と なっています   俳優の松坂桃李の名前はこの諺が由来と公言しています
     
    ◎大正時代から漫画家が住み 集っていた豊島区
    1920(大正9)年に子供向け漫画を描いた山田みのるは晩年には豊島区・要町に居住 岡本一平(漫画家で岡本太郎の父)の弟子の宮尾しげるも豊島区・巣鴨に住んで 本格的に子供漫画を開拓 初山滋は大正期から豊島区・長崎に住んで 童画や4コママンガを描いていました
     
    現豊島区南長崎ではトキワ荘が在った地点から200メートルと離れていない所に1934(昭和9)年まで「プロレタリア美術研究所」があり(黒澤明も通ったそうです) そこではマンガの講座もあったので 所属メンバーにはマンガ本を出版した者がいて それが吉賀たかしで 彼が小熊秀雄に児童漫画の
    出版社「中村書店」を紹介して 小熊はそこの編集顧問をしながら(以前のブログで紹介したマンガ)「火星探検」の原作を書きました
     
    「プロレタリア美術研究所」の消滅後も同所出身者たちはマンガのレベル向上に貢献しました
     
    ◎紙芝居は山の手随一の繁盛地であった豊島区
    豊島区立中央図書館発行の広報紙「図書館通信」に浅岡靖央(白百合女子大学教授)寄稿された文章によれば・・
    『1929(昭和4)年に起きた世界大恐慌が波及した日本でも大量派生した失業者が飛びついた職業の一つが紙芝居屋であった 1930(昭和5)年には 紙芝居最大のヒット作「黄金バット」が東京・台東区で生まれて紙芝居屋は大繁盛した 
    街角のあちこちで紙芝居を見せながら駄菓子を売り歩く紙芝居屋は その紙芝居を有料で貸し出す貸元に所属していたが その貸元の所在地のほとんどは 荒川区 台東区 墨田区などの下町であったが 
    豊島区にも貸元が一つ存在していた 紙芝居屋の人数も最も多い荒川区の93人に対して豊島区も32人いた つまり豊島区は山の手では唯一 街頭紙芝居の盛んな地域であり それだけの営業を可能にする 庶民的子供とその親が大勢いたということになる 』  (一部意訳)
     
    私も豊島区育ちですから 昭和20年代後半から30年代中頃まで 近所に来る紙芝居屋さんをよく見かけました 紙芝居そのものは殆ど見ませんでしたが  紙芝居を始める前に 子供たちにそのおじさんが来たことを知らせるために自ら近所を回り歩きながら鳴らす太鼓または拍子木の音が頻繁に聞こえていました
     
    ◎こうしてマンガ人の梁山泊トキワ荘へとつながりました
    これまでみてきましたように 豊島区には児童・少年少女の文化向上や自由と個性育成をめざした 児童文学者 童画家 漫画家たちが存在し また新しい組織・学校が多く生まれました 
    これらが成り立つためには それを
    受け入れる土地柄つまり そこに暮らす人々の文化・気風が合っていたからでしょう 豊島区に住む庶民たちは特に子供達向けの自由で新しい文化に寛容であり 戦後の日本中で「マンガ雑誌は悪書」とされて追放運動まで起こっていても  マンガや紙芝居などに総じて
    拒否反応を示さなかったようです
     
    こうして豊島区が後に漫画の聖地と呼ばれるトキワ荘を生み出すことにつながるのですが その最大の牽引力となったのが 言うまでもなく手塚治虫
    手塚がトキワ荘に入る事になった理由は・・1951年に当時の児童マンガの巨匠である島田啓三(「冒険だん吉」作者)会長とする「東京児童漫画会」が結成されて入会した手塚治虫 馬場のぼる 福井英一の三人は「児童漫画界の三羽ガラス」とよばれていたが 
    島田啓三が練馬区桜台に 馬場のぼるが同じく練馬区練馬に住んでいて また前出の初山滋は豊島区長崎に居たというように 西武池袋線沿線にマンガ家が多く住んでいたので 手塚はその近くに住むことを希望していたところ 同じ沿線で近い豊島区椎名町(現南長崎)に建てられて間もないトキワ荘に先に入居していた加藤宏泰※に勧誘されて1953(昭和28)年に入居したのです
     
    ※加藤は有名なマンガ雑誌「漫画少年」を出版する学童社の編集者で 手塚は同誌で掲載のジャングル大帝を執筆しながら 同誌が設けていた「読者による漫画投稿」の審査もしていたので 同じところに居住すれば互いに便利だったわけです
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      「漫画少年」投稿欄入賞記念メダル
     
    学童社側の思惑として 同様に当時自社の雑誌に執筆中の他のマンガ家たちも入居させたので ある者が製作時間的に窮地に陥れば 他の者が手助けするなど互助体制がうまく機能していました
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    手塚のすぐ後に寺田ヒロオが入居したが その10か月後に手塚が同じ豊島区の雑司ヶ谷の「並木アパート」に転居した後は 寺田がマンガ家住人たちのリーダー格となり 以後は 入居資格基準を設けて
    人選したので トキワ荘のマンガ家たちは優秀で 後にほとんどが「大先生」になりました
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    寺田ヒロオのヒット作 「スポーツマン金太郎」

    (その後のトキワ荘関連は 以前のブログで綴りました)
     
    「トキワ荘の夏」という演劇(竹内一郎 作・演出)は2010年以降に何回か公演され 2012年には頼 三四郎(故加藤剛の次男=俳優座)出演しました
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    劇シーン
     
    近年は豊島区・池袋は秋葉原や中野ブロードウェイと並んでアニメファンの集う街ともなりましたが 池袋には「乙女ロード」よばれる地域も登場しています ここでは自らアニメキャラのコスチューム着用して楽しんでいる女性が圧倒的に多く  対する秋葉原で見かけるコスチュームは この街に多数存在するメイドカフェの類のものがほとんどで そのお客となる「萌え」る男性が多いのも異なるところです
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    ↑マップ中央やや右下のピンクハートが10個「く」の字に曲がっている通りが「乙女ロード」
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     池袋ハロウィンコスプレフェスの案内ページから  
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    アキバ(秋葉原)に多いコスチューム系

    先日 豊島区ではアニメがテーマの成人式が行われました
    (豊島区主催)
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    NHKニュースから
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      参考資料・雑誌
    「豊島区と童話」(宮田航平「図書館通信」2017年 寄稿文) 「豊島区とマンガ」(小出幹雄「図書館通信」2018年 寄稿文) 「マンガがいつもあった」(「東京人」2012年11月号 桐木憲一 寄稿文)
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎男ばかりのトキワ荘の中で・・(文中敬称略します)
    トキワ荘は1952(昭和27)年から1982(昭和57)年まで存在したアパートで 二階部分の賃貸部屋10室は全て四畳半に押し入れ付きで 共同調理場と共同トイレがありました
     
    共同調理場には広く長い「流し台」(今で言う「シンク」)があって 蛇口は3つ付いていたが 赤塚不二夫はそれを全部開いて水を張り 「流し台」でしょっちゅう行水をしていたそうで ある晩に行水しているところを石ノ森に見つかりましたが とがめるどころか 一緒になって行水をしたこともあったと語っています
     
    そういう行為は トキワ荘の住人が殆ど男性マンガ家(最多時8)ばかりだったこと そして住人ではないものの ここに入り浸りの男性マンガ家たちの いわゆる「通い組」も多く なかでも つのだじろう(作品:カラテ馬鹿一代 5五の龍 など)は隣の新宿区から (本人曰く)"1年に366日"スクーターに
    乗って通ったそうですが・・このような"男だらけの環境"なのでできたのでしょう
     
    そんな中で このトキワ荘に住んだ女性が数名いました (1階に入居の普通の家族の奥さんたちについてはここでは触れられませんが・・2階のマンガ家たちが夜遅く集まって騒いでいると下の部屋の奥さんが箒の柄か何かで天井を突いて文句を言っていたそうです)
     
    ◎水野英子(みずのひでこ):女性マンガ家の先達
    1939(昭和14)年 山口県下関生まれ 
    小学5年生時からマンガを描き始め 15才で雑誌掲載デビュー 日本の少女マンガ家の草分けであり 
    また少女マンガに男女の恋愛題材を初めて取り込んだパイオニアであり 後の竹宮恵子 萩尾望都などの少女マンガ家に多大な影響を与えたので「女の手塚」とも言われる (作品:星のたてごと ファイヤーなど)
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    74才頃    (朝日新聞2013年2月12日記事写真)                                
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    ↑作品「銀の花びら」のキャラクター
     
    1958(昭和33)年3月にトキワ荘に入居して 石ノ森章太郎 赤塚不二夫との三人合作のマンガを3作ほど描いた その三人統合ペンネームは「U・マイア」
    しかし入居7か月後の10月に退居・・これは前述のように トキワ荘が男だらけなことの上に共同トイレなどにも耐えられなかったことは想像に難くないことです
    トキワ荘を出てから住んだのは 手塚治虫もトキワ荘から移住した町である豊島区・雑司ヶ谷でした
     
    ◎「小野寺由恵」:石森章太郎の世話した3才上の姉

    章太郎が宮城県の実家の親からははマンガ家になることを反対される中で 由恵は賛成して 上京した章太郎の面倒をみるために 由恵は持病の喘息の治療にかこつけて自分も上京してトキワ荘で一緒の生活をした

    「ジャガイモ」と呼ばれていた章太郎と比べて姉弟とは思えないほど由恵さんは美人で トキワ荘のマドンナだったと言われていたが 本人は藤子不二雄Aに好意をもっていることを弟の章太郎には告白していたそうです
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    しかし ある日 喘息の発作がひどくなり 緊急入院して直後に亡くなってしまいました 23才の誕生日の前日のことでした 生前 弟には「私の分まで好きなことをやってほしい」と言っていたそうです・・私は知らなかったのですが この姉弟の話はテレビドラマ化されて 今年2018年の日本テレビ系列の24時間テレビで放送されたそうですから ご存知の方も多いのでは・・
    ※小野寺由恵については・・「のんびり主婦ブログ」 https://chipipi.info/wp/onoderayosie/ より一部引用
     
    ◎赤塚リヨ:赤塚不二夫の母
    夫「赤塚藤七」と共に トキワ荘に一時住んでいて 不二夫の食事や身の回りの世話をしました
    当時の不二夫は「トキワ荘一の美男子」と同僚だったマンガ家たちの誰もが認めるほどで その頃の写真を見るとなるほどと言えるもので 中年以降にマスコミに登場した容姿からは考えられないほどです それゆえに東京での女性問題発生を危惧しての親心もあったのでしょう
     
    不二夫の母は丁度その頃に向かいの部屋に住んでいた水野英子を気に入り 不二夫に彼女との結婚をしきりに勧めたそうです 
    因みに水野英子はその後1970年代初頭に「未婚の母」の道を選んで男児出産しています
     
    ◎遠藤景子:元NHK松山放送局初の女性局長

    トキワ荘で生まれ 幼少期をここで過ごした NHKに入局して制作部門に勤務する中で 自分の生まれ育ったトキワ荘が老朽化で解体されるという情報を掴むや NHK特集『わが青春のトキワ荘』という番組制作スタッフとなった その放送は1981(昭和56)年にあったが2001(平成13)年の1月5日にも再放送されています 放送内容の中には トキワ荘解体前に元住人による同荘会行った様子が含まれていて 手塚 石ノ森 藤子 赤塚などの中に紅一点の水野英子も参加していました 

     
    遠藤景子はその後2009年にNHK松山放送局長となりました これはNHKの地方キーステーションとしては初の女性局長でありました 
     
    ◎レコード店「目白堂」の奥様
    トキワ荘住人マンガ家でレコードをよく聴いていた赤塚不二夫 石ノ森章太郎 水野英子らはレコードを買うのは専ら トキワ荘から徒歩約15分にあるこの店だったのです
     
    後に赤塚不二夫は「あの当時僕らの1か月の食費が3000円だったのに LPレコードが2500円もしたけれど 買って 腹をすかしながら聴いたことは 今考えると あれがイイ栄養になっていたんだと思う」・・と語っています (昭和30年のトキワ荘の家賃も3000円)
     
    実は私もこの店をよく利用しました バスに乗ってこの店の前を通過するには松尾和子似の美人の奥さんが店のレコードをキレイに揃えるような仕事をしている姿がよく見られました
    (バスの中で立っていると目白堂の売り場が丁度良い角度で見下ろせた)

    赤塚らのマンガ家たちも この奥さんの容貌と優しい対応に好印象をもっていたそうで 後年 奥さんが病気で聖母病院(この地域では有名大病院)に入院した時には・・水野英子小出幹雄(現在 としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会の広報担当)”二人でお見舞いに行ったほどでした 
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    松尾和子に似ていました
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    目白堂のEP盤レコード用ポリ袋 
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    目白堂の30センチLP盤レコード用紙袋の裏面
     
    残念ながら レコード衰退の流れの中で2007年の10月末に目白堂は閉店しました ネット上でも閉店を惜しむ一般の人たちからの声が多数あがりました
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                これが閉店間近の目白堂
    写真は「SARADA BLOG」さんから引用sarada-sarada.sblo.jp/article/5743978.html
    ・・・・・・・・・・・・
     次回もまだトキワ荘関連内容が続きます 

    マンガの聖地について 前回の続きです(文中敬称略します)
     
    ◎「紫雲荘」や「兎荘」も使われました
    人気が出て制作量が増えると それまでのトキワ荘の部屋では手狭になって 近くに転居するマンガ家がでてきました 
    既に人気作家の手塚治虫は入居後
    1年ちょっとで同じ豊島区雑司ヶ谷の「並木アパート」(現存します)へ  寺田ヒロオは豊島区目白へ
     
    または追加の仕事部屋を求めてトキワ荘に隣接する小規模アパートも利用されました
    「紫雲荘」には赤塚不二夫が転居して仕事場兼住居にしました 「兎荘」には藤子不二雄の二人が仕事部屋を借りました

    これらのアパート住まいだけではなく 上京してきてこの近所に住んだマンガ家も複数いました つまり「マンガの聖地」はトキワ荘だけではなかったのです
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    当時の紫雲荘↑
    (右隣の日暮商店の裏にトキワ荘があった) 
                                                     
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    現在の紫雲荘↑
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    紫雲荘の赤塚不二夫の部屋(再現)

    ※元トキワ荘住人だったマンガ家たちは さらに後年それぞれ遠隔地に移りました 手塚は渋谷区→練馬区→杉並区→東村山市へ 寺田は神奈川県茅ケ崎市へ 藤子F不二雄は神奈川県川崎市へ・・など
     
    トキワ荘住人にはならなかったものの横山光輝(作品:鉄人28号 三国志など)は  同じ豊島区でトキワ荘から約1.5キロと近い千早の自宅に 1960(昭和35)年から2004(平成16)年に亡くなるまで45年間も 定住しました
     
    ※手塚治虫の転居理由は手狭だけではなく 出版社などの人が手塚の仕事部屋を伺うと 人気作家とは思えないほど貧素な室内に皆が驚くので 「それからはなるべく高級品を揃えるようにした」と 後に手塚自身が語ったそうで トキワ荘より少しハイレベルな部屋空間を望んだことにもありましょう

    ◎「紫雲荘活用プロジェクト」はチョッと苦肉の呼称?
    紫雲荘は1959(昭和34)に建てられ、今もなお現存する木造モルタル2階建て アパートです
    そこにマンガ家の卵を公募・選出して かつて赤塚不二夫が仕事場にした同じ場所住みながら制作できるように家賃も補助されるというのが 「紫雲荘活用プロジェクト」で 2011(平成23)から進行しています これは地域団体「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」と豊島区の協働運営となっています


    ここでは 
    最長3年間、月額家賃4万円のうち二分の一の2万円を「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」から補助(光熱費は自己負担)されるほか 慣れない町での生活への助言やアルバイト先の紹介など活動をサポートします

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    「紫雲荘活用プロジェクト」第1回目の募集ポスター
    現在 第3期生が入居していますが これまでにマンガ家デビューした人が数名出ています
    2013(平成25)年には桐木憲一原作の『東京シャッターガール』がヒットして実写映画化
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    映画のワンシーン
    現代的な登場例は 2017(平成29)年4月より3期生となった立藤ともひろの作品がWEB漫画サイト「少年ジャンプ+(プラス)」に掲載されてデビューしたことです 立藤の作品『くらげちゃんの初恋』は下記で閲覧できます) https://shonenjumpplus.com/episode/13932016480028966684

    (立藤ともひろ24才の漫画家デビューの紹介は下記で見られます) https://www.youtube.com/watch?v=p2GtsV1ZgMg

    まだ知名度の低い「紫雲荘」の名を冠したこのプロジェクトは後述しますように 気づいた時には「トキワ荘プロジェクト」という名前の立派なプロジェクトモデルが別の場所で既に進行していたので 「トキワ荘」の名は付けられなかったのです

    ◎他の地で先行発生した「トキワ荘プロジェクト」 ! ?
    実は「トキワ荘プロジェクト」の運営は東京・品川区五反田に事務所を持つ特定非営利活動法人の「NEWBERRY(ニューベリー)」という団体(理事長:小崎文恵氏 職員20名)が行っているものです
     そう 東京豊島区に存在する「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」の運営ではないのです
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    「トキワ荘プロジェクト」とは・・
    マンガ家のプロを目指す人たち5~6名がシェアハウスに住みながら 互いに切磋琢磨して成長を加速させることが目的で2006(平成18)年に活動開始
    家電や家具備え付け済で入居時の初期費用や低めの家賃で経済的負担を軽くしている
     
    そのような場所を東京都 千葉県 埼玉県 京都府 に合計20件 定員総数120名規模を保持していて それぞれを「トキワ荘」と呼んでいる(男性専用と女性専用がある) ※京都トキワ荘は京都府からの委託運営
     
    一部にはプロのマンガ家がメンター(仕事上の指導や助言を与える人)として付いてくれる「トキワ荘」もあります
     
    これまでの実績・・デビューしたマンガ家:約80名 トキワ荘入居者:のべ約400名 マンガ関連の指南書的書物も出版して現在4タイトル 協力・提携関係の出版社や大学などは40社以上

    ◎トキワ荘にまつわるエピソード
    トキワ荘が全国的に知られて有名になり始めたきっかけは・・1970(昭和45)年 藤子不二雄Ⓐが自伝的作品の「まんが道(まんがみち)雑誌に連載を開始してからと言われます
     
     しかしトキワ荘の近所の商店街の人や住人はマンガ家たちの存在を当然早くから知っていました それどころか 当時の近所の子供たちは 折りにふれては マンガ家たちに絵やサインをせがんで色紙や紙に書いてもらっていましたので 現在この南長崎の町の中にはお宝のような色紙が多数存在しています
     
    私はマンガをあまり読まなかったので トキワ荘の存在を知ったのは1960(昭和35年)頃に マンガ好きの友人から 「あれがマンガ家たちがいっぱい居るトキワ荘だよ」と教えられたからで その時に私が目にしたのは 周囲の建物の間から見えるトキワ荘の2階の右側面の一部でした
     
    その時のマンガ好きの友人(私とは小学校と中学校が一緒)”は その後 立派なマンガ家 アニメーション演出家になりました それには才能があったとともに トキワ荘の在る街で育ったことも影響していたことでしょう

    その人の名は・・「樋口雅一(ひぐちまさかず)」(ペンネームと本名は同じ)
    樋口雅一とは・・Wikipediaに載るほどの人物で・・アニメーターとして最初は「竜の子プロダクション(現タツノコプロ)」 次に「虫プロダクション」に在籍 1969年にフリーランスとなり この頃からアニメ演出家としての活動も開始(『ムーミン(新)』『昆虫物語 新みなしごハッチ』など) /1977年『まんが偉人物語』のチーフディレクター / 1975年『まんが日本昔ばなし』の演出と原画 / 2012年『ふるさと再生 日本昔ばなし』(一部のキャラクターデザイン、絵コンテ、演出) / 2017年『ふるさとめぐり 日本の昔ばなし』絵コンテ、演出、作画)・・など

    マンガ家としては・・正統派のスタイルで・・
    『まんが聖書物語(監修:山口昇)』/『まんがキリスト教の歴史(監修:中村敏 発行:いのちのことば社)』/『まんがグリム童話(発行:講談社)』/『マンガ メディチ家物語(監修:森田義之 発行:講談社)』・・など
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     ↑私が戴いた本
    現在でもアニメ「日本の昔ばなし」系などの仕事に忙しく 加えて趣味も複数ありで 忙しい様子は氏のブログ『萬雅堂便り』からも読めます
    ・・・・・・・・・・・・
    マンガの聖地については次回にも続けます

    ブログを始めて以来 かつて私が暮らし育った地「東京都豊島区南長崎(旧 椎名町)」に住んだ人たち・・「女優の野辺かほるさん」/「マッカーサーに抗した居合道師範の河野兼光さん」/「巨人軍お抱えの接骨医の吉田寅蔵さん」/「歌手の曽根史郎さん」/そして今も在住される「幸福書房の岩楯幸雄さん」・・を紹介しましたが・・
     
    ◎マンガの聖地・としま南長崎「トキワ荘」
    マンガ好きの方なら当然 南長崎(旧 椎名町)といえば・・「マンガの聖地」であり マンガ家が寄り集まっていたアパート「トキワ荘」が在った町としての紹介が不可欠とお思いのことでしょうから 私も早い段階でとりあげたかったのですが トキワ荘とそこに住んだマンガ家についての情報は 今や大量に出回っていて ちょっとやそっとの情報では陳腐なものになってしまう恐れがあって 躊躇していましたが 触れないわけにもいきませんので あまり知られていないと思われる話を含めてご紹介します
     
    マンガに詳しくない方のために 簡単に紹介しますと(以下敬称略)・・
     
    東京都豊島区南長崎(旧 椎名町)には 1952(昭和27)年に建てられた「トキワ荘」という木造2階建てのアパートがありました (1982=昭和57年に老朽化のため取り壊されました)
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     ↑ トキワ荘全景模型           
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     当時のトキワ荘外観
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       当時のトキワ荘外観        当時のトキワ荘の部屋
     
    ここに1953(昭和28)年に入居したマンガ家の最初が・・手塚治虫(作品:鉄腕アトム 火の鳥など) 
     次に寺田ヒロオ(作品:スポーツマン金太郎など)が入り その後に藤子不二雄の二人組も入居して当初は共同制作していました  (二人はその後別れて・・藤子・F・不二雄(作品:ドラえもん パーマンなど) と藤子不二雄 (作品:忍者ハットリくん 笑ゥせぇるすまんなど)とに それぞれ名前を変えた)
     
    手塚治虫が1954(昭和29)年に転居した後の部屋に最初は藤子不二雄の二人で入居しましたが その後にその隣部屋に藤子・F・不二雄が移り住みました
     
    その他 石ノ森章太郎(作品:仮面ライダーなど)/赤塚不二夫(作品:おそ松くん 天才バガボンなど)/
    鈴木伸一/森安なおや/水野英子/よこたとくお/その他のマンガ家が住んでいました
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      トキワ荘住人のマンガ家を仮想集合させた絵葉書(カメラ持つ鈴木伸一がこの絵の作者)
     
    ◎トキワ荘が在った町の現在の状況
    現在 豊島区と地域団体「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」は「マンガの聖地」を全国にアピールしようと多様な策をこうじてきました・・例えば・・ 
    ・トキワ荘跡地には そのアパートの姿再現した小型モニュメント設置
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    ・近くの公園に同様小型モニュメントと居住したマンガ家達の紹介パネル設置イメージ 12
      
    「豊島区トキワ荘通りお休み処」を開設してトキワ荘関連の資料と そこに居住したマンガ家たちの著作マンガ本も少々備えた“町の観光案内所”とした (飲食物販売提供はありません)
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    ・アクセスする西武池袋線・椎名町駅構内には小ギャラリー設置/同線  ・東長崎駅構内には手塚治虫のマンガキャラクターの「レオとライヤ」像を設置/都営地下鉄12号線・落合南長崎駅構内にはモニュメント設置
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    西武池袋線「東長崎」駅構内
                                     
    ・各種パンフレットやポスター作製配布 /また「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」のホームページやブログでも情報発信中
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    ・マンガ文化に関する各種セミナー開催
    「紫雲荘活用プロジェクト」と称する“マンガ家の卵”を支援する事業(次回ブログで紹介)
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     現在の「トキワ荘通り」(右端はマンガで有名なラーメン店「松葉」)

    ◎各地で”マンガで街興し”マンガミュージアム出現
    今 日本各地には“マンガ関連で街興し”する所やマンガとその関連資料を大量に備えたミュージアムも多数出現しています 例えば・・
    鳥取県境港市には「水木しげるロード」があり 妖怪のブロンズ像は150体を 超えて設置され  毎年250万人以上の観光客が来訪
    宮城県石巻市には「石ノ森萬画館」 
    宮城県登米市は「石ノ森章太郎ふるさと記念館」
    富山県氷見市には「氷見市 藤子不二雄Ⓐまんがワールド」
    神奈川県には「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」
    兵庫県宝塚市には手塚治虫記念館
    兵庫県神戸市には横山光輝関連の「神戸三国志ミュージアム」と「鉄人28号の 巨大像」や「三国志登場武将の巨大像」設置
    その他 有名マンガ家の出身地の多くがアピールしています
     
    京都市の「京都国際マンガミュージアム」は、京都市と京都精華大学の共同運営による漫画の博物館および図書施設 国内外のマンガその他の雑誌や資料を約30万点収蔵 建物は元小学校(昭和4年建造)の校舎を利用し 芝生の庭でマンガも読めます イメージ 14
    京都国際マンガミュージアム内一部(同所ホームページより)
     
    東京都千代田区の明治大学敷地内の「米沢嘉博記念図書館」漫画評論家の故・米沢嘉博氏の蔵書寄贈によって作られた 漫画とサブカルチャーの図書館
    東京都新宿区の「明治大学現代マンガ図書館<内記コレクション>」は 国内で最大級のマンガ蔵書18万点を誇る専門図書館 元々は1978年に 日本で初めてマンガ図書館を設立した故・内記稔夫(ないきとしお)氏が50年以上にわたり収集したマンガの単行本や雑誌 マンガの入門書・評論集・マンガ研究本など収蔵した私設図書館だったものが明大に寄贈されたもの
    東京・立川市の「立川まんがぱーく」は 家族みんなでまんがを楽しめるようにと子供向け漫画から大人が子供時代に楽しんだ漫画も揃っている
    東京・あきるの市の「少女まんが館」は寄贈された約5万5千冊の少女漫画が並ぶ私設漫画館で古い昭和少女漫画から現代少女漫画まである 但し当図書館は完全予約制で期間限定
    岐阜県の「まんがサミットハウス」は娯楽施設「飛弾まんが王国」内にある漫画図書館で約3万5千冊の漫画収蔵 ここでは温泉と食事が楽しめる宿泊施設もある
    広島市には「広島市まんが図書館」が市が運営する漫画専門図書館で 13万2千冊漫画収蔵 その他 漫画の資料や情報を収集・保存し各種行事なども開催
    福岡県北九州市の「北九州市漫画ミュージアム」は 特に九州ゆかりのマンガ家作品収蔵が多く計約5万冊 現代の漫画に関する展示やイベントも開催 また漫画制作体験教室もある
     
    さらには海外にもマンガミュージアムはあり特にマンガ家の人口密度世界一と言われるベルギーは同国の人気マンガキャラクターの「スマーフ」や「タンタン」で日本でも知られていますが 首都ブリュッセルには「ベルギー漫画センター」があり内部に「漫画博物館」や「マンガ図書館」あります このセンターの建物はアールヌーボー様式の大きく立派なものです
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    ベルギー漫画センター内部      
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    マンガ図書館内部(右にスマーフの人形がある)
    ベルギー漫画センター関連内容は「ぱんたれい」さんのブログより一部引用https://reipanta.com/outing/cbbd/
            
    がっかり観光名所の一つにならないための計画?
    前述のように 日本各地のマンガ関連による街興しや施設に比べるとトキワ荘が在った町のアピール度は貧素と言わざるをえない状態です それでも名前に魅かれて全国からマンガファンは来られていますが 来ての正直な感想はなにかもの足りない” ”不満がっかり(マンガッカリ)”という人が多いことでしょう

    ところで 「日本三大がっかり観光名所」と言われるのが・・(1)札幌の 時計台/(2)高知の はりまや橋/(3)(諸説あって) 長崎のオランダ坂 沖縄の守礼門 京都タワー 名古屋のテレビ塔 など
     
    このままでは東京豊島区南長崎の「トキワ荘のあった町」も第四のがっかり観光名所なりかねないので・・数年前からやはり俗に言うハコモノも必要ということで 豊島区と「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」と地元住民との間でトキワ荘再現型施設建設構想計画を練った結果・・
    (仮称)マンガの聖地としまミュージアム」をトキワ荘跡地から200mほど西の現在「南長崎花咲公園」となっている土地に建設が決定して2020年3月完成をめざしています
     
    ふるさと納税制度利用の資金調達
    そこで建設資金調達案として登場したのが・・「ふるさと納税」を利用してもらう方法です
    建設整備費予算9億円の内 1億円を「ふるさと納税」でまかなう算段で 今年2018(平成30)年2月から呼びかけ始めた結果 予想以上の反応で・・10月中旬には7500万円が集まったので 目標を上方修正して2億8千万円にしました

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    「ふるさと納税」案内パンフレット

    豊島区という所は どうも資金作りがウマイようで・・2015年完成の「豊島区役所新庁舎」(地上49階・地下3階建 設計:隈研吾)は 総事業費435(予算GO)億円なのに 公共施設ながら税金を一切使わずに建てられたのです
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    新庁舎(wikipediaより引用)
    新庁舎は「としまエコミューゼタウン」と称して 日本初の官公庁舎と民間住宅施設が一つの建物に同居する画期的な複合施設であり 総事業費の半分以上は 11階から49階までをマンション322戸分にあてて その分譲販売収入で賄い その他 国からの補助や旧庁舎跡地に建設される文化芸術施設「ハレザ池袋」からの敷地賃料等で賄ったのです

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    「マンガの聖地」については次回にも続きます

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