徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    カテゴリ: 日話秘話飛話

    今年(2024)の秋は何故かあちこちで埴輪(一部で土偶)を展示する催しが行われています。
    私の手許に集まった"埴輪、土偶、土器の展示会チラシなど”
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    「特別展 はにわ」 が東京国立博物館で10/16~12/8

    「ハニワと土偶の近代」展が東京国立近代美術館で10/1~12/22

    「旅する はにわ展」が市原歴史博物館で10/12~12/15

    テレビや新聞でも”埴輪”特集が・・
    埴輪特集テレビ番組(NHK eテレ)
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    ↓テレビ番組「はにわ王決定戦」とキャラクター「はに丸」くん(NHK eテレ)
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    その他、展示の一部に埴輪が含まれるのは・・
    「地中からのメッセージ」展が千葉県立房総のむら で9/21~11/17 / 千葉県立中央博物館で12/21~2/9

    「布をまとう 古代人の衣」展が行田市郷土博物館で10/12~11/24

    そして千葉県芝山町では町立芝山古墳・はにわ博物館では埴輪を常設展示している他に、毎年11月の第2日曜日(今年は11月10日)に「芝山はにわ祭り」が開かれ、埴輪の武人など古代人に扮した人々による儀式の披露もされる。↓
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    土偶関連では「ドグウ集まれ!」展があつぎ郷土博物館(神奈川県)で10/12~12/8

    ・・このような中で、私は「旅する はにわ展」(市原歴史博物館)に行ってみたのですが、その動機と言えば私の手許に(冒頭で紹介した)各地で開催の埴輪関連展のチラシが集まった※ことと、岩手県在住の友人が東京国立博物館の「特別展 はにわ」 を見て来たと知らされたので、これは埴輪を見に行かねばならない!と思ったから。

    各地の郷土資料館や博物館、美術館、図書館、などでは互いに連携して期間限定の特別展示の開催案内チラシ類を配備し合うので、例えばある郷土資料館に行けば、そこで各地の多くの展示情報が得られます。

    まずは、私が埴輪と土偶の違いをはっきりとは知らないことに気付いたので・・

    ◎埴輪と土偶の違い
    どちらも日本の古代に造られた土の焼き物だが、土偶の方が年代は古い。
    土偶 : 縄文時代(1万年前~BC4世紀)に祈りや呪術のために作られたもので、人の形が多く、集落跡で見つかる。

    埴輪 : 古墳時代(AD3世紀~7世紀)に埋葬者の墳墓の周囲や上に置かれたもので人物の他、円筒形、動物、建物などの形がある。

    ◎なぜこの時期に埴輪と土偶の特別展が多いのか?
    最も大きな要因は、埴輪として初の国宝となった「挂甲の武人(けいこうのぶじん※”けい“は、てへんに圭)」が国宝指定50周年を迎えたのを記念して、国内外50ヵ所から集められた埴輪を展示する特別展が東京国立博物館で開催されていることでしょう。

    また、千葉県市原市では市内の大規模な「山倉1号墳」(前方後円墳)の発掘調査報告書刊行20周年の節目で、市内はもとより千葉県内各地の埴輪を集めての特別展開催。

    同じく千葉県芝山町では町内の「殿塚・姫塚古墳」出土の埴輪48点が今年8月に国の重要文化財に一括指定されたことで埴輪関連行事が盛り上がっている。

    また同じく千葉県教育振興財団文化財センターは今年11月に設立50周年を記念して旧石器、縄文、弥生期の出土品を特別展示。

    埼玉県行田市では市政施行75周年記念で”布をまとう古代人の衣”姿の一つとして埴輪も展示する企画展を開催。

    これらがたまたま同時期に開催されるカタチになって”埴輪ムーブ”が生まれたのでしょう。

    ◎「旅する はにわ展」(千葉県・市原歴史博物館)見学記
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    ○テーマの”旅する”の意味は・・
    実は千葉県市原市で発掘される埴輪の中には、現在の埼玉県鴻巣市にかつて存在した東日本最大級の埴輪工房である「生出塚(おいねづか)埴輪窯」で焼かれて作られ、直線距離にして約100キロを”旅するように”現在の市原市の「山倉1号墳」(前方後円墳)へ運ばれたものもあることが判明しているから。

    ↓生出塚埴輪窯製の埴輪:左端と右から2番目が山倉1号墳から出土
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    ↓生出塚埴輪窯跡に残されていた埴輪 / 山倉1号墳
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    なぜ遠く離れた二か所の埴輪が同じ場所で作られたことが分かるのかと言えば・・
    (1) 埴輪の見た目のデザインが同一
    (2) 埴輪の胎土(使用の土)が同一(蛍光X線分析で成分同じで鉄分多く、赤味が強い)
    (3) 埴輪の表面に残る「ハケメ(のようなもの)」が同一
    埴輪製作過程で埴輪の着衣などの部分の表面を整えるために板の木口(切り口)を使って撫でるのだが、その際に板の木目による沢山の筋「ハケメ(のようなもの)」が付く。その筋どうしの間隔は、その板の木目のそれそのままであり、その板を使って幾つも作った埴輪は皆同じ筋間隔のハケメがついた仕上がりになることから、千葉県で発掘された埴輪は埼玉県の生出塚埴輪窯でつくられたものと全く同じなので分かる。
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    ○埴輪は二大別される・・
    (A)「円筒埴輪」で文字通り円い筒形。
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    (B)「形象埴輪」で人、動物、建物などをかたどったもの。
    ↓イノシシ / シカ
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    ↓ムササビ
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    ↓水鳥 / 魚
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    ○埴輪につけられている穴の目的は・・
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    埴輪の原型は弥生時代の”墓に供える物を入れる壺を支える台”であるとされ、その台には魔物を寄せ付けないようにするために模様や線がつけられたが、それをさらに強調するために穴を開けた慣例が、その後の古墳時代になって”円筒埴輪の胴部分”や”人物埴輪の台部分”に受け継がれたもので、多くは線や模様無しの穴だけとなっている。
    その穴は考古学では「透孔(すかしこう)」と呼び、形は○、△、□、半円、卍などがある。

    ○3Dプリンターによるレプリカは今後有望!
    今回展示の埴輪1体を非接触でスキャンして3Dプリンターで作られたモノが展示されていたが、触りながら見たい部分も自由にみられることは埴輪を深く知るには大変効果的なので、これから(埴輪に限らず)同様のカタチが広がるでしょう。

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    ◎これも“旅する埴輪”とも言えるのが・・
    前述の東京国立博物館で開催の「特別展 はにわ」の“目玉的展示物”の「挂甲の武人」(挂甲とは鉄板を綴り合わせて作られた甲=よろい)。
    よく似た格好の武人の埴輪5体が全て群馬県から出土したものの、1体は東京国立博物館所蔵でこれが国宝になっているが、その他は群馬、千葉、奈良、そして米国のシアトルの博物館または美術館に所蔵されているものを今回すべて揃えられて東京国立博物館で展示されているので・・
    4体は遠くから”旅をしてきた”ようなもので、特にシアトルからは長旅だった!

    ↓揃った5体。左端が国宝。真ん中がシアトルから一時帰国
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    ○国宝の埴輪
    「挂甲の武人」は日本郵便の切手になっている!
    最初の発行は1972(昭和47)年に全体が茶色の図案で、
    次に1976(昭和51)年に全体が朱色で、
    3度目は1989(平成元年)に埴輪本体は茶色で紫色の背景。

    3度目発行(左)  /  2度目発行 ※茶色に見えるが本当は朱色
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    人間を含めて動物が生きていく上で必ず発生し、しかも大切な”糞”。今回は軽い?お話ですが、お食事前の方は時間をずらしてお読みください !

    こんなお話をするきっかけとなったのが・・

    先日、知人から貰ったものの使わずに15年以上箪笥にしまっておいた”手提げバッグにもなるリュック”(以降文中ではリュック)を取り出して、使ってみようとしたら、なんとまるでウンコのような臭いを発するようになっているではないか!!

    (念のため・・私はクレーマーではなく、かつてメーカー勤務だった経験から、メーカーとユーザーへの参考になればと思う次第です)

    ↓これがそのリュック。デザイン自体はは良いが・・
    (左端は500円硬貨)
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    サムソナイト社製の限定生産品だったようで、同社の商品分類では”バックパック”類に属するが日本では「スタルク バッグ」とも呼ばれた。

    本体寸法は(大まかだが)縦35cm、横27cm、マチ(側面と底の部分)は縮めて6cm広げて16cm
    素材は化学繊維?の布で前面と背面には(たぶん)プラスチック板の心材が入っているようだ。

    ↓ファスナー開閉用の丸い板状のツマミを引いてマチを広げるとこのリュックの容量が変えられる。
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    ↓背面の肩掛け帯は本体に引き込み式で、手提げとして使用時に邪魔にならない。
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    よく見たらこのリュックは有名なデザイナーであるフィリップ・スタルクが手掛けたものと記されていたので、私が即座にそして妙に納得したことは・・氏がデザインした”アサヒビールの建物屋上のオブジェ「フラムドール(金の炎)」が俗に「金色のウンコ」とも呼ばれていることと何かつながっている!

    ↓取っ手の基部には「Samsonite by STARCK」の凹文字が。また本体内部に貼付のタグには 「YAP by STARCH」とも記されている。
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    それにしても何故このような臭いが発生したのだろうか? 経年化学変化かな?

    ◎「フラムドール」(
    俗称「金色のウンコ」)とは?
    東京都墨田区にあるアサヒビール本社ビル横に併存する建物「アサヒグループホール棟」(1階はレストラン)の屋上に設置されたオブジェが「フラムドール」(フランス語で金の炎)(長さ44m)なのですが、建物とあわせて全体では聖火台で燃える炎の姿になっている。
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    アサヒビールのHPによれば、この炎は「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表わしていて、アサヒビール100周年の記念事業の一環として、1989年10月に竣工いたしました。
    設計者は有名なデザイナーである、フランス人のフィリップ・スタルク氏です」とのことだが・・

    浅草の雷門前に立って右を見れば、ちょっと向こうにその金色の炎が目にはいるので今や”浅草名物”としている案内もあり、そのオブジェを見た途端「あっ 金色のウンコだ!」と言ってしまう子供が多い。(大人は、そう思っても口には出しませんが・・)

    ↓雷門の前から私が撮影したもの(右下は人力車)
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    ちなみに、その左側の建物は「アサヒグループ本社ビル」で、全体は「なみなみとビールが注がれたジョッキ」をイメージしていて、金色の鏡面ガラスをめぐらした下層部がビールで頭頂部の白いボコボコは「あふれる泡」を表しているとのこと。(下層階は同社のオフィス、ただし最上部の22階はビールや軽食の展望ラウンジ、”泡の部分”にはショップあり)

    ↓中央が本社ビル。左端は墨田区役所。東京スカイツリーも見える。
    (「ウィキ太郎」氏撮影)
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    ◎フィリップ・スタルク氏とは?
    フィリップ・スタルク(PHILIPPE・STARCK)はフランス人の建築家・デザイナー。欧米では建築家で工業デザインをする人も多い。
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    ↑写真は「ハンスグローエジャパン(株)」のHPから引用

    氏のデザインした例は・・・ホテルなどの各種建築は勿論、
    上の写真で氏とともに写っている水栓(蛇口)、椅子、ソファ、照明器具、キッチン設備、調理器具、スピーカー、オートバイ、大型ヨットなど多岐にわたる。

    ↓レモン絞り器(Google Arts & Cultureより) / チェア(CassinaのHPより)
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    ↓ローテーブル (CassinaのHPより) / バイク(下写真)のメーター部分
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    ↓アプリリアのMoto6.5 (RIDE HIのHPより)
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    最近の自販機の「おつり・返金用レバー」が気になる? !
    写真ご覧になると、すぐお分かりになると思いますが・・そうです! あの金色の○○○に似ています! 色といい、形といい・・私の知る限り東京都と千葉県ではあちこちで見かけます!
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    「チャー」という音が今日も我が家の前から聞こえる。だいたい1日に3~4回。
    それはアイドリングストップのクルマからの音。

    そこで思い出すのは私の昔の苦い経験・・それをご披露する前に・・

    ◎アイドリングストップとチャー音
    (クルマを運転しない人のために説明しますと)アイドリングとは、クルマが走行停止時でもエンジンは止めないで動かしている状態のことで、

    これに対して、クルマが走行停止するたびにエンジを(自動的に)停止するのがアイドリングストップ。

    実際には、アイドリングストップ機能を備えたクルマ※が交通信号や交差点で、また歩行者がいる横断歩道の手前で、あるいは渋滞で一旦停車する場合にこの機能が働き、一旦停止したエンジンはアクセルペダルを踏めば再び始動してクルマは走り出します。
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    ※ただし、アイドリングストップ機能はスイッチ切り替えによって、それを働かせないで一時走行停止時でもエンジンがストップしない選択もできるようになっています。

    アイドリングストップ機能の解除スイッチボタンの一例 (「乗りものニュース」より)
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    冒頭の「チャー」※という音は、アイドリングストップのクルマが一旦停止した次に再び走り出す際に出る音で、実はそれ、エンジンの音ではなくてスターター(エンジンを動かし始めるための装置)の音。

    ※「チャー」音は単純ではなく、言葉で表現するのが難しく、各社・各車違うようでもあるので”チャーのような音”としました。

    我が家は住宅地の中の4メートル道路どうしが交差している角地にあり、信号は無いのですが一時停止標識とともに道路上に停止線があるので、アイドリングストップのクルマが一旦停止した後に発進する際に「チャー」音を聞くことになるもので、
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    近年のクルマのエンジン音は静かなので(我が家の中に居ては)この音は聞こえずにスターター音だけが聞こえるわけです。

    ◎最近はアイドリングストップ機能廃止の流れ
    アイドリングストップは燃費向上やエンジン音の騒音防止に効果があるとされて、今から20年前頃からこの機能付きのクルマが多く生産されてきましたが、

    最近になってホンダ、トヨタ、ダイハツなどの自動車メーカーは、 ガソリン車のアイドリングストップ機能を廃止し始めて、例えばホンダではミニバンの「フリード」、小型ハッチバック車「フィット」、小型SUV車「ヴェゼル」などは従来は付いていたこの機能を廃止して、小型SUV「WR-V」は最初からこの機能を不採用。

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    フリード(左) / フィット(中) / ヴェゼル(右)

    トヨタでは小型ミニバン「シエンタ」、小型ハッチバック車「ヤリス」など。

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     ↑シエンタ(左) / ヤリス(右)

    ◎アイドリングストップ機能廃止の理由
    ・アイドリングストップのクルマは一時停止状態から動き出すまでにちょっと”もたつく”。それはアイドリングストップ機能無しのクルマと比べると、”スターター装置が動く時間の分”が余分にかかるから。
    この“もたつき”を嫌う人も少なくないし、安全上 瞬時に発進したい時などには困る。

    ・一旦停止から発進する際の音”チャー”と同時に起こる車体の振動が嫌われる。

    ・アイドリングストップ機能の有無による燃費向上の差が少なくなった。この機能導入開始の頃に比べるとクルマ自体の燃費が向上してきたため、今やこの機能の有無による燃費の差は1リッター当たり1km以下とも言われる。

    ・アイドリングストップのクルマのバッテリーは負荷が大きくかかるために、より高性能な専用品が使われ、しかも寿命が短め。

    したがってこのクルマの持ち主は高価なバッテリーを短期間で買い換える必要が出てくる。そうなるとアイドリングストップで燃費節約、石油資源節約となるものの、専用バッテリー製造にかかる資源やエネルギーコストが余分にかかって環境マイナス要因となってしまう。

    ◎58年前に私がアイドリングストップを実行した結果は?
    1966(昭和41)年のこと、私は東京都の練馬区(あたりだったか?)の道路をクルマで走行中に、ふと”ガソリン代※を節約するためには信号待ちをする間はエンジンを切ってみよう”と思いついて、信号待ち毎に (当時のことだから)手動でエンジンキーを回して切っては、青信号で発進することを繰り返したところ、

    5回目(だったか?)で、発進しようとキーをまわしたら「クウッ・クウッ・クウッ」という音がし始めてエンジンがかからないので、「これはまずい!」とあわててキーを何回かまわしてみたら何とかエンジンが動いた。

    同時にこれはバッテリーに負担がかかった結果と悟って、すぐにこの”アイドリングストップ”行為を中止したのでした。これは私の”苦い経験となりました。

    東京都内のことなので200メートルくらい走行してはエンジンを停止してはまた始動したりを繰り返したのがいけなかったわけで、

    クルマというものは発進時にスターターが働いてバッテリーの電気を喰うものの、その後の走行中のエンジンの回転を利用したダイナモ(発電機)で発電した電気をバッテリーに充電するシステムになっているので通常は問題ないのですが、

    200メートル走行ごとにバッテリーの負担を繰り返せば、その間の充電が追い付かなかったのです。まあ昔のことでバッテリーの性能も現在よりも若干劣っていたかもしれませんが・・

    この経験がある私は、近年にアイドリングストップのクルマが登場したのを知った際に「これはバッテリーに負担がかかるはずだから大丈夫なのかな?」という心配をしていたところでした。
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    当時はレギュラーガソリン1リッター38円前後でした。但しサラリーマンの初任給が現在の約1/10だった時代のこと
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    ある日のこと、私の知人の身に、見たことも聞いたこともない症状が現れて慌てる事態が起こった。その状況は後述しますが、思い起こせば私自身も昔に似たような経験をしていたもの。それは・・

    ◎「一過性全健忘症」 !
    何の前触れもなく突然、脳の中で記憶する機能が停止して、その状態が30分~24時間続き、また突然に正常に戻るのだが、その間の記憶は完全に無いという症状が「一過性全健忘症」。
    この症状の原因は現代医学でも解明されておらず、40才代~70才代に多く現れ、どちらかと言うと男性のほうが多いそうで、さらに不思議なことにこの症状は一生の内に二度と現れないのだそうだ。

    ◎突然発症、突然消滅の実際 !
    その日、私と知人Aさん(70才代・女性)とBさん(40才代・男性)の3人はクルマで千葉市に在るスーパー銭湯に行き・・

    浴後に揃ってそこの食事処で早めの昼食を始めようとした際に、Aさんが突然に「(脱衣)ロッカーに忘れ物をしたみたい」と言って確認しに行ったが、暫くして無表情で戻ってきたと思ったらまた「忘れ物がある」と、同じような事を言って同じ行動をして同じような顔つきで戻ってきた。それは午前10時半ころのことだった。
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    私とBさんはAさんが2回目の同じ行動をして席をはずしている間に「これはおかしい。急に認知症が出たか?」と言って動揺したが・・

    Aさんが再び戻ってきた時には料理が運ばれてきていたので、Aさんにも「とりあえず食べよう」とうながして、途中(内容は忘れたが)二言三言の会話しながら食事を終えたところで、Aさんの行動の安全を考えてそこでの入浴を切り上げて・・

    次に皆でやはり近くのスーパーマーケットで買い物をしたのだが、今度はその店内を巡りながらAさんは「何か無くなったような気がする」と言って持っているバッグの中に手を入れてしきりに何かを探る動作。これを20分くらいの間に3回繰り返した。

    最後に喫茶店でコーヒーを飲んでいる最中には、Bさんに向けて「○○さんは元気なの?」、「○○さんの次の勤め先は決まったの?」(※○○さんはBさんの奥様のことで、転職先を探していた)・・という問いを発するのでBさんはそれに答える・・という同じやりとりを、これも20分くらいの間に3~4回繰り返した。
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    Bさんはこのような場合の対応を心得ていて、Aさんが同じ問いを繰り返しても、決して「それはさっき言ったでしょ」とは言わずに普通に返答を繰り返した。

    さて、ここでそれぞれ帰宅することになったがAさんの現状では放っておけないので私がAさんの自宅までクルマで送ることになった。

    車中でもAさんはまた「○○さんはどうなったのかな?」という言葉がまた出たほかはあまりしゃべらなかったが、クルマがAさん宅に到着する10分前くらいになって、急に元気な話し方になってよくしゃべるようになった。実はAさんはこの異常状態になってからは話し方に覇気が無く、従来の大声気味も消えていたのだが、どうやら元に戻ったと感じた。その瞬間が訪れたのは午後3時半ころで、発症から約5時間経っていた。

    こうして私はAさんを送り届けたが、Aさんの言動はまったく普通に戻っているようで不思議に思いながらも安心した。

    後日、会ってみたら会話も体の動きも以前と全く変わらないので、あの異変があったことが信じられない思いだった。

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    しかし、あの日の5時間分の記憶はまったくないそうで・・
    ・浴場にあった何種類かの浴槽とサウナのどれに浸かったが記憶に無い。
    ・二度もロッカーに行って捜し物をしたことの記憶は無い。
    ・食事で何を食べたか記憶に無い。(本人曰く「だからせっかく美味しいものを食べた意味がなかった!」)
    ・歩きながらバッグの中の捜し物をした記憶無し。
    ・喫茶店に入ったこと自体が記憶に無い。
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    ・・ということだが、その間に私が見たAさんの動作は・・しゃべり方は(多少覇気がなかったが)まあ普通で、ろれつが回らないことも無く、食事動作も普通で、歩いてもふらつきなど無い状態だった。

    しかも前述のように、記憶機能に関しては今回の発症前の記憶は消えていなかったから、それまでの心配事だった”○○さんの近況”を問う言葉が出たりしていた。     

    しかし当然のようにAさんは翌日に病院でMRI検査もしての診断をしてもらった結果は・・「一過性全健忘症」と言われたとのこと。

    お医者さん曰く「この症状の原因は解明されておらず、海外で若干の研究結果が発表されているものの信用はされていない状況です。ただこの症状は一度はあっても二度とは現れないとされていて、現に私がこの症状を診た数人の中にも、二度受診に来た人はいませんよ」・・だったそうです。
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    後から私は思うに、最初は”ああ、認知症になったか?”と思えたこの症状ですが、明らかに認知症とは違うのであって・・
    (1)認知症はゆっくりと現れるのに対して「一過性全健忘症」は突然発症。
    (2)認知症は記憶力が決して元に戻らないのに対して「一過性全健忘症」は完全に元に戻る。

    ◎ひょっとして、これが誘因か?
    ちょっと"伏線回収"的になりますが、ネットで調べると"一過性全健忘症の根本原因は不明だが、この症状が起きやすい状態、言い換えれば誘因”と考えられる例がいくつかあげられていて・・精神的ストレス時、過度な飲酒時、特定の薬や違法薬物摂取時、性交時、排泄のための"いきみ"時、そして突然の高温湯や冷水に浸かった時などがあるとされる。

    この最後の項目の"高温湯と冷水"というのは、前述のようにスーパー銭湯に入ったAさんに当てはまるかも知れない。もしかして高温サウナの直後に冷水浴槽に入ったかもしれないが、なにしろご本人の記憶が全く無いのでこれ以上確認できないが、有り得ることと考えられます。

    とにかく「一過性全健忘症」という名称が存在するということは、この症状が珍しくはないということで、これが一人暮らし、そうでなくとも一人で部屋に居る時、クルマの運転中などに発症すれば危険を招く恐れがあるものなので、この「一過性全健忘症」というものがあることは皆さん認識しておく必要があるでしょう。

    ◎私が昔に経験した”一時的記憶消失”?
    今から約半世紀前のことで、もう時効だからお話しますが・・私は深夜の酒気帯び運転の最中に全く記憶が無い状態があって、あやうく昇天(悪いことしているから天国は無いか?)するところで覚醒したことがあり、これは前出の「一過性全健忘症」と似るものの、原因が明らかであるから違う話ですが、絶対にやってはいけないと自戒をこめて・・

    1976(昭和51)年のこと、ある夜に私は当時住んでいた兵庫県加西市から大阪府寝屋川市に在る(知人が経営する)スナックに向けて、(免罪符にはならないが)”若気の至り”で無謀にもクルマで行き、サントリーオールド(ウイスキー)の水割りを2杯(だったか?)飲んで、帰ろうとしたのが深夜2時ころ(だったか?)。
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    普段ならこれぐらいのアルコール量なら酔わないのだが、深夜の睡魔を想定していなかった状態で、再びクルマに乗って走り出したところまでは覚えているが・・

    ふと気が付いて(後から考えると、居眠り状態から目が覚めて?)バックミラーを見ると、直ぐ後ろを走っている大型トラックがさかんにライトを上向きと下向き交互に切り替えて私のクルマに注意を与えているではないか!

    事の重大さに気が動転しながらもクルマを路肩に一旦寄せてまず反省の念が頭の中を支配したが10分ほど気持ちを落ち着かせながら休み、再びクルマを走らせたが今度は頬をつねったり、叩いたりしながらなんとか帰り着いた。

    後から思い返すと、スナックからの帰りには最初は一般道を走り、次に中国自動車道へ入るのだが、いくつか在る入り口のどこから入ったのかからして記憶に無い。

    実は帰路の全走行距離は約70キロで、その内のおよそ60キロが中国自動車道の走行であり、”走行中にふと我に戻った”のは大阪の吹田インタチェンジから入ったとして約50キロも走っていた地点であり、時間にして約1時間だろうか、その間の記憶が全く無いという恐ろしいそして馬鹿な行動”酒気帯び居眠り運転”でありました。
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    助かったのは信号のない自動車専用道路でしかも元々交通量が多くない中国自動車道の深夜なので他のクルマが極端に少なかったからでしょう。そして幸か不幸かパトカーがいなかった。
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    もしもの結果になっていれば私はここでこの報告もできないことになっていたものの幸い生きているので、あえて”愚行の見本”の一つとして述懐する次第です。
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    P.S. タクシーの運転手さんから教えてもらった話では「酔っ払い運転のクルマは、走行のフラつきよりも、走行スピードが一定しないほうが多い」ということなので、昔の私の愚行運転も走行スピード不安定で注意喚起されたのでしょう。
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    日本発祥の「ペロブスカイト太陽電池」は、その優秀さから今や全世界で開発、改良が進められ、一部の国では商品化され始めた。

    この太陽電池の要であるのがペロブスカイトで、それを構成する成分の中でも重要な「ヨウ素」は世界的規模で千葉県において大量に産出するので今後は産業としても大いに期待される。

    現在の日本では「地産地消」という名のキャンペーンが各地にありますが、千葉県ではそれをモジって「千産千消」としているものを「千産千勝」とでも言えるような展開になりそう。

    ◎ペロブスカイトとは
    (A)メチルアミン(など) (B)鉛(など) (C)ヨウ素の3成分からなる結晶体で、これを太陽光発電用に使ったものがペロブスカイト太陽電池で日本の宮坂 力(みやさか つとむ)桐蔭横浜大学特任教授が発明した。
    このペロブスカイト太陽電池は多大な特長を有しているために、氏はノーベル賞候補と言われている。

    ◎ペロブスカイト太陽電池の特長
    1)フイルムなどに塗布または印刷して簡単に安価に製造できる

    2)薄くでき、軽くでき、曲げることができるため、形体や設置場所の自由度が高くなる
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    (↑真は東芝のHPより)

    ↓日よけ・目隠しにもなる発電シート試作品(写真は積水化学工業のHPより)
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    3)重要素材であるヨウ素が日本では豊富に産出される→詳細次項へ

    ◎ヨウ素とは
    英語表記:iodine 元素周期表における元素記号:I(アイ) 原子番号:53 個体で非金属

    ヨウ素は人体の必要素の一つであり、一般的には海水に含まれ、海中で育つ昆布やワカメなどの海藻類には濃縮されて多く含まれる。その他には硝石(鉱物)や(後述の)かん水に含まれる。

    ヨウ素含有製品:うがい薬(イソジン)、消毒薬(ヨードチンキ:但し昨2023年に製造中止。理由は乳幼児あるいは大人でも弱い皮膚から大量吸収された場合に甲状腺疾患を発症すること、近年は消毒薬として代替的製品のマキロンなどが登場しているから。なおイソジンも頻回使用すると甲状腺疾患の恐れありとされる)

    ◎ヨウ素の世界的な産地である千葉県
    世界のヨウ素の年間生産量約3万4000トンのほとんどをチリと日本が占めていて、チリが1位で2位の日本はその約3割に当たる1万トン生産。そして日本の生産量の約8割を千葉県が占めるので・・世界のヨウ素生産の約4分の1を千葉県が占めていることになる。

    しかも可採埋蔵量は約400万トンなので従来の生産ペースであれば500年続けられる。

    ◎実は千葉県のヨウ素は天然ガスと一緒に産出
    千葉県のおよそ7割?の面積の地下の地層の隙間には、水溶性の天然メタンガスとヨウ素が含まれた太古の海水が存在していて、その海水のことを「かん水」と言う。(ガス埋蔵地域は大部分を占める千葉県の他に神奈川、埼玉、茨城の各県と東京都の極一部が含まれ「南関東ガス田」と称される)
    ↓南関東ガス田(ベージュ部)(茶色部は主な採取地帯) (天然ガス鉱業会のHPより)
    gas-map

    千葉のかん水に含まれるヨウ素は普通の海水の2000倍の高濃度。

    同じくかん水に含まれる天然ガス年間生産量は約4.4億㎥で、現在生産ペースで約800年もつとされ、県内の家庭や企業にはこの地産の天然ガスが地元の「大多喜ガス(株)」などから供給されている。

    地産地消の天然ガス料金は東京ガスよりも3~4割安で、しかも過去10年間値上げされていない。
    おもしろいことに、国内のヨウ素生産量は1位が千葉県、2位は新潟県。対して天然ガス生産量は1位が新潟県(77%を占める)、2位は千葉県

    ◎自然に湧き出る天然ガスのありがたさと怖さ?
    商業的には地下1000m~500mからかん水を汲み上げて生産される天然ガスだが、千葉県の太平洋側の九十九里地区から内陸にかけての範囲にある大多喜町、茂原市、大網白里市、山武市(さんむし)、横芝光町(よこしばひかりまち)などにまたがるゾーンでは地面や川底から湧き出ている場所が多くある。
    ↓川底からの天然ガスの泡が水面に出ている様子(千葉県睦沢町=むつざわ)
    gas-bubble
    (写真は「読売新聞オンライン」より)

    千葉市にある土気町(とけまち)という地名は、その土地では何やら燃える気体(天然ガス)が出ていたことが由来と言われる。

    現在、前出のゾーンではガス会社とは契約せずに自宅敷地に掘ったガス井戸から天然ガスをとりだして使っている家庭が少なからずある。

    ↓自家用のガス井戸 (空気より軽いメタンガスを溜める筒が中央にある)
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    (画像はNHKテレビ「小さな旅」より)

    田んぼに鉄パイプを突き刺すだけで天然ガスが出るところもある。(下写真)
    ↓農作業の途中でお湯を沸かして一服(茂原市:岩波写真文庫「千葉県・新風土記」より)
    natural-gas1

    ↓地中から直接の天然ガスは9000キロカロリーと高い(ガス会社は3600キロカロリーに抑えて供給) 
    (茂原市:岩波写真文庫「千葉県・新風土記」より)
    natural-gas22

    気付かぬうちに天然ガスが室内に充満して引火で爆発!・・
    千葉県山武郡九十九里町に在った「九十九里いわし博物館」は2004(平成16)年に爆発事故が発生して損壊大きく1名死亡、1名火傷で重症を負った。
    原因は敷地内から自然湧出していた天然ガスが当時使用していなかったエアコンの配管を通って館内に充満していたことに気付かずに(本来の天然ガスは無色無臭。ガス会社供給時には加臭)燻煙殺虫剤に着火しようとして引火爆発したもの。
    ・・・・・・・・・・・・
    ※ペロブスカイト太陽電池の詳細は・・資源エネルギー庁のHP
    ・・・・・・・・・・・・・

    「bias=バイアス」は辞書によれば、「先入観、偏見」 「斜め、斜線」。

    私が知る”「バイアス」という言葉が登場する分野"は3種類あり・・

    (1)先入観や偏見ある行動分野
    (2)斜めに裁断または編む裁縫分野
    (3)電子機器などの電流・電圧の回路設計分野

    “文”量が多くなるので(2)と(3)については概略を後記することにして、今回は(1) の”先入観、偏見”について・・

    “先入観、偏見というバイアス”に着目した理由は・・先回に”神棚をもうけている家庭の存在はすべからく減少に向かうであろうと大多数の人が思う”先入観”がある中で、漁業従事者の多い地など一部の地域では神棚が必ずそなえられ、しかも廃れない(減少しない)”という事実があることをご紹介したことに関連するからです。
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    神棚の例 (総檜作り 165万円:「大越仏壇」社オンラインショップより)
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    仏壇の例 (名古屋型台付き 365万1340円:「こころあ堂」社オンラインショップより)

    以前にも記しましたが”漁業従事者が多いある地区での調査結果のデータがここにご紹介できない”のですが、”一般的な広い範囲を対象とした調査結果”はいくつか発表されていて・・

    ◎神棚と仏壇の保有率と推移
    公益財団法人 庭野平和財団が行った調査(※詳細後記)では1999年に1345人、20年後の2019年に1203人から回答を得た結果・・

    〇「神棚」保有率49%→35.6%へ減少。(20年間で13.4ポイント減少)
    〇「仏壇」保有率53.6%→44.9%へ減少。(20 年間で8.7ポイント減少)

    上記から「仏壇」の方が「神棚」よりも保有率が高く、また減少率も緩やか。

    〇「神棚」の保有率は都市規模によって著しく異なり、
    「郡・町村」がもっとも高く(48.3%)、
    「東京特別区(東京23区)」が20.8%と最低。
    「郡・町村」での「神棚」の保有率は高いものの、74.3%→48.3%へと26ポイント減少。

    〇「神棚」の年齢別の保有率を20年前と比較すると、全世代で低下している。

    ※当調査方法詳細
    《 調査の概要 》 < 2019 年調査> ・調査日 2019 年6月7日~ 16 日 ・対象者 住宅地図による満 20 歳以上の男女 4000 人(層化副次(三段)無作為抽出法) ・実施方法 個別面接聴取法(官製葉書による事前協力状送付) ・有効回答数 1203 人(30.1%) ・回答者内訳 男 46 %、女 54 %▽ 20 歳代 11 %、30 歳代 13 %、40 歳代 18 %、50 歳代 16 %、60 歳代 17 %、70 歳代 26 %▽ 21 大都市 28 %、その他の市 62 %、郡・町村 10 % ※本調査は庭野平和財団「日本人の宗教団体への関与・認知・評価に関する調査」による調査で、世論調査の実 施は社団法人中央調査社に依頼して行われた。 参考 < 1999 年調査> ・調査日 1999 年 11 月 11 日~ 14 日 ・対象者 住民基本台帳による満 20 歳以上の男女 2000 人(167 地点、層化二段無作為抽出法) ・実施方法 個別面接聴取法(官製葉書による事前協力状送付) ・有効回答数 1345 人(67.3%) ・回答者内訳 男 45 %、女 55 %▽ 20 歳代 11 %、30 歳代 17 %、40 歳代 19 %、50 歳代 21 %、60 歳代 33 %▽ 13 大都市 23 %、その他の市 54 %、郡・町村 23 % ※本調査は文部省科学研究費「日本人の宗教意識と行動」(代表者・阿部美哉國學院大学教授)によ る調査で世論調査の実施は社団法人・中央調査社に依頼して行われた。

    ◎自宅の仏壇と神棚保有率
    Sirabee(調査会社)が2023年に全国10〜60代男女1000名を対象に調査した結果・・

    〇仏壇と神棚両方ある・・16.4%
    〇仏壇だけある・・・・・・・・18.0%(仏壇保有率34.4%)
    〇神棚だけある・・・・・・・・ 8.7%(神棚保有率25.1%)
    上記から
    〇仏壇と神棚どちらかが有る・・43.1%
    仏壇と神棚どちらも無い・・・・56.9%

    〇独居(一人暮らし)世帯のほうが仏壇・神棚の保有率が高い
    仏壇・神棚のどちらも無いのは・・
    家族で住む世帯・・67.2%。 
    独居世帯・・・・・47.6%

    この結果を受けてSirabee社のコメントは・・「核家族や夫婦2人家庭などでは、神棚はもちろん仏壇を置くスペースも確保しづらいだろう。一方、高齢者の独居が増えており、以前から仏壇や神棚が備えられた家に住み続ける、といった現状になっているのかもしれない」としている。
    ※Sirabee社の当調査結果グラフなどは・・

    以上にご紹介した”神棚・仏壇保有率に関する調査結果”は”大勢として保有率は減少傾向だろうし、都会より居住面積が大きめの田舎での保有率のほうが若干は多いだろう”という先入観に沿ったものになっていますが、これが(冒頭記述のように)日本の全ての状況を表してはいない。

    このような調査は「バイアスがかかった調査」という言いかたをされます。

    ◎最近の調査対象者の性別バイアス?
    私は現在、ネットによるアンケートサイトを持つ6社に登録して多数の回答をする毎日ですが、各アンケートでは最初に必ず回答者の属性(性別、年齢、居住都道府県、就業形態、既婚・未婚・離死別、戸建てなど住居形態、場合により個人年収、世帯年収など)を問われますが・・

    ここ1年くらいの内に変化した項目がいくつかあり、従来は就業形態の選択肢の中の「無職」は、同じ無職でも「年金生活者」が別に登場し始めているなどある中で、性別回答選択肢は多様化してきて・・

    「男性/女性」///「男性/女性/その他・回答しない」///「男性/女性/その他/回答しない」/// 「男性/女性/無回答」///「男性/女性/分からない/答えられない・答えない」///「男性/女性/ノンバイナリー・第三の性別/回答したくない」///「(あなたの戸籍上の性別をお答えください)男性/女性」

    こうなると、選択肢として男性/女性の二項一択では、それにあてはまらない人からの回答が期待できずにバイアスがかかった調査になる。

    ◎その他のバイアス注意例(1)「シニアのパン食」
    seniors
    シニア層は和食志向が強いと思われがちだが、特に朝食はパン食が少なくない。
    bread

    (A)
    65才以上の男女148人:1997年 三洋電機による調査によれば・・

    シニアの朝食の主食は・・

    「常にパン:29%」、「パンが多い:6%」と”パン派と言える人が3割強”

    その他「パンとそれ以外が半々:12%」 「パン以外が多い:15%」なので・・
    「朝食にパンを食べることがあるシニアは62%存在する」ことになる。

    ※朝食に「パンは食べない:34%」と「パンとそれ以外半々」、「パン以外多い」、「パン多い」からすると・・
    朝食に”パン以外“を食べることがあるシニアは67%存在とやや多いことにはなる。

    なお、シニアの昼食にパン食は少なく、麺・パスタ類も多くこの傾向は中年層と変わらない。夕食は年齢にかかわらず”白いご飯”が多い。

    (B)
    50~70才男女229人:1997年5月~6月 三洋電機による(先記(A)とは別調査)では・・

    パン派のほうが多い結果が出ていて・・
    朝食にパンを食べることがある・・・・・・68.1%
    朝食に米飯・その他を食べることがある・・54.6%

    この傾向は女性でしかも高齢になるほど顕著で、
    朝食に食パン又はバターロールなどパンを食べるのは・・
    70才代の男性・・46.9% 
    70才代の女性・・75.8%

    ※別の”ある聴き取り調査”で”シニアが朝食でパンを食べる理由は「心情的にはお米のご飯食べたいが、それは胃にもたれるから”という声があった。ただしこの状態は”あまり体を動かさない生活をする人たちに起こるものであって、畑仕事などで体を使う人たちにはあてはまらない”

    ◎その他のバイアス注意例(2)「シニアの早寝・早起き」
    futon-bed
    昔から「年寄りは早寝、早起き」と言われてきたが、実際は若い世代とかわらない。
    senior-kirakira

    (ア)
    50~70才男女229人:1997年(前記(B)と同時調査)では・・

    以下のそれぞれ3時間に集中。ピークは就寝が23時台、起床は6時台

    〇就寝時刻・・22時台14.9% /
    23時台41.9% / 0時台23.6%
    〇目覚め時刻・・5時台27.5% / 6時台46.7% / 7時台14.9%
    〇寝床(ベット出る)時刻・・5時台15.3% / 6時台43.7% / 7時台26.2%

    (イ) 40,50,60,70才台 首都圏在住の男女1200人:1997年4月~5月 自記式留置法による調査((株)SRIコンサルティング社が担当、調査依頼社:三洋電機)によれば・・

    各年代すべて(やはり先記(ア)と同様)以下のそれぞれ3時間に集中。ピークは就寝が23時台、起床は6時台)(下記は小数点以下四捨五入)

    〇就寝時刻・・40才台:22時台11% /
    23時台37% / 0時台33%
           50才台:22時台14% / 23時台44% / 0時台22%
           6
    0才台:22時台25% / 23時台43% / 0時台10%
           7
    0才台:22時台28% / 23時台30% / 0時台12%

    〇起床時刻・・
    40才台:5時台 9% / 6時台44% / 7時台33%
           50才台:5時台13% / 6時台43% / 7時台28%
           6
    0才台:5時台16% / 6時台38% / 7時台29%
           7
    0才台:5時台11% / 6時台38% / 7時台36%

    ※参考:日本人の平均 就寝時刻:23時12分 /  
    起床時刻:6時32分  
    ・・・・・・・・・・・・・
    (2)斜めに裁断または編む裁縫での「バイアス」
    裁縫において布の織り目に対して斜め45度に裁断することを「バイアス裁断」や「バイアス裁ち」と言い、そうしてできたものを「バイアス布」や「バイアス生地」と言い、

    織り目に沿って縦または横に裁断した布に比べて”引っ張れば格段に延びる”特長を発揮するようになるもので、

    「バイアス布」を使って細い帯状に加工したものを「バイアステープ」とするものもある。

    編み物において斜めに編んでいく方法を「バイアス編み」と称し


    その特長は”斜めに編んでいくことで、(通常は服作りなどで胴体部と袖部を別に作って後に両者をつなぐ作業が必要だが)胴体部も袖部も一気に作り上げてしまう手法”で”一般の服のようにつなぎ目が分厚くなってゴロゴロする“ようなことがない。

    バイアス編みのセーター(RandYカンパニー社の通販ページより)
    bias-knit1

    胴体部分(みごろ)と袖のつなぎ目が無い(「空色テーブル編み物レッスン」ブロブより)
    bias-knit2

    (3)電子機器などの電流・電圧の回路設計分野での「バイアス」
    電子機器などの回路設計においてよく使われる言葉ですが、私にはチンプンカンプンなので、「ヤフー知恵袋というサイトでのある質問者への回答が「fried tumip」さんからなされている内容を転記させていただきます。(私はこれでも理解できませんが)

    『バイアス(bias:偏り)という言葉は電圧や電流など色々な場面で使われます。 電圧の場合には一般に中央が0Vの偏りの無い信号を、偏った信号にするために加える電圧のことを言います。

    例えば、+4V~-4Vの交流信号に、5Vのバイアス電圧を加えると、+9V~+1Vまでの直流信号になります。波形は維持したままで電圧の中央が5Vだけ偏った信号になります。

    直流で動作する電子回路で交流信号を処理する時には、バイアス電圧を加えて直流信号にしてから処理します。その後必要なら交流成分だけを取り出します。』
    ・・・・・・・・・・・・・
    ◎「ステレオタイプ」と「バイアス」のちがい?..........
    これについてはよく分からないのでネット上で調べたら、その解釈は多様でちょっと混乱気味。そこで私なりに大体のところをまとめると・・

    「ステレオタイプ」と「バイアス」のどちらも「先入観」や「偏見」を内包するものだが・・

    ステレオタイプとは、多くの人に浸透している固定観念や先入観、偏見などの意識のことを指す。言わばそれがアタマの中、心の中に在るもの。

    「バイアス」とは、固定観念や先入観、偏見に基づく意識が言動に反映された際に、それを「ステレオタイプに基づいた(言動)」と言わずに「バイアスがかかった(言動)」と表現される。

    ただし、意識せずとも結果的に「偏り」がある言動も「バイアスがかかった(言動)」と言われる。例えば、何かの調査の際にネットだけを利用してアンケートをとった場合などは、回答者の属性は”ネットにアクセスできる人たち”に限られるという偏りが発生。

    そしてよくあるケースが・・
    ”都会の中で都会生活者だけを対象に調査”することで、例えば農漁村を除外することになって、地方性に気付かないことで偏りが出ていることがその調査の性格と目的によっては問題になる。(先記の就寝時刻・起床時刻調査対象を首都圏在住者としたのもバイアス性ありと言えますが・・)

    時々あるケースが・・
    質問に対する回答欄で、質問者側が提示している回答選択肢の中に回答者が答えようとする項目が無いということがあること。具体的に言えば・・「回答をA、B、Cの中から選べとした場合に実は別にDにあたる選択肢もあるという欠陥質問が時々ある。

    これを回避するために、回答選択肢の最後に「その他」という項目を設けて、"その「その他」とは何なのかを記入する欄"をもうける場合が多いのだが・・

    ※「ジェンダーバイアス」は特別?
    最近頻出する「ジェンダーバイアス」という言葉は、どうやら"ジェンダーという男女に関する従来通念を心(アタマの中)に持つだけで、それを言動に出さずともバイアスと称する"ようで、そういう解釈、見解、説明がネット上を占めています。まーそもそも「ステレオタイプ」と「バイアス」は不可分的なものですから違和感はないようなものですが・・
    ・・・・・・・・・・・・

    日本の神道(しんとう※1)における神様と仏教における仏様。それを身近に拝めるのが、神道では祠(ほこら※2)や神棚、仏教では仏壇ですが今回は神棚にちょっと注目。

    ※1
    :神道を「しんとう」と読むと意味は”日本古来の土着信仰”。「しんどう」と読めば”神(そのもの)”又は”墓所の道”の意となる。
    2:一部には仏教に属するお地蔵さま(地蔵菩薩)を祀る祠もある。

    ↓神棚の例(左) / 仏壇の例(右)
    kamdna-butdan
    画像は左:楽天市場より/右:「メモリアルアートの大野屋」のHPより引用

    ◎漁業従事者の家には必ずと言っていいほど神棚がある
    原始より日本人は山、海、火、雷、滝、巨木、疫病など万物に(近年はトイレにも?)神が宿るので”やおよろず(八百万)の神”がおわすという観念があるが、中でも海、川、湖などで漁をする人達は神様に豊漁を願うと同時に、「板子(いたご)一枚 下は地獄」と言われるほど危険な船での無事を祈願することは必須となるので自宅には神棚が必ず設けられる。

    そして船(漁船に限らず船全般)の中にも神棚設置の例が多い。

    ”ある漁村を対象に調査したら神棚の保有率が100%”だったという資料を読んだことがあるが、

    そこでもう一つの特徴として挙げられていたのは”神棚の保有は老若に関係なく、しかも時代が変わっても行われる”ので年寄り世帯のみならず20才代の世帯でも神棚は在るという状況は変わることがないということ。 

    この事実は、日本全体の近年の神棚の保有率が減少傾向にある中で見落とされがち。
    (他の地域と同様にこの漁村でも神棚とともに仏壇も有る家もあると思われるが割合は不明)

    ◎漁村の神道ゆえの「奥津城」(おくつき=墓)
    前述のように漁村では”生きるための糧と命の守りのためという切実な願いは神様にすがる”ことになるから、自ずとこれは神道のカタチとなる。

    一般的には墓と呼ばれるものを神道では「奥津城」または「奥都城」(双方とも読みは「おくつき」)と称する。形式も一般的な(仏式の)墓とはやや異なり墓石にあたる石柱の頭頂部はやや四角錐のようにすることが多く、香炉が無く、線香無し、かわりにロウソク立てが有る。

    ・・・というわけで、漁村では奥津城という墓がたてられるようになる。

    「奥津城」と「奥都城」の使い分けには諸説あり・・
    A) 海、川、湖など水場に近い地域では「奥津城」。それ以外の地域では「奥都城」
    B) 神官や氏子だった人は「奥都城」。それ以外の一般人は「奥津城」
    C) 「奥津城」か「奥都城」かはこだわりなし

    なお、
    現在の奈良県明日香村では、仏教伝来以前の例えば古墳時代に造られた(今で言う)墓や陵墓のことを称して「奥津城」と称している。

    ◎五島列島に在る「奥津城」の例  
    私の亡父の出身地である長崎県の五島列島の中通島(なかどおりしま)の小串(こぐし)という地域は漁港があり、住民の多くは漁業従事者。海に向かって小高いが緩やかな傾斜地に大きな共同墓地があり、先祖はその墓地にある「奥津城」に眠っている。

    goto-map

    ↓小串港
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    ↓小串の共同墓地
    kogusi-haka_0002

    ただしその石柱部には「祖先之奥津城」と刻んである。普通よく見る例の「○○家之墓」とは異なる。しかし基台部の石材には”蔦(つた)の紋”が彫ってあり、かろうじて我が家系の奥津城とわかる。

    日本全体では「○○家之奥津城」と刻んだもののほうが多い。

    ↓私の祖先の奥津城(左) / ○○家之奥津城の例(右)
    (「石の東栄」社のHPより)
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     漁村という特に神頼み必須の神道信仰の地であり、かつ言うまでもなく”水”関連の地だから「奥津城」という表記になるのはわかるが、なぜ”「○○家」ではなく「祖先」”なのかという疑問がわくが・・

    伝承によれば”事情により他の家系の死者も受け入れて合葬していたから”ともいわれるが、別の推論として”この奥津城を立てた時代にはこの辺境の漁村には苗字をもつ者が私の祖先も含めて殆どいなかったので○○家とはならなかったのではないか”とも考えられる。

    一般的な(仏式の)墓にも「先祖代々之墓」と刻まれたものを見かけることがあるが、これも同様な理由だろう。

    それでは「奥津城」という言葉と意味を誰が教えて使わせたのか? 当時の漁民自身とは考えられない。そこで登場するのが近くに居た知識人である僧侶や宮司・神官で、彼らは庶民に色々な苗字を(中には遊び心や奇異をてらった苗字もあったが)考えてあげることが日本全国で広く行われたことはよく知られている。

    その延長で建墓についても庶民から相談を受けた結果が現在の「○○家之墓」(仏式)対「○○家之奥津城」(神道式)の存在率の差。それは僧侶と宮司・神官の数の差の表れだろう。

    ちなみに、私の父は生前に「(故郷の五島の)小串に帰った際に会った坊さんから「奥津城」について否定的な説教をされてイヤな思いをした」と言っていた

    ・・ということを私は間接的に聞いたもので詳細不明なので想像するに、お坊さんは「死後の世界は仏教のほうが神道よりも良いから、故人のためにも宗旨替え?して墓も換えた方がよい」というようなことを言ったのではないか? それはお寺にとっても都合がよいのだろうから・・

    そう考えると、この小串という漁業の地であっても奥津城と称する墓が(よく確認できないが、周囲の墓を見渡したところ)稀な存在であろうことの理由は・・多くの家が本来の神道から宗旨替えさせられて仏式の墓にしてしまった・・のではないかと思える。
    ・・・・・・・・・・・・
    さて、先祖が奥津城に祀られている父だが、信仰心希薄で、自宅には神棚は無く、小さな仏壇らしきものはあったが父親(私からすれば祖父)の小さな写真が置いてあるだけで、線香をあげているのを私は見た記憶がない。

    しかし父がそうなったのには、中国大陸中心に7年間の過酷な戦場で”神も仏もあったものじゃない”という経験が作用していたように思える。

    私が小学校入学から就職までの期間に、学校に提出する家庭状況調査書類や就職用の履歴書には(現在では廃止されている)"信仰宗教記入欄"があったので、父に聞くと(信仰実体が無いものの)「浄土真宗にしておけ」と言われたものだった。

    それでも父は歳をとってからの一時期に、ある”願掛け”のために自宅から徒歩12,3分の長崎神社(昔、帝銀事件があった場所の隣に在る)へ1年ほど毎日お参りしていた。

    一方私の母方の祖父の自宅(東京)には神棚だけあって仏壇は無かった。それもそのはずで、祖父の出身は福岡県宗像市神湊(むなかたし・こうのみなと)であって、ここはユネスコの世界文化遺産にもなっている宗像大社(玄界灘に浮かぶ島に在る)に渡るための港ともされて「神湊」という地名が表しているように"神が近い"地であるから。
    ・・・・・・・・・・・・
    日本の大企業から個人商店などまで、職場内、ビル屋上あるいは工場敷地内など、そして剣道・柔道の道場、日本刀製作(刀鍛冶)現場、陶器焼成現場などでは神棚あるいは祠(ほこら=神をまつる小さなやしろ)が設けられることも多いが、仏壇は見られない。

    私が勤務していた会社の工場部門では敷地の一角に祠が建てられていて月に一度、幹部による参拝式が行われていましたが、会社全体では従業員が2万人以上いたので、勤務期間中に亡くなる人が年間で10人前後~数人になることで、会社の菩提寺と言えるようなあるお寺で年に一度「物故社員追悼法要」が行われていた。
    つまり、私が勤めた会社は、神にも仏にも頼っていた?

    まあ、多くの日本人が”赤ちゃんが生まれて1か月たてば神社に「お宮参り/初宮参り」して、亡くなればお寺のお世話になる”というような神仏へだたり無しの状態と同じか・・
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎頭に糞を落とされたのはアラ80での初体験
    今年(2024)5月21日の午後、庭に出ていたら突然、私の頭に何かが落ちてきて「ピチャ」っと(音は感じなかったが)着いた。

    驚いて指で触ってみたら、白くてドロドロしたものですぐに鳥の糞だと分かったと同時に上の空を見上げたが、鳥の姿は見えず声もせず、あるのはただ青い空。ハテ何の鳥だったのか?

    何か白いものが頭に、しかし上空には青い空のみ
    fun-atama

    私は額から後頭部にかけて殆ど毛髪が無い(俗に言う)ハゲアタマなので、その糞はすぐ指で拭えてその後は水で簡単に洗って済んだが、これが普通に毛が有る人だったらこんなに簡単には処置できないだろうなと、不幸中の小さな幸い?を感じたのだった。

    後日に知ったが、この日は大安だったのでこれで少しウンが良くなるかとかすかな期待をしている。

    それにしても80才に近い私がこれまで生きてきて、わが身が糞害にあったのは初体験。しかも頭上に何も無い場所での糞との遭遇は確率としては非常に小さいはずで、逆にその確率が高いのは・・

    ◎駅のホーム、電線下、家屋の軒先など、糞害注意! 
    東京のJR秋葉原駅は総武線と山手線などがそれぞれ高架状態で交差するのでホームは構造的にも視覚的にも複雑駅の一つです(地下鉄どうしが地下で交差しても視覚上は複雑感は無い)が、それにともなってホーム上の鉄骨またはコンクリートの梁が多く存在することになり、そこに鳩が多数来て留まる結果、
    糞が大量にプラットホーム上に落とされる。
    doves

    私は現役の会社員だったある時期にはこの秋葉原駅で乗降していたが、ホームの所どころに「頭上ご注意 ハトのおとしもの」という看板がかかげてあったから、梁の下を避けて歩いたもの。

    ハト飛来防止用に金網を張ったり、大きな針山のような専用品(下図参照)を梁の上に設置してハトがとまれないようにする方法があるが、秋葉原の駅のような場合にはそれが適用しにくいのだろうと思う。
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    電線の下にも鳥の糞が落とされることも多く
    、先日には我が家の前の電線の真下で鳥の糞が巾5センチ長さ60センチくらいの一直線の白い帯状になって道路上に落ちていたが、これは明らかに鳥が電線上に多数並んでとまって”連れしょん”ならぬ”連れ糞”した結果だとわかる。
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    夏の今の時期ならたぶんツバメのしわざだと思われるが、私が過去に見た”電線上に並んだツバメ”の数で最大は14羽。ちょっと横道に逸れますが、ムクドリは20羽以上が並んでとまっているのを見たことがあり、同様にカラスの30羽ちかくを電線上に見たときはその全体が黒い大きなかたまりのようでちょっと不気味だったことがある。

    ツバメが巣をつくった家には幸福が訪れると昔から言われるため、その巣を大切に見守る家その他の施設などの建物は多いが・・
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    それに伴って発生するのが”巣の下の場所が糞によって汚れること”で、そのために糞の落下地点に受け皿状のものを置いたり紙類を敷くなどの対処がされるので、ツバメの巣の存在を知らない人でもすぐに気が付くことになると同時に、この家や施設の人のあたたかい気持ちがうかがえるもの。

    ◎露天風呂に鳥の糞が落ちてきた!
    私が海に面した露天風呂の湯に浸かっていた時のこと、いい気分になっているところに突然ポチャンと音がしたので何かと思って見たら自分の身からわずか20センチ先に白いものが”まるで溶き卵をお湯に入れた瞬間のような状態”で15センチくらいの長さでモヤっとして一部浮いて一部沈んでいるではないか!
    白いものがポチャンと・・ 
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    一瞬何かと思ったがこれは鳥の糞だと気づいたのですぐに空を見上げたがこの時も鳥の姿はなかった。

    同時に「わっ 鳥の糞が落ちてきた!」と周囲の人にも聞こえるように声をあげたら、ちょうど手桶が近くにあった人がそれを使って糞をすくい取って排水口に捨て、丁度近くに居た従業員が飛んで来て糞が落ちた周囲のお湯を処理した。後で思うにカモメの仕業だったのであろう。海上に2羽ばかり飛んでいたのが見えていたから。

    日本の露天風呂には屋根がついていることが多いが、その目的は”雨や雪が降る中でも気分よく湯に浸かっていられる”ことの他に”苔や藻を発生しやすくする太陽光を遮るため”なのだが、”裸という無防備状態にある時に頭上からの(糞に限らず)落下物から身を守る”ことにもある・・ということになる。

    露天風呂の屋根有りと無しの双方に利点はあるが・・
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    (↑左:和歌の浦温泉・萬葉の湯/右:万座プリンスホテル)
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    7月初めの今日もツバメが数羽 電線にとまって「ピチピチピチ」、時には「ピチピチピチ ビー」と鳴いている様子が我が家からも観察できる。
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    そしてたまにはピューっと飛ぶ姿も見えるがさすがに”昔、国鉄(現JR)の特急の愛称になっただけあって?”速い! 確かにカラスやヒヨドリなどよりも・・

    ツバメは日本へ春に飛来して卵5~6個産み、子供を育ててから秋に南方のフィリピン、インドネシア、マレーシア、ベトナム南部などに帰るそうで、その飛行距離は実に3000キロ以上。

    体重20グラムで500円硬貨3枚分の軽く小さい体でよくもまあ長旅するもの。 

    餌は蚊、ハエ、シロアリ、蝶、トンボなど空中を飛んでいる虫が主で、南方地域にはこれらの虫が多いものの餌を取り合う競合鳥類が多いため、特に子育てのために餌が多量に必要な時期には困るのだが、丁度その頃の日本には餌になる虫が多いので、長旅をしてでも来日するのだそうだ。

    民家の軒下などに作った巣からヒナの餌になる虫を求めて飛び立ち、虫をくわえて戻る行為は1時間当たり平均40回も繰り返されるといわれる。

    秋に離日して再び来日すると、通説では「ツバメは同じ巣に戻って来る」と言われるものの実際はその確率は15%という説があるが、同じ巣ではないものの元の巣の近隣に作巣する例は多いようだ。

    しかし一方で、離日する子ツバメに足環を着けての調査では山口県から離日したツバメが静岡県に戻ってきた例もあるとのこと。               

    さて今年(2024年)、千葉県中部にある我が家の周りでツバメの鳴き声が聞こえ始めたのが3月27日・・と、カレンダーにメモしたのだが、”渡り鳥の鳴き始めを感知してそれを記録しておく”ような行為は会社勤め現役時代には考えられないことだったかなと思う。

    というわけで、今年は私がツバメへの意識が強いところに、ツバメに関する新聞記事、テレビドラマ、映画(のようなもの)が現れた!

    ◎「天声人語」欄のツバメ
    5月16日の朝日新聞の天声人語欄に『古い言葉で「メ」は鳥の総称だったと国語学者の金田一春彦さんが書いていて、ツバメ、スズメ、カモメしかり。「燕」という漢字はツバメが翼を広げて飛ぶ様を写した象形文字』・・というようなことが紹介された。

    ◎「燕は戻ってこない」という名のドラマ話題
    桐野夏生(きりのなつお=直木賞はじめ多数の文学賞受賞の作家、日本ペンクラブ会長、紫綬褒章受章者)原作の連続テレビドラマ「燕は戻ってこない」(NHKで2024.7.2まで)は代理出産を扱った重い内容で、出演の稲垣吾郎の好演でも注目されているようですが、

    swallow1
    swallow3
    swallow2

    桐野氏はあるインタビューでこの小説名の由来を尋ねられた際にも明解な回答をせずに読者の解釈に任せているので、私なりに思えば・・

    通常は子供を産めば授乳その他で子育てするところ、代理出産をした女性はそれができないので、燕が子育てのために餌をとっては巣に戻り、子に与える行為を繰り返す姿になぞらえれば、ツバメに例えた代理出産女性は育児現場(である巣)に戻らない・・ことになる。

    と、解釈していたところ、 (原作を私は知らないが) このドラマでは、代理出産を請け負った女性が帝王切開で双子(男女)を産んだのだが依頼人側に引き渡す前になんと、男の子だけを残して勝手に女の子のほうを抱えたまま姿を消したのだった。

    ◎オペラ「つばめ」の上演映像が各地で公開される
    プッチーニ作曲のオペラの中でも「つばめ」は最も優雅で洗練されていると言われるそうで、ストーリーは"銀行家ランバルドに囲われている高級娼婦マグダが一度は別れて別の男のもとにはしり結婚に至りそうになったが、自分が娼婦だったことを告白して結婚辞退して再びランバルドのもとへ戻る"というもの。マグダはツバメのように同じ所に戻ったのだ。

    このオペラがニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)で今年4月20日に撮影(使用カメラ10台)されたものが録画されて5月31日から日本各地で映像上映(松竹配給)されたもので、この「つばめ」はMETで上演される多数のオペラの映像を上映するシリーズ「METライブ ビューイング」の中の第8弾とのこと。

    ↓オペラ「つばめ」のワンシーン(「映画.COM」のHPより)
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    実はこの「つばめ」上映の情報は、日頃から文化・芸術に詳しい友人が実際に観て「映像ながら観劇で感激!」という内容のメールを送ってくれたので知った次第。
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    以下はツバメに関連する余談です

    ◎「若いツバメ」考
    「若いツバメ」とは、女性からみて年下の男の恋人のこと。

    その由来は、大正から昭和にかけて女性解放運動して有名な平塚らいてう(ひらつか らいちょう)が自分より若い画家である奥村博史と親しくなっていることが周囲に知られたために、奥村はある手紙を書き残して、彼女らいちょうのもとを去って田舎に帰ってしまった。

    その手紙は「池の中で水鳥たちが仲良く遊んでいた所に、一羽の若い燕が飛んできて大騒ぎになりました。この思いがけない結果に驚いた若い燕は飛び去ります」というような内容だったことから生まれた言葉。

    ところが、彼女は「燕なら春になると帰ってくるでしょう」という返事を出して、彼を呼び戻した後は二人で共同生活を始めたそうで、愛の巣を飛び出た彼は再び元の巣へ戻ったのでツバメ同様となった。

    ↓平塚らいてう(若年期 / 高年期)
    raiteu

    らいてうは1886(明治19)年の生まれなので”若い燕”との生活に入ったのは1914(大正3=第1次世界大戦開始)年のことだから28才の時のことになる。私の想像では少なくとも30才代後半以降のことかと思っていたのでちょっと意外。ちなみに1971(昭和46=大阪万博開催翌年)年に85才で死去している。

    ◎「ツバメ低く飛べば雨近い」理由と飛行機の塗装?
    昔から「ツバメが低く飛んだら、もうすぐ雨が降る」と言われて、私も子供の頃に聞かされていたが、さてその理由を教えてもらっていなかった。恥ずかしながら高齢者とされる年齢になってから初めて知ったことは・・

    雨降り前には湿度が高くなる=空気中の水分が多くなる→空中を飛ぶ虫たちの羽や体に水分が着く→体が重くなって低くしか飛べない→その状態の虫たちを捕まえるためにツバメも低く飛ぶ・・という理由。

    それで思い出すのは、”飛行機の機体全体を覆う塗装の重さが飛行に影響を与えている”こと。

    ちょっとあいまいな数字で恐縮ですが、大型機1機の塗装に使われる塗料の重さは0.5トンにもなり、その影響で東京→ロンドン間の飛行で5万5000円分の余計な燃料を消費するという試算がある。

    高高度を高速で飛ぶような飛行機は、地上と高空との間の気圧変化による機体の膨張と収縮の繰り返しが起こす可能性のある機体胴体の金属疲労(これが進むと金属板が破断して最悪は機体が空中分解)の抑制や空中の塵や浮遊物の衝突によるキズ防止などの理由で機体の塗装は必須になっているから仕方ないようです。

    ・・・・・・・・・・・・・

    今年5月、「とにかく可視化」という書名の本(新潮新書)が出版された。
    その新聞広告には、こうある・・「可視化するだけですべてうまく行く! 延々と続くムダなやり取り、長いだけの空疎な議論、決めても簡単に撤回、動き出しても停滞。多くの企業が抱えるモヤモヤを解決するシンプルかつ超実践的ノウハウ。」

    そこで”賢い人の可視こい?例”として思い出すのが・・

    ◎白洲次郎が描いた「ジープウェイ」図
    白洲次郎はご存知のようにGHQをして「従順ならざる只一人の日本人」と言わしめた人物。英国留学で鍛えた流暢なキングズイングリッシュで堂々と意見を述べた。

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    1946(昭和21)年のこと、新しい日本国憲法の草案内容はGHQによる一方的かつ性急な面が強いために日本政府が松本国務大臣名で作成していた「松本案」の再考を願う内容の書簡を出すことになり、その時点で終戦連絡事務局参与であった白洲が作成してGHQのホイットニー民生局長へ送った。

    その際に”日本側の松本案とGHQ案は目的(OBJECT)は同じであり、ただしそこに到達する手順が違って、松本案は日本の国情によって、あたかも山道をジープに乗って行く(JEEP WAY)がごとくであり、GHQ案は(途中の事情などかまわずに)一挙に到達しようとするものである”としてその主張を”まさに可視化“した手書きの図を添えた。「百”文”は一見にしかず」か! これが後に「THE JEEP WAY LETTER」と呼ばれるようになった。

    ↓白洲が書簡(1946年2月15日付)に添えて描いた図(外務省外交史料館蔵より)jeep-way

    書簡を受けたホイットニー民生局長は、白洲による説明図によって明確にされた日本政府の態度を激しく非難してGHQ案推進方針をより固めることになってしまったが・・

    結果は残念だったが、後年に「THE JEEP WAY LETTER」が知られるようになって、現在ではその図をプリントしたTシャツが(白洲夫妻の旧邸で今は資料館になっている)「武相荘」(東京都町田市)※で販売されている。綿100%、価格6600円、サイズ4種類でネット販売あり。

    ↓TシャツTHE JEEP WAY LETTERの背面
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    ↓TシャツTHE JEEP WAY LETTERの前面
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    ◎南方熊楠の描いた「南方マンダラ」
    南方熊楠 (みなかた くまぐす:1867~1941年=明治元年の前年に生まれて太平洋戦争開始年に亡くなった)は、とくに植物学、微生物学、民俗学の分野で活躍(その他、粘菌の研究は有名)したが、世界の科学、宗教、哲学などにも造詣が深かった。それらの行為を支えていたのは抜群の記憶力や9か国語に精通した語学力だった。
    ↓南方熊楠
    kumagusu-face

    もう一つ” 熊楠の思索と行動にとって重要な役割をした”のが・・
    土宣法竜(とき ほうりゅう=1854~1922年)という真言宗の高僧であり、慶応義塾で西洋学問を修学してから宗教界に入り、非常に開けた視野と柔軟な思索の人。シカゴでの万国宗教大会に真言宗代表として出席したりロンドンやパリでも仏教関連の仕事をし、最終的に真言宗高野派管長となった。

    そのロンドン滞在時(1893=明治26年)に丁度現地で勉学中だった熊楠と出会った。13才年下で当時まだ20代の熊楠ではあったが既に「ネイチャー」誌に論文を発表して高評価を得ていたほどの知性にあふれていたので、二人は共鳴し合い、以後は1916(大正5)年頃までハイブラウな内容の書簡が大量にやりとりされた。

    ↓土宣法竜 師
    kumagusu

    西洋の科学や哲学においては物事の存在理由や現象の原因を追究するには、全体から細分へと分析対象を絞り込みながらその要素を抽出するという方法(従来一般に「還元主義」と呼ばれていたが最近は使われない傾向)がとられていたが、それでは真理をつかむには限界があると熊楠は気づいていたために、それに代わり得る方法を探り始めていた。

    そこで熊楠が着目したのが東洋の哲学、宗教であり、中でも曼荼羅(まんだら)に注目。それを知らされた土宣師は”曼荼羅を重用する真言宗の僧侶”でもあるので大いに熊楠を後押しした。

    ↓金剛界曼荼羅(左)  胎蔵界曼荼羅(右)
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    曼荼羅は仏教の世界観を一般民衆でも理解できるようにと可視化したものだが、前述のように” 物事の存在理由や現象の原因”を可視化するのは難しいので、さすがの熊楠も10年を経てやっと一応のカタチを得たのが「南方マンダラ」と称されるもので、”一応”という訳は熊楠はこのマンダラ図を本当は立体を表すものにしたかったから”であり、しかも説明無しではこの図は理解できないから。

    ↓(いわゆる)「南方マンダラ」図 (河出文庫「南方マンダラ」より)
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    "知の巨人"である熊楠が長年考え抜いて導いた結果を可視化したこの「南方マンダラ」そのものと、その生成過程は難解で、浅学菲才の私のおぼろげなる解釈では"この世界の物や事は他との関係において生まれ、存在するものであって、その際の互いの関係の有様は多様(熊楠によれば図中のイ、ロ、ハなどそれぞれは異なる)であることを表している"のだろうと思いますが、詳しい説明内容に興味ある方は書籍「南方マンダラ」(中沢新一 責任編集・解題:河出文庫)に熊楠本人の説明(
    土宣法竜師宛の多数の書簡文中)と中沢氏の解説が掲載されているので参照下さい。 
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    「可視化」についての続編はまた後日に・・
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    先日5月7日、シンガー・ソングライターの長渕剛が「肺気胸」を発症して4週間の療養が必要と医師から診断を受けたと発表された。同じ症状は、5月2日にも男子ゴルフプレーヤーの星野陸也が発症してやはり4週間の療養を発表。その他、陸上短距離ランナーの山縣亮太も数年前に発症しているが、「肺気胸」とは・・

    ↓長渕剛(写真は「TBS NEWS DIG」より)
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    ◎「肺気胸」とは
    吸った空気によって肺の中の「肺のう胞」(はいのうほう)が風船のように膨らんでいる状態の際に何らかの力が加わって破裂して、漏れだした空気が、肺全体を覆っている胸膜との間に溜まり、その分、肺はしぼむ状態になることで、言い方を換えれば”胸の中に隙間ができる”状態。

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    (図は「FNNプライム オンライン」より引用に一部加工)

    自覚症状としては、急な胸痛、息切れ、呼吸しづらくなるなど。

    ◎「肺気胸」は2種類
    「自然気胸」 : 特に何もしないのに発症。一部には遺伝体質も影響。
    「突発性気胸」 : 過激な運動、急な動作、衝撃などで発症。

    ◎「肺気胸」になりやすい人は
    昔から言われているのは・・”10代後半から20代にかけての瘦せ型の人”、”女性より男性”
    その他(神奈川県立循環器呼吸器病センター・小倉高志所長によると)
    “60代以上の高齢者や喫煙者にも多い。怖い病気ではないが、再発する人も多い”

    なるほど、長渕は67才、星野は27才、山縣は26才のとき、そして後述しますが私も21才で、従弟も20才で発症していて、しかも皆 男です。

    ◎「肺気胸」治療法
    一般的には”肺のう胞が破れて出来た穴が自然に塞がるのを待つ”が、漏れた空気量が多くて胸膜と肺の間の隙間が大きい場合は「胸腔ドレナージ」と称する”胸表面からドレーン管(チューブ)を刺し入れて空気を抜く”方法がとられる。

    ◎私の「肺気胸」実体験記
    前述のように、私が21才の冬のある日、友人とキャッチボールをしようということになって、まず第1球目から思いっきり投げ始めて、その調子で10分ほどで終えたのですが、その時は体に何の異常もなかった。
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    しかしその帰りに、ある交差点の横断歩道を渡っている際に信号が赤に変わりそうになったので走ったその時、左側の胸の中で”ボック、ボック、ボック”という音がするので、これは何かおかしいと感じたものの、(その時の私の場合は)胸に痛みや息苦しさは全然なかった。

    帰宅後、家族からは「医者に診てもらったほうが良い」と言われ、翌日にかかりつけの医院に行き、診断の結果は「突発性気胸」。当医院では的確な判断と処置ができないので紹介状を書くから大きな病院に行くように言われて受診したのが・・

    中野病院(東京都中野区江古田。平成5年に他の病院と合体されて当地建物は撤去)で、ここは元々 結核治療がメインなのだが、とにかく私も診てもらった結果はやはり「気胸」(当時は「肺気胸」とは言っていなかった)だが、程度が軽いのでこのまま自然に肺のう胞の穴が塞がるのを待つことにされた。

    こうして、勿論過激な運動などせずに静かに過ごしているうちにいつのまにか(2~3か月後?)、飛び跳ねても胸の中で”ボック、ボック、”という音がしなくなったので、治ったのであろうと自己判断した。

    後から思えば、私の肺気胸発症は、冬で日頃 運動不足のところにウォーミングアップも無しに最初から思いっきり投球したのがいけなかったのではないだろうか。

    ◎調合された風邪薬を正しく飲まなかったので酷いめにあった!
    肺気胸発症時に私は風邪をひきかけていたので、咳が出て肺のう胞の穴が大きくなったりしてはまずいということで病院が調合した風邪薬(紙に包まれた粉薬)を処方された。

    私は後期高齢者になった今でこそ毎日10種類の薬を(命にかかわりそうなので)仕方なく飲んでいますが、本来は薬嫌いで当時は日頃 薬を飲むことがなかったために、病院特製の風邪薬をつい飲み忘れてしまった。

    しかし咳が出て肺気胸が悪化してはさすがにマズイと思い、飲み忘れに気づいたのが夜だったがその時点で風邪薬を飲んだ。それも二日続けて同じことをやってしまったが、これがイケナカッタ!

    二日目に薬を飲んだ10~20分後だったかに突然激しい胃痛が起こって、これがとんでもない痛さで、頭の中はただ”痛さだけがある世界“になって他のことは一切考えられない状態になってしまい、思わず掘りごたつ(当時6人家族だったこともありこたつはたたみ一畳分の大きさ)の床(通常、足を置く面)で暫く”のたうちまわっていた”。

    激痛が続く中で、一つだけ思ったのは「これは、腕をナイフで切るより痛い!」・・というほどだった。

    とりあえず常備の胃腸薬を飲み、ほとんど眠れぬままに翌日になり、かかりつけ医院で受診した結果は「急性胃カタル」。原因は” 食後服用”という”薬の服用指示”を守らなかったために”胃にダメージを与えた”結果とされた。

    ※私に与えられた風邪薬は特に強力な成分を調剤した粉薬だったが、普通の市販風邪薬でも胃を傷めるので食後服用は必須。(つまり、空腹時に服用は禁止!)

    医者の指示と処方された薬によって、胃痛はその後徐々に収まり、通常に近い状態にもどったが、完治したと言えるまでにはさらに5年を要した。・・と言うのは、好物のカレーライスを食べると胃痛と腹下しが起きるようになり、それが何とか起きなくなったのが5年ほど後だったから。

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    ウォーミングアップ大切 ! 風邪薬は絶対に食後すぐ服用すべし !
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    余談 : 肺気胸体験から10年ほど後に、スピードガンで投球速度を測れる機会があり、私は86キロだった。大谷翔平の投球速度165キロとはあまりにもかけはなれている! ところで私はうっかりしてウォーミングアップ無しで投げてしまい、「しまった」と思うとともにウォーミングアップしていたらもう少しスピードが出ていたはず・・とも思った次第。
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    ◎寛容の精神があれば騒音苦情は減る!
    以前に、騒音とそれに関する苦情の色々をご紹介した中で、除夜の鐘の音、盆踊り(祭)の音・声、”火の用心”巡回の声、子供たちの遊ぶ声などに対して一部の人から「うるさい」という苦情が出ている事例がありましたが・・
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    これらの音や声は人によっては、その人の体質、好み、体調などによって、不快に感じることがあることはわかる。

    しかし一部の人が不快に思うものの、ここにとりあげた事例というものは大多数の人たちが楽しみにし、願いや思いを込め、あるいは皆のためを思って行動することで生まれる音や声であり、年に一度の数時間あるいは数分のことであると言うことに思いをいたせば、ちょっと我慢すれば済むこととして、ここは一つ寛容の精神を発揮すれば苦情となることは抑えられるはず。

    確かに、昔には無かった種類の騒音苦情が出だしたことに対して識者たちからは「騒音に対して不寛容な人が増えている」という声は多い。

    「不寛容」とは・・(何故か私の古い広辞苑第二版には不記載なので)・・「寛容」をみると、「寛大で、よく人をゆるしいれること。咎めだてせぬこと」・・だから「不寛容」はその反対の意味・・別の辞書には「狭量」とあって分かりやすい。つまり「心が狭いこと」。

    「不寛容」は英語で「INTOLERANCE=イントレランス」。「寛容」は「TOLERANCE(トレランス)」。私が「イントレランス」という言葉を知ったのは、ある映画の題名からだった・・

    ◎映画「イントレランス」は映画史に残る傑作
    ちょっと話が飛んでしまいますが、「イントレランス(INTOLERANCE)」という映画があった。この作品は無声映画ながら世界の映画史上に重要な位置を占めると言われ、ストーリー・脚本のうまさ、壮大なスケール、撮影手法などが賞賛されている。米国で1916年(第一次世界大戦中で中立保っていた米国も翌1917年に参戦)に脚本と監督をD.W.グリフィスによって作られた。(日本公開は1919年=大正8年=終戦翌年のベルサイユ条約の年)

    この映画は、不寛容によって起きた悲惨・悲運な物語4編で構成され、それが上映時間3時間の中で各編が並行して進むカタチになっている。その4編とは・・

    ・「バビロン編」・・古代バビロンの滅亡
    ・「ユダヤ編」・・・キリストの処刑(磔刑)
    ・「中世編」・・・・・聖バーソロミューの虐殺(中世フランスの宗教戦争)
    ・「現代編」・・・・・ストライキで失業した青年と乙女の純愛

    ↓映画「イントレランス」の一場面
    (「YouTube 2001 macutio」より)
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    movie-intolerance

    ※映画「イントレランス」に日本語字幕・BGMを付加した3時間弱のYouTube↓
    https://www.youtube.com/watch?v=IWlFLgZe6Gg

    ◎原節子がエッセイで不寛容な事例や終戦直後の日本人を嘆いていた!
    映画女優だった原節子(1920=大正9年~2015=平成27年)は小津安二郎監督作品に出演した際の役どころから”静かで控えめな”感じの人の印象が強いが、本人は”強い意志を持ち行動的な”役柄(黒澤明監督の「わが青春に悔いなし」での大学教授の娘役などか?)を望んでいたと述懐し、(晩年は不明だが)たばこもよく吸っていたことは知られている。
    harasetuko
    石井妙子著「原節子の真実」(新潮文庫)表紙

    もともと学校教員になることを志望して高等女学校に進んだものの家庭の事情で中退して女優になっても、付き人は不要とし、自動車に乗らずに電車と徒歩で撮影所通いをして、電車内では庶民を観察しつつ読書することが多かったそうで、その資質と体験が書かせたであろう硬派的な内容のエッセイが氏の生前に発表されていたものの埋もれていたが死後に再発見された。それは・・

    「想苑」という季刊雑誌(発行=金文堂出版部=福岡県久留米市)の1946(昭和21)年の11月号に「手帳抄」という題名のエッセイで、文芸誌「新潮」の2017年1月号に再掲載された。
    その内容を、「宙 平」という方がネット上で紹介している部分を引用させていただくと・・

    「省線電車。ものすごい混雑。赤ん坊の泣き声と怒声罵声。ぼうとなるほどの人いきれ」そんな中で、突然生暖かい液体が膝から足首にかけて流れるのを感じた。押されて来た婦人の背の赤ん坊のーである。(当ブログ筆者注:省線とは戦前の鉄道省が管轄する国有鉄道線のことで、後の国鉄、現JR。私の祖父は戦後10年近くは「省線」という表現を使っていた)

    赤ん坊は激しく泣き出す。『やかましいぞッ!』 『泣かぬ子と替えてこいッ!』 『うるさいッ、降りろッ!』と、突然『黙れ!うるさければ貴様が降りろ。母親の身にもなってみよ。心で泣いてるぞ!』軍国調に云えば、その声は三軍を叱咤する烈々たる気迫に満ちてゐた。一瞬、車内はシーンと静まってしまった」。
     
    「二等車の中で。その列車が大阪に近づいてくると、一人の青年が座席のビロードの布をナイフで切り取って、自分の靴を磨き始めた。並んでかけてゐる若い女の人は、ただほほえんでゐるばかり」。

    「省線電車の中で。若い娘さんが座席にかけてゐた」その前に乳児を抱いて立っていた若い母親に「どうぞ、抱っこさせてください」と手を差し伸べた。すると隣りにかけていた紳士が『抱いてあげる親切があったら、席を譲り給え、君は若いンじゃないか』と怒鳴った。

    「娘さんは真っ赤になった。『では、お言葉に甘えまして。すみませんわねえ』若い母親はさも嬉しそうに乳児を娘さんに与えた。娘さんはホッとしたように若い母親を見上げてほほえんだ。紳士は『善』を知っていると云えよう。けれども『善』を行へないたぐいであろう」。
     
    「先ごろある会社で「ミス・ニッポン」を募集した。容貌容姿の美が条件の全部。勿論商業政策でしかない。本当は人間として申し分のない人を選ぶことは、金儲けにならないので一度も企画されたことがない。容貌容姿の美しさを主条件とするNO・1を選ぶといふことは、文化の水準を高めるいとなみとは云へない」。
     
    「敗戦前の日本人は、日本人自身をおめでたいほど高く評価していた。日本人は世界で最も優秀な民族であると考へ、自惚れていた。ところが敗戦は、その日本人をひどく自卑的にし、今ではあべこべに日本人は全くなってゐないという声が、はんらんしてゐる」「欠陥の多い日本そして日本人ではあるが、自卑してはいけないと思ふ、日本人はあくまで日本人である。めいめいがなんとかして一日も早くお互いに愉しく生きてゆけるように仕向けようではないかといふ心になって、手近な自分の周囲からその実現につとめなくてはいけないと思ふ。それが大きく結集してはじめて日本全体が住みよく明るい国として育って行くのだと思ふ。敗戦後わたしはいつもそんなことを考えずにゐられない険しい世相の中に生きながら、日本人の誰もが自分とこの祖国を正当に再認識してほしいと念ふのである。日本再建はそこからだとわたしは云ひたい」

    ◎現在もある”電車内赤ちゃん鳴き声”への不寛容実例!
    先日、新聞紙上だったかネット上だったかで、こんな記事が載っていた。
    「新幹線(?)の中のある座席の女性が抱いていた赤ちゃんが泣いては一時泣き止むという状態をくりかえしていたが、その後ろの座席の若い女性が、赤ちゃんが泣き始めるたびに前の座席の背を足で蹴っている姿が周囲の乗客によって目撃されていた」 

    また2017年のネット上に載った話は・・やはり新幹線、ただしグリーン車での出来事を見た人からの情報。
    「新幹線に乗っていると 赤ちゃんを連れた女性が乗ってきました。 赤ちゃんが泣き始めると 女性は急いでデッキへ行き 赤ちゃんを泣き止ませました。 その女性が車両に戻って来ると 近くの男性が せっかく高い金を出してグリーン車に乗っているのに うるさい と 怒った様に言いました。 そこから女性は ずっと立ちっぱなしで デッキにいました。 私が泣き声は気にしませんので 席へ戻るよう言っても 男性が怖いと言ってデッキにいました。 私も妊娠しており あんな事言われたらどうしよう… と 思いました。 男性が怒るのは当然ですか? また注意されたら ずっとデッキにいるべきですか?」

    ◎ドイツには”子供の活動に寛容な条例”がある
    『日本に限らず、かつて、子どもの声や音をめぐる訴訟が相次いだドイツは、法改正で「子どもの声は騒音ではない」と定めた。
    ドイツの法律に詳しい近畿大法学部の石上敬子准教授によると、ドイツでは2011年に連邦法が改正され、子どもの声が騒音規制の対象外になった。14歳未満の児童保育施設や遊戯施設で子どもや世話にあたる大人が発する音声を、「原則として有害な環境作用ではない」と定義。「子どもにやさしい社会」をめざす立法メッセージを示すことが、立法趣旨に掲げられた。

    日本では、東京都が2015年に騒音の規制対象から未就学児の声を外す条例改正をしているが、国レベルとして国会ては、”騒音とは何か“という定義が必要になるなど、法制化の課題は多いのでまだ法制化は検討していない・・という状態。』(『』内は一部「朝日新聞デジタル」より)

    ◎映画「もぐら横丁」の中の“ラジオ騒音”顛末!
    「もぐら横丁」は小説家の尾崎一雄夫婦とその周囲の人々の実生活を基にした映画で監督は清水宏、主演は佐野周二と島崎雪子で1953(昭和28)年公開。

    その中で、日頃近所から聞こえてくるラジオの音が大きすぎて仕事にならないと夫が嘆くので、妻は勇んでその家に出向いて大声で文句を言ったのだが、後日、中風で動けなくなった年寄りの唯一の楽しみがラジオだった(年寄りだから耳が遠いので音量を上げざるをえない)ことを知って、怒鳴って悪いことをしたと思い謝りに行こうとする夫婦であった・・これも寛容精神の現れを描いている。
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    ・・・・・・・・・・・・・
    今回の内容に関連して、人生訓?の一つを思い出します・・

    「子供𠮟るな 来た道じゃ 年寄り笑うな 行く道じゃ」
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    先日、JR東日本が京葉線(蘇我~東京)の混雑緩和のためと称して、これまで走らせていた「快速」29本と朝の通勤ラッシュ時の「通勤快速」4本を廃止したダイヤに変更した結果、快速2本を残して、ほとんどが各駅停車になってしまうことになり、利用者や沿線自治体の猛反発と抗議の声がまだ続いている。
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    京葉線車両(「週刊東洋経済web版」より)

    確かに京葉線の朝の”上り”は電車が東京駅に近くなるほど相当に混むことが難点だった。しかし私の知る京葉線の乗客過密度は”昔に私が経験したレベル”に比べれば緩やかなもの。

    かつて東京都豊島区に住んでいた私は文京区にある高校に通うために西武池袋線の東長崎~池袋の間と山手線の池袋~巣鴨の間を利用していた時期、それは今から60年くらい前のことになるが、両線とも電車内過密状態は酷かったので、その状況をご紹介すると・・

    ◎肋骨(アバラ骨)折れそうになるほどの”人圧”の凄さ!
    高校通学のある日の朝、西武池袋線の東長崎駅から二駅先の終点・池袋行きの電車に乗ろうとしたが、いつもの超満員がこの日は特に超々満員状態なので乗車口の”人のかたまり”に向けて、私は1メートルくらい離れた所から勢いをつけて体当たりすると同時に背を反転して、乗車口の上枠にかけた手と床に踏み入れた脚で体を突っ張りながら尻で押し入ってなんとか乗り込めたが・・

    閉まったドアの内側に胸がピタリと付いた体勢(まるで胸部レントゲン撮影時のよう)で、背中側からは強力な”人圧“に押されて全く動けないまま(次駅では反対側ドアが開くので)終点の池袋までの約6分間をその状態で我慢するハメになってしまった。

    ところが電車が池袋に到着する2、3分前に”人圧”が驚異的と言うよりも脅威的に増大して、私の胸は硬いドアにさらに押し付けられて(胸囲的圧迫?)肋骨が折れてしまうかもしれないという恐怖を感じながらも、とにかく池袋駅に到着して電車を降りて危機的状況から開放されたのだが・・


    “胸部の痛み”はその後数時間、その日の午前中いっぱいまでは続いた。
    電車内での胸部圧迫はたった2~3分間だったにもかかわらず、その後の痛みが数時間ということは、車内人圧がいかに凄かったかがお分かりでしょう。
     
    ◎肋骨折れそうになるほどの”人圧”発生原因解明!
    前述のように 電車が池袋に到着する2、3分前に”人圧”が脅威的に増大した事態の原因が、なんとこの文章を綴る直前に判明した(ので私事ながらスッキリした気分になった)次第。・・それは・・

    私が池袋行き西武池袋線の「東長崎」駅で(進行方向の)右側ドアから乗り込んだものの人圧で胸部がドアに圧接⇒次駅の「椎名町」駅では左側ドアが開閉して私は胸部圧接のまま⇒次駅の終点「池袋」までの距離の2/3ほど進行した地点で左に90度以上に曲がるカーブが在り、そこで車内の”人のかたまり”は大きな遠心力によって右側に偏るために、右側端に居る私は”さらなる圧迫”を受けたのだった!下図参照ください!
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    私が勝手に「魔の90度カーブ」と呼ぶその場所は、中学生時代に社会科の先生から「あのカーブでは昔、人が振り落とされることがあった」と教えられてもいた。終戦直後の日本中の列車にはデッキや窓枠に車外からしがみついている人が多い写真をよく見るが、そんな時代の話なのだろうか?そんなわけで電車がここにさしかかると当然のように減速はしているのだが、それでも私は本当に痛い目にあったもの。

    その他にも我が人生で最も過密な電車に乗った時期(60年前頃)に経験したいくつかの事例を紹介します。

    ◎超過密はある面で楽?
    電車内では特に乗降口付近がぎゅうぎゅうな状態になり、乗客どうしの身体が密着するので、つり革など持たず、脚を踏ん張らなくても体が揺れたり倒れたりすることがないし、軽い鞄などは手で持たなくても”人と人の間で”宙に浮かせることができた。現在のような中途半端な混雑状態ではこうはならない。

    ◎電車の窓ガラスが人圧で割れることたびたび!!
    私が通学に利用した山手線の池袋~巣鴨の間でも電車内過密状態は酷く、”超満員の人の圧力で(ドア付近の)ガラスがパリンという音とともに割れる音が頻繁に聞こえた”・・ガラスが割れたのを見ることなど人のかたまりにさえぎられて到底できず音で知るしかなかったというわけです。(電車用のガラスの強度は今昔で若干の差があったかも知れないとしてもやはり人圧はすごかった)

    ◎私は口紅を付けられた!
    ある日のこと、ぎゅうぎゅう詰めで身動きはできない状態で、何か人の顔が私の学生服の後ろ肩に触れたようなので気になって後で見てみたら”みごとに口紅の跡が付いていた”ということがあった。黒地にピンクは目立つのに駅から学校までの徒歩15分の間に級友に気が付かれなかったようで助かった。

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    大昔と違ってその当時はすでに「おちない口紅」(実際は”おちにくい”)が普及していたのだが・・

    ◎目的駅で降りられぬ人も多かった
    電車の乗降口付近はどうしても人が過密になるので、車掌によるアナウンスの「入り口付近より中にお進みください」に従っていたら、自分が降りようとする駅に着いても人のかたまりに邪魔されて降車失敗する。当時「降りまーす、降りまーす」という声はしょっちゅう聞かれたが、望み通りに降りることができない人も多かった。このような状態を知った人たちが目的駅での降車失敗をさけるために、電車乗降口付近に留まるためますます過密になる悪循環は続いた。

    ◎「尻押し部隊」活躍
    満員電車に乗り込むのに苦労している人の体を車内に押し込む作業をする「尻押し部隊」(俗称で他にも呼び名あり)は1955(昭和30)年に旧国鉄(現JR)新宿駅で初登場。その後乗降客の多い駅に普及して、私も押された経験は何度かありますが、実際は”尻を押すわけにはいかない”ので背中を押すもので、その他に、閉まりかけたドアからはみ出たバッグや服も押し込む役目もある。これを行うのは駅員の他に学生アルバイトも多いらしい。

    ◎痴漢の冤罪さけるために両手を上げる人いるが・・
    痴漢の疑いをかけられることを避けるために、自分の両手の指先があごのあたりにくるように、よく医療モノの映画やドラマで執刀医が手術直前にする”手上げ?”と同じような格好をする人がたまにいるが、
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    この行為は超過密状態ではむしろできない。なぜなら自分の手さえ動かせないし、無理に動かそうとするとその動きが疑われることになる。むしろその行為による”曲げた肘”が他人に当たって痛みを与えてしまうから迷惑行為になってしまう・・というわけで、この”手上げ”行為が可能な状態というのは”手が自由に動かせる程度の混雑時”となる。

    ◎昔のような乗客超過密な電車が無くなった理由は?
    ・鉄道路線が増えた
    特に東京圏では地下鉄網が増大して、1960年代末時点では銀座線、丸ノ内線、荻窪線(後の丸ノ内線の一部)、日比谷線、都営地下鉄浅草線が存在していたが、その後に増えたのが東西線、千代田線、有楽町線、南北線、半蔵門線、副都心線、都営三田線、都営新宿線、都営大江戸線。
    地下鉄以外ではJR埼京線、JR京葉線、都営舎人ライナー などが増えた。

    一方で路面電車の都電は1972年に荒川線を除いて全て廃止されたが、乗員輸送力への影響は少なかった?。

    ・その他、通勤・通学客自体が減少した要因としては・・オフィスや工場の郊外や地方への移転、フレックスタイム制導入増加、リモートワーク増加、少子化による学生の通学者減少などがあげられている。
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    悲話 : これもおよそ60年前のこと、通学のために前出の西武池袋線「東長崎」駅で、ホームに到着した池袋行き電車の先頭車両に乗り込もうとしたら、とんでもなく乗客過密で、いつものように力任せにわが身を突進させても”人のかたまり(これも「団塊」と言えようか?)”に跳ね返されてどうしても乗車は無理とあきらめた瞬間、ふと見ると車内になんと高校のクラスメートしかも日頃ちょっと気になる女子がいて顔が合ってしまった、と言うより私が乗車失敗する様子を見ていたようで、恥ずかしいやら悲しいやらの思いを抱きながら一本後の電車になんとか乗れたのでありました。ちなみに彼女は7つ前の駅から乗車していたので比較的楽に乗車できていたのだった。

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    ※参考
    ↓写真は京葉線の始発駅「蘇我」で発車直前の各駅停車用の車内で、ダイヤ改正後間もない4月3日(平日)午前6時45分頃に私が撮影したもの。その後終着駅「東京」近くになっても(十分に通勤ラッシュ時間帯になっているが)混雑度は、かつての私の経験に比べれば「大したことはないレベル」。ただしそれがダイヤ改変の影響なのかは分かりませんが・・
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    ◎冬の我が家にゴキブリ出現
    ゴキブリは冬には見かけないものだが、今年2月の初め、一年の内で最も寒い時期なのに我が家の廊下を這っているゴキブリ発見!
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    (大日本除虫菊(株)のHPより)

    さすがにヨタヨタと歩いている感じだったので、難なく捕まえて処分しましたが、私が千葉県のこの地に住み始めてから43年の間、冬にゴキブリ出たのは初めてで、やはり特に今季は暖冬だからと妙に納得した次第。

    そう言えばこの冬(3月初旬までのところ)には庭の小さな池には薄い氷がたった2回しか張っていない。例年なら一冬に10回は凍っている。寒冷地で天然氷を作っている所や天然アイススケート場では今年うまく氷が出来ずに困っているニュースが流れた。

    思えば、今から70年くらい前のこと、私がかつて住んでいた東京の豊島区のある池でさえ”大人が乗っても割れなかったほどの厚い氷”が張っていたし、20センチくらいの氷柱(つらら)も度々出来ていたことからすれば気候温暖化が進んだと感じます。

    ◎”生きた化石”と言われるゴキブリ
    シーラカンスやイチョウばかりでなくゴキブリも”生きた化石”と言われるゆえんは、地球上に現れたのが3億年前と言われ、6600万年前に(現在のメキシコのユカタン半島あたりに)小惑星(あるいは巨大隕石とも言われる)が衝突した結果、舞い上がった塵や発生したガスなどが地球を覆ったために太陽光がさえぎられて寒冷化し恐竜たちが絶滅しても、ほんの一部の小動物とともにゴキブリは生き延びてきたから。
    現在、ゴキブリは世界中に4000種あり、日本には40種。その内でも私がよく見かけるのは、クロゴキブリとチャバネゴキブリで、冒頭に登場した冬の我が家に出たのは前者。
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    (大日本除虫菊(株)のHPより)

    ◎頑強かと言えばそうでもないゴキブリ
    我々の認識では、ゴキブリは暖かな季節に活動が活発になるし、事実20~32度Cが適温であるそうだが、それより高温になると致命的になり、35度でダウンして42度になると体内の蛋白質が固まって死んでしまう。そう言えば高温では蚊も活動しなくなるところは似ているか?
    またゴキブリは乾燥も苦手。ゆえに水分を求めるから水気の多いキッチンに出没することも多い。

    ◎ゴキブリは飛ぶ !
    普通は這いまわる姿しか見ないゴキブリですが、私が中学生の夏のこと、2階の部屋で窓を開けて勉強していたところ、突然黒っぽい何かが窓の外から飛び込んで来てノートだったかに止まったので、驚いて見てみたら大きいゴキブリだった。それをどう処理したかは記憶にないが、とにかくゴキブリというものは飛ぶものでもあると知った次第。

    ・・ということは・・(我が家とはちがう)立派な高気密の邸宅であっても、窓を開けていればゴキブリが飛んで侵入することもあるということで、私の経験では、ある大きなホテルの”窓が開閉できる客室”の床を這っていたのは”飛んできた”ゴキブリだったのではないかと思われることがありました。

    ◎ゴキブリを私の弟は昆虫標本にしていた !
    ゴキブリは脚が6本あり確かに昆虫なので、昆虫採集に夢中になっていた”私の弟“が小学5,6年だったかの夏休みにたまたま捕まえたゴキブリを他の蝶々やカナブンと一緒に昆虫標本にしていた。

    ◎ゴキブリは病原菌の運び屋と知られて触られなくなった!
    1960年代後半(だったか)になると、まず「ゴキブリは小児マヒ(現在で言うポリオ)の原因となるウイルスを持っている」という警告的な情報がマスコミから流れるようになって、それからはゴキブリはさわってはいけない存在になったので、前述のような” ゴキブリを手で触りながら昆虫標本にする”ことはできなくなった。

    元々、暗くじめじめしてしかも栄養豊富な下水道などを好んで多く棲むゴキブリは、ポリオだけでなく多くの病原菌・ウイルス(サルモネラ菌、赤痢菌、黄色ブドウ球菌、O157など)を身に着けて這いまわることが、その後に発表されるようになってますます触れなくなった。おまけにゴキブリの糞にも含まれるそうなので、これも注意が必要。

    ◎ゴキブリは耳の穴にも入り込む!
    暗く狭く暖かい耳の穴はゴキブリには絶好の棲みかとなるようで、ゴキブリが入り込む症例?が日本だけではなく世界中でゴキブリの生息地であれば発生しているそうです。

    その場合のゴキブリはまだ小さい子供が多いのでしょうが、小型種の大人もいることは間違いなく、何故ならば”耳穴”に卵を産み付けられた例もあるからです。

    実は耳穴に入り込む虫はゴキブリだけでなく、他にクモ、蚊、ハエ、ダニ、ムカデなどがあり、これらをまとめて医学用語では「外耳道有生異物」と言うそうです。当然のようにこれらは耳穴のみならず鼻穴、口中などにも入ることがある。

    ◎キッチンのゴキブリは液体洗剤で・・
    食器や食材があるキッチンでゴキブリを見つけた場合、薬剤をスプレーするわけにはいかないので、私はキッチン用液体洗剤をゴキブリめがけてピュっとかけると、一瞬で絶命?するのか動かなくなるので安全に処理できます。

    調べたらゴキブリは腹にある気門で呼吸していて、これが液体洗剤などで塞がれるとダウンすることがわかりました。

    ただし最近のキッチン用液体洗剤は濃縮タイプなのでゴキブリ退治用に使うのはもったいないので薄めた液を用意したいところ。

    ◎家電メーカーはゴキブリ対策に苦慮 !
    暖かくて水分がある状態になる電気製品は特にゴキブリ対策に悩まされる。
    食器乾燥機は温熱部位があり、しかも水滴受け容器があり、また食器が完全に乾くまでは水分も存在するという”ゴキブリにとっては快適な機器”となるので、ゴキブリの侵入や棲みつくのを防ぐ設計に苦労する。
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    そのため、某電機メーカーの製品設計者は”ゴキブリ100万匹を飼育して生態などを研究している”ことで有名な「アース製薬の赤穂研究所」に出向いて教えを乞うて”電気製品へのゴキブリ侵入防止対策”を練ったと言う。具体的には機器の放熱孔、通気孔などの形状や位置の適切な設計などに応用されている。

    その他、エアコンの本体の中にゴキブリ侵入の例も多く、その侵入経路には屋外にのびるドレンホースの先端からのことが多く、特にその先端が地面に着いている場合が多いとのこと。

    ◎ラテン音楽の「ラ・クカラーチャ」はゴキブリの歌 !
    「クカラーチャ」とはスペイン語で「ゴキブリ」のこと。(「ラ=la」はスペイン語で女性名詞単数の前に付く定冠詞で、英語では「the」に当たるもの)

    「ラ・クカラーチャ」は元歌がメキシコ民謡で作曲者は不明。同じ題名、メロディでも歌詞が異なるいくつもの歌が存在していて、その中の一つとして”ラテンアメリカ最初の民主革命と言われるメキシコ革命が1910年から約20年間続いた中で活躍した一人であるビリャが率いる軍隊の中で歌われたもの”があり、その歌の中の歌詞では自分たちをゴキブリに例えている。
    →「ラ・クカラーチャ」=https://www.youtube.com/watch?v=fCR-xDOwlZY

    この歌、日本では「車にゆられて」という曲名がつけられて歌詞は牧場の仕事の様子を表したような内容となり、「ラクカラーチャ」という言葉は単なる合いの手・掛声的に挿入されたカタチで1963年にNHK「みんなの歌」として流されてから以降、一部の学校でも歌われるようになっているそうです。

    ところで「クカラーチャ」は英語では「コックローチ」なので、その語感からして互いに関係した言葉ということがわかりますが、こういうケースでは双方ともが、ある一つのラテン語から出ている場合も多いものの、もしもラテン語由来ではないとすれば、私は英語の「コックローチ」が中南米に到ってからなまって「クカラーチャ」になったと考えていたところ、実態はその逆で、「クカラーチャ」が英語圏に到って「コックローチ」になったとのこと。

    ちなみに私事ながら、私が英語の「コックローチ」という単語を覚えたのは、1977(昭和52)年に大日本除虫菊株式会社から「金鳥コックローチS」というゴキブリ用殺虫剤スプレーが発売されたからでした。(現在は「金鳥コックローチ ゴキブリがいなくなるスプレー」という名の商品になっている)
    cockroach-s

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    前々回、前回と騒音について綴りましたが、実は私自身が”気づかぬうちに騒音源となっていた”ことがありました。それは・・
    ◎スピーカーからの音楽で隣から怒鳴り込まれた! 
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    私が勤務地の大阪でアパート※暮らしを始めた1970年代初め、その自宅で聴くレコードなどの音楽の音量には気をつけていたつもりだったのですが、ある日の夜7時頃のこと お隣のご主人が「うるさい」と言って怒鳴り込んできました。

    つまり、私は隣宅の人にとっては騒音となる音を出していたわけですが、なぜこんな事態になったのかを考えてみたら、複合要因があったのです。 それは・・

    (1) 隣宅との境が防音・遮音性が十分でない塗り壁1枚では”お隣は隣室と同じようなもの”という認識が私には無かった。

    (2)(上記と密接に関連しますが)私はそれ以前には戸建て住宅にしか住んだことがなかったので、集合住宅の”音の問題”を知らずに、戸建てで聴いていた音量基準では大きすぎた。

    (3)夏だったので(2階角部屋の)窓という窓を全て開放した上で扇風機を最大風量にしていたために、聴いている音楽が風音でかき消され気味だったので、従来よりも音量を少し大きくしてしまっていた。

    (4)隣宅のご主人の職業がタクシーの運転手なので、勤務時間の関係で睡眠時間帯が一般とはちがっていることがあって”私が出していた音が聞こえて眠れないことが多々ある”ということを後で奥さんから聞いた。
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    ※当時私が住んだアパートは関西独特の呼び名である「文化住宅」という種類の集合住宅で、1950年代から出現した木造モルタル(多くは2階建て)造りで各戸ごとに台所とトイレがついている形態だった。

    ◎いびきがうるさいから(無言で)座席背もたれを後ろから蹴られた!
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    右写真はYahoo newsより引用)

    私が50才代なかばのある日に、出張で新幹線に乗って東京から大阪に向かう途中、いつものように眠っていたら突然座席背もたれの後ろからガーンと強く(たぶん)蹴られて目が覚めた。

    とっさに私は自分のイビキがうるさかったからと理解した。そう判断する材料となる事態が過去にも新幹線内であったからで、その際は新大阪から乗り、東京に列車が到着すると横に座っていた高齢男性に「イビキがうるさくてたまらなかったよ」と文句を言われたのだった。いずれも私のイビキは騒音レベルだったようです。

    その他にも通勤電車の中で眠っていて隣の人から私の脇を小突かれたり、腕にギューっと圧力を加えられることがあったのは、その当時は”何でそんなことをされるのか”に鈍感だったものですが、それは私のイビキがうるさかったからだったということに後年にやっと気が付いたのでした。

    ※その後、私は自分のイビキ解消または抑制する方法を体得して、騒音問題ほぼ解決したのですが、長くなるので詳細は後述します。

    ◎いかなる音も騒音になる可能性がある!
    条件の違いによってあるいは人によって、ある音が騒音になったりならなかったりするもので、それは大音量はもちろん、小さな音量でも起こります。

    (1)ある音や音楽を騒音と感じる人と感じない人がいる

    A)生理的に好・嫌が分かれる例
    ・前回にもとりあげた”風鈴の音”が好例。
    ・昔、私の弟がレコードで”グレゴリオ聖歌”を好んでよく聴いていたが、祖母は「ご詠歌みたいだからやめてちょうだい」と苦情を言っていた。
    グレゴリオ聖歌の例:https://www.youtube.com/watch?v=fKLxgRH95Ns

    B)“コーホート”(ある年代の社会を経験しているある世代集団)によって好・嫌が分かれる例
    ・近所の公園や通路で遊ぶ子供の声・・近年に生まれた世代と比べると3.5倍も仲間の人数が多かった団塊の世代(出生数比較:1949年=269万人/2023年=76万人) が育った時代は公園、広場や路地で遊ぶ子の数は今の時代より当然多かったし、比例して騒ぐ声も多かった。
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    (団塊世代直前の世代である私が通った小学校(東京・豊島区)さえも1学級に児童平均60人、それが6学級あり1学年で計360人だったが、他の地域ではもっと多い児童数の学校があった)

    そのように、子供仲間が騒ぐ声が聞こえるということが日常であった団塊の世代やそれに近い世代は、その後近年に至るまで”子供が近所で騒ぐ声”をうるさいと感じる人が少ないどころか私のように”むしろ、子供のさわぐ声が聞こえなくなったら寂しいくらいで、さらにこれは少子化問題深刻、日本消滅へ向かう”ことの表われであると感じるから、その意味でも”子供の声歓迎”と思う人も少なからずいるのでは?

    C)喧噪の環境で育ったか否か(田舎?)
    都会のような喧騒に包まれ、あるいは慣れ親しんで育った人たちにとってそれは騒音とは感じなくても、静かな環境で育った人には騒音と感じることが多いもの。

    逆に、都会育ちの人は、里山で田んぼの蛙の合唱がうるさいとか池のウシガエルのボオ・ボオ・ボオという合唱がうるさい。その他セミの声も・・ということでこれが騒音に感じる例がある。

    蛇足ながら、一般常識では騒音なのに私はそれをむしろ快音と感じていたのが・・東京の昔の新宿の街の喧騒の中でも、道ゆく人の頭上から有線放送の声がふりそそいでいっそう賑やかさを増していた”音の風景”でした。‥その有線放送から流れていた(映画館の上映案内の)ナレーションの出だし部分の
    「ブリット、ブリット、スティーブマックイーン主演の・・」がなぜか記憶に残っている。(「ブリット」:1968年公開の米国映画)
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    この新宿の街の有線放送が今でもあることが先日のテレビで知ることができました。・・それは最近「鳥貴族」という名の有名な焼鳥居酒屋チェーン店の新宿店の類似店が”客引き人”を使って客をだまして誘導する悪行が発覚したことをうけて、有線放送で注意を呼び掛ける音声が流れていたから。

    (2)同じ人の中で、その時の精神的や肉体的状態によって騒音にも非騒音にもなる
    A)好きな音楽が場合によって逆に騒音(的)に聴こえる例
    小説家などが執筆作業する際に、静寂な環境の中でよりもそこそこざわついている喫茶店でのほうが効率が上がるという人も少なからずいますが、それと同様な目的で何か音楽を聴きながら作業する人の中には、自分好みのジャンルの音楽が聞こえてくると、そちらにも意識が行ってしまい邪魔になるから、それは一種の騒音になってしまうものなので逆に嫌いなジャンルの音楽が聞こえていたほうが意識に入らないから好ましいことになるそうだ。

    cafe

    B)病気の時、イライラしている時、受験勉強などで難問を解いている時などは、通常は普通に聞く音楽や話し声が騒音化するもの
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    ・・昔、隣家の高校生の息子さんが、普段は温和なのだが、ある時に2階の(たぶん勉強部屋の)窓から、道を歩きながら会話している小学生数人のグループに向かって「うるさい!」と珍しく怒鳴っていたことがありました。

    (3)時間帯によって(地域によって)騒音化する例
    ・横断用信号音の音
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    横断中に鳴るピヨピヨなどの音を出すタイプの信号は正式には音響信号機と言い、主に視覚障がい者に便利なように、メロディ(「通りゃんせ」や「夕焼け小焼け」など)または擬音(「ピヨ」や「カッコー」)の音で横断歩道が青信号状態を知らせるものだが・・

    その音が都会の喧騒の中で鳴るのは問題ないが、住宅地では昼間はほぼ問題ないものの夜間では音が周囲の音環境の中では相対的には大きく感じてしまうことになる。

    しかもこの音響信号機が採用され始めた当初は「メロディ式」でしかも誰でもが知っている曲なので、住宅地などで少しでも聞こえるとどうしてもメロディと歌詞をアタマの中で追ってしまうので、その近辺の住民にとっては”夜間の騒音化”してしまう事態が起きていたので苦情も少なからず出ていた。

    ・・ということで現在は新規設置するものはすべて「擬音式」になっていて「メロディ式」は全国で2%しか残っていない。

    騒音苦情が出たある地域では夜間には音響信号機を停止したところ、ある夜に視覚障がい者がクルマにはねられてしまったという弊害も起こっている。そこは夜間でも昼間より音量を下げた擬音タイプの音を出すべきでしょう。

    (4)タブー音も騒音のうち
    騒音イコール望まれない音であるという解釈からすれば、音の大小に関係なく”嫌われる音”は騒音。

    A)”夜の口笛”・・昔から夜に口笛を吹くと「蛇が出る」、「人さらいが来る」、「泥棒が入る」などと言われて、その行為はしてはいけないという言い伝えがあり、(その理由はここでは省略しますが)とにかくこれを信じる人たちにとっては”夜の口笛が騒音”になる。

    k-kutibue
    松竹DVDより

    B)”音のマナー違反”・・食事の際の”皿とカトラリー(ナイフ、フォーク、スプーンなど)が当たる音”、”咀嚼音”、”ゲップ音”そして外国人にとっては”麺類をすする音(これを最近では「ヌーハラ」と言うそうです)” などは一種の騒音となる。
    nuuhara
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    私の場合の”イビキ解消法”・・まずこれは多くの人に共通することですが、普通に寝る場合は横向きに寝るのが原則。仰向けではイビキを書きやすくなると同時に睡眠中に唾液が気管に流れ込んで誤嚥性肺炎になる危険もある。

    そしてイビキ解消法は・・”眠る際は下あごを上あごより前に出す”こと言い換えれば下側の歯列が上側の歯列よりも前にせり出た状態にすること。
    これによって眠っている際の気道が塞がれないようになってイビキが発生しない(しにくい)ことになる。
    このあごの前後関係を維持するのは最初は努力が必要だが、日中でも意識的に”下あごを前に”をこころがければ、そのうちにほぼ無意識にもできるようになり、この状態は入眠後も保てるよう(ここは確信できませんが)です。

    この方法が顕著な効果を示すのが、乗り物(電車、新幹線、バスなど)に乗って眠る際やソファに座って居眠りする際で、もうイビキをかかなくなります。(この効果を出すためにもう一つ必要な事は太っていないことです)

    “下あご前出し”状態維持がどうしてもできない方は病院で”(睡眠時無呼吸防止用)マウスピース”を作ってもらうのがよいでしょう。(マウスピースそのものの製作代は3割負担で1万5千円程度)
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    騒音関連のお話 次回にも続けます
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    前回、最近の日本での騒音苦情の事例をあげてみましたが、冬ならではの例、その他の例を追加紹介します。
    ◎「雪かきの音がうるさい」・・という苦情
    yukikaki
    その音とは「ゴーリ、ゴーリ」というような音であり、雪かきをする際に金属またはプラスチックのスコップ(シャベル)やスノウダンプ(上イラスト右側)が地面(最近はたいていアスファルト舗装面)に擦れて必ず発生する音。

    勿論、降雪が多い地域では必要な作業なのですが、”深夜または早朝の雪かき音による安眠妨害”への苦情が非常に多い。

    具体的には、”深夜2時、3時”や”早朝5時”の雪かき作業を平均30分くらい続けるのでその音で眠っていられないという声が多発。

    中には、深夜にエンジン式の家庭用除雪機※を使う人もいて大迷惑だが、豪雪地域では自治体が大型除雪車を深夜でも稼働させることがあり、これは各家庭前の道路をサーっと通り過ぎるので苦情は出ないそうだ。 ※電動の静音タイプ除雪機は販売されているのだが・・

    jyosetusya

    北海道の河西郡芽室町では公害防止条例で「夜間(22時~6時)にあっては付近の静穏を害する行為をしてはならない」と定めているため、これをもって違反者を出さないようにしている。

    ◎「『火の用心』の見回りの掛け声がうるさい」という苦情
    hinoyoujin_yomawari
    昔から全国的に行われてきたカタチは、夜間に数人が一団となって「火の用心(ひのよーじん)」と大声を出し、拍子木をカッチ、カッチと打ち鳴らすことを繰り返しながら地域を歩き回る・・というもので主に空気が乾燥しかつ暖房などで火を使うことが多い冬の期間中に行われるもの。

    私がかつて暮らした東京都豊島区の町では、昭和20~40年代(その後は知りませんが)には「火の用心! マッチ一本火事のもと!」と言っていた。またその一団は大人一人が付いた子供数人で構成していた。
    しかし現在はこの”火の用心巡回”を行う地域が減っているそうで、その理由は・・子供が減った社会では寒い中での高齢者が行う訳にもいかないこと。巡回担当が持ち回り義務になっている地域ではその負担への不満充満。
    そして”火の用心巡回”の掛声がうるさいという苦情も多いこと。

    ・・というわけで長年の慣習を廃止する地域が多いものの、超高齢社会の最近では住宅火災で焼死するお年寄りのなんと多いことか。むしろ東京都の東部の住宅密集かつ道幅が狭く消防車到達困難地域では”火の用心巡回”を消滅させてはならないという意識が若年・壮年にも強い。

    この巡回にはもう一つ同時に、不審火・不審者防止という効果があることも見逃せない。

    次善の策として”声は出さずに拍子木だけ叩いてまわる” “消防団員のボランティアが実行” “(私の住む地域では冬季のみに)消防車が鐘(電子音)を「カン、カーン」と5秒ごとに鳴らしながら巡回”などで対応している。
    syoubousya

    その他、生活音の範疇に入るもので騒音苦情として多いのは・・

    ◎飼い犬の吠え声
    inuhoe
    犬の吠える単発の声(ワンと一声くらい)には我慢できても、連続して吠える、年がら年中吠える声は万人がうるさいと思うもので、それも屋外の犬小屋で飼っている犬の場合は酷くなり、これを飼い主が放置しておけば隣近所から苦情が出ること必至。

    私の近所では、犬の吠え声への苦情が原因で2軒の間が絶交していました。(その後、犬の家は転居) また、昔に私の祖父の家の犬小屋で飼っていたほとんど吠えない犬に「うるさい」と苦情を言ってきた隣家がありましたが、これは余程の犬嫌いだったのでしょう。

    以前のブログに書いたことがありますが、昔 私が警察無線を傍受出来ていた時期には「住所〇〇の〇〇という家の横を通るたびにこの家の犬が吠えてうるさい」という苦情の訴えがあるので現場に向かえという指令を警視庁からパトカーへ伝えていたことがありました。

    これまた昔の話ですが、日本ではかつて「スピッツ」(正式犬種名:日本スピッツ/下写真)という”フワフワ白毛で耳ピンと立ちちょっとかわいい顔”をした中型犬がもてはやされた時代があって、先述の祖父の家でも飼っていたことがありますが、この犬、キャンキャンとよく吠える性格と抜け毛が多めであるのが欠点で、それ故に全国で次第に飼われることが少なくなってしまいました。(ただし、最近は比較的おとなしくなるように品種改良しているとのこと)
    spittu
    (↑
    写真はウエブマガジン「いぬのきもち」より引用) 

    ◎風鈴の音
    fuurin

    風鈴はガラス製、陶磁器製、鋳鉄製などがありますが、いずれも風によってチリン・チリンという音がするものですが、決して大きな音ではないものの・・

    まず問題はこの”風鈴の音そのものが人によって好き嫌いが分かれることで、嫌いな人にとっては騒音となっていること。

    もう一つは、”風鈴が強風のもとでは強い音でしかも途切れることなく鳴り続ければうるさい”と誰でもが(通常の風鈴音が好きな人でさえも)騒音と感じること。・・実際の例では夏を過ぎても風鈴を”ひっこめる”ことをしないで台風や、木枯らしが吹いてもほったらかしの家が少なからずある。

    ◎騒音になり得る音環境の概念図
    ここで、前回と今回でとりあげてきた”騒音になり得る音環境”を整理して下図のようにしてみました。
    <直接音>対面して話される声、怒鳴る声 / 同じ部屋や電車やバスの中で騒ぐ声など
    <隣接音>隣室・隣家の人の声や足音、家電機器音、ペット声、風鈴音など。いわゆる生活音。
    <周囲音>隣接または極近隣の公園、駐車場、道路駐車、保育園・幼稚園・小学校などからの声や音。
    <公害音>万人が確定的に騒音と感じる音なので各種法や条例で規制あり。工場や工事現場の稼働音、自動車類総体の走行音、航空機音など。
    <公共音>多くの人への素早い情報伝達のために必要な”地域有線放送”、地域住民が楽しみにしている伝統の行事や祭りの音、年に一度の除夜の鐘、”火の用心”の巡回音など。
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    その他、騒音に関して私が体験したエピソードなどは次回に・・
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    (1)多くの寺が除夜の鐘に苦慮
    昨2023年の大晦日、『東京都のある寺では除夜の鐘をつくことをやめた。
    joyanokane
    この寺では昔から、毎月1日と15日の午前5時に鐘をついてきていたが、5月に「鐘の音がうるさい」という苦情がよせられたと警察から連絡があったので、以後は鐘を打つ回数を減らしていたが、11月になって鐘をついた数時間後に、墓地に備え付けの手桶30個がすべて燃やされてしまった。

    ・・というわけで、寺の鐘の音に不満をもつ人と対話して良案を求めたいが、それもできないままでは今後のエスカレートも心配なのでやむなく日常の鐘つきと除夜の鐘つきを中止にしたのだった。

    また別の寺では、苦情が出ることが予想されるご時世になったので、予防措置として自主的に”除夜の鐘はコンと打つ”だけにとどめるようにした。』 (『』内は毎日新聞ウエブ版2023.12.31より抜粋)

    私の住む千葉県の圓明院というお寺でも、除夜の鐘は騒音苦情対策かつ高齢者と子供が参加しやすい時間として午後4時からつき始めている。

    (2)盆踊りの太鼓の音や音頭の歌声に苦情も !
    bonodori
    盆踊り(夏祭り、秋祭りなど)開催にあたって主催者側は開催前に管轄警察や近隣への断りを入れていても、最近は音がうるさいという苦情が出ているケースも増えているようで・・

    『太鼓の”打つ面“の反対側の面に分厚い布を張って音を弱めたり、音量を抑えた電子太鼓を使うところも出ている。』 (『』内 同前)

    私の住む地域では盆踊りそのものの開催を従来は2日間、午後3時から午後10時までだったものを、段階的に日時を短縮するようになって最終的に、開催は1日限り、しかも午後9時までになってしまった。

    (3)子供騒音苦情で公園廃止事例が発生
    昨2023年3月末に、長野市のある公園が廃止されたが、その理由を市は「隣接する住宅の一軒から『子供たちの声がうるさい』という苦情が出ているため」と説明した。

    child-in-park
    この報道がマスコミから流されたとたんに、この苦情主への批判が多数(賛同も若干)SNS上などに寄せられた。同時に氏名と身分を特定して公開され、いやがらせの電話あり、頼みもしない住宅メーカーのパンフレットが送付された。

    週刊誌の取材において苦情主が語ったことには・・「子供たちが公園で遊ぶこと自体に反対しているわけでもなく、ただあまりにもうるさく、雨戸を閉めても効果ないほどで、しかも禁止されている球技をしてボールの打球音やサッカーボールを蹴る音がこれもうるさい。

    さらに近所に在る児童センターがウイークデーの午後3時から5時くらいまで約50人の児童をひきつれて遊ばせる時間帯が特にうるさい。おまけにこれら児童の親が送迎するために付近にとめたクルマのエンジンをストップしないのでこれもうるさい。

    このような状況なのでこの苦情主は自ら、ボール遊びの子供たちには都度”公園の規則を守るよう”に言い聞かせており、児童センターにも対処改善を申し入れしたりしていたが一向にらちが明かなかった。」

    そもそもこの公園に隣接する住宅でこの苦情者宅以外は日中不在なので苦情が発生しなかったようで、結局は苦情者宅の奥さんが「18年間我慢してきていたが、主人が前年に定年退職して在宅でリモートワークを始めたところ、この日中のうるささをあらためて主人が強く実感するようになったため、市に訴えた」・・のだそうです。

    (4)電車内で騒ぐ自分の子供放任を主張の”「おやおや」な親”登場!
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    数年前にマスコミによって紹介された事例ですが・・電車内で騒ぐ子供に向かって、ある高齢男性が”うるさいことを注意“したら、その子の親がこう言い放った・・

    「子供は泣いたり騒いだりするのが仕事。うちでは周りに迷惑をかけるなという躾はしていない。
    あなたの価値観を子供に押し付けないでください」

    もうこの親の言動にあきれるやら、悲しいやら。 その親自ら「・・という躾はしていない」と言って、その言葉どおり躾ができていないし、これは価値観以前の問題であるということが分かっていないので思考回路が疑われる。

    ここでちょっと話は飛びますが・・やはり数年前に、児童が学校給食で食事前に「いただきます」と唱和することにたいして、ある親が「給食費を払っているのに『いただきます』という必要がないではないか」と学校にクレームをつけた事例があったが、その親も「いただきます」の本当の意味を考えることができないことを世間にさらけ出していた・・ことが思い出されます。

    ◎「騒音」とは何なのだろうか?
    「騒音」とは「望ましくない音」である。
    ・・という説明がみられるが、確かに”大音量で長時間継続する音”、例えば工場・事業場騒音、交通騒音、建設作業騒音などは万人が望まないものなので各種法令や条例で規制されているが・・

    では”大音量だが短時間継続、しかも年に1回かつ決まった日にしか出ない除夜の鐘や盆踊りの音は、大多数の人が望む行動にともなって発生する望ましい音であり、望まない人は少ないのに、これを騒音と呼ぶものだろうか?

    一方で大音量ではないものの、音によっては”望ましくないか否か”は”時と場所と人”によって異なるものがあり、それが生活騒音とされる部類に多く例えば、東京都環境局の5分類によると・・

    ・家庭用機器からの騒音:冷蔵庫、掃除機音など
    ・家庭用設備、住宅構造面からの騒音:ドア開閉音など
    ・音響機器からの音:ピアノ、カラオケ、ステレオ、テレビなど
    ・生活行動に伴う音:話し声、足音、食器の音など
    ・その他:ペットの鳴き声、風鈴、建物外から入る自動車の音(クラクション、エンジン音、タイヤ音)など

    ※これら5分類生活騒音についての実例やエピソードが(私が経験した事例だけでも)多くあるのですが、次回にご紹介します。

    さてこれらの生活騒音は程度の差はあるものの、音の発生源からは壁、床、天井、窓ガラスなどで一応遮断されているが若干漏れている、あるいは伝わってくるという、いわば(音源近いが)”間接騒音”。一方・・

    前述の例のように、電車内という狭い一種の閉鎖空間の中で、音を遮断するものもない状態で、寝ている人、本を読む人、体調がすぐれない人などがいるかもしれない前で子供が騒ぐ音は(間近からの)”直接騒音”であり、即禁止・制止すべきは明白。

    そしてもう一つの前述例の”公園での子供騒音”苦情の件は、苦情主、児童施設や学校、公園管理する自治体のそれぞれがもっと真剣に対処法を考えていたら、なにも公園を廃止しないで済んだのではないだろうか。(苦情主は「何で苦情を言うのか、ここに住んでいる者にしかわからない」というようなことを述べておられるそうだが) 対策案として・・

    ・まず児童施設や学校での騒音教育・指導の徹底。 

    ・児童施設が児童50人を連れて当該公園を利用する際には、この公園は広いので”苦情主宅から半径20?メートル以内には児童たちを行かせないように都度ロープを張る。 

    ・「不快音」は音量や音の波形に関係なく4000~7000ヘルツとされるが、子供の声は通常は1000~2000ヘルツのところ、遊びの最中によく発する「キャー」という声は4000ヘルツを超えていることはまちがいない。(子供のデータが見つからないが、大人の「キャー」という声でさえ2000~4000ヘルツとされるから)

    この子供たちの高音の声は反射しやすくかつ吸収されやすい性質があるので、これを利用して、苦情主宅近くに”音の反射板”設置や常緑樹の植栽を増やす。(見通しや風通しに配慮しながら)

    ・苦情主宅の窓を2重又は3重の防音ガラスにする

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    以上、騒音についてまだ語ることがあるのですが、文章量が多くなりすぎたので、次回に続けます。
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    「蔵出し」とは、金庫からお金を取り出すことや、倉庫に保管しているモノを取り出すことを言うのだそうですが、通例は特に酒類の場合に貯蔵されている蔵から出したばかりのモノを言いますね。

    ここで、酒以外にも「蔵出し」を使っている例をちょっと紹介!

    ◎トヨタ博物館「お蔵出し展」
    丁度今、2024年1月26日から6月30日まで 
    トヨタ博物館(愛知県長久手市)文化館2階 企画展示室で、
    秘蔵の国内外の名車400台の中からレアな13台を
    (トヨタいわく)「蔵出し」して展示する。(常設の140台とは別に)

    toyota-poster

    5つのテーマに分けて紹介
      (A)60年前に日本や欧州の道を庶民の足として走り回った大衆車
    (B)1960-1970年代の日米欧の伝説的なスポーツカー
    (C)1964年の東京オリンピックで選手の移動をサポートしたコミューターバス
      (D)日本車でありながら日本には導入されなかった海外市場専用車
    (E)二輪車

    (A) 1. DAF 600(1959年・オランダ)
      2. トラバント 601 ユニバーサル(1965年・東ドイツ)
      3. 三菱 コルト1000F(1968年・日本)

    (B)4. シボレー コルベット スティングレイ(1963年・アメリカ)
        5. 日産 スカイラインGT-R(1970年・日本)
        6. ロータス エランS4(1972年・イギリス)

    (C)7. トヨタ バンデランテ(2001年・ブラジル)
        8. トヨタ ハイラックス VIGO(2005年・タイ)
        9. トヨタ アイゴ(2006年・チェコ)

     (D) 10. トヨタ ライトバス(1963年・日本)

     (E) 11. 三菱 十字号 自転車(1947年・日本)
      12. 三菱 シルバーピジョン(1949年・日本)
      13. ホンダ スーパーカブCA100型(1962年・日本)

    DAF 600(1959年)
    daf600

    シボレー コルベット スティングレイ(1963年)
    stinglay

    トヨタ バンデランテ(2001年)
     toyota-banderante
     
    その他 ・オープンカー走行披露:トヨタ 2000GT ロードスター(1967年)
             レクサス LFA スパイダー(2012年)
          ・別途展示:MR2プロトタイプ(1983年)・・など
      
    詳細はトヨタ博物館公式Webサイトで

    ◎「蔵出しガソリン」 !
    国道16号線が千葉県市原市の姉崎海岸と称する町を通るエリアの道路より西側=海岸側は多くの大企業の工場や研究所(出光興産、三井化学、AGC、日本板硝子、ENEOS、UBEなど)があるが、中でも出光興産の精油所や研究所の敷地は広大。

    この出光興産側とは国道16号を挟んで反対側沿道には幾つかのガソリンスタンドがある中で、当然のように出光スタンドがあるのですが、そこの道路沿いに立っている旗には・・
    「蔵出しガソリン」と大書してあるので目立つと同時にちょっとしたユーモアを感じてしまう。

    このスタンドは目と鼻の先にある石油精製工場から確かに出来立てのガソリンを供給しているだろうから、このような表現が自然に出たのでもあろう。

    しかし石油業界には「蔵出し税」というものがあり、これは石油を精製してガソリンを製造した業者がその出荷時に課せられる税のことだそうで、この税の名も” 「蔵出しガソリン」という表現”に影響しているのでしょう。※軽油には「蔵出し税」ではなく地方税がかかる。

    ちなみに酒造業界にも同じ「蔵出し税」があるそうで、これも酒造業者が酒類を出荷する際にその業者に課せられる税。

    ↓出光興産 千葉事業所 (下航空写真の赤色矢印が「蔵出しガソリン」のスタンド)
    idemitu-ss

    ↓海側から見た出光興産石油精製工場 (写真:hitoshi Matsuzawa氏)
    idemitu-view

    ◎蔵出しをされずに見つかった大量のヴィンテージカー!
    2007年のこと、米国ニューヨーク在住の老夫婦が定年を機にポルトガルのある農地を納屋付きで購入して驚いた。
    前所有者が入り口の鉄製扉を溶接して閉鎖していた大きな納屋を、開けてみたらなんとヴィンテージカーが180台。びっしりとしかし埃で白くなった状態で発見された。
    その価値は概算で2600万ドル(日本円146円換算で約38億円)。

    調べたら、クルマのディーラーをしていた前オーナーが趣味で集めていたが納屋が満杯になったところで封印して死去してしまったらしく、その後15年経過しての発見となった次第。

    クルマに限らないが、集めていたモノを何らかの理由でその一部または全部を身内や他人に譲る、売却する、あるいは博物館などに寄贈する例も多く、それは”蔵出し”というカタチになるのでしょうが、このポルトガルの納屋の場合は、大量のヴィンテージカーが蔵出しされずにいたということになる。

    ↓これが”お宝満杯の納屋”
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    ↓埃をかぶったヴィンテージカー
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    vintage

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    ↓この納屋内部の様子の動画(一部は年式・車種説明付き)YouTube
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    ありゃまぁー!この文を書いてる最中に、山本由伸までもドジャースに入団決定のニュースが・・

    ◎ドジャースとドッジボール
    ところで私、「ドジャース=Dodgers」の「Dodge」とはいかなる意味か知らなかったので、今更ながらですが辞書をひいたらば・・(1)「(打撃などを)素早く避ける/ひらりとよける、身をかわす」、(2)「(質問、義務などを)言い抜ける、ごまかす、はぐらかす」。・・なので「ドジャース」は(1)の意味をふんでいるのでしょうが、それにしても”dodgeしていたら試合に勝てない”のに不思議な球団名にしたものですが、他の意味があるのでしょう。

    ここで辞書には「dodge ball」なる言葉がのっていて、その意味=「ドッジボール」とだけの表記。恥ずかしながらこの歳になってこの遊びの名前の由来を知りました。確かに私はドッジボールではボールを受け止めるより”ひらりとよける”ほうが圧倒的に多かったことを思い出しました。

    さて大谷翔平のドジャース入団発表会見では、いつものことながら彼の挨拶や答弁はていねいで心のこもった内容だった。

    そこには大谷の細かい”配慮”を感じさせるものが多く在った。それは言葉による表現ばかりではなく服装にも現れていて、ネクタイはドジャーズ色のブルー、そしてそのネクタイとワイシャツの襟の関係も文字通り”隙の無い”着こなし。

    加えて、彼が手首にはめていた腕時計。これに私は気がつかなかったのですが、それに注目した人が多かったようで、会見直後からX(旧ツイッター)上では多くの日本人の他に米国のスポーツビジネス経営者のジョー・ポンブリアーノ氏も反応したとのこと。
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    ◎大谷のその腕時計は価格60万5000円
    腕時計好きの人たちは大谷のその時計が日本のグランドセイコーであることは瞬時に把握したようで、大谷が日本の代表的な時計を身に着けていることに多くの人が好感を示している中で、さらにその型番名までも判定する人が現れたものの断定はできずに、ある人は「SBGR261」(価格57万2000円)だろうと言い、ジョー・ポンブリアーノ氏は「SBGM221」(価格60万5000円)であると指摘。

    ↓左:「SBGR261」  右二つ:「SBGM221」
    grand-seiko-2

    そこで私は型番名判定に挑戦 ! ・・ということで、まずグランドセイコーには5大別した”〇〇コレクション”というものがある中でも「エレガント」コレクションの一つであることが分かり、そこからやはり前出の「SBGR261」 と「SBGM221」に絞られるものの、細かい部分が判らないのでその腕時計がなるべく大きく写っている映像を探した結果、朝日新聞の報道写真の中に、ルーペで拡大して見ると文字盤と針がなんとか読めるものがあった。その結果・・

    文字盤上には太めの針3本と、かすかに見える1本の細い針、計4本の針を確認できたので、これは「SBGM221」であることが判明した。

    実はこの機種は短針、長針、秒針にプラスして24時間表示針を備えているので合計4針あるもの。一方、「SBGR261」は普通の3針である。

    ↓大谷のグランドセイコーは3時08分ころを示していて、24時間表示針は15時近辺を示している
    ohtani-asa2

    ◎グランドセイコーと大谷翔平は岩手県生まれ!
    セイコーグループの腕時計には、普及品、高級品、ラグジュアリー品などのクラスがあるが、高級品クラスを表す「Grand Seiko」(グランドセイコー)は現在では「SEIKO」ではなく独立したブランドになっています。
     
    このグランドセイコーブランドの腕時計を、部品製造から組立まで一貫生産しているのが岩手県岩手郡雫石(しずくいし)町に在る「盛岡セイコー工業(株)」。ここでは熟練技能士が”ロボットでは無理な超高度技”(例えばある部品の特殊研磨には10年の経験が必要)を注ぎ込んで製作するという”匠の工房”を構えている。

    ↓「グランドセイコースタジオ雫石」と称するこの工房(2020年完成、設計:隈研吾)の中で匠たちが作る
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    そして大谷翔平は1994年に岩手県の水沢市(現、奥州市)で生まれ、花巻東高校を卒業している・・ということで、同じ岩手県から”世界のトップを目指す”ものとしてグランドセイコーと大谷はリンクするゆえに、セイコーグループ(株)は大谷をイメージキャラクターとして採用契約していて、ただしグランドセイコー以外のハイレベルのセイコーブランド製品の宣伝広告にも大谷を登場させている。

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    ドジャース入団発表会場で大谷がつけていた腕時計はグランドセイコーブランドの中でメンズ用とされるものの中では最低価格に近い60万5000円。このブランドにはSBGD207という型番の2200万円の高額品もあるものの、大谷は”レザーバンドで上品な感じ”で高価格ではないウオッチを選んでいる。前述のようにグランドセイコーの中の5大別コレクションの中の”エレガンスコレクション”に属する型番を選んでいるから当然の印象となっている。

    この大谷の思惑は、高級品だが一般の人でも努力すれば手の届くようなモノがあり、しかも身に着けるのであれば成り金趣味でなく品のあるモノでさりげなく表現したいもの・・それは”努力すれば夢はかなうが、成功しても謙虚であれ”という考え方を示しているように感じる。

    こうして、あの場のために大谷が選んだ腕時計には、「親近感を感じる」、「あれが欲しくなった」、「上品さを感じた」などの声がX(旧ツイッター)に書き込まれていたが、(マイクロソフトニュースTHE DIGESTによれば)『米国の有力ファッション誌の「GQ」は「オオタニは7億ドルの契約にあたり、完璧な時計を選択した」、「最もエクセレントな時計をつけていた」と評している』

    ◎セイコーの腕時計のデザイン指針
    セイコーの時計には腕時計の他に置時計や掛け時計その他用途別時計(公共施設用、競技計時用など)がありますが、腕時計は(一品物の超豪華腕時計や遊び感覚腕時計などを除けば)形状やデザインに大きな制約や条件があるために独自性を打ち出すのが難しいことは部外者でもわかる。

    そんな中で特に高級腕時計向けを意識した”セイコースタイル”と称する独自のデザイン指針が1960年後半に生まれて1967年に発売開始したグランドセイコーから採用されてきたそうで、同社のホームページによれば・・

    『服部時計店のチーフデザイナーが銀座の和光本館に足しげく通い、世界の高級腕時計をつぶさに検分していて、ある重要なことに気づきます。「同じ腕時計でも、キラキラと輝くものもあれば、光がだれているものもある」。腕時計を構成している「面」の形状や張りによって、「輝き」に大きな違いが生じていることを見出したのでした。

    「腕時計の本質を究めながら、高級腕時計としての普遍的な価値を作り出すために必要なのは、燦然とした輝きである」そう確信したデザイナーは、外装工場の職人たちとともに、燦然と輝く腕時計を作るべく、研究に着手しました。どういう造形であれば、燦然と輝くのか、いかに美しくできるのか。試行錯誤を重ねた末に作り上げたのが、セイコースタイルでした。

    その結果具体的な方針として・・3つの大方針とそれに基づく9つの要素が生まれたそうで・・
    『大方針ひとつ目は、「平面を主体として、平面と二次曲面からなるデザイン。三次曲面は原則として採り入れない」こと。

    二つ目は、「ケース・ダイヤル・針のすべてにわたって、極力平面部の面積を多くする」こと。

    三つ目は、「各面は原則として鏡面とし、その鏡面からは、極力歪みをなくす」こと。 

    ↓9つのデザイン要素(その内の7つ)の説明図
    9designfactors

    ※3つの大方針と9つの要素の詳細は・・
     
    ◎セイコー時計の設計やデザインに導入した(と思われる)「標準数」
    「標準数」とは何かを説明するには長くなるので、大雑把に紹介すると・・高品質な工業製品を低コストで早く生産するために、部品から製品全体にいたるまで”単純化””共通化””標準化”が必要だが、これにさらに美しい形体化(例えば縦横寸法比率が1:約1.6のように「黄金比率」に近い形が出来上がる)もねらえる製品設計やデザインに採用できるように、ある法則(隣り合う数字がほぼ等比関係)に基づいて並べた数が「標準数」で、この数字は数列表のかたちでISO(国際標準化機構規格)とJIS(日本工業規格)で決められていてJISでは「標準数」という表題で「JIS Z 8601-1954」というナンバーがつけられている。AIなどが存在する現在もこの規格がまだ利用されているのか私は知りませんが・・

    セイコーが時計造りに標準数を採用していたのではないかと私が思う根拠は・・(今、気づいたのですが)ちょうどグランドセイコーが世に出た1967年だったかに、当時セイコーのデザイナーとしても有名だった清水千之助氏から「デザインにも”標準数”を利用できる」という教えをいただく機会があり、その際に「JIS Z 8601-1954」の規格表の印刷物まで頂戴したことがあり、氏は” セイコーの腕時計のデザインと標準数の関係を明言されなかった”ものの氏の下記のような”理系的経歴”からも推定できるからです。

    清水千之助(1929~1987)氏は千葉大学工学部工業意匠課卒、 (株)服部時計店工場精工舎勤務(1955~1967):その間にウルム造形大学(西独)留学、東京造形大学教授、拓殖大学工学部工業意匠学科教授、著書多数: 「工業デザインの実務」、「造形の科学」など、その他「デザイン学研究」誌に「ID(工業デザイン)活動としての標準品設計の意義」の寄稿もある。

    ↓清水千之助 著「造形の科学」
    zoukeinokagaku

    実は私、セイコーのデザイナーである知人がいたのですが残念ながら数年前に他界してしまい、生前に”セイコー製品と標準数の関連の有無”を確認しておけばよかったと後悔している次第です。
    ・・・・・・・・・・・・
    「標準数」についての少し詳しい説明はネット上で多数あるのですが、その一つは・・
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎カメムシDream Come True ?!
    先日(2023年11月某日)の午後、自宅のパソコンに向かっていていつのまにか15分くらい居眠りしてしまい、目覚めたのが1時半頃。

    その目覚めの直前に私は夢を見ていて・・その内容は”自宅居間のローテーブルの上を一匹の体長5ミリくらいの小さなカメムシが這っているのを見つけた。

    ↓よく見られるカメムシ 左:ツヤアオカメムシ 右:クサギカメムシ

    2-kamemusi
    (↑写真左:「兵庫医科大学 夏秋優 准教授撮影」/右:Wikipediaより)

    ご存知のように、カメムシは刺激を与えると、くさい臭いを出すので、近くに在る空き瓶でいざ捕まえようとしたら、そのカメムシがいつの間にか急に大きくなって体長15ミリくらいに変身しているのでびっくりした”・・というところで目が覚めた。

    「ちょっと不思議な夢だったな」と思いながらぼんやりしていて2分くらい経った時に突然、キッチンに居る妻の大声が・・「うわー ! カメムシー ! 」

    とっさに「えっ カメムシ? なんなんだ この”夢と現実のつながり”は!」と思いながらキッチンに向かうと、窓の網戸の外側に体長1センチくらいの灰色のカメムシが張り付いているではないか!

    それならば、捕まえて「子供の頃に体験した”カメムシの出すくさい臭い”を久しぶりに嗅いでみようか」と思った私は(これまたさっきの夢の中の行動と同じように)空き瓶を探すが見つからないものの透明プラスチック製の小型容器が在ったので、これを持って網戸の外側にまわってみたが、そのカメムシはいなくなっていた。

    どうやら妻が、ひょっとしてカメムシから臭いを放出されて、それが部屋に入ってきては困ると考えてガラス窓を勢いよく閉めたので、ガラッという音に反応してカメムシが逃げてしまったようで、残念という思いと同時に、この”夢の中と現実のカメムシ出現”はまさに「Dream Come True※」の文字どおりではないか!と心の中で叫んでしまった次第。 (※通常は少しちがう意味で使われますが)

    dreamskome
    (「U-NEXT」のCMより)

    ではなぜこの不思議現象が起こったのか?

    私は経験上、”ものごとは無から有は生じない”と理解している(但し宇宙の時空間の生まれについては理解不能?)ので、“カメムシが夢に出てきたこと”は腑に落ちる。その理由は・・

    一か月ほど前に、テレビで”今年も多くの都道府県でカメムシが大量発生している”というニュースを観ていたので、その情報が私の脳内に残っていたからと思われる。

    しかし、夢にカメムシが出るのは納得できても、その夢の2分後に現物が現れる理屈がわからない。

    ◎亡き母の予知能力
    今から25年ほど前、ある晩の10時頃に母から電話がかかってきた。日頃こんな時間に電話をかけてくることはないので何事かと思いながら電話口に出ると・・

    「あなたがクルマで事故を起こした夢を見て、どうしても気になったので電話したのだから気をつけるように」・・という内容だったので、ちょっと変な気分になったもののあまり気にせずに寝たのでしたが・・

    翌朝、通勤のために自分のクルマを運転中になんとバイクが車体横腹に接触する事態が起きてしまった。幸いにも双方たいしたダメージもなかった(私のクルマは少々のかすりキズのみでへこみは無し)ので、合意のもとでそのままその場を去ったが・・

    その直後に、昨晩の電話での母の予告?が当たっていることに思わず鳥肌がたった・・ということがあった。

    このケースでも、母は私が過去に小さな事故を起こしていることを知っていたから、それが夢に出ることは納得できるものの、電話で事故発生予知通告されてから9時間足らずして現実に起きるということの理屈がわからない。

    わかったことは・・古今東西で語られる「夢の中のお告げ」は確かにあるということ。

    ◎余録:カメムシについて
    1)「カメムシ」は数ある仲間の総称
    「カメムシ」という名の虫(昆虫)はおらず、日本国内に1000種以上にのぼる仲間の総称であるが、文献などでは総称する場合には「カメムシ類」と表記している。

    その仲間にはすべて「〇〇カメムシ」や「〇〇カメ」などの正式名が付いている。しかし日本各地にはその地方独自の呼び名があり、その総数は40を超すほどで、例えば「ヘッピリムシ」、「ヘクサムシ」、「クサンボ」などがある。

    2)カメムシは臭いの強さを、目的に応じて使い分ける
    敵などへの威嚇、仲間へ警戒呼びかけ、仲間を呼ぶ、求愛などに、それぞれ臭いの強度(分泌液噴射量)をちがえている。

    3) 「カメムシ類」の中には”くさくない臭い”を出す種類もある
    「キバラヘリカメムシ」や「オオツマキヘリカメムシ」などは”青りんご”のような臭い、「オオトビサシガメ」は”バニラ”のような臭いを出す。

    4)農林水産省発表の「カメムシ注意報」今年21府県に
    今年(令和5年)も「カメムシ類」大量発生ありとして21府県に注意報が出ていますが、実は昨年のほうが対象地域は広くて35都道府県に及んでいた。

    注意すべきカメムシ類は2種あって、”果物の汁を吸う「果樹カメムシ類」”と”稲穂の中の米の汁を吸って、黒っぽい点になる吸い跡を残す「斑点米(はんてんまい)カメムシ類」に分かれ、後者は関東以西に多い。

    カメムシ類はストローのような口で果物や米の汁を吸い取るので、米は黒い斑点ばかりでなく米粒がしぼんで平たくなることがある。

    斑点米カメムシ被害にあった米(農研機構のHPより)
    hantenmai

    東京や大阪の都会の住宅や街灯にも少なからず寄り付いていることもあり、外に干している洗濯物や布団にも付くことも多いとのこと。

    5)有益なカメムシもいる!
    高知県ではナス栽培時の害虫退治に"カメムシ類の中でも雑食性の「タバコカスミカメ」という種類のカメムシ"を使って害虫を捕食させていて、15年間で収穫量は2割増加、使用農薬は4割削減という好結果を生んでいる。

    ◎飛話:カメムシ と セイタカアワダチソウの類似点?
    1)カメムシは自分で出した臭いが充満すると自分が死ぬ!
    カメムシが出す強い臭いは(尻からではなく)腹の「臭腺」という部位から射出される化学的に有害な分泌液によるもので、かなり刺激性がある臭いだけではなく我々人間の皮膚に直接付くと炎症を起こすほどなので、カメムシ自身も分泌液が身に降りかかっても安全なように体表は”セメント層”というもので覆われている。

    このように強烈な性質をもつ分泌成分なので、カメムシを密閉容器に入れた状態でこれを分泌させ臭いを充満させると、まず失神し、さらに経過すると死んでしまう。

    2)セイタカアワダチソウは自分が出した毒液で自分が死ぬ!
    まず世間の一部ではセイタカアワダチソウとブタクサが混同と誤解をされているようなので・・

    あえて両者の共通点とするならば、小さな黄色い花を咲かすことぐらいで、全体の姿は全く違っていて、セイタカアワダチソウはクリスマスツリーのもみの木の樹形のようになり、ブタクサはまとまりのない形になる。 

    ↓セイタカアワダチソウ (写真は「もりのいと」のブログより引用)
    seitaka

    ↓ブタクサ 
    (写真は「エスエス製薬」のHPから引用)
    butakusa

    そして”花粉”について誤解されていて、正しくは・・
    “花粉アレルギーを起こすのはブタクサの花粉”。なぜならセイタカアワダチソウの花粉は重いので風による飛散がおこりにくいから。

    さて、“セイタカアワダチソウは自らの毒で自滅する”のだそうで、その経緯は・・
    ある土地で成長しだしたセイタカアワダチソウは、その土地における他の植物の成長を阻害する「アレロパシー」なる物質を根から分泌して、自分だけの勢力範囲を広げる。

    ところが繁殖したある時点で自ら分泌した「アレロパシー」が自らを攻撃して、言わば自家中毒状態になって枯れて自滅してしまう。結局、その土地における”セイタカアワダチソウ帝国”の繁栄は10年ほどだそうです。その跡地には他の植物(ススキなど)がまた生えてきます。

    私が
    セイタカアワダチソウを最初に見たのは50数年前の関西のある郊外においてでした。それまで見たことが無かった"一面が黄色の情景"に思わずカメラのシャッターをきった覚えがあります。しかしそれから半世紀たって、関西が、いや日本がセイタカアワダチソウの黄色で埋め尽くされていないのは納得です。

    「驕れる者は久しからず」・・ですかね。
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    条件が違うとは言え、カメムシとセイタカアワダチソウの”自分の分泌物で自分が死ぬ”という2例でした
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    先ごろ(2023年10月14日)、コメディアンであり俳優でもあった財津一郎氏(以下、敬称略)が89才で亡くなり、新聞の死去告知欄の中で「タケモトピアノのCMでも知られていた」というような説明があったことにちなんで・・

    タケモトピアノのCMの中の財津一郎
    zaitu-itirou

    実際のCM → 
    takemoto-piano-cm

    このCMは2000年から今年(2023年)8月まで流されたということで、われわれの脳裏に焼き付いていますが、その理由として20年以上も変えずに”繰り返しの継続効果”だけではなく”セリフとリズムとメロディ”の心地よさもあって自然に覚えやすい面がありますが、それだけではなく・・

    ◎赤ちゃん泣き止む音(1) タケモトピアノのテレビCM
    最近「財津一郎が出演するタケモトピアノのテレビCMが流れ出すと赤ちゃんが泣き止む」 という情報を見聞きすることが多くなっていましたが、その最初の出どころはテレビ番組”探偵!ナイトスコープ”だったとのこと。

    また、育児雑誌(「たまごクラブ」か?)の調査では、”赤ちゃんの好きな音楽”第1位がタケモトピアノのCM曲だそうです。

    このCMの”赤ちゃん泣き止み”効果を生む要素は何なのか?
    財津一郎による「クルマ売ってちょおだーい」 「もっともっとタケモット」 「そのとーり」 などコミカルな旋律をつけた語りのような歌なのか? 
    「みんなまあるくタケモトピアノ」という女性バックコーラス部分か?
    それともメロディとリズムの音楽全体か?

    タケモトピアノ株式会社でもこの点を調べたようで、いくつか指摘されたことを紹介していて・・
    1)ある研究所によれば・・音がランダムで飽きない
                  本能的に振り向く音が多い
                  音楽の途中でリズムが」変わる

    2)音階が急に大きく上下するメロディーラインが興味をひくから。

    3)歌声が赤ちゃんが好む440ヘルツ周辺の音だから。
    ・・ではないかとのこと。

    440ヘルツと言えば、ピアノに限らないが現代の楽器類の音の基準であり、昔はラジオなどでよく耳にした時報の”ポッ・ポッ・ポッ・ポーン”の最初の3音がこれに当たり(後ろのポーンは880ヘルツ)、我々大人は聞きなれ親しんだ音だが、それが赤ちゃん時代からすでに心地よかったのだろうか・・

    この“タケモトピアノCM効果”の他にも・・

    ◎赤ちゃん泣き止む音(2) 口に含んだ水によるチュルチュル音
    口に水(液体)を含んだ状態あるいは唾液を溜めた状態で、口先をすぼめて少し開けると同時に空気を吸い込んで「チュルチュルチュル・・」と出る音を、泣いている赤ちゃんの耳元で聴かせると泣き止む・・といわれています。

    ◎赤ちゃん泣き止む音(3) スポーツカーのエンジン音
    従来から”赤ちゃんを泣き止ませる音”として”クルマのエンジン音”があげられていますが、本田技研工業(株)では調査と科学的分析によって、ホンダの30車種の中でも”2代目MSX”のエンジン音がもっとも効果があることが分かったので、(株)タカラトミーアーツと共同で” 2代目MSXのエンジン音 (エンジンを断続的に空ぶかしするような音) に近い音が流れるぬいぐるみ”を商品化して、つい最近(2023年10月28日)に発売開始されました。

    商品名は「Honda SOUND SITTER(ホンダ サウンドシッター)」で8250円。
    nuigurumi-msx1
    ↓右の黒い布地にくるまれているモノが”エンジン音発生部”で、左の本体に内蔵されている。
    nuigurumi-msx2

    実際のこのぬいぐるみの音 → 
    https://www.youtube.com/watch?v=EuQ7zHYFsuw

    ※開発経緯の詳細は・・「インプレス社のCar Watchサイト」 参照ください。

    ◎赤ちゃん泣き止む音(4) ある調査による「ベスト10」
    「ベビーカレンダー」(医師・専門家監修の”妊娠・出産・育児の情報サイト”)の発表では・・

    1:レジ袋を手で揉む音・・クシャクシャという音をたてることは簡便な方法でしかも効果あることが多いようで、ネット上でも多く推奨されている。

    2:ドライヤーの音

    3:掃除機の音

    4:シャワーの音

    5:ラジオのノイズ音・・“サー”という音

    6:換気扇の音・・(当筆者注)これはたぶん”プロペラ羽根ではないタイプ”のものと思われる。

    7:電車の走行音

    8:空気清浄機の音

    9:”ガラガラ”

    10:”おしり拭きペーパー”の外袋を手で揉む音

    その他,マスコミなどで見られる方法には・・・”雨の音”、“ホワイトノイズ(”サー”という音)”、“小さな波の音”などがあげられていますが・・

    ◎赤ちゃん泣き止む音(5) 母親の胎内の音
    赤ちゃんが泣き止むための音として前述の(1)から(4)までで紹介した”音”はその多くが、”胎児として母親の胎内に居た際に聞こえていた音(胎内音)”に近いものであるとされています。

    胎内音には心音、血流音、会話音、音楽などがありますが、常時聞こえるのは心音、血流音であることから、現在、赤ちゃんが泣き止むための音としてストレートに”胎内音そのもの”がネット上のYouTubeでいくつか聴けます。→ tainaion

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    胎内音は”ザクン、ザクン、ザクン・・”というような音が断続的なものなので、前述のぬいぐるみ「ホンダ サウンドシッター」でも胎内音に似たエンジン音がやはり断続的に流れるように設計されていることが納得できます。
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    以上のように、赤ちゃんが泣き止むための音は色々ありますが、実際に電車内や公共施設などの場において赤ちゃんが泣き止まず困る場合、とっさに対応できる方法は・・”口中の水(又は唾液)チュルチュル音”や”(外出時に常時携行の)ポリ袋類の手もみによるクシャクシャ音”ではないでしょうか。
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    私は餃子が好きです。その餃子を特に頻繁に食べたのは、大阪に単身赴任をしていた時期なので、今から30余年前の2年間。

    仕事を終えて帰る途中の夕食には”チャーハンに餃子”か”ラーメンに餃子”の組み合わせを摂ることが多かったその訳は、単身赴任者の外食で不足がちな野菜が餃子によって補われ、同時に”ピラミッド建設労働者のスタミナ源になったと言われるニンニク”も摂れるから。そのために最も通った店が、後述する「大阪王将」でした。

    「餃子の王将」(本社:京都市)と「大阪王将」(創業は大阪・京橋、現在本社:東京・品川区)の二つのブランドが在りますが後者は前者からのれん分けで出来た会社のもの。

    ◎”大阪王将の餃子”が長年の王者”味の素のギョーザ”を抜いた!
    今年6月から8月にかけての”総菜系冷凍食品”の店頭販売数調査結果のランキングが発表されて、”大阪王将の「餃子」”((株)イートアンドフーズ)が1位となり、”味の素の「ギョーザ」”(味の素冷凍食品(株))が2位となった。(昨年の同調査結果では順位が逆)

    ↓”大阪王将の「餃子」”
    gyouza-o

    ↓”
    味の素の「ギョーザ」”
    gyouza-a

    ↓総菜系冷凍食品 購買数ランキング (「日経クロストレンド」より)
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    調査は「True Data(トゥルーデータ社 東京港区)」が、6000万人という日本最大規模の”消費者購買データ(顧客ID付POSデータ)”を駆使したもので、今回の対象冷凍食品にはパスタ、米飯類、麺類を含まない。

    注意を要するのは、この調査データは、POSシステム導入している食品スーパーマーケットでの一般購入者の動向であり、POS非導入店、業務用、ネット上、通信などでの販売の量は含まれていないだろうから、メーカーの製造・出荷・販売総数量ではないこと。 だとすると・・

    「味の素のギョーザ」の外袋には長年「ギョーザ売上 日本一」と表記されているが、さてこれが消えるのか、いやまだ残るのか?

    ◎「味の素のギョーザ」”フライパンへの焦げ付き苦情騒動”
    「味の素のギョーザ」も「大阪王将の餃子」も油も水も無しで作れることをうたっているものの、今年(2023)5月11日に、あるユーザーから「味の素のギョーザがフライパンへ焦げ付いて残ってしまう」という不満がツイッター(現X)で発信されて、同社はすぐさまこれは一大事ととらえて翌12日には異例の行動に出た。それは・・

    原因究明と対応策を探るために、ネット上でユーザーに対して、利用している”ギョーザが張り付くフライパン”を(同社着払いで)募集した。

    その結果、3日間で1000個を超えるフライパンが届けられた!

    届けられたフライパンが入ったダンボール箱の山
    mount-of-frypan

    同社は大量のフライパンで検証をすすめて、一か月後には、とりあえずその時点で分かった範囲の張り付き防止方法を公表したが、現在も追及は続けられていて「ギョーザの永久改良にとりくみます」と宣言している。

    現在も続くチャレンジ https://www.ffa.ajinomoto.com/enjoy/frypan
    frypan-challenge

    ◎味の素ギョーザは昔のほうが美味いと思うのは私だけではない?
    2022年に3月8日に、(冷凍) ”味の素の「ギョーザ」”発売50周年を迎えたそうですが、私が最初にこのギョーザに出会ったのは今から25年くらい前だったと記憶していますが、食べてみたらヘタな店で出されるものよりおいしと思えるほどで感心したものでした。 ところが・・

    いつ頃からのことかはっきりしないのですが、少なくとも現在の”油と水無しで出来て羽根つき”に仕上がるバージョンになる少し前の時点で「味の素のギョーザは昔のほうが美味しかった」と感じるようになっていますが、

    これは私だけの感想かと思いきや、同じ思いをしている人が他にもいたので、そうとなればその原因を知りたいところ。

    前述のように「ギョーザの永久改良にとりくみます」と宣言するまでまなく、日頃から味の素冷凍食品社ではさらなる研究・試行が行われている様子がテレビでも紹介されたのを観たことがありますが、”味”に関しては温故知新、あるいは原点回帰などを意識されてもよいのでは・・

    ◎”記憶に残る美味しい餃子”は大阪・徳庵で食べた!
    冒頭で述べましたように、私が大阪に単身赴任している時期にJR片町線の徳庵駅の南に歩いて1分くらいの所にいわゆる”街の小さな中華屋さん”があって、そこで食べた餃子が美味しかった。

    それは初めて口にする”羽根つき”だったが、これが”やや小ぶりだが美味しい餃子本体”と絶妙にマッチしていて、さながら”羽根が名脇役”のようだった。

    私は現在の大阪王将の餃子(冷凍食品版)の羽根つきを食べていないので何とも言えませんが、味の素のギョーザの羽根は出来上がりが中途半端で、厚みと面積が少ないと思いますが、これは私の作り方に問題があるのでしょうか?

    大阪王将のHPに載っている羽根つき餃子(底側写真)
    hanetukigyoza

    ◎飛話:王将の将棋駒の格好をした「もろこし」(菓子)
    山形県の天童市は将棋の駒作り日本一なので町中に何かと王将の文字が観られます。その一つが将棋の駒の形に凸文字で王将や金将などを表した和菓子の「もろこし」。もろこしは東北地方で多く作られていて、”小豆粉に砂糖をまぜて型に入れて硬く固めたモノ”・・これも私の好物 !

    王将の将棋駒型「もろこし」(縦3X横3X厚み1センチ:えんどう盛寿庵)
    morokosi1

    ・・・・・・・・・・・・

    世の中、高機能な物は概して複雑な機構や高度な電子部品が使われているもので、これは故障の確率が高くなることもあり、いざ故障すれば修理も複雑になったりする一面があります。

    それをあらためて実感したことがあったので、それと関連する事例を含めて紹介してみます。

    ◎シンプルな体重計へ
    先日、我が家で約8年間使っていた「体脂肪計測機能付き体重計」が稼働しなくなってしまい、一瞬、電池切れかと思って新品に換えてもダメで、遂に廃棄処分することに決定しましたが、その前に一応、中身はどうなっているのかと分解してみたら、なにやら鉄材の細長い部材数点と電子部品を載せた基盤があり、不良原因はたぶんこの電子部品群の中にあると思えました。

    そこで、今度はシンプルな機構の体重計を購入しました。それはタニタ製で、アナログな数字盤は判読性が良いものです。明らかに電子部品は不使用であり、電池も必要なしで今後の故障の心配はしないで永く使えることでしょう。

    新たに購入したアナログ体重計
    taijyuukei

    ◎M社の全自動トースターは?
    高機能だがすぐ故障して廃棄した物として、私がすぐ思い出すのは、M社が今から60年くらい前に発売した”全自動トースター”。

    当時一般に普及していたトースターといえば、天面に食パン1枚が縦に入る口が二つ並んで開いていて、そこにパンをチョコンと入れてからトースター側面のレバーを下げて完全にパンが本体内に収まると同時に加熱が始まり、焼きあがると”ポン”とレバーが上がりパンが頭を出すというもの。

    ところがM社の全自動トースターは一見普通のように見えて、唯一違う点は、側面にレバーが無いこと。そして”全自動”とうたう所以は、”食パンを投入口に入れると自動的にパンがスーっと下降を始め定位置におさまれば加熱が始まり、焼きあがるとまたスーっと飛び出してくるというもの。

    これは便利なようで、食パンの下降と上昇に各6秒くらいだったかを要して忙しい朝にはイライラしたもので、しかも使用開始1年足らずで稼働しなくなった。

    直感的に、このようなトースターはダメだと思い、廃棄前に分解してみたら、中の構造は複雑だったので、やはりシンプルな方が良いと感じたものだった。

    かくて我が家の後継トースターは普通タイプに戻った。
    その後M社は二度と全自動トースターを製造販売しなかった(と思う)。

    ◎カラシニコフ銃のシンプルさ!
    私は銃に詳しくはないので、なぜに銃の呼び名には「ブローニング」、「ガトリング」、「マキシム」、「南部」など考案者(設計者)の名前が付いているのか知りませんが、そんな私でも「カラシニコフ」の名前はよく”耳に、目に”します。

    ミハエル・カラシニコフ(1919~2013)は旧ソ連の農家に生まれた。
    Michael_Kalashnikov-c
    (Wikipediaより)

    成人して赤軍に入り第二次大戦中は戦車長としてナチスドイツ軍と戦うなどしながら銃器の研究を続けていて、戦後1947年に”全自動発射ができる自動小銃AK-47“を開発・設計した。その2年後からAK-47はソ連軍内に配備開始され、その後は他国にもライセンス与えて生産されたが、発展途上国などでは無許可でコピー品が生産されて、それらを合計すると現在世界には1億丁以上も存在すると言われている。

    AK-47 (Wikipediaより)
    AK-47
    AK-47が世界中に大量に採用されている理由は、製造が簡単、製造コストが安い、頑丈なこと。それはカラシニコフ氏が戦時中に身をもって知ったドイツの銃器の優秀さを頭におきながら、自国でも開発を試みようとしたが当時のソ連の製造能力では無理と悟って、

    逆に銃の構成部品の寸法精度が低くて大きさがバラバラでも一つの銃として成り立つように余裕をもったシンプルな設計とした結果、組立は勿論、分解・掃除も簡単。そして「乱暴な扱いにも壊れない」、「グリスがきれても、水や泥水に浸かっても、砂に埋もれても使える」と言われている。

    まさにAK-47は”シンプル製品の好例”。

    ◎トヨタのランドクルーザー
    トヨタの大型4輪駆動車「ランドクルーザー」は日本では「ランクル」の愛称で人気があるが、海外でも人気が高い。
    landcruiser

    人気というより必要性からランクルが選ばれる理由は、頑丈で壊れにくく、故障しても修理しやすいこと。

    それを文字通り”支えている”のが”ラダーフレーム”構造で、頑丈な鉄枠の上にエンジンやボディを載せた言わば単純な組み合わせであり、現在多くのクルマが採用している”モノコック”構造が鉄枠を無くしてボディ全体で強度を確保しながら軽量化した構造としているものとは異なるもの。

    こうして、特に中近東の国の砂漠地帯やオーストラリアの”アウトバック”と呼ばれるような広大な荒野を走行中の故障忌避ともしもの故障でもリカバリーしやすいことは、このクルマが選らばれてしかり。

    ◎シンプルなラーメンの良さ
    現在、巷には多種多様なラーメンが生まれていて、それらはスープ作りや具材に凝りまくっていて、それはそれでうまいのですが、私はシンプルなスープと具材のラーメンが大好物です。それは1~2種の素材を使った出汁による醬油ベースのスッキリした味のスープに定番のチャーシューとメンマと少量のネギが入っていればOkというもの。

    また一つシンプル系ラーメンの店が消えた(日本テレビ「Every」より)
    raamen

    私の中では、かつて東京の秋葉原駅の外側に張り付いたように在った、スタンド型椅子7席(だったか?)しか無い小さなラーメン専門店で入り口ドアなどなく全開放型の吹きさらしの中で、何度か食べたシンプルなラーメンの味が忘れられない。
    それはスープにほんのすこしだけ生姜の香りの効いた、実に”飽きのこない”ものだった。

    今、ふと思うに、私は約60年前の子供の頃ころから、長崎県の五島列島出身の父が郷里の親戚から時おり送られてくる「五島うどん」を(日頃は”男子、厨房に入らず”の父にしては唯一の例外で)大きな鍋にはった熱湯の中で茹でながら泳がせて”そのうどんを私たち子供が箸ですくい上げて、同じく五島産の干しアゴ(トビウオ)で出汁をとった醤油つゆ”の中に漬けて食べるという経験をしましたが、これも非常にシンプルな食べ方でした。

    ちなみに現在では、五島うどんのこのような食べ方を「地獄だき」と称するようになっていますが、熱湯の中で茹でながら泳がせていても一般のうどんのように”のびて、ふやける”ということが無くコシが続くのは、五島うどんには、やはり五島名産の椿の油が練り込まれているからだそうです。

    jigokudaki
    (株)おかだ製麺 のHPより

    ◎谷村新司の作曲はシンプルさを心掛けた
    朝日新聞の天声人語欄(2023.10.18)では”先日亡くなった谷村新司氏”について語られていて、名曲”昴”を生んだ谷村氏が音楽の道に入ったきっかけは一本の中古ギターで洋楽レコードを何度も聞きながら音を一つひとつ拾ってまねたことであり、その経験から、作曲する際の基本方針は“初心者が弾けること”を目指して「難しくするのは簡単だが、シンプルであれ。時代を突き抜けていくスタンダードというのは、そういうものなのだ」と言っていたそうで・・

    なるほど、”シンプルなことの大切さ”はモノ作り全般にもあてはまることがあるのではないでしょうか。
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    世の中には、「○○に始まり○○に終わる(戻る)」という格言(表現)があり、頻出するのは、「釣りはフナ(ヘラブナ)に始まりフナ(ヘラブナ)に終わる」でしょうが、昔のオーディオのマニアの間では「スピーカーは(口径)16センチに始まり16センチに戻る」と言った時代がありました。

    ”体重計をアナログ式→デジタル式→アナログ式に戻した” “トースターを普通タイプ→全自動タイプ→普通タイプに戻した”という事例は、この格言の意味合いとは違うものの、文字通りと言えないでしょうか。
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    余録 : 現在(2023年10月)の米国では諸物価上がり、円安も相まって”米国でのラーメン価格”が高騰しているそうで、ロサンゼルスのセルフサービスのフードコートで食べても”もやしだけが入ったラーメン”が17ドルなので日本円換算で2550円。これでは物足りないとして煮卵(1.5ドル)とチャーシュー(4ドル)を追加して(下の写真)これに税(2.31ドル)を加えれば総計24ドル61セント=約3692円となり、日本で食べる場合の4倍の価格になってしまう。これと同じものをレストランで食べようものならチップ(15~25%)をつけなければならず、4500円くらいになってしまう・・とのこと。(1ドル=150円換算) (ロサンゼルス在住の角谷剛氏による報告:TRiP EDiTORサイトより)
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    先日(2023年9月10日)、リビアで複数のダムが決壊して洪水となり多数の死傷者が出たばかりなのに・・
    10月4日にはインド北東部に在る氷河湖をせき止めていた”氷河の氷と土砂から成る天然のダム”が大雨によって決壊して、これまた多数の犠牲者が出ているというニュースが伝えられた。・・ということにちなんで今回は”ダム関連のお話”です。

    ◎「ダム津波」による鉄砲水?!
    「ダム津波」とは、ダムによって出来たダム湖の水が何らかの理由で盛り上がって巨大な波を生んで津波のようになるもので、その結果、莫大な量の水がダムの堤を乗り越えてダム下流の町などを襲って災害を引き起こす。

    1963年10月9日22時39分、イタリア北部のヴァイオント渓谷に在る「ヴァイオントダム」のダム湖の左岸(下流に向かって左側)の「トック山」の山肌が巾1700メートルにわたって地滑りを起こして莫大な量の岩や土砂がなだれ込んだために起きたダム津波

    ダムの堤を乗り超えて(大音響とともに土石を含んだ)”鉄砲水”状態となって2キロ川下の「ロンガローネ村を襲った。これにより犠牲者は2000人以上におよび、
    殆どの建物が流されて消滅した。

    ↓災害後に放棄された状態の現在の貯水無し「ヴァイオントダム」(後方の白い山肌が地滑り部分)
    ※ダム完成時は高さ261メートルで欧州一だった。ちなみに戦艦大和の長さは263メートル
    (以下写真の計5枚は「ナショナルジオグラフィックチャンネル」より引用)
    italian-dam4

    ↓災害起こした直後のダムと地滑り跡
    after-of-dam

    ↓災害直後の村の様子
    italian-dam5

    italian-dam2

    この災害の根本的原因は”ダムの立地選定の誤り”にあるが、”ダム湖左岸の地滑りによる波の発生規模の予測の甘さ“が招いた面もあり、適正な予測に基づいて、ダム下流域の住民を避難させていれば少なくとも死傷者を出さずに済んだ。・・というわけでこれは人災と言われている。

    そもそもダム湖左岸のトック山の地肌は昔から頻繁にき裂が発生して小さな崩落が多くて、地元では「歩く山」と呼ばれていたものの、ダム建設のための地質調査はダムが直接接触するごく近辺に限っていた。

    しかしダム完成後に山肌のき裂に気付いて、いずれは大規模な地滑りが起きることが予想されたので、き裂巾変化を毎日監視した結果、湖水量の増減、すなわち湖水面の上昇・下降によって”滑り落ちに向かう速度が調節できることが判明したために、意図的に湖水面を上下させて滑り落ち速度をゆるやかになるようコントロールしていたところ・・

    ある日突然、き裂巾が大きくなり、近日中に大きな地滑りが起きることが決定的になったので、それならばと、土石が湖水に没入した際に起こるであろう大きな波を予測するため(まだコンピュータ解析などがなかったので)、ダムと周辺地形の300か400分の一?くらいの模型を作製して実験した結果、

    地滑りによって起きる波は高さ20メートルと推定されたので、水面はダムの堤から25メートル下の位置まで下げておけばよいということになった。

    こうして いよいよ地滑り発生日とおおよその時刻がわかったので、10月9日の18時頃から、このダムに関係する国営電力公社の作業員ら60人がダム堤の上に集まって地滑りとそれによる波の状態を観察(見物?)しようと集まっていた。

    ↓堤上で待ち構える人たち(再現映像)
    italian-dam6

    そして22時39分、45秒間の地滑りによって、(後日の推計によれば)”30階建てのビル90棟分にあたる3000万トンの水”が、予想の高さのなんと10倍の200メートル(70メートル説もある)まで立ち上がって巨大津波となり、かるく堤を超えてしまった。しかもその速度は時速140キロだったとされる。

    言うまでもなく堤上にいた者は波とともにことごとく消えて居なくなった

    以上のようにダム関係者は、”この地滑りによる大波はダムの堤を超えることはないという予測”に基づいて、川下の村には何の予告もしていなかったから、多数の犠牲者をだしてしまったのであった。

    ところで、ダムが原因の災害というものは大概は”ダム決壊”によるもので、1800年代末期からの記録に残る大規模な事故だけでも海外で20数件。中には1975年の中国・河南省で台風による大雨により大小62のダムが決壊して2万6000人の死者を出した災害もある。日本では規模は小さいものの10件ほど起きています。

    ただし”ダム決壊”には2種類あって、一つは”予期せぬ決壊”、もう一つは”戦時の攻撃による意図的決壊”。
    過去には第二次大戦時に英国軍がドイツのダムを、中東戦争時にはイスラエル軍が、朝鮮戦争時には米国軍がダムを攻撃している。現在はジュネーブ条約で禁止されているそうですが最近ではウクライナで
    ダム攻撃が発生しているのはどうゆうことなのか?

    ◎ダムの急斜面を登り、歩くヤギ(山羊)たち
    ヤギの珍しい行動として“細い木に登るヤギ”が紹介されることは多いものですが、これはモロッコで見られるもので”アルガンという木”の実を食べるために登るのだそうです。

    ↓木に登る3匹のヤギ (以下の写真はすべて「アニマルプラネット」テレビより引用)
    goat-on-tree2

    しかし、もっと珍しくてしかも驚くのが”ダムの急壁面に登るヤギ゙”。

    所はこれも北イタリア、アルプス山脈の中の標高2200メートルの地点に在る「チンジーノ・ダム」。その高さ50メートルのダム斜面は垂直に近いような感じであり、その(内部はわかりませんが少なくとも)表面大部分は”ほぼ四角の岩石”が積まれた壁のような状態。

    ↓チンジーノ・ダム
    dam-goat1

    驚くことに、このダム壁面にへばり付くようにして数匹から10匹くらいのヤギが下から上へ、上から下へ、左右へと移動している姿が見られる。

    ↓手前のヤギは頭を谷側に、お尻を天空に向けている
    dam-goat2

    dam-goat3

    ボルダリングをする人間が持っている10本の手指を駆使して壁面移動するようなことがヤギにできるわけでもないのに何故に可能なのか?

    実はこのヤギは「アイベックス」という種類で、もともと山岳地帯の急峻な岩場を行動する動物で、短足で重心が低く、鋏のような形のひずめと、たくましい筋肉を持っている。
    aibex

    そして、いくら慣れていても危険であるこの行為の最大目的は・・ダム壁面の石材表面の塩を舐めて塩化ナトリウム他、ミネラルの補給にある。雨が降るたびに岩が含んでいる岩塩成分が表面に浸みだすのだそうだ。(上左写真は舌を出して舐めているところ)

    特にこの行為は、子を産み、子を育てる、あるいは子が育つために重要なので、このダム壁面には雌と子供しかいない。
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    生物にとっては塩分とミネラル摂取は重要なことで、ここでとりあげた”ダム壁面の塩をなめるヤギ”のほかにも変わった方法を使う例をあげると・・

    “他の生物の涙を吸って、塩分とミネラルを摂取する”生物がいる。それは・・
    カメ、ワニ、眠っている鳥などの目の涙を吸う・・チョウ、ガ、ハチ(蝶、蛾、蜂)など。

    ↓カメの目の涙をよってたかって吸う蝶たち(アマゾン地域)
    tear-steal

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    ◎私とダムとヤギ
    私は以前のブログで”三船敏郎主演のダム映画「激流」”や”石原裕次郎が製作断念したダム映画「香港の水(仮題)」”その他”岩手県の田瀬ダム”などをとりあげたこともあり、今回も含めて何やらダムを題材とすることが多いのは・・

    ”私の父がかつてダム建設や隧道(トンネル)が得意な建設会社に勤務していた”のでダムの話を耳にすることが多かったこと、子供の頃にダム建設現場に連れていかれたこともあるなどが影響していると思います。

    また”ヤギ”についてもふれたのは、私がかつて住んでいた東京都豊島区椎名町(現、南長崎)では昭和20年代後半頃でもまだ麦畑や牧場が小規模ながら存在していて、我が家では祖父がニワトリやヤギを飼っていたので、子供の頃の私は卵と”ヤギの乳”で育ったようなもの。

    絞った乳は殺菌のため祖母が加熱処理したものを飲んでいた。・・といわけで私はヤギにも親近感があるためです。

    ↓このヤギの乳を飲んでいた(左の子供が私)
    goat-yard

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    今回、ダムと動物を登場させましたが、この関係で言えば・・”ビーバーが作るダム”も欠かせぬ題材でしょうが、文量が多くなるので省略します。
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    ※以下文中の「西武百貨店」は現在「西武」と称しています

    ◎百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位なのに・・
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    (株)そごう西武の労働組合は、親会社であるセブン&アイ・ホールディングスがそごう西武を米国の投資ファンド会社に売却する方針発表したことに反対して、先日(2023.9.1)に旗艦店である西武池袋本店でストを行った。しかし同じ日に売却決定が発表された。

    ここではスト決行に至った細かい理由は省略しますが、特に西武池袋本店の誇りある従業員の思いは察するに余りあるもの。なにしろ百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位(2022年)※を誇っていて、これだけ頑張っているのに・・という思いだろう。

    ※1位:伊勢丹新宿本店3276億円 / 2位:阪急うめだ本店2610億円 / 3位:西武池袋本店1768億円 / 4位:JR名古屋高島屋1724億円 / 5位高島屋日本橋店1430億円 / 6位:三越日本橋本店1384億円(以下省略しますが、全店舗総額では高島屋が7611億円でトップ)

    かつて東京都豊島区南長崎に在った我が家から最寄りの西武池袋線の東長崎駅から2駅先の池袋駅(終点)に直結した西武百貨店まで”ドア・ツー・ドア”の所要時間は15分・・なので私は、もの心がついてから東京を離れる22才までの間、最も利用したデパートが西武池袋店だったから、現在の状況には寂しさを感じながら今後を心配するものであります。

    ◎私が最初に見た大きなビルが池袋の西武百貨店
    私が5才の頃、祖父に連れられて池袋に行った時のこと、西武百貨店の建物に面した歩道を歩きながら祖父から「どうだい、ずいぶん高い建物だろっ!」・・と上を指さしながら言われたことを覚えている。※

    ただし、その時は建物の完成直前で、まだ一部工事が行われているような状態ではあった。しかも現在のように南北に長い建物になる前だったので南側半分の長さだったのだが・・。
    今、調べてみると西武百貨店の前身である武蔵野百貨店の跡に建物が完成したのは1952(昭和27)年9月だそうで、私はその工事を見ていたことになる。西武はその後に北側へ増築や改装を重ねている。

    西武池袋店最初の建物(私はその完成直前の姿を見ていた)(写真は1950年代前半撮影か?:ブログ「あの町 この道」より引用)・・その後、同店は写真手前=北方向に増築して伸びた)
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    ※「高い建物」と言っても、当時は高さ制限で31メートル止まりで、普通は8階建てが限度だった! これは1919(大正8)年に制定された「市街地建築物法」によって建物の高さにいわゆる「百尺制限」が適用され、百尺=30.303メートル以下に制限されていたものが・・

    1931(昭和6)年に同法が改正されてメートル表記にして31メートル以下とされて以後、1961年の建築基準法改正で容積率による制限方式への変更を経て、1970年に絶対的高さ制限が撤廃されるまで続いたから。

    ◎東に西があり、西に東がある池袋?!
    現在の池袋駅”東”口には”西”武(百貨店)が在り、”西”口には”東”武(百貨店)が在るので、そのようによく言われるのだが、昔は”東に西があり、西に東がある”のは今と変わらないものの中身がちがっていた・・

    というのは・・”東”口には”西”武(百貨店)が在って、”西”口には”東”横(百貨店)が在った時代があったから。(後に、西口に東横と東武が短期間だが並立した時期もある)

    昔の池袋には百貨店が最多で5店存在したことがあり・・

    西武百貨店(東口)=開業1949(昭和24)年~
    東横百貨店(西口)=開業1950(昭和25)年~閉店1964(昭和39)年(東武に譲渡)
    丸物百貨店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店1969(昭和44)年(西武に譲渡後パルコ第一号店になった)
    三越池袋支店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店2009(平成21)年(現在、ヤマダ電機「LABI 1」店)
    東武百貨店(西口)=開業1962(昭和37)年~

    右に丸物百貨店、左に西武百貨店(松井一彦氏1967年撮影)
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    左は東横百貨店(高木進一氏1963年撮影)、右は建設中の三越池袋支店(1957年、撮影者不明)
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    上の写真3枚は全て豊島区立郷土資料館発行誌「かたりべ」掲載より引用

    ◎西武百貨店の火事(1)捨てたマッチの火が招いた大惨事
    1963(昭和38)年8月22日12時50分頃、西武池袋店7階から出火。
    死者7名、負傷者216名となる。(当日は休業日で来店客は無し)

    出火原因はマッチの残り火。休業日を利用して店内消毒を専門業者7人が行っていたが、作業員がタバコに火をつけた後のマッチを床に捨てたところ、床にこぼれていた消毒液に引火し、さらに塗装業者のシンナーにも引火したので火のまわりが速く、当時はスプリンクラー設置義務もなかったために初期消火にも失敗して、100台の消防車が出動して梯子を伸ばしても7階までなので8階にも延焼して鎮火したのは同日20時35分。

    消毒会社と西武店員の死者・負傷者を出すに至った。被害総額は当時の金額で200億円。この火事を契機にスプリンクラー設置義務が制定された。

    西武百貨店火事のニュース映画タイトル (中日ニュースより)
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    燃える西武百貨店(同上ニュース映画より)
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    私が子供の頃は、空気が乾燥する冬には子供たち数人のグループが拍子木をカッチ、カッチと叩きながら「火の用心、マッチいっぽん火事のもと!」と大声を出しながら町内を歩いて巡っていたものだが、まさに西武百貨店の火事は"その言葉どおり"になった。

    ◎西武百貨店の火事(2) 鎮火直後セールで汚点
    なんと火事の2日後、同店は「冠水商品大安売り」を告知したものの、それを知った人たち5万人が押し寄せたために中止となったが、これには「多くの死者、犠牲者を出した直後で不謹慎である」との批判が出たことも影響している。

    私は当時これを聞いた時、「さすが近江商人! 何はともあれ商売か!?」と思ったものでした。
    しかし後年になって、”近江商人”とは近江の国(現在の滋賀県)に自家、拠点を構えてそこから全国に向けて行商する人たちを称したものであることを知ったことにより、”西武経営者は厳密には近江商人ではない”ことになると認識した。

    ちなみに、創業者が近江国(おうみのくに)または滋賀県生まれの会社は・・西川(寝具) / 小泉産業(家電その他) / 高島屋(百貨店) / 伊藤忠商事・丸紅(商社::両社とも創業者は同一人物) / 日本生命(保険) / ワコール(女性用下着その他)など。

    しかし、”西武”が近江商人と全く無関係ではないとは言えるその理由は・・

    現在の西武関連の多数の会社の基を一代で作り上げたのは滋賀県(昔の近江)生まれの堤康次郎(やすじろう:1889~1964)氏であり、早くに父を亡くした氏は母方の祖父と一緒に、行商はしなかったものの色々な仕事をした中には、滋賀県内での耕地整理と土地改良というものがあって、

    これが後に氏による伊豆、箱根の観光地、軽井沢の別荘地、東京の高級住宅地「目白文化村」などの開発に影響を与え、西武鉄道、西武百貨店の展開につながったものと考えられる。なお氏は一方で政治家の一面をもち、衆議院議長を務めたこともある。
    堤康次郎氏
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    そしてなんと現在の「近江鉄道(株)」は創業者が滋賀県出身であり、第二次大戦中に苦境にあった同社を同郷の堤康次郎が救うために西武グループの子会社にして今に至っているもので、

    同社の鉄道車両は関東で走っていた西武鉄道の車両の"お下がり"を利用している。このように"西武と近江はつながっている"。


    堤康次郎氏の死後,”西武鉄道(現、西武)グループ”(土地開発などの不動産関連や西武鉄道)の経営を氏の三男の堤義明(1934=昭和9年~)氏が、”西武流通(後のセゾン)グループ”(西武百貨店など流通部門)の経営を二男の堤清二(1927=昭和2年~2013=平成25年)氏が継承した。(二人は異母兄弟)

    堤義明氏(左)と堤清二氏(右) (写真は日本経済新聞より引用)
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    ・・というわけで、西武百貨店火災の時点で堤清二氏は同店のオーナー店長だったのだが、”東京大学経済学部卒で経済学博士である一方で「辻井喬(つじいたかし)」というペンネームをもつ小説家・詩人”でもあった氏が何故に“鎮火直後の「冠水商品大安売り」という失策”をしてしまったのだろうか?

    これだけのご仁も余程 気が動転していたのだろうか?・・結果として西武百貨店の歴史に汚点を残した一件であった。

    ◎西武百貨店の火事(3) イカリ消毒社は堤氏に赦免されて後の発展につながる
    イカリ消毒(株)は1957年に創業して間もなく創業者が死去したため、その息子二人(黒澤眞次氏、黒澤敬氏)が事業継承して間もない1963年に西武の火事を起こしてしまった。時に眞次氏23才、敬氏21才だった。

    鎮火後、イカリ消毒の経営者の二人は「刑務所に行って死んでお詫びする」ことも考えながらすぐさま堤清二氏のもとへ謝罪にうかがったところ、清二氏から驚くべき言葉を聴いた、それは・・

    「君たちはまだ若い。それに君たちの仕事は今後ますます必要とされるだろう。このような事故を二度と起こさないことを誓い、世のため人のために頑張りなさい」

    その上でさらに清二氏は”損害額のほとんどを西武側で負担”したのだった。

    その有難い言葉と処置の意味を肝に銘じた二人は、それ以来”知恵と技術の向上と絶対の安全”を誓ったが、先ずはこの火事は自分たちが”危険物取扱い”に資格が必要なことさえ知らなかったという無知に気づき、以後は” 危険物取扱主任”資格をはじめとして各種資格取得をして、

    特に黒澤眞次氏は82種もの資格を得た。社員にも奨励した結果、現在では社員650人全員の取得資格総数は4500におよんでいるとのこと。

    その他にも”世のためになること”に注力するなどで信用と実績を積み、今や「イカリ消毒(株)」は・・消毒・害虫駆除の分野のトップ企業として年商150億円となった。・・これは堤清二氏の偉業というか英断による結果とも言えるだろう。

    ◎西武百貨店の火事(4)パトカーの交信内容を聴いていた私
    この火事が起きた日は高校生の私にとって夏休みの最中だった。当時の私の趣味の一つに”アンプや受信機の製作”があったのですが、その流れで”市販のFMラジオの中身のコイルを少し細工して”警察無線を傍受できるように改造していた。今は傍受不可能だが当時は”パトカーと警視庁の交信”などが聴けた。

    その日の昼過ぎにたまたま改造ラジオのスイッチを入れて警察無線傍受を始めたら、池袋の西武百貨店の火事に(消防車だけでなく)出動したパトカーの無線交信が入ってきたので、慌てて2階の窓から東方の池袋方向を見たら確かに大量の煙が見えた。(自宅から西武百貨店までは直線距離にして約2.5キロだった)

    私にとってこの火事発生のニュースは新聞はもちろんテレビでも伝わる前に知ったことになったのですが、ここからお話が飛んで・・

    1961(昭和36)年4月12日にソ連(現、ロシア)のユーリイ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功しましたが、これもたまたまこの日の午後(時刻は記憶にないのですが)に短波放送が聴けるラジオのダイヤルをまわしていたら、普段は昼には聞こえない「モスクワ放送(日本語版)」が聞こえて、なんとその内容が「今、ソ連の宇宙飛行士が地球の周り回っています!という実況中継のようなものだった」ので私も興奮した。

    なぜなら世界初の人工衛星がこれもソ連によって打ち上げ成功した(忘れもしない)1957年10月4日から3年半しか経っていなかったから。

    この有人宇宙飛行の件もまた” 新聞、テレビで伝わる前に知った”ことになったわけですが、後年に知ったのは”ソ連はこの有人宇宙飛行が成功するか否か分からないために、ガガーリン(本来は軍人)が宇宙飛行中に「2階級特進」を本人に伝達した”ということなので、

    ひょっとすると私が聴いたモスクワ放送の内容は”ガーリンが地球の周りを一周して無事帰還に成功”した後に録音版を流したのではないかと思える。それはもちろんリアルタイム放送中に失敗したらマズイでしょうから。
    ユーリイ・ガガーリン(写真は「スプートニク日本ニュース」より)
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    ◎西武百貨店の「日本一」「日本初」(バルサミコ酢も)
    今、窮地に立つ西武百貨店だが、その旗艦店である「西武池袋本店」は、かつて「日本一」や「日本初」を誇るものが沢山ありました。

    ・売上高日本一:1983年に、当時それまでトップだった三越本店を抜いて売り上げ1位になっていた。
    1963年師走の西武百貨店の売り上げ金勘定での札束の山 (以下の写真3枚はTBSテレビ「ひるおび」より)
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    ・百貨店の建物の長さ日本一・・現在の池袋本店に増築完了した際には「日本一どころか東洋一」。

    ・百貨店として初の「パリ オフィス」開設。その結果、エルメス、アルマーニなど有名ブランドを多数導入し、特にラルフローレンを日本へ初めて紹介して普及させた。

    ・百貨店屋上にヘリポート設けて観光事業は日本初・・最盛時には6台のヘリコプター発着。
    「西武スカイ ステーション」と名付けた屋上ヘリポート(1959=昭和34年)
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    ↓屋上ヘリに乗り込み新婚旅行に向かうカップル(1959=昭和34年)
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    ・日本最初のセレクトショップと言われる「SEED館」設置。

    ・百貨店の包装紙デザインに外国人を日本初採用。1959(昭和34)年にスウェーデンのデザイナー「スティグ・リンドベリ」氏によるデザインを包装紙に採用。図柄は”百貨店の多様な品揃えを表して楽しさを感じる”もので人気があった。
    ↓スティグ・リンドベリ氏デザインの包装紙 (私の保有品)
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    しかし西武のイメージ変化に対応させるべく、その使用は1975(昭和50)年までにして同年から日本の著名なグラフィックデザイナー田中一光氏による”青と緑の円で構成する清楚な感じ”のデザインを採用している。
    田中一光氏のデザイン(これは紙袋版)
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    ちなみに日本初の”百貨店オリジナル包装紙”は三越のもので、”濃いピンクの丸っこい石が転がっているようなデザイン"は著名な画家の猪熊弦一郎氏のもの。

    ・日本で最初に「バルサミコ酢」を紹介販売して現在の普及につなげた。
    このバルサミコ酢の件は、今から35年くらい前に故田中千博氏(フードシステム研究所所長、食卓懇話会など主催、食関連著書多数)から私が直接お聞きしたのですが、

    「毎年、相当な期間を海外で"食"関連事情を調べることに費やしている中で、イタリア北部で”ワインと濃縮ぶどう果汁を原料にして熟成させて作る酢”で「アチェート・バルサミコ」と称しているものに出会ったが、これがすばらしいので日本に紹介するべく、西武池袋店に”展示紹介・販売”するよう提案して採用された」・・ということでした。
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    さてさて、百貨店が「諸行無常」のならいに抗う方法を見つけてほしいものです。
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    ◎科学博物館(略称:科博)に1日で1億円の寄付集まったが・・
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    国立科学博物館(東京・上野)は、同館へ国から支給されている運営費交付金が年々削減されている中、コロナ禍で来館者減となって入館料による収入も減り、さらなる光熱費や物価の高騰で収蔵用の標本や資料の収集と500万点以上ある標本類の保存のための資金繰りが苦しくなっていることを理由に先日(2023.8.7)、インターネットを通じて寄付を募るクラウドファンディング(CF)を始めたところ、驚くべきスピードで募金が寄せられて開始9時間20分後の午後5時20分には目標としていた1億円を達成した・・というニュースが流れて、私はそのスピードと集金額よりもむしろ”日本の人たちの文化度、民度の高さの現れ”として感動した。

    このクラウドファンディングは11月5日まで続行する予定だそうだが、何と今日(2023.09.09現在で7億4800万円超も集まっている!

    科学博物館内展示物一例、右は「フタバスズキリュウ」の骨格化石
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    ◎牧野博士の植物標本も収蔵する「小石川植物園」もCFが!
    牧野富太郎博士はその94年の生涯で1500種の植物に命名し、約40万点に及ぶ植物標本や観察記録(図)を残したが、その多くは”終の棲家”として約30年間住んだ東京都練馬区の自宅(現、練馬区立牧野記念庭園)に残されていたものの、(牧野博士は名誉都民第一号でもあり)その後東京都が譲り受けて現在「東京都立大学 牧野標本館」(東京都八王子市)に収蔵されているが・・

    当然のように、長年在籍した東京大学にも一部が残っていてそれらは博士が37年間もかかわった「小石川植物園」(←通称であり、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」:東京都文京区)に収蔵されている。

    小石川植物園内の植物学教室で撮影された牧野富太郎博士(東京大学HPより)
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    5万坪弱の植物園に囲まれた本館(建物内は非公開)
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    本館内には研究室、実験室、図書館、80万点の植物標本の収蔵庫が在るが、1939(昭和14)年に完成した建物は雨漏り、外壁損傷が発生し、標本収蔵庫は満杯なうえに保管のための湿度温度調整用機器も老朽化などで早急な対策が必要だが「資金が無い」と園長の北川篤教授は訴えて・・

    丁度、小石川植物園発足150周年でもあり、募金を受け付けるキャンペーンを行っていて、うたい文句は・・「緑の命を、未来につなごう」・・として「Life in Green Project」と銘打っている。

    期間は2023年4月から2024年3月。目標金額3億円。・・ところが・・現在(2023年9月)のところ約1536万円しか集まっていないようだ。

    先日、私がたまたまテレビで観たのですが、”科学博物館1日で1億円集まる”のニュースに関連して、この小石川植物園の窮状も伝えたシーンでは・・同園の一研究員(なんと白い肌の欧米系外国人)が標本収蔵庫の中で”牧野博士が学名を与えたとしてよく知られる「キンモクセイ」の標本を博士自ら作製してサインも記入した現物”を見せてくれながら指さしたのはキンモクセイの葉の先端付近が”虫に喰われたか乾燥しすぎてパリパリになって折れたか?”で欠損している状態であり、こう言った「このように標本管理がうまく行っていないので困っています!」。

    ↓キンモクセイ:博士が命名した学名は・・Osmanthus fragrans Lour. Var. aurantiacus Makino
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    ここで、科学博物館と小石川植物園の両者はインターネットも使って募金しているのに結果の差は何が原因かを考えると・・両者とも募金に至った詳細説明では運営資金不足を訴えているものの、各々のキャッチフレーズの方向が異なり、前者は「国立科学博物館500万点のコレクションを次世代へ」とやや具体的な内容で語り、後者は「緑の命を、未来につなごう」、「Life in Green Project」という抽象的な表現.。

    もう一つ影響しているのが・・前者は今流に「クラウドファンディング(CF)」という言葉を使っているのに対し、後者は「寄付」という言葉を使っていること。

    後者は前述の”牧野博士作製の標本がダメージを受けた現物”を見せて窮状を訴え、「クラウドファンディング(CF)」という言葉を使ったほうが良いのではないだろうか!

    ◎大賀ハス存続の危機にもクラウドファンディング !
    3000年も地中で眠っていたという貴重な大賀ハスなのですが、どうやらその存在が危うくなっているようで、千葉市役所前に在った大賀ハスも消滅し、安藤忠雄氏設計の本福寺・水御堂(みずみどう:兵庫県淡路島)の大賀ハスも非常に少なくなっている様子。

    大賀ハスと大賀一郎博士
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    安藤忠雄設計の本福寺・水御堂の屋根の池の大賀ハスが衰退・・
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    また”大賀ハスと外国ハスの交配種”が千葉市の「みなと公園」の池に2種類植わっているのですが、これも消滅が近い様相を呈していて、一つは「中日友誼蓮(ちゅうにちゆうぎれん)」で、このハスは大賀博士と坂本祐二(和歌山県御坊市在住のハス研究家。ハスに関する著書もある)氏が大賀ハスの種を二人それぞれ50粒ずつ計100粒を、日本と中国の友好と平和の象徴として中国に寄贈したところ、中国武漢植物園にてその大賀ハスの種と中国古代ハスを交配した種が作られ、これが日本に贈られたもの。

    ↓「みなと公園」(千葉市)の池に建つ「中日友誼蓮」と「舞妃蓮」の説明看板
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    もう一つは「舞妃蓮(まいひれん)」で、これは1966(昭和41)年に坂本祐二氏が大賀ハスと王子蓮(アメリカ黄蓮)を交配して作ったもので、花弁が舞うように閉じるさまが優雅な花。これを1968(昭和43)年に当時の皇太子殿下(現、上皇)ご夫妻がご覧になられたのを機に、美智子妃の美しさになぞらえて命名されたもの。

    この2種のハスは私が10数年前に観た際には池全体にわたって大量に生えていた(残念ながら花は観ていない)のですが今年(2023年)7月に観たら、「中日友誼蓮」は姿が無く、説明看板によると、一旦別の場所に移して元気回復させてから再びこの池に戻す予定とのこと。一方の「舞妃蓮」は極端に少なくなっていてかろうじて存在しているような状態です。

    ここの池ではハスの代わりにスイレン(睡蓮)がはびこっていて、この状況は安藤忠雄氏設計の水御堂の池も同じように見えますから、”スイレンは強し!”と感じます。

    「舞妃蓮」はスイレンに囲まれてわずかに存在。(2023年7月下旬/千葉市・みなと公園)
    大きく丸い葉がハス、小さく「パックマン」のような葉がスイレン
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    ハスの毎年開花にはボランティアとクラウドファンディング必要
    大賀ハスに限らずハスの花を継続的に毎年咲かせるために理想的には、3年に一度は土を入れ替え、土中で増えすぎて密集している蓮根を間引いて整理するなどの手入れの必要があるそうで、これをしないと花咲かずに葉ばかり出るようになり、やがては衰退するそうで、前述のような”各地のハスの衰退状況”はこの手入れが行き届いていない結果だろう。

    千葉市に在る「ハス品種見本園」は東京大学の旧、緑地植物実験所に在ったハスの管理を受け継いだもので、大賀ハスをはじめ世界各地のハス約120種をそれぞれの種類ごとに”一辺280センチの正方形で深さ60センチのコンクリート製の枡(ます)”などで栽培維持していますが、前述のように土(”田土”が最適)の入れ替え、蓮根の整理、肥料やりなどの作業を「大賀ハスのふるさとの会」のボランティアの人たちが行っている。

    枡で育成中の大賀ハスを見学する中国の「大連市普蘭店区古蓮研究所」の視察団:2016年10月 
    (大連市普蘭店の地はかつて大賀博士が中国古代ハスを発見した所)    
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    毎年持続してハスの花が咲くためのこのような作業には人の労力の必要のみならず、土や肥料代など経費が発生して、この「ハス品種見本園」では1枡当たり年間3万円かかるそうで、毎年開催の「ハス祭り」や「観蓮会」で”花托(かたく)※”や”ハスの絵葉書”などのハス関連グッズを販売したりして資金捻出していたが、コロナ禍の影響で収入激減してしまったので・・

    「ハス品種見本園」の維持管理継続のためのクラウドファンディングをすることになり、目標額:35万円として、2021年3月から約一か月かけて72人から46万8千円が集まって、その後の運営が継続されているとのこと。

    「花托」とは、ハスの場合は花の中央の黄色い円形部分で表面に10数個~30数個の小さな穴があるもので、花びらが散った後はその直径が大きくなり緑色に変化し穴も少し大きくなり、最終的には直径10センチぐらいなどになり茶色になる。穴が大きくなった花托は蜂の巣のような印象となり、それぞれの穴には種(実)が入っている状態になる。
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    (↑真ん中の写真は「舞坂の自然を守る会・ちゅうなあ通信」より引用)  
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    秘話:現在日本では大賀ハスの他にも古代ハスが発見されていて、一つは埼玉県行田市の「行田ハス」で、推定1400~3000年前のものと言われているが、その発見の契機がおもしろく、1971年にある公共施設の工事現場で開花したもので、ハスの種というものは堅い殻に包まれていてしかもその表面は撥水性があるため水を吸わない状態で何千年も休眠できるようだが、工事用の重機によって殻の一部が破れてそこから水が入ったために眠りを覚まされて発芽したと考えられている。
    (現在、園芸用にハスを種から育てる場合には必ず種の尻部を切り欠いてから水に漬ける手順がとられる。)
    もう一つは、群馬県館林の城沼のハスで、これも前述の行田ハスと同様、推定1400~3000年前のものと分析されているが、ここのハスは太古の昔から絶えることなくこの沼で生き続けていると考えられている。
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    飛話:近年は非正規就労者や介護職などの給与水準の低さが指摘されていますが、最近は学芸員(博物館や美術館で働く専門職)についても同様の指摘がでてきました。

    そこで思い出すのは・・私が小学校高学年時に上野の科学博物館に(父親に付き添われて)行き、アンモナイトの化石とデスモスチルス
    (日本やサハリンあたりに生息して1300万年前くらいに絶滅したとされる海獣)の骨の一部の化石(と思われるモノ)を、同館の地下に在った地学課で鑑定をしてもらって、前者は約2億年前のセラチテスという部類。後者はデスモスチルスではない他のもっと新しい時代のモノであるが種類は判定不能という結果でしたが・・

    鑑定して下さった地学課長の尾崎博さんは当時のテレビにもコメンテーターとして出演するほどの方だったのですが、私がお礼を言っての帰り際に尾崎課長から「君、地学で将来食っていくのは難しいよ」というショッキングな言葉を投げかけられたのでした!・・

    それは、今から70年ほど前の昔も博物館の学芸員は薄給だったという背景があったからでしょうが、最近の各所で行われているクラウドファンディングの結果で学芸員給与アップに反映されれば良いのですが・・。
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    ◎「大賀ハス」の種は千葉県で2千年以上眠っていたとされるが!?
    1951(昭和26)年に植物学者の大賀一郎(1883=明治16年~1965=昭和40年)博士が千葉県に在った「東京大学検見川厚生農場(現、東京大学検見川総合運動場)」の地にあった「落合遺跡」の発掘調査をした際に地下の草炭(樹木ではなくアシやヨシなどが水中堆積して炭化したもの)層の下の青土層の中(地表から約5.5m)から3粒のハスの種(ハスの場合は”実”とも言う)が発見された。

    ↓大賀一郎博士
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    博士はこの種は約2千年前のものと判断したが、これを現代に蘇らせて発芽育成をすべく自宅で試みたところ、種3粒の内の1粒だけが蓮根を形成しだしたので、それを根分けして三カ所(伊原茂氏宅、千葉公園、千葉農業試験場)にさらなる育成を1952(昭和27)年4月に委託したところ、3か月後の7月に伊原氏宅のハスが見事に開花した。 

    ↓大賀ハス
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    この太古のハス開花のニュースは日本のみならず世界中に伝わり、米国のTIME誌にも「世界最古の花、生命の復活」としてカラー写真とともに紹介された。こうして有名になった古代ハスはその後「大賀ハス」と称されるようになった。

    ◎大賀ハス 本当は3千年前かも?!
    実は、この古代ハスの種が在った層のすぐ上の草炭層から丸木舟も出土していたので、その小片を放射性炭素年代測定してもらうべく (この測定法を世界最初に開発した)米国のシカゴ大学へ送った結果、この丸木舟の素材は3075年(プラスマイナス180年)前のものと判明。

    ↓発掘時の土層図(大賀博士のメモを基にしたもの)
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    (深さ数値は博士のメモでは尺・寸記入だったものをメートル法に変換したもの)

    放射性炭素年代測定用のサンプル木片がこの丸木舟の舟体の厚みの内側のものか外側のものかによって年数値に差が出るが、杉材で厚みが5センチと仮定すれば、内側と外側で約30年の差がでるが当時どちら側の木片を使ったかわかりませんが・・

    ではこの丸木舟が埋まっていた層は”少なくとも(つまり新しくとも)いつごろから形成されたかを考えてみると・・年代測定値の誤差のマイナス値のほうを採用した上で、この舟に使われた木材は伐採直後のものであるだろうことを前提として、測定値が丸木舟の内側の木片測った結果(つまり古い方)だったとして、これを新しい方に振り、またこの舟が20年使われた後に廃棄されたか沈没したとして、その後”草土”となる植物の沈殿物に埋もれだしたとすると・・

    3075-180-30-20=2845(年)・・となって、この丸木舟は新しくとも約2850年前にこの地に在ったということになり・・年代測定誤差を反対にとれば(=古くは)・・3255(年前)となります。

    後に大賀ハスと呼ばれるようになったハスの種は丸木舟が存在した層よりさらに下の層に在ったので、丸木舟より古いとは思われるものの、例えば丸木舟と同じ時代に落ちていた種を当時の人が踏んで、より深い下の土の層まで押し込んだものかも知れず、年代は特定できませんが・・

    現在でも大賀ハスの説明文には「2千年以上前の古代ハスで弥生時代以前のもの」とされることが多いのですが、”弥生時代は約2300年前~約1900年前”とされるので「大賀ハスは約3千年前の縄文時代後期のもの」とするほうが妥当のような気がします。

    ◎博士は大賀ハス発見より以前に中国で古いハスを発見していた!
    大賀博士がまだ若い頃、中国・大連に在った南満州鉄道中央研究所(通称:満鉄調査部)の植物班主任として勤務時代の1927(昭和2)年に、大連郊外の「普蘭店」という地の泥炭層の中から、約300年前のものと推定されるハスの実を採取して発芽させることに成功。これをもとにした論文により東京帝国大学の博士号を取得している。この経験があったればこそ千葉県の東大関連敷地内の泥炭に似た地層でのハスの種の存在の可能性にかけて発掘作業に(68才にはなっていたが)意欲を燃やしたのでしょう。

    ◎大賀ハスは日本各地、世界各地へ。あの水御堂にも !
    大賀ハスは千葉県で発見されたこともあって、現在では千葉県内の多くの公園の池で観られ、千葉市は「市の花」に指定。「検見川大賀蓮」が千葉県指定天然記念物になり、千葉公園では毎年6月に「大賀ハスまつり」が開催されるほど。しかし今や日本全国各地でも観られ、なんと前回のブログでもふれました安藤忠雄氏設計の「本福寺・水御堂」の池にも大賀ハスが植えられています。

    屋根がハス池になっている本福寺・水御堂
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    そして今や大賀ハスは世界150ヵ所に根分けされて花を咲かせているそうです。

    ◎実は大賀ハスの種を最初に発見したのは女子中学生!
    大賀博士が千葉市の地で発掘作業をした際にボランティアとして小学生や中学生も参加していた中で、市立花園中学校の生徒・西野真理子さんが(後に大賀ハスと呼ばれる)ハスの種を一粒見つけたのが最初で、その後に周囲から二粒が追加して見つかり計3粒になった。大賀博士が残しているメモにも”第一発見者として西野さんの個人名”を明記している。

    大賀博士の発掘を手伝う小学生?
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    一本の大賀ハスの開花は4日間。見頃は千葉県では6月中旬~下旬。しかもハス全体の性格として午前中にしか開花は観られない・・というわけで千葉県に住む私なのに、残念ながらこの花をまだ観たことがありません。
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    現在、NHKが放映中の連続テレビ小説(朝ドラ)「らんまん」の主人公のモデルとなったのが現在の高知県生まれの植物分類学者の牧野富太郎博士(1862~1957=昭和32年、94才没)。
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    1889(明治22)年に、植物として日本最初の学名「ヤマトグサ」を名付けて以来、日本各地の植物を調べて1500種以上に学名を付けた博士がシーボルトを批判した理由とは・・

    ◎日本固有種のアジサイを欧州に紹介したシーボルトだが・・
    アジサイと名が付く植物の原種はガクアジサイ。これは日本の固有種であり、日本原産。現在多く見られるアジサイ(ホンアジサイ)はガクアジサイを園芸品種化したもので、これが西欧に渡って品種改良(と言うべきなのか?)されて大正時代に日本に逆輸入されたのがセイヨウアジサイ。

    ガクアジサイ
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    幕末に来日したシーボルト(1796~1866)はドイツ人ながら長崎のオランダ商館付きの医者で、日本の医者や医学生に西洋医学を伝授した一方で日本の文化、生物、地理などを西欧に紹介した。(その一環として、当時は国禁だった”日本地図の国外持ち出し”を図ったことが発覚して1829年に国外追放になった「シーボルト事件」は有名)

    晩年のシーボルト
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    シーボルトは日本の植物としてアジサイを紹介するに当たって、学名となるように「Hydrangea otaksa (ヒドランゲア オタクサ) Siebold et Zuccarini」として発表した。 

    ところが、シーボルトより先に別の学者がアジサイに学名「Hydrangea macrophylla(ヒドランゲア マクロフィラ)」をつけていたことが判明したので「ヒドランゲア オタクサ」は学名登録されなかった。

    「オタクサ」という名は、シーボルトが”在日中の妻としていた”楠本滝のことを「オタキサン」と呼んでいたことから付けたというのはよく知られていますが・・

    楠本滝は元々は商家の娘だったが家が没落したためやむなく出島の遊女になっていたところをシーボルトに見染められたもの。

    さて、シーボルトがアジサイ※に「オタクサ」という名をつけた由来を知った牧野富太郎博士は・・
    「植物の名付けを”私して(私的に利用して)”、しかも女郎のお滝の名を用いるとは、大いに花の神聖をけがすものである」というような表現を用いて憤慨していたそうです。

    しかしながら、牧野博士も”苦労をしながら自分を支えてくれた妻「壽衛(すえ)」”に感謝を込めて、新種のササに「スエコザサ」と命名しているから”同じ穴のムジナ”に近いのではないだろうか?

    ※シーボルトが西欧に紹介したのはガクアジアイであったと牧野博士は確認している。

    ◎牧野博士の仕事に欠かせぬ存在だった”画工”たち
    牧野博士の仕事に欠かせなかった植物標本と植物画。
    "博士が植物に対していとおしむように接した"ことを表すかのように、作製した40万点の標本には植物が美しく見えるように、台紙への貼り方にも注意がはらわれていた”

    ↓「クロモジ(芳香がする高級つま楊枝に使われる)」の標本(左から、実、青葉、紅葉)
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    「東京都立大学牧野標本館」(八王子市)収蔵品写真より引用
      当館の全収蔵品50万点の内、牧野博士作製分は16万点

    牧野博士の偉業は、妻や友人など多くの人たちの助力、協力に支えられていたことはよく語られています
    が、特に植物画の作成には専門の”画工”の助けが必要だった。

    元々、牧野博士は自身で植物図を1700点以上を描いていましたが、それは非常に緻密で正確な図であり、そのために”ネズミの毛を使った独自考案の筆”を駆使して”1ミリ幅の間に7本の線”を描いていました。

    ↓牧野博士自筆の植物画 (「和楽web」より引用)
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    そんな調子なので当然、大量の植物画を描くには時間的に無理ということで、博士同様の絵が描ける職人である”画工”たちに分担依頼しましたが、博士はこの人たちの存在とその仕事に感謝していた。

    例えば、『1940(昭和15)年に出版された「牧野日本植物図鑑」(北隆館)の序文には、三人の画工である水島南平、山田壽雄(としお)、木本幸之助への謝辞が記されている』 (『』内は東京大学総合研究博物館 研究員 藏田愛子氏による)

    この三人の中でも博士が最も信頼していたと言われる画工が山田壽雄(としお)氏。氏は牧野博士からだけでなく他の有力者からの依頼も受けていた。そのため氏の描いた原画が多く残っている。

    ↓山田壽雄の植物画(「山田壽雄が描く園芸植物」展=2018年に練馬区立牧野記念庭園記念館で開催
    の案内パンフより)
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    ↑図内の左上から、園芸種名「鶉ノ羽」/左下「センリョウ」/右上「スカシユリの一品種」/右下「ハクモクレンの一品種」下図は「錦重 羽衣」・・これらの図は園芸家の石井勇義氏の依頼により山田壽雄が描いたもの
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    ◎初期の牧野を手助けした池野成一郎 / 添い尽くした妻の壽衛
    牧野博士が東京大学(後の東京帝国大学)に出入りし始めた頃、東京大学生だった池野成一郎は顕微鏡使用の植物観察や英語、ラテン語の読み書きを手助けしていた。また牧野が一度東京大学を締め出された後も復帰を後押しし成功させた。

    博士の妻の壽衛(すえ)は貧乏暮らしの中でも夫を支え続け、牧野博士の終の棲家となって最後の約30年を過ごした(現在の東京都練馬区東大泉の)庭付きの家も、彼女が「待合茶屋」を経営して産み出した資金で手に入れられたものだった。現在その旧居は「練馬区立 牧野記念庭園記念館」となっている。

    ↓妻 壽衛 
    (個人蔵の写真を朝日新聞が掲載したもの)
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    余録
    シーボルトと楠本滝の間に生まれ、日本で初の西洋式出産医学を学んだ医師となった楠本イネを主人公にして、民放(TBS系)の連続テレビドラマ「オランダおいね」がイネ役を丘みつ子、滝役を馬渕晴子で、1970年に半年間放映されましたが、丁度この期間は大阪での万博開催と重なっていました。
    当時、会社員だった私にとっては昼休みに当たる時間帯に放映されていたドラマでしたが、殆ど観られませんでした。
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    NHKの朝ドラ「らんまん」好評を反映している一つの例が、旅行会社の”四国巡り”ツアーにおいて、定番の桂浜・坂本龍馬像、金刀比羅宮、大歩危・小歩危、祖谷のかずら橋、道後温泉、四万十川などに加えて「牧野富太郎記念館」「県立牧野植物園」(高知市)が登場したことです。

    ↓最近の旅行会社の新聞広告
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    蛇足ながら他にも、四国巡り観光において近年追加されてきたのが「大塚国際美術館」(徳島県鳴門市)で、世界の名画1000点を特殊技術で陶板に焼き付けて原寸大に再現したものが観られるという人気スポットです。
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    今は梅雨 ! アジサイの花が我が家に少々、近所のお宅に沢山咲いています。

    ↓近所のお宅の垣根沿いのアジサイ
    (下の8枚の写真は全て1軒のお宅のもの)
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    ◎アジサイは食べると中毒の危険性があるのだが・・
    数年前の梅雨の合間のある日、ある店で食事をした際、最初に出された小鉢の横にアジサイの花が添えられていた。(↓下写真赤丸内)
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    それは一見、風情があるものの、私は”これは やめたほうがいい”と思った・・その理由は・・

    アジサイは、花、葉、茎などのどの部分を口にしても、中毒(嘔吐、悪寒、顔面紅潮)の危険性がある”からで、なぜ「危険性がある」という表現を使って”確定的表現”を避けたかと言うと、その有毒成分として青酸配糖体やアルカロイドというものが検出されることがあるものの、検出されないこともあり、それが種類や土地によるものかも特定できないのが現状だからです。

    しかし実際に中毒は発生していて・・厚生労働省の発表によれば・・
    2008年に大阪市の居酒屋で出汁巻き卵の下に敷かれていたアジサイの葉を食べた人が中毒発症。
    同年、茨城県つくば市の飲食店でもアジサイの葉を食べた8人が中毒発症。

    前述の”私の場合”は添えられていた花はアジサイですが、葉っぱはナンテンとイタヤカエデでしたから問題は無かったものの、アジサイの葉は大葉(青しそ)と同様のつもりで、また花は近年流行のエディブルフラワー(食用花)のつもりで食べてしまわれる危険性があります。

    ということで、”疑わしきは使うべきではない”アジサイです!

    ◎「甘茶」でも中毒が・・
    昔から4月8日のお釈迦様の誕生日には、お釈迦様の像に甘茶をかけ流すと功徳を得られるとされ、また「甘茶」を飲む習慣がありますが、この甘茶の原料は「アマチャ」(オオアマチャ、コアマチャ、アマギアマチャなどの種類がある)であり、ヤマアジサイの変種だそうで、一見するとガクアジサイ(冒頭写真8枚の内最後の2枚参照)と見分けがつかないが、ガクアジサイと比べると全体に小ぶりで、葉の厚みがやや薄く、艶が無いそうです。

    ↓アマチャの花 (ガクアジサイと同様に、花は中心の丸い粒状部分/右は咲終わりに近く花や茎が薄紅色になったもの)
    (写真は「庭木図鑑ウェブ版」より引用)
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    アマチャの生の葉の状態では甘味は無く、葉を乾燥させてから発酵させると甘味が発生するので、これを昔から”食品の甘味料”としたり、煎じて甘茶にして飲みます。

    しかし、実際に”甘茶でも中毒”が発生しています。

    厚生労働省の発表によれば・・
    2009年に岐阜県岐南市で甘茶飲んだ保育園児119人の内28人が嘔吐などの中毒発症。
    2010年に神奈川県南足柄市の小学校で甘茶飲んだ1年生の内の45人が嘔吐などの中毒発症。

    伝統がある甘茶にしては、原料のアマチャがやはりアジサイに近い種類のためなのか、どうやら注意が必要なようで、飲む場合は浅い煎じ方にして、特に子供にはごく薄い甘茶にするか避けるべきでしょう。

    実は私が”将来お世話になる予定?のお寺”は別名があって「あま茶寺」とも称していて甘茶が飲めるとされていますが、前述のような理由で”大人の私でも”遠慮することにした次第です。
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    なお、アジサイは処理の仕方によっては、
    解熱や咳止め薬(漢方薬)になり、中国原産の「常山アジサイ」は"抗マラリア薬"になっています。アジサイは"毒にも薬にもなる"という点では他の漢方薬の原料となる植物と同様ですね。
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    ◎欠陥ルールが起こした悲劇
    先日、テニスの4大大会「全仏オープン」の女子ダブルス3回戦で加藤未唯(日本)とアルディラ・スーチャディ(インドネシア)組が失格するという事件があった。 

    ↓加藤未唯 (事件後の混合ダブルスでの優勝時の写真なので笑顔だが・・)
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    原因は、試合中で相棒のスーチャディがリターンミスして転がっている球を加藤が拾って相手コートに向けて返した球がボールキッズ(ガール)の頭部に当たってしまい、ガールは約15分間泣いてしまった。すぐさま加藤は謝ったものの、主審は加藤に”警告”を与えた。

    しかし、これに対して対戦相手のマリエ・ブズコバ(チェコ)とサラ・ソリベストルモ(スペイン)組はこれを不服として執拗に抗議したので、裁定が変更されて失格となり、ランキングポイントと賞金没収に加えて罰金(7500USドル=約100万円)まで科す宣告がなされた。

    この処分に対して加藤組はグランドスラム評議会に対して”動画を見た上での精査”を要請し、プロテニス選手協会(PTPA)も”処分は不当である”という声明を出したりしたが、後日棄却されてしまったものの、世界中からも多くの疑問や批判が発せられた。

    どうもこの事件の原因の一つは大会ルールの曖昧さにあるようで・・
    審判が加藤組に失格を告げた際に加えた言葉は・・「ルールによっての失格であり、ボールを故意に当てたか否かは関係ない」

    さらに試合後5時間経過した頃に、加藤は大会のスーパーバイザーと審判二人にこう言われた・・「もし球が当たったのが男の子だったらきっと失格にはならなかっただろう」

    後日、全仏大会ディレクターのアメリ・モスレモ氏は「失格はルールによっての正しい判断である」と述べ、付け加えるように「ボールガールは泣いていたではないか」と訳の分からぬ発言をした(この一連の発言に対してモスレモ氏への辞任要求が出ている)が、ブズコバとソリベストルモ組もまたこの”泣かせたことも悪い”として審判に再判定するように主張した。(ちなみに球が当たったのはボールガールの頭部だが顔面ではない)

    一方で、ブズコバとソリベストルモ組が、”最初に加藤に向けて審判が下した判定に対して抗議した行為こそ”ルール違反ではないかという指摘も出てきた。

    関連して、ボールキッズ(ボーイ/ガール)不要論も出ている。

    以上のような“ルールの解釈”が出てくるようでは欠陥があると言わざるをえないので、当然のように世界中からは”これを機会にルールの見直しを行うことになるだろう”という声が上がっている。

    ◎批判集中したブズコバとソリベストルモの品性無き行為
    加藤未唯からの球が頭部に当たったボールガールが泣き出したのを見たブズコバとソリベストルモは”加藤への警告”程度では甘いとして審判に抗議した結果、”加藤は失格”との判定が下された瞬間、二人とも笑顔を見せた。そのシーンは一部のテレビでも流されて、私も観ましたが、その”笑い顔”は喜びを表すというよりも”してやったり”あるいは”しめしめ”というそれであった。

    加藤の打球は故意に当てたのではないことは誰の目にも明らかなのに、その二人は執拗に抗議して不戦勝にもちこむ狙い通りになり、前述のような笑い顔を見せたことも相まって、世界中から批判が集中したが、これに対してソリベストルモは「ボールガールに当てた球は(皆さんが)ビデオで見るより(実際は)2倍も強く、彼女は20分間も泣いていた。ルールとして審判が下した判断であり、我々は何も悪いことはしていない」と主張したから余計に”炎上”した。

    かつてのテニスの女王ナブラチロワもSNS上で猛批判して「これはルールの馬鹿げた解釈で、ブズコバとソリベストルモが相手の失格を主張することは恥ずべき行為だ」と述べている。

    このようにブズコバとソリベストルモは、”テニスの技”ではない他の手段を使って何が何でも勝とうとし、それが成功して心情的に”ほくそ笑む”ところをさらに顔に出した笑みで表してしまったものであり、これは品性の無い行為であります。そこで私のアタマに浮かぶのは・・

    ◎試合中に相手へ思いやり返球した清水善造
    『清水善造(1891=明治24年~1977=昭和52年/86才没)(下写真:Wikipediaより)
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    清水は1920(大正9)年のロンドン・ウインブルドンのセンターコートで開催のテニス試合で世界中の128人が戦う中で決勝に進んだ。

    第1と第2セットは僅差で負けて迎えたが第3セットで相手の選手が足を滑らせて転倒したのを見た清水は”弧を描くようなゆるい球”を返した。

    そこで相手は体勢を立て直して打ち返したところ、清水のラケットはその球を追えなかったが、そこで観客全員からのスタンディングオベーションが起こった。

    その後は接戦でデュースが続いたものの結局、清水は負けたが、彼がコートから引きあげる際には再び盛大なスタンディングオベーションが起こり、それは長~く続いたのだった。

    ※この試合の対戦相手の名はW・チルデンであり当時世界ランク1位。清水は翌年の別の試合でもチルデンとほぼ互角に戦うほどの実力があったのでランキングは4位だった。

    清水のその行為は、”試合と言えども、あくまで対等な状態で戦おうとする所作”としてスポーツマンシップの鑑とされ世界でも賞賛されたが、特に日本国内では1933(昭和8)年には国語の教科書に「スポーツマンの精神」として載り、その後も修身の教科書にも載るなど戦前に計5冊、戦後は1960(昭和35)年まで計4冊が採用した。』 (『』内は「芦屋市役所」のHPより一部引用)

    かくして、この清水の行為と今回のブズコバとソリベストルモの行為はあまりにも品性に差があって対照的なのであります!

    ここでお話ちょっと逸れ・・私は清水のこの行為を扱った教科書には出会わなかったのですが、習った国語の教科書だったかにスポーツ関係の美談として「西田、大江選手の友情のメダル」が載っていた。

    ↓西田修平(左) / 大江季雄(すえお:右)
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    教科書によれば「1936(昭和11)年のオリンピック・ベルリン大会の棒高跳競技の決勝で西田修平と大江季雄の日本人同士が同記録で2位となったがルール上、西田が2位、大江が3位となったものの西田が銀メダルを大江に譲り、自分は銅メダルを受け取り、帰国後に”健闘を称え合って”互いのメダルを半分に切ってつなげて、銀と銅が半分ずつのメダルを各々で持つことにしたのだった」・・という内容だった。
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    しかし、この話には複雑な経緯と誤解があることを後に西田氏が語っているので、興味ある方はこのホームページ参照ください→ https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic_athlete/24.html    

    ◎勝ち負けの無い球技?:蹴鞠、羽根つき
    今回の全仏オープンでの事件とは対照的に”勝ち負けがない球技”があり、その一つは「蹴鞠(けまり)」で、約1450年前に中国から仏教と共に遊びとして伝来したもので、8人または6人が輪を作るように並んで、一つの鞠(鹿革製で中は空洞)を皆で蹴り上げて、鞠が地面に落ちないように長く蹴り続けることを楽しむものであり・・

    ↓蹴鞠の様子 (現代に継承された姿:京都・白峯神社のHPより引用)
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    そのためには自分が蹴った鞠を他の人が受け易く蹴り返し易いような”思いやりのある蹴り”をするもので、これには前述の清水善造のテニス試合における”ゆるい返球”を連想させられます。

    ↓蹴鞠用の装束と鞠(人物は後述の池田氏)
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    蹴鞠は鎌倉時代になると武家のあいだにも流行し、室町時代にも続き、江戸時代には一部庶民にも取り入れられるようになったが、幕末頃に消滅しかかったものの明治天皇が蹴鞠存続奨励のために援助したこともあって、現在では宮中や一部神社などで継承されている。

    その他、京丹波には、蹴鞠を研究し、普及に貢献されている池田游達(ゆうたつ)、蒼圭(そうけい)のご夫婦がおられ、ご主人は蹴鞠経験40年であり、鞠も伝統製法を研究して自作もされている。

    ↓池田夫妻による蹴鞠実演 (写真は「TRiP EDiTOR」より引用)
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    その他、”勝ち負けのない球技?”と言えるのが”羽根つき”であり、日本の正月に行われてきた伝統的な遊びで、ムクロジの種に鳥の羽根をつけたものを羽子板で二人相互に打つことを繰り返して続けるもので、これも蹴鞠の精神と同様に”(ラリーを)続けることを楽しむ”もの。
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    羽根つきの打ち合いの途中で羽根を打ち損じた人の顔に墨をチョイと塗る習慣がありますが、その理由は、羽根つきは本来、健康祈願、厄落としの意味があるので、打ち損じた人には”厄がついてしまう”ということで、それを払うためだそうで、私が子供の頃はこの墨塗り行為は”打ち損じたことに対する単なる罰”の意味だと思っていましたが、そうではなかったわけでした。
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    蹴鞠、羽根つきはいずれにしても球技?ではあるものの勝ち負けはないわけです。

    ◎勝ったのに負けたと公言した正田美智子(現 上皇后)さん
    現在の上皇と上皇后がまだ皇太子と正田美智子さんだった1957(昭和32)年8月にお二人は長野県軽井沢の会員制テニスコートで出会い、そこで行われたトーナメント戦で皇太子と早大生男子のペア対美智子さんとカナダ人13才ボビー・ドイルさんペアの試合があり、結果は2対1で美智子さんペアが勝利した。しかし美智子さんは後日、周囲の人やマスコミには、皇太子組が勝ったと伝えていたそうです

    これは”勝ちにこだわることとは反対の事例?”でしょう。

    ↓「テニスコートの恋」を生んだ「軽井沢会テニスコート」
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    ↓出会いの翌1958年のトーナメント会場にて
    (写真は週刊朝日より引用)
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    今回、テニスの勝敗に関わるテーマを選んだことにチョッと影響したのが、"我が伴侶の過去のテニス熱中時代の姿"が連想されたからで、初めてラケットを握った30才代中頃から10年足らずの期間、コーチの個人指導も受けるなどして、地域や県内の中・小規模の多くのテニス試合にも出場して、主に女子ダブルスで優勝または準優勝して家の中の飾り棚には約30個ほどの小型の優勝カップに数個の盾が溢れていた。(後年、何を思ったか、全て廃棄してしまいましたが)

    実はテニスの腕前は決してウマイとは言えないのに執念で?優勝したりするので、所属のテニスクラブのメンバーからは「勝つためのテニスをする〇〇さん」と呼ばれていました。

    しかしながら、勝つために品性を問われるようなことはしていなかったと言えるのでホッとしています。
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    世の中には、ものごとの分析や発想などのための要素を”見える化”する手法が多数開発され利用されています。いずれも人間の頭脳を駆使する必要がありますが、これからはITを使えばもっと効率があがるのか、あるいはこれらの手法に代わるカタチが出現するかも知れませんが・・
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    現在のところ存在する手法の中には「マンダラ」や「スゴロク」に似たカタチを使った手法が幾つか出ていて前回ご紹介したのは「マンダラチャート」ですが、今回は同じ”マンダラ”がアタマにつくものの違う呼称で当然手法内容も異なる「マンダラスゴロク」。そして同じ”スゴロク”がオシリにつくものの違う呼称の「デザインスゴロク」についてです。・・本題の前にまず”スゴロク”とは・・

    ◎スゴロク(双六)は・・
    インド発祥で中国、朝鮮半島経由で日本に伝来されたとされ、サイコロをふって、出た目によって升目に置いた駒を進めて終点の「上がり」を目指して競争する”盤上ゲーム”で原初は”複雑なルールに基づいて二人で競う”「盤双六」と呼ばれるものだったが、江戸時代に盛んになった”升目に当たる所に絵が描かれた「絵双六」になって多人数でも競える、楽しめるスタイル”にとって代わられて現在に至っている。

    ↓スゴロクの一例 (図はブログ「カルタ・カード・スゴロクで遊ぶ、学ぶ」より引用)
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    ※インドから欧州に伝播したものは「バックギャモン」という(名前だけしか私は知らない)ゲームになったとされる。

    ◎「マンダラスゴロク」とは・・
    この手法発案者の石井禎(いしいただし)氏(コンセプトデザイナー)によれば・・「発想、構想、創造のための”脳の道具”として、縦軸と横軸を基本に置き、これによってできる四つの象限をベースにして、全体を5X5=25のマスで一つのミクロコスモスのようなものを創る”技法”」が「マンダラスゴロク」。
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    前回ご紹介した「マンダラチャート」の場合、ど真ん中のマス目に”目的となる事柄”あるいは”最終的に求める事柄”の言葉 (大谷翔平のマンダラチャートの場合は”ドラ1、8球団”=8球団からドラフト1位指名獲得)などを決めて入れるだけで、残りのマスには”関連する事柄”として思いつく言葉を自由に入れる(当てはめる)ことで完了しますが・・

    「マンダラスゴロク」は、ど真ん中のマス目に”目的や求める事柄を入れる”のはマンダラチャートと同じなのですが、全体を構成するのは全25マスであり、各マスは並び方に意味や方向性をもつように配する点が異なるところ。

    これをやや具体的に説明するために、石井氏の数ある著作の中の一つである「脳の道具 マンダラスゴロク」(文芸社 2017年12月発行)の裏表紙(カバー)にある”カラー表示のマンダラスゴロク模式図”を利用させてもらいますと・・
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    ↓マンダラスゴロク模式図
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    ・模式図中で黄色の表記が縦軸と横軸 (数学ではY軸とX軸)

    ・縦軸の上側半分を”北軸”、下側半分を”南軸”、横軸の右半分を”東軸”、左半分を”西軸”と(石井氏は)便宜上名付けている。

    ・縦軸と横軸の交差によってできる四つの空間は、右上赤マス部分を第1象限、左上緑マス部分を第2象限、左下オレンジ色マス部分を第3象限、右下紫マス部分を第4象限と呼ぶ(これは数学における象限と同じ)

    ・北軸、南軸、東軸、西軸それぞれのアタマの黄色丸部分には各軸の意味を代表する事柄を配する(記入する)。なお南北軸、東西軸のアタマには”二項対峙”する事柄(高い/低い、早い/遅いなど)があたるとは限らないことも多い。

    ・各象限の4つのマスそれぞれの意味合いは自ずと決まってくる。第1象限を例にすれば、北軸に近い左赤マスの意味合いは、東軸の意味合いにも関係しながらしかし北軸の意味合い寄りになる・・ということになる。これはいわゆるマトリックス図法の場合の”行”と”列”の関係に通じるもの。

    マンダラスゴロクを実際に使った例は、石井氏の著作「脳の道具 マンダラスゴロク」に多数掲載されていますので、ご興味ある方は参照下さい。私が30年ほど前にマンダラスゴロクを応用して(基本形とは若干異なりますが)作成したものをご紹介してみます。↓ これは”感動をよぶ商品(モノあるいはコト)を生むために(当時)必要な方向性の抽出”を試みたものです。

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    ここでは縦軸、横軸の両端に二項対峙的な言葉を置いていますが、その理由は”感動”というものが”ウェーバー・フェフィナー(フェフィネル)の法則”によって、人間の心と体が”緊張と解放”の間、”能動と静動”の間を行ったり来たりすることによって生まれる、または持続するから。

    実際にはこの図の中の大きな矢印方向にあたる四つの”重視”策それぞれをまたさらにマンダラスゴロク化(または後述します「デザインスゴロク」化)して、より具体的な必要素を抽出していきます。

    ◎「デザインスゴロク」
    この手法は故・池辺陽(いけべきよし:建築家・東京大学生産技術研究所建築学教授)氏が考案して1965年頃には発表されていたようです。・・というわけで今般、私がご紹介した手法3種の中ではこの「デザインスゴロク」が最古であり、次に「マンダラスゴロク」その後「マンダラチャート」という発生順になります。

    デザインスゴロク手法では、10個のマス(四角または丸など)とその中に入るべき事柄(必要素)をあらわす言葉によって構成され、場合によっては全体を表すキーワードをベースに加えて(下図中のグレー部分)計11の事柄で表すもの。

    ↓「デザインンスゴロク」模式図 
    (「MONOist」のHPより引用)
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    池辺氏が実際に”建築デザイン・設計における考慮すべき点”を自らデザインンスゴロクで表現されていて、「目的」、「生活様式」、「組立方式」、「美的条件」、「コスト」、「環境」、「機能」、「材料」、「流通」の9つの言葉をマスに置き、真ん中のマスには(これら9つの要素を十分考慮するのが必須として)「標準」という言葉を置いて計10個のマスを満たしたカタチで発表。

    氏いわく、「このデザインンスゴロク上のどのマスから着手してもよいが、全てのマスを通過しなければ(センターの)”上がり”にはならない」・・どうやらこれが”スゴロク”と称する所以のようです。
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    なお、先回から続けてご紹介した手法の3種とも"先ずど真ん中に目標事項や究極的に求める事項あるいは大代表的事項など"を置いて(記入して)から周囲のマスの中に入るべき事項を抽出して置いていくことが多いのですが、逆順のこともあり、先に周囲のマスを埋めた事項群から導かれて、ど真ん中のマスに入る事項(言葉)が決まることもあります。
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    以上、「マンダラチャート」、「マンダラスゴロク」、「デザインスゴロク」の三つの手法を紹介しましたが、最も利用されているのは(歴史もあるせいか)「デザインスゴロク」で、最も”頭をしぼる”必用があるのは「マンダラスゴロク」でしょう。
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    先々回のブログで、大谷翔平が”目標に達するための方策と手段”を考えるためにマンダラチャートという図表を使っていたことに触れましたが・・

    大谷作成のマンダラチャート図
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    似たような手法は他にもあるので、いくつか紹介します。その中には私も仕事の中で実際に使ってきたものもあります。

    まず今回は「マンダラチャート」についてもう少し詳しく・・その前に、「マンダラ」について・・

    ◎「マンダラ」は「曼荼羅」(まんだら)
    ここでちょっとご注意 !「曼荼羅」の真ん中の文字は「茶」(英語のTEA)ではなく、草かんむりの下は「余」なので念のため。私も最初は間違えました。(他に「曼陀羅」という表現もあり)

    「曼荼羅」という言葉は”本質・真髄を有するもの”という意味だそうで、仏教の一派である密教も大きくみれば大乗仏教という”衆生を護り、救う性格”を持っているものの、その経典には難解な文言が多く、しかも何やら秘密っぽい加持祈祷を重視するなど理解しにくい面があるために、教義の本質・真髄を踏まえながら”密教における世界観”を少しでも分かりやすいように”見える化”をしたものが「曼荼羅図」。

    ◎「胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅」と「金剛界(こんごうかい)曼荼羅」
    密教の源流は7~8世紀のインドで発生した「大日経」と「金剛頂経」という二つの宗派にあるとされ、双方とも本尊を大日如来とする共通点はあるものの、相違あり、それがその状態のまま中国に伝わっていたが、その中国へ日本から留学していた空海が帰国するにあたって空海の師匠が、この二つの宗派の難解な教義と世界観をそれぞれ見える化した曼荼羅図を(絵師に描かせて)作ったものを空海に持たせたのが「胎蔵界曼荼羅」図と「金剛界曼荼羅」図で、この二種セットで「両界曼荼羅」図と称する。(それぞれ「図」は省略された表現が多い)

    かくして密教は日本においては空海(弘法大師)が真言宗として広め、そのためには両界曼荼羅も利用した。現在では空海が持ち帰った曼荼羅図は無いが、その模倣やアレンジしたものが真言宗の発展と共に作られて多数存在する。

    ※ここで後述部分のご参考までに・・仏教の世界において人のような姿で現すのは、上位から「如来」、「菩薩」、「明王」、「天」の4種のみ。

    「胎蔵界曼荼羅」は「大日経」に基づいたものであり、”真理を実践的側面や現象世界のものとして捉えている”のだそうで、”大日如来の悟りと慈悲と智慧の世界を表したもの”とも言われる。

    中心部には大日如来を囲んで4体の如来と4体の菩薩の計9体が座しており(下図右の9マス)、その周りに二重、三重に明王や天が取り巻いている。
    .
    ↓「胎蔵界曼荼羅」図の例 (右は中心部の9体の名)(図はWikipediaより)
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    「金剛界曼荼羅」
    は「金剛頂経」に基づいたものであり、”真理を論理的側面や精神世界のものとして捉え、
    大日如来の悟りを開くための方法を説いたもの・・と言われる。.

    大きく見ると9個のマスが存在して、さらに各マスの中にも9個のマスが存在する。

    ↓「金剛界曼荼羅」図 (大きな9マスには各々名称がある) (図はWikipediaより)
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    ここまで述べますと・・大谷翔平のマンダラチャートを一度でもご覧になった方はピンとくるはず・・
    そうです!彼の作成したチャートは金剛界曼荼羅図の構成とよく似ているのです。

    ↓大谷翔平が高校1年時に作成したマンダラチャート
    (再掲)
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    ◎「マンダラチャート」とは
    ”人生とビジネスを豊かにするために、ブッダの知恵を元にした思考法と曼荼羅図を元にした(←開発者の言)”中心核を持つ3x3または9X9のフレーム(マス)を使うことによって”求めたい事や知りたい事などが視覚化(見える化)”されてよく分かるようになるという手法となり、事業計画、人生設計、新商品開発などに適用できるとして、このフレームを「マンダラチャート」と名付けてそれを利用する手法を松村寧雄氏((株)クローバ経営研究所 社長)が1979年に開発して提唱したもの。

    ↓「マンダラチャート」(9X9)基本図(マンダラチャート協会のHPより)
    chart99

    この「マンダラチャート」手法は難しい決まりは無く、使い方は大谷翔平の作成した「マンダラチャート」を見れば説明は不要なほど簡単。ただし上図の”中心部の8色の丸=外周部の8色の丸”の中身に当たる言葉を考え、探し、見つかりにくい場合はなんとか絞り出すこと、その後8X8=64のマス目を言葉で埋める場合も同様の作業が必要ですが、達成すれば”目的・目標とそれを実現するための方法・手段”あるいは”大きな事柄を構成する諸要素は何なのか”あるいは”大問題の要因や解決要素”などが明確に見えるようになる。

    「マンダラチャート」手法の普及を目指して「一般社団法人マンダラチャート協会」が立ち上げられて、「マンダラチャート」は商標登録されています。この協会は多様なプロモーションを展開して、チャートの使いこなし講習会なども行っている。

    マンダラチャート協会のホームページ・・・
    https://mandalachart.com/

    お気づきのように、マンダラチャートのマス目は、大きな四角の中に縦に8本の線、横に8本の線を引くだけで作れますから自分でも簡単に描けます。しかし、これをいつでもどこでも頻繁に使う人などに向けて・・

    (株)クローバ経営研究所からはマンダラチャート用のマス目があらかじめ印刷された「マンダラノート」という商品シリーズが販売されています。

    ↓「マンダラノート」の1例 (A5サイズ版 1センチ厚 6050円)
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    ↓「マンダラノート」の中身の例
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    また「マンダラチャート」と同様の「9マス ノート」使用の手法用に「M9note」シリーズというものも(株)日本写真企画から販売されている。

    ↓「M9note」シリーズの例 (A5版 1400円/ A4版 2400円)
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    ↓中身例
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    次回も曼荼羅(マンダラ)やスゴロクに関連した”思考手法”などについてです。

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    ◎「大谷マンダラチャート」とは
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    (株式会社コーセーのHPより)

    今の大谷翔平を形成した原点となったと話題の「大谷マンダラチャート」は彼が花巻東高校の1年生の時の2010年12月4日に、当時の究極目標である”プロ野球8球団からドラフト1位指名されること”と、それを”実現するための必要な8つの大項目”さらに”その大項目ごとに必要な8つの小項目(つまり小項目総数は8X8の64)”を網羅してチャート(図表)化して作製したもので、これにより目標とそのための手段や方法が(今で言う)「見える化」されている。↓.下図参照下さい。

    野球人としての必須項目は勿論として、注目されるのは”今の大谷の人物評”として高評価要素となる、”ゴミ拾い”、”道具を大切に使う”、”思いやり”、”礼儀”などを当時からあげてそれを28才の現在までも守って.いること。

    (図中左上の”体づくり”の「FSQ90kg」「RSQ(BSQ)130kg」はいずれもバーベルをスクワット状態で持ち上げるもので、FSQは顎の下位置まで90kg、RSQは肩に背負って130kgを持ち上げるという目標)
    ↓「大谷マンダラチャート」 (クリックで拡大)
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    ※「マンダラチャート」という方式そのものと関連事項については後日 紹介します。

    ◎大谷翔平の読書大切志向
    前述のように大谷が高校1年時に作製した「マンダラチャート」中の小項目の一つに”本を読む”があげられ、実行されていて、大谷いわく『一回読んだだけで得られるものは30~40%。何回も読むことでもっと違う捉え方ができる』

    前回のブログの最後尾に次回予告として”大谷翔平の愛読書”のとりあげを記して発信した翌朝に、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」で大谷翔平の愛読書が紹介されてしまったようなので、今回はその一部内容も引用させてもらいます。(以下文中『』内が引用部分)

    ◎愛読書(1)中村天風著「運命を拓く」
    著者の中村天風(1876=明治9年~1968=昭和43年)は波乱万丈な人生経験があり、日清・日露の戦時には日本軍の諜報員をしたその後、当時は”死の病” だった結核にかかったものの当時の日本の医療では治らず、救いを求めて海外を巡り著名な医者や宗教家などに頼ったが結果は芳しくなく、最後にエジプトで出会ったヨガの達人に指示をされてヒマラヤの麓で修行して結核は治癒。その後、孫文とも友人となり、中華民国最高顧問の称号も得ている。後年、自分の経験と思索で得た”天風哲学”を世間に広く説法する.ことに専念し、各地で講演や本の執筆もした。

    その本の一つが「運命を拓く」(講談社文庫)である。↓
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    この本の内容を極言すれば「何事も消極的にならずに積極的に生きるべし」というものだが、もう少し理解するためにテレビ朝日の(京都大学出身ながら問題発言多発で有名な?)玉川徹氏が『中村天風財団の村里泰由理事を取材。著者が唱えた消極的でなく「積極的に生きる」とは、と問うたところ村里氏は・・
    「一升瓶にお酒が半分入っている。Aは“半分しかない”と思い、Bは“まだ半分残っている”と思う。Aは積極にはなり得ない。心の持ち方ひとつで、不平不満コースに行く人、幸せコースに行く人がいる。入ってくるマイナスをプラスに変えていこうという感情が、すべてのものをコントロールする。積極につながる一番の近道だという答えを出している」と語った。

    実はこの本を私は未読なので今年3月中旬に大型書店に行って探しても見つからず、店員に問うと「現在、在庫切れです」という答えだった。

    この状況を招いているのは”大谷翔平が渡米前に熟読していた本.”と紹介されると同時に、著者の中村天風に教えを乞うた人が多く、その中には著名な企業経営者の松下幸之助、稲森和夫らの他、東郷平八郎、原敬、北村西望、宇野千代、双葉山、王貞治、広岡達朗たちの名があげられていることも影響しているだろう。

    ◎愛読書(2)アンドリュー・カーネギー著「富の福音」

    この本も大谷が日本ハム選手時代によく読んだそうで、米国の鉄鋼王と呼ばれる大富豪になったカーネギーの”富の社会への還元の仕方”などが(恐縮ながらこの本も未読なので)語られているようだが、大谷に参考になったのは”常にデータを基本に未来を想像して行動する”という内容の部分ではないかと言われる。
    この本におさめられているか否かは分からないですが、カーネギー氏の人生訓のような言葉は大量に在り、例えば・・
    「賢い人は徹底的に楽天家である」
    「成功の秘訣は、いかなる職業にあってもその第一人者たることを期することである」
    「笑い声の無いところに成功は無い」
    「財産よりももっと尊いものは明るい性格だ」
    ・・・これらは今の大谷が実践しているように思える。

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    余禄(1)「靴のセールスマンがアフリカに行った例え話」
    前述の「一升瓶にお酒が半分・・」の例え話にはピンときた方も多いのでは?・・
    これに似た”よく知られた例え話”があり、それは・・

    「靴メーカーA社とB社のセールスマンがアフリカに行ってみたら現地の人たちは裸足で誰も靴を履いていないことが分かったので二人ともすぐさま本社に次のように報告。 A社セールスマンは『ここでは靴を吐く習慣が無いから靴は売れません』 B社セールスマンは『ここでは誰も靴を履いていないので、至急ありったけの靴を送ってください。この人たち皆が靴を買ってくれたら大きな市場になります』。このように消極的思考・行動と積極的思考・行動では大きな差ができる」

    余禄(2)「稲盛和夫氏の別の顔」
    中村天風の教えを受けた稲盛和夫(1932~2022年)氏は京セラや第二電電を創業しJALを再建するなど産業界に大きく貢献して、その経営哲学や手法について教えを請われることが多かったので「稲盛塾」を作ったほどだった。

    実務においては”天風哲学”継承の結果であろう積極的姿勢が強力に発揮されていたようで、それを物語る.エピソードを、私の高校時代のクラスメートでかつて「日本ガイシ」(根幹技術が陶磁器という点で「京セラ」と競合関係の企業.)に勤務したS.T氏がこう語る・・

    「日本ガイシでは今から30年ほど前から電力、自動車産業以外への展開を狙い半導体製造装置分野で使われるセラミックスの研究をしていました。

    あのころ開発した半導体製造装置用セラミックス製品が今や世界一のシェアを獲得する事業にまで成長し、ガイシや自動車用セラミックス製品が消えた後の会社の利益を支える製品として期待されているようで感慨深いものがあります。 

    この半導体製造用セラミックスの分野でも京セラとは熾烈な競争を繰り広げました。京セラを創業し最近亡くなった稲盛さんは倒産したJALを立て直すなど、仏のような経営者と言われていますが敵に廻すと本当に手ごわい相手でした。そこまでやるかというブラックな営業、特許戦略手法も繰り出し、日本ガイシ社員はほとほと嫌になりました。

    しかし、嫌いであった稲盛さんも今思えば何も無いところから結果を出す実行力のある尊敬すべき偉大な経営者ですね。

    イーロンマスクのようなイノベーション力で日本を3等国から再浮上させるために、稲盛さんのような実行力のある人が何十人も輩出することを期待したいです。」
    ・・・・・・・・・・・

    宮沢賢治、石川啄木とともに岩手県生まれの3大有名人?の一人である大谷翔平は今や世界的存在。彼は1994(平成6)年7月5日生まれ 身長193cm 体重95.3kg
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    ◎誤解を招くおそれある大谷評も良く読めば・・
    あれは、大谷がメジャーリーグに行く直前頃だったから、今から5年前の2018年の初めのこと、東京・六本木のある寿司店のお客さんの一人(大谷の近くに居て彼をよく知る人物)が「大谷翔平は我(が)を通すので一筋縄では動かないオトコですよ」というようなことを言っていたと、私はこの店の寿司職人をしているという人から聞いた。

    「我(が)」とは(広辞苑によれば)「思う所を言いはって、人の言に従わぬこと」とある。

    私はそれ以後、大谷に対して若干のマイナスイメージを抱いていた。

    そして今年、WBCで侍ジャパンが頂点に立ち、大谷の活躍とともに彼の言動についてのコメントも多く紹介され、大半が賞賛する内容なのだが中には”言葉だけを聞くと、大谷のネガティブな面の紹介と誤解されるような例”がいくつかみられた。例えば・・

    栗山監督はWBCの決勝戦で大谷翔平を起用するにあたって次のように述べている・・「翔平はどっちかとうというと”天邪鬼(あまのじゃく)系”なので、私から『こうしようよ』とは言わずに、彼のほうから(登板準備OKですよと)言ってくるのをずっと待っていました」

    同じくWBCで不動の2番だった近藤健介(ソフトバンク外野手)は以前に所属した日本ハムファイターズで同僚だった大谷の1年先輩として、『WBC大会前から彼を評して「生意気ですね」と言い、大会後も印象は変わらず「生意気ですね。日本にいる時と変わっていないです」と笑顔で語った。もちろん大谷のことを知り、リスペクトするからこその表現だろう。(その証拠に)近藤は「大谷とは久々にチームメートとなったが、本当に想像の10倍すごかった」と印象を振り返った』(『』内はルポライターの竹村岳 氏による)

    ※ただし上記の「生意気」という言葉を使った表現部分は(さすがに誤解を招くと考えられたようで)ネット上ですぐに削除された。私は幸運?にも削除前の文章を記録していたので、ここでご紹介できる次第。

    あるNPB(日本野球機構)関係者は「大谷の日本ハム時代は唯我独尊タイプで、グラウンドでは他を寄せ付けないオーラを放っていました.」.と言う。

    なぜこのような大谷評がでるのか? それは彼が野球人としての高い目標を設定して、それを実現するための手段・方法の実行に邁進しているからこそ、「それを無理だと思わないことが一番大事だと思います。無理だと思ったら終わりです」という言葉に表われた彼の心構えに対してそれが誰であれ他人による指示や助言が彼の意にそぐわなければ妥協しないからでしょう。

    大谷を本当によく知る人たちの大谷評は、一見、一聴では誤解される恐れがあるものの、よく読むとそれは大谷を肯定し、能力を認め、リスペクトの成分を含んでいることがわかる。

    そうした背景には、大谷が既に(どこかの首相ではないが)異次元の領域に達しているからであろうことは、かつては彼を指導したり、先輩だった人たちの次のような言葉に表われている・・
    大谷の花巻東高校時代の野球部の監督の佐々木洋氏が「最近、彼にバッティング技術について質問したが難しい説明でもう私にはわからない内容だった」と述べ、

    前出の近藤健介選手もWBC開催中に『大谷と打撃理論について意見を交わしたというが「規格外すぎて参考にならない。よくわからないことを言っていました」と苦笑い』(『』内はルポライターの竹村岳 氏による)

    ◎大谷は生来の完全主義者!?
    こうした今の大谷翔平という人間をつくった要素は何かと言えば、根本は彼自身の頭脳と肉体にあるのだがその使い方が“彼が信条とする「楽しむ前に正しいことをする」”の実践を完璧に行うことに向けられている。彼にとっての「正しいこと」とは倫理的に正しいことばかりではなく、目標実現のための正しい手段、方法でもある。この”正しいこと”の追求イコール完璧さの追求になっている。ゆえに彼は野球につながることがないモノには”興味を示すという(彼にとっては)ムダなこと”をしないことにもなっている。
    大谷の完璧さを求める心は既に子供の頃から発現していて、大谷の母である加代子さんは語る・・「あの子が幼稚園か小学校に上がったばかりの頃、好きだったハリーポッターのキャラクターが描かれた表紙のノートがあったんですけど、なぜか買った当初からその絵の一部の印刷がはがれていたので、翔平はそれが気になってしょうがなくて自分でその分部に色を塗っているんですが、思い通りにいかないどころかさらにおかしくなってしまい、泣いて自分で怒ったことがあります」 また・・

    「翔平が気に入っていた絵本がある時、端っこが少し折れていたので『誰が折ったんだ!』と怒っていました」

    ◎完璧を求め徹底した行動の色々
    《筋力増強》 
    ・500ポンド(226.8kg)のバーベルを“涼しい顔で”腰のあたりまで持ち上げる姿を先日のテレビで観ましたが、専門家は優秀なボディービルダーでもこの重さを持ち上げられる者はめったにいないと評していた。

    ↓腕の筋肉がよくわかる写真 (「Getty images」より引用)
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    ・日増しに筋肉が増大するので、寝具を提供する「西川(株)」は大谷の身体測定を年間に何回も行って最適状態になるように”大谷選手用の寝具”を常に修正している。
    身体測定の様子 (以下写真5枚はテレビ番組「ミヤネ屋」より)
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    ・打撃用の筋力が十分な域に達した現在、使用するバットの製作社(アシックス)に向けて大谷が発した言葉は、「飛距離は問題ないから、あとはもう少し(球との)コンタクト性を増やしたい」。
    その結果、大谷用バットは”一般用と比べて太い部分が多い”形となっている。

    《睡眠重視》
    「趣味は睡眠」「睡眠はリカバリーのため」と宣言するほどの大谷は睡眠の量とともに質も重要視するので・・
    ・睡眠時間は通常でも10時間以上が多く、シーズンオフは10時間睡眠をとった後のトレーニング後に昼寝2時間の計12時間で、1日の半分は寝ている。(大谷は小学生の頃から夜9時就寝、朝7時起床で10時間寝ていた)

    ・寝具も重要視して西川(株)で、体形測定、仰向けと横向きの寝方の両方対応のマットと枕の設計(大谷は頭に対して肩幅が大きいので難題。枕には標準の2倍の量の”詰め物”で大きくパンパンとのこと)
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    ・本拠地以外への移動時にも”専用枕”を持ち歩く。↓
    (大谷のインスタグラムからの孫引用..)
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    《食材重視》
    全ては体調をベストに、筋肉増強のために食事する。WBC開催中に大勢投手は大谷の様子を見ていて「おいしいものを食べるのではなく、自分のためになるものを食べていた」と証言している。
    それは管理栄養士に相談し、指導を受けているからで・・

    ・血液検査をした結果に基づいて、自分が食べなければいけないもの、食べていいものといけないものを決めている。・・その結果、嫌いだったトマトも食べるようになった。

    ・良質のたんぱく質摂取も重視する結果、肉類は”部位”を選び、『牛肉はフィレ、鶏肉はササミ、魚はサーモンか白身魚、ビタミンCは野菜からとる』(『』内はスポーツジャーナリスト古内義明氏談)
    トンカツは衣をはがして食べる。WBC開催中は毎食時にゆで卵3個を食べていた。(一時、意識的に”卵絶ち”したという情報もあるが・・)

    ・シビアな食材選択なので、自炊が多く、得意はパエリア。

    ・本拠地(ロスアンジェルス)でやむなく食べ物をデリバリーしてもらう際にも配達時刻を指定している。現地の和食店「鮨処 古都」のオーナーシェフ松木保雄氏は「大谷選手がピッチャーとして登板する場合は3時間前、登板しない場合は2時間前にもっていきました」と言う。
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    大谷の注文で多いのは「穴子丼」
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    《用具のこだわり》
    ・バットに関しては前述のように、グリップ部分から先すぐに太くなっていて球が当たる確率を高くしている。普通のバットはグリップ部分から先端に向けて徐々に太くなり”寸胴”部分は少なく、選手はバットの遠心力を利用して振るのだが、大谷は遠心力など利用しなくてもよいパワーがあるから、従来型バットは必要ないのだ。
    変更バット (以下写真4枚はテレビ番組「中山のイチバン」より)
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    ・スパイクシューズの金属スパイクを靴裏面から直接スッと飛び出させる形にした。従来品は靴裏面から突起部分(土台)をつくり、それに金属スパイクの根元が埋め込まれた形状になっているが、その突起部分があるために、大谷いわく「”立ち感”が悪い」のだそうで、この突起部分が無ければ足裏の力が地面に伝わりやすくなるという理由。

    スパイクの土台部分を無くした
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    ・グローブは機能的には不具合はないが、全体の形状は通常より大きくしている。理由は2塁走者から大谷のグローブの中の球の握り方(つまり球種)を盗み読まれないため。
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    ・手袋は、装着して手首を締めるための”マジックテープ”が付いたベロ部分の付け根が親指側にあるカタチにした。通常のようにベロ付け根が小指側にあると、バットを握った場合に小指側に隙間ができてしまって”大切な小指の力”が入らなくなるからという理由。
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    ※以上の用具改良は昨季までは日本の「アシックス」が担当していたが、今期からドイツの「ニューバランス」に変わったようだが用具はどうなるのだろうか?

    そしてメジャーリーグの中での行動において、意志や情報が間違いなく送受できるように優秀な通訳・水原一平氏を常に伴うのは、これも完璧さを求めるがゆえであることは言うまでもない。
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    大谷を形成する原点のようなものが彼の高校1年生の時に作製したある図表にあることと、これに関連した別の図表について、それに渡米前に読み込んだ本に関連したお話は次回にいたします
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    3月14日は”3.14”の「円周率の日」なのだそうで、意図したわけでもなくたまたま今回のテーマにつながりました。

    世の中に存在する情報の中には、有益であるはずが、意図せずに有害または無益なものになっているケースが少なからずあります。この種の間違い情報の例として、「円周率」関連と「トランジスタテレビ」関連を主にとりあげて綴り始めたら、「円周率」関連だけで文章量が大きくなってしまったので、「トランジスタテレビ」関連は次回にまわします。・・まあ、実害は殆ど無いだろうから、どうでもよいような事ですが、間違いは正しておくべきでしょう。

    古くはアルキメデスが求めようとした円周率も、現代はコンピュータを使って昨2022年には「岩尾エマはるか」氏が遂に100兆桁の計算に成功しました。
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    (「マテマティカ」のサイトより引用) ※小数になおすと「3.1408…<円周率<3.1428…」

    コンピュータによる計算結果(数字)はそのまま電子的に記録され、その数字を何らかの媒体を使って”間違いはなくそのまま”表示できる現代ですが、昔は”手計算”だったり、計算結果を発表する際に”手作業による数字表記”なので、間違いが少なからず発生していて、その例が・・

    計算間違い
    円周率を語る際によく出る名前がウイリアム・シャンクスという英国のアマチュア数学者(1812※~1882年)で、趣味の一つとして円周率の計算をしていて1873年に707桁まで求めて発表した。

    ところが、計算途中にミスがあったために小数点下527桁までは正しいことが彼の死後に判明して
    528桁以下は徒労の産物となってしまった。 (※1812年はナポレオンがロシアの冬将軍に負けた年)

    ◎数字の表記間違い 
    (イ) 百科事典での間違い
    昔、「世界大百科事典」(平凡社)の円周率の項目の中で100桁の数字が掲載されていたが、その内の数字1字が間違っていた。(記憶薄れているが小数点下70~95桁の間の1字)

    それは私が中学生の時に学校の図書館の同書(発行年月日は記憶していない)の中で見つけた。当時私が円周率を115桁まで記憶していたために気が付いたもので、権威ある百科事典のことだから当然「私の方が記憶間違いか?」と疑ったものの、私の数字暗記の元ネタとなっていた「科学読売」(当時、「科学朝日」と双璧の雑誌)に掲載の”手書きの数字1035桁(だったか?)”で確認したが私は間違っていない。

    しかしその元ネタが間違っているかも知れないと思い、しばらく他の”円周率の表記例”を探していたところ、1987(昭和62)年3月12日、日本電気(NEC)が同社製のスーパーコンピュータで35時間かけて算出した1億3355万4千桁という当時世界最高記録の数字を新聞の紙面1ページをほぼ使って掲載したので、「これはコンピュータの計算結果をそのままプリントアウトしたものだろうから信用できる」と考えたので確認したところ私の記憶していた数字の方が合っていた。‥その後に平凡社の百科事典は訂正したのだろうか?私は確認していないが・・

    (ロ) インターネット閲覧ページ上での間違い
    現在、ネット上には多数の”円周率1000桁や500桁”の数字表が載っているので、全てを見られないのですが、少なくとも3件のページで互いに数字が相違する部分があります。

    私は現在、一応250桁まで覚えているので、その範囲でしか分かりませんが、3件とも小数点下150~250桁の間の2~3個の数字が”同じではない”のです。

    そこで困る(という人はあまりいないか?)のは、“どれが正しいのか?”または”どれも正しくないのか?”ということ。

    これらの内で「トラスト ミー(trust me)=私を信用してよ」と(昔、鳩山由紀夫首相がオバマ大統領に向けて放った言葉としても思い出される)宣言できるものがあればよいのですが・・

    そうなると、信頼できそうなのは”コンピュータで円周率計算した結果をストレートに表記したもの”であり、最近は個人で計算した結果をネット上で発表している例(http://www.suguru.jp/learn/pi.html )もありますが・・↓
    ensyuritu

    やはり、大手企業(パソコンメーカーなど)が“例えば円周率1万桁表示ページ”を常時公開する、あるいは現在JIS(日本工業規格)で”分野によっては円周率を「3.1416」として適用する指定や小数点以下31桁までの円周率を適用する指定などがあるようですが、これも一つ基本データとしてやはり例えば円周率1万桁表示をするというようなオーソライズされた正しい数値(と言っても円周率は無理数なので近似値ですが)を提示してくれると良いのでしょう。

    ・・と言ったものの、発信元が不明だが、パソコンが出した円周率の数字を限りないように流し続けるサイトがあるというので閲覧してみたら確かにありました。最初の250桁を見たら間違い数字が無いので、以降も間違いないとは思われますが、いったい何桁まで表示するのか不明です。

    円周率数字垂れ流しサイト

    ◎「ゆとり教育で円周率は3と教える」という情報の間違い
    2002年度から実施された”小学校の学習指導要領”の算数分野での指示を間違って解釈した人たちがいて、その人たちによって「小学校ではこれから円周率は3と教えることになった」という話が世間に広まり、私もつい最近までその誤報を信じていた一人。

    その誤報の原因は・・新しい学習指導要領では小数乗算の桁数制限の規定変更をしたために、手計算では” 円周率を3として”計算せざるをえないことになったことと、「目的に応じて3を用いて処理」という指示もあったために生じた誤解。これによって「ゆとり教育」批判の材料にもなった。

    しかしこの誤解には影響されずに実際の教育現場では” 円周率は3.14“として教えられているそうです。

    (余談1)暗記方法
    ※円周率の暗記では11万桁を誇る原口證(あきら)氏や1万5151桁に達した友寄英哲 氏がいて、友寄氏はソニーの社員時代からどんどん記録をのばして発表していたので有名だった。

    一時は両氏とも世界一だったこともあります。この二人は”数字をそのままは暗記しない方法”で記録をつくっていますが、その方法とは”自分で壮大な物語を作って、そこに登場するモノ・コトを語呂合わせして数字にしたものを記憶していくもので、そこには単に記憶力だけではなく物語の創造力が発揮される点が素晴らしい。

    元コメディアンで現在は俳優の伊東四郎氏も85才にして円周率1000桁を記憶しているそうで、やはり暗記法は語呂合わせ式。俳優として台詞覚えのための脳力維持の必要から努力しているとのこと。

    ”同じようにそのまま暗記でないカタチには”元素周期律表”の語呂合わせ式の「水兵リーベ僕らの船・・」(水兵離別バックの船・・)その他があります。

    しかし、”数字や言葉の羅列”をそのまま暗記するカタチもあり、私自身は”数字そのまま暗記”のカタチで円周率250桁を覚えていますが、これは”数字や単語を連続させてただひたすら暗唱することをくりかえしておぼえてしまう単純な方法”で、決して難しいことではありません。

    なぜならば”お坊さんではない一般人でも「般若心経」(はんにゃしんぎょう)の漢字262文字を暗唱する人は少なくないことや、昔の人は「歴代天皇」を神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、・・と124代の昭和天皇まで、漢字にして276文字を暗記させられていた人も多く、大正生まれだった私の母もその一人。

    (余談2)般若心経の暗唱を断念した私!
    「色即是空、空即是色」という有名な(しかし私にはよくわからない)言葉が含まれている般若心経を暗唱できるようになろうと思い立ったきっかけは、私が昔 兵庫県に住んでいた際に、同県に在る「西国三十三カ所」の一つの「法華山 一乗寺」に参った際に購入した扇子を思い出したからで、その扇子には「般若心経」の漢字がふりがな付きで記されているもので、これを使ってお経を覚えようと考えた。

    「般若心経」扇子
    sensu (2)

    ↓「般若心経」(部分拡大)
    sensu-up (2)

    ちょうど季節は夏だったので、通勤時に駅のホームで電車待ちをしながら、この扇子で"少しあおいでは手を止めて文字を記憶する"を繰り返すことを実行し始めたものの、なかなか覚えられず結局この試みは夏の終わりとともに潰えてしまった。時に私は60才近くになっていた。心の中で、脳力と気力の双方の低下のためと言い訳する自分が情けなかった!・・・というわけで、若い頃に覚えた円周率の数字も、もうこれ以上は増やせない私であります。
    ・・・・・・・・・・・・
    次回は「トランジスタテレビに関する間違い情報?! 」です。
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    前回にとりあげた”世界初のジェット旅客機「コメット」の空中分解とリベットの関係”に続いて今回は・・

    ◎タイタニック号
    近年、映画にもなったり(※1)して有名なこの英国の大型豪華客船 (※2)が1912年(※3)4月10日、初航海(※4)として英国のサウザンプトンから米国ニューヨークを目指して出航したが、4月14日の夜11時40分に北大西洋上で氷山に船体右側面下部を接触させて、そこから海水が流入し、2時間40分後の4月15日午前2時20分に沈没して1514人が犠牲(生存者は710人)になった。(※5)

    ↓初航海に向かうタイタニック号 (写真はWikipediaより)
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    ↓海底に眠る姿 
    (写真はナショナルジオグラフィックチャンネル=以降NGCと表記 より)
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    ※1:かつてナチスもネガティブプロパガンダ用にタイタニック映画を製作した。

    ※2:タイタニック号の全長は269mで後の日本の戦艦大和の263mより6m長い

    ※3:日本はこの1912年の7月29日までは明治45年、30日から大正元年

    ※4:「初航海」は従来の「処女航海」という今の時代にそぐわない呼称の代わりとした

    ※5:犠牲者、生存者の数は諸説あり数人の差がある

    この海難事故の最大原因は”船が氷山に接触したこと”ですが、”その氷山接触を招いた誘因”と”事故を大きくして犠牲者を増やしてしまった原因”が多く指摘されています。

    その後者に当たる原因の一つが”リベット”。それ以外の誘因や原因についての記述は長くなるので別の機会にします。

    ◎船体の鉄板接合用のリベットがもろかった!
    船体に使われた鋼板は約2千枚。その厚さ2.5cmの鋼鉄板どうしを太さ2.5cmのリベット約300万個で接合して造られた。

    ↓建造中のタイタニック:鋼板の貼り合わせが分かる (写真はヒストリーチャンネルより)
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    ↓海底のタイタニック:鋼板とリベットが見える
    (写真はNGCより)
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    使用されたリベットの多くは機械で打ち込まれた。
    ↓リベットを機械で打ち込む様子(写真はNGCより)
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    しかし、船体前方の機械が使えない部位は人間による手作業でリベットが打たれた。後に氷山に接触した箇所はこの手作業部位が含まれるとされる。

    この手作業用のリベットは現場で赤熱されて穴に差し込まれ、それをハンマーで打ってかしめるものだが、そのためにこのリベットの素材には「錬鉄(れんてつ)」が使われて、これは鋼鉄などより炭素含有量が少なく比較的には軟らかいので強度を増すために「スラグ」を混入させていた。

    ↓タイタニック号のリベット打ちの手作業現場 (NGCの写真に拙者が説明追加)
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    ※鉄を炭素含有量の多い順に並べると・・鋳鉄>鋼鉄>軟鉄>錬鉄・・炭素量が多いほど硬くなるがもろくなる。

    「スラグ」は鉄など金属を製錬する際に出るカスであり、製鉄の場合では副原料として加える石灰石が” 主原料の鉄鉱石に含まれるシリカ(二酸化ケイ素=SiO2)やアルミナ(Al2O3)などの不純物”をとり込んだ状態の物質がカスでありスラグである。つまりスラグにはこれら不純物と石灰石の成分である酸化カルシウムが合体したもの。

    現代の製鉄でも発生するスラグは、セメント材料に混合、コンクリートの骨材(砂利や砕石)の一部として混合、道路のアスファルトに混入、地盤改良材などに使われている。

    錬鉄に混入するスラグは適量で効果を発揮するものの、多すぎると逆に錬鉄はもろくなるが、タイタニック号のリベットの錬鉄にはスラグが多すぎてもろかったことが近年になって科学的に確認された。

    実験として、厚み2.5cmの鋼鉄板2枚を太さ2.5cmの”スラグを混入した錬鉄製リベット”で接合したものに、”氷山に接触した際の衝撃の大きさである“少なくとも1平方インチあたり1万4千ポンド(2.54X2.54cmの面積あたり約6.36トン)”を想定して力(ちから)”を加えた実験では、1平方インチあたり1万ポンド(2.54X2.54cmの面積あたり4.54トン)以下の力でリベットの頭が裂断してしまった。

    ↓実験でリベット頭が裂断した瞬間 (写真はNGCより)
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    しかも、電子顕微鏡で見るとタイタニックの実際のリベットの材質のほうが”実験で裂断したリベット”よりもスラグ含有量が多かったことも分かった。

    ↓リベットの素材を電子顕微鏡で見ると多数の黒いスラグが 
    (写真はNGCより)
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    これによって、タイタニック号のリベットは氷山と接触した際に耐えられないもろさであったことが判明した。

    ◎当時の鉄材は低温劣化した!
    当時に使われていた鉄材は摂氏0度くらいの低温になるともろくなるものだった。これは難しい表現では・・”脆性(ぜいせい)破壊”しやすくなる・・となる。事故現場の氷山が浮かぶような海水温では船体の鋼板もリベットももろい状態だったことになる。先述のリベットの耐性実験は低温下で行ったらもっと悪い結果がでたのであろう。

    この”鉄材の低温での脆性破壊”現象が認識されるようになったのは、その後30年ほど経って起きた一連の「リバティ船事故」原因解析結果からだった。「リバティ船」とは第二次大戦時に米国が欧州を支援するための物資を運ぶ輸送船として大量生産された船の総称で約2710隻造られた。それらの造船における鋼板接合には従来のリベットによらずに溶接方法がとられたが、その溶接個所が原因とされる船体破壊事故が大小あわせて数百件も発生した。分析の結果、溶接技術不良もあったが、溶接棒の組成自体の低温での脆弱破壊性が発見され、鋼板どうしのつなぎ部分が弱かったことが判明したからであった。

    ただし、現在では
    ”低温での脆性破壊”が起きない鉄材が開発され、ついには"摂氏60度~マイナス60度の間で、むしろ低温になるほど、衝撃吸収エネルギーが上昇して強度が6倍に増加して破壊しにくくなる鉄材"を日本の独立行政法人 物質・材料研究機構が開発している。

    ◎船体損壊箇所と海水流入状況
    タイタニック号は深さ3千メートル※の海底に沈んだため、当時は実際の損傷個所を調べることなどできないため、「船底に90メートルの長さの穴があいた」などという見解も出たりした。
    ※水深の正確な数字は3650メートルともいわれるが、これは365(日)のちょうど10倍。

    ↓船体に開いた長い穴の想像図も登場 (NGCより)
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    しかし、1985年に海底のタイタニック号が見つかって以降、幾多の有人、無人の調査装置での観察やソナー検査によれば、船体に大きな穴は存在せず、ただ船体前部の右舷側面に1.1~1.2平方メートルほどの小さな穴があり、それも鋼板が破れたのではなく、リベットの頭が裂断して接合していた鋼板どうしが離れて折れ曲がったためにできた穴とみられている。

    ↓海水流入開始時の様子 (図はWikipediaより)
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    かくして2時間40分かけて流入した大量の海水によってタイタニック号は沈没した。

    ◎船とともに沈んだ楽隊が最後まで奏でた讃美歌
    私がタイタニック号を知ったのは今から約70年前、弟が学校の先生から聞いた話として「昔、タイタニックという大きな船が氷山にぶつかって(当時は接触という言葉は使われなかった)沈没する時に、船の楽隊の人たちは最後まで讃美歌を演奏しながら、船と一緒に沈んでいったんだって!」・・と教えてくれたからでした。今回その讃美歌の曲名がわかりました・・それは「主よ みもとに近づかん」
    なるほど、この曲ならば心を落ち着かせて覚悟はできたのでしょう。

    合掌
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    冒頭にも記しましたが、タイタニック号沈没に関しての今回の”リベット関連”以外の誘因や原因についてはまた別の機会に綴ります。
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    なぜ私が1月10日にこの文を綴り始めたかと申せば、世界初のジェット旅客機「コメット」の空中分解事故が69年前のこの日に発生したからです。一方、「タイタニック号」沈没という史上最大級(犠牲者数は最大ではないが)の海難事故もありますが、この二つの事故には「リベット」が大きく関係していたのです。

    ◎リベットとは・・
    金属板どうし(その他、例は少ないが皮革、布、紙など)を接合する場合に、それらを重ねた部分に貫通する穴をあけ、その穴に”金属製の短い円柱または円筒状の塊”を差し込み、それが抜けないように塊の頭と尻の部分をつぶしてひろげる(かしめる)・・という方法があるが、ここで言う”金属製の塊”が「リベット」で、これは日本語で言うところの(一種の)「鋲(びょう)」。

    ↓リベットで接合した鋼板の例((株)ワールドインテック社のHPより)
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    ◎コメット機とは
    コメット機は英国のデハビランド社が開発・製造した世界初のジェット旅客機で、時速800キロで高度1万2千メートルを飛行(そのため高空では機内の空気圧は外気より高い状態)。定員42人。機体表面はアルミ合金板使用。

    ↓「コメット」機:4基のエンジン外装形状は主翼と一体化して非常にスマートだったが製造時やメンテナンス時は問題無かったのだろうか?
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    就航開始から1年半経過した1954年初頭時点で17機存在。その内9機をBOAC(英国海外航空)社が保有。

    ◎コメット機事故とその原因のあらまし
    ※詳細説明は長くなるので、今回のブログ文章の後部に付録させます。

    1954(日本の昭和29)年1月10日、BOACのコメット機がローマの空港から離陸して26分後に地中海上で空中分解して35名が犠牲となった。さらに3か月後の4月8日にまたローマ発エジプト行きのBOACのコメット機が空中分解して21名が犠牲となった。(4月8日はお釈迦さまの誕生日。不謹慎だが、この日にコメット機は”おしゃか”になってしまった)
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    事故の遠因は・・高度1万メートル以上を飛行したこと。そのため高空では機内の空気圧と外気圧の差を大きく生じ、地上では差は消えるという状態がフライトの度に繰り返されるので、機体を覆うアルミ合金板は「金属疲労(金属の板や棒などを曲げたり元に戻したりすることを多数回くりかえすと折れたり切れたりする)」を起こしてひび割れし、切断してしまった。

    特に金属疲労が起きやすかった箇所があった。・・それは”四角っぽい”窓や扉のコーナー部分。海中から回収された機体破片を継ぎ合わせてみると、その分部から き裂が走っているのが多く見られた。これは「応力集中」による現象というのだそうです。
    ↓窓のコーナー(右上部分)からき裂が・・
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    ↓コメット機の窓は遠目には四角だった!
    comet2 (2)

    この"四角っぽいコーナーから き裂が発生する現象"を逆に応用しているのが、プラスチック製の(菓子などの入った)袋の両端の"ギザギザ"で、その"山と谷"の谷の部分から裂けやすいように意図されている。この場合、"谷"部分が、コメット機の窓のコーナー部と同じ状態と言える。↓
    gizagiza (2)


    ◎リベット打ち込み時の穴が悲劇の引き金!
    多くの金属片をつなぎ合わせてその切断跡を辿ってみると、すべてのき裂は、機体天面の”無線送受信用の二つの窓”の周囲にリベットを打ち込んだ際の穴の縁にできた小さな”ひび”から始まっていることが判明したのでした。

    ↓胴体天面の二つの窓
    comet10 (2)
    ↓その窓周囲に打ち込まれたリベット(再現図)
    comet9 (2)
    ↓右の窓のコーナー部のリベット穴が き裂出発点
    comet11 (2)

    「全ての道はローマに通じる」(All roads lead to Rome)という言葉があり(ちょっと意味がちがい)ますが、ここでは「全ての亀裂はリベット穴に通じる」ことになってしまいました!

    デハビランド社はコメット機の欠陥を解消して4年後に復活させたが、一度信頼性を失った同機は受け入れられず、その間に米国ボーイング社が新たなジェット旅客機を登場させたりしたので、デハビランド社は他の航空会社に吸収されてしまったのでした。
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    下の絵は私が小学校1年生のとき、ある本に「世界の飛行機」だったか?の絵が載っていたものを真似して描いたもので、中でもコメット機のカッコ良さが気に入っていましたが、左下に「いぎりす (時速)800きろ」と書いているのでコメットのつもりと判断できるもののエンジンを5基にして、いいかげんだった。
    titanic7 (2)

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    《コメット機空中分解事故と原因究明詳細》 (上記以外)

    1954(日本の昭和29)年1月10日、BOACのコメット機781便は、シンガポール発ロンドン行で、中継地ローマの空港を午前10時31分に離陸したが、その26分後の10時57分に突如消息を絶った。

    当初は原因不明で爆薬による破壊説などもあったが、地中海のエルバ島付近で操業中の漁民が事故を目撃していたことと、遺体の損傷具合が爆発物によるものでではなかったことで、単なる空中分解と判明。乗客29名、乗員6名、計35名が犠牲となった。


    そして漁民らは機体破片落下海域で遺体を引き揚げたりしていたので、捜索範囲が絞られた上に付近は水深120メートルほどなので残骸回収は楽かと思われたが、ブラックボックスもまだ無い当時の技術では難航したものの最終的に大部分が集まった。(時の首相チャーチルが海軍も動員させて機体徹底回収を指示した)

    ◎再び同じ事故が起きた!
    目立った設計ミスや製造ミスは確認されないが、事故の根源的原因がまだ特定されてない状況にもかかわらず、事故から10週間後に英国政府はコメット機の運航再開許可を出した。

    そこでBOACが運行再開して間もない4月8日、ローマからエジプトに向かうコメット機がまた地中海上で空中分解して乗客14名と乗員7名あわせて21名が犠牲になり、機体の破片は水深1千メートルの海底に沈んでしまった。つまり3か月の間に2機が同様の事故を起こしたので当然コメット機は運航即時停止。

    チャーチル首相は原因徹底追及を英国王立航空研究所に依頼。そこでさらに科学的分析とその検証が行われた。その例は・・

    (1) 客室胴体部分の縮尺1/10の模型を透明プラスチックで作り、内部に座席やダミー人形を配置して、胴体内部空気を加圧した状態で小さな穴を開けて急減圧したところ、座席は内部で吹っ飛び、ダミー人形は頭や体を天井や内壁に激しくぶつけた。これで一連の事故犠牲者の頭部陥没と肺臓の破裂や内部損傷の原因が実証された。

    ↓1/10の模型
    comet4 (2)
    ↓急減圧すると座席とダミー人形は天井や内壁に激突した 
    comet5 (2)

    (2) 実機のコックピット部と尾翼の付いた後部を除去した残りの”客室部胴体部分”を納める巨大水槽(巾7m/長さ34m/深さ5m)を作り、胴体と周囲の水の注排水を繰り返して、地上と1万メートルを超す間の気圧の差による”機体内の加圧と減圧による機体の膨張と収縮”を再現して、これを繰り返してみたところ、3千回行なったところで外装のアルミ合金板の一部にき裂を生じ始めた。

    ↓巨大水槽で実験
    comet6 (2)

    ↓水槽実験で外装のアルミ合金板3千回の屈伸による金属疲労で き裂発生した部分
    comet7 (2)

    (3)実機を使って客室内を加圧⇔減圧状態の実験をしたところ、窓や扉周辺のコーナー部には強烈な歪(応力集中)が発生していることが計測されたので、この部分からき裂が発生しやすいことの裏付けとなった。

    ※無線送受信用窓周囲の打ち込みリベットの穴が事故の引き金になった・・という説明は前記の通りです。

    (
    コメット機に関係の写真はナショナルジオグラフィックチャンネルより引用)
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    次回はタイタニック号沈没とリベットについて・・です。
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    明けましておめでとうございます
    今年も皆様のご健勝を心よりお祈りいたします
          
    ◎月のうさぎもびっくりの今年
    うさぎの姿が見える月に向け、日本の航空宇宙企業のispace社が主導する「HAKUTO」(白兎)という名の民間チームが送り込む機材で初の月面探査を この春に行うそうです。
             ↓ HAKUTOのマーク
    hakuto3

    一方、昨年に民間人で初めて国際宇宙ステーションに滞在した前澤友作氏(衣料品通販サイトZOZO創業などの実業家)は今年8人の仲間と世界初の民間人による月周回旅行をする予定とのこと。

    このように2023年は”多くの民間人や機材が来訪する”というので月のうさぎもさぞや目を見張る年になるでしょう。

    ◎ツタンカーメンが見た月は・・
    原始地球が誕生してまもないという45億1千万年前(他説あり)に、火星と同じくらいの大きさの天体「テイア」が衝突して(思わず「いテイア」と言ったかどうか?)飛び散った破片が集結して月が出来たという説が(諸説ある中で)有力だそうで、誕生直後の月と地球の距離は現在の38万4400キロの約1/16(諸説あり)しかなかったそうで、それから年々離れて行って現在に至っていますが、現在でも月は年間3.8センチ地球から遠のいていることが判っています。

    これらの数値は、半世紀前に”米国のアポロ15号の宇宙飛行士が月面に設置した反射鏡”を利用して地球から発射したレーザー光線の往復時間から割り出すものだそうで、現在までその計測は継続されているので・・「アポロ計画はまだ続いている!」とも言われています。

    ところで、月が45億年余りの間に1年間に遠のく距離がずうっと3.8センチであったのではなく、それよりも小さかったたり大きかったりした期間があったことが分かっているのだそうで、恐竜時代は分かりませんが、エジプトのツタンカーメン王の紀元前1330年(今から3350年前)で計算すると・・現在よりもわずか127メートルだけ近かったことになります。

    地球の周囲を巡る月の軌道は楕円なので先述の38万4400キロというのは中間値であり、地球への近地点と遠地点の差は4万2千キロもあるのに、その見かけの大きさの変化は (スーパームーンと言われればやや大きいと感じますが)普段は感じられないので、127メートルでは影響無しに等しくて、ツタンカーメンが見た月は現在の我々が見る大きさと変わらなかったと言えるでしょう。

    ◎インドの神話では月に見られるのは”うさぎの煙”?
    『昔々のインドにうさぎと猿と狐が一緒に暮らしていました。3匹は菩薩の道に向かって修行していました。その様子に帝釈天が感心し、本当に仏を心に持っているのかを試そうと思い、老人に姿を変えて3匹のもとを訪れて「貧しくて身寄りもない自分を養ってほしい」とお願いしてみたら、猿は木の実や果物を、狐は魚をとってきましたが、うさぎは山の中を懸命に探しても食べ物を見つけられませんでした。

    ある日、うさぎは猿と狐に「食べ物を探してくるので火を起こしておいてほしい」 と頼み、火が燃え盛った頃にうさぎは”自分自身を食べてもらおうとして”火の中に飛び込んで死んでしまいました。すると老人は帝釈天の姿に戻り、うさぎの慈悲深い行いを全ての生き物に見せるために、その姿を月の中に映し出しました。月面で雲のように見えるのは、うさぎが焼け死んだ際の煙なのです。

    これはブッダの物語を集めた「ジャータカ神話」に収められている話で、これが日本にも伝わって「今昔物語」や民話になったそうです。』 (『』内は「広報とだコミだより」より)

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    ここで話題は飛びますが・・前述の「ジャータカ」、インドの2大叙事詩と言われる「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」、「マハラジャ」などここにカタカナで表記した単語は全て”ア”という母音を含んでいるのはなぜでしょうか? インドあたりの言語の特長なのでしょうか? まあ、「ゴータマシッダールタ」、「カーマスートラ」、「アーユルベーダ」、「マハトマ」、「ガンジー」、「タゴール」、「カースト」、「シタール」、「ラビシャンカール」などという単語もありますから全てのインド系言語にはあてはまらないことは分かりますが・・どなたかご教示ください。
    ・・・・・・・・・・・・
    今年もよろしくお願い申し上げます

    前々回にカナ点字、前回に漢点字などを主にとりあげましたが、今回は・・

    ◎色々なモノ、所に点字が・・

    ・シート状媒体(紙、プラスチック、アルミなど)に・・
    (A)点字(凸点)のみ表記・・表と裏の両面に表記もある

    (A1)従来型の点字・・裏から突かれて出来る凸点

    (A2)特殊加工紙で浮き出させた点字・・熱を受けると発泡して立体になる素材をコーティングした特殊紙を利用して専用プリンターで出来る凸点。この場合、面的加熱して地図などの立体図も出せる。

    点字と立体(輪郭)地図を組み合わせた例 ((株)アメディアのHPより)
    3d-printed-map

    (B)墨字(印刷)と一緒に点字も併記

    (B1)墨字印刷面の裏から点字型を押し出して
    墨字も点字も両方が読める・・これも両面表記がある

     (B2) 墨字印刷面の上に透明プラスチックの
    凸型点字を付着させて墨字も点字も両方が読める

    ↓(B2)の例・・一見すると普通の紙の印刷パンフレットだが・・
    tenji-pamph2 (3)
    ↓上写真の部分拡大(あえて透明点字に影がつくように光を当てて凸点の存在が見えるようにした状態)
    tenji-pamph1 (2)
    (富士通(株)総合デザインセンター発行物)

    ・公共の場所、設備・・トイレ、エレベーター操作部、駅階段手摺などに
    エレベーターの点字例
    elevator-tenji1

    elevator-tenji2

    ・アルコール飲料(ビール、発泡酒など)缶の天面
    beer-can-tenji (2)

    ・その他、一部の家電製品の操作部に点字併記、などがある。

    ◎意外に多い点字関連ソフトや機器
    現在の日本で点字を読める人が約3万人と決して多くはないが、マイノリティも大切にするばかりでなく、点字の良さも生かそうとして、点字の作成と判読に関しての多様な機器が出現している。
    例えば、視覚障がい者が文章やメモを作成する場合に自分の声で入力する方法は楽であるが、その場合に”しゃべる内容が周囲に漏れてしまう”あるいは”しゃべる声が周囲には騒音・雑音になってしまう”ことがあるという欠点を生じるが、”無声で点字入力”すればそれを回避できる。そこで便利なのが・・

    ・小型点字メモ機「オービット」9万8千円(福祉用品なので非課税)
     上のボタンで入力して下の窓に20文字分の点字(8点式)が出る
    tenji-memoki

    その他、点字関連ソフトや機器は多い。
    ・点字変換ソフト・・ワード、一太郎などの文字をテキストデータ化して点字用に変換するソフト。
    ・自動点訳機・・上記のようなソフトを内蔵して、本やデータから点字を作る。
    ・点字プリンター(86万3千円)・・ハンマーソレノイドによるインパクト印字(電流が流れると棒が飛び出して、その先端が紙を突いて凸点を作る)
    点字プリンターの一例
    tenji-printer2

    ※点字関連ソフトや機器の詳しい情報や視覚障がい関連の最新情報無料メルマガ申し込みは・・
    (株)アメディア社のホームページ

    (有)エクストラのホームページ

    ◎糖尿病から失明する人も多い
    糖尿病が原因で起きる視力障害が「糖尿病網膜症」。

    ※下記データは日本眼科医会や厚生労働省などの間では数値に大きく差異があるので混乱しますが、糖尿病患者も糖尿病網膜症患者も多いということです。・・一応数字をあげると・・

    ・糖尿病患者数・・1000万人(他データで1620万人や2000万人)
    ・現在日本の「糖尿病網膜症」者数・・140万人(他データで300万人)

    日本の「中途失明」など後天的視覚障がいの発症原因トップスリー
    (厚生労働省 平成28年)
     1位:緑内障:28.6 %
     2位:網膜色素変性:14.0 %
     3位:糖尿病網膜症:12.8 %

    ◎中高年齢で「糖尿病網膜症」発症では点字は無理?!
    実は、前述の” 後天的視覚障がいの発症原因”は” 50,60才代に限れば糖尿病網膜症が1位”であり、それでは歳をとってから視覚障がい状態になって、いざ点字を習得しようとしても、指先の皮膚は硬くて感覚は鈍くなっていて、しかも新しく学習する能力も減退しているので、それは無理なことが多い。

    ◎「すこやか食生活協会」の理事長の要望は・・
    正確には公益財団法人「すこやか食生活協会」と称する組織の以前の名称は「視覚障害者食生活改善協会」(所在地:東京都中央区日本橋本町)であり、視覚障がい者を対象とした食生活に関する各種情報提供や社会への提案などを行ってきたが平成12年に名称変更するとともに対象を視覚障がい者のみならず各種身体機能が減退したシニアにも広げた。

    今から20数年前でまだ「視覚障害者食生活改善協会」と称していた頃に、私はこの協会から何度か呼ばれて伺ったことがありますが、この法人の母体は厚生労働省と農林水産省であり、ここの理事長(推定60才以上)はそのどちらかの省の元高級官吏であったに違いないが、当時の理事長は”眼が不自由”であり、(失礼ながら私の推察では)糖尿病網膜症だったのではないかと思えた。

    ある時、この理事長から「我々視覚障がい者は、加熱調理をする時には”炎の出るガスコンロ”などが苦手だから電子レンジは大変重宝しているけれど、加熱時間設定などの操作の際に音声案内が是非欲しいものです」という要望が出された。

    それはごもっともな事で、点字判読ができない人向けだけではなく、”加熱時間”を例えば1分20秒など細かい設定をしたい場合、視覚障がい者にとっては音声告示が最も便利。これは電子レンジのメーカーにとっても都合が良く、なぜならば機器の表面には点字を並べるスペースが確保できないから。
    その後、”音声案内付き電子レンジ”は市場に出たのだろうか。

    ◎やはり”音声(聴覚)”による情報伝達は頼りになる
    前述の電子レンジの例のように、点字が読めない人に対してはもちろん、情報伝達をするには点字では対応できない場合なども、年齢に関係なく点字よりも音声情報が便利なことは間違いない・・ということで、身近な機器から街なかや交通関連施設・設備などに音声情報提供の例は多い。

    横断歩道の青信号時メロディ、駅構内の階段・エスカレーター存在位置案内メロディなどの他に・・

    ・「コード化点字ブロック」(W&Mシステムズ合同会社)
    既設の点字ブロックを活用して音声案内発信機能を付加したもので、アプリをインストールしたスマホのカメラをかざすと、現在地や周辺の情報などを多言語で音声案内。視覚障がい者のみならず外国人(インバウンド)観光客にも便利。
    tenji-invi-block

    ・「快速よむべえ」((株)アメディア)26万円、モニター無し22万8千円、読み上げのみ19万8千円
    カメラ部で本や印刷物を読み取り、音声で読み上げ、文字は拡大してモニター画面に表示する読書機。
    請求書、レシート、銀行通帳も読める。日本語、英語、中国語、ハングル対応。
    ↓この写真ではこの機器セットの中心となる筐体はモニター裏面に接置して隠れている。 
    yomubei

    その他の製品には・・
    ・パソコン画面の音声化ソフト・・電子メールまでも読みあげるタイプがある。
    ・音声読み上げ式各種測定機器・・キッチンスケール、体重計、血圧計など。
    ・音声ガイド地図
    ・視覚障がい者向けGPS歩行支援システム

    ◎視覚障害がい者への”点字、音声以外の伝達手段”
    ・切り欠き付き各種カード・・各種カードの種別が触るだけで区別できるようにカードの縁を切り欠いたもので・・テレホンカードは半円、交通系は三角、買い物系は四角の切り欠きを基本とすることがJISにも規定されている。
    ↓切り欠き3種(E&Cプロジェクト作成)
    card-cut

    ・触読式腕時計・・腕時計表面の透明蓋を跳ね上げて文字盤の凸文字を指で感知する
    シチズン、セイコー、(1万4千円・非課税)、GRUS(オープン価格) (写真はアメディア社のHPより)
    tenji-watch2

    ・振動コンパス(iphone対応)・・スマホが北を向くと振動する。
    (写真はアメディア社のHPより)
    vibra-compass

    ◎シャンプー容器とポンプノブ天面のギザギザは・・
    現在、シャンプー容器の横腹部またはポンプ容器のプッシュノブ天面にはギザギザが施されていて、
    視覚障がい者はもちろん、晴眼者も洗髪時には(たいてい)目をつぶるので”一時的視覚障がい者”になるために、手探りでシャンプーと(ギザギザが付いていない)リンス(コンディショナー)は区別できる。この”ギザギザ付け”は1991(平成3)年に花王が発案して採用開始したが、他社にも同様のギザギザを施して統一することを提案した結果、現在各社製品に採用されている。
    ↓花王のHPより
    kaoh-gizagiza
    ・・・・・・・・・・・・
    その他、国政選挙などでは点字による投票ができることになっていますが、これを含めたユニバーサルデザイン関連については、また後日にとりあげます。
    ・・・・・・・・・・・・

    文学の素養など無い私でさえ、最近の我が国における”言葉の使われ方”、”イントネーション”、”発音”などで気になることがある。しかしながら、”言葉は生き物”と言われ、例えば”独壇場”は元の読みは「どくせんじょう」だったのが今やすっかり「どくだんじょう」の独壇場!?。このように今は気になってもやがてそれが標準になるかも知れないのだが・・

    ◎「緊張感をもって」、「スピード感をもって」は ずるい!
    つい最近のこと、国会の参議院本会議中に居眠りした某大臣、野党から責められてのおかしな釈明内容だったが、最後に「今後はそのようなことが無いよう、緊張感をもって審議に臨みたい」と述べた。

    元々この大臣の行為は言うまでもなく責められるべきものだが、ここで私が問題にするのは・・
    「緊張感をもって」という部分である。この「〇〇感をもって」という表現は他にも(首相もよく使われる)「スピード感をもって」というものもある。

    prdt-kisida
    画像は「TBS NEWS DIG」より引用

    この「〇〇感をもって」という表現の” 〇〇感”というものは、その言葉を発した個人のあくまでも”主観的な感じ”なのであり、ゆえにその人が”緊張感をもって”あるいは” スピード感をもって”行動・対処する(した)様が、他人あるいは社会からみて一般的、客観的には”緊張して事にあたっているとは言えない”あるいは”迅速な行動とは言えない”として責められても、その弁解で「私(の中で)は緊張感(スピード感)をもって行動しました」と言って逃げることができるずるい表現だ。

    これだから「〇〇感をもって」という表現は”言うだけ”、”言っておく”だけの便利な道具にもなっているようだ。

    やはり、「緊張感をもって」と言わずに「気を引き締めて」あるいは「真剣に」など、そして「スピード感をもって」ではなく「スピーディーに」、「迅速に」、「早急に」と言うほうが(これらもまだ曖昧と言えば曖昧だが)ベターだろう。(大臣たちの発言、答弁の多くは官僚が作成した原稿の読み上げと言われるが、やはり最終的な責任は発言者にあるのは言うまでもないが・・)

    ◎”20”の読み方のイントネーションには従来とはちがったものが出てきている
    同じ”20”でも、その後に付く数詞によってそのイントネーションが異なり、「20才」、「20数人」ではそれぞれ異なる定番のイントネーションがある。(ただし東京圏の標準語以外については分かりませんが)・・では数詞をつけず単に”20”だけを発音するとどうか、我々シニア世代は前記の「20数人」の場合の”20”と同じイントネーション、つまり”に”の高さから少し下げて”じゅ”さらに少し下げて”う”という音程で発音してきた。(音程を折れ線グラフにすれば”右肩下がり”)

    ところが近年、若者(と言っても現在40才代前半の我が息子も入る)は”にじゅう”の”に”より”じゅう”を高くして、つぎの”う”を”あたまの”に”と同じ高さに戻すという音程で発音する。(音程を折れ線グラフにすれば”山型”)

    この”20”の新たな発音イントネーションに対してシニア世代は違和感(気持ち悪さ)をおぼえるが、なんとNHKの若手アナウンサーも使っている状況だから今後はこれが主流になるのか?

    最近のNHKのニュースの一部はAIによる自動音声を使っていて、確かに進歩して人間のナマの声とほぼ同じように聞こえ、イントネーションも自然になっているが、”20”に関してのイントネーションの使い分けは、さてどうなっているのか? 私はまだ確認できていないが・・。

    ここで思い返せば、我々の若い頃、それまでオーディオの”アンプ”のイントネーションは”ア”から下がり”ン”さらに下がって”プ” (音程を折れ線グラフにすれば”右肩下がり”)だったのが、1965(昭和40)年頃には”ア”から”プ”まで抑揚無し(音程を折れ線グラフにすれば”水平”)にして発音していたし、

    同時期、同様に”ギター”もそれまでのイントネーションが折れ線グラフにすれば”右肩下がり”だったものを折れ線グラフにすれば”水平”に発音し始めていたから文句は言えないか・・。

    ◎”ら”抜き言葉や形容詞誤用をテロップでは・・
    例えば、従来なら「見られる」と言っていたものを今や「見れる」と言って、いわゆる”ら”抜き言葉を使う(助動詞の誤用)人が非常に多い。しかしテレビ各局では、ある人が”ら”抜き言葉を使ってもテロップには”ら”を入れて画面に流している。

    他にも、多い例が「すごいきれい」、「すごい感動した」という表現。本来なら「すごく」という副詞を使うところが形容詞になっている。この場合もテレビ画面には副詞に換えたテロップが流れている。

    しかし”ら抜き言葉の使用”とこの“形容詞誤用”の双方とも意味は十分通じてしまうから、将来もこの流れは続いて定着するのだろう。テレビなどのテロップも変わるのだろうか?

    ◎鼻濁音を使ってやわらかな表現をする人たち
    鼻濁音とはどんなものなのか説明すると長くなるのですが、実例として分かりやすいのは、「が」という音が”言葉のアタマ(先頭)ではなく途中にきた場合”と”助詞として使われる場合”に、「が」を鼻に抜けるようにして「が」のように発音するもの。これによって話し言葉全体がやわらかい感じになる。

    鼻濁音について少し詳しくは私の過去のブログ(2018.8.18発信)の後半部分を参照ください

    かつて国民的歌手の美空ひばりは鼻濁音を顕著に使った。

    美空ひばり 切手(1997=平成9年発行:日本郵便HPより)
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    しかし、現在は鼻濁音を聞くことが少なくなっている中で、私は最近のテレビ放送の中に鼻濁音を目立って使っている人を二人見つけていて、その一人が・・

    北條真紀子さん(1972=昭和47年生まれ):24時間テレビ通販番組「ショップチャンネル」のキャスト(商品紹介説明員)。同チャンネルには29人のキャストがいて、中には”言葉を畳みかけるようにガンガン連射する”人もいるが、北條さんは「北條節」とまで称される”極めて心地よい語り”をする人。これには鼻濁音を豊富に使っていることの影響も大きい。

    北條真紀子(「ショップチャンネル」HPより)
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    この人、実は「ショップチャンネル」の社員ではなく、某派遣会社からの派遣員だが、2001年28才からこの仕事に従事して21年、その魅力の”語り方”にファンも多くて、休暇などで番組への登場がちょっとでも途切れると、ファンからこの番組主体のジュピターショップチャンネル社に問い合わせがあるくらいの人気。

    以前は昼間時間帯にも出ていたが、看板キャストだけに、”テレビ通販のゴールデンタイムである午前0時~2時”の担当が主になったようなので、私も最近は顔を見ることが殆どなくなっている。    

    そしてもう一人が・・

    ホラン千秋(1988=昭和63年生まれ。父はアイルランド人、母は日本人):タレントであり、現在TBS系の夕方の報道番組「Nスタ」のキャスターも担当しているが、この人の鼻濁音も顕著。

    ホラン千秋(TBS「Nスタ」テレビ画面より)
    tiaki-horan (2)

    国際結婚した母親が、我が子には鼻濁音を使うやわらかな良き日本語を意識的に教えたのであろうと、私は想像している。

    しかし、この鼻濁音というものも消滅に向かうのだろうか?
    ・・・・・・・・・・・・
    以上、最近の日本語で私が気になる”表現”をあげてみました。
    ・・・・・・・・・・・・

    前回はカナ文字点字関連についてでしたが今回は漢字も肝心ということで・・ (文中敬称略)

    ◎「漢点字」の有難さ
    日本語の点字は基本的にカナ文字を表すものなので、点字から得られる第一次的情報は表音文字の羅列であり、”漢字が使われている文章“を点字化したものからは、表意文字である漢字の良き味わいが伝わらないという一面がある。

    川上泰一(かわかみたいいち:1917=大正6年~1994=平成6年:東京物理大学(現 東京理科大学)卒)が大阪府立盲学校で教師をしていて、視覚障がいの生徒たちが”漢字というものの存在”を知らないことに驚くと同時にこの状況を打破してあげようと決意。

    そこで点字で漢字も表せないかと考え、従来の点字の形式である6点の上に”漢字であることを表す2点”を加えた「漢点字」を考案して1970(昭和45)年に公表した。


    kantenji

    ↑↓川上泰一 (図と写真は朝日新聞2009.11.30より引用)
    kawakami-t (2)

    その後、1987(昭和62)年に「漢点字協会」設立。コンピュータ利用による漢点字関連の自動化や” 漢点字化した漢字”の数を増やし、遂に「大字典」(講談社)の1万4924字の漢点字化を完成。現在は漢点字に関する日本工業規格(J I S)も設定されている。

    現在、点字が読める人たち3万人の内で漢点字が読める人は約1000人しかいないが、漢字が読めるようになって漢字のもつ豊かな表現力を知ったある視覚障がい者は「すべてが白黒から極彩色に変わった感じだ」と言う

    ◎”漢字否定し、カナ文字やローマ字推奨派もいるが・・
    明治時代末期に漢字廃止論が盛んになり、1920(大正9)年に大阪で「仮名文字協会」が発足。”漢字廃止。カナで左から横書き”を主張して機関誌「カナ ノ ヒカリ」発行。1923(大正12)年に「カナモジカイ」に改称してし、政府の国語審議会や国立国語研究所にも1960年代まで参加協力。現在も活動継続しているが、かつて財団法人だったが現在は任意団体となっている。

    ↓機関誌「カナ ノ ヒカリ」
    (「古書の旭文堂書店」通販サイトより引用)
    kananohikari (2)

    ↓機関誌「カナ ノ ヒカリ」ダイ イチ ゴウ(第1号)のカナによる文章一部
    kananohikari2

    カタカナを推奨するカナアモジカイとは別に”ひらがな”を推す人もいる。
    ↓さいとう きょうぞう 作成 「ひらがなぶんこ 坊ちゃん 夏目漱石」の部分(我が家の倉庫に保管中に雨漏りで少々かび付着でお見苦しい点 ご容赦ください) (クリックで拡大)
    hiraganabunko2

    カナモジカイと同様な趣旨で、日本語をローマ字で表現しようと主張する「日本ローマ字会」と「日本のローマ字社」も存在する。実はこの動きはカナ文字化主張派出現よりそうとう早く、1969(明治2)年に始まり、1885(明治18)年には前身である「羅馬字会」が創立されている。

    カナモジカイやローマ字会に限らず、”漢字の存在が日本の文化や教育の発展、情報伝達を妨げている”とする見解を述べる学者や”小説の世界でも漢字の使用頻度が少なくなってきているとみて、実際に泉鏡花(←語彙の豊富さにあの三島由紀夫も驚いていた)から現代作家にかけての多数の小説内の漢字数が確実に減っている”ことを調べ上げた学者もいて、”漢字は将来、消滅する”という学者の方々がおられる。

    しかしながら、これらの説、見解は”効率に視点を置いたもので、漢字を配置した文章から受けるイメージや情緒のような面は排除されている”ように感じられ、それはあたかも”文明偏重、文化軽視”につながるように思える。しかも”カナのみ使用の欠点”として”同音異義語問題”は 必ず挙げられる。

    加えて、カナモジカイが当初発表した設立趣意文には、”日本にとって重い荷物となっている漢字”は・・「シナ カラ ノ カリモノ! オタガイ ニ キ ガ ツケバ、カエシテ シマオウ デワ ナイカ」※・・としている部分があるが、これを徹底するには・・

    漢字で出来ている熟語はほとんどが(中国由来の)”音(おん)読み”であり、それをそのままカナにするのは矛盾があることになるから、その熟語を”やまとことば”になおしてからカナ文字化しなければならず、そうなると必ずや字数が増えて、作文するにも読文するにも非効率となる。

    「シナ」と言う言葉は本来、古代中国の秦が語源であり英語のチャイナの源でもあるものの、かつて日本は中国の蔑称としてシナ(支那)を使っていたので現在は使わないことが主流で、放送業界でも使用自粛語とされている。現代の中国(人)もこの言葉を拒否する。カナモジカイが当初に発した文言にも当時のシナ観のニュアンスが感じられる。(私が子供の頃には使われていた「支那そば」(現、ラーメン)や「シナチク」(現、メンマ)はほぼ使われなくなったが「南(東)シナ海」の呼称はどうなるのか?)

    どうもカナ文字推進論者の方たちは”漢字の持つ意味、字態(体)が脳裏にしみ込んでいる状態”がベースになっていて、カナ文字化したものに接しても無意識のうちに該当する漢字が浮かびあがるから不都合を感じないのではないかと思える。

    あらためて、前述のように”漢字の存在を知らなかった視覚障がい者が漢字を認知したら「すべてが白黒から極彩色に変わった感じだ」と表現する”ということには、漢字の存在意義を再認識しなければならないだろう。

    以上のように、文章を書くという場合において漢字は効率的にはカナなどに劣るが良い面もあり、カナは効率的には良いが問題もあるので、昔は困っていたが・・

    今やパソコンなどを使用して文章作成することによって問題はほぼ解消するので、漢字・かな・カナ混じり文は安泰であろう。 

    私が自然に実践しているので一つ言えることは、急いで手書きで文章作成したりメモしたりする際にはカナ書きすることが多いので、カナ主体文も時と場合によっては”アリ!”と言える。
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    点字に関してのお話、糖尿病との関連も含めて、次回の(3)に続けます。
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    ◎「点字制定記念日」の11月1日
    11月1日は「点字制定記念日」。その由来は、日本の点字の父と言われる石川倉次(いしかわくらじ:1859=安政6年~1944=昭和19年)が、既にフランス人のルイ・ブライユによって完成していた”6個の点の組み合わせによる”アルファベット用点字を応用して作った日本語のカナ用(6点)点字の方式が正式採用された日が1890(明治23)年11月1日だったことから。

    ↓点字(カナ)例
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    引用した上図を含む点字自体の詳細説明は・・こちら

    ↓石川倉次 (写真は筑波大学附属視覚特別支援学校のHPより引用)
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    石川はその後も東京盲唖学校などで教師をしながら点字に関する研究を続けて、視覚障がい者がいつでもどこでも表現できる「懐中点字器」や「石川式点字タイプライター」を開発するなど日本の点字発展に尽力した。
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    写真は(千葉)「県民だより」2017年12月5日号より引用

    ◎視覚障がい関連の基礎情報と用語

    〇日本の視覚障がい者数:約164万人(ロービジョン者:145万人/失明者:19万人)
      ・ロービジョン者・・よく見える方の目の矯正視力が0.1~0.5
      ・失明者・・・・・よく見える方の目の矯正視力が0.1未満

    ※上記の分類と推計は日本眼科医会によるものであり、厚労省による” 日本の視覚障がい者数:約31万人”と大きく相違しているが、両者の調査基準の違いとともに視覚障がい者の実数が掴みづらい結果と言われる。(障がいがあっても申告しない人や障害者手帳をもらわない人がいるなどのため)

    〇毎年の失明者発生数:約3000人

    〇中途失明(者):生まれつきではなく、ある時期までは目が見えていた(人)

    〇点字が読める人:約3万人 (日本国内)

    〇この分野でよく使われる、対峙語
    ・視覚障がい者(障害者/障碍者) ⇔ 晴眼者(目が見える人)
    ・点字 ⇔ 墨字(すみじ:印刷または手書きされた文字)

    〇「ライトハウス」:視覚障がい者の為の情報発信、悩み相談対処、職業訓練(はり、灸、マッサージ)、受け入れ施設斡旋、盲導犬斡旋など行う機関・施設。大阪に「日本ライトハウス」がある他、「京都ライトハウス」、「東京ライトハウス」など各県(全てかは当筆者未確認)にライトハウスが存在。本来「lighthouse」は灯台のことだが、灯台の光の様に視覚障がい者の人生航路を明るく導く意味が込められている。

    ◎石川倉次は浜松に生まれ、東京の染井霊園に眠る
    石川倉次は幕末に遠江国(とおとうみのくに)浜松藩(現、静岡県浜松市)の武士の子として生まれた。明治維新直後に父が仕える君主が国替えとなったので、それに伴って上総国の鶴舞藩(現、千葉県市原市)に転居。時に倉次10才で、以後学業優秀で教員になって千葉県内のいくつかの小学校に勤務していたが茂原小学校校長時に、東京の盲学校教員になって欲しいという強力な要請が当時の盲唖教育の実力者からあり、28才で上京して以降、視覚障がい者と聴覚障がい(発音障がい)者教育に専念しながら点字とその関連機器などを開発した。

    私が現在住んでいる千葉県では”点字の父 石川倉次”が10才から28才までを過ごしたことによって、何かと氏の名前が出てくるので、今回このブログのテーマに”点字”を選んでみたわけです。

    石川倉次は今、東京都豊島区にある「東京都立 染井霊園」に眠っています。東京のゆえか、いくつかある大きな霊園には多くの有名人の墓があり、この染井霊園には芥川龍之介、谷崎潤一郎、田沼意次、高村光雲、高村光太郎、高村智恵子、水原秋櫻子、岡倉天心、二葉亭四迷、遠山金四郎景元たちも眠っています。  (↓クリックで拡大)
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    ↑↓「染井霊園MAP」(東京都豊島区文化観光課 発行)(見易くするため筆者が二分)
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    お話が飛びますが・・現在日本の代表的な桜である「染井吉野※」はこの霊園の在るあたりで生まれたそうで、ここは昔、染井村と称して植木職人の町であり、そこで江戸時代後期にたまたま”花だけが先に咲いて葉が後から出る美しい桜”が一本だけ生まれたもので、(現代の科学的分析によって「染井吉野」の母親は「エドヒガン」、父親は「オオシマザクラの雑種」ということが判っている)それを染井の植木職人が、有名な奈良県の吉野の桜の名を借りて染井吉野と命名し、その一本を接ぎ木でどんどん増やし、この方法が後世にも受け継がれて日本中に増殖したので全国クローンだらけの桜模様となっている。 ※植物学者たちは、最初の一本を純粋に受け継ぐ「染井吉野」と純粋とは言えない「ソメイヨシノ」があるとして区別している。

    石川倉次が少年・青年期を過ごした、現在の千葉県市原市鶴舞には、現在「千葉県立市原特別支援学校つるまい風の丘分校」という視覚障がいなどの児童のための学校がおかれている。また鶴舞地区は桜の名所であり、氏は今、染井吉野という桜の発祥地に眠っている・・というわけで"桜"に縁があるようです。
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    点字に関してのお話、長くなるので次回に続けます。P.S. 下記ご参考までに・・
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    11月1日を「〇〇記念日」や「〇〇の日」としている例は、点字制定記念日の他にも沢山あって・・(ワンワンワンの) 犬の日 灯台記念日紅茶の日すしの日本格焼酎の日泡盛の日川の恵みの日野沢菜の日石勝線(せきしょうせん:北海道)開業の日東武鉄道創立記念日明治神宮創建の日山手線環状運転開始の日計量記念日古典の日教育の日生命保険の日カーペットの日サービス介助士の日ラジオ体操の日自衛隊記念日警備の日本の日ダーツの日名木伝承の日紅茶の日玄米茶の日ソーセージの日いい医療の日スーパーカーの日世界ヴィーガン デーなどで、各々その由来などを掲げると大変な量になるので割愛しますが・・詳細は・・
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを大学生仲間4人グループがクルマ旅。前回は札幌を出発したところまでのお話。今回はそれより少し西を回ってから帰路につきます。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)
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    ◎余市のニッカウイスキー工場
    札幌から西の小樽を(なぜか)素通りして、積丹(しゃこたん)半島の北側の付け根に当たる余市町(よいちちょう)に至り、ニッカウイスキーの工場(正式名:余市蒸留所)入り口まで来たが中には入らなかった。それには、奇跡的?にも我ら全員が”酒好きではなかった”ということも影響しています。しかし、門の外からでも見えた工場建物独特の”とんがり帽子”の姿は印象に残りました。

    ↓ニッカウイスキー余市蒸留所の正門前からの撮影だけ行った
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    今、調べてみると、ニッカウイスキー(株)※の創業者:竹鶴政孝(1894=明治27年生まれ)氏※はウイスキー作りを学んで英国からリタ夫人を伴っての帰国直後はこの余市工場内敷地に建てた住宅に住み、後に工場外に居をかまえたが、亡くなる1979(昭和54)年まで一貫して余市町内に住んだそうなので、我らが1968年にここを訪れた際にはまだお元気でこの工場内に居られたかも知れない。ただし、奥様のリタさんは1961(昭和36)年に他界されていた。

    ※ニッカウイスキー(株)は2001年にアサヒビール(株)(現、アサヒグループホールディングス)の完全子会社となった。
    ※竹鶴政孝をモデルにしたNHKの朝ドラ「マッサン」が2014年に放送された。

    ◎「ローソク岩」は何か感じる?
    余市町の中心から10キロほど西に(同じ余市町だが奇妙な町名の)「余市町豊浜町(よいちちょうとよはまちょう)」という所があり、そこの沖合約500mの海面からニョキっと垂直に立って高さ約45mになる細長い岩が「ローソク岩」。その姿だけでもその名に値するが、朝日が丁度その岩の先っぽに重なって、ローソクが灯ったように見えると、ピッタリの名となる・・とのことですが・・これが見られるのは夏至を挟んで前後各2回のある限られた時期のみだそうで・・
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    ↑画像は余市町のHPより

    我らがここを訪れたのは、時期、時刻とも完全にずれていて”火が灯っていないローソク”を見たのですが・・この岩の根元に在る岩の形と相まって、全体が”あるシンボル”のようにも見えます。

    後述しますが、現在のローソク岩が過去にはもっと大きく太い形であった時代にアイヌの人たちはこの岩のことを「カムイ・イカシ」(男神)と称していたとのことで”さもありなん”です。

    ↓我ら二人の視線の先に在るのは”ローソク”か、それとも・・
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    この岩の組成は溶岩が水中で冷え固まったもので脆いのだそうで、太古にはそうとう大きかったものが時代とともに崩壊が進み、ついに1940(昭和15)年の積丹半島沖地震の津波によって半分に割れてほぼ今の形になったそうですが、その後も小さな崩壊・崩落があり、2016(平成28)年にも先端が欠けたそうなので、我らが半世紀前に撮った写真と現在のものを比べてみたのが次の画像で、明らかに現在は”短小”化して先が尖っています。

    ↓左:1968年に我らが撮影/右:最近(DomingoのHPより引用)
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    ↓ローソク岩を見た海岸で (ここも砂利道だった)
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    ◎再び通った八雲町は木彫りの熊の発祥地だった!
    いよいよ帰路に向かって内浦湾(噴火湾)沿いの往路と同じ道を南下して、途中で再び通過した八雲町は、(先記のように)立ち寄ったガソリンスタンドで粗悪ガソリンを入れられたという良からぬ印象があったのですが、後で知ったことは、この八雲町は食品以外の北海道土産としてポピュラーな”木彫りの熊”の発祥地であり製作地でもあるということです。ただし現在は旭川市も製作地だが八雲では熊だけの姿なのに対して旭川は熊が鮭をくわえている姿・・という違いがあるとのこと。

    ↓左:八雲の木彫り熊(八雲町木彫り熊資料館HPより)/右:旭川の木彫り熊(ヤフーショッピングのサイトより)
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    ◎駒ヶ岳が見える大沼国定公園で道内最後の休憩
    この地は”行き”に通過していたもののよくは見ていなかったこともあり、休憩がてら北海道で最後の風景として眺めた。本来は大沼という名の湖とその後ろにみえる雄大な裾野の駒ヶ岳(1133m)をセットで眺めるのが定番だが、時間の関係で我らは大沼に隣接する小沼という湖越しに駒ヶ岳を見ることになりました。
    ↓駒ヶ岳遠望
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    そしていよいよ南へ20キロほど先の函館港へ到着し、そこから往路と同じフェリーに乗船して大間へ夕刻に到着。夕食をとっった後すぐに、大間から一気に飛ばして(立ち寄り地の)千葉県の太平洋側の某所経由で東京までの約850キロを走行して(途中2回の食事をとって)午後5時頃に新宿へ到着しました。

    ◎大間~千葉~東京をぶっ飛ばし走行で得たテクニック?
    帰路の内、青森県から東京近くまでは長い国道4号線を使ったのですが、クルマが極端に少ない夜間走行の部分が長かったので、その間は(違反ですが時効?)時速50~60キロで飛ばしました。

    そこで起きたのが・・当時の幹線道路は舗装されているとはいえ、平たんな道路の途中に(コブ状態ではなく道幅全体が)こんもり盛り上がっている部分が在るという箇所が少なからずあって、スピードを出して走行中にこの部分に出会うと、車体はその道路の盛り上がり頂点では少し浮き上がるか又は空中に浮く(ラフロードのラリーでよく見られる)状態となり、盛り上がり部分が終わって平たん部分に着地すると車体はガックン、ガックンと揺れます。

    これでは夜間で眠っている他の同乗メンバーを起こしてしまうので、何とかならないかと2,3回試行錯誤の結果、体得した方法が・・

    道路の盛り上がり頂点で車体が浮き上がり気味または空中に浮く状態となった状態では車輪(動輪)が空回りするのでアクセルから足先を離しますが、次に車体が着地すると同時※にアクセルをグッと強く踏むと、車体がガックン、ガックンすることが無くスムーズに前椎する・・というもの。ただしこれを実行したクルマは後輪駆動車であり、他の前輪駆動車や四輪駆動車でも同様な効果があるのかは分かりません。

    ※ここで言う「同時」とは・・接地の瞬間には駆動輪のタイヤにエンジンのパワーが伝わっていなければならないので、アクセルとの間のタイムラグを考えて、接地のコンマ数秒前。

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    後年、社会人になってある時に上司を乗せて社用車を運転中に、道路の盛り上がり部分があったので、前述の方法で対処した途端に、その上司が私に向かって「○○君は運転がうまいなあ」と言われたことがあります。

    ◎泥汚れを「満身装衣」して新宿到着
    全4200キロ走行中に(窓ガラスとライト以外は)一度も洗車しなかったので、新宿駅前に到着した車体には泥の膜がこびりついていた。そこで車体横腹に指で文字を書いたのが下の写真。

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    ◎(参考)同時期に「カニ族」が北海道に大発生していた!
    1960年代後半から1970年後半にかけて、大学生など長期の夏休みが取れる者たちのあいだに、鉄道の周遊券を利用するなどで交通費を抑え、かつ安い宿泊施設、ユースホステルに泊る、あるいはテントで野宿しながら旅をすることが流行り、その実行者たちが背負ったリュックが当時は(現在の様な縦長ではなく)横長でしかも幅約80センチが主流(女性用は少し小型)だったので、列車内通路や乗車口ではリュックを背負った状態では横歩きしなければならず、これがカニの歩き方のようだということで付いた名が「カニ族」。これは今で言う「バックパッカー」。
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    ↓帯広駅前には無料宿泊テント「カニの家」が設置され、ここだけでもひと夏に約3000人の利用があった。(画像は「北海道ファンマガジン」のHPより引用) 
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    現在は帯広駅からクルマで20分の所にログハウス調の無料宿泊所あり、オール電化のキッチン付き。女性専用スペースあり。・・なので年間約1000人が利用。

    カニ族にとっては特に北海道が人気だった。その影響の一つが国鉄広尾線の”「愛国」駅から「幸福」駅行きの切符」の入手がブームになったこと。

    私の手許に在る切符(戴きもの)
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    ただし、我らが9月に入ってから訪れた北海道ではもう肌寒いせいか、カニ族は見当たりませんでした。

    ◎只一つ見た花「エゾリンドウ」
    この北海道の旅で見かけたのは本当にこの「エゾリンドウ」だけ。ただし「エゾオヤマリンドウ」という種があり、こちらは高地に咲くという違いだけで、この2種の見分けはかなり難しいとのことで、花名は後者かも知れません。
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    ◎今にして思えば・・
    我らが北海道クルマ旅をした1968年は、カニ族も隆盛の一方で、ベトナム戦争の最中でもあり、派兵拒否米兵が北海道経由で亡命したり、また大学紛争(闘争)、学園紛争も過激化しているという時期だったことは複雑な気持ちになるものです。

    この旅の実行にあたっては事前の十分な下調べも無く、かつ”定番の観光地訪問は将来にその機会があるだろうとして”それ以外の地をなるべく訪ねようとしたため、殆ど手つかずの自然に多くふれられた一方で、北海道ならではの文化を見逃したことは否めませんが、このレポート型ブログ5編が何らかのお役に立てば幸いです。
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    以上、北海道クルマ旅シリーズは、この(5)を最終回といたします。
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを大学生仲間4人グループがクルマ旅。前回は根室から知床半島を巡ったところまでのお話。今回はそれより西に向かって進みます。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)

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    ◎大雪山 早くも初冠雪、ストーブ活躍の地も・・
    9月に入ってまだ間もない8日(だったか?)に、北海道の最高峰にして大雪山(系)の主峰である旭岳(2291m)に初冠雪があったというニュースをカーラジオで聴きました。ちょうど今年2022年の10月5日に旭岳に初冠雪があったというニュースがあり、それによると昨年より1日早いが平年より10日遅いというから、平年の初冠雪は9月25日頃ということになり、やはり半世紀前に比べれば温暖化が進んでいる影響なのでしょうか?

    ↓(参考)雪を頂く大雪山系(美瑛からの遠望:Wikipediaより)
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    初冠雪のニュースを聴いた直後に通った北見市の町の店などでは、すでにストーブを焚いていたのでビックリしましたが、さすがに北海道のほぼ中央で内陸性気候の証だと感じたもの。しかし、いつ頃から焚き始めていたのでしょうか?それを聞き忘れてしまいました。

    ◎層雲峡は滝もさることながら柱状節理もみごと!
    北見市と旭川市の中間、大雪山の北側の麓にあたる地域に、高さ約200メートルの断崖絶壁が24キロにわたって続く層雲峡。その崖下に沿って流れる石狩川はまだ上流にあたるので川巾が細く、これにまた沿う道路を我らは走ったので、見上げる崖は迫力あり、途中にはいくつかの滝も見られた。その代表は「銀河・流星の滝」という一対を成して落差約100メートルの見事さで「日本の滝100選」の一つ。
    ↓「銀河・流星の滝」(層雲峡観光協会のHPより引用)
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    もう一つの見どころは、この層雲峡の崖全体の「柱状節理」。それが延々と続く様子が見られる所が日本では他にあるだろうか?福井県の東尋坊(自殺名所、ドラマロケ多数)も有名ですが、どうなんでしょうか?  「柱状節理」はマグマや溶岩が固まる際にほぼ法則的な形の亀裂が入り、その結果、断面がほぼ6角形(または5角形)の石柱を束ねたようなカタチとなるもの。
    その石柱1本分の太さは各地さまざまで、層雲峡は不明ですが、兵庫県の玄武洞のモノは直径約20センチなど。東尋坊では場所によって大きくちがい30~100センチ近いものまであるとのこと。

    ↓層雲峡の「柱状節理」の崖
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    今にして思えば、我らが層雲峡見物した時代は良かった。というのは上の写真でも見られるように、「柱状節理」の崖下には剥がれ落ちた”石柱部分”が砕けて転がっていて、崩落が多いことがわかります。従来から小さな崩落で、我らが通った道路にも岩石が転がることがあったそうですが、1987(昭和62)年に大規模崩落が発生して道路にも大量岩石が落下して走行中のトラックの運転手とサイクリング中の人の計3人が死亡、重軽傷が数人という事故が発生。その後も小規模崩落ありで、現在はこの道路を封鎖した代わりに、より崖から離れた位置に、安全のためのトンネルがほとんどを占めるという新道がつくられているとのことで、今は景色が見られる区間が狭まっているのです。

    層雲峡で見られるような”柱状節理のある所に滝がある”というケースは多いようで、私は日光「華厳の滝」、和歌山県「那智の滝」、宮崎県「高千穂峡の〇〇滝」、伊豆半島の「浄蓮の滝」を思い浮かべますが、調べたら伊豆には他にも「萬城の滝」、「初景滝」などがこれにあたるそうです。

    ◎ラジエーターホース亀裂で蒸気漏れてピンチ!
    我らが層雲峡を抜け、西にある旭川市に向けてしばらく走行していると、突然、ハンドル握っている彼が「あれっ!オーバーヒートかなっ!」と叫んだ。(エンジンの)水温警告表示が出たので気づいたそうだが、昇りでもない道を普通に走行しているのにおかしい?ということで、停車してボンネットを開けてみたら、なんとラジエーターホースの一部に亀裂が入って、そこから蒸気が噴出しているではないか! 

    ラジエーターホースとは、エンジンとラジエーターの間で冷却液を循環させるためのホースで、液がエンジンから出ていくためのホースと戻って来るためのホースの二つが存在する。この時は前者のホースなので発見しやすかったのではありました。

    ↓ラジエーターホース例:車種などによって太さ(2~5cm)、長さ(10cm~)、曲がり具合いが異なる。(指先より右部分がホース)
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    もしこのまま冷却液の水分が蒸発して無くなってしまえばエンジンが焼き付いて大変な事になる。ということで、すぐにでもホースを交換したいが、周囲はまだ原野でどうしようもない。しかしあと10キロほど進めば旭川なので、そこまでソロソロ気味で走行してヒヤヒヤしながらもなんとか到着し、修理工場を見つけて事態は解決した。

    ◎札幌での体験(1)時計台、ポプラ並木、札幌ラーメン
    旭川から札幌に到着。先ずはお決まりの「時計台」(旧、札幌農学校演武場)へ。この建物自体は良い感じなのに、我らが訪れた半世紀前、既にその周囲にはビルが建ち並んでいて、噂通りムードをこわしていたので、写真も撮らなかった。つくづく、フランス・パリのエッフェル塔周囲の景観維持の意識の高さを感じ入る。

    日本三大「がっかり観光スポット」の筆頭にあげられるのが「札幌時計台」、2位は高知「はりまや橋」、3位は諸説あって、長崎「オランダ坂」、沖縄「守礼門」、「京都タワー」、「名古屋テレビ塔」など。不名誉なランクから逃れる方策はないのでしょうか?

    ↓(参考)現在の「時計台」(エムエムエス マンションマネジメント サービス(株)のHPより)
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    実は、仲間の一人のお兄様がちょうど北海道大学の医学部に在学中ということで、お会いすることになりましたが、その前に有名な「北大ポプラ並木」と(Boys, be ambitious!の)「クラーク博士胸像」を観た。ポプラ並木は当時、300メートル続くすべてを観られた。ここのポプラの木の正式名称は「セイヨウハコヤナギ」であるが、樹高20メートルで根も浅くて、柳の仲間にしては”風を受け流す”ことができずに過去に何度も台風で折れたり倒れたりで、その後は全面通行禁止だった時期があったものの、現在は80メートルだけは解放されているということで、我らが訪れた際は制限は無くイイ時代だった。

    ↓「北大ポプラ並木」(uu-hokkaido HPより引用)/「クラーク胸像」(Wikipediaより引用)
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    そのお兄様にお会いして挨拶した後、有名な商店街「狸小路」を案内いただき、その中の中華ソバ屋さんで本場札幌の「味噌ラーメン」をおいしく食べて満足の夕食となったのでした。

    ↓(参考)現在の「狸小路」
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    ◎札幌での体験(2)お菓子のテスト販売品もらう!
    時間が前後しますが、まだ明るい時分に札幌市内の繁華街を歩いていたら、明治製菓(現、明治)の旗を立てた横に居並ぶ二人の女性が、なにやら小箱入りのキャラメルのようなもの(だったか)を配りながら、言うことには「一口召し上がってみてお味はいかがでしょうか。これはまだ東京などでは発売していない商品なんです!」・・ということは、いわゆるテストマーケティングとして、東京などに近い文化傾向があると言われる札幌の地を選んで”味などの評価を得られるか否かの試し”が行われていたのでしょう。

    札幌での体験(3)東京と全く同じ新聞!?
    札幌に在るYH(ユースホステル)で宿泊をした翌朝に、ふと目にした新聞に驚きました! それは、掲載広告が全て東京のデパート、例えば銀座の松屋、その他の東京近辺のショップなどのものだったからで、そこで記事内容を読んでみるとやはり東京とその近隣県関係の内容なのです。その新聞名を忘れましたが、ある全国紙だったので、これは東京版紙面をそのまま電送(今でいうファクス?)されたものを札幌などで受けて印刷したものか、あるいは新聞現物が空輸されたものか、たぶん前者だったと思いますが、詳しいことをご存知の方は教えてください。
    それにしても、ご当地「北海道新聞」というものがあるにもかかわらず、このような新聞が存在するというのは、札幌は東京文化的志向が強いゆえの事象だったのでしょうか。

    そして次の目的地へ向けて出発して市内の大通り公園の「さっぽろテレビ塔」の横を通過したのが午前8時22分・・と細かいのは、たまたま我らメンバーの誰かが撮影していた8ミリフィルムの動画にテレビ塔の中間位置に在る大型の(日本初とされる)電光時計が映っていたからでした。

    ↓現在の「さっぽろテレビ塔」:中間位置に電光時計。(さっぽろテレビ塔(株)のHPより引用)
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    次回は「北海道 半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事!!(最終回)」です。
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを4人グループのクルマ旅。前回は道東の根室半島の花咲港でカニを食べたところまでのお話。
    今回は根室から北上して知床半島へ進んだものです。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)

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    ◎根室はベトナム戦争と関係があったとは知らずに!?
    花咲ガニが目当ての花咲港に行ったために素通りした根室市に、あらためて戻って昼食をとった。市のほぼ中央に在る根室駅は、釧路と根室を結ぶ国鉄(現JR)根室本線(別名:花咲線)の終着駅「東根室」の一つ手前だが”有人駅”としては日本で最も東に位置する

    根室駅舎前にて(左後ろの壁に小さく「ねむろ」の文字が・・)
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    ↓2022年、初冬の夕刻に釧路と根室の中間の落石(おちいし)海岸の”樹木が無く寂しい風景”の中を行く根室本線の車両。写真右方向に進むと根室に至る。左の海は太平洋 (朝日新聞より引用)
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    根室駅は東端に在り、そして根室港からは向うに国後島が見え、最も近いケレムイ岬までは約40キロ
    という地理的条件を背景に・・なんと、我らが根室を訪れたわずか4か月半前に、根室駅や根室港が関係して”ソ連、日本、米国がからんだある事件”が、起きていたのです。その事件とは・・

    1968(昭和43)年4月22日、ベトナム戦争への被派兵を拒否する米兵6人が根室港からいわゆる「レポ船」※で国後島に渡り、そこからソ連のモスクワへ、最終的に中立国スウェーデンに亡命したもの。この亡命ルートは日本側では「根室ルート」と呼んでいた。

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     (↑2019年7月27日発行の朝日新聞より引用)

    この時期には、同じ目的ながら別ルートによる亡命の事例もあり、それらを日本側で支援する2大組織が、当時有名な「べ平連」※と地下組織「ジャテック」(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)であり、この「根室ルート」には双方が関与した。

    前述の米兵6人の内5人は、「べ平連」の支援で空路で釧路まで来てそこからクルマで根室へ向かい、もう一人は「ジャテック」支援で札幌から列車に乗って根室駅まで来てから6人が合流した。

    この種亡命が多発したため、米国政府か米軍かはわからないが、スパイを使い米兵亡命工作実施途中に潜入させていた結果、この年11月には”根室ルートを使った亡命”寸前の米兵1人が釧路で逮捕された。

    ・・というわけで、我らが9月に、ちょうど根室駅前で写真を撮ったりしていた様子も米国スパイが監視していたかも知れなかったのです。・・というのも、根室ルート使用事例の中には”日本人ガイド付きの外国人観光グループ”を装ったケースもあったそうなのです。

    ※「レポ船」とは・・根室には、ソ連による北方領土占拠によって漁場を奪われた漁民たちが多かったが、彼らがソ連側に拿捕されることなく元の漁場での操業を黙認してもらえるように、日本の海上保安庁や自衛隊関連の情報、つまりレポート、略してレポをソ連の国境警備員に渡すために国後島などに渡った船が「レポ船」と呼ばれた。また、情報の代わりにラジオや衣類など金品が使われることもあった。しかし、レポ船は1991年のソ連崩壊の頃に消滅したとされる。

    「ベ平連」とは・・正式名称「ベトナムに平和を!市民連合」で1965(昭和40)年に小説家の小田実(おだまこと:1932~2007)が代表となって数人の知識人らで発足させた”反戦”、”反米”の運動体であったので反戦目的脱走米兵の支援などもしたが、規則や登録名簿などは無かったので、後に自称「ベ平連」の単なる左翼グループなど似非「ベ平連」が多発したので、純粋な反戦主張者たちは脱退していき、1974(昭和49)年に解散。ソ連崩壊後の公文書開示によれば、KGB(ソ連国家保安委員会)は米兵亡命のための支援金を「ベ平連」に渡していたとされる。

    ◎国後島を見ずに悔いが残る!
    根室半島から次に目指す知床半島へ向かう途中の野付半島の先端からは、国後島までの距離は約16キロであるが、そうでなくとも海岸線を走る国道244号線からでも約23キロしかないので、島影ははっきり見えたはずなのに我らはそれを見逃していた。道東地域では「呼び戻そう 北方領土」と書かれた看板を頻繁に目にしていたにもかかわらずであり、後日これに気づいて悔やんだのです。

    (参考)国後島を国道244号線沿い海岸から望む写真(標津町の「北方領土館」のサイトより引用)
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    ◎知床半島の「知床五湖」に行き着いたが・・
    知床半島の根元から先端までの間のちょうど半分くらいの位置の西側海岸近くに在る「知床五湖」は小さな湖が文字通り5個あり、静寂だが比較的明るい感じがする風景だった。しかし我らが訪れた半世紀前には湖周囲の道はあまり整備されていなかったので、すべての湖を巡ることはしなかった。

    知床五湖の一つをバックに。周囲にエゾマツ、トドマツが多い
    siretokogoko

    後年になって気づいたのは、まだヒグマが出没する時期であったことを我らは意識せずに、なんと無防備であったことかということで、今、調べてみたら「知床五湖」を観光地として整備され始めたのは1970年代後半から(=昭和50年ころ~)だそうで、五湖を巡る遊歩道が整備され、ヒグマ対策上、春から夏の終わりまではガイド人を頼まないと歩行不可。しかし遊歩道の一部に沿って、自由に安全に歩けるように、地上2メートルくらい?の高さに柵付きの渡り廊下のような「高架木道」(全て木製)が設けられている。

    ◎狭い道では何度となく「デフ」をこすった? !
    「デフ」は「ディファレンシャルギア」の略称で、これは(詳しい原理は省略しますが)自動車がスムーズに曲がるために左右の車輪の回転を調整するための”歯車を組み合わせた装置”で、その全体をくるむケースが特に”前エンジン・後輪駆動車”や”4輪駆動車”では車体の下側に出っ張ったカタチで左右両輪の中間に見えやすい。(下写真参照)
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    大型トラックの「デフ」(のケース)は後ろをちょっと低い位置から見ると覗き込まなくてもよく見えることがある。ちなみに現在のEV(電気自動車)にはデフがありません。

    ところで、クルマの運転では、「コブ(地面の出っ張り)は乗り越える」 「穴や凹みはまたぐ」という鉄則のようなものがあります。(下図参照)
    kobu-ana

    しかし、道幅が狭い場合は”わだち”がほぼ定位置に出来てしまい、それがどんどん深くなり、前述の鉄則もツカエズニ、デフ(ケース)が地面にツカエル(こする)・・ことになる。(下図参照)

    wadati

    ・・というわけで、知床五湖へ向かう道もまだ整備されておらずに狭かったために・・走行車内での録音には「ゴツッ」という音にすかさず「あっ デフをこすった!」という声が残っていますが、この”デフこすり”はこのクルマ旅では他の場所でも何回かありました。これも半世紀前ゆえのことだったのでしょう。

    ◎「オシンコシンの滝」の名を観光船沈没ニュースで・・
    知床五湖から次に南へ14キロほどの距離のやはり沿岸部にある「オシンコシンの滝」に向かった。「オシンコシン」とはアイヌ語で”川下にエゾマツが群生する所”という意味とのこと。落差は30メートルで北海道の中では大きい滝で、「日本の滝100選」の一つ。

    ↓「オシンコシンの滝」(参考写真:知床斜里町観光協会のサイトより引用)
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    滝を見下ろす場所で
    osinkosin

    ところで、今年2022年4月23日に発生した”知床遊覧船KAZU Ι沈没事故”関連ニュースの中で、(我らにとっては懐かしい)「オシンコシンの滝」の名が登場しました。それは4月29日に「カシュニの滝」(知床五湖より北18キロ)の沖の海底に沈んでいるのが発見され、その後にやや持ち揚げて曳航中の5月24日に、「オシンコシンの滝」の沖合10キロのところで落下させてまた海底に沈んだので、それを再度引き揚げする作業が5月26日に行われたからで、その様子は「オシンコシンの滝」横の駐車場から観察できたそうです。

    ↓知床遊覧船KAZU Ι(「知床遊覧船」HPに掲載されていた姿)
    kazu-wan2

    合掌
    ・・・・・・・・・・・・・
    今回はここまで。次回は道内を西に進みます。
    ・・・・・・・・・・・・・

    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを4人グループのクルマ旅。前回は函館から北上して洞爺湖、支笏湖までのお話。(前回は・・http://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/16698682.html)今回はそれより東に向かって進むところからです。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)
    hkd-map
    ※前回、述べ忘れましたが・・この北海道クルマ旅にはカメラの他にカセットテープレコーダーと8ミリフィルムムービーカメラも携行していたので、それらによる記録も少し役立てています。(一方でメモや日記はつけていなかったのですが・・)
    8mm

    ◎むかわ町には恐竜が眠っていたとは知らずに・・
    支笏湖から南下して沿岸部を東に向かって計50キロほど走行したところに在る鵡川という町(現、むかわ町)は観光地でもなく、単に通過地点だったにもかかわらず我らは「むかわ」という名前を記憶しているのですが、その理由は後述するとして・・

    今や、「むかわ」と聞けば恐竜好きの方なら即反応するでしょう。それは、むかわ町で白亜紀後期である7200万年前の地層から恐竜の化石の一部断片が2013年に発見されて「むかわ竜」と呼ばれ注目され始め、その後、体長8m超となる体形の約8割の部位が発掘され、2019(令和元年)に新種恐竜と認定されて「カムイサウルス ジャポニクス」と命名されたから。

    ↓「カムイサウルス ジャポニクス」(むかわ竜)の化石(画像は朝日新聞2019年6月16日発行記事より引用)
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    我らが鵡川町を通過した時点ではこの恐竜が近くで眠っていたことなど知る由もなかったのですが、少しばかり化石や岩石・鉱物収集が趣味だった私にとっても「むかわ町」は今や大いに興味ある地なのです。

    さて、我らが「むかわ」の名を記憶することになった理由は・・走行中に道路工事による片側通行規制区間に行き当たったのでいったん停車して、係員からの通行OKの指示を待つのですが、長い時間待たされた。その間の様子の録音が残っていて、係員の中年女性に話かけてみたら、「時にゃ『いつまで待たせんだよ!バカヤロー』って怒鳴られんだよ・・」とのぼやきの声があり、これは当時、通行制限区間の両端に配置された係員同士の合図や連絡には、今のようなトランシーバ使用も無くて時間がかかっていたからでもありましょう。
    そんな状況の中、待っている間の車内の仲間同士の会話録音には「いったい、ここはどこなんだ?」という問いに「むかわダヨ」と答えるやりとりがしっかり残っているからです。

    「鵡川町」(むかわちょう)は、その後2006(平成18)年に穂別町(ほべつちょう)と合併して現在「むかわ町」となったもの。ついでながら、ここは本物の天然の柳葉魚(シシャモ)特産の町でもあることは最近知りました。

    ◎日勝峠(にっしょうとうげ)は、濃い霧で・・
    次には内陸に向かって進み、日高町から日高山脈の北側山麓を通って十勝平野に抜ける途中の日勝峠では見晴らし良いとされていたので雄大な十勝平野を展望できると期待していたが、その日は濃い霧のために願いかなわずに残念でした。天気が良ければ下の参考写真のような景色が望めるはずだった。

    ↓(参考)日勝峠展望台から望む広大な十勝平野 
    (kukiさん撮影写真を引用)
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    ↓濃霧で5メートル先さえ見えず、左端の私は思わず天を仰ぐ。
      停車中も、前からや後ろから来るクルマに注意をうながすためにヘッドライト(同時に自動的に後ろの赤いランプも)を点灯させている。
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    ◎然別湖(しかりべつこ)→オンネトー→阿寒湖
    次に向かった然別湖は海抜810mに在って北海道で最も高い場所にある湖。ここも我ら以外は人が見当たらず寂しかった。

    ↓然別湖畔にて
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    次は雌阿寒岳の麓に在る「オンネトー」で、その名はアイヌ語そのままで「年老いた沼」又は「大きな沼」という意味だそうだが”沼ではなく湖”で周囲2.5kmと小さいが美しい。オンネトー以外でも北海道の中の小さな湖には”シカリベツ→然別”のような漢字の当て字をしていない例がみられます。

    ↓オンネトー   (画像は「あしょろ観光協会」のサイトより引用)
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    次は阿寒湖。ここは特別天然記念物のマリモで有名だけに、土産物売店、飲食店、ホテル、遊覧船があり、観光客もちらほらいた。まともなマリモを見るためには、時間もかかるちょっと面倒な行動が必要なのであきらめたが、ある売店の水槽にマリモを見た。しかしそれは阿寒湖のものだったのだろうか? 日本の他地域でも小さいながらマリモはあると言うから、それだったのか?

    ↓阿寒湖 (「釧路・阿寒湖観光公式サイト」より引用)
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    ↓阿寒湖のマリモは直径2~20センチ超
    (「ちーず」さん提示写真を引用)
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    ◎硫黄山(いおうやま)の噴気はすさまじい!
    屈斜路湖(くっしゃろこ)と摩周湖の間に位置する硫黄山は標高512mと低いが活火山であり、中腹にある沢山の噴気孔からは硫黄分を含んだ蒸気が「ゴー」というすさまじい音とともに噴き出している。我らはその音も録音しているので、今聴いてもその凄さが伝わってくる。同時に、メンバーの一人が噴気孔に近づきすぎて「ゴホゴホッ」とむせる声や「この凄さは箱根の大涌谷・小涌谷の比ではまったくありません!」とレポーター口調の声も入っています。
    この山はアイヌ語では「アトサヌプリ」と言って「裸の山」という意味だそうで、硫黄分を含む大量の噴気によって周囲に草木が生えない様子を表すものでしょう。
    当然のように硫黄の産出も多かったので明治10年から昭和38年まで硫黄鉱山も操業していたのだそうです。

    ↓硫黄山の噴気地帯に近づく我ら
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    ↓噴気に包まれる中、手前の彼は肩からカセットレコーダを下げて左手にマイクをもって録音中
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    ◎摩周湖の夜に花火大会を観た
    霧が出ることが多いという摩周湖もなんとか眺められた後で、いったん硫黄山近くの川湯温泉のYH兼業の旅館へ行き、そこで夕食を済ませてから再び夜の摩周湖展望台へ着いたのが午後8時半ころ。昼間よりも人が多く集まってきて、打ち上げ花火も始まり、我らは夜店で買った焼きトウモロコシを食べながら見物したのでした。ところで北海道ではトウモロコシのことを「トウキビ」と言っています。

    ↓摩周湖
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    ◎「花咲ガニ」1キログラムがなんと150円なり!
    摩周湖から南下して根室半島へ。当初の予定では東端の納沙布岬までいくつもりだったが、時間の関係で断念して根室の少し南の花咲という町の漁港に行き、名物という「花咲ガニ」を食べることに。

    「花咲ガニ」は文字通り花咲近辺の漁場で獲れるもので、タラバガニと同じでザリガニの仲間だがタラバよりカニミソが多く旨いとされる。標準的な本体は縦横各約15センチ 。脚はハサミ(爪)の付いている腕も含めると計8本(タラバガニも同じ)で太く短い。(ズワイガニ、ケガニは脚・腕計10本)

    ↓花咲ガニ(生では暗い紫色だが茹でると赤色)
    (「オホーツクの風」社の通販サイトから引用)
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    そこでは花咲ガニが直径が60センチくらいの大釜で大量に茹でられ、そこから取り出されたものが販売用の台に並べられていた。
    価格は、やや小ぶりの3杯※で1キロなんと150円。我らはそれを6杯2キロ300円で購入。皆で分けてクルマの中で食べたが、それは新鮮でおいしかった。

    ちなみに現在の花咲ガニ価格はどうなっているのかをネット通販サイトで調べてみたら・・大きさや見映えによって幅があり、大きくて立派な1杯約1キログラムあるものは1万2千円の例もありますが、比較しやすい例を探してみたら有りました! 3杯1キロで3999円。これでも我らが昔食べたモノと単純比較すると約27倍というとんでもない状態。(但し、これらは「送料無料」とうたっているものの、その分を商品価格に潜り込ませているでしょうが・・)

    ※カニの数え方は、生きていれば「匹」だが死んだものは通常「杯」。しかし地方や店によっては「枚」や「尾」がつかわれる。ところが最近のネット通販では「匹」が多く使われています。

    ↓茹で上がったばかりの花咲ガニ(赤ん坊を背負ったままの女性の作業姿も印象的)
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    ↓黙々としてムシャムシャと食べた
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    今回はここまで。次回は知床半島巡りなど「北海道 半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事 !(3)」です
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    約半世紀前のちょうど今頃、夏の終わりに大学生仲間4人で北海道をクルマ(←私の父から借用)で巡った際の珍しい体験、今では起きないようなクルマトラブルなどをご紹介してみます。

    この旅の計画の言い出しっぺは4人の内の一人の「トラック大好き人間」でした。彼は早くから大型免許を取得して、春・夏・冬の長い休みには、学友でもう一人の
    「トラック大好き人間」と共に日本列島の北から南までトラック輸送のアルバイトをしていたので、他のメンバー3人は彼の長距離運転のノウハウを頼りに安心して参加したという次第。

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    期間:1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間
       (9月15日まで夏休みだったので実行できた)

    行程:東京→北海道巡行(詳細別図)→(千葉県経由) →東京:4200km

    全費用:一人当たり2万円弱(ガソリン代、フェリー代、宿泊費、食費などすべて込み)

    使用車種:トヨペット・コロナ(1500cc)

    ↓東京→北海道内→東京の経路概略図
    map2

    ◎一人2万円以内で全費用が済んだワケ
    いくつかの経費節減策を講じたことと、勿論、半世紀前なので物価が安かったこともあります。

    1) ユースホステル(YH)を利用した
    全員が事前にユースホステル会員登録して”にわか会員”となって、北海道内の施設を低料金で利用した。当時は1泊2食付きで1100円前後(くらいだったか?)、素泊まり平均800円くらいだったので、素泊まりもたまに利用した。(非会員でも少し高い「ビジター料金」で利用はできます)

    ↓ 現在の北海道のYHの一例(美瑛)
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    ※「ユースホステル(略称YH)」:ドイツ発祥の”青少年少女に安全で安価な宿泊場所を提供する主旨に基づいた宿泊施設”であるが、現在では賛同する約80の国と地域でもYH施設が多数あり、会員は世界共通でこれらを利用できる。日本のYH数はピークだった1970年代前半の約600から今は約200。利用者数は約340万人から約38万人へと激減しているが、施設のリニューアルや細則の廃止などで状況改善がはかられているようです。(我々が利用した当時は基本的に洗面道具とパジャマ(寝間着)持参が条件だったが、今はどうでしょうか?)

    2) 携行食の活用
    保存のきくフランスパン(バゲット)と魚肉ソーセージを大量にクルマにつんで、移動中に飲食店や食料品店が見当たらない場合に備え、実際にこれを食べてしのいだことも多かったので、結果としても食費を低く抑えられた。
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    3) ガソリンが安かった
    当時は1リッター38円前後。(ちなみにハイオクは53円前後) つまり単純計算で現在の四分の一。

    4) すべて一般道路を走った
    通行料が発生する道路は利用しなかった。東北自動車道はまだ無かったが、あったとしても利用しなかった。

    ※西側の高速道路:東京~名古屋はこの年1968年4月に開通。名古屋~京都~大阪~兵庫県・西宮は1955=昭和38年に開通済みだった。

    5) 航路が短い「大間~函館」フェリーを利用
    大間(青森県の下北半島の北端)と函館を結ぶフェリーは、青森と函館を結ぶいわゆる「青函フェリー」の航行距離の約三分の一以下なので当然料金は安く(参考:現在2022年時点での車長6m以下の小型車運搬料金のこの2航路での差は約8800円)、青森市より北の大間までの余分走行分のガソリン代を足しても格段に経済的。

    大間から函館へ向かうフェリー船上で
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    フェリー内では前後を大型トラックに挟まれた位置に・・
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    ちなみに現在は、大間沖でとれる天然本まぐろは有名になっていますが、当時は“大間のマグロ”という言葉は聞いたことはなかったのは、それもそのはずで、2000(平成12)年のNHKの朝ドラで”大間のまぐろ漁師の娘が主人公”の「私の青空」が放映されてからやっと全国に知られるようになったので、それを契機に地元も知名度向上に注力して2007(平成19)年に「大間まぐろ」として商標登録したとのこと。

    ◎混浴ができるユースホステルも多かった
    当時は温泉ホテル・旅館がユースホステルを兼業していることも多く、旅行途中でそれに気づいた我々は以降ほとんどをこの”温泉付きユースホステル?”を利用した。

    しかも多くの温泉が実質的には”混浴”で、浴場の入り口は”男”、”女”と印した暖簾がかかっていても、中に入れば湯が張られている浴槽部は一つだけだったり、一応別々に浴槽部があっても男女を仕切る壁などが無い形式で、これは楽し?かった。

    (↓本文と関係ありません:層雲峡観光ホテルのHPより「水着着用混浴風呂」)
    konyoku

    現在、北海道には100軒弱のYHがあるようですが、今でもYHを兼業する温泉ホテルや旅館はあるのでしょうか? 今、チョイと調べてみたらYH専業の施設には「源泉かけ流し温泉付き」のところがあります。

    実は、
    ユースホステルを兼業する温泉ホテル・旅館を利用すると、もう一つ利点があって、(現在もあるかは知りませんが)当時の正式なYHでは管理人の方は「ペアレント」と呼ばれ、宿泊利用者は夕食後にペアレント主催のミーティングに参加して懇親をはかる・・という定番スタイルがあったのですが、それが無いので気楽だったこと。我々も道内1泊目だけは普通のYHだったのでこの定番スタイルに従がったが、それ以降は無しで済んだのです。

    ◎一日2回のパンクには困った!・・とにかく道路に釘が多かった
    当時の北海道では未舗装道路も多く、砂利または泥の道を走るのですが、そこには落ちている釘が多いとみえて、北海道内だけで約2千数百キロ走った中で計3回も釘でパンクした。

    その内の2回は同じ日に起こったので、1回目でスペアタイヤを使って、それで走行中にまた別のタイヤが辺鄙な所でパンクしたから、さあ大変! もうスペアは無いので仕方なくパンクしたまま整備工場が在りそうな近くの町まで何とか走り、2本分のパンク修理をしてもらった。

    現在のように舗装道路ばかりを10万キロ走行してもパンクゼロも珍しくもないことからすると隔世の感ありです。しかし、現在でも道路への落とし物が無いわけではなく、都会や郊外などの舗装道路を歩いていて気付くのは釘よりもネジの類(木ネジ、タッピングネジ、ボルトなど)が圧倒的に多い。私はこれらを見つけたら即座に拾って適宜処分をします。これも世の為、人の為 !(笑)

    実は往路で下北半島の大間の近くでもタイヤが釘をひろったらしく、フェリーで函館に上陸した途端、パンクに気が付いてスペアタイヤに交換したので、全行程でパンクは4回でした。

    函館港に着くなりパンクタイヤ交換
    h-taiyakoukan
    ↑写真でお分かりのようにパンクしたのは後輪で、これは「釘によるパンクで多いのは、"道に寝ている釘を前輪が起こして"釘の尖った先っぽが上を向いたタイミングで後輪が踏んでしまって起きるケース」ということの実例でしょう。

    ◎一回だけ粗悪ガソリンを入れられた
    函館から約80キロ北上した地に八雲町があるが、そこのガソリンスタンドで入れてもらったガソリンに何か混ぜ物が入っているか、あるいは水が混じっていたか、それが故意なのか、そうでなかったのかは分からなかったが、走り出してすぐにエンジンがノッキング(通常のギヤ位置ではエンジンがチカラ不足でコトコトというような苦しそうな音をだす)を起こしやすくなったので「あのスタンドのガソリンが悪い」と気づいたが、先を急ぐので我慢して走行した。そうして次にガソリン注油した後は案の定、ノッキングは解消したのでした。
    このクルマ旅では9回だったかのガソリン注油をした中で、ガソリン不具合はこの1回とはいえ、本来ならあってはならないこと。ところが今年2022年にもなってのつい最近に、某大手石油会社のガソリンに水が混入していて問題になっていましたが・・

    さて、ここからは北海道内の訪れた地順にレポートします。
    hkd-map
    先述のように、函館上陸と同時に第1回目のパンク修理、北上途中の八雲町で粗悪ガソリン給油、次に向かったのが・・

    ◎洞爺湖と支笏湖・・不気味な中で泳ぐ
    二つともカルデラ湖で、洞爺湖は高い場所から見下ろしただけでしたが、ここは2008年7月に「洞爺湖サミット」が開かれて当時の福田首相、ブッシュ大統領、メルケル首相らが、やはり見下ろしていました。

    支笏湖では水辺にまで行っただけでなく、皆で泳いだのですが、なにしろ周りに人影は全く無く、建物の類も湖面周囲全体を見渡しても見えない、当然静寂そのもの、おまけに天候は曇り。そうなるとなんだか薄気味悪かった。

    支笏湖で泳いだが・・
    sikotuko

    その後に道内の湖、大きな沼などを巡ってみても、支笏湖の場合と同様な感じを受けた。それは我々が本州の大きな湖などで湖畔に人家、別荘やホテルが点在、あるいは密集しているような光景、場所によっては遊覧船まで見ることに慣れてしまっている故の心情。自然保護の観点からも気になりますが、その後の北海道ではどうなっているのでしょうか?

    もう一つ、後で知ったのは支笏湖は日本最北の不凍湖で水の透明度はトップクラス(昔は日本一の時期あり、現在4位というデータがある)だが、最深部が263mもあって日本で二番目に深く(一番は田沢湖)。そのためか、溺れる人、自殺者も多く、沈んだ者が浮かび上がらないこともあるそうで、俗に「死骨湖」という表現も多く、これも気味悪い

    とは言うものの、天気が良いと湖水がいわゆる「支笏湖ブルー」となってキレイで明るい感じになるようで、そうなれば好印象の「神秘の湖」と言えるのでしょう。
    現在の「支笏湖ブルー」の風景(支笏湖運営協議会のHPより)
    sikotuko-blue
    ・・・・・・・・・・・・
    長くなるので、今回はここまでにします。次回「北海道へ半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事 !(2)」につづく!
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    先日、千葉県で”アニサキス”による腹痛をおこした人が出たというローカルニュースを見たことで思い出したのは・・

    ◎アニサキスをスーパーで発見!
    昨年、私が地元の食品スーパーで買い物中、魚介類売り場で冷蔵ショーケースをのぞいていたら、発泡スチロールのトレイに入れられて透明ラップにくるまれた”魚の切り身”などが並ぶ中に、赤味がかった生鮭だったか?の表面をゆっくり移動している細く白い生き物(約4センチ?)を見つけた。すぐにこれはアニサキスに違いないと判断して、このまま売られてはマズイことになると思ったので、”周囲の買い物客には気づかれないよう騒がずに”近くの店員を探して確認させたら、あわててバックヤードの”魚をさばく係”を呼び出したので担当者らしき人が飛んで来てすぐにそれを持って引っ込んだ。

    後から思うに、あれは赤味の色の魚だったから白いアニサキスが容易に見つけられたのであり、これが白身だったらそうは行かなかったかも知れない。

    ↓生鮭切り身にいるアニサキス(大きさが分かりやすい「ねもぱい」さんのツイッター動画より引用)
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    ↑透明体のように見えるが、普通は白色不透明

    ◎アニサキスとは?・・
    アニサキスは”線虫(センチュウ)(線形動物とも言う)”の一種で、太さ0.5~1ミリ、長さ2~3センチの白いヒモのようなカタチの生き物。

    ただし一般にアニサキスと称して我々が見る姿は” アニサキスの幼虫”であり、成虫はクジラやイルカなどの体内にいる。(しかし私は成虫の姿を知らないが・・)

    アニサキスは魚の内蔵に多くいて、そこから魚の身の部分や表面の皮にまで進出することがあるもの。

    アニサキスは多くの種類の魚に存在することがあるが、ポピュラーな魚では・・
    サバが特に多く、次に多いのはサンマ、スルメイカ。(以上3種は、私の知人である東京・六本木の寿司店の職人さんからの情報) その他ではアジ、サケ、カツオ、イワシ、ヒラメ、イカなど。

    アニサキスは酢や塩では死なないが、煮るか又は冷凍(マイナス20度以下で24時間以上)した魚では死んでしまう。このことから、回転寿司ではネタの殆どが冷凍魚介類なのでほぼ安心。

    また養殖魚では”冷凍した餌”、または”魚肉を加熱圧縮したペレット”を餌として育ったものはリスクは少ない。ただし養殖魚でも生魚を餌にしている場合があるので注意が必要。

    ◎アニサキスによって現れる症状
    アニサキスが寄生した魚を食べた場合、だいたい8時間以内に胃痛、腹痛、嘔吐、まれにじんましんを発症する。これを「アニサキス食中毒」、「アニサキス中毒」、「アニサキス症」などと呼んでいる。

    治療には通常は鉗子(かんし)付き内視鏡でアニサキスを視ながらつまみ出して除去する。

    ◎図解:アニサキスの一生とアニサキス食中毒
    クリックで拡大↓
    anikisas-cycle
    東京都世田谷区のHPより引用

    ◎アニサキス食中毒の誤解
    アニサキスが胃壁や腸壁に噛みつくから痛むと思いがちだが、アニサキスが胃などの粘膜に頭を突っ込むことはあっても、歯が無いので不可能。ではなぜ痛むのか・・

    それはアニサキスの分泌物によって胃壁や腸壁がアレルギー反応を起こす結果と言われる。

    アニサキスによる症状は二大別され・・
    一つは「緩和型」症状で、その人にとって最初のアニサキス侵入では胃や腸に軽い違和感があるか、または自覚症状が無いもの。 

    もう一つは「劇症型」症状で、これは”一度アニサキス侵入経験”がある人が再び侵入されると今度は激痛を生じるもので、それゆえにこれはアレルギー反応とされる。 これは何やら”スズメバチに二度目に刺されると重篤な状況になり、時には死にいたることもあるほど危険”というケースに似ている? ・・ということでアニサキス食中毒を発症した人は、それ以前に一度アニサキス侵入を経験していることになる。

    ◎「アニサキス」の名を広めた森繁久彌の中毒事件
    1987(昭和62)年に、俳優の故・森繁久彌が名古屋公演中に夜食として”鯖の押し寿司(ばってら)”を食べた数時間後に腹部激痛を発症したので開腹手術(当時は内視鏡手術が無かった?)をされたところ、原因とみられる寄生虫が発見され、それが「アニサキス」という名であることがマスコミを通して広く知れ渡ることとなった。これは私もよく覚えているほど有名な話。

    ここで他の実例を少々・・
    先日(2022年7月下旬)のこと、千葉県船橋市の寿司店(東京築地に本店があり、その支店)で購入した”寿司盛り合わせ”を自宅で食べた男性が5時間後に腹痛とじんましんの症状が出て、検査の結果、胃の中にアニサキスを発見、除去して回復したが、保健所は「アニサキス中毒」と断定して、同店での冷凍食材を除く生食用魚介類の提供を一日間停止処分とした。

    また今年6月には元AKBの一員でタレントの板野友美が、寿司を食べた翌朝に胃のあたりが激痛なので病院へ行き、十二指腸潰瘍という診断で処方された薬を飲んでもいっこうに治らないので、胃カメラ検査してもらったところアニサキス一匹が見つかり、除去して治ったが、「出産の時より痛かった」そうだ。

    その他、芸能人では南海キャンディーズの山里亮太や渡辺直美らも経験者。

    現在の日本では毎年400人弱のアニサキス食中毒者が出ているが、前述例からすると特に寿司には要注意!

    ◎”がん”発見に役立つのも”線虫”
    アニサキスと同じ線虫の仲間でも”がん”の有無の判断に役立つという”いい仕事をする”線虫がいる。

    それが体長約1ミリの「C エレガンス」と名付けられた線虫で、”何らかのがんを持っている人の尿の臭いには寄ってくる、逆に健常者の尿からは逃げる”という行動をする。

    それは犬を上回る約1200の嗅覚受容体を有するゆえの特性である。犬の嗅覚は人間の3千~1万倍とされるので、それを上回るこの線虫の嗅覚たるや、恐ろしいほど。ゆえにいわゆる”がんのステージ”1は勿論、ステージ0も感知できる。

    ↓これが体長約1ミリの線虫「C エレガンス」
    c-elegansce
    この特殊な線虫の特性を2013年に発見して研究改良を重ね、その成果をがんの超早期発見に役立てようと (株)HIROTSUバイオサイエンスを起業したのが、社長の広津崇亮 氏。現在この会社は国内・国外で22の特許を取得し、”がんの一次スクリーニング検査”用と位置付けた商品として「N-NOSE検査キット」(税込13800円~)を出している。使い方など詳細はこの会社のホームページご覧あれ。

    但し、今のところ、このキットで分かるのは”何らかのがんにかかっているか否か”であり、その的中率は86.3%.。がんが感知されても、そのがんの種類は特定できないが、現在”線虫が反応するのは”胃がん、肺がん、前立腺がんなど15種類あることが分かっている。偶然にもちょうど今(2022年8月)、「N-NOSE検査キット」のテレビCMが流れている。

    ※広津社長の九州大学学生時代の線虫研究から始まり、その後起業しての活躍とその志については・・
    https://rikeinavi.com/guide/careerguide_topint_21s/

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    余談 : 私は「アニサキス」を「アニキサス」と言い間違えたり、書き間違えたりすることが多いので、自分の中では・・「兄貴 刺す(あにき さす)」のはダメ。「(兄をたてて)「兄 先っす(あに さきす)」・・とするのが間違い防止策。(笑)
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    このブログ発信時点では、ウクライナの港からの農作物輸出が再開されるかどうか怪しい状況で、この先どうなるのか? 船舶による輸送が滞って倉庫には小麦だけでなくヒマワリの種と油までも大量に滞留しているので世界的な食糧危機を招いているが、一方、航空機による物資輸送にも支障がでているはず。

    私は、チェリノブイリ原発と、ただ1機しか存在しない世界最大の輸送機「アントノフAn225」がウクライナにあったとは知りませんでしたが、報道写真で”ロシア軍によって破壊されたアントノフ機の無残な姿“を見てショックを受けた。

    破壊されたアントノフAn225(朝日新聞デジタルより引用)
    broken225

    アントノフAn225には一回り小さいアントノフAn124が存在することは私も知っていたので、225破壊のニュースばかりの中、124は大丈夫だったのか心配したが、これも残念ながら225近くに駐機していたので一部損壊していることもその後に知って二重にショック! しかしウクライナにはAn124が7機もあり、無傷のものもあるそうで少し安心した。

    この2機種はその大きさゆえに”チャーターされて”緊急かつ大量または大型の物資”輸送に世界的に大活躍していたので、これから困る企業や地域、国が出てくるのではないかと気になるところ。 この2機種の概要とその活躍とは・・

    ◎世界最大輸送機「アントノフAn225(愛称:ムリヤ/ムリーヤ)」
    全長84m/全幅88.7m/最大積載量250t/最大離陸重量640t/エンジン6基
    Antonov225all
    An225(Wikipediaより)
    車輪の数がすごいAn225!(Automotive media ResponseのHPより)
    antonov20rin

    An225の活躍例
    ・2008年:サモア沖地震被災地への救援物資輸送
    ・2010年:ハイチ大地震復興支援物資等輸送(日本の防衛省がチャーター)
    ・2011年:東日本大震災救援物資150トンの日本向け輸送(フランス政府がチャーター)
    ・2020年:中国・天津からの医療品をカナダへ輸送

    ◎大型輸送機「アントノフAn124(愛称:ルスラン/ルスラーン)
    全長68.96m/全幅78.3m/最大積載量150t/最大離陸重量405t/エンジン4基 
    (エンジン1基は4トン、主翼の中のタンクには燃料のケロシン25万リットル、荷室床はチタン製、30トンクレーン内蔵)

    An124(以下写真4枚はディスカバリーチャンネルテレビより引用)
    antonof2 (2)

    An124の活躍例
    ・1999年:広島電鉄5000系車両輸送
    ・2003年:自衛隊イラク派遣関連物資輸送
    ・2010年:自衛隊海外派遣に伴う重機、ヘリコプター(チヌーク)輸送
    (防衛省は自衛隊海外派遣に伴うチャーターをその他多数回行っている。) 
    ・2011年:東日本大震災時の福島第一原発事故処理用の注水ポンプ車をドイツから輸送。
    ・2014年~:ボーイング787型機の一部製造担当の日本工場への機材や部品の輸送に頻繁に飛来。 (中部国際空港着)
    ・NASAや三菱電機の人工衛星の運搬に多用されている。
    ・(発生年不詳)世界最大の風力発電機メーカーであるヴェスタス社(本社:米国コロラド州デンバー)が直径67メートルの風車の発電機を受注したが、そのブレード(羽根)(1枚30数メートル)の”成型用の型”が中国の上海にあったものをデンバーに戻す必要が生じ、しかも納期の関係で短時間に実行するためにAn124をチャーター。その結果チャーター発注から72時間で到着(飛行距離約1万キロ)。もしこれが船便なら1ケ月半から2ケ月かかるもの。
    ブレード成型用の型の輸送に使われたAn124
    antonof1 (2)

    上海から米国デンバーへの途中An124の機中から見えた富士山
    antonof-mt-fuji1 (3)

    デンバーに到着した”風力発電機ブレード成型用型”(長さ30数メートル)をAn124後部から引き出す作業(この機種では積載物の出し入れは機体頭部からもできる)
    antonof-windgnrtor (2)

    ◎An225、An124参考
    ・An225は旧ソ連において”ソ連版スペースシャトル「ブラン」”を運搬するためにAn124(1982年初飛行)をベースにして大型化し、ブランを背負うかたちになるようにアントノフ設計局が設計して作られ、1988年に一度だけ飛行したが、ほどなくソ連崩壊により、その役目は終わった。

    ブランを背負って飛ぶAn225(米国ではボーイング747がスペースシャトルを背負って飛行)
      (vasily koba wikimediaより引用)
    buran-0n-255

    ・ソ連崩壊後はAn225や124をウクライナの「O.K.アントノフ記念航空科学技術複合体」が所有と開発を行っていて、子会社の「アントノフ航空」がAn124と225を大型積載物輸送用にチャーター機とするビジネスを展開している。

    ・An124はソ連時代からの生産累計は56機で現存は52機。内26機はロシアが軍用機として使用中。残り26機が民間用で、7機がウクライナのアントノフ航空所有。12機をロシアのヴォルガ・ドニエプル航空が所有。このヴォルガ・ドニエプル航空のAn124は2010年の自衛隊海外派遣に伴う重機、ヘリコプター輸送時やボーイング社の787日本製造工場への部品等輸送などにチャーターされている。

    ロシアによって破壊されたAn255は修復不可能だが、実は別に同型のもう1機が70%まで製造途中だったのでこれを完成させるとウクライナ政府が発表している。

    ・超大型機のため対応空港が限られるが、日本では成田、仙台、中部(セントレア)などの空港、米軍横田基地にも飛来している。中部国際空港は途中給油目的の場合も多い。米軍もチャーターすることが多くて横田にも多い。

    ◎世界の大型輸送機比較表 (Wikipediaより)
    An124と225が登場するまでは米国のロッキード(現、ロッキード・マーティン)社のC5B(愛称:ギャラクシー)が世界最大輸送機だった。
    giant-plane
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    ロシアによるウクライナ攻撃が早急に停止されて、アントノフ航空は勿論、今は利用が避けられているだろうロシアのヴォルガ・ドニエプル航空も加わって再び世界の重要な物資輸送のためにAn225と124が飛び回る日が待たれる。
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    近年、なにかと「持続可能性(サステナブル)」が重視される中で、かつて日常的によく使われていた素材が主に石油由来のものに置き換わってきたものの、持続可能性があるゆえに再び復活して採用されることが増えてきた。その例として”私的に注目するもの”を少しとりあげてみた。

    ◎「セロハン」再登場
    つい最近のこと、ある集会で出されたお菓子の中に”ひとくちチョコレート”あり、手にとってみたら透明な包み紙のなんとなく指先にしっとりと馴染むような懐かしい感覚は・・もしかしてセロハンか?と思ってよく見ると、透明な中に一部文字印刷で「個包装紙:セロハン」とある。「やはり」と思うと同時に、このセロハンの触感を知らない若い人たちは多いだろうとも思えた。
    choco1 (2)
    包み紙をのばすと「個包装紙:セロハン」と印刷あり
    IMG_20220712_0001 (2)

    セロハンの製造工程は・・木材→パルプを粉砕してセルロース→水酸化ナトリウム、二硫化炭素を加えてビスコースになる→スリットを通して薄い膜→硫酸で中和→セルロースに戻る=透明なセロハン紙・・となる。

    ※セルロースは植物の細胞壁や植物繊維の主成分であり、全ての植物の1/3の量を占めることになり、これは地球上でもっとも多く存在する炭水化物。

    ※ビスコースをスリットではなく、細い穴から繊維状にとりだしたものが「レーヨン」(別称:ビスコースレーヨン)

    セロハンの特長と用途
    ・透明、光沢。
    ・非帯電性でゴミや埃が付かない、細菌通さないなど衛生的→食品包装材料
    ・飴などを包んで両端をねじったものが勝手にほどけない。
    ・紙なので古紙リサイクルできる。
    ・土やコンポスト処理では水と有機物に分解される。
    ・燃焼時の発熱量はプラスチックより少なく、有害ガス出ない。
    ・袋などにした場合、端から裂けやすく開封しやすい(場合によっては弱点にもなるが・・)

    セロハンの弱点
    ・吸水すると軟化してフニャフニャになる
    ・乾燥しすぎると脆く、破れやすい。
    ・熱で反る。

    ※弱点対策品として「防湿セロハン」があるが、これは普通のセロハンの表面にポリ塩化ビニリデンを塗布したもので、こうなると純植物性ではなくなる。

    このように、セロハンは、適正に管理された木材供給源からなら持続的に得られる原料で作られるモノであり、その他の地球にやさしい長所も活かし、弱点を考慮しながら再び採用すべきものだろう。

    ◎「カポック」は”エコ重視時代”に再注目で登場?!
    観葉植物として普及しているカポックですが、日本にはいつ頃から存在しているのだろうか?
    kapok-real (3)

    私がカポックという植物を知ったのは1960年代前期(昭和30年代後半)に、「カポック・コーン」採用のスピーカーといううたい文句でフォスター電機(株)(当時のブランド名は「FOSTER」、現在は「FOSTEX」※)から「FE-201」などの品番の商品の広告が電気雑誌に頻繁に掲載されていたからで、ただし当時はカポックがどういう姿をしているかなど知らなかった。

    コーン部(振動板)にカポック採用のFOSTER FE-201 20センチ口径ダブルコーン フルレンジスピーカー
    foster-fe-201
    話は少しそれるが、フォスター電機という会社は技術力が優れ、ソニー、ヤマハ、ゼンハイザーなど多数の大メーカーのスピーカーを製造している(いわゆるOEM)し、全世界の自動車の車載スピーカーの10パーセントは同社製。それゆえに早くからスピーカーのコーンの材料の研究開発にも取り組んだのでカポックも60年近く前には採用していたわけで、現在は例のケナフも当然のように使用しているのだそうだ。

    ところで、以前に紹介したイタリアのソナス・ファーベル社の製造するスピーカーのコーンの一部には”ケナフが使われている”と紹介しましたが、同時にカポックも使われているとのこと。
    speaker (2)

    さて、カポックのいかなる部分を使っているのか・・それは大木になってできる”長さ20センチくらいの紡錘形の実の中の種のまわりに綿のように着く繊維”。・・ということは、木を伐採せずに実だけを使うのでサステナブル・・というところが素晴らしい!
    kapok1

    kapok2

    kapok3

    最近、カポックを積極的に活用する会社が注目されている。それが「KAPOK JAPAN(株)」(社長:深井喜翔)。
    同社の活動趣旨は・・「生産者、消費者、地球環境、全てに無理のない形を模索しながらサステナブルで機能的な素材を世界中に届ける」 (上の3枚のカポック写真は同社公式サイトから引用)
    https://kapok-japan.com/

    従来、カポックの繊維は短くて衣料用の糸に向いていなかった弱点を、旭化成との共同開発で解決して、シートやコートの製造をしていて、順次商品陣容を増やす計画。

    ◎復活して欲しいモノ(1)経木(きょうぎ)
    経木とは木材を薄く削った板で、元は経典を写すのに高価な紙の代わりに使われたのでこの名が付いた。厚みは1ミリ~0.05ミリくらいで、厚いものは駅弁などの折箱などに使われ、薄いものは昔は食料品店などで品物を包んで客に渡されたりした。材質は杉、檜、赤松などが使われた。

    経木(一例:赤松材15×51センチ 100枚3618円)(ヤフーショッピングサイトより引用)
    kyougi-fjpg
    厚手の経木使用の”わっぱ”(128×50ミリ 10個1990円税別)(モノタロウサイトより引用)
    kyougi-wappa
    経木が食品に使われたのには訳があり、殺菌力、抗菌性、吸水性、保湿性があるから。そして廃棄しても土に戻ったり、バイオマスにも使える。もちろん石油由来でもない・・ということで近年再登場の動きあり。

    私が個人的に切望するのは、”経木に包んだ納豆”であり、理由は”納豆と経木の香りが絶妙に合うから”で、現在のような無臭の発泡スチロール容器に入ったものはもちろん、昔のように”わらずと”に包まれて”わら”の匂いが勝ってしまっているのもダメ。発酵食品の権威である小泉武夫氏も”経木に包んだ納豆は味がワンランクアップする”と言われている。

    私が子供の頃は、毎朝に納豆売りの少年が「ナアットナットーナットー」という発声で路地をまわっていた。
    その納豆は一辺が10センチくらいの正三角形になるように折りたたんだ経木の中にくるまれていた。量としては100グラムぐらい? いや当時はまだ尺貫法時代だから30匁(112.5グラム)だったかも知れない。

    その香りからすると経木は杉ではなかったが、檜なのか赤松だったのかわからない。しかし納豆には赤松材が最適らしいが、赤松は松茸のモトだから悩ましいものと思ったら、計画伐採によって赤松の経木はけっこう多く使われているようだ。

    小泉氏自作の経木三角折り納豆を開いた様子
      (「丸ごと小泉武夫マガジン」より引用)
    natto (2)

    余談だが、今の納豆はおいしいものが少ない。それは原料の大豆をなぜか小粒にしてしまっていることが大きな原因で、納豆は大粒のほうが旨い。ということを周囲に広言していたら、いました同意の人が・・俳優の中尾彬が「納豆は大粒に限る!」と、食通の氏が言うから心強い。

    ◎復活して欲しいモノ(2)竹の皮
    以前のブログでも言及しましたが、竹林保全とエコ的有効利用のためにも竹の皮は大いに使うべき。その竹の皮の特長は防腐性、抗菌性、通気性あることなど。これも前出の経木と同様に昔は食品関連に多用されていたものの現在はプラスチック類に代替されてしまっているが、非石油由来素材としても再登場必要。
    竹の皮:長さ47~50センチ、巾12~14センチ(Amazonサイトより)
    bamboo
    しかし、昔から変わらずに竹皮を使っている例がある。それは「のし梅」と称する和菓子。これは半透明の琥珀色した厚さ3ミリほどの羊羹のような食感の梅の香りする甘酸っぱい味の菓子で、これを2枚の竹皮で挟む格好となっている。私の知る限りでは茨城県と山形県で作られているようだ。実はこの和菓子、私の大好物。
    nosiume1 (2)
    竹皮寸法は長さ15センチ、巾4.5センチ
    nosiume2 (2)

    この半なまのような菓子は、防腐性や抗菌性をもつ竹皮が必須だったのでプラスチック素材は不採用になったと考えられる。ちなみにカマボコのかまぼこ板の役目の一つは、製造直後の余分な水分吸収(その結果、カビや細菌の繁殖抑止)と、その後のカマボコ本体の乾燥防止のために逆に水分補給するという水分調整なのでプラスチックは使えないという点では”のし梅”の竹皮採用のケースと似ている。
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    ※「フォスター電機」の前称は・・「信濃音響」・・ついでに電気・電機各社の前称は・・
     「パイオニア」←「福音電機」・・創業者:松本望の父が有力なキリスト教宣教師
     「ソニー」←「東京通信工業」
     「シャープ」←「早川電機」・・創業者:早川徳次がシャープペンシルの発明者
     「富士通ゼネラル」の「ゼネラル」
    「八欧電機」
     「アイワ」(現在は十和田オーディオの子会社)←「愛興電機」
     「パナソニック」←「松下電器産業」
     「オムロン」←「立石電機」
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