徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    カテゴリ: 秘話飛話雑感

    映画監督たちは当然のように皆こだわりをもっているが 小津安二郎監督のそれはよくあげられ 中でも有名なのは「小津アングル」と言われるローアングル撮影 その他にも多々あるが 今回は ある一つのこだわりをとりあげてみた

    ◎小津作品に多く採用の「水影」(みずかげ)に注目! 
    「水影」とは陽の光が水面に当たって反射して建物の軒や室内の天井あるいは壁などに”ゆらゆらとゆれる光”となって映るもの (「水影」については 私の広辞苑には”水にうつるかげ”としか載っていないが最近の他の辞書には(1)水面に映る者の姿 また 姿を映している水面 (2)水面の照り返し・・とある) 
    実例として下の写真参照下さい
    terikaesi1
    より引用

    terikaesi2
    より引用

    ◎小津監督作品10本の内7本に「水影」あり!
    小津氏がいかに「水影」を重要視したかは それが登場するシーンが非常に多いことで分かる 私は以前から小津作品に「水影」登場が多いことに気づいていたのだが 今回このブログを綴るにあたって とりあえずあらためて10本ほど急いで観た結果 「水影」シーン登場作品は・・「東京物語」 「彼岸花」 「秋日和」 「お茶漬けの味」 「早春」 「戸田家の兄妹」 「小早川家の秋」・・しかし今回は観ていない作品もあるので まだ存在すると思われる ちなみに「水影」登場無し作品は「秋刀魚の味」 「晩春」 「東京暮色」(ただし見逃しがあった可能性もあり)

    ◎「東京物語」では「水影」が4回も登場 
    この映画のスタート画面は まず石灯籠(港によく在る常夜灯)一つだけの大写しであるが よく見ると その石灯籠の笠部分の裏側(地面を向いている面)に「水影」が映っているのだ! 「水影」はこの冒頭含めて計4回も登場で これは他の小津作品の中では登場は1~2回であるのに比べると抜群に多く いかに「水影」を重要視している作品かが分かるというもの
    この代表的シーンは冒頭のものではないが 右に映っているのが その石灯籠
    tokyo-story-r.jpg (2)

    ↓母親の葬儀後に会食する場面 右側の障子と提灯に「水影」が
    t-story-teri1 (2)

    ↓同じ会食した料亭の提灯を大写しして「水影」強調
    t-story-teri2 (2)

    ◎「水影」を映す意図は?
    そもそも「水影」現象が現れる条件は 海・湖・池・川・プール・つくばい・あるいは水たまり などの水の存在と無風の晴れた日中で陽の光の入射角と反射角の条件が揃えば現れるのだが これを天候要素に限ってみれば・・「水影」は明るく穏やかな状態の現われであり これを見ると我々の心も穏やかになるもので 小津監督は映画の中での場の雰囲気や登場人物の心理状態を表す一種のメタファーとして使っているのでしょう  この見方からすれば 小津作品の中でも最も暗い内容とされる「東京暮色」には「水影」が使われなかったのもうなづけるというもの!

    小津監督が30才のときに出版された谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」はたぶん読んでいるのではないかと思われるが 陰翳を大切にした結果として「水影」の明るさが生き また相互に強調し合う効果も意図しているのだろう また"谷崎が礼賛した和紙"を使った障子や提灯に
    「水影」を映したのでもあろう

    ・・・・・・・・・・・・・
    この映画の冒頭画面で水影の映った石灯籠の"笠"を強調しているが この映画の主役の一人である笠智衆の苗字も"笠"であることは なにやら符合するような感じがする?

    今年2020年の1月18日~7月19日までニューヨークの「MUSEUM OF THE MOVING IMAGE」(映像博物館)で「エンヴィジョニング2001展」が開催されて スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」に登場したモノや資料パネルが多数展示されている 1968年の映画公開から半世紀を経た今も根強い人気があることの証だ
    space-o-2001

    ◎「airborne(エアボーン)」社のチェア「DJINN(ジン)」
    この「エンヴィジョニング2001展」での展示物の一つであるイス(イスともソファとも言えるモノ)は映画の中では宇宙ステーションの中のヒルトンホテルのロビーに多数置かれていたものだ
    djinn-chair (2)
    展示のイス
    映画の中のイス
    djinn-chair 2001.png (2)
    このイスはフランスの「airborne(エアボーン)」社(現在は消滅)製である 1969年(映画公開1年後)に日本エアボーン(株)が発行したカタログを私は所持しているが それには確かに同型のイスがのっている


    ※今回のブログの中で"ピンク系のイスの画像を多く掲載していますが その本当の色の表現としては 最初の"会場で展示されているイス"の色が最適と思われます(これも確かとは言えません それは皆様のパソコンのモニター画面やスマホ画面の色再現特性によって変わってしまうからです また以下の"私所有のカタログ写真"もカメラの特性によって ここでは"明るく派手なピンク"に写ってしまっています)
    eaborn-box (2) 
    厚ボール紙製ケースに入ったエアボーン社の豪華カタログ
    (36cm 36cm x 1cm)
    映画の中のイスと同型(カタログでの品番「DJINN 7001」)
    dijinn-blue (3)
    このイスは現在一般には「ジンチェア」と呼ばれている ところがこのエアボーン社のカタログによれば 同社はこれをイスともソファとも呼ばずに単に「DJINN LIVING(ジン リビング)」としてシリーズ化している ただし別に明らかにイスであるタイプがあり これは「DJINN DINING CHAIR(ジン ダイニング チェア)」と称している 双方には共通してジャージの布とウレタンフォームが使われている 

    このDJINNシリーズはフランス人デザイナーの
    オリヴィエ・ムルグのデザインである
    dijinn-series (2)
    「DJINN LIVING」シリーズ
    「DJINN DINING CHAIR」
    djinn-dining (2)

    ◎映画中のイスの色は「ピンク系」
    映画で使われたイスの色が”赤かピンクか”の論争が長いあいだあったらしいが 2018年にロンドン南部の個人宅で本物の当該品が発見されて”ピンクである”ことで決着 ところで私が1969年に入手したエアボーン社のカタログにはDJINNシリーズの商品には使っているジャージ生地はピンクとブルーの2種があり ピンクのほうは映画用イスにも使っているものと同じに見えることから 早くからこのカタログを多くの人が見ていたら論争も起こらなかったのではないだろうか 以上の文中では「ピンク」としているが正確には「やや赤みがかったマゼンタ(濃いピンク)」
    djinn-pink (2)
    ↑「DJINN LIVING」シリーズ「DJINN 7111」(ピンク)

    ◎万事にこだわるキューブリック監督が選んだモノたち
    原作者であるSF作家アーサーCクラークと共同で脚本を作り 構想から4年かけてこの映画を完成させた 使用した音楽は有名作曲家に作曲依頼したりもしたが 古今東西の既存曲も聴き尽くして選曲もした結果が 映画冒頭の「ツアラトゥーストラはかく語りき」(リヒャルト・シュトラウス作曲)を そして“地球と月の中間点に浮かぶ宇宙ステーション”が人口重力を作るために1分間に1回転しながら浮かぶシーンでは「美しき青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス作曲)を採用した
    kyubric-cleark (2)
    スタンリー・キューブリック(左)とアーサーCクラーク
    kubrick-in-studio
    撮影現場のスタンリー・キューブリック
    また“時空を超えるシーン(大量の光るすじが放射状に出現する)”作りだけに4か月も費やした

    ◎実在の企業名が多数登場
    映画の真実味を出す意味と製作費捻出のためもあってか?実在の企業名が多数見られた・・宇宙機の機体には「パン・アメリカン航空」(1991年に破産・消滅)の文字とマーク / 宇宙ステーション内部には「AT&T」や「ヒルトン(ホテル)」の表示があるブース・出店 / 「IBM」のマークも所どころに見られる(当初は登場するコンピュータすべてにIBMマークが付けられる予定だったが宇宙船内の”意思を持ったコンピュータHAL9000”が人間に反抗し 殺人と殺人未遂を起こす筋書きであることに気づいたIBM社は撤退したものの 撮影現場が徹底せずに一部に同社のマークが残されたまま撮影されている) その他 表面に出ない一流ブランド品も多い・・「HAMILTON」のリストウォッチ / 「アルネ・ヤコブセン」のカトラリー / 「ハーディ・エイミス」がデザインした未来志向の服など・・そして「airborne(エアボーン)」社のチェア
    panam-whole (2)
    宇宙機の機体にはPAN AMERICANの文字とマーク
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    以上文中にはキューブリックについて非常に詳しい「キューブリック・ブログ」http://kubrick.blog.jp/archives/52345526.html
    より引用した部分があります
    ・・・・・・・・・・・・・・

    ◎新商品テストするなら・・札幌 福岡 広島か
    世に商品(モノあるいはサービス)を送り出すには テストマーケティングと称して 販売前に 一部の人やグループあるいは地域を対象に商品を試してもらって反応や評価を得ることがよくある
     
    商品の性格や種類によってテスト対象は色々だが 一例をあげるならば・・地域では
     
    北から札幌 仙台 東京 横浜 名古屋 京都 大阪 神戸 広島 福岡が対象となることが多いが
    最大都市である東京都をその対象から除外することも多く その理由は 発売前に情報が漏洩・拡散するリスクが大きいことと この地でもし悪い評価が出たらダメージの拡散も大きいことにある 

    そこで 東京から離れてはいるが“都市として大きすぎず小さすぎない”で“新しもの好き志向”などから特に札幌 福岡 広島が対象になることも多いと言われる

    日本での紙おむつの先駆けとなったパンパースについても福岡で行われたし 私自身は昔に札幌訪問時にたまたま明治製菓(現 明治)のお菓子(キャラメルの類だったか?)を「東京などでもまだ販売していません」と言われてテスト品を食べたことがある 

    現在 私の手許にはいくつかの「テスト品」「見本品」と呼ばれるものがあるのでご紹介!

    ◎白レーベルレコード 
    レコード会社が新しいレコ-ドを出す際 それを事前に音楽評論家や有力販売店に無料配布するもので「見本盤」「プロモ盤」「サンプル盤」などと称し その場合レコード本体の真ん中のレーベル(ラベル)は殆どが白地に文字印刷されているので「白レーベル(レコード)」と呼ばれる
    white-label (2)
     
    ohtukahakudou (2)
    白レーベルの例 大塚博堂の白レーベルLP↑ 
    ogawatomoko (2)
    小川知子の白レーベルLP↑ 

    しかし例外もあり レーベルが白ではない見本盤もある
     
    皆さんはこの見本盤ジャケットの女性が誰だかすぐわかりますか? 
    yamase-jacket-b (2)

    答えは「山瀬まみ」・・これは彼女のデビューアルバム「Ribbon」のジャケット写真だから1986年つまり今から34年前のお顔だ
    ジャケットおもての写真ならわかりやすいか?!
    yamase-jacket-a (2)
     
    さて私が所持しているこのアルバムの見本盤のレーベルは白ではなくカラーで彼女の全身写真が入ったものだ
    yamase-label (2)

    ちなみに これら白レーベル盤は昔は中古市場では価格が安かったが 現在はむしろ高価になっているそうだ それも妥当なことで 希少性ばかりではなく初期のレコードプレスとなるために音質も良いからだ

    ついでに・・山瀬まみに続いて歌手からバラドルに転身した井森美幸だが歌手としての売り出しキャンペーン時のキャッチフレーズは「井森美幸16歳、まだ誰のものでもありません」だったから彼女の初レコードはまさに白レーベルがピッタリだったはず!

    ◎飲料の白無地テスト缶
    新しい缶飲料発売に味や香りが微妙に異なる何種類ものテスト品が用意される その一つを私が手に入れたものがあるが これは缶全体が遠目には白っぽい(よく見るとやや青味がかってはいる)無地で
    (青文字の「TULC」は東洋製罐(株)が開発した"生産性に優れ環境にも良い製法で作られた缶"を表すもので この缶の飲料とは無関係) これに中身を表す文字がプリントされた白ラベル貼付という姿 
    ↓(下写真左) 
    can-tabacco-b (2)

    ◎“たばこ”の白無垢テスト品 (上写真右)
    今やたばこは勢いが無いものですが 昔話として・・たばこのテスト品も何種類かを作るようですが
    20年くらい前のこと 私の知人が ある筋からたばこのテスト品を手に入れたそうで その内の一箱を私も貰ったものが今まだ手許にある それは20本入りの真っ白な箱で 3桁の数字と「NOT FOR SALE」の文字が印刷されているだけで 中身のたばこ自体も真っ白で文字の印刷は無し 

    さてその知人はそのテスト用たばこを新幹線の座席で吸っていたら鉄道保安官らしき人に職務質問されるはめに・・特殊な白い箱を窓際に置いていたので目立ったわけだ

    ◎テストマーケティングでGOとなれば・・
    市場評価がわからない内は “発売前に新製品情報が漏れるのを防ぐ意味”と“商品名などを表記したモノをテストにかけて もしも悪い評価の場合はその名前のついた商品への悪い評価がついてまわる事態を避けるため”白無垢スタイルのテスト品を使うが 良い評価を得られて 商品の製造販売にGOがかかれば そこで今度は商品名がしっかり入った「試供品」を登場させて売り込むことも多い いわゆる販促策の一つだ
    sampule-beer-a (2)
    アルコール飲料の「試飲缶」
    (私の所持品はアサヒばかりなのは何故か?)
    ・・・・・・・・・・・・・

    前回のブログで 私と小・中学校で同級だった榊原栄という音楽家について綴りましたが その彼が中学時代に所属していたブラバン(ブラスバンド部=吹奏楽部)はマーチ(行進曲)演奏が主体でしたが それ以外のジャンルもたまにありました 

    ある年の吹奏楽コンクール用(課題曲だったか?)に演奏した曲が・・

    ◎フィンランディア
    この曲はフィンランドの作曲家シベリウスの作 彼がある歴史劇の伴奏曲を依頼されて1899年に作曲した組曲の中の最終曲部分を1900年に独立させて「フィンランディア作品26」と命名されたもの

    この曲が書かれた頃のフィンランドは「フィンランド大公国」とは名乗っていたものの 東側の国境で接する隣国ロシア帝国の支配下にあって 国民の多くが不満を抱えていた

    その不満を表し 爆発させるように感じるこの曲は 出だしが”怒りを押し殺したような”暗く重い表現 そして中ほどでは金管楽器による「パッパラパパ パッパラパパ・・」と攻撃的な感情表現(金管楽器によるこの表現部分があるから 吹奏楽コンクールの課題曲になることが多かったのだろうか 今回調べたら他の方も この曲が課題曲だったと述べている)

    過激でフィンランド人の愛国心を鼓舞する表現ゆえにロシアはこの曲の演奏を禁止してしまったほど

    →フィンランディア演奏
    https://www.youtube.com/watch?v=D8DxmUutTgc


    このフィンランディアができた1900(明治33)年からまもなく 遠く離れた東洋で日露戦争が起こったのだ(1904年開戦~1905(明治38)年終戦)

    ◎東郷元帥肖像がラベルのビール確かにあるが・・
    従来 巷では「フィンランドは圧政をしいていたロシアを日露戦争で破った日本に対して親日的であり その戦争の中でも有名な
    "日本海海戦"で連合艦隊を率いてロシアのバルチック艦隊を壊滅させた東郷元帥を称えて『東郷ビール』をつくった」というような話が流布されていて 

    私も最近までそう信じていたので 20年ほど前に『東郷ビール』を あるデパートで見つけて数本購入 内1本(空ビン)を今でも保存している

    togo-beer (2)
    これが私の保存している東郷提督ラベルビール瓶


    しかし このブログを綴るにあたって 調べたところ その巷の話は間違いだったことが判明した

    真相は・・このビールの名前は「AMIRAALI=提督」であり 世界中の歴史上有名な提督を24人選んで その各人別のラベルをつけたビールが作られた その内の一つが東郷平八郎元帥の肖像画入りラベルのビールというわけだ

    フィンランドのピューニッキ社が1970年にこの提督ビールシリーズを製造開始して 東郷ラベルのものは翌1971年からの製造 その後この提督ビールシリーズの製造は別のいくつかの会社に受け継がれて 途中に製造停止期間もあったりしたものの 現在も続いているそうだ

    おもしろいことに製造停止期間中に 日本の「日本ビール株式会社」がオランダ産のビールに東郷元帥の肖像画入りラベルを貼ったものを輸入販売していた 実は私の手許に残しているモノがこのオランダ産である 現在は日本産もあるそうだ
     
    ◎フィンランドはバランスとる国なので「親〇〇国」にはならない!
    日露戦争で(フィンランドと国土面積がほぼ同じ小国)日本が勝利した際には 勇気づけられた人もいたが 「ロシアが負けて悲しい」と嘆く婦人 ロシア側の将校となって日本と戦った者もいた

    1917年にロシアから独立の直後の内戦では社会主義信奉者の「赤軍」と それを嫌う「白軍」が戦い「白軍」が勝利して バランスとは無縁の一党独裁のみちを避ける選択をした

    24人の提督ビールシリーズの中には 東郷元帥以外には山本五十六元帥も含まれ日本人二人がいるが ロシアのマカロフ提督 ロジェストヴェンスキー提督の(ともに日本海海戦で日本相手に戦った)二人もしっかり入っている 他には英国ネルソン提督など

    EUに加盟しながらもロシアとの関係にも留意している 国内には「レーニン博物館」や「アレクサンドル2世(ロシア皇帝)の像」「アレクサンドル通り」が存在する

    このように一方の国に偏らない姿勢でバランスをとるので・・フィンランド(正式名:フィンランド共和国)に居住経験のある日本人でも同国が親日的と感じたことはないと言う

    ただし言語の構成的には「膠着語(こうちゃくご)」(私には難しいことはわかりませんが)に分類されるとして 日本語 フィンランド語 トルコ語 朝鮮語 などは同類とのこと

    (東郷元帥ラベルビールやフィンランド事情について詳しくは・・
    https://historivia.com/togo-heihachiro/4207/
     suomi.racco.mikeneko.jp/Elama/ystava.html
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    前回紹介した5人の内の二人 小椋佳と榊原栄に関する追加話です
    ◎小椋佳と あの喜劇王チャップリンの共通点?!
    tyapurin
    チャップリン (wikipediaより)
    小椋佳とチャップリンは”楽譜の読み書きができないのに名曲を作っている”
    と言う点で共通
    していますが 

    “曲として完成させる手法”も共通しています 
    それは先ず本人が曲想に基づいて口ずさみ 
    それを別の音楽専門家が聴きながら譜面起こしをし 
    編曲もする
    のです
     
    小椋の場合はその専門家の一人として安田裕美の存在があり
    彼女は「よく小椋さんの家に行って曲作りと譜面おこしを手伝いました」
    と述べています 

    チャップリンの場合も彼の映画の中でスタッフ名掲示には音楽担当として
    チャップリンとともに音楽専門家の名を併記することも多かった 

    ただし小椋佳とチャップリンの二人とも
    楽器が全く弾けないわけでもなく
     
    小椋佳はギターが少しは弾けるし 
    チャップリンにいたってはチェロ ヴァイオリン 
    ピアノ ハーモニウム(一種のオルガン)などを
    独習したものながら弾いていたので 

    二人とも 曲想を練る際に
    楽器を有効に使っている

    チャップリンの作曲した曲の例としては・・
    映画「ライムライト」の「テリーのテーマ」 
    映画「モダンタイムス」の「スマイル」 
    映画「ニューヨークの王様」の
    「マンドリンセレナーデ」
    (自身が指揮する演奏がコレ) などが有名

    〇他にも います
    前記の二人以外にも”楽譜の読み書きができない”とされている人として
    井上陽水 桑田佳祐の名もあがっているが 
    昔 よく知られていたのは美空ひばり この人はやはり天才的で 
    かつて「題名のない音楽会」というテレビ番組だったかの中で 
    楽譜の読めない美空ひばりにクラシックのオペラの一部を
    歌ってもらったが 音楽評論家も賞賛していたほどであった

     
    ◎榊原栄が居たブラバンの演奏と朝礼行進
    前回にも述べたように"山本直純の後継者と言われた榊原栄"
    と私が通った東京都の豊島区立長崎中学校では 
    校庭での朝礼などの集会の後 生徒たちが教室に戻る際に 
    同校自慢のブラスバンド部員(榊原はトローンボーン担当)が
    実演奏するマーチ(行進曲)に合わせて歩を進めた
    ものでした
     
    それによって同校の生徒たちは3年間聴かされると
    部員ならずとも多くのマーチのメロディーを
    口ずさめるようになりました
     
    現在 日本ではブラスバンドという言葉は
    使われなくなったようで 吹奏楽部と名をかえて 
    全国の小学校から大学まで 世界的に見ても非常に多く
    存在するようになっているそうですが 
    “朝礼などに吹奏楽部が出演する学校”はあるのでしょうか?

    さて私たちが覚えてしまったマーチは・・
    「雷神」「忠誠」「星条旗よ永遠なれ」
    「ワシントンポスト」(以上は作曲者スーザ) 
    「旧友」(同タイケ)「双頭の鷲の下に」(同ワーグナー)
    「エルカピタン」「美中の美」などで
     
    朝礼時に最も使われたマーチは「旧友」だったと記憶しています


    〇世界の「マーチ王」:スーザ 
    「和製マーチ王」:古関祐而

    米国の作曲家・指揮者スーザ(1854~1032年)は
    100曲以上のマーチを作曲したので
    「マーチ王」と呼ばれていますが ・・
    su-za
    スーザ(wikipediaより)
    日本の古関祐而も 
    1964年の東京オリンピック用の
    「オリンピックマーチ」 
    NHKのスポーツ中継番組冒頭に流れるテーマ曲
    「スポーツショー行進曲」などを作曲して
    「和製スーザ」と称されています

    スーザも榊原もトロンボーン奏者だった
    スーザは米国大統領直属ワシントン海兵隊楽団で 
    そして榊原栄は中学校のブラスバンド部で 
    二人ともトロンボーン奏者だったことは 
    ちょっとした縁を感じさせます
    ・・・・・・・・・・・・

    世の中に音楽を職業とする人が多い中で 天才モーツァルトのように子供の頃から成るべくして成ったような人 努力を重ねて成った人 いろいろな人がいるが ここでとりあげるのは・・

    一旦は違う道に入ったものの音楽の道へ進み直した人たち・・有名人を挙げてみれば
    (文中敬称略)・・
    (但し 私の不得意なポップス系ロック系などの分野には触れることができませんので悪しからず・・
    トラック運転手だったフランク永井 バスガイド嬢だった八代亜紀たちもいますが・・)

    ◎元は銀行員だった作曲家:古関裕而 / 小椋佳
    ↓古関裕而 (wikipediaより引用)
    koseki (2)
    古関裕而はちょうど現在NHKテレビで放送中の朝ドラ「エール」の主人公のモデル 不本意ながら地方銀行(福島県の旧川俣銀行)の行員となったが 夢捨てきれず 専業音楽家を目指し 独学ながらクラシック音楽の素養をベースに交響曲 オペラ 歌謡曲 軍歌 校歌 応援歌 行進曲など巾の広い分野で名曲多数を生み出した 

    その中でも最も日本中に流れているのはNHKラジオの正午のニュースの後に始まる「ひるのいこい」のテーマ曲ではないだろうか なにしろ50年もの間 日曜を除く毎日である

    ↓小椋佳 (wikipediaより引用)
    ogurakei
    小椋佳は旧日本勧業銀行の行員時代からシンガーソングライターを始めていて 名曲多数だが他の歌手向けに作った曲(「シクラメンのかほり」「愛燦燦」など) も多い

    またCMソングもあり おもしろいのは・・彼は東京大学出身であり将来の頭取と目されていたほどだったので 必須条件である”支店長経験“のために浜松支店長を任ぜられたことがあり その在任中の地元の縁で “浜松と言えば有名な春華堂の「夜のお菓子『うなぎパイ』」”のCMソングも作っている

    氏も銀行を早期退職して音楽専念の道を選んだ

    ◎医学生やめて作曲家になった小林亜星
    正確には”慶応大学医学部に入学したものの医者になる気は無いので 経済学部に転部した上で音楽の方に打ち込みながら卒業 わずか2週間の会社勤務を経て音楽勉強に専念 後に 私の前回のブログで紹介したように 作曲 作詞 役者 タレントもやり CM作曲多数(レナウンの「イエイエ」 日立の「この木なんの木」など)

    そして 私がかつてお付き合いがあった” 音楽へ進み直した人”が二人いる それが黒崎錬太郎と榊原栄・・

    ◎工業デザイナーから声楽家になった黒崎錬太郎
    氏の若い頃に私は大阪の地で少なからず面識があったもの 氏は某大手電機メーカーの工業意匠(今で言うインダストリアルデザイン)部に勤務する優秀な"電気製品デザイナー"だったが あるアマチュアコーラスグループにも属していて歌っているうちに 本格的な声楽の道に進みたくなり ついには退社して・・

    東京芸術大学音楽部に入学しなおして研鑽を重ねて卒業後 音楽界にバリトン歌手としてデヴューを果たした その後は複数の声楽コンクールで1位や金賞など獲得してオペラなどで活躍 近年はテノールに変更している

    ◎大学中退し東京芸大に入り直して音楽家になった榊原栄
    ↓榊原栄 (https://digital-sonic-design.jp/?p=7942から引用 )
    sakakibara (2)
    彼と私は東京都豊島区で小・中学校が一緒 中学校の名は「豊島区立長崎中学校」(現在は廃校で校舎も消滅)で当時同校のブラスバンド(略称ブラバン)部は東京でも最上位クラスの実力だった そのブラバンで彼はトロンボーンを吹いていた 

    その後 彼は某大学(私の記憶があいまいで法政 中央 明治のどれか)に入学したものの 音楽こそ我が行く道と思い直して1年足らずで退学 東京芸術大学音楽部に入学しなおして 卒業後は作曲 編曲 指揮(日本各地の交響楽団を指揮と指導したことが多いが海外での客員指揮者もした) 楽器(特にトロンボーン)指導など巾広く活躍 その結果・・

    あの山本直純氏の後継者と言われるまでになっていたが 惜しくも還暦前59才で他界してしまった
    ・・・・・・・・・・・
    榊原栄氏と小椋佳氏に関連したお話 まだ尽きず 長くなるので次回に続けます

    アパレル大手の株式会社レナウンが株式一部上場会社としてはコロナ影響による民事再生法適用の第一号となってしまいました

    “レナウン”は日本語で”名声”・・レナウンの名声が復活することを祈ります・・ と言うのも かつて・・

    ◎レナウンのCMは新鮮だった
    レナウンと言えば 私らが若いころの1961(昭和36)年に 従来とは違った新しい感覚のCMソングをテレビで流したのです 

    それは「わんさか娘」と題名が付いていたとは知らない(オリジナルCMソングはほとんどそうなのですが)曲で 

    出だしは「ドライヴウエイに春が来りゃ イエイ イエイ・・」 

    この軽快な作曲をしたのは小林亜星(後にテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の親父さん役もした)
     
    CMソング「わんさか娘」(シルヴィ・バルタン版)は・・
    https://www.youtube.com/watch?v=NhQ5FO5RxB8

    小林は 次に1967(昭和42)年にも同社CMソング「イエイエ」も作曲
    renown-iyeiye (2)
    「イエイエ」のCMソングとともに流れた映像

    これを機会に 私が昔から”心に残るCM名曲”と 勝手に決めているものを挙げてみます

    ◎「オリエンタルカレー」のCMソング(株式会社オリエンタル)
    この曲は新しい感覚ではないが 流れるようなメロディーと情感にうったえる歌詞で歌いやすく覚えやすいものです 

    3番まである その1番は・・「なつかしい なつかしい あのリズム エキゾチックなあの調べ オリエンタルの謎を秘め 香るカレーよ 夢の味 あゝ 夢のひと時 即席カレー 君知るや 君知るや オリエンタルカレー」  

    この曲は1954(昭和29)年に出来て 日本最初の本格的CMソングとされて なんとレコード(盤)にもなっているのだそうです なるほど それに値すると納得できます

    そのCMソングは・・
    oriental-curry-song
    oriental-curry-new (2)
    ↑↓
    新旧の商品
    oriental-curry-old (2)

    ◎「グンゼのナイロン靴下」のCMソング
    (グンゼ株式会社)
    雪村いずみが歌う このソングは・・商品名がからんだサビ的な部分の歌詞は・・
    「グ~ンゼの ナ~イロンく~つ下は~ な~んとも言~えない す~ばらしさ~」だが 

    この曲は出だしの歌詞とメロディーが良いのです しかし残念ながら 私はうろ覚えで ここにご紹介できません ネット上のyoutubeでも見つかりません 同社がナイロン靴下を製造開始したのは1952(昭和27)年ですから CMソングはその後に流れたのでしょうが年代も不詳です

    ◎「不二家のお菓子」のCMに使われた歌(株式会社不二家)
    この曲 私は子供の頃聴いていましたが 何となくシャレた歌であり 歌詞もメロディーも歌いやすく覚えやすかったものです 

    その後 長い間 これは不二家のオリジナルだと思っていましたら 数年前に この歌は古くから存在したものと知りました それは1928(昭和3)年に西條八十の作詞で 橋本國彦が作曲した「お菓子と娘」 

    その出だしは・・「お菓子の好きな巴里(パリ)娘 二人そろえば いそいそと 角の菓子屋へボンジュール・・」というもの → 
    https://www.youtube.com/watch?v=MxuXbI5D-e8

    この歌はシャンソン風なのですが 今にして思えば 当時不二家は「フランスキャラメル」を製造販売していたからでしょう 私も子供の頃によく食べましたが 調べたら なんと発売開始は1934(昭和9)年でした
    france-cyaramel
    戦後の昭和の一時期に数寄屋橋店に掲げられていた「フランスキャラメル」の大きな看板は目立った
    france-cyaramel-billboad

    ・・・・・・・・・・・・・・・
    おまけ・・ “懐かしいテレビCMいろいろ”・・
    https://www.youtube.com/watch?v=OSOze2CP1Qc
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    テレビ番組「がっちりマンデー」(TBS系)は “独創(独走)的商品でがっちり儲かっている会社”をとりあげて毎週日曜日の朝に放送されていますが 

    去る5月3日には(コロナの影響で同番組の過去放送分からチョイスされて再登場の)“一芸家電”を誇る5社が紹介されました 

    これを観て私は実に感慨深いものがありました という理由は 5社の内なんと3社に私はご縁があるからです その3社とは・・

    [1](株式会社)「千石」(せんごく)
    発熱スピードが超速な独自開発のヒーターを使用した「グラファイトトースター」が売れ行き好調!
    ttl_catop[1] (2)
    株式会社 千石の社屋(同社HPより)
    AGT-G13AG[1]

    グラファイトトースター(同社HPより)
    さてこの会社の本社所在地は兵庫県加西市 そこは昔の私の勤務地であり住んでもいた土地であり 

    しかも同社は私の勤務していた会社とも協力関係があったもので 当時は「千石鉄工」(株式会社)という名称で その工場に掲げられた社名看板はよく目立っていました 

    「千石」は創業者名であり現在の社長は千石唯司氏 

    ところで「千石イエス」と呼ばれた人をご記憶だろうか 本名は「千石剛賢(たけよし)」1970年代後半から 「イエスの方舟」という一団を主宰して東京・恋ヶ窪はじめ各地を転々としたが マスコミの間違った報道によってオカルト教団の教祖のようなとらえ方をされて批判にさらされたものの 実は彼の許に集まったのはDVなどを受けたりした女性たちで そこは「駆け込み寺」のような性格が強かった 

    その千石イエス氏(2001年78才で死去)も加西市出身であり 世間で注目を浴び始めたころに同市に住んでいた私は “千石家は土地の豪農だったもので千石鉄工社長と千石イエス氏は血縁関係がある”という話は聞いていました(加賀百万石とは比べ物にならないですが千石とは豪農らしい苗字ですね)

    [2]「タニカ電器」(株式会社)
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    冒頭で社長の「谷口幸子」氏自ら ヒット商品であるヨーグルトメーカーの「ヨーグルティア」を手に持って登場 

    いやお懐かしや 谷口氏と私は同じ大学の同じ学部・科だったのです この同社紹介番組収録は5年前ですが お歳を感じぬ若い声です
    ms-taniguti3.jpg (2)
    谷口幸子社長(同社HPより)
    この会社は岐阜県多治見市で現社長の父君が創業して当初製造していた電気式酒かん器の温度管理ノウハウを活かして 日本初のヨーグルトメーカーを製造した 

    ヨーグルトの生成に必要な一定温度を安定して保つ機能では 他の大手メーカーでも追随できないので同社のヨーグルトメーカーはシェアNo1であり 最新製品の「ヨーグルティアS」は設定温度を25~70℃まで可変にすることで様々な醗酵食を作ることができる醗酵器に進化させたので 作れるものは・・カスピ海ヨーグルト/天然酵母の醗酵/市販のヨーグルトを種菌とするヨーグルト/納豆/西京みそ/チーズ/発酵バター/甘酒/塩こうじ/醤油こうじ/温泉卵/低温調理(サラダチキン、ローストビーフ)など 谷口社長曰く・・「健康志向の中で重要視されている”腸の健康”のためになる発酵食は簡単にホームメードできるということをもっと多くの方に知っていただきたいと思っています」
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    ヨーグルティアS(同社HPより)

    [3](株式会社)「シリウス」
    同社も冒頭から社長の「亀井隆平」氏が“一芸家電”である「スイトル」を抱えて登場
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    亀井隆平社長(同社HPより)
    実は亀井社長が以前に勤めていたのは私と同じ会社だったのです しかも東京・御徒町駅に近い場所にあった会社のビル(中に当時は多数の部署があり社員も数百人いた)その中で短期間ながら同時期にこの二人が勤務していた可能性が高いのです 現在のシリウス社の所在地はそのかつてのビルから500メートルくらいの位置にあります 

    さて社長自慢の「スイトル」ですが “じゅうたんなどにこぼれたコーヒーや醤油などの汚れやペットのおしっこもきれいに吸い取る「世界初の水洗いクリーナー」”であり 家庭用の掃除機につないで使うもので その仕組みはここで文章で説明するのは長くなるので割愛するとして 掃除機の吸引力とスイトル内部の水を利用して“水を吹き出しながら汚れを吸い取る”ものです
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    「スイトル」(右横部分に掃除機ホースをつなぐ)(同社HPより)
    以上 私がご縁ある会社・人ですが 70数年生きていれば今回のようなことが起こるものですね

    ちなみに「がっちりマンデー」で紹介された他の2社は・・
    ◎「テスコム電機」(株式会社)
    ヘアドライヤーのメーカーで 特にプロ用では圧倒的シェアで“日本の理美容店の70%が採用” その理由は“風速”が強大 その分大きくてやや重いので小型化して軽くした一般用も製造販売

    ◎「富士工業」(株式会社)
    レンジフード・換気扇では64%のシェアを誇る 大手電機メーカー製には無い 個性的なデザインで多様な商品陣容 その一環として開発された“一芸家電”が「クーキレイ」 でシーリングペンダント(天井吊り下げ)型照明器具と吸煙装置を合体させたもので好評
    ・・・・・・・・・・・・・・

    現在NHKの朝ドラの「エール」に故志村けんが“小山田耕三”として登場していますが そのモデルが“山田耕筰(改名前は耕作)”(1886=明治19年~1965=昭和40年) 

    耕筰は作曲家・指揮者の大御所であって交響曲から童謡(赤とんぼ ペチカ 待ちぼうけ など) 校歌 軍歌まで非常に多くの作曲をしました
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    山田耕筰(wikipediaより引用)
    ◎映画「ここに泉あり」に本人役で出演しています

    映画ですから山田耕筰の生前の動く姿が“楽団を指揮するシーン”などで見られます 

    出演当時は68才ですが62才の時の脳溢血の影響で身体の動きがやや不自由な状態でした 
    ◎「ここに泉あり」とは
    高崎の市民楽団が“群馬交響楽団”に成長した実話に基づいたストーリーを名脚本家である水木洋子が手掛け 監督:今井正 主演:岸恵子 その他:岡田英次 小林圭樹 加東大介 草笛光子など豪華メンバー(子役から出て後に日活で活躍する浜田光男も少年で)出演し 音楽は山田耕筰の弟子であった団伊久麿が担当した 1955(昭和30)年公開のモノクロ映画 

    私はこれをテレビ放映されたもので観ましたが 全編にわたり“楽団経営の難しさ”が描かれていて 今またコロナウイルス禍による楽団経営のさらなる苦境は如何ばかりかと思わずにはいられません 

    また印象的なのは 楽団が草津にあるハンセン病療養所で演奏した際に 入所者たちが不自由な手で“音が出ない拍手”をするシーンです 

    この映画のダイジェスト版(1分57秒)は
    youtubeで観られ山田耕筰氏が指揮するシーンなどが観られます
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    映画の中で楽団を指揮する山田耕筰本人(上記写真2枚とも新井まり子氏制作のyoutubeより引用)
    ◎私が通った学校の校歌も山田耕筰作曲 北原白秋作詞

    我が校歌の作曲者が山田耕筰だったなんて 今回調べて気が付いたわけですが それもそのはずで在校中にその校歌を歌った記憶は全くないのです 

    ちなみに私の心中で日頃から気になっていたことがあり それは・・小・中・高・大と通った学校の校歌を覚えているのが小学校と高校のものだけで中間期と最後期の校歌の記憶が“完全に無い”ことなのです こんなことがあるものでしょうか?
    ・・・・・・・・・・・

    今からちょうど50年前の1970(昭和45)年3月から半年間にわたって大阪で“日本万国博覧会(通称:大阪万博)”が開催されました 

    私は当時 関西勤務でしたから期間中に3度 見に行きました 世界77か国が参加して117のパビリオンで多様なモノの出展がありましたが その中でも最大級の“目玉”は米国館の“月の石”でした

    先日(4月17日)にBSテレ東の「発見ニッポンの100年」という番組で懐かしい映像がいくつか放映されましたが その中でこの大阪万博もとりあげられました

    さて そこで私の思い入れが強い”ある展示物”が出てきました それは・・

    ◎人間洗濯機(ウルトラソニックバス)

    これは当時の三洋電機が展示実演したもので 人間洗濯機に入った人の体を気泡噴射して洗いながら お湯の中のマッサージボールが肌を揉み 乾燥まで全自動で行うというものでした 

    p-washing4 (2)

    ↑人間洗濯機(全体)・・頭だけ残して中に入る↓
    p-washing1 (2)

    これを私は面白いと思いましたし人気も高かった しかし実際は人間洗濯機の中のイスに座ったお尻の部分の乾燥に難があったそうです 

    それでも万博終了後は あるラブホテルが採用したという噂も聞きましたし 前述のBSテレビ番組の中で「この人間洗濯機の技術は現在の介護入浴機器に応用されている」という説明がありました 

    人間洗濯機は現在でもネットでは話題にのぼっていて「これは欲しい」という声がある一方で「洗髪機能が無い」というつっこみもあります 

    ちなみに私のブログの2018年9月19日の
    「ジャグジーの40年前の元祖の姿を知っていますか?!」の中で“ジャグジー社が最初の気泡風呂を1968年に発売した”と書きましたので三洋電機が同様の気泡噴射風呂を同時期に考えていたことになります

    ◎マッサージに使われたボールを私はもっています

    稼働中は気泡を含んだジェット水流とともに多数のマッサージボールが肌に軽い刺激を与えます
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    ↑お湯の中のボール(上記3枚の写真はBSテレ東の番組より)

    このボールの実際は500円硬貨より少し大きい“金平糖のような形”のゴム製 

    私はこれを3個 万博終了直後に ある縁で入手したもので 今 手許にあるボールを触ってみると 50年を経た表面は硬くなり少し粉っぽいのですが全体ではまだクッション性は残っています 
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    ↑マッサージボール(左端は500円硬貨)

    このボールは万博の半年の会期中に人間洗濯機に入ってデモンストレーションしたモデル嬢の肌をマッサージしたわけで そう思うと何やら感慨深いもの!

    しかし終活を始めた私は このボールを処分するつもりですが ひょっとすると必要な人がいるかもしれませんね メルカリ使うことも検討中!

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    ◎日本独特方法で聖火を維持管理したらいかが!?
    ギリシャから受け継いだ聖火を来年の五輪開催まで日本で維持管理するために 現代技術による常識的な方法がとられると同時に 不測の事態に備えていくつかに“分火”されるでしょう 

    そこで提案ですが・・ “分火”の一つを日本独特の伝統的な方法で維持したらいかがでしょうか 

    火を燃え続けさせている例でよく知られているのは米国のアーリントン墓地に眠る故ケネディ大統領(JFK=第35代 1963年11月22日暗殺)の墓に添えてある「永遠の炎」(Eternal Flame)で 消えることなく半世紀以上を経ていますが これには(よくはわかりませんが)ガスを常時供給するシステムになっているのでしょう
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    「永遠の炎」(Wikimapiaより引用) 
    わずか50年あまりの火・・まだまだ若い! 日本には一千年を超す火がありますぞ!

    ◎1200年間 火を守ってきた横大路家!
    日本には独特な方法で1200年も“火“を絶やさずに維持している所があります 

    それは福岡県糟屋郡新宮町にある横大路家(その住宅は通称「千年家」と呼ばれて現在の建物は17世紀後期から18世紀前期のもので民家として日本最古級)が守ってきたもので 

    伝教大師(最澄)が805(延暦24)年に(現在の新宮町に)独鈷(とっこ)寺を建立した際にこの家に滞在したお礼に”法火“として授けたものを かまど(竈)の中で絶やさぬように 毎朝火を焚き 毎晩残り火に灰をかけて 翌朝まで消えないようにするということを繰り返す苦労を1200年続けてきましたが 2011年に法火は太宰府の神社に引き継がれているそうです
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    「千年家」(写真は「じゃらん:横大路住宅」より引用)

    1200年間 火を消さなかった“かまど”
     
    ((株)システム工房のHP「横大路住宅」より引用)
    sennenya-kanado

    ◎800年間 火を守る千葉家!
    岐阜県郡上市にある千葉家も800年間“火”を絶やさず守り続けています 

    「始まりは1221(承久3)年に火打ち石で いろりの火として点火されたもので 以来家訓により代々家長が受け継いで一度も消えていないそうです

    『いろり火を絶やさないコツは 朝起きたら 夕べの火種を掘り起こして 新たな炭を足して《おき火》をたくさん作っておくこと。昼間は灰をかけて その上から十能一杯分の籾殻をふりかけておきます。 そうすれば13時間くらいは大丈夫。 夕方も朝と同じように火を起こして同じことを繰り返す』(『』内は野見山広明氏のブログ「かんながらの道」www.caguya.com/kannagara/?m=201603&paged=2より引用)
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    千葉家のいろり(写真は「中広」社のHPより引用)

    ◎原爆による火災の残り火を消さずに75年!
    福岡県八女郡(現八女市)星野村の故山本達雄氏が1945(昭和20)年8月6日の広島原爆投下時には広島近郊の軍隊にいたので 約1か月後に広島市内に入り 被災して亡くなった叔父の家の焼け跡で残り火を発見した

    それを祖母(叔父にとっては母)のためにと思い 持ち合わせた懐炉に転火して故郷の星野村に持ち帰り 以後まずは祖母がその火を仏壇に灯して12年間守って死去したので その後は山本氏が囲炉裏や火鉢にも火を移して守った 

    その間計23年間は“その火”の存在は山本家以外には秘密にされていたものを あるきっかけで村中に知れ渡った結果 村民の要望によって1968(昭和43)年8月6日に建立された「平和の塔」の中に転火されて現在まで 広島での採火から75年灯り続けています 

    この火は「原爆の火」又は「平和の火」と称されて その後全国の学校やお寺などに分火されています(山本氏は2004年に亡くなられています)
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    平和の塔(八女市のHPより引用)
    ◎バイオ燃料と灰活用で火を守るサステナビリティをアピール
    前述の3例に共通するのは”薪または木炭を使い”かつ“火を消さずに静かに生かしておくためには灰をかけておく”という方法がとられていることでしょう これは“バイオ燃料を使ったサステナブルな方法”と言えます 

    この日本の伝統的でしかもエコなやり方で聖火(の分火)を維持することは(手間がかかるローテクだが)意義がありましょう 

    私も子供の頃は家庭での暖房と言えば 炬燵と火鉢であり それには木炭と灰を使っていたので 灰自体を作ることや “灰をかけて火をもたせる”こともよく行ったものです
      ・・・・・・・・・・・・・・・

    五輪開催は来年に延期となりましたが とにかく何とか聖火だけは日本にやって来ました
     
    その「何とか」と言うわけは アテネで採火された聖火を日本側が受け取る儀式には当初の予定では日本オリンピック委員会の森会長 柔道の野村忠宏氏とレスリングの吉田沙保里氏の3名が出席することになっていたものが コロナウイルス対策のためギリシャ側が入国規制を開始したために不可能になり 急遽 井本直歩子(いもとなおこ)氏が日本代表に抜擢されて聖火受け取りが行われたからです

    (詳しくは井本直歩子氏のブログ「地球散歩」の2020年3月21日と30日の発信分を参照ください)
    (以下文中敬称略)
    imotonaoko2 (2)
    聖火受け取る井本 日本国旗表す赤ジャケットに白ブラウスで(NHKニュースから)

    ◎井本直歩子(いもとなおこ)とは

    1976年 愛知県生まれの東京都育ち 43才
     
    1996年アトランタオリンピックの競泳選手で千葉すずらと組んだ800メートル自由形リレーで4位入賞
     
    引退後 慶応大学 サザンメソジスト大学 マンチェスター大学大学院を卒業・修了 橋本聖子参議院議員(現・五輪担当相)の秘書 国際協力機構インターンを経て
     
    2007年から国連児童基金(ユニセフ)職員となり その後この組織の中で事務所教育専門官として世界各地の主に発展途上国や大規模被災地(ガーナ スリランカ ハイチ フィリピン マリ 東日本大震災被災地など)のような生活困窮地において人道支援や子供たちの教育支援に尽力している
     
    そして2016年から現在まで 難民滞留地でもあるギリシャに赴任して在住中です

    というわけで 井本自身が五輪出場経験者 橋本五輪担当相とは旧知の関係 現在ギリシャ在住と これ以上の人選はあり得なかったのです
     
    しかし元々井本直歩子は世界も日本も認めるスゴイ人なのです 
    2009年にはニューズウィークが「世界が尊敬する日本人100人」の一人として選出 2019年12月には日本財団主催の「HEROs AWARD 2019」を受賞 


    そしてこの3月に雑誌「AERA」(2020年3月23日号)には〈現代の肖像〉として井本が登場 現在の仕事の道に進んだ経緯や信念など詳しく述べられています その一部を紹介すると・・

    “アスリートとしての現役時代 恵まれない環境で練習せざるを得ない外国の水泳選手を目の当たりにしたことで格差があることを知った井本が引退後に選んだのが人道支援の道だった
     
    特に教育は、係争地域や難民の子どもたちをリスクから遠ざける一番の武器と信じてやまない
     
    そして「競技生活で培った絶対にあきらめない心と 最高の結果を求める信念は この道でも同じ どんな困難があろうと諦めずに突き進み 子どもたちの未来に最高の結果を出すのが私の任務」と言う”
    ・・

    井本直歩子は まさに名前の通り 目標に向かってひたすらに真っすぐ歩んでいる人です
    imoto-aera (2)
    AERAの掲載記事から
    井本直歩子は強さと優しさを併せ持った人 生まれながらに体は大きく 子供の頃はガキ大将だが弱い子には優しかった 障がいのある子はおぶって保育園に通った
     
    その優しさとともに 五輪選手になるほどの根性で磨いた心身の強さで 例えばギリシャでは難民のためにギリシャ政府にかけあうことも行う・・

    そこで想起するのは「強くなければ優しくなれない」という言葉 井本はまさにこれを体現しているようです 


    2014年9月8日NHKテレビ番組〈視点・論点〉で井本は「自然災害と開発途上国」と題して 2013年の台風30号によるフィリピンの大災害後の支援の実際を説明しながら その大切さ 難しさを訴えています
     
    その中で方策の一例として「クラスター制度」というものも紹介していましたが ここでは詳細を割愛します 現在はコロナウイルス関連で頻出している「クラスター」という言葉は元々昔から広い分野で使われていることの一端です
    imoto-sitenronten (2)
    NHK〈視点・論点〉放送画面から
    ◎井本直歩子の父とは

    父親の名前は井本雄司 彼の高校生時代は私も同じクラスでしたのでちょっと紹介しますと
     
    彼は身長180センチ超のクラス一の大男(直歩子の身長が172センチなのは父親ゆずり?)でした しかし彼は派手な言動はせずに目立つことはしませんでした むしろ静かで優しい・・一言で言えば“ジェントル”な秀才でした
     
    実は私のすぐ後ろの席が彼でしたからクラスの中でも私が最も“彼のつぶやき”を聴いていました 声が背後からなのでよく聞こえ しかし“つぶやき”なので他の級友には聞こえていなかったでしょう その声というのが優しかった(それは心のやさしさの反映である)ことを半世紀以上経ても私ははっきり覚えています 

    雑誌AERAの記事によれば 井本直歩子が12才の時に水泳の能力を見込まれて大阪のスイミングスクールの名門「イトマン」に勧誘された際に それを受け入れれば 親元を離れることになるために 大阪行きを反対する父親と賛成する母親で意見が分かれ その決断をまかされた直歩子自身が出した答えは「大阪に行く」 だった その時のことを母親である三恵子(70)は「直歩子の言葉を聞いて 彼は娘に背を向け肩を震わせていた」と語っています・・その彼の所作のシーンは私には容易に想像できるのです
     
    しかしながら その後の結果は 諺「かわいい子には旅をさせよ」の立場を三恵子が主張したことがよかったわけです

    彼は千葉大学工学部に進み 卒業後は某企業の設計管理職を経て独立して建築設計事務所をご夫婦で経営していましたが 平成30年2月に亡くなりました
     
    しかし ご夫婦の教育方針である「他人(ひと)とくらべない」ことが見事に井本直歩子の中で開花して立派な仕事をしていること そして今 日本代表として聖火受け取りしたことには彼岸から喜んでいることでしょう
     
    そして彼の高校時代の級友たちも 直歩子の活躍を賞賛し“わが子”のことのように喜んでいます 今回もAERAの井本紹介記事掲載号を 売り切れ店が多い中を探しだして入手し その記事内容を級友仲間に伝えてくれた者もいるほどです(級友間にはSNSならぬCNS=クラスメイト・ネットワーク・システムとも呼ぶべきものがあり これを介してです)
     
    このような級友の動きは 直歩子のみならず雄司もの人徳によるものでしょう

    ◎“秀吉の醍醐の桜”より“西行の桜”
    井本雄司の他界直後に級友が弔文を奥様に送ったことにたいして返信いただいた文面が他の級友の皆にも(CNSを介して)公開されました・・

    奥様の文面には「『願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃』という西行の歌の通り 願うことなら旧暦2月15日の満月の頃 満開の桜の下で死ぬ・・ということ叶わず 急足でいってしまった良人 今春は彼のいない桜を愛でながら 和船に乗ってしのびました(以下割愛)」・・とありました
     
    これに対して浮かぶのは“豊臣秀吉が催した『醍醐の花見』”で 
    慶長3(1598)年3月15日 京都の醍醐寺において総勢1300人が参加した盛大な花見の宴で 男性は秀吉 秀頼 前田利家だけ 他はすべて女性で北政所 淀殿 まつ(利家の妻)の3人以下は女房・女中がしめた 女性には着物が3着ずつ与えられて 宴の途中で衣装替えが義務付けられたので その衣装代の総額は現在価値に換算して39億円にものぼった・・というほど派手なもの
     
    井本雄司と三恵子のご夫妻にふさわしいのは 言うまでもなく“西行の桜”ですね
    DSCN1620 (2)

    DSCN1627
    ちなみに西行はこの歌を詠んだ10年後の2月16日に亡くなったのでお釈迦様入滅の2月15日に1日だけずれたことになり 願いはほぼ叶っています 一方 秀吉は醍醐の桜の宴の5か月後に亡くなっています 
    ・・・・・・・・・・・・・

    高齢者の志向・行動・ウォンツ・ニーズ(3)

    本題に入る前に・・

    雲雀と書いて「ひばり」と読む機会は多いものですが 四十雀と書いては「しじゅうから」 五十雀は「ごじゅうから」・・これはそれほど多くはないものです

     

    四十雀はスズメ目シジュウカラ科の小鳥で平均全長14.5センチ

    五十雀はスズメ目ゴジュウカラ科の小鳥で平均全長14センチ

    40kara 50kara
     シジュウカラ
             ゴジュウカラ


    ◎人生の折り返し点は40才が妥当!?


    前回のブログで述べましたが・・
    「実質的な”人生100年時代”にはまだ早く 今は80年の時代」とするのが妥当 ではその中で 人生の折り返し点はいつなのでしょうか

    「折り返し点」のとらえ方は様々でしょうが 人間の生理的・肉体的な折り返しは(個人差はありますが大まかには)40才頃を境に生じます 例えば・・下記の症状が出始めます



    ・老眼・・早い人は40才代から


    ・眼球の水晶体の黄変


    ・骨密度が減少↓

    kotumitudo-graph (2)
     

    ↑グラフは「Lumbago」https://www.lumbago-guide.com/bone-mass.html より引用

     

    ・聴力(特に高音域)低下
      40才代は30才代までと比べると可聴域全体に低下して 
    特に4000ヘルツ以上の高音が聞こえにくくなる     (50才代以上になると2000ヘルツ以上でも難聴化)


    ・更年期障害が男女とも始まる
           不眠 疲れやすい 神経質になる のぼせ 目まい 
    寒気 知覚異常 精力減退など


    ・クモ膜下出血が増える
     男性は40~50才代がピーク 女性は40才代から高齢に
    なるほど多い


    ・肌の老化始まる
      特に女性は更年期になるとホルモンの変化によって皮膚が薄くなり
    紫外線や乾燥など外部からの刺激を受けやすくなる


    ・尿失禁が増加
      尿もれは 昔は 妊娠出産経験した女性が多いとされましたが 
    最近は小学生までにも増えている状況で また男性でも20才代から始まる人も8人に1人 しかしやはり男女とも40才代になると増えて 男性で13%(ユニチャーム2014年調べ) 女性ではほぼ半数いると言われています

    ・認知機能(記憶力、言語能力、判断力、計算能力など)の低下が始まる↓
    ninti-graph
     (↑森永乳業発表データより) 

    以上の状況を踏まえて注目するのは・・

     

    ◎「四十雀(しじゅうから)」という名のスポーツチームが全国に !


    現在 日本全国のサッカー フットボールそしてフットサルなどのチームに
    「四十雀」という名を付けたところの なんと多いこと・・「帯広四十雀」「仙台四十雀」など ご当地四十雀が多数あります 


    勿論「40()から」のシャレ感覚で 実際にチーム構成は熟年・高齢者ばかり


    この状況を私が初めて知ったのは25年ほど前ですが 当時から なぜか特に
    サッカーチームにこの名が多いことに気づいていたので 今回調べたら そのルーツが分かりました


    最初に名乗ったのは「四十雀クラブ東京」というサッカーチームで 
    1952(昭和27)年に創立の”40才以上のチーム”としては日本最古で その後の各地に発生した「四十雀」と付いたチームの元祖です (現在は40~80代までの約200名が所属)

    tokyo-sijyuukara (2)
    「四十雀クラブ東京」のメンバーの一部

    hirosima-sijyuukara (2)
    広島四十雀サッカークラブ

     

    これも 皆さん体感的に40才くらいが境目と感じているからではないでしょうか


    これらは(私の調べた限りでは)すべて男性のチームです ところが・・

    林真理子 著の「女はいつも四十雀」という本が今年(2019)5月に出ました やはり女性も40才を意識しています

    onnahaitumo

    ◎「初老」も「不惑」も40才のこと


     「初老」という言葉 本来は「40才の異称」

    そして「不惑」も「40才の異称」・・孔子が論語で「四十にして惑わず」と言ったのも 40才を境目と認識したからか?(私は「論語読まずの論語知らず」なので 間違っていたら御免なさい)


    この二つの言葉は 昔も今も 生理的・肉体的能力は40才頃が
    頂点で境目となることを表しているのでしょう 社会や文化が変異しても人間の生物的形質は(何万年も経過すれば別でしょうが)変わらないから「初老」と「不惑」という言葉は生きているのでしょう


    蛇足ですが・・「初老」は「初老の紳士」などと年令特定されない使われ方をされ 
    「弱冠」は本来20才の異称なのに「弱冠23才」などと使われて 本来からずれる例が多いものです

     

    ◎雑誌「新潮45」の創刊時は「新潮45+」だった


    この総合雑誌は1985年創刊以来 手記 日記 伝記などのノンフィクションや
    多様なオピニオンを載せてきたが 昨(2018)年に 問題となる記事掲載によって 同年9月に休刊となった 

    この雑誌の創刊時は「新潮45+」であり これは45才以上の
    読者層をターゲットとしたのだろう・・というのは 欧米では それ以前から シニアマーケティング・高齢者市場においては

    50才以上を「50+」(フィフティ プラス) 55才以上を「55+」という表現をしていたからです

    (実際の;+は50などの数字の右肩部にやや小さく表記することが多い)


    つまり創刊時は 人生の境目を過ぎて円熟した読者層を想定した
    ものだったのでしょう もともと新潮社はシニア層に対しての意識が強かったので 同社独自の企画設計による「高齢者向けラジオ」も発売していたくらいです

     

    最近は日本企業の商品やサービスに「〇〇+」という表現が増えましたが 新潮社はその嚆矢だったと言えましょう

    sante40plus (2)

    参天製薬ホームページより

    jr-50plus (2)
    JR
    東海のホームページより

    ocuvite50plus (2)
    ボシュロム・ジャパン社のホームページより

    60plus-sportclub (2)
    シニア専用スポーツクラブ「60+」のホームページより

    ・・・・・・・・・・・・・・

    次回は「40プラス」関連について・・の予定です

    ◎東京・池袋の高齢ドライバーによる事故は・・
    とにかく毎日のように日本中のどこかで高齢ドライバーによる事故が発生しています 私が時々クルマで通る場所でも事故が起きました
    それが 今年2019年4月19日に東京都豊島区池袋で 87才の男性が運転する乗用車が赤信号なのに暴走して自転車をはね飛ばして 3才の女児と31才の母親が死亡 さらに歩行者4人もはねて合計8人が重軽傷を負った事故です 
    原因は“アクセルとブレーキの踏み間違い”

    この事故は色々な意味で問題となったのですが ここでは省略します 
    娘と妻を亡くした夫は 生前の娘の可愛い姿と声に妻の声と自分自身も加わった楽しいシーンのビデオ映像を7月にテレビを通じて流してもらい 「事故を起こした人には“厳罰”を処して欲しい」と訴えています
    私は事故から3か月経った7月21日も この場所を通ったのですが いまだに花束がいくつも添えられていました 
    イメージ 1イメージ 3

    イメージ 2池袋の事故があった場所
    献花と後方は豊島区役所ビル (撮影は6月18日)  
     
    ◎高齢者ドライバー事故多発のデータ
    ・江川紹子(ジャーナリスト)氏によれば・・
    (2019年4月23日付けhttps://biz-journal.jp/2019/04/post_27599.html
    「警察庁の統計を見ても、交通事故の発生、死傷者数は減り続けているのに 高齢運転者による死亡事故は例外で、下げ止まっている。さらに、昨年の年齢層別死亡事故の数値を見ると、10年前の発生数を
    100として計算する指数は、全体的には66まで減ったのに、8084歳については11485歳以上は196へと増加している。
    年齢層別免許保有者10万人当たり死亡事故件数は、85歳以上が16.27とダントツに高い(次いで高いのは1619歳の11.43もっとも低い3539歳は2.84)。

    2017年の交通安全白書の特集「高齢者に係る交通事故防止」によれば
    75歳以上の運転者が起こす死亡事故の原因は、ハンドル操作を誤ったり ブレーキとアクセルの踏み間違いなどの「操作不適」がもっとも多い。」・・とのこと
     
    ・交通事故総合分析センター資料によれば・・
    「ペダル踏み間違い事故発生率」では 25~54才=1%以下 それから年齢が高くなるほど発生率が上がり 75才以上=3%強 と3倍以上となる
     
    ◎私の目前で発生した事故は防げるのか?
    現在 当然のように自動車メーカーなどが 事故防止につながる装置を搭載したクルマを製造したり 後付け装置などを開発販売し始めています
    例えば “追突防止”“歩行者衝突防止” “自動運転 = 同一車線内自動走行など”ですが 最近 目立つ“アクセルとブレーキの踏み間違い”による事故の防止目的で(A)“アクセルを急に踏み込むと 急発進せずに ゆるやかに動き出す”という設定の装置が多く採用されていて 一部には(B)“アクセルを急に踏み込むと ブレーキがかかる”という装置もカー用品などで販売開始していますが このタイプの装置はまだ機構が複雑で改良の余地が多いと思われます
     
    昨年 私が運転しているクルマの目の前で 高齢ドライバーによる "明らかにアクセルとブレーキの踏み間違い”による事故が起こりましたが この事故は 先述の(A)ような装置では効果が無いと言えるものでした
    その事故の発生状態を(文章だけでは表現困難なので)図を使って説明します
     
     “アクセルとブレーキ踏み間違い”の事故
     (下図のAが高齢者ドライバーの運転する車)
     イメージ 4

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           イメージ 7
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    このケースの場合 A車の高齢ドライバーがアクセルを急に踏み込んで 急発進しないで ゆるやかに前進する装置が働いたと仮定したら Bのクルマではなく私のクルマCが衝突されていたでしょう

    また前を走行するクルマへの追突防止機能がついていたとしても役に立たない事態でした 現時点では“クルマの前を人または自転車が横切りそうになる場合の衝突防止機能は開発されていますが・・
    クルマどうしが通常のスピードで直角に交差するように走行して起きる衝突は避けられないでしょう

    ゆえに急なアクセル踏み込みに対しては完全に発進不可とする必要があります

    “アクセルとブレーキの踏み間違い”による事故は 現在主流になっているオートマチック車ゆえの事故でもあるということは 昔ながらのマニュアル車を運転した経験がある方なら痛感されていることでしょう
    とは言え やはりオートマチック車は便利なので 自動車関係各位には 事故防止に関する更なる改良・改善または発明?をお願いします 
     
    ◎歳とるほど“運転に自信”“運転得意ほど事故多し”
    「高齢者ほど運転に自信あり」
    調査実施者:NS&ADインターリスク総研 
           2017年発表
    調査対象者:20~80才以上
    結果:≪運転に自信がある人の存在率≫
               20~29才=49.3%
         60~64才=38.0%
         これより高齢になるほど
         驚異的にグングン数字上昇して
         80才以上=72.0%
     
    「運転が得意と言う人のほうが事故率が高い」
    調査実施者:旅行サイト運営の「エアトリ社」
           
    (2019年7月22日発表)
    調査対象者:20~70才代の男女772名
    結果:≪運転への自信の程度≫
        「普通」の人=約半数
         「ややあり」の人=23.4%
                   「非常にある」人=11.5%
        
    ・・つまり「運転に自信あり」は 
        計約3人に1人
     
        ≪運転中に事故を起こした 又は 
            事故に巻き込まれた経験率≫
        「運転に自信が無い人」=52.6%
                   「運転に自信がある人」=75.7%
     
    シニアの皆様 運転に自信がある方は 
    特にご注意あれ!
     
     ・・・・・・・・・・


    このテーマシリーズ(不定期)の手始めに・・

    ◎高齢化社会高齢社会超高齢社会
    まず 高齢者が多い社会の状況を 国際的に通用する表現で使い分ける必要があります・・その理由は
    国連やWHO(世界保健機構)が下記のように定義しているからです
    ・高齢者=65才以上
    ・高齢化社会
    (aging society)
     =高齢者が総人口の7%以上
    ・高齢社会 
    (aged society) 
     =高齢者が総人口の14%以上
    ・超高齢社会
    (super aged society)
       =高齢者が総人口の21%以上  
     イメージ 1
    ◎日本は「超高齢国(社会)」
    日本は・・
    1935(昭和10)年 
    高齢者が総人口の4.7%
    統計開始以来最低

    1970(昭和45)年 
    高齢化社会
    (高齢者が総人口の7.1%)到達※

    1995(平成7)年  
    高齢社会
    (高齢者が総人口の14.5%)到達
    2007(平成19)年 
    超高齢社会
    (高齢者が総人口の21.5%)到達

    2018(平成30)年9月 
    高齢者が総人口の28.1%に
    なり 
    高齢者人口は 3557万人で
    全国民の3.5人に1人が高齢者

    2035(令和17)年 
    推計で高齢者が総人口の33.4%
    となり 
    全国民の3人に1人が高齢者となる予想
    ※1970年は大阪で万国博覧会開催の年
     
    ◎高齢者の多い社会の認識上の要注意点
    1)日本はとっくの昔に超高齢社会になっているのに 未だに高齢化社会と表現している例・人があります(私が国連の定義を知ったのは35年くらい前ですが それより以前からあったのでしょう それほど経年してます) 
    2)「日本は平均寿命・高齢者人口率・高齢者人口率上昇スピードは世界一」と言うのは 過去の話で(高齢者人口率以外は)今では間違いです
     平均寿命(2017年)は 
    女性1位=香港(87.66才) 
       2位=日本
    (87.26才)
    男性1位=香港(81.70才) 
      2位=スイス(81.50才) 
      
    3位=日本(81.09才)
    高齢者人口率上昇スピードについては・・“「高齢化社会」から「高齢社会」への移行に要した年数”で比較すると 大韓民国=17年 日本=24年 ドイツ=42年 フランス=114年 (韓国は2000年に高齢化社会になり 2017年には高齢社会に到達)
     
    3)日本の超高齢社会は手放しでは誇れない それは日本の高齢者人口比率が多い原因が・・
     A)医療技術進歩による死亡率低下で平均寿命延長・・つまり長生きする人が増えた
    B)出生率の低下傾向が続き65才未満の人口が減少
    上記Aは一応 望ましい状態ですが Bは望ましくない状態で 欧州のいくつかの国では過去に低下した出生率を改善して向上することに成功しているのに日本はこれに至っていない
     
    4)中国の高齢者関連の数字には要注意
    中国では高齢者は60才以上として各種統計数字を発表しているので 単純に国際的比較ができない(これも中華思想ゆえなのでしょうか?)
     
    中国の高齢者(60才以上)
    ・2013年:1億9390万人 対総人口比率:14.3%(総人口13億5千万人)高齢者だけで日本の総人口をはるかに超えている
    ・現在では2億人を超えた世界初の国とされる
    ・高齢者増加スピード:1999~2018年の19年間で1億1800万人増加
      ・2050年:4億8700万人になると推計
    イメージ 2
    ◎敬老の日と言えば・・
    1965(昭和40)年に
    9月15日を「敬老の日」
    と制定 その後
    2003(平成15)年に 
    9月の第3月曜日を「敬老の日」
    と改定
    しかし その改定に異議も多かったので 
    老人福祉法改定によって
    9月15日を「老人の日」とし 
    9月21日までの1週間を「老人週間
    としました
     
    しかし高齢者を大切にし敬う行為を「敬老の日」や「老人の日」や「老人週間」だけに行うのもおかしな話で しかも日本人の4人に1人以上が高齢者という現在の社会になれば 多くのことに高齢者が
    関与したり 高齢者に関与するようになり 高齢者の存在は大切だが当たり前のようになり(理由後日説明)大げさに言えば一種の“空気のような存在”に近くなっています
     
    私が仕事上で高齢者に関する調査をしたり情報を収集し始めたのが 今から35年ほど前でしたが 当時「敬老の日」とその前後数日くらいはテレビや新聞で“高齢者に関する特集”が非常に多かったもので
    当時ある年の「敬老の日」1日だけのテレビ各局の特集番組は・・その数 合計15件はありました ところが近年では「敬老の日」のテレビでの高齢者関連番組は ほんの数件となりました
    これは 高齢者とその関連事が前述のように“空気のように”当たり前になって 関連番組が日常に分散している証でしょう
     
    ◎高齢者に関する“言葉”色々
    「老人」「シルバー」「高齢者」「後期高齢者」
     これらの言葉は使い方に注意が必要で この中でも「老人」は使われなくなった 但し「特別養護老人ホーム」「介護老人保健施設」等には使われている 他のシルバー」「高齢者」「後期高齢者」も
    施設名や文書の中では使われるが 商品やサービスなどで「これはシルバー向けの〇〇です」などと高齢者に向けて直接的な表現には使わないのが常識となっている
    「熟年」:熟年という言葉に定義は無い※ゆえに 例えば40才以上の人たちの総称として使うこともある これならば・・「私はまだシルバー(高齢者)ではない」という拒否感も生じない ※「熟年」は作家の邦光史郎氏が1978年に発表した造語で50才前後を想定したものだったが 現在は一般に中高年をさす 
    「シニア」:カタカナ表現としては多く使われる 
    「セニア」:シニアが「死にあ」につながるとして代替表現したもので もともと原語は「senior」だから こちらが妥当か?
    実際例:自動車メーカーのスズキが長年製造販売している”高齢者・身障者向け電動4輪車「スズキ セニアカー」”に使用
     イメージ 3 
     ↑
    スズキセニアカー

    「ゴールド世代」・「プラチナ世代」:少ないが使われることがある
    「百寿者」「センテナリアン」:いずれも百才以上の人たちを表します まれに「センチナリアン」 表記もあります
    日本の百寿者は6万9785人(2018=平成30年)で 女性が9割 1963(昭和38)年は 僅か153人でした
    「スーパーセンテナリアン」:110才以上の人たちを表します
    「グランデージ」「GRANDAGE」:GRAND+AGEで GRANDには“素晴らしい”や“堂々とした”などの意味もあり またGRANDFATHER(MOTHER)にも通じ AGEは年や時代の他に老齢という意味もある
    この造語は 素晴らしい高齢者そのもの 又は そんな人達が使用・利用するであろう商品に向けたもので 実際例としては 某インスタントコーヒー名 日産の自動車のあるバージョン名 某電機メーカーの商品用の登録名称となっている
     
    「老いるマネー」:高齢者特有の消費(後日述)に使われるお金を 中東産油国のオイルマネーにひっかけたもの
    「サンデー毎日」:高齢者の あたかも“毎日が日曜日”な状態を 同名の週刊誌から引用
    高齢者)「GNP」:“元気で 長生きして ポックリ亡くなる”を ローマ字で書く場合の頭文字・・昔 使われたGNP(国民総生産)から・・
    「ピンピンコロリ」:”最後まで元気”を表して 上記GNPと同義だが 語感としてはGNPに劣ります
    「きょういく」と「きょうよう」が大切:高齢者の認知症予防や介護予防には 今日(何処かに)行く”ことや“今日(何か)事がある”というような生活行動が必要ということ
    「老老介護」:高齢者が高齢者を介護
    「認認介護」:認知症者が認知症者を介護
    ・「ジェロントロジー」「老年学」:高齢者関係の学問
       ・・・・・・・・・・

    これまで私は  東京都豊島区南長崎 あるいは その旧町名である椎名町に関係した題材を多く取り上げてきましたが 皆さんの中には「椎名町」という地名を聞けば・・あの「帝銀事件」を思い出される方もおられることでしょう
    今や「椎名町」という名は 西武池袋線の「椎名町」駅と私がかつて通い  今も存続する「椎名町小学校」にしか残っていません この小学校も近年の少子化による統廃合で名前が消えるかもしれません
    しかし「帝銀事件」は日本の社会史または犯罪史の中に残るでしょう それゆえに「椎名町」の名は消えることはないでしょう
     
    ◎帝銀事件のあらまし
    1948(昭和23)年1月26日
    東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店で 
    行員たち16人が毒を飲まされて12人が殺され現金と小切手が奪われた事件・・これが通称「帝銀事件」
    ※帝国銀行は後の三井銀行 現在の三井住友銀行
    椎名町支店は1950年に統合閉鎖され廃店
    事件詳細は「シェアチューブ」(sharetube.jp/article/12965/)など参考下さい
     
    イメージ 1 
    事件直後の帝国銀行椎名町支店jaa2100.orgより引用

    警察の捜査の結果 テンペラ画家(※1)の平沢定通(ひらさわさだみち)が逮捕され  1955(昭和30)年に死刑が確定したものの 冤罪の可能性は否定できないために 代々の法務大臣が平沢の恩赦請求は退けながら死刑執行命令書には署名しないまま年月が過ぎ 平沢は 獄中生活30余年経過した
    1987(昭和62)年5月10日 肺炎のため95才で死去
    イメージ 2 
    平沢貞通 
    en.wikipedia.comより引用

    1:テンペラ画とは“顔料に卵黄を混ぜて作った絵具”を使って描いたもの

    ◎平沢貞通は犯人か?
    平沢が犯人とされた決定的証拠は無く ただ過去に銀行詐欺4回の犯歴があるくらいで その他は“可能性はあるが確定はできない”理由ばかりです
    中には “後日 いわゆる「面通し」として被害者に平沢の顔を見せたが 犯人の顔と断言できる者は皆無だった“ということもあったとのこと そして 犯行に特殊な毒薬を使った手口は 高度な知識と経験を持つ者以外では不可能なもの
     
    「歴史に“もしも”は無い」と よく言いますが “ある一つの歴史”がその後の人や社会に悪い状況を招いたならば それは いわゆる「歴史の教訓」として反省材料としなければならないもので そこで必要となるのは“もしも”の状況設定です
     
    帝銀事件に関しては大量の研究・考察結果情報が出ているようですが 私が読み取った範囲から言えるのは・・平沢貞通は 下記のような“もしも”によって そもそも逮捕もされず 獄死もせずに済んだのでは?ということ
     
    “もしも1”・・事件で奪われた金額とほぼ同等の大金を事件直後に所持していたことが判明していて 平沢はそのカネの出どころをガンとして説明しなかった ゆえに これが証拠の一つとされたが・・
     
    平沢の養子となって“冤罪追求”活動をしていた故平沢武彦氏が 生前の2000(平成12)年6月に『平沢貞通氏を救う会』のホームページhttps://www.gasho.net/teigin-case/jiken/shunga/shunga.htm「平沢が 死刑確定の約8年後に『平沢貞通氏を救う会』の初代事務局長であり武彦の実父であった作家の森川哲郎に・・「実は(あの大金は)『秘画12カ月』(春画)というものを描いて得たカネです」と告白していたし 小樽在住の“平沢の親族は 終戦後に 平沢が春画をよく描いていた事実を認めている」・・と発表している
    そして同じ2000年にNHKテレビが“小樽のある家で発見された 平沢作の『秘画12カ月』とみられる巻物を武彦が実際に見て調べているシーン” を放映している・・
    このことから・・もしも 平沢が「所持している大金は春画を描いて得たものです」と一言 言えば 罪を被せられることも無かったのではないだろうか・・まさに“言うは一時の恥 言わぬは一生の獄中生活”

    ※戦後の混乱と生活困難期には 大物の画家の中にも春画を描いていた人が多くいたことは後年 知られるようになったが 当時 平沢は文展無鑑査(現在の日展にあたる美術展に審査無しで出品できる) および日本水彩画会の審査員という高い身分であったゆえに 春画を描いているとは とても言えなかったことは想像に難くない
     
    “もしも2”・・帝銀事件での毒殺の手口は 前述のように とても 一般人では不可能ゆえに 犯人は旧陸軍「731部隊」または同「登戸(のぼりと)研究所」(双方とも毒や細菌で人体実験などして 兵器化の研究など行った)の関係者が容疑者であるとにらんで 捜査が進んだが すぐにGHQから その筋の捜査中止命令が出された
    GHQは旧日本軍の「731部隊」や「登戸研究所」の存在を感知していたので そこに関与した者たちへの戦犯不問とする交換条件として 研究結果資料や証言を731部隊長だった石井中将をはじめ 元部隊員や元登戸研究所員から収集していた そこに帝銀事件発生で警察が動き さらにマスコミまでが動くと “731や登戸”などの存在と資料が・・当時既に 米国が敵視し始めていたソ連側に漏れることを恐れたことは間違いないだろう
    もしも ソ連敵視の米国が中心のGHQの存在が無かったら・・「731部隊」か「登戸研究所」の関係者が真犯人となり 平沢は逮捕さえされなかったことになる
     
    ◎帝銀事件以前に同様な事件が2件発生していた
    第1件目:1947(昭和22)年10月14日 安田銀行(後に富士銀行 現みずほ銀行)荏原支店で 後の帝銀事件と全く同じ手口で犯行が行われようとしたが 毒殺も金品奪取も未遂に終わっている
     
    第2件目:1948(昭和22)年1月19日 つまり帝銀事件の1週間前に 三菱銀行中井支店で 現れた男が“前年の安田銀行の場合と同様な言動をした”ものの支店長の機転で未遂に終わっている
     
    ◎三つの事件はGHQがやらせた? 
    GHQは敗戦した日本を占領した「連合国軍最高司令部」のことであり 形式的には 米国 英国 ソ連 中華民国が関与したが 実質は米国の独占的権限が行使されて 米国は自国の軍事的優位性確保のために 前述のように 独占的に また秘密裏に“旧日本陸軍の毒薬や細菌による兵器開発資料“を731部隊あるいは登戸研究所に関与した人間から引き出して利用しようとするが・・
    ここからは私の推測ですが・・ 
    その引き出した情報を本国に送る前に その真偽性を確認しておこうとして 一つ“特殊な毒薬”の効果を“731または登戸にいた人間”に実証させようとしたのではないか その実行役を指名された人間は“実行すれば 戦犯不問にする”という交換条件を出され また絶対的権力を持つGHQの指示は拒否できるものではなかったであろう・・この推測の背景となるのが・・
    『帝銀事件の捜査主任であった成智(なるち)英雄警視は昭和47年に 雑誌の中でこのように述べている「アリバイが無いことと 事件の生き残りの者の証言による犯人像にピッタリ一致したのは 731部隊に所属していた医学博士のS軍医中佐ただ一人であった」(実際は“S”部分は実名)』
    『』内は「シェアチューブ:12人を一度に毒殺した「帝銀事件」とは」sharetube.jp/article/12965/より引用一部省略
    これに加えて・・
    帝銀事件の際 犯人は「GHQのホートク中尉の指示で先に来た」「ホートク中尉は消毒班を連れて後から来る」‥のように“GHQ”と“ホートク中尉”を口にしている
    ホートク中尉はGHQに実在する防疫関係の軍人であり その名前がスラスラと出るというのは 犯人がGHQと何らかのつながりがあったと考えられるので “SはGHQの指示で犯行せざるをえなかったのではないか”とも思える
     
    ◎帝銀事件現場跡は今・・
    帝銀椎名町支店が在った場所は 現在の東京都豊島区長崎1-7-1で 西武池袋線の椎名町駅から北に40mほどの距離に在り 現在はマンションが建っています 私も最初は場所が特定できずに 駅に張り付いたカタチで在る交番で「元帝銀事件が在った場所」を訊ねたのですが・・「分からない」という答えが返ってきたのには驚いた 聞けば「時々同じ問い合わせはある」と言うのにもかかわらず・・であり これは“何かある?” と勘繰らざるをえない 
    そう言えば 最近 帝銀跡地のマンションの住人が “大量殺人事件があった跡地とは知らされていなかった”として クレームをつけた・・というような話を聞いています
    イメージ 3
    帝銀跡地に建つ茶色のマンション 
    この道路を40mほど先に進めば椎名町駅 

    この道路左側に在るのが長崎神社(下写真)
    イメージ 4

     
     ・・・・・・・・・・

    今回は東京都豊島区に関係する「山口百恵」と「トキワ荘」関連のことをとりあげます(文中敬称略)
     
    ◎山口百恵出生地は東京都豊島区椎名町(現 南長崎)
    山口百恵(現 三浦百恵)の誕生日は1959(昭和34)年1月17日だそうですが  その出生地についての記述の間違いのなんと多いこと! 何しろ 多くの人が書き込み合って作り上げ かつ利用する存在の“山口百恵Wikipedia”さえも間違っています
    出生地は「東京都渋谷区(恵比寿)」とされて語られることが最も多く 次に多いのは「東京都」 その他「神奈川県横須賀市」や「東京都豊島区大塚」としている例もあります
    まあ「東京都」というのは間違いではないのですが その他の地は何を根拠に出現したのでしょうか 誕生後しばらくして横浜市に転居 再び転居した先が 小学校2年から中学校卒業(デビュー時)まで過ごした横須賀市だったことと 百恵自身が度々「わたしのふるさとは横須賀」と発言していたので “横須賀出生地説” が生まれたと考えられます 多分 百恵には豊島区での生活の記憶が定着していなかったところに横須賀の強い印象が勝っていたからでしょう
     
    試しに“山口百恵出生地が東京都豊島区である”という指摘が ネット上やその他のメディアであげられているかを調べたら・・ありました 
    最古は 1980年に「週刊平凡12月4日号」に登場 続いて1983年に藤原新也(写真家・作家)が著書「東京漂流」の中で 次に2012年8月の「berkeleyさんのブログ:アーバンダイアリー」で そして今年2019年5月に「百恵ちゃん大好き親父サーファーボバチャンのブログ」で発信されていました 
     
    そこで私は それらの指摘の正しさを証明するために このブログで確証を提示し補完することにしました

    ◎母親が百恵出産時に住んでいた「富士見荘」は現存
    実を申せば 私も“山口百恵出生地の真実”を知ったのは つい最近で「豊島区立郷土資料館」で豊島区史の本を閲覧して記事を見つけたのです それによると・・
    豊島区椎名町(現 南長崎)と言えば かつてマンガ家たちが住んだ「トキワ荘」が有名ですが そこから1キロも離れていない所にもう一つ・・
    “山口百恵が生まれた時期に その母親が住んでいた「富士見荘」”があります そのアパートの真横には西武池袋線が通っています そのアパートのすぐ近くにあった「西武診療所」(現在は廃所)で百恵を“とりあげた”と その診療所の「坂本俊二・スミエ院長(まま)夫妻」が証言されています』・・と 院長夫妻を昭和56年に撮影した写真付きで記されています。 
    夫妻の後ろに百恵が生まれた西武診療所の看板が見られます。(ご両人はその後に他界されています)
    seibusinryousyo
     ↑この写真は「百恵ちゃん大好き親父サーファーボバチャンのブログ」から引用させてもらいましたが、私は前出の書籍「豊島区史」の中でも全く同じ写真を見ています

    現在の富士見荘の入り口の門柱 奥に玄関が見えます
       この雰囲気のためか オーナーのお話では
    「時々 テレビドラマの
    撮影に使われています」とのこと
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    現在の富士見荘の建物(右側面に玄関あり)2枚とも↑↓撮影2019年6月21日
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    ◎「富士見荘」オーナーの貴重な証言が決定打
    所在地の現住所は・・東京都豊島区南長崎6丁目22番14号
    このブログ作成のため 私が写真撮影をしようと現地に向かったところ このアパートの門から数メートル手前の路地に 一人の高齢婦人が椅子に座って 膝の上の猫を撫でているので もしかしてと思い 声をかけたら なんと偶然にも・・その方が 富士見荘のオーナーだったのです
    早速 山口百恵の件を確認したところ 確かに事実と明言されました また 百恵の生まれた診療所は ここから歩いても1分とかからない所に在ったとも聞きました

    ◎「富士見荘」は近いうちに取り壊されます 
    現オーナーの先代が戦後間もなくに新潟県からこの地に来られて 自宅兼アパートとして建てた富士見荘の建物は1980(昭和55)年に改築されて現在に至っています
     
    現オーナーは今年82才と高齢なのでアパートの実際の運営は息子さんに任せているそうですが 建物の老朽化で 近いうちに取り壊すことを息子さんが考えているそうです
     
    ◎映画「潮騒」と「伊豆の踊子」両方に主演は二人のみ 
    正確には女優では山口百恵と吉永小百合だけで 男優の三浦友和も両方に百恵とコンビで出ています
     
    三島由紀夫原作の「潮騒」は 古代ギリシャで書かれた「ダフニスとクロエ」という“エーゲ海に浮かぶレスボス島を舞台にした恋愛物語”から着想を得て 三重県鳥羽市の海に浮かぶ「歌島(かじま)=現 神島」という実在の島を舞台にした小説で 過去に映画化は5回 同じ文芸モノの「伊豆の踊子」の映画化6回に迫るものです (他に「青い山脈」も5回ありました)
     
    1:1954(昭和29)年 青山京子 久保明     
           監督:谷口千吉
    2:1964(昭和39)年 吉永小百合 浜田光夫   
           監督:森永健次郎
    3:1971(昭和46)年 小野里みどり 朝比奈逸人 
           監督:森谷司郎
    4:1975(昭和50)年 山口百恵 三浦友和    
           監督:西河克己
    5:1985(昭和60)年 掘ちえみ 鶴見辰吾    
           監督:小谷承靖
     
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    ↑東宝のポスターより

    映画化された潮騒は・・
    「第3作目の
    小野里みどり 朝比奈逸人版だけは見ていない」という人が多いようですが 私は逆に第3作目のみを映画館で観ています

     
    ◎「トキワ荘」風の交番が「富士見荘」近くに出現
    今春 西武池袋線の「東長崎」駅南口前(東京都豊島区南長崎)に“かつてのトキワ荘”を模した造りの交番ができました
    元々この駅前に普通の交番があったのですが少し移動したのを機会に“マンガの聖地”の街にふさわしいように変身したものです
     
    実はこの交番と 先述の「富士見荘」との間は50メートルほどしか離れていません そして 山口百恵が生まれた「西武診療所」は「富士見荘」と この交番の中間にあたる地点に在ったのです
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                       トキワ荘を模した交番(新築なのに昭和レトロ感)↑
        富士見荘は この交番左横の道を先に少し進み 右折した所に在る

           トキワ荘を模した交番の側面と背面 
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                                        西武池袋線の東長崎駅南口↑
     
    ・・・・・・・・・・
    なお かつてのトキワ荘をほぼ復元するカタチにして来春完成目標で建設中の「(仮称)マンガの聖地としまミュージアム」は町内の「豊島区立花咲公園」の敷地内で 現在(2019=令和元年6月)は
    完成時の大きさがわかるような形の骨組みが現れています
           
    ・・・・・・・・・・

    ◎アキバのパーツ屋が無いとロケットも飛ばない!?
    今や家電量販店の各地への進出で あるいはネット販売などで 家電製品は どこでも購入できるようになりました しかし電気・電子部品(通称:パーツ 例えばコンデンサ 抵抗 IC  真空管 配線用リード線など)は家電量販店では売っていませんし ネットでは一部買えても 目的にぴったりの部品を見つけることは難しい状態です・・これを解決できるのがアキバのパーツ屋です

    私も高校生時代に アンプ製作で 部品探しに三日連続でアキバに通ったこともありました
     
    ところで アキバ以外で電気・電子の街と言えば 大阪市中央区の日本橋※が有名で 「電気のまち でんでんタウン」というキャッチフレーズで約40店舗ありますが 残念ながらパーツ屋はごく僅かしかありません(※日本橋は大阪では「にっぽんばし」と読み ゆえに日本橋1丁目は通称「日本一」)・・というわけで・・
     
    電気・電子を使った新製品のために試作品を作ろうとする 色々なメーカーの人たち あるいは 電気・電子を使って実験を行おうとする大学や研究機関の人たちが必要とする部品はアキバで調達することが多いものです
     
    今年2019年5月4日に打ち上げ成功で話題になった 民間製の小型ロケット(ホリエモンこと堀江貴文氏が出資する 宇宙ベンチャーのインターステラテクノロジズ=ISTの「MOMO3号機」)にはアキバで調達した部品が多く使われているそうです
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                             撮影:白井伸洋氏

    そして アキバと筑波研究学園都市を最短45分(1190円)で結ぶ「つくばエクスプレス」に乗って 各種研究機関から多くの研究者が部品調達に来ています
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                      新型車両TX-3000系電車の外観イメージ(画像:首都圏新都市鉄道)

    ・・という訳で アキバのパーツ屋は 国家にとっても重要な存在なのです
     
    アキバの街でパーツ屋が 集合している建物がいくつかあって それぞれに名前があり・・「ラジオスーパー」「ラジオガーデン」「ラジオデパート」などです もう一つ「ラジオストア」というのもありましたが残念ながら2013(平成25)11月30日に閉館しました 残ったパーツ屋さんには 何としても存続を切望せずにはいられません
     
    ◎「ヤマギワ」のロゴマークは亀倉雄策氏のデザイン
    アキバの電気街が隆盛を極めた頃 中には品格のある店舗がいくつか存在しました その筆頭が「山際電気(ヤマギワ) 現YAMAGIWA」で その他 「山田照明」「シントクエコー」などでした
     
    「ヤマギワ」は昔も今も 商品陣容をほぼ照明器具に特化していますが アキバに店舗を持つ会社としては異例と言える・・“有名グラフィックデザイナー亀倉雄策氏に依頼してロゴマークを作ったのです
    1966(昭和41)年に亀倉氏作成のマーク(正確にはコーポレートロゴマーク)が下図上段です
    ※当図はモノクロですが 当初はアタマの角が丸い十字のような部分は紺色がベースで 中に黄色の放射光のような細線というデザインでした
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    しかし近年 ヤマギワは経営苦境に陥ったため 現在は 電子部品メーカーのMARUWA」の完全子会社となり 2014(平成26)年に 再び有名デザイナーの佐藤卓氏にマークを改作依頼して 現在使用されているものが上図下段です・・前者よりアタマの図を小さくし アルファベットの字間を広げ カラーはモノクロです
     
    現在 YAMAGIWAは実店舗を持たないもののショールームは3都市にあるという変わった営業スタイルですが オンラインショップ(ネット販売)注力しています
    その扱い品目は やはり照明器具がメインですが その中でも内外の有名なデザイナーの手掛けたものが多いのが特色です
     
    一例は・・NHK朝の連続ドラマ「まんぷく」で安藤サクラ演じるヒロインの今井福子が勤めるホテルのフロントのカウンターに置かれていたフランクロイドライトがデザインした照明スタンド・・
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    ライトがデザインしたライト 
    TALIESIN(タリアセン)1」74,520円(税込み)

    さてヤマギワ以外にも 品格があった「山田照明」はアキバの街の北端とも言える地に 昔も今も在り ケバケバしい看板など無く ホームページでも高い意識のコンセプトをあげています この会社の最大のヒット作は・・
    「ゼットライト」 1954(昭和29)年に登場してから改良を続けながら65年の長きにわたるロングセラーです
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    そして大型電器店「シントクエコー」はと言えば 昔のアキバで食事をしようにも ちょっとした店が無かった時代に このビルの上層階に 正装をしたウエイターがいるレストランありました そして一階には某放送局のサテライトスタジオもあったシャレた店舗でした 
    現在はゲームの「SEGA」の店舗になっています(下写真)
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    ◎亀倉雄策と言えば1964東京オリンピックのポスターが超有名なのですが・・
    ここからはアキバから飛んでしまう飛話ですが・・(文中敬称略)
    亀倉雄策(1915=大正4年~1997=平成9年)は前述のように当時有名なグラフィックデザイナーで 代表作が1964年の東京オリンピックのポスターです 
    但し 図や写真を使ったデザインは亀倉作ですが 文字デザインは 別のやはり某有名デザイナーの作だそうです 
    “文字の書体とその文字を並べるデザイン”を「レタリング」または 最近では 本来の意味から拡大した言葉として「タイポグラフィー」とも言いますが 文字の並べ方の基本は・・文字が複数並んだ場合に 全体的に見て “文字どうしの間隔”が“感覚的に等しいか” です
    その観点からすると このポスターのレタリングにおいては 英文字の並べ方に少し難点があると言われます・・パッと見て KとYの間が広いですね その他細かいにも問題があると言えるでしょう
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    これらは連作で 大きな赤丸のポスターが第一作目で1961(昭和36)年 つまり58年前のことでした この事例も影響したのか・・1970(昭和45)年に開催された「日本万国博覧会(大阪万博)」では 英文字を使った各種の表記(レタリング)は(以下 私の記憶があいまいなのですが) 英語圏の外国人の専門家に“任せた”か“指導を得た”か どちらかの方法で行われています
    半世紀前では日本人の英文字レタリングのレベルが未熟だったのでしょう
     
    飛んで 2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」のエンブレムのデザインは ご存知のように すったもんだの末 野老朝雄(ところ あさお)氏作のデザインに決定しました
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                                野老朝雄と作品のエンブレム(出典:Tokyo2020)
    今回のエンブレムではTOKYOのレタリングは良くなっていますが 惜しむらくは 文字太さがやや細いことで 遠くから見た際の判読性がやや劣ることです
    ・・・・・・・・・・・・
                  
     

    前回のブログで綴りましたように “悲運の人 内田秀男氏が研究開発生活の一方で経営していた店である「内田秀男アマチュアラジオショールーム」が秋葉原に在った”というつながりで 今回は 秋葉原 俗称「アキバ」について・・です
     
    ◎メイドカフェのカリスマ
    アキバと言えば ひと昔前は電器街 しかし近年は「オタク」の街になり 「アニメ」「フィギュア」「メイドカフェ」「ゲーム」の店で占められていますが 特に「メイドカフェ」は現在100軒以上もあり それを目当てに男性だけでなく 最近は女性も来ます・・ですから 以前は 来店時に「お帰りなさいませご主人様」だけだったのが・・「お帰りなさいませごお嬢様」も使われます そして外国人の来店が増え また あいかわらず修学旅行の目的地の一つとして来ている生徒達も見かけます 
    アキバのメイドカフェのカリスマと言われる「ヒトミ」(志賀瞳)嬢は この道14年で 彼女が生み出した“メイドカフェ独特の呪文や仕草”は 今やアキバの全てのメイドカフェに浸透しています 彼女は現役メイドでありながらカフェ運営会社の幹部役職も与えられるまでになっています
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    ↑個人のフィギュアを店の透明展示ケースに入れて委託販売する形式の店内
                        
    今のアキバについて このように綴りましたが 近年増えたものが もう一つあります それはITに関連した”施設と新しいプチ起業”です(これについては次回以降に述べたいと思っています)

    私は60年以上アキバの街によく通い その内の20数年間はアキバに隣接する地に在ったオフィスに 秋葉原駅を利用して通ったので この街の変遷は感慨深いものがあります 
     
    ◎ジャンク屋
    アキバで電子部品(パーツ)探しするには 普通に新品の部品を売る店の他に 昔は中古品を売る店が多くあり それらの店は「ジャンク屋」と言われていて 私は 大いに利用していました 
    そこでは“中古の製品”や“一つの製品を
    分解して出る部品”などがあり それらは元はと言えば メーカーが作ったモノ または メーカーが使った部品なので 性能が良く 厳選されたモノなので アキバのパーツ屋さんに並ぶ普通の部品より優れているモノも多く それを見つけるのは楽しく ここは一種の“宝探し”のような場所でした 惜しくもジャンク屋は昔より減りましたが 今も存在しています
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    現在のジャンク屋 店内の一部 中古真空管ラジオ 右は日本で最初にプラスチックのキャビネット採用の「5球スーパーラジオ」1万6千円(三洋電機製」
     
    「ジャンク」は日本語では「がらくた」ですからピッタリの呼び方です
    しかし・・「ジャンク」という言葉は 最近では「ジャンクフード」(栄養の偏った 体に良くない加工食品)に使われ また 私より年齢が上の方たちには 「中国の帆掛け船であるジャンク」
    戦前の歌
    支那の夜から思いだされることでしょう
     
    作詞:西條八十 作曲:竹岡信幸 歌うは 渡辺はま子・・「シナの夜 シナの夜よ 港の灯 紫の夜に 上るジャンクの 夢の船 ああ忘られぬ胡弓の音 シナの夜 夢の夜」

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    中国のジャンク船(y-history.netより引用)

    ◎バッタ屋
    かつてアキバには大型の電器店が多数存在していましたが 一方で非常に小さい店構えで電器製品も店頭に殆ど置いていないような電器店がいくつか在りました
    その営業形態は・・秋葉原駅の改札を出てきた人たちをつかまえては 「アキバの中でも他店より必ず安い店」「ソニー製品でも2割引き販売」・・などと記した小さなチラシを手渡して店まで誘導してから お客の希望の品を売るもので その店に在庫が無い時は そのお客を店で待たせたまま 店員が自転車などで急いで アキバの“ある場所”へ行って調達してきて 確かに安い価格で販売するというもので このような店は「バッタ屋」と呼ばれていました
    「バッタ」とは・・古物商の業界の隠語で“投げ売り”を意味して 関西では「バッタ」に“偽物”という意味が加わって「バッタもん」という言葉が使われます(かつて島田紳助がよく使っていた言葉のようです)
     
    ◎60年前 アキバで買った“米軍払い下げ品”は優れモノだった
    私がアキバに行き始めの頃 あるジャンク屋で買った「カーボンマイク」(昔のマイクロフォンの一種)は“米軍の払い下げ品”で本体はアルミの鋳物製なので頑丈 さらに通話オン/オフ用のプッシュスイッチは “厚い手袋をしていても確実に押せる”作りになっていて さすが軍用と思わされましたが 更に感心したのが“マイクの感度”でした 別に日本の有名メーカーの新品の「カーボンマイク」も買っていたのですが マイクの感度では雲泥の差で米軍中古品が勝っていました
     
    ◎テレビはキットで手作りすれば圧倒的に安かった
    アキバの電器店は戦後には手作りラジオ用のキットや部品が売れた時代を経て 1953(昭和28)年にNHK(東京)と民間の日本テレビが本放送を開始してからは テレビ販売を始めましたが 人気があったのは テレビを手作りする人たちのための 組み立てキットでした
     
    1954(昭和29)年時 メーカー製テレビ価格は14インチ型で約10万円 1960(昭和35)年の“お米の価格”は10キログラム850円 今年2019(平成31)年4月では 同4282円 と5倍になっているので 当時のテレビは現在では50万円以上・・という計算になります
     
    ちなみに 1958(昭和33)年時の大学卒の初任給は大企業で 約1万5千円 近年の大学卒の初任給は約21万円なので14倍になっています
     
    一方 テレビをキットで作れば・・1例をあげると 14インチ型が何と2万8800円で出来上がりました
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    ↑雑誌「電波実験」1958年12月創刊号に
      掲載のテレビキット広告
    ↓その拡大
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    同雑誌に掲載の別広告 
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    実は私の実家の最初のテレビは キットによる手作りテレビでした
    それを作ったのは・・東京都の電気研究所に勤務していた叔父でした 叔父は少なくともテレビを3台 手作りしていますが その内の1台は完成したテレビを 製作依頼主の住む千葉県市川市まで東京都の豊島区からタクシーで運びました・・高額なタクシー料金と 製作手間賃を払っても 手作りテレビは いかに安あがりだったかがわかります
     
    という訳で 昭和30年代前半ころまではテレビキットが盛んに売れたと思われます 1959(昭和34)年4月10日の皇太子(上皇)ご成婚パレードをテレビで観ようと その直前にテレビ普及率が上がったとされますが その時点でメーカー製品と手作り品の比率は どんなものだったでしょうか?
     
    内田秀男氏が発見した“空中浮遊の放射能塵がテレビ画面にノイズとなって現れる現象”を 私も確かめていたのは この叔父の手作りテレビの画面からでした
      ・・・・・・・・・・・・
    秋葉原については 次回にも続けます
      ・・・・・・・・・・・・

    前回に “トランジスタ(三極鉱石)を発明したのにノーベル賞を逃した内田秀男氏”(以降文中敬称略)のお話をしましたが 今回はその後の内田の研究と夫人から伺った秘話などをご紹介します
    とは申したものの・・ 
    本当の“秘話中の秘話”というのは文字通り 秘密にしておかないと 人さまと社会に波風をたてるであろう性格のものがあるので 特に具体的名称や人名は記述できない部分もあることをご了承下さい
     
    ◎内田秀男の“その後”(1)横型マジックアイの開発
    内田がNHK放送技術研究所を退職の数年後に画期的開発をしたのが・・
    「横型マジックアイ」 マジックアイとは ラジオやテレビが放送電波を正確にとらえているか つまりチューニングの度合いを示すもので それまでは “視力検査の判読記号のC”のような形をした緑色に光る丸い帯で 〇の形の一部が欠けてCの文字のように表したもので その欠けている部分が少ないほどチューニングが正確で 受信最高状態では完全な丸い帯の輪で表示されるもの“で これも一種の真空管でした これは私もよく目にしたものです
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    マジックアイ:上が内田が開発のもの 
           下が従来品
    内田は 丸い帯状の表示ではなく直線の帯状の表示にして 見やすいマジックアイの真空管を開発して1961(昭和36)年に発売されて 多くの機器に使われました

    ◎内田秀男の“その後”(2)超常現象の研究
    世の中の超常現象を科学的に解明しようと 様々なテーマに取り組みました
    例えば・・「事故が多い“魔の踏切”」「13日の金曜日」「地震予知」「虫の知らせ」「テレパシー」「夜泣き石」「相性」「心霊写真」など これらについては雑誌の「電波技術」に連載されて 後に単行本の「四次元世界の謎」シリーズとして1970(昭和45)年から出版されました
     
    ◎内田秀男の“その後”(3)大型イオンクラフト開発
    その後の大きな研究テーマは 「イオンクラフト」でした これは“高電圧の電気をかけて発生するコロナ放電によって起こる風で 空中に浮く飛行体”であり 米国のマジョール・デ・セパルスキーが発明したものです
    内田は 軽いバルサ材木を骨組みにして円形に組み それに銅やアルミの電極と電線を付けて作りました
    1971(昭和46)年頃 日本テレビの当時の人気番組「11PM」を担当していた矢追純一(超常現象やUFO関連番組で当時有名なディレクター)が内田宅を訪ねてきて “番組の中で「イオンクラフト」の浮遊実験をする”という依頼され 後日テレビで見事実験成功の様子が放映されて大反響を呼びました
    その後内田は 「イオンクラフト」の大型化と効率化に取り組み 最大規模は 直径2,5メートルまでになりました
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    保管用の箱に入った直径1.3mのイオンクラフト
     
    私が内田夫人から直接聞いた話では 「イオンクラフト」に関しての ある特許申請したところ 通常は申請書類の文章と説明図だけで審査が行われるものを 特許庁の審査官から 実物の稼働状態の
    確認の必要があるとされ 大型の「イオンクラフト」試作機を特許庁まで運び入れ 庁舎屋上で稼働させて見せた・・そうです
     
    ◎内田秀男の“その後”(4)オーラメーターの開発
    夫人の著書によれば・・「オーラを辞書で引くと『その人から発散されていると感じられる、並の人には無い、独特の雰囲気』とありますが、ここでわたしたちがいうオーラとは、霊能者だけに見える、人体を取り巻く謎の光と言った方がよいかもしれません。その正体は『気』という人もいれば、『エネルギー』という人もいて、いまも議論されていますね。(中略)主人はオーラを微弱な電場と仮定しました。それならば、非常に感度の良い電流計で、人間のまわりを測定すれば、オーラの形がわかるのではないか、そういう意図で作られたのが『オーラメーター』です。」
     
    『オーラメーター』が人の周囲で反応する点を 沢山記録して その点を三次元的に並べてみるとオーラとみられる形が現れました 測定事例からは“過去の手術跡や骨折箇所に特殊反応があり また冷房病ではオーラが減少する”ことなどが分かったので 医学に利用できないか研究していましたが 内田は道半ばで世を去りました

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    据え置き型オーラメーター

    私は内田ご本人に直接会ったことはありませんでしたが 電気関連雑誌に掲載の写真でお顔は見ていました 最後に拝見したのは 『オーラメーター』を使って 植物からのオーラの感知を試みる姿がテレビで放映された時でした

    ◎夫人の内田久子さんについて
    1926(大正15)年 神奈川県箱根生まれ 箱根の老舗旅館 環翠楼の支配人の長女として生まれ 内田秀男と結婚し2男1女をもうけ 内田(夫)がNHK放送技術研究所を退職後に始めた各種研究の助手的役割もはたした
    夫が1985(昭和60)年に脳梗塞で倒れてからは 夫が研究仕事と並行して経営していた「内田ラジオアマチュアショールーム」店頭にも出るようになり 2014(平成26)年に88才で亡くなるまで店を続けた(晩年近くからは週に4日 店に出てその他はアルバイトや店員にまかせました)
     
    久子の父は陸軍のパイロット 久子の二人の兄も一人は飛行機内の通信士 もう一人は海軍で 戦後は日本航空でパイロットになり 連合赤軍による「ダッカ事件」でハイジャックされた飛行機の機長でした
     
    育てた長男と次男はともに東海大学の理学系の教授となり 長女はバイオリニストでしたが他界 長男の妻とその息子(久子の孫)も理学博士など 理系一族で特に次男さんが内田秀男の研究を一部引き継いでいるようです
     
    このような環境の中 久子自身は子供の頃から活発で 健康優良児で表彰されたり 現在で言う「山ガール」で富士山は二度登山 駒ヶ岳や雪山にも登っています また 眼を悪くしていた夫に代わって自動車の運転が必要になり1958(昭和33)年に免許取得しましたが その時点では東京都での女性免許は5番目か6番目と言われています そして乗り回したのが米軍の払い下げたクライスラー社の大きなクルマ
     
    そのような資質なので 内田の研究の多くも手伝い 例えば・・
    「イオンクラフト」の浮遊には2万ボルトの電気を供給する可変変圧器の操作を担当しました また 内田が執筆担当していた電気雑誌の記事のテーマ決めに際して 久子が「超常現象」を提案して これが後に内田の一つの研究テーマに発展 そして内田の店を任されるようになってから 電気電子の基礎や電気機器の猛勉強をしました 
     
    ◎内田久子が語った秘話
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    私が久子夫人に直接お会いしたのは計3回 いずれも 秋葉原電気街の「ラジオスーパー」という 電気電子部品の店や中古ラジオの店などの小規模店舗が集まる建物の2階にある「内田ラジオアマチュア
    ショールーム」の店頭で 最初は1996(平成8)年なので 内田秀男死去1年後で 最後は2013(平成25)年でしたが 久子夫人の記憶力は抜群で 昔のことでも人名や固有名詞が ポンポン出てきました・・そして こんな話が・・(個人名 会社名などは伏せました)
     
    ・夫人は内田の「三極鉱石」を はなから否定した上司の名前をはっきりと口にされ それほどまでにその名前を夫婦共有記憶していたことに 私は驚きました
     
    ・内田がNHK放送術研究所を退職後 某電気メーカー勤務の時期があって その頃の同僚の一人が 後にノーベル物理学賞を授与されましたが その授賞理由となった”あるモノの発見発明”については その発見のいきさつの話があるのですが このブログでは書けないのが残念です
     
    ・2013年に夫人からお聞きした時には その少し前に 三極鉱石発明にからんだ その後の周囲の対応に落ち度があったとして ある関係者が謝罪をしにこられたそうです
     
    ・沢山のマスコミからの取材に対応しましたが なぜか因縁のNHKからの取材が最も多くありました その中の一つが2009(平成21)年の「ブラタモリ」シリーズ番組でタモリが秋葉原を探索する中で来店して 店頭に並ぶ真空管の中でも特に「807」という真空管で話は盛り上がったが それもその筈 タモリの多趣味の一つ「アマチュア無線(通称:ハム)」で この「807」を使った送信機を持っていたからだそうです
    私はハム免許を持っていなかったのですが 自作の短波受信機でハムの人たち同士の会話はよく聞いていて その中で「807」という名称は頻繁に飛び交っていたのを覚えています
    『ブラタモリのロケの数日後 タモリは一人で来店して真空管を数点購入していきました』・・この『』内の内容は 久子夫人著の本の中で語られていますが 同じことを私も直接聞きました
     
    ◎後を受け継いだ「池之谷ラジオ商会」
    高齢になった久子夫人に乞われて 店の運営補佐をしていたA氏は 夫人亡き後 店を引き継ぎ 店名は変えたものの 真空管や電気部品の販売 真空管アンプやラジオの修理 アンティークラジオの販売などの業務を引き続き行っています
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    ↑晩年の久子夫人と後継者のA氏 店の中は今も同様で変わらない(A氏がこの写真パネルを店に置いておられます)
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    A氏と「池之谷ラジオ商会」店頭
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    「ラジオセンター」内の他の店の様子
    現在の秋葉原は「フィギュア」「ゲームソフト」そして「メイドカフェ」どの店が多数を占めてかつての「電器街」の面影はほぼ無くなりましたが・・
    実は電気電子部品(パーツ)や真空管を販売する店が固まって存在するのは ここ秋葉原以外には無く まだまだ貴重な電気街なのです
    ・・・・・・・・・・
    文中挿入のモノクロ写真は全て内田久子著「秋葉原、内田ラジオでございます」より引用
    ・・・・・・・・・・
    このブログを綴るにあたってネット上からも補足資料を得ようとした中で 内田秀男についてのウィキペディアの記述で 明らかに かつて私がある所に向けて今回のブログ内容の一部と同じことを書いて印刷されたものが参考に使われていることが判明しましたので 驚きとともに 私も少しは役に立っているのかな?と思っている次第です
    ・・・・・・・・・・

    世の中には 画期的な発明や発見あるいは偉業を成したにもかかわらず  何らかの不運な事情で正当な評価を得られなかった人が大勢います
    このような人たちをとりあげた日本のマンガ「栄光なき天才たち」というタイトルのシリーズ(作:伊藤智義 画:森田信吾)が1986(昭和61)年から マンガ雑誌「週刊ヤングジャンプ」で連載が始まり 
    1992(平成4)年で終了したものの その後も (別の作者たちによる) 続編が続きました
    また 2017年にはアニメとドキュメンタリーを組み合わせたテレビ番組としても放映されました
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    その間 登場人物は約40人に及びましたが  私が このシリーズに取り上げてほしいと思っている人が登場していないのです 
    その人が・・内田秀男氏 (以降文中敬称略)



    内田秀男(1921=大正10年~1995=平成7年)は 福井県生まれの電気・電子技術者 NHK技術研究所などに勤務した後に「内田ラジオ技術研究所」など経営しながらラジオや無線関連の雑誌への寄稿も多かったゆえに  かつてラジオ少年などとよばれていたラジオやテレビやアンプなどを自作していた人たちの間では誰でもが知る存在でした
     

    ◎トランジスタを発明していた!?内田秀男 
    内田秀男は小学生の頃から鉱石ラジオ(方鉛鉱や黄鉄鉱という鉱物と細い銅線を巻いたコイルと 今で言うヘッドホン から成るラジオ)自作するラジオ好き少年でした 長じてNHKの放送技術研究所に勤務するようになり ラジオ技術の研究を始めました
    イメージ 2 内田秀男
     (写真はwww.fureai.or.jp/~oomiya/UFO_jinbutu_gaide1.htmlより引用)

    イメージ 3 初期の鉱石ラジオ
     
    ところで当時既に存在していた真空管は 言わば真空の電球”の中の2点(2極)の間で電子を移動させる2極真空管というものがあり  発展形として2極の間にもう1極を加えた3極真空管 同様に4極 
    5極と出現するのですが  2極真空管の働きは「検波」(放送電波から音声信号を取り出すこと)または「整流」 (交流を直流にすること)  そして3極真空管以上の働きは「電流の増幅」です
    一方 鉱石ラジオで使われる鉱物は その鉱物の表面上のある2点に接触している金属を通じて「検波」作用をするので2極真空管と同じ働きをすることになります
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    ↑図の灰色部分が鉱物(方鉛鉱など)で左側の箱型の金属部分を1点として右側の矢印で表されている部分(実際は金属製の針先)をもう一つの点とします 図は(株)ティーアンドシーテクニカルのHP「古典音響機器ギャラリー」より引用
     
    内田は それならば・・
    その鉱物に3点で接触する金属を通じれば電流の「増幅」作用が得られるのではないかという着想が浮かび 実験を開始
    多くの種類の鉱物で効果を試すため 方々で鉱物を探し回り ある時は栃木県の日光付近の山奥に入って鉱物採取もしましたが 幸いにも叔父が秋田鉱山専門学校(※1)の教師をしていたため 様々な鉱物を提供してくれたりして実験を進めた結果 結局は質の良い ある方鉛鉱を使って それを3点で接触する金属線を介すると・・
    従来の鉱石ラジオでは不可能
    だった北京やハブロフスクの放送が聴こえるようになり これは真空管の3極管と同様に 電流を増幅するような効果が発生していると理解して 内田はこれに「三極鉱石」と名付けました それは戦時中の1943(昭和18)年のことでした
     
    その後 軍隊に応召しましたが 戦後 NHKの放送技術研究所に戻り 直ちに画期的な効果の「三極鉱石」の研究を再開しようとしたところ 上司から「そんな効果はありえない」と はなから否定された上に・・「君は朝 味噌汁で顔を洗ってきたのか」とまで言われてしまい
    研究テーマに採用されなかったが内田個人で密かに研究を進めた結果 1947(昭和22)年に「三極鉱石」が電流を3倍に増幅することを確認しました
    これこそ後にトランジスタと呼ばれるものと同じものでした
     
    内田はこの発明を直ちに上司に報告しましたが まったく認められないので雑誌に発表しようとしましたが (内田本人や事情通の人たちの推測では 研究所またはGHQによる阻止で)掲載されませんでした
    また特許出願しようにも研究所組織の中では上司の承認なしでは無理でした そのうちGHQが研究所に来て 内田の研究成果も含まれた資料を持ち去っていきました その半年後の1948(昭和23)年に
    米国のベル研究所の3人(ジョンバーディーンとウォルターブラッテンとウイリアムショックレー)連名の固体による増幅素子の発明発表されてしまいました 
    これは後に「トランジスタ」と呼ばれるモノの発明とされ この3人は1956年にノーベル物理学賞を受賞した
     
    ところで内田は1948(昭和23)年の5月6日に結婚しましたが それから間もない6月30日にベル研究所からトランジスタ発明の発表があったため
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    内田秀男夫妻の結婚記念写真

    新婚の気分は吹っ飛び 「地団駄踏んで悔しがった」と・・内田から聞いたとしてNHK放送技術研究所の先輩である杉本哲は 氏の著書「初歩のトランジスターの研究」(1958=昭和33年 山海堂)の中で記しています また「内田さんは たしかに三極鉱石の増幅作用があることがわかり(中略)相談にきた これがアメリカでトランジスタの発表になった年のお正月のことです 内田さんの発明はその前年の秋ごろなのです」と記述して証言しています 
     
    私も小学生の高学年時の鉱石ラジオの自作から始めてラジオ少年はしくれみたいになっていましたから 前出の杉本哲著の本「初歩のトランジスターの研究」を読みました 
    それは薄緑青色の表紙で厚さは1センチに満たない本でしたが その中に内田秀男の三極鉱石(トランジスタ)の発明という記述があったので衝撃を受けた記憶は今でも忘れていません
     
    実はベル研究所でトランジスタ的効果の基礎的発見は1947年であり 内田は 同様な効果を1943年に発見していたのですから・・その効果を上司が認め 現代のように先ず画期的効果発見または発明
    として世界に発信してから 組織的に強力な研究推進をしていたならば こちらの方がノーベル賞を受賞していたのではないでしょうか

    内田のこの件について”「たら・れば」話の例が多くある”としてネガティブに言われているようですが これは よくあるように 歴史上の「たら・れば」語りのようなやや興味半分のようなモノ
    とは異なり 切実さが存在しているのではないでしょうか
     
    このような事態の後どうなったか・・内田の奥様である内田久子さんが2012(平成24)年に上梓した「秋葉原 、内田ラジオでございます」中で・・「主人は研究所生活に嫌気がさしてきたようで、
    のちの決定的事件で辞めることになります」と記しています・・その事件とは・・
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    内田久子著「秋葉原 、内田ラジオでございます」
     
    ◎“放射能の影響がテレビ画面に出る”発見の発表
    内田は失意の中 NHK放送技術研究所内で今度はテレビ受像機の研究に着手していましたが 当時 ソ蓮や米国の核実験による放射能を帯びた塵が日本へも飛来して大気中に浮遊していると テレビ画面に“あたかも塵が浮いているように見える”(ノイズ)状態が現れることを発見して研究所内で発表したものの これも無視されたので 多分 三極鉱石の件の二の舞はイヤだと思ったのでしょう 内田は意を決して この発見内容を1956(昭和31)年に 職場の許可無しに雑誌「科学朝日」に寄稿した結果 国内外の新聞に取り上げられ 朝日新聞では内田の顔写真付き記事でした そこで研究所にも取材者が押し寄せることになるのですが 研究所側は当所には関係ないこととして 取材拒否しました
     
    そこで(久子夫人の著書によれば)・・「以前からの思いがオリのように積もって、たえられなくなったんでしょう。『辞表を出してきた』と、主人がタクシーに荷物を積み込んで帰ってきたのが昭和32年
    (1957)のことでした。」・・という結果になりました
     
    当時 私も確かにテレビ画面で放射能によるノイズ現象を見ていましたが 多分 この現象を見られたご年配の方も多いのではないでしょうか 
    ・・・・・・・・・・・・
    以上は 文中にも記した 杉本哲 著「初歩のトランジスターの研究」内田久子 著「秋葉原 、内田ラジオでございます」からの引用がありますが 実は私 20数年前に 内田秀男の奥様 久子さんにお会いして直接お話を伺っていますので その際の内容も記しています
     
    次回には 内田久子さんからお聞きした秘話も含めて綴りたいと思っています
    ・・・・・・・・・・・・
    ※1・・秋田鉱山専門学校は財界からの寄付もあって 当時 鉱物資源が豊富であった秋田県に   1910(明治10)年に官立校として設立され 1949(昭和24)年に国立秋田大学鉱山学部になり 2014(平成26)年に 同大学の国際資源学部と工学資源学部になった
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    ◎「水師営の会見」の場に生えていた棗(なつめ) その孫木が東京の旧乃木邸敷地にあります

    これは 歴史のワンシーンを見つめていたであろう ある樹木にまつわるお話です

    日露戦争でロシア側の旅順要塞を陥落(※1)させた乃木希典(まれすけ)大将は 降伏した敵将ステッセルと1905(明治38)年1月5日に水師営という村(現在の大連市内)会見しました(※2)
    その場所には一本の棗の木が生えていました
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     ↑自邸玄関前に立つ乃木希典大将(以下文中一部敬称略)
     
    ※1:要塞攻略における乃木大将の戦法に否定的見方があり これは多分にS氏の小説内容による
    影響があるようですが  軍事専門家によれば S氏の小説には事実との違いが多々あり 乃木戦法は正しかったのだそうです
    ※2:敗戦の将ステッセルに対する乃木大将の対応はことごとく仁愛と礼節に満ちた武士道精神的であり 例えば・・詰めかけた内外の報道陣に ステッセルが屈辱感を味わうような映画や写真を撮らせなかったりしたので その乃木の振る舞いは全世界に配信されて 称賛された 
     
    私の亡父は7年間も戦場にいた経験からか 戦後も軍歌と国威発揚の歌のレコードを時々聴いていましたので子供の私らも それらの歌が一部記憶に残っていて その中に「水師営の歌」があります  
    その作詞はあの歌人・佐々木信綱 作曲は岡野貞一 で昔は文部省唱歌になっていたそうです その歌詞が・・
    旅順開城 約成りて(やくなりて) 敵の将軍ステッセル
    乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営
    庭に一本(ひともと) 棗の木 弾丸跡もいちじるく(“いちじるしく”ではない)
    くずれ残れる民屋(みんおく)に 今ぞ相(あい)見る二将軍
    ・・(この後にまだ歌詞は 続きますが 割愛します 実は私もここまでしか覚えていません)
     
    歌詞の中に出てくる「棗」 その棗の孫になる木が かつての乃木邸がそのまま保存されている敷地に植えられています 
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     旧乃木邸の門 
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    旧乃木邸(左側が正面玄関)
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    旧乃木邸玄関に向かって左手前に棗の木があります
     
    この旧乃木邸の所在地は現在の東京都港区赤坂8丁目 その東側には乃木神社  南側に小さな乃木公園がありますが ここに隣接しているのが乃木坂で 現在では女性アイドルグループの「乃木坂46」で有名になりましたが・・ここの住所は赤坂といっても 地下鉄の六本木駅から歩いても8~9分で 六本木ヒルズから直線距離で850メートルです
     
    実は乃木希典は長州藩の支藩である長府藩の武士の子なのですが 江戸の上屋敷で生まれたもので その場所こそが現在の六本木ヒルズの地でした
     
    そして乃木希典はこの赤坂の自邸で亡くなったのです それは ご存知のように明治天皇崩御に伴う殉死 静子夫人も一緒にでした
    この現存する乃木邸で 二人が自刃した部屋が建物外から見られるようになっています 遠い過去のことですが 思いいたせば やはり衝撃を感じます
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     乃木邸南東角のこの窓のある部屋で二人は自刃(手摺が付いた回廊が邸外側に在り そこから部屋内部が見える)

    ◎マッカーサーが植えたハナミズキ
    さて この旧乃木邸敷地に もう一本注目すべき木があります
    それは・・戦後日本に君臨したダグラスマッカーサー連合国軍最高司令官が 日本到着後の早い時期に この乃木邸を訪れて植樹したハナミズキです

    その行為の理由については確定的な説が無いものの 大きくは二つの説があり
    一つは・・
    マッカーサーの父親が日露戦争後に乃木大将に会ったことがあり 
    その際に乃木大将の武士道精神的な話を聴き感銘を受けたため 息子のダグラスマッカーサーには常日頃「サムライ精神をもった乃木希典のような軍人になれ」というような教育をしていたため 敬意を表したもの

    もう一つは・・
    1912年(第一次世界大戦勃発2年前)に日米親善のために
    米国に桜が贈られ 返礼として米国からはハナミズキが贈られたが 太平洋戦争中に 敵国の樹木として多くが伐採されたので それを知っていたマッカーサーは意趣返しの意味でハナミズキを植えた・・というもの

    いずれにせよ マッカーサーの心の中には乃木希典の存在が大きかったことは間違いないことです
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    マッカーサーが植樹したハナミズキと説明看板
     
    昨年8月の私のブログで取り上げた❝マッカーサーの剣道禁止令に抗議して 日本で唯一 閉鎖されなかった剣道場の主 河野兼光先生❞を思い出しました
    多分 河野先生は武士道精神的な内容を含めた言葉でマッカーサーを説得したのではないでしょうか

    ◎水師営の棗の❝ひ孫❞作りには・・
    旧乃木邸の棗の話に戻りますが・・水師営に植わっていて 歴史の1シーンを見ていたであろう棗の木の“ひ孫の木“を育てたいと考える方がいましたら・・ 
    この旧乃木邸の棗の木は 毎年9月頃に この木の下の植え込みに実を多数落としますから その実を拾って中の種から“ひ孫”を誕生させられることでしょう
    ただし この植え込み部分を含めて庭をよく掃除する方たちがいて 実も片付けられてしまうので 実を入手するタイミングがむずかしいものです

    東京の旧乃木邸に隣接の「乃木神社」ですが 京都にも伏見桃山陵(明治天皇陵)の麓に同名の「乃木神社」があります また栃木県の那須塩原市にもあります
    ・・・・・・・・・・
    ◎寿命尽きて枯れた 庭の「たらの木」
    現在 ウチの庭に幹直径約5センチのたらの木が2本 立っていますが これらは この庭においては2代目で 初代は直径約1.5センチのときに庭に植えて20数年経ち 幹直径が約8センチになっていた昨2018年に命が絶えました その日はまさに突然やってきた・・という感じでした 
    虫に喰われたわけでもなく 病気になったでもない そして段々と弱ったふうでもなく まさに突然死 言わば“ピンピンコロリ”でした 
    調べたら たらの木の平均寿命は7年くらいとの指摘が多いので ウチの木は超長寿命だったわけです
    草花はともかく 樹木の突然死を目のあたりにして 人の死のような妙な気分になったものです
     
    “山菜の女王”と称される“たらの芽”ですが 戦時中の食糧難の中で この芽のおいしさを味わった人が増えたと言われます
    我が家でも自家製?の“たらの芽”を毎年 少量ですがてんぷらにして味わってきました 初代亡き後 今年は2代目だけの“たらの芽”を頂戴するはずでしたが 忙しかったこの4月のある日 ふと気が付くと なんと“たらの芽”は芽の時期を通り過ぎてしまっていました 残念!
     
    近年 “たらの芽”はスーパーマーケットでも買えるようになりましたが これらは種類が少し違うもので しかも発芽を人工的に操作したりで 天然ものより味が落ちるそうなので 来年こそはウチの“たらの芽”を忘れずに食べようと思います 
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    ↑今年4月22日のたらの芽 左写真真中に細く一本まっすぐ伸びているのが 食べるには 成長し過ぎた芽 右の写真のように全体に葉が出揃いかけてしまっていました
    ・・・・・・・・・・

    5月初旬の丁度今 町のあちこちで ジャスミンの花の香りが漂っています
    昔から香の強い植栽として 金木犀 クチナシ 沈丁花などがありましたが 近年は ジャスミンも増え、これもイイ香りで私は好きですが しかし これらの香りを嫌いという人も実際にいますし 最近の洗濯洗剤の強い香りが付いた服を着た生徒が多い教室では気分が悪くなる者が出ている また そのような服を着た者に スズメバチが寄ってくるそうで 事実 昨年 庭に金木犀が咲いた際に スズメバチが確かに飛来してきました・・というわけで “密かに香る”  ”秘めて薫る”良さを再評価する必要もありそうです
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     近所のお宅のジャスミンの花

    ◎我が家で紅白の花咲くめでたい植物
    世は祝賀ムード 考えたら自宅の小さい庭にも めでたい植物がありました
    先ず松竹梅があります その内の松は 以前にブログでも紹介しましたように 近所の公園で拾ってきた松ぼっくりからこぼれ落ちた種から生えて大きくなったものです
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    そして 梅ですが 紅白の花が一緒に咲く品種でこれだけでもめでたいもの
     
    もう一つ 毎年5月中旬から6月にかけて紅白の花が咲くのが・・
    多分「ハコネウツギ」・・“多分”と言う訳は・・これによく似た「ニシキウツギ」という種があって見分けがつきにくいからで この二種のちがいを調べても 私には判別がつかないという状態です いずれにせよこの二種の花は 最初は白色なのが 次第に赤(実際は濃いピンク)になるもので 全部の花が同時に色変化しないので紅白混在となります
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     ↑ハコネウツギの花の大きさは私の手の指との比較で ご判断下さい

    その他 センリョウ マンリョウ ナリキンソウ(金のなる木)もあります それなのにウチはおカネに縁が薄いのです
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    ↑センリョウ←写真は「NHKみんなの趣味の園芸HP」より引用→↑マンリョウ
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    ナリキンソウ

    ◎あの花たちはどこへ行った
    私は22才まで東京都豊島区に住んでいましたが 子供の頃は近所には 小さいながらも麦畑がまだあったような所で 私の祖父はその豊島区の自宅敷地内で色々な花を栽培していました と言ってもプロではなく しかし趣味の域は越えていました 大量に作るので それを隣近所や学校・幼稚園などに贈呈していました そのため町の花屋さんからは“商売に差し障る”からと苦情が出たほどでした
     
    当時 祖父が栽培していた花は・・
    ダリア 百日草 キンセンカ 矢車草 鶏頭 グラジオラス カンナ 葉ボタン 向日葵 コスモス など

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    ↑A)ダリア
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    ↑B)百日草    
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    C)キンセンカ(マリーゴールド)
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    D)矢車草 
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    E)鶏頭   
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    F)グラジオラス
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    G)カンナ 
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    H)葉ボタン   
    ※上記写真引用先
    A,D=「ヤサシイエンゲイ」HP/B,C=「Garden Memo」のHP E=「sozai.cms.am」のHP/F=「japaneseclass」HP G=「city.tonami.toyama.jp」HP/H=gardenia12.net」HP  
    しかし現在では これらの中には 花屋さんであまり見かけなくなったものがあります
    中でも私が気になるのはダリア それも大型の花のダリア その他 “鶏のトサカ”のような形が大きな鶏頭 大輪の向日葵 など 同じ品種でも大きなタイプを見なくなりました

    そこで私などは「花はどこへ行った」(Where have all the flowers gone)という言葉が頭に浮かびます これは本当はベトナム反戦歌として米国ピートシガーが作詞作曲して1955年に発表した後の60年代にキングストントリオやPPM(ピーターポールアンドマリー ) 変わったところでは あの女優マレーネディートリッヒがドイツ語とフランス語で歌ったりして 日本でも広まったものです ※PPMの歌:https://www.youtube.com/watch?v=bOTCa1F3F0c

    また 以前 雑誌「サライ」が「あの花はどこへ行った」という表題だったか?で特集を組んだことがありましたが (私はその記事をよく読んでいないものですが)これはストレートに昔の花を懐かしむ
    内容だったのだと思います やはり私と同じ思いを抱く人たちが存在しているのです
     
    ◎このテスト問題は問題?
    ここで“ダリアつながり”で 話は飛びますが・・
    私が実際に経験した 学校でのテスト問題や入学試験の中には・・“はたして この問題は何のためのものか?”と思ってしまうものがありました それゆえにこれらの問題だけは60年経過しても忘れません
     
    中学生の時の 「全国共通模擬テスト」だったか?で“職業・家庭科”(現在の“技術・家庭科”)の科目で出された問題が・・
    「ダリアの球根の分割の正しい方法を 次の三つの図の中から選びなさい」・・というもので 私は ダリアを栽培していた祖父が 毎年 花が咲き終わると 土中でいくつか束になってできる球根を分ける作業をよく目にしていましたから 勿論正解できましたけれど 学校では全く教えられていない問題内容でした これが全国対象のテスト問題として妥当なのか疑問をもちました
     
    また 東京都内の某私立中学校を受験した際に出された問題は・・
    「カニの『ふんどし』と呼ばれる部分は何にあたるのか」・・というもので これは 親が水産業に従事していたり 魚屋さんの子供ならともかく 都会の12才の子供が学校では習わないものであり 知っていることにこしたことはないものの 試験問題としては普遍性 公平性を欠いたものでした 

    それはともかく ではその正解は何なのか周囲の大人に聞いたら・・「それは カニのエラ」ということでした ところが その後 詳しく調べたら“問題の問題”が現れたのです
    結論から申せば“カニのふんどしの部分はエラではなく かと言って一言で答えられるようなものではない複雑な部位である”ので このような問いは中学入試問題に出すには不適切である・・ということです
     
    カニのふんどしとは・・カニの腹部分の下方にあるもので カニの種類によって 腹全体に占める大きさや形が違うものの 大まかに言えば 雄では三角形の形  雌は半円形のような形という相違があり 
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    雌雄のふんどし
     
    雌雄どちらのふんどしも薄く軟らかな殻のようなもので それ自体の裏側には少量の肉が付いているものの通常は捨てられることが多いが タラバガニのふんどしの肉は食べると 脚などの身と違う食感で
    おいしいそうです
    ふんどしは簡単にはがせて それがあった部分の“中身”側にはいわゆる“ミソ”と称されるものが一部存在し 唯一特徴的なのは産卵期近くの雌だけは ふんどし部分に粒々の卵を沢山抱える・・ものです

    つまり ”カニのふんどしはエラにあたる部分である”というのは間違いで エラというものは ふんどし部位から離れた所にある左右の脚の付け根に近い部分に 灰色の“魔女の爪”ような形で 左右5~6本ずつくらいが存在しているもので これは毒ではないが雑菌や寄生虫がいる可能性があるので食べられないものだそうです
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    カニのエラ 写真は「最北の海鮮市場」

    ・・このように“カニのふんどし問題”への解答は複雑な記述になってしまうのです
    ・・・・・・・・・・

    ◎大山(おおやま)は神奈川県に在り
    まず ご注意あれ 「大山」と書くと 関西以西の方は鳥取県にある大山(だいせん)のことと思われる方が多いでしょうが 「大山詣」の対象となる大山は・・
    神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市にまたがる標高1252mの山で 現在は「丹沢大山国定公園」の一部ともなっています
    江戸(東京)から18里(約70km)の地にあり そこには不動明王を祀る相州阿夫利山大山寺 俗に言う大山大権現があります
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    ◎なぜ大山が崇められるのか
    元来 日本では万物に神宿るとされ 特に山は この対象になりやすく この大山は スッキリと尖がった良形である上に『山頂には巨石があり それがご神体とされて「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」となって山岳信仰の山となりました 山頂には 縄文時代の祭祀跡や土器などが発見されているので 少なくともこの頃から人々の崇敬の対象であったことがうかがえます
     
    さらに 大衆の信仰を集める要素があり それは・・
    大山では 相模湾から
    水蒸気を大量に含んだ気流が山頂に向かって立ち昇るので山上には雨雲が発生しやすく 『別名「雨降山(あめふりやま)」それが転じて「阿夫利山(あふりやま)」などと呼ばれ 農民たちは作物のために雨乞いの祈りを捧げるようになります また漁師たちからは相模湾からの目印にもなった大山は海洋の守り神 さらには大漁の神として信仰を集めました』(『』内は小田急電鉄のPRページより)
     
    昨年のテレビ番組で 埼玉県のある農業関係者が大山詣をしている様子を放映していましたが 現在でも信仰が続いていることを確かに伝えていました
     
    ところで 大山にも出羽三山と同様に寺と神社の両方が存在します
    「大山阿夫利神社」(2200余年前に創建)と「大山寺」(1260余年前の奈良時代に創建 通称「大山のお不動さん」)
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    「大山阿夫利神社」
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    「大山寺」

    ◎こんな人達が登拝した
    大山大権現にお参りするのは 商売繁盛や病気治癒などを願う普通の庶民の他に 前述のように 農民 漁師 船乗り は勿論・・
    火消し・・これは(雨)水に関連してか  その他 鳶職 大工も多く この三職はいずれも高い所に上る仕事で いつも江戸から見える大山に 憧れをいだいていたからとも言われます
    刀鍛冶 鍛冶屋・・頼朝の太刀奉納に始まる 木製太刀奉納に関連か? 一部の鍛冶屋では息子が7才または12才になると父子で大山登拝して鍛冶若衆の仲間入りへの通過儀式としました
    十五参り・・江戸時代当時 15才で成人になるとして大山登拝を済ませば一人前とされました これは“出羽三山参りを済まして一人前”と同様ですが 特に 火消し 鳶職や大工たちは粋で威勢のよさを見せるには先ず一人前になるための大山登拝を済ませることは必須だったのでしょう
    芸能人・・浮世絵師は大山詣で多かった火消したちに目をつけて 当時の歌舞伎の人気役者を火消しに仕立てた姿を盛んに描いて好評だったので 役者たちも大山大権現にお礼参りをしました
    博打打ち・・賭け事の勝ちを願っての登拝者も多かった
    借金取り立て逃れ目的の者・・取り立て人が来る頃を見計らって大山詣に出かけるということが横行したそうです
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                歌川豊國 作の浮世絵

    ◎江戸時代の大山詣 講も梵天もあり 御師もいた
    大山詣は 江戸時代の宝暦(1751年~)の頃に始まったとされます
    現在の千葉県市原市にある出羽三山登拝記念の石碑群の中には 宝暦13年と刻まれているものがあり 大山詣が始まった頃には出羽三山参りも行われていたことが分かるのですが やはり大山詣は出羽三山参りやお伊勢参りにくらべて日数と費用の点で格段に実行しやすかったことに加えて 箱根の関所越えも必要なかったことも影響しています 当時 江戸からの大山詣は5泊6日が標準的だったようです
     
    『これにも やはり「大山講」があり その中の人たちが旧暦6月28日から7月17日までの登山が許されている期間に参詣に出かける
    まず お参りの先導者「先達」(せんだち)を選ぶと お参りの人たちは 両国橋東詰の垢離場(こりば)へ行き 素っ裸で大川に入り それぞれ手にした「さし」と称する“穴あき銭を通すわらしべ”を一本一本流しながら・・「南無帰命頂来 懺悔懺悔(さんげさんげ) 六根罪障 お注蓮(しめ)に 八大金剛童子 大山大聖不動明王 石尊大権現 大天狗小天狗」・・と祈念し 身を清めて 揃いの装束金剛杖で 納太刀を持って参詣に出かける 納太刀というのは奉納する木太刀で 帰りには自分の納めた太刀の
    代わりに 神前に納められた他人の太刀を持って帰り お守りにするのである※
     
    この大山詣は 長屋の男どもにとっては 別の楽しみがあり 
    大山詣の帰途 箱根 江の島 鎌倉に寄り道して遊んだり あるいは 品川まで来たら そのまま江戸へ入らずに 精進おとしといって 品川の遊郭で楽しんだりする者もいた』(『』内は岸井良衛 監修 「江戸町人の生活」より引用)
     
    特に江の島へ寄ることは流行ともなったのですが その理由は・・
    大山は男神が祀られ 江の島には女神の弁天様が祀られているので 男女神の両方を遥拝しなければならない・・という俗信が流布したからです
     
    ※「納太刀(おさめだち)の起源は・・
    源頼朝が“天下泰平 武運長久”を願って
    太刀を奉納したことに 始まるとされ 江戸時代には庶民にも広まり 参詣時に “奉納大山石尊大権現”などと書いた木製の太刀を納めたもので 次第に形や大きさがエスカレートして 一般には長さ6尺(1.8m)だったものが7mにも及ぶものもあったとか」・・(「」内と下の絵と木製太刀写真は 小田急電鉄PRページから)
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    長さ8尺くらいの奉納太刀を持つ絵↑と木製太刀↓
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    また出羽三山参りと同様に梵天(ぼんでん)が使われましたが その名残が 家を建てる際の上棟式で竹や木材に白い和紙のお飾りをつけたものをたてる習わしだそうです

    このように関東一円で大人気の大山詣は江戸時代の最盛期には年間20万人の登拝者があったそうで 当時の江戸の町の人口は世界最多の100万人であり 大山詣する人が殆ど江戸住人だと仮定してみると 実に江戸の5人に1人が登拝したことになります
     
    また 富士山や出羽三山と同じく御師(おし)もいて江戸時代の最盛期には160人もいたそうです
     
    ところで 「師走」の語源は“秋から冬にかけての大山詣ができない期間に 御師たちは江戸の町をはじめ関東各地に出向いて 布教と登拝勧奨をするために走り回った つまり師が走る・・というところからきている”という説があり もっともな感じがします
     
    ◎青山通り(国道246号線)は大山へ続く道
    大山へは関東地方の各地から多くの人が参るため 大山に通じる道となる「大山道」が8通りあります・・
    羽根尾通り大山道/六本松通り大山道/
    蓑毛通り大山道/田村通り大山道/柏尾通り大山道/八王子通り大山道/府中通り大山道/青山通り大山道
    その中でも「田村通り大山道」は 東海道の四ッ谷の宿(現在の藤沢市辻堂付近)からつながっているため 参詣の帰途に江の島に寄るのに都合がよく 人気の道でした
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    西洋の諺の「All roads lead to Rome」は「全ての道はローマに通ずる」と日本語訳され その意味は「同じ目的を達するにも方法は色々ある」とされていますが  その意味はともかく 「全ての道は大山に通ずる」・・と つい言いたくなります
     
    青山通り大山道」は現在の国道246号線であり その赤坂から渋谷までの部分は「青山通り」と呼ばれ 沿道にはお洒落な店舗やビルが並んでいます・・例えば「ブルックス・ブラザーズ」「サマンサ・タバサ」「マックス・マーラ」「スパイラルビル」・・ゆえに この通りは しばしば格好つけて「ルート ニイヨンロク」とも言われます
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    「ルート ニイヨンロク」と言えば 私はすぐに思い出す曲があります それは・・三田明が歌った「タートルルックのいかす奴」(レコードは1969=昭和44年発売)
    1番から3番までの歌詞の中に一カ所ずつ「ルート ニイヨンロク」が入っています
     

    作詞:東次郎 作曲・編曲:吉田正                      
     1番歌詞   紫色の 夜がくる 白い扉の スナックに 待たせた あの娘はもういない 霧が流れる ルート246 口笛吹いて 消えてった 
    タートルルックの いかす奴

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    これを機会に調べたら 三田明は別に「青山通り」という歌も唄っていました 彼の歌以外にも 歌詞に「青山通り」が入った歌は多く存在していることも知りました
     
    ◎三軒茶屋は大山詣の途中のお休み処だった
    江戸っ子の大山詣のコースは・・先ず神田明神にお参りして→赤坂→三軒茶屋→二子の渡し(二子玉川)→長津田→伊勢原→大山の約18里 大山詣の道中で一休みする人たち目当ての茶屋が三軒あったから三軒茶屋の名がつきました
     
    ◎古典落語「大山詣り(おおやままいり)」と「百人坊主」
    「大山詣り」は江戸落語 「百人坊主」は上方落語ですが 双方ともに共通点があり “お参りと坊主頭“がでてきます これはどちらも原典が狂言の「六人僧」であるからとされています お参り先の設定が 江戸では大山参り 上方ではお伊勢参り となっていて その他 話の筋と内容がちがっています
     
    ◎現在の大山詣は速く楽にできます
    新宿→小田急電鉄で約60分→伊勢原→神奈川中央交通バスで30分大山ケーブルバス停→徒歩15分→大山ケーブル駅→大山観光電鉄の大山ケーブルカーで6分→阿夫利神社駅(ここは阿夫利神社下社であり ここまでのお参りが定番ですが さらに上の阿夫利神社本社へは徒歩登山90分が必要) 
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    ←大山ケーブルカー
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    <出羽三山参り>
    私の認識不足でした 「出羽三山参り」は西の「伊勢参り」と対峙するほどの存在であり 「西の伊勢参り 東の奥参り」と言われるそうです (“奥参り”は“出羽三山参り”の別称)
     
    ◎出羽三山とは
    出羽三山は山形県のほぼ中央部にある 羽黒山(はぐろさん414m)  月山(がっさん1984m) 湯殿山(ゆどのさん1504m)ですが  それぞれは独立峰ではなく連峰です
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       最前が羽黒山 すぐ後ろが月山 最奥が湯殿山
     
    ◎昔は神仏習合 今は神社だが・・
    今から約1400年前に開山して山岳信仰が始まり 修験道の地となり 日本三大修験山の一つとされています (他は熊野三山と英彦山)一方で 三山巡りで五穀豊穣を願い 先祖を供養し 自身が生まれ変わられるという信仰が一般民衆の間に広まり 神仏習合のかたちで修験と信仰が続いてきましたが 明治政府によって強制的に神道系にされ 現在は三山にそれぞれ神社があり・・
     
    羽黒山・出羽神社=羽黒山は本来は伊氏波神(稲倉魂命)を祀るが 出羽神社の三神合祭殿には他の二山の祭神も併せて祀っている
    月山神社 =月読命 を祀る
    湯殿山神社=大山祗神 大巳貴命(大国主神)少彦名神(3神)を祀る
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    羽黒山の三神合祭殿(A)
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    ↑羽黒山の国宝 五重塔(B)
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    月山山頂と月山神社(C)
    写真ABCとも出羽三山神社のHPより引用
     
    しかしながら三山信仰の実態は以前のような神仏習合の性格が残っていて それを表す例として・・
    “三山登拝は 過去 現在 未来を巡ることになる”と
    されることで ここでは仏教上の意味が与えられています・・羽黒山=現世(祀る正観世音菩薩の観音浄土は現在を表す) 月山 =前世(祀る阿弥陀如来の阿弥陀浄土は過去を表す) 湯殿山=来世(祀る大日如来の寂光浄土は未来を表す)
    これによって 三山を巡ることを「三関三渡(さんかんさんど)の旅」とも「生まれかわりの旅」とも言います また「男の死支度」とも言われました
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    写真はhagurokanko.jpより引用
    もう一つの例は・・信仰する人たちが「梵天(ぼんでん)」と称する祭器を使うことで 「梵天(ぼんでん)」は 仏教の守護神として帝釈天とともに対を成す存在の「梵天(ぼんてん)」が由来考えられるからです(梵天の実際は後述)
     
    なお 湯殿山にある いくつかの寺には「即身仏」が存在していますが これも 死してもなお仏法による救世済民をしようとしたからだと言われています
     
    ◎出羽三山信仰は東日本で特に現在は千葉県で目立つ
    昔は当然のように現在の山形県 宮城県 福島県で出羽三山参りは盛んで 江戸時代後期からは 現在の千葉県でも特に市原市や袖ケ浦市などの上総(かずさ)地域でも盛んになりました
    “男は一生に一度は「三山(みつやま 又は さんやま)」に行くもの”と言われていて 江戸時代から現在に至るまで三山登拝が盛んです ※出羽三山は1997(平成9年)までは女人禁制でした 但し山麓には女性が遥拝できる施設は以前からありました
     
    また他の参詣地と同様に「御師(おし)」が存在していて 各地に出向いて 登拝の勧奨を現在でも行っていて それによってできた“信者の集まっている地域”を「檀那場」と呼んでいます
     
    ◎ここでも「講」が存在
    出羽三山参りを行うにあたって 伊勢参り 金毘羅参りと同様に「講」が組織され 現在でも存在していて 千葉県では少なくとも33カ所に存在します これが前出の檀那場ともなっているわけです 現代の講は拝礼と親睦の場となっています
    出羽三山参りを経験した人を特に「行人(ぎょうにん)」と称し その行人の集会所のことを「行屋(ぎょうや)」と称しています
     
    ◎登拝記念碑が多数存在
    出羽三山登拝を終えて行人となり一人前と認められる記念にと 各地には碑が建てられています 下の写真は私が撮影した千葉県市原市のもので 高さ約3mの塚に大小10数基の石碑があり 碑の裏面にある年号で 判読可能なものでは 「宝暦13年」(1763) 「明治11年」(1878) 「平成28年」(2016)などがあり 江戸中期から つい最近までも登拝が続いていることがわかります
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    ◎梵天(ぼんでん)
    講の中で出羽三山登拝前や年間行事 そして行人の葬儀には “竹棒の先に 出羽三山や行人を表した紙飾りをつけた「梵天」と称するものを立てます その様式や作製方法は講により全て異なり同じものは一つとしてありません 
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    梵天関連の写真は全て「千葉県立中央博物館」制作「梵天に見る房総の出羽三山信仰」より引用
     
    ◎江戸末期の出羽三山参りの旅の記録一例
    (浅井 信氏作成資料より引用)
    江戸時代末期1840年頃に出羽三山登拝した人の記録によれば・・
    現在の千葉県袖ケ浦市出発→日光東照宮→出羽三山登拝→松島→筑波山→銚子→袖ケ浦・・細かくは途中に沢山の寄り道があり 全行程   :1400km 所要日数:42日 費用      :3両(現在価格約30万円)
     ・・・・・・・・・・
    次回は「大山(おおやま)詣」についてです

    前回は富士山参詣に関係する講や富士塚についてふれましたが・・
    その他 遠路はるばるの旅を伴う参詣 それは「〇〇参り」や「〇〇詣」と呼ばれて有名なものがあります・・お伊勢参り 金毘羅参り 善光寺参り などのあまり知られていないものとしては・・大山(おおやま)詣 出羽三山参り 日光東照宮参り など
     
    これらを行うには 長い日数と大金が必要になるために 「富士講」と同様に地域ごとに「講」を作って 順番に代表者を「お参り」に送り出すという仕組みが多く採用されました その講は現在でも一部が残っています
     
    ただし現代の「四国八十八カ所巡礼」の旅の途中で色々なおもてなしや施しがいただけるように 昔もお参りの旅の道中に施しが得られて「懐」が助かったので 中には その施しだけを目的にした不届きな連中も現れたそうです
     
    またこれも富士山の場合と同様に お参り先への勧誘や案内 現地での世話などをする「御師(おし)」という人たち または これらの役目も兼ねる「山伏」が存在していているところがありましたが これも一部 現在でも続いています
     
    江戸時代には 天下泰平となり 江戸を中心とした「五街道」(東海道 中山道 日光街道 奥州街道 甲州街道)が整備されて 各地へのお参りは盛んになり 普段は農民・町人などは関所通過は簡単ではなかったものの こと「お参り」目的と申告すれば簡単に通行手形が得られて 街道通過がほぼ自由にできたそうで その結果 驚くほど多くの庶民が「お参り」をしています(ただしキリシタンは許可されなかった)
     
    例えば「お伊勢参り」に関する記録によれば 江戸時代では特に多数の集団がまとまって押し寄せた状態を「お陰参り」「お陰詣」と呼び これが約60年周期で3回あったとされ その内の一つは・・
    江戸中期の1705(宝永2)年の ある2か月間に約350万人が伊勢神宮にお参りしたそうで 当時の日本の全人口が約2770万人の内で 長旅が可能な年齢を16才から60才までとして この層はこの当時の人口の約6割を占めていたので お伊勢参りが可能な人口は約1660万人となり その内の350万人は約21%にあたります
    つまり2か月の間に 日本人の(子供と老人を除いて)5人に一人は伊勢神宮にお参りしたという超驚異的現象だったことがわかります
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     歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」の図では「おかげまいり」と書いたのぼりも見える
     
    これらの大きなお参りの旅は 信仰が深まるだけではなく 途中の各地で見聞を広め 新情報が得られ また一般的なお土産だけではなく 自分たちの住む地域のものより優れた技術や道具 優良農作物の苗や種も持ち帰ったりして 各地の発展にも寄与しました また帰り旅の途中では名所旧跡歓楽地などに寄り道する楽しみがありました
     
    今回 調べて気が付いたのは “一生に一度は〇〇参り”という言葉が 「お伊勢参り」に限らず 他の「〇〇参り」でも使われていることです それだけ「〇〇参り」は大切で 一大事なことであることがわかります 
     
    ◎お伊勢参り
    〇〇詣 〇〇参り と称される中では最も有名で最も参詣者数が多い“お参り”です 
    伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の神であり  五穀豊穣の守り神でもあったので 親や店の主人は 子や奉公人が“お伊勢参りの旅”に出かけたいと申し出たら これを認めなければならないとされていたそうで さらには 親や主人に無断で“お伊勢参りの旅”に出ても お参りした証拠のお札などを持ち帰れば許されたので お伊勢さんに比較的近い関西※の子供や奉公人が この無断の旅に出た事例が多いようで 「抜け参り」という言葉があり その由来には諸説あるものの  “無断で家や職場を抜けて旅に出た”ことを表現したとも言えましょう
     
    ※伊勢神宮への旅の所要日数は・・江戸からは片道15日  東北の陸奥国釜石から100日に対して 大阪から5日 名古屋から3日 
     
    富士講と同様な「お伊勢講」が各地で作られて 選ばれた者が代表で参詣する所謂 「代参」が行われました 一方 参詣に行きたくても事情で行けない人に代わって犬を参詣の旅に出すこともあって その場合の犬を「おかげ犬」と言うそうです 「おかげ犬」は お伊勢参りに行く人たちに連れられて行きますが 道中は多数の人たちが世話をしてあげて お守りなど受けて無事に帰還します
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      歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」の図の中には「おかげ犬」も   首にお札のようなものを着けて描かれています
     
    ◎金毘羅参り
    現在の」香川県仲多度郡琴平町の象頭山にある神社が金刀比羅宮(ことひらぐう)別名「こんぴらさん」また「金毘羅宮」「琴平宮」とも書かれる
    御利益は・・五穀豊穣 大漁祈願 商売繁盛・・と幅広い
     
    平安時代から栄えたものの戦国時代には荒廃したが 江戸時代初期には盛り返して 江戸中期には ここでも「金毘羅講」ができて お参りは非常に盛んになって それは お伊勢参りに次ぐ規模になったとされます
     
    そして江戸後期には あの有名な民謡「金毘羅船々」・・こんぴらふねふね)追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ  まわれば 四国は 讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり)象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現こんぴらだいごんげん)・・が流行り出しました
     
    お参りするには1368段の石段を登ってこその献身感がご利益をあずかることにつながると考えての有難みで人気があるのでしょう
     
    「こんぴら狗(いぬ)」登場・・お伊勢参りの「おかげ犬」と同じ役目をする犬が 金毘羅参りにも使われました 首にかけた袋には お札や賽銭 餌をくれた人への礼金 などが入っていて それで道中の人々に助けられながら 飼い主の代わりにお役目をはたして帰還しました
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     「こんぴら狗」の像 写真は「ウラスピNAVI」より引用
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    神札授与所では「こんぴら狗」の置物や絵馬などがあるそうです 写真はwww.konpira.or.jp/about/dog/dog-2011.htmlより引用
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     次回は 他の「〇〇参り」の例をとりあげます
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    以前に「文化」と「文明」の解釈を綴ってみましたが 江戸・東京において・・富士山が見えなくても別に生活に困るわけでもないのに何かとこのお山に関する人々の行為が多様に生まれ それは文化になっています
     
    現代の東京から見える富士山・・特に冬はクッキリ見え しかも黒っぽく見える丹沢山地などの後ろに真っ白な姿が強調されて 東京から見ても心が洗われてスッキリするような感じになります
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      (画像は田代博「東京から見る富士山と丹沢山地との関係」のHP yamao.lolipop.jp/fuji/tokyo/fuji.htm より引用)
    ◎葛飾北斎や歌川広重の富士山入り浮世絵
    葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「江戸名所百景」「富士三十六景」も江戸っ子に人気の富士山を素材に浮世絵文化を盛り上げました
     
    『北斎の「富嶽三十六景」は、通称「赤富士」と呼ばれる「凱風快晴」を含む名作で1831年頃に刊行されたと言われ 当初はタイトル通り36の富士山を描いた風景画でしたが 好評だったため10景追加され 最終的に46景にまでなりました このことは 江戸っ子たちの富士山に対する愛着や篤い信仰心があったからでしょう
    一方、広重の「富士三十六景」が刊行されたのは「富嶽三十六景」が大ヒットの約30年後 1859年のこと 実は広重が亡くなったのは前年の1858年のことであり 晩年描きためたものを預かっていた版元が 没後に刊行したと言われている 広重が北斎の「富嶽三十六景」を強く意識して描いていたことは間違いない』『』内はism.excite.co.jp/art/rid_Original_05323/より引用一部割愛
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    葛飾北斎 富嶽三十六景武州玉川
    (現在の多摩川 六郷の渡し)
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    歌川広重 名所江戸百景「日本橋雪晴」
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    歌川広重 名所江戸百景「水道橋駿河台」(すいどうばしするがだい)
    (以上の浮世絵画像は全て「アダチ版画研究所」サイトより引用)
     
    ◎「富士講」
    古来 日本では万物に神宿るの思想あり 特に山に対しては その思いが強く ついには山岳信仰となり文化となってきました 日本各地には特に信仰の対象として崇められて多くの参詣者が参る有名な山がいくつかありますが 中でも富士山は日本一の高さで独立峰として気高くそびえ 裾野は末広がりの縁起の良い美しい姿で 当然のように人気あり 富士山信仰する人たちが多くいますが その人たちの作る組織が「富士講」と呼ばれて江戸時代から現代まで各地に存在しています
     
    「富士講」の歴史は・・
    江戸時代の初期に富士山で修行した角行藤仏(かくぎょうとうぶつ)という行者が富士山信仰を起こし その後継行者が18世紀に 富士信仰を真面目に働く庶民のための宗教とするとともに 信仰の男女平等提唱して女性の富士登山を可能にしたために信者は江戸を中心に関東で大いに増えて その勢いが好ましくないとして幕府から何回も禁止令が出たものの講の勢いは衰えず・・江戸時代後期には「江戸八百八講 講中八万人」と言われたそうですイメージ 5
    江戸時代の富士山に登る富士講の人たち(二代目 歌川国輝)(matome.never.jpより引用)
     
    富士講というのはその信仰の結社を指すとともに信仰行為そのものも指す言葉になっています その講は町や村ごとにあって 毎月に祈祷などを行うとともに 講の参加者の中で順送りに数名の代表者を決めて毎年の夏富士山に派遣していました(その費用は共同で積み立てしました)


    富士山の各登山口には「御師(おし)と呼ばれる人が居て 講から派遣
    されてきた人たちに 信仰を説き 宿を提供し 登山の道案内もするなどしました また各地に出向いて布教兼富士登拝勧誘もしました 江戸時代の最盛期には富士吉田口には御師の家が百軒近く在ったそうです

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     富士山での富士講の人たち  (画像はFuji-news netより引用)                     

    1871(明治4)年に御師という職業を政府が認めなくなったりして 富士講も衰退していきますが 現在でも御師と富士講は残っています
    講の数は激減したものの その所在は日本全国にあって北は北海道から南は長崎県まで約70か所あります やはり最多は東京で20数か所 僅差で千葉県の約20か所ですが実は千葉県の特に東京湾に近い地域から見える富士山は東京(都内)から見える大きさとあまり変わらず 視界をさえぎる高層ビルも東京ほどには多くなく しかも東京湾越しに見えることになるので障害物が無いという好条件なのです

    面白いのは 富士講の存在が 静岡県でゼロ 山梨県でわずか一つという現状で これは以前にもふれましたが 富士山が常に身近に存在して見える静岡や山梨よりも たまに小さくちょっとだけ見える東京のほうが
    有難みを感じやすく 感激度合いが強くなるというウェーバーフェフィナーの
    法則的な現象の影響でしょう

     
    ◎「富士塚」
    富士講によって毎年順番に富士山詣でしますが 中には順番がなかなか回ってこない人や健康上の問題で実行困難な人たちが出てくるので 江戸時代後期から現在に至るまで 特に江戸・東京で人工のミニ富士山が作られ それは「富士塚」と呼ばれて そこに多くの人々がお参りするようにもなりました。

    江戸最古の富士塚は1779(安永8)年に高田藤四郎によって造られたもので 「高田の水稲荷境内の富士塚」と言われています その後 各地に富士塚が作られました。その多くは富士山から持ち帰った溶岩も使われ 中には小山に三合目 五合目など標識を設けた塚もあります

    また本来は富士塚頂上からは本物の富士山が見えるように作られたものの 現在はビルなどに囲まれて直視不可能となっています しかも通常は登山禁止の富士塚も多く 本家の富士山の山開きと同日の7月1日と他のもう1日の 年間2回だけ解禁とする所が多いようです

     

    多数あった富士塚も 東京都内に現存するのは約50か所と言われる中で特に東京都内の3か所と埼玉県の1か所が 国の重要有形民俗文化財に指定されています
    ()「江古田の富士塚」(東京都練馬区小竹町・茅原浅間神社境内) ()「豊島長崎の富士塚」(東京都豊島区高松・富士浅間神社境内) ()下谷坂本の富士塚(東京都台東区下谷・小野照崎神社境内) ()木曽呂の富士塚(埼玉県川口市東内野)
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    「江古田の富士塚」普段は柵から入られない
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    江古田の富士塚」本体
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    音羽富士塚(頂上)
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       東京都内現存最大富士塚の「品川富士」(品川神社境内)
       
    ◎東京の銭湯の「富士山の壁絵」
    銭湯は最盛期の1968(昭和43)年に日本全国で1万8325軒あったものの 現在では激減して4000軒を切るまでになりました その内 東京では約600軒 スーパー銭湯の類を含めば700余軒あるそうです
     銭湯は東京(関東)と大阪(関西)では ちがいがあります 
    東京の銭湯の壁には「富士山」の絵がある・・浴場奥中央の壁には富士山を中心とした風景がペンキで描かれています 大阪の銭湯にはそれが殆どありませんが 絵があるとしたらそれは別の題材をタイル片で 構成する絵であることが多いそうです
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    「銭湯に初めて富士山が描かれたのは大正元年 東京千代田区にあった銭湯『キカイ湯』の経営者が施設を増築する際 「子どもたちに喜んで湯船に入ってほしい」と浴室の壁にペンキで絵を描くことを発案して 川越広四郎という画家に依頼したところ 彼が 故郷の富士山を描いたのがはじまりで これが評判になり 真似をする銭湯が続出して広まりました」(「」内は日本銭湯文化協会談を載せた「ライブドアニュース」http://news.livedoor.com/article/detail/11022269/より引用)
    早朝6時から開く銭湯として有名な「燕湯」(東京都台東区上野)浴場は富士山の絵だけではなく富士山の溶岩を使った岩風呂まであります まさに“富士山好きの東京人”向けの銭湯です↓
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    東京には神社仏閣のような宮づくり様式の「東京型銭湯様式」が定番で 特に建物の入り口屋根が特徴的です その起源は 関東大震災(1923=大正12年)の復興時期に ある腕の良い大工が 世の中を元気付けようと銭湯の建物に「唐破風」を取り入れたところ 人気が出て 以降の銭湯がこのスタイルを採用した この様式は関西では殆どありません(道後温泉と京都の某銭湯にはあります)
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    唐破風の銭湯「明神湯」(東京都・大田区)
     

    ・大阪は混浴の銭湯が多かった・・江戸時代は全国的に混浴風呂が多かったのですが 明治10年に政府から混浴禁止令が出て 消滅に向かうものの大阪には混浴銭湯がいくつか残り 私の記憶でも 昭和30年代にはまだ在ることが当時のテレビで紹介されていました
    ・大阪では 温泉でなくても「〇〇温泉」と称した銭湯が多くありましたが 東京では それはありません
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎川端康成と坂
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    前回に坂の在る所に文士ありと綴りましたが 中でも川端康成(大阪生まれ)とは特に縁が深いようです 例えば・・
     ・川端は現・文京区の「中富坂」に住んでいた菊池寛を頼っていた
    川端は1920(大正9)年に一高を卒業し東京帝大に入学して 間もなく今東光らとともに文芸雑誌「新思潮(第6次)」※を自分たちで継承して復刊しようとして その了解を得るべく 「中富坂」にある菊池の居宅を訪問した 以後川端は何かと菊池からの支援を受けている (菊池は川端が大学生の頃から文才を認めていた) ※「新思潮」は1907(明治40)年に小山内薫が創刊したがふるわず以後 休止と復刊を繰り返して第3次と第4次復刊時には菊池が関与した
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    菊池寛
    ・「伊藤初代」と出会ったのが「壱岐坂」のカフェ
    下戸である川端は友人たちとカフェや食堂によく出かけたが 1919(大正8)年のある日に 現・文京区の「壱岐坂」にある「カフェ・エラン」で可愛い少女の女給の「伊藤初代」に出会って 彼女を見染めてしまい 1921(大正10)年9月に 婚約までしたものの 11月になって彼女から一方的に婚約破棄されています
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    初代との婚約記念写真まで撮ったのだが・・
    ・「切通坂」にある料理屋「江知勝」で牛鍋(すき焼き)をよく食べた
    1921(大正10)年11月に菊池寛宅で「横光利一」と初めて会った折に 現・文京区「切通坂」にある牛肉料理屋の「江知勝」に行き 牛鍋を菊池の驕りで3人一緒に食べた その後も川端はこの店を利用しています (その他にも夏目漱石 芥川龍之介 森鴎外らもこの「江知勝」をよく利用 この店は明治4年の創業以来 現在も続いておりすき焼きの老舗として また川端の贔屓の店として知られています)所在地は東京都文京区湯島2-31-23(湯島の白梅でおなじみの湯島天神そば)
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    ↓川端が1953(昭和28)年に「江知勝」を訪れた際の芳名録に名前が残っている
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    店入口と芳名録の画像はイントゥジャパンWARAKU MAGAZINEhttps://intojapanwaraku.com/travel/20160301/695/p3 より引用
    ・坂の多い「馬込文士村」の住人だった時期がある
    尾崎士郎に誘われて現・大田区のいわゆる「馬込文士村」に1928(昭和3年)5月から1929(昭和4)9月まで住んでその間に・・宇野千代 子母澤寛 萩原朔太郎 室生犀星 川端龍子 伊東深水らと交流しました
    ・妻の秀子が「臼田坂」で転倒して流産した
    臼田坂」は馬込地区の坂の一つであり そこで1928(昭和3年)の夏に 妊娠6カ月の秀子が風呂の帰りに転倒して流産してしまいました
    ・東京・千代田区駿河台の坂の上にある「山の上ホテル」も執筆場所にした
     このホテルについては後述します
     小説「伊豆の踊子」冒頭部分にある期待を抱きながら坂を駆け登るという記述をした
    「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨足が杉の 密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。(中略) 私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。(中略)  折れ曲がった急な坂道を駆け登った。・・」
    これは以前にふれましたが坂の持つ効用・性質の一つである坂の上に待つ あるいは存在するであろうモノやコトへの希望・期待を 誘発する”ことを まさに表現したものでしょう・・
    この小説では旅の途中で何度か遭遇している旅芸人の一行の中で可憐な魅力を感じさせる踊子にまた会える のではないかというのが”一つの期待だったわけです
     
    ◎「菊富士ホテル」と「山の上ホテル」
    東京で文人がよく利用したことで有名なホテルがあります これらのホテルはいずれも坂の上に建っていました(建っています)
     
    ≪菊富士ホテル≫
    前回にふれました文京区に多い坂の中の一つの「菊坂」 この菊坂の上に かつて「菊富士ホテル」(と称しても実態は高級下宿とも言われています)大正3年の開業から戦災で焼失するまで在り 世に名前を知られた多くの人たちが利用したそうです
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    かつての菊富士ホテル
    止宿した人たちとは・・宇野千代 尾崎士郎 直木三十五 広津和郎 竹久夢二 谷崎潤一郎 宮本百合子 坂口安吾 大杉栄 伊藤野枝 正宗白鳥などの文士 アナーキスト 政治家 学者など
     
    建物は戦災を受け焼失しましたが、跡地には昭和52年にこのホテルの創業者の羽根田氏の子孫により止宿者の名を刻む石碑が建立されました

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    菊富士ホテル跡地に建てられた碑
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    詳しくは近藤富枝 著「本郷菊富士ホテル」を参照下さい 
    ≪山の上ホテル≫
    東京・JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口(西口)から南に 緩い下り坂になっている明大通り(めいだいどおり)を歩いて5分に在る小道を右に曲がって 一方通行の坂を登ると「山の上ホテル」があります
    (現在では昔と異なりJR駅以外にも地下鉄4駅が利用できます)
    少し詳しい住所では東京都千代田区神田駿河台なのですが 神田という地域はかつて出版社が多数存在していたこともあり 小説家が滞在して執筆したり 出版社が遅筆な作家をいわゆる「缶詰」にするために利用されました
    ここを定宿とした人たちは・・川端康成 三島由紀夫 池波正太郎 伊集院静
     
    このホテルが利用された基本的理由は・・
    ・坂上の丘※に在り 気分よく静かで落ち着いた環境 ※このホテルの英語表記は「HILLTOP HOTEL」
    ・建物の外観・内部は(外国人の設計)アールデコ調を採用して美しいこと
    ・客室35部屋の内部は全てレイアウトが異なり 中には日本庭園付きのスイートルームや畳部屋付きルームもある
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    このホテル常用者の三島由紀夫は こういう言葉を残している
     

    「東京の真中にかういう静かな宿があるとは思わなかった。設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人っぽい処が実にいい。ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」


    ・・・・・・・・・・・・
     
    以上のように「坂」の在る所に文士・芸術家ありなのです
     
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎「大阪に坂が無いから文化が育たない」(私の上司の言)
    前回に「文化」と「文明」の解釈を綴ってみました
    そこで昔 私の上司(生まれも育ちも大阪)が発した言葉・・
    「大阪に文化が育ちにくいのは 坂が無いからや」・・の意味について考えてみます

    繰り返しますが 東京の坂の多さには比べられないものの大阪にも坂は沢山ありますし 大阪からも文化人・文化作品が多く生まれています
    近松門左衛門(浄瑠璃:曽根崎心中 心中天網島) 竹本義太夫(浄瑠璃語り)
    この二人は大阪を代表する文化の人形浄瑠璃(文楽)を大いに発展させ その他・・
    井原西鶴(浮世草紙:好色一代男 浄瑠璃) / 上田秋成(読本作者:雨月物語) / 織田作之助(作家:夫婦善哉) / 開高健(作家:オーパ) / 小出楢重(ならしげ:洋画家) / 小松左京(SF作家:日本沈没) / 安藤忠雄(建築家:住吉の長屋)・・など 大阪に生まれ 大阪で活躍して文化に貢献した(している)人たちは多くいます
    しかし惜しいことに 大阪生まれながら成年して江戸・東京()に移住して開花した文化人も多いもので・・与謝蕪村(俳人 俳画創始者) / 与謝野晶子(歌人 作家:みだれ髪) /佐伯祐三(東京よりパリ在住が長かった洋画家:郵便配達夫) / 川端康成(作家:雪国) / 小田実(作家:何でも見てやろう)  /
    丹下健三(建築家:東京都庁舎)など
     
    逆に 東京生まれだが大阪に行った文化人を 私は多くを知りませんが・・早川徳次(シャープ創業者) / ミヤコ蝶々(コメディアン) / 茶川一郎(コメディアン) / 藤田まこと(コメディアン 俳優) 
    ※ただし早川徳次と谷崎潤一郎は関東大震災での被災を契機に移住したもので しかも谷崎は大阪ではなく京都と神戸に住み 後に静岡県の熱海に定住しました
     
    というわけで せっかくの大阪生まれの人材 とその人から生まれる文化は 一部が東京などへ流れてしまっているのも文化が生まれにくいという感じを助長させているのでしょう
     
    さて坂と文化の関係については前回にふれましたが 坂によって得られる感動・憧憬・発奮など文化的所作の原動力は 坂の数に比例して増えることになり そうすると 坂の数が大阪より多い東京に利点があることになりますが それだけではなくて・・
    これも前回ふれましたように坂の位置と構造によって 坂から見える情景の質のちがいを生じてこれも影響します 東京では谷底のくぼ地のような景色がみえる坂があったり 向きも東西南北さまざまで それぞれから得られる情景は変化に富んでいます
    見える山に関して言えば・・富士山が見える坂もあれば見えない坂もあり・・という具合ですが それに対して大阪の坂は基本的に上町台地の西側のやや急な坂からは六甲の山 東側のなだらかな坂からは生駒の山が常にと言ってよいほど近くに見えるので 大まかに言えば 大阪の坂から見える情景は東京のそれに比べればやや単調で 感動・憧憬・発奮の発生も多くはないことになるのでしょう
    東京からわずかにでも見える富士山は 文化のための材料となるものの 大阪から生駒と六甲の山は ランドマークという利便性を担った性格なので 文化的な意味合いを感じにくいものです
     
    ただし六甲山が文化に影響した例で有名なのは・・石坂洋次郎原作の「青い山脈」の映画化での主題歌で西條八十作詞に服部良一が作曲する際に 「梅田から省線※に乗って 京都に向かう途中のこと 日本晴れのはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちに にわかに曲想がわいてきた」と氏の著書の中で述べています ※”省線”とは鉄道省の鉄道のことであり 鉄道省はのちの国鉄 現在のJR 私の祖父もよく「省線電車」という言葉を使っていました
     
    また 大阪の人が東京など関東に行って帰ってきた際には・・「生駒山と六甲山に囲まれるようにみえる大阪に帰ってきてホッとする 山の見えない東京では落ち着かなかった」というような言葉がよく聞かれるそうですが この場合は生駒と六甲の存在が心情的に作用して文化的ニオイがします
     
    蛇足ながら・・大阪では「浪速の商人」の伝統なのか・・「〇〇してなんぼ」という意識のもと 何事もスピード重視で 言葉は短縮して  例えば・・
    東京では「日本橋一丁目」が大阪では「日本一」 牛丼を食べ終わる速さは東京より確実に早い 信号が赤から青になって発進するクルマや歩き出す人の早さは大阪がリード 券売機は初期には硬貨を一枚ずつ入れていたのを数枚まとめて入れられるようにしたのも大阪から・・などなど これらの所作は 
    文化というより文明的な性格が優先されているきらいがあることも影響しているのではないでしょうか
     
    ◎坂と文士・芸術家
    以前に取り上げました東京の中の いくつかの文士村・・実は これらは皆 坂のある地域()だったのです
     
    「田端文士村」は東京都北区田端に在って芥川龍之介らが居住したのですが 田端駅に近い芥川の居宅から南に向かって下る坂の村でした
     
    「馬込文士村」東京都大田区・馬込 山王 中央の地域(現 地下鉄馬込駅の南東部の約2.5キロ四方)に 芥川の死後に求心力を失った田端から関東大震災を契機に移り住んだ文士も多かったのですが この地も坂が多く 山王から馬込にかけては「九十九谷」と言われるほどです
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    「落合文士村」は東京都新宿区上落合から中井にかけての地域にありましたが ここも坂が多い地域があって「一の坂」から「八の坂」までの連番の坂のほかにも 名前の付いた坂がいくつかありました
    ここでの文士や芸術家たちは坂下に居住した人たち坂沿いまたは坂上に住した人たちの2派がありました 前者は主にプロレタリア作家 のちに大勢が入れ替わって 尾崎一雄らの新興芸術派作家たち 後者は美術家と林芙美子たち
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    「四の坂」脇にある旧林芙美子邸入り口
    (私の母を車椅子に乗せてのこの坂の上り下りは大変にきつくて苦労しました)
     
    そして文士村とまでは言えないものの東京のその他の坂沿いには文士が多く住み または坂沿いや坂の上に在るホテルなどに宿泊しました
     
    ところで東京で「坂」と言えば文京区 ! なにしろ東京23区で名前の付いた坂最も多いのが文京区で126か所 僅差で港区が121か所・・というわけ     
     
    東京都文京区にある団子坂」は その周りに住んだ小説家も多く しかも彼らが執筆した小説に団子坂が出てくる作品も多くて・・森鴎外・・「青年」の中で  ・二葉亭四迷・・「浮雲」で ・夏目漱石・・「三四郎」の他
    多くの作品にも登場させました そして江戸川乱歩は団子坂住人ではないものの この坂の名を小説名にしたのが・・D坂殺人事件」 
     
    同じ文京区の「炭団坂」沿いには正岡子規が住みながら団子坂の情景を詠んだ句も作っています そして坪内逍遥もこの坂の上に住んで「小説神髄」を執筆しました
     
    また同じ文京区の「菊坂」沿いには樋口一葉が住み この地では処女作の「闇桜」などを執筆したそうです また宮沢賢治も住んでいたことがあります
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    在の菊坂 写真は「佳景探訪」www.natsuzora.com/dew/tokyo-east/hongo-kikuzaka.html より引用

    同じく「中富坂」には菊池寛が住んでいました
     
    このように坂のあるところ文士・芸術家・文化ありですが・・まだ続きがありますものの 長くなるので次回にまわすことにします
    ・・・・・・・・・・・・

    “東京と大阪の坂のちがいの続きですが 
    その前にちょっと・・
    ◎ウェーバー・フェヒナーの法則から
    人は 常に存在する又は当たり前のように存在するモノやコトに対しては意識が無いか もしくは薄い・・という性質があります 結果としてそれらの存在の意義 有難み“感動を感じにくい
    ものです 例えば・・空気” ”家の周囲の見慣れた風景などに対してなど またこの性質の結果強い臭いをかいでいると それに慣れてしまって 感じなくなることにもなります
     
    このような人間の感覚の性質には「ウェーバー・フェヒナーの法則というものがあり その説明には必ず数式が出てくるものなのですが ここでは省略して簡単に言えば・・人は・・
    (A) 小さな刺激を受けている状態では 刺激量が少し増減しただけで変化を感じる 
    (B)大きな刺激を受けている状態では その刺激量が激増または激減しない限り 変化したと感じない・・というものです
    もう少し具体的にこの法則が現れる例で言うと・・小音量で聴いている音楽を2倍に聞こえるようにするためには ほんの少しの音量アップですみ 例えば・・強さが2の音を4にするだけで 2倍の音量に聞こえますが・・大音量で聴いている音楽の音量を2倍の大きさに感じるように聴こうとするには 音量を単純に2倍にしたのでは全くだめで 2乗倍しなければならないというもので 例えば強さが10の音の場合は10倍の100にまで上げないと2倍に聞こえない
     
    この感覚現象の法則は 刺激を増やす場合だけでなく 減らす場合も同様で ある感覚が減ったと感じるためには その刺激の量を大幅に減らさないとダメなのです

    この法則があてはまるのは「五感」すべてにおいてで・・したがって視覚においてもです
     
    ◎東京には富士山が見える(見えた)坂が多い
    前述のウェーバー・フェヒナーの法則を踏まえて・・富士山を見ての感じ方にちがいが出るケースを
    前記の(A)(B)に当てはめると・・
    (A)富士山からちょっと離れた一都六県(東京 神奈川 埼玉 群馬 栃木 茨城 千葉)では 富士山が遠くに小さく見え しかも天候や大気汚染で 常には見られないという状態なので たまにその小さな富士山が見えるだけでも 小さな視覚的変化(刺激)になり 感動をおぼえます
     
    (B)静岡県や山梨県で富士山が常に間近に大きく見えることが当たり前の人々の感覚では 少々の変化は
    気にならず 例えば富士山が噴火でもして
       非常に大きな変化(刺激)あったなら あらためて富士山の大きな存在を感じることでしょう (ちなみに 記録が残る富士山噴火は過去16回で その内 平安時代が最も多くて10回  江戸時代の「宝永噴火」以降無し)
     
    私が住んでいた東京都豊島区椎名町では昭和30年代なら 二階から富士山を見ることができる家は多かったものです (余談ですが 私が中学生の時に2階の教室の窓から 建設中の東京タワーが日ごとに高くなっていくのが見えていました)
     
    しかし東京では高層ビルなどが増えて 富士山が見える機会も激減して 現在では よほどの高所からしか富士山が見えませんので たまにチョットでも小さいながら富士山が見えることは 前述の(A)のような状態に当たり つまり ちょっとしたことが刺激に感じる=感動になるわけです
     
    そこで 東京では昔も今も富士山がよく見える場所として意識されてきたのが「坂」で 坂の上から風景を眺めた場合の視線を遮るものは無いか少ないのが普通で 東京には神奈川県にある丹沢山地とその後ろの富士山がセットで見える坂が多く それらには「富士見坂」という名がついて 東京23区では16カ所以上あり さらに 本名がありながら別称として富士見坂と呼ばれるものも含めると24カ所以上ある言われています しかし現在は坂と言えども視界を邪魔するビルが前方に建つことが多くなり 
    今 実際に富士山が見える坂は・・文京区の護国寺(ちなみに歌手の尾崎豊の葬儀が行われた寺)の脇の
    富士見坂や 目黒区の大岡山の富士見阪などで 少なくなってきました その他 有名だった荒川区西日暮里の富士見坂は現在 ビルとビルの間からかすかに覗ける「すきま富士」状態になりました 
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    1999(平成11)年のこの富士見坂と富士山
     荒川区報200011日号表紙より

    この坂での見え方の変遷を記録された方の写真から引用させてもらいますと この25年間で「すきま富士」になったことが下の2枚の写真からわかります
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    1994,1,4↑ ↓ 2019,1,10
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    「西日暮里富士見坂からの眺望の変遷」yamao.lolipop.jp/fuji/fujimizaka/nishinippori.htmより
     
    このように東京には富士山が見えるまたは見えた坂が多いのですが  大阪の場合は坂からに限らず台地上や台地以外の平野部からでも ビルなどが視界を邪魔しない限り 東方向には「生駒山地」(奈良県との県境に主峰の生駒山(642m)に数個の山が連なったもの)近くに見え 北西方向には六甲山(931mで兵庫県南東部にある)山並みが これも近くに見えるので 大阪ではこの二つの山並みがランドマークなっています つまり二つの山並みは大阪では視覚的にも身近な存在であり 東京での富士山の見え方と比べれば 刺激・感動は湧きにくいものなのです
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    近鉄線の新石切駅からみる生駒山地
    https://tozanmotetai.com/ikoma-date/から引用   

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    六甲山系立体図:大阪はこの地図の右下方向
    「やまつみ」のHPより引用 

                                                                       
    ◎文化と文明のちがい 
    文化と文明それぞれの解釈・定義と相互のちがいに関しては 辞書のみならず 学者から一般人までから実に様々な説明がなされていますが 私が調べた限りでは 完璧なものは無いようなので 諸説の一部私見を加えて大まかに表しますと
    「文化」は地域性があり 効率を追求するものではなく” 心を満たすもの” 結果として基本的には持続性がある” 無くても生活には困らない

    「文明」は”普遍・汎用性があり” 効率を追求するもので” 心を満たす為のモノが満ちるもの結果として 常に変化し時には消滅する “生活に便利なもの
    ・・このように言えるでしょう 
      ・・・・・・・・・・・・
    次回は 今回の「文化と文明の観点」をふまえて "大阪の文化"と"坂と文士"についてみてみます

    ◎坂は心を振るわせ奮わせる
    古今問わず 坂はドラマを生み 絵画や小説を生み 文化を醸成してきました 
    坂を上る時も下る時も 目に入る風景は刻々と変化して面白く 坂の上から下を見れば 街や村あるいは自然風景が俯瞰でき それは見渡すということで一種の巨視的情報が得られる一方で 街の家々の一軒々々の暮らし 仕事に励む人それぞれの姿 行き交う乗物など こまごましたことにも思いをはせることができ 坂の下から上を望めば 何か新しいものが見える期待感が湧く 司馬遼太郎の「坂の上の雲」のように・・
    こうして 坂を介しての感動・高揚感や考察は人の心を奮わせます 
    その心の内を 感受性と表現力に優れた画家や小説家が作品に仕立て上げる例は多いもので・・坂の上から見た絵になる風景や坂そのものの絵画は多数あり また 坂を題材にする あるいは坂を登場させる小説  そして坂の名をタイトルに取り入れた小説も多いものです 歌川広重 岸田劉生 司馬遼太郎 石坂洋次郎の作品しかり・・
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    歌川広重 東海道五十三次「田坂」
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    歌川広重 東海道五十三次「庄野」

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    岸田劉生「道路と土手と塀」に描かれた切通しの坂     
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    佐伯祐三「落合風景
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           ↑石坂洋次郎原作「陽のあたる坂道」日活映画より

    ◎「民の かまど」
    坂の上からではないのですが 高所から家々の暮らしをうかがうという例で思い起すのは 「民のかまど」の逸話・・それは
    仁徳天皇が、ある日 高台に登って遠くを見られた際に 人々の家からは、食事準備のための煙が上がっていないことに気づかれ 「煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのであろう 都がこのような状態であれば、地方はなおひどいことであろう」と思われたので 三年間、税を免除しました。

    そのために朝廷の収入は無くなり 宮殿が荒れる中で 天皇も衣を新調されずに耐えられました

    三年がたち、天皇が同じ高台から眺められると 今度は、人々の家々から煮炊きの煙が盛んに立つ様子が見えたので 天皇がこのように言われた・・「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」

    そして、「私は豊かになった。喜ばしいことだ なぜなら 国とは民が根本である。 その民が豊かでいるのだから、私も豊かということだ」と言われ、引き続き、さらに三年間、税をとることをせずに、六年が経過してから課税を復帰させた

    そこで宮殿の修理をしようとされたらば 長年の免税を感謝していた人々は 進んで宮殿の修理に参加して すぐに立派な宮殿ができあがったといいます』『』内は 「美しく 樹つる 石が根」さんのブログより引用一部割愛
    ◎東京と大阪の坂のちがい 
    かつて私が大阪勤務(計10年)していたある時に上司(生まれも育ちも大阪)が ある時 会話の際に ふと 「大阪に文化が生まれにくいのは 坂が無いからや」と 自虐的?発言をされました 確かにこの「大阪」という地名表記は古くは「大坂」とされていたというにもかかわらず 東京に比べると坂が非常に少ない印象を受けますので 文化云々もむべなるかなでしょうが しかし大阪にも坂は沢山あります
    (当欄で対象にしているのは 東京でも大阪でも都市部の坂であり 両都府ともにある山沿いの坂は対象外とします)
    さて大阪の都市部には只一つ小高い場所である「上町台地」というものがあり これは大阪府南部の住吉大社のあるあたりから北へ向け(現在日本一高い建物「あべのハルカス」のある)天王寺を通り 長さ12キロ 幅2キロで細く半島のように伸びたカタチになっていて その台地北端に大阪城が建っています ですからこの上町台地の周囲には当然のように多数の坂があるわけです
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    図の中央の半島のようなものが
    「上町台地」その右薄青部分は古代の「河内湾」 
    左薄青部は古代の「大阪湾」
    atamatote.blog.fc2.comさんからの引用に追加記入
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    図の右が北で「上町台地」の北端に大阪城が建つ
    matomenaver.jpさんより引用

    しかし なぜ大阪には坂が少ない印象なのでしょうか それは 大まかな表現をするならば大阪の場合 ただ一つの高台である上町台地と 広く平坦な低地とを結ぶ坂だけにほぼ限られるからであり
    東京の場合は 西から東に広がる武蔵野台地において川による浸食で出来た谷底低地(窪地)”と”浸食されなかった台地部分の段差を結ぶ坂であるので この低地から見れば右と左の両方に坂(または崖)が存在することになり  東京の坂の数は大阪とは比較にならないほど多くなるわけです
    ※大阪の「上町台地」のような小高い所を 東京では「上野台」「本郷台」のように「台」と呼び それをまとめて「武蔵野台地」と称しています
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    大阪の坂は上町台地の東側と西側だけ
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    ↑東京の坂は 沢山ある谷(窪地)に一対ずつあり非常に多い  ※実際は「河岸段丘」という地形もあって坂や崖はより多い
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    ↑東京(武蔵野台地)は谷だらけ・・茶色部分が縄文時代ころの陸地 図のほぼ中央のお堀に囲まれた表現になっているのが現在の皇居で その前身の城を太田道灌が築いた頃はまだ海に面していました
    宮川典久氏の「スリバチとは何か」の「東京都心部の凸凹地形図」より引用
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    武蔵野台地東部 山手線周辺の地形模式図 市ヶ谷 四谷 千駄ヶ谷 渋谷など「谷」の付く地は やはり谷(窪地)になっています(五百尺智也著「歩いてみよう東京」の図に「地下水学会」が引用加筆したものを引用
    ・・・・・・・・・・・・
    次回は 坂の多い東京と文化の関係をみてみます

    ◎「馬上 枕上 厠上」(ばじょう ちんじょう しじょう)
    中国の北宋時代の欧陽 脩(おうよう しゅう:1007~1072年)政治家・詩人・歴史家ですが 「文章を練るのによい状況」としてあげているのが・・「馬上 枕上 厠上」・・それは・・
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      欧陽脩・『晩笑堂竹荘畫傳』より
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    「馬上」東海馬事苑HPより↑ 
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    「枕上」 
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    「厠上」
     
    「乗馬している時」「枕して布団に入っている時」「便所での用たし時」なのだそうで 「馬上」は「電車などの乗り物に乗っている時」と置き換えられます しかも 「文章を練るのによい状況」 というのは 「ものを考えるのによい状況」に置き換えられます こう考えれば この「三上」は経験上から誰もが納得できるものでしょう
     
    ◎外山滋比古 博士の説は三上・三中・三多
    英文学者にして言語学者 評論家 エッセイスト 文学博士 であり全日本家庭教育研究会元総裁でもある外山氏が1986年に上梓した「思考の整理学」はおよそ30年間に200万部以上も売れて 特に東大や京大などの大学生のあいだでベストセラーともなっていたそうですからこの本の内容をご存知の方も多いと思われますが
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    良い考えの生まれやすい状況を分類して提示されているのは・・
    「三上」 = 馬上・枕上・厠上
    「三中」 = 無我夢中 散歩中 入浴中
    「三多」 = 看多 做多 商量多 
     ・・であり 「三多」が分かりにくいのでくだいてみると・・看多 = 多くの本を読むこと 做多(さた) = 多く文をつくること(做は作の俗字) 商量多 = 工夫を多くして 推敲すること


    ◎ブランコ上/揺り椅子上/会話中/歩行中も
    「三上」 「三中」 「三多」 の他にも 私の経験上 思考のためになる良い状況・良い場としてあげることができるのは・・
    「ブランコ上」 = ブランコに座ってゆっくりと体を前後に揺すっていると考え事がよくできます・・映画やテレビドラマなどでも そのような設定のシーンがよく見られます 黒澤明監督映画の「生きる」での 志村喬演じる役所勤めをしてきた男がブランコに揺られながら それまでの人生と最後にやり遂げた仕事の意味を吟味しながら ゴンドラの唄を口ずさむシーンが眼に浮かびます         イメージ 8
    映画「生きる」から
    「揺り椅子上」=揺り椅子(ロッキングチェア)は座って自分で揺らせば これもブランコと同様な状況なので考え事がよくできます この経験ができる機会は多くはないと思いますがお勧めです (赤ん坊の揺り籠のように自分以外の人に揺らしてもらうと気持ち良すぎて眠くなりますが・・)
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    「会話中」 = 他人との会話の中では 新たな・自分には無かった情報が得られ 逆に自分の話・意見を口
    にする際には自分の頭の中の
    思考を整理する必要があることから 思考のためには有効 

    「歩行中」 = これも経験上 納得できる方も多いと思います ドラマなどでは 人が部屋の中を歩き回りながら考えるシーンは多く また考えを整理しながら言葉を選んで口述して それを秘書に筆記(現代ならパソコン入力)させるシーンも多かったものです 海外ドラマの「刑事コロンボ」の主人公は・・尋問などを終えての帰り際に数歩ばかり歩いたところでいつも もう一つ問いただしたい事を思い出すという設定のシーンが定番でした

    ※外山氏の提示について雑感
    ◎「三上」 「三中」 は・・思考や発想のためになる状況・環境提示であり 「三多」は・・思考や発想のための方法の提示
    ◎「三中」の中の「無我夢中」は 字面通りに受け取ると誤解が生じます・・と言うのは・・あまりにも あることばかり考えていると脳は疲れ 思いもつかないような情報が入り込む余地が無くなる危険性があるからで 外山氏自身もその本の中で・・「見つめるナベは煮えない』という外国の諺を紹介されて 何かを考え始めてから答えが出るまでは必死の努力よりもむしろ時間をかける方が大切で 早く煮えないかと頻繁に鍋蓋を開けていては いつまでたっても煮えないように 一途に考え詰めていると 良い考えは出ないものであり・・また「セレンディピティ予想外のものを発見することや 何かを探しているときに 探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること)は 脱線することで得られることがある」と言うようなことも述べられています 
     

    ◎「アルキメデスの原理」につながるヒント発見は まさに「入浴中」
    アルキメデス(紀元前287年頃~同212年)は古代ギリシャの数学者・物理学者・発明家・天文学者でした 
    ご存知のように「アルキメデスの原理」とは 流体(水など)中の物体は その物体がおしのけた流体(水など)の重さ(重力)と同じ大きさの浮力を受けるというものですが そのヒントになる発見をしたのが入浴中だったと言われ・・そのいきさつは・・


    ある時 アルキメデスはギリシャの植民地シラクサの王であるヒエロン2世から「金細工師に材料として純金を渡して作らせたこの王冠が その純金だけでできているか調べよ」と言われ

    王冠の質量(比重)を調べればすぐ分かることだが そのために王冠を溶かして体積を測れる形にしてしまうわけにもいかず ちがう方法を見つけるのに苦慮していた中で 気分転換に風呂につかっている時に 浴槽からあふれる湯を見て ひらめいたアイデアが・・水を満たした容器に王冠を沈めた場合金細工師に与えたのと同じ量の金を沈めた場合“それぞれ溢れる水の量を比べて同じなら王冠は純金のままであり 金に質量(比重)の小さい銀や他の金属を混ぜたならば (王様から預かった金と同じ重さにするために) 王冠の大きさが大きくなって 溢れる水の量も多くなる・・ということ


     このアイデアがひらめいたアルキメデスは思わず「Eureka」(ユーレカ※=「私は見つけた」「私は分かった!」の意)と叫んで裸のまま街に飛び出したそうです
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     入浴中の考えるアルキメデス
     

    現在このエピソードが「アルキメデスの原理」発見時の状況として語られる事が多いのですが 原理を導き出したのはその後のことであり つまり間違った話が流布されているわけです

     

    Eurekaの表現としては「ユーレカ」以外に「ユレカ」「ユーリカ」「ユリカ」「ユウレカ」「ユリイカ」などが使われていますが 最近はNHKテレビ番組のタイトルにおいて「(又吉直樹の)ヘウレーカ」
    という表現も使われています

     
    ◎「思考・発想のためになる状態」考
    ・身体と脳が弛緩しながら揺れる状態・・「馬(乗物)上」「ブランコ上」「揺り椅子上」
    ・身体と脳の血の巡りが良い状態・・「入浴中」「歩行中」
    ・視覚上の邪魔が入らない状態・・これについてはNHKのテレビ番組の「チコちゃんに叱られる」の昨年9月(今年2月にも再放送)に・・「人は考える時になぜ上を向くか」という質問への答が 『考える際に 目から入ってくる「余計な情報をシャットアウトするため」に 何も無いような天井や空を見上げる』というもので これが参考になります この理屈からすると・・「枕上」では あお向けで天井を見ることが自然に多い状態 又は目覚めていても目を閉じた状態では 余計な視覚情報は無い状態 「厠上」では空間が狭い上にモノが無いので視覚上の邪魔が少ない状態 「ブランコ上」「揺り椅子上」では目には映像が入っていてもそれが  揺れ動くために視点を定められないことが多く 結果として視覚上の情報としての認識がなされない状態
    ・通常とは異なる視点でモノが見える状態・・「馬上」 初めて乗馬する人が よく口にするのが・・「(またがると)高い !」・・こうして高い位置から 普段とはちがうモノが見えるようになります 
    「三多」の中の「看多」は 以前のブログに綴った「獺祭」 (だっさい)が これに当たる例の一つでしょう 
     
    ◎メモも大切
     外山氏もメモの大切さを説かれていますが ユダヤ人に優秀な人が多いのはとにかくメモを重視し活用するからと言われます 
    シルバー川柳に「寝て練った 良い句だったが 朝忘れ」というのがあるそうですが 高齢者でなくても 特に「枕上」で得られたアイデアはメモが大事でしょう
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎スズメとカラス
    スズメは都会から里山にまで 私たちはよく目にしますが 言い方を変えれば スズメは人が住まないような所には居ないそうです 「雀のお宿」になっている近所の竹林では スズメのものすごい大合唱がよく聞こえます
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    ご飯を食べるスズメたち 

    ・減少傾向のスズメ
    身近で多く生息するように見えるスズメですが 実は数が減っているそうです
     
    減少原因(1)
    野生(本来)のスズメのヒナの生存率が低く余命半年以下のヒナが多いようです
    私の家の周囲でも この1年に地面に落ちている“死んだヒナ”を2回見ました その内の1回は台風並みの風が吹いた翌日に見つけたもので 多分 巣から吹き飛ばされたのでしょう しかしながら うまく育てば もっと寿命は長いようで・・野生のスズメでは6年生きていた記録があり 飼育記録では 15年というのがあるそうです
     
    減少原因()
    天敵のカラスによる捕食・・他の猛禽類やネコも天敵ですが やはりカラスにやられる率が高いでしょう 私は実際にこの目でカラスがスズメを捕食する様子を見ました それは数年前のこと実家の庭をガラス戸越しに見ていたところ・・ヤマモモの木にスズメ10羽以上がとまっていたのですが 1羽のカラスが一度近くの塀の縁にとまって・・(後から考えたらこの時カラスはスズメへの突撃方法や侵入角度などを計算していたのだと思いますが)・・その後一度その場を離れて2~3分後に突然カラスがヤマモモの茂みに猛スピードで突入したのです スズメたちは四方八方に素早く逃げ飛びましたが そのうちの1羽はよほど慌てたとみえて 私の方のガラス戸に思い切りぶつかりました 気が付くとカラスは1羽のスズメをくわえて隣の家の2階の屋根の上に行きスズメの羽をむしってから食べ始めました これも自然の摂理 弱肉強食の一例でしょうが やはり衝撃的光景でした
     
    ・スズメは「鳥獣保護法」で守られています
    完全に捕獲禁止ではなく 捕獲許可期間が11月15日~2月15日 しかも公道上での捕獲は禁止だそうです
     
    ・スズメの土浴び・・水浴びは珍しくもないのですが 土に直径10~15cmの浅いすり鉢状の穴を掘って土を浴びる行為が時々見られます その目的は 羽の余分な油分や寄生虫を落とすためだそうです 穴を掘る場所は草などが生えていない土だけの地面が見えている所で しかも土が乾いている場合に限られます
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    スズメ土浴びの窪み跡(2か所)
     
    ・スズメを鈴愛にかけた?
    2018年上半期のNHK連続テレビ小説「半分、青い」のヒロインは「楡野鈴愛(にれの すずめ)」でしたが ドラマの中で・・母親が彼女に向って「カラスはスズメの天敵だもね」と言った場面があったのですが 私としては何でこの言葉が出てきたのか会話の前後の脈絡から考えても解せぬ気がしましたので・・作者が 「にれのすずめ」の「すずめ」に「スズメ」をかけてこのフレーズを使いたかったような意図を感じられたものですが・・私が会話の一部を聞き漏らしたので脈絡欠如と感じたのでしょうか
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    ・カラス・・日本で普通よく目にするのは2種
     「ハシブトガラス」:くちばし太い 肉食傾向 都会に棲む 「ハシボソガラス」:くちばし細い 草食傾向 里山・農耕地に棲む
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    ハシブトガラス
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    ハシボソガラス

    私の実家の庭でスズメを襲ったのは都会のハシブトガラスだったのでしょう
     
    最近はNHKのバラエティー番組「チコちゃんに叱られる!」に登場するカラスの「キョエちゃん」が人間の言葉をしゃべって人気ですが・・カラスが頭が良いのは周知の事実ですね 中には 神社の賽銭箱の横に落ちている硬貨をくわえて鳩の餌自販機のコイン投入口から入れて 出てきた餌を食べる
    カラスまでいるそうです
     
    ◎ヤマモモ
    ヤマモモは雌雄異株だそうで 実家の雌木は毎年の梅雨頃にやや暗い赤色で表面はブツブツした甘酸っぱい実が生ります しかし我が家の近所のお宅の大木にまでなったヤマモモは実が生らないとお嘆きで・・雄木だったわけです
     
    ヤマモモは4月頃に赤い小さな花をつけますが その花言葉は・・「ただ一人を愛す」「一途」 その由来は・・雌雄異株だが遠く離れた場所に花粉を飛ばしてまで実を付けるからと・・よく分からない説明がありますが それはともかく 良い花言葉ですね
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    スズメが襲われた実家のヤマモモ       
      その後に枝と葉を切ったもので
      当時はもっと密でした
    ヤマモモの実(直径1.5センチくらい)
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    オキザリス・トライアングリラス
    2014年10月のこと 近所の散歩で住宅地と杉林の境目を通る小径にさしかかったところ 杉の根元に広がる緑の草むらの中に 紫色の三角の葉3枚の草?を見つけました それはただの1本だけでしたが目立ったので 葉の下約10センチのところでちぎって自宅に持ち帰って 水を入れたペットボトル容器にさしておいたのですが その後何日たってもしおれることなく元気なものだと思っていたら 
    2~3週間後には葉の茎の下部から沢山の“ひげ根”が出ていることに気づきましたので これを植木鉢に植えてみました すると驚くべき生命力・繁殖力で その後は増え続けて たった1本の葉付きの茎が 現在では100本くらい生えていて 年間ながい期間淡いピンク色の直径8ミリくらいの花を咲かせます ちなみに 肥料は施したことなく 冬に枯れてもほっといて春にまた出てきます 

    調べたら これは「オキザリス・トライアングリラス」というブラジル原産の植物で別名が「紫の舞」と言うそうで 日本で言うカタバミの仲間で 種類も多く 葉が緑のもの 花が白いものなどもあるそうです
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    摘んできたばかりのオキザリス・トライアングリラス 夜には葉を閉じます

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    上の写真の1本が増えて・・現在の繁殖状態と花
     
    その後 気を付けてみると街中でもこの植物を鉢植えしているか 庭に植えているお宅を時々見かけます その苗や種も売っていることも知りました つまり それほど珍しい植物ではなかったわけで しかし私のように お金も出さず 道端にあった たった1本から育てた人は他にいないのでは?

    花は可憐ですが生命力の強さから出た”花言葉”は・・「けっして あなたを捨てません」「輝く心」「母親の優しさ・喜び」これも良い言葉ですね
      ・・・・・・・・・・・・

    先日のNHKテレビで植物学者「牧野富太郎」博士と奥様の話が放送されたようですが 私は見逃してしまいました ・・というわけで今回は植物のちょっとしたしたことを・・

    ◎ピラカンサ
    我が家の垣根の一部には「ピラカンサ」を植えていますが 毎年冬には直径6ミリくらいの真っ赤な実をびっしりつけます 
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     昨年12月のピラカンサ
    この実は青いうちは毒があるそうで それを知っている鳥は これが熟すのを待ってやってきます ウチは「ヒヨドリ」と「ムクドリ」が毎年やってきては「ビービー」「ヒヨヒヨ」などと 決してきれいではない鳴き声をあげながら約1か月半から2か月かけて食い尽くしますが 実を食い散らかすわ
    紺色や茶色の糞はするわで こっちとしては掃除が毎日必要になりますイメージ 10
            これからピラカンサを狙おうと集合した?ムクドリ約40羽
     
    たちは 実を毎年12月初頭から食べ始めますが 面白いことに食べ尽くしきる時期が年によって違い 早い年は元日にキレイに実が無くなったことがありますが 今年は1月21日に無くなりました
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    2019年1月21日のピラカンサ
     
    鳥の種類を多くは知らない私なので 最初はヒヨドリもムクドリも知らず ネットで調べてやっと特徴を覚えた次第です ヒヨドリはムクドリよりやや大きく 頭には後ろ向きにボサボサの毛があり ムクドリはくちばしと脚が黄色いのが特徴
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    ヒヨドリ(wikipediaより引用) 
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    ムクドリ(wikipediaより引用)
     
    ピラカンサは非常に生命力が強くて 鳥が食べこぼした実がアスファルト道路面などのちょっとしたヒビに落ちても簡単にヒョイヒョイ生えてきて成長も早いものです 
    昨年に東京の東武デパートで盆栽展をやっていたのをたまたま観たのですが 定番の松や楓などの他にピラカンサの盆栽も多く展示されていました
     
    ◎オハツキイチョウ
    季節はずれのイチョウ・銀杏についてですが・・
    イチョウは「生きた化石」と呼ばれるほど大昔 2億年前には地球上に広く分布していたので アジア 欧州 北米から化石が出ているそうです イチョウの葉には認知症改善成分が含まれるということで欧州では早くから薬となってきましたが 日本でも最近になってやっとサプリメントとして市販されるようになってきました
     
    さて普通 銀杏の実は葉の付け根に数個付いてできますが
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    ごく稀に 実が葉っぱの先の方にくっついてできるイチョウの木があります それは「オハツキイチョウ」と呼ばれています その数は当然少なく 日本中でわずか20本と言われています 茨城県 山梨県 奈良県 新潟県などで見つかっていますが 私が実際に見て実も拾ったのは 今から40年も前に
    兵庫県加西市殿原という場所の「オハツキイチョウ」でした だいたい実全体の数の1割くらいがお葉付きでした 当時その写真を撮らなかったのが残念ですが 現物は今も持っています それが下の画像です 実がひからびてしまっていますが 葉に実が付いているのはお分かりでしょう
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     「オハツキイチョウ」というカタチは“胞子を葉の上に付けるシダ類と同様に 種子を葉の上に付ける状態であり これは いわゆる「先祖帰り」を表す貴重な例である“ と言われています
     
    ◎アケビの実の甘さに勝るもの無し!?
    里山に近い我が家は 雑木林に生えていたアケビ(調べたらミツバアケビ)を自宅庭に植えて30年あまり 毎年秋には実がいくつもなるものの 実は今まであまり食べなかったのですが昨年は大量にできたので あらためて食べてみたところ なんとその甘さは・・私が今まで生きてきた中でこれより甘い果物は食べたことがない!・・というほどの甘さ それも純粋に甘さだけで酸味など他の味は全くないことに気が付きました 
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    アケビがなっている様子
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    食べごろの我が家のアケビ
    ご存知の方も多いでしょうが 残念なことに通常は実の中の無数の種の周りについているわずかな部分だけを味わうのですが山形県では実の外側の肉厚部分も食べるとテレビで報じていました 
     ・・・・・・・・・・・・・

    ◎童話・童謡の発信「児童文化運動」発祥地であった豊島区
    (文中敬称略します)
    1918(大正7)年に現在の豊島区・目白(旧 高田)の地で鈴木三重吉により児童向け雑誌「赤い鳥」が創刊されました 三重吉のモットーは・・「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して 子供の純性を保全開発する」というもので芸術性の高い童話や童謡を子供たちに提供しました
     
    これに創刊時から参加した北原白秋は童謡歌詞「からたちの花」や「この道」を発表し その他 芥川龍之介は童話「蜘蛛の糸」を 新美南吉は童話「ごん狐」を 西条八十は童謡歌詞「かなりや」を それぞれ誌上で発表しました
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    「赤い鳥」第一号

    そして 坪田譲治豊島区・西池袋(ここも旧高田)に住みながら「赤い鳥」に「河童の話」という童話を寄稿しています 坪田は小川未明と浜田広介らとともに「戦後童話界の三大御所」一人となりました なお坪田を鈴木三重吉に紹介したのは・・池袋モンパルナスの童画画家の深澤省三でした

     
    「赤い鳥」に続いて同様な雑誌「おとぎの世界」「金の船」「童話」が創刊されて 童話・童謡・童画など「童心主義」とも称される清新な内容とスタイルを採用しました
    この子供のための文化推進をした動きを「児童文化運動」と称しましたが それは東京の豊島区から生まれたものでした
     
    ◎「自由教育運動」の発祥地でもあった豊島区
    一方 ”公立学校の画一的で個性の芽を摘み取るような教育に反対して 子供の自由を教育の基本理念にした私学校が続々と豊島区に現れました

    1912(明治45)年に「帝国小学校」が開校

    同じ1912(明治45)年に「成蹊実務学校」が開校 後年に中学校 小学校なども開校 後に成蹊大学(現在地:東京・吉祥寺)にまで発展  (安倍晋三首相も同大学の卒業生)

     1921(大正10)年 羽仁吉一/羽仁もと子夫妻により「自由学園」開校※
    1924(大正13)年 「池袋児童の村 小学校」開校・・と続きました
     
    ※羽仁夫妻は現在も続く婦人雑誌出版の「婦人之友社」をつくりましたが 児童向け雑誌の「子供之友」も出版して坪田譲治の童話も同誌に掲載されました つまり児童文化運動と自由教育運動が結びつくかたちになっていたわけです 
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    ↑東京都豊島区池袋の東京芸術劇場の近くに在る「成蹊学園発祥の地」の碑 右の石板には成蹊の由来となった中国の古い諺 「桃李不言 下自成蹊」※の文字が 創立者の中村春二による書で刻まれています   ※成蹊学園のホームページによると その書き下し文は・・「桃李(とうり)ものいはざれども 下 おのづから蹊(こみち)を成す」と なっています   俳優の松坂桃李の名前はこの諺が由来と公言しています
     
    ◎大正時代から漫画家が住み 集っていた豊島区
    1920(大正9)年に子供向け漫画を描いた山田みのるは晩年には豊島区・要町に居住 岡本一平(漫画家で岡本太郎の父)の弟子の宮尾しげるも豊島区・巣鴨に住んで 本格的に子供漫画を開拓 初山滋は大正期から豊島区・長崎に住んで 童画や4コママンガを描いていました
     
    現豊島区南長崎ではトキワ荘が在った地点から200メートルと離れていない所に1934(昭和9)年まで「プロレタリア美術研究所」があり(黒澤明も通ったそうです) そこではマンガの講座もあったので 所属メンバーにはマンガ本を出版した者がいて それが吉賀たかしで 彼が小熊秀雄に児童漫画の
    出版社「中村書店」を紹介して 小熊はそこの編集顧問をしながら(以前のブログで紹介したマンガ)「火星探検」の原作を書きました
     
    「プロレタリア美術研究所」の消滅後も同所出身者たちはマンガのレベル向上に貢献しました
     
    ◎紙芝居は山の手随一の繁盛地であった豊島区
    豊島区立中央図書館発行の広報紙「図書館通信」に浅岡靖央(白百合女子大学教授)寄稿された文章によれば・・
    『1929(昭和4)年に起きた世界大恐慌が波及した日本でも大量派生した失業者が飛びついた職業の一つが紙芝居屋であった 1930(昭和5)年には 紙芝居最大のヒット作「黄金バット」が東京・台東区で生まれて紙芝居屋は大繁盛した 
    街角のあちこちで紙芝居を見せながら駄菓子を売り歩く紙芝居屋は その紙芝居を有料で貸し出す貸元に所属していたが その貸元の所在地のほとんどは 荒川区 台東区 墨田区などの下町であったが 
    豊島区にも貸元が一つ存在していた 紙芝居屋の人数も最も多い荒川区の93人に対して豊島区も32人いた つまり豊島区は山の手では唯一 街頭紙芝居の盛んな地域であり それだけの営業を可能にする 庶民的子供とその親が大勢いたということになる 』  (一部意訳)
     
    私も豊島区育ちですから 昭和20年代後半から30年代中頃まで 近所に来る紙芝居屋さんをよく見かけました 紙芝居そのものは殆ど見ませんでしたが  紙芝居を始める前に 子供たちにそのおじさんが来たことを知らせるために自ら近所を回り歩きながら鳴らす太鼓または拍子木の音が頻繁に聞こえていました
     
    ◎こうしてマンガ人の梁山泊トキワ荘へとつながりました
    これまでみてきましたように 豊島区には児童・少年少女の文化向上や自由と個性育成をめざした 児童文学者 童画家 漫画家たちが存在し また新しい組織・学校が多く生まれました 
    これらが成り立つためには それを
    受け入れる土地柄つまり そこに暮らす人々の文化・気風が合っていたからでしょう 豊島区に住む庶民たちは特に子供達向けの自由で新しい文化に寛容であり 戦後の日本中で「マンガ雑誌は悪書」とされて追放運動まで起こっていても  マンガや紙芝居などに総じて
    拒否反応を示さなかったようです
     
    こうして豊島区が後に漫画の聖地と呼ばれるトキワ荘を生み出すことにつながるのですが その最大の牽引力となったのが 言うまでもなく手塚治虫
    手塚がトキワ荘に入る事になった理由は・・1951年に当時の児童マンガの巨匠である島田啓三(「冒険だん吉」作者)会長とする「東京児童漫画会」が結成されて入会した手塚治虫 馬場のぼる 福井英一の三人は「児童漫画界の三羽ガラス」とよばれていたが 
    島田啓三が練馬区桜台に 馬場のぼるが同じく練馬区練馬に住んでいて また前出の初山滋は豊島区長崎に居たというように 西武池袋線沿線にマンガ家が多く住んでいたので 手塚はその近くに住むことを希望していたところ 同じ沿線で近い豊島区椎名町(現南長崎)に建てられて間もないトキワ荘に先に入居していた加藤宏泰※に勧誘されて1953(昭和28)年に入居したのです
     
    ※加藤は有名なマンガ雑誌「漫画少年」を出版する学童社の編集者で 手塚は同誌で掲載のジャングル大帝を執筆しながら 同誌が設けていた「読者による漫画投稿」の審査もしていたので 同じところに居住すれば互いに便利だったわけです
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      「漫画少年」投稿欄入賞記念メダル
     
    学童社側の思惑として 同様に当時自社の雑誌に執筆中の他のマンガ家たちも入居させたので ある者が製作時間的に窮地に陥れば 他の者が手助けするなど互助体制がうまく機能していました
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    手塚のすぐ後に寺田ヒロオが入居したが その10か月後に手塚が同じ豊島区の雑司ヶ谷の「並木アパート」に転居した後は 寺田がマンガ家住人たちのリーダー格となり 以後は 入居資格基準を設けて
    人選したので トキワ荘のマンガ家たちは優秀で 後にほとんどが「大先生」になりました
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    寺田ヒロオのヒット作 「スポーツマン金太郎」

    (その後のトキワ荘関連は 以前のブログで綴りました)
     
    「トキワ荘の夏」という演劇(竹内一郎 作・演出)は2010年以降に何回か公演され 2012年には頼 三四郎(故加藤剛の次男=俳優座)出演しました
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    劇シーン
     
    近年は豊島区・池袋は秋葉原や中野ブロードウェイと並んでアニメファンの集う街ともなりましたが 池袋には「乙女ロード」よばれる地域も登場しています ここでは自らアニメキャラのコスチューム着用して楽しんでいる女性が圧倒的に多く  対する秋葉原で見かけるコスチュームは この街に多数存在するメイドカフェの類のものがほとんどで そのお客となる「萌え」る男性が多いのも異なるところです
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    ↑マップ中央やや右下のピンクハートが10個「く」の字に曲がっている通りが「乙女ロード」
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     池袋ハロウィンコスプレフェスの案内ページから  
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    アキバ(秋葉原)に多いコスチューム系

    先日 豊島区ではアニメがテーマの成人式が行われました
    (豊島区主催)
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    NHKニュースから
    ・・・・・・・・・・・・
      参考資料・雑誌
    「豊島区と童話」(宮田航平「図書館通信」2017年 寄稿文) 「豊島区とマンガ」(小出幹雄「図書館通信」2018年 寄稿文) 「マンガがいつもあった」(「東京人」2012年11月号 桐木憲一 寄稿文)
    ・・・・・・・・・・・・

    前回に 東京において現れては消えた芸術家と文士が寄り集まった地域三カ所紹介しましたが もう一つ追加します(文中敬称略)

    実はこの四カ所目に当たる地域が東西に細長くてかつての文人宅もばらけて存在していた様子なので 三カ所以外の「その他の注目スポット地」しようかと迷っていたのですが 大きくくくってとりあげることにしました・・というわけで今回はその第4の地域・・大まかに言って「新宿区落合」 を中心とした地域についてです

    少し詳しくは・・東京都新宿区落合(下落合/中落合/上落合/西落合) + 新宿区中井の一部  +  中野区上高田の一部=JR山手線目白駅の西側 x 西武新宿線中井駅北側=東西に約2.5キロ x 南北に約1.5キロの範囲
     
    この落合地区と中井地区併せて大正時代末期には東京府豊多摩郡落合村と称しました
     
    以下今回は少しややこしいので下のマップを参照されながらお読み下さい
    ※「落合記念館散策マップ」(公益財団法人新宿未来創造財団作成)  流用改作したものです

    マップ上部に東西に走るのが「目白通り」で これより北が豊島区  南が新宿区です
    マップ左上で目白通りと交わりその南側に東西に延びているのが「新目白通り」で 中央に南北に走るのが「山手通り」(環状6)です

    左上では現豊島区南長崎のトキワ荘(跡地)が近いことがわかりますイメージ 7
    ※以下文中で誤解と混乱を避けるために・・現在では「目白」という地名は  豊島区に属しており 上のマップで 目白通りより北側かつ山手通りの東側が 目白です

    JR山手線目白駅も豊島区に在り また「目白台」という地名は文京区に属しています

    新宿区に目白という地名はありません 但し目白通りに沿ったすぐ南側の  一帯までは「目白台地」と呼ばれて この表現は新宿区の落合側でも 使われているようです
     
    この落合地域をかつての文化傾向によって大まかに分類すれば・・「目白文化村」と「落合文士村」に分けられますが それに属さない文化人もいました
     
    ◎佐伯祐三と中村(なかむらつね)
    この二人は後述します文化村や文士村の出現以前から落合にアトリエを構えて住んだ画家です
     
    佐伯祐三:1898(明治31)年~1928(昭和3)年 佐伯はパリでの絵が有名ですが落合の絵も30枚くらい残しています 
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    佐伯祐三 「下落合風景」     「テラスの広告」
     
    中村 彝:1887(明治20)年~1924(大正13)年 新宿中村屋の相馬夫妻の援助を受けていて 同家の長女・俊子をモデルにした絵があり俊子に求婚するものの結核を理由に夫妻から反対されての失恋は有名
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    中村 彝「自画像」と 「少女」
     
    ◎「目白文化村」
    新宿区下落合の土地を 西武鉄道・西武百貨店の創業者の堤康次郎が1922(大正11)年に分譲開始 先進的インフラを採用して 電柱無し ガス 水道 下水完備 クラブハウスやテニスコートも備えて これが後に「目白第一文化村」と称しました その後 第二 第三 と続き 1985(大正14)年の「目白第四文化村」まで分譲 ※前出マップの点線囲いの数字の1~4部分が分譲範囲
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      目白文化村紹介絵葉書
                                    
    高級住宅地ゆえに購入者は医者 学者 大学教授 国会議員が多かった 例えば・・ 
    会津八一(早大教授) 安倍能成(文部大臣) 石橋湛山(首相)鎌田弥彦(中将) 信夫淳平(法学博士) 島峰徹(医博)末高信(早大教授) 関口存男(独文学者)等々 一部を除きなじみがない人が圧倒的に多いので割愛しますが 文芸関係は少なく 吉屋信子 

    ※その他 “目白文化村に住んだかは明確にはわからず しかし落合と名の付くいずれかの町に住んだ人”としてあげられるのが・・武者小路実篤 平林たい子 船橋聖一  安井曽太郎(目白にも自邸在り)   
     

    目白文化村は多くの部分が高台に在り眺めも良い高級住宅地でしたが 戦災で多くが焼失し その後は新しく「山手通り」や「新目白通り」が文化村を分断するように開通したので往時の面影は薄れましたが一部は残っています


    ◎落合文士村
    目白文化村が(住所で言うと下落合の)主に高台に造られたのに対して 「上落合」地域は 前出マップで下の方に流れる二本の川「妙正寺川」と「神田川」(あの「南こうせつとかぐや姫」にも歌われた川)が落ち合う(これが「落合」の由来)ので低地であり 自ずと住居費が安いので 初めはコミュニストたちが住み始め・・

    1927(昭和2)年になるとここに西武鉄道(西武新宿線)が通るようになって便利になったこともあり 若く収入の少ない文士が多く住むようになりました

    そこで「落合文士村」と言われるカタチができるのですが この「村」については明確な範囲が分かりづらく 前出マップの左下部分あたりを指すのでしょうか とにかく目白文化村地域よりは南西部分のようです

    最初期の1923(大正12=関東大震災の年)には 前衛芸術家が住居を構え それに触発されてアナーキストや共産賛主義者たちが集まるようになり 遂にこの地はプロレタリア文学の牙城になりました この特異性が他の地域の文士村と違う点です


    昭和初期にはプロレタリア文士の定住者が出始めて最盛期の1932 (昭和7)年時点での居住者は70人にのぼりました しかし同年から 政府による思想弾圧が厳しくなり 1933(昭和8)年には 急速に衰退しました 代わって尾崎一雄らの非プロレタリア系の新興作家(いわゆる芸術派)たちが住むようになりました

    この事態が起こる少し前の1930(昭和5)年に 林芙美子がこの地で 先ず借家住まいを始めます その後落合の中で転居を繰り返して 最終的には文士村の中では例外的な高台へ向かう傾斜地に立派な終の棲家を建てて終生住みました 同じ落合に住んだ吉屋信子は最終的には鎌倉に移住しましたが 芙美子はよほど落合が気に入ったのでしょう 
    過去の苦労の生活と国内外を見聞した経験をふまえて 家の設計にあたっては 腕利きの大工さんを伴って京都にまで行って建築の研究までしたという有名な逸話があります
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    林芙美子
    その後 尾崎一雄壇一雄(小説家・女優の壇ふみの父)が現西武新宿線の「中井駅」南西約300メートルに在った二軒長屋に入居しましたが この長屋が数棟あるこの一帯を尾崎は「なめくじ横丁」と称したのは この一帯が低地でじめじめしているためのナメクジの多さを表しているのでしょう
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    壇一雄
    その他 文士村の有名文士たちは・・(下記の人名には 落合文士村以外の「落合」領域に住んだ人が

    含まれるかもしれません(参考文献によって相違があります)・・丹羽文雄 中野重治 壷井繁治 壷井栄 芹沢光治良 小野十三郎 神近市子 古谷綱武・・そして住人ではないが頻繁にこの地に来訪したのが太宰治


    後年林芙美子らを除き 多くの文士達は落合を去って行ったので 落合文士村は第二次大戦前には ほぼ消滅しました


    ◎「アビラ村」別名「芸術村」は村人一人で終わった
    旧落合の一部だが現在は中井となっている地には南北に走る坂が多数在り 「一の坂」から「八の坂」までの名前がついていますが 1923(大正12)年ころに画家の金山平三が「二の坂」を上った丘の上に芸術家の村 その名も「アビラ村」の建設を構想した アビラとはスペインの首都マドリッドの西北約100キロに位置する小さな村の名で「二の坂」の上あたりはアビラに似ていたのが由来

    賛同者を募った結果 北村西望 満谷國四郎 南薫造 金子保 新海竹太郎らが集まり 皆で土地購入した しかし購入直後に関東大震災がおきて 丘の上の土地に危険を感じたのか 建物を作ったのは金山だけに終わった

    ※林芙美子の最後の邸宅(現 林芙美子記念館)はここの「四の坂」の脇にあります

    ◎その他 落合居住人と越境往来人とエピソード
    先掲のマップでも分かりますが新宿区の落合地区と豊島区の目白と南長崎は目白通りを境に隣接しているので当然のように人も文化も相互交流がありました

    赤塚不二夫:豊島区南長崎のトキワ荘を離れた後に新宿区中落合に住みましたがトキワ荘から直線距離で800メートルの近さでした 現在は「フジオプロ」事務所になっています

    九条武子 :1887(明治20)年~1928(昭和3)年 「大正三美人」の一人 ※他の二人は柳原白蓮と江木 欣々(えぎ きんきん 1877=明治10年~1930=昭和5年)
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    白蓮の娘である宮崎蕗苳(ふき)は白蓮も居た豊島区西池袋の家に住んでいますが「九条武子さんや村岡花子さんは よくいらしてました」・・と述懐しています 実は白蓮宅は武子が住んでいた下落合から歩いても15分くらいで行き来できたのでした

    諸橋轍次(もろはしてつじ 1883=明治16年~1982=昭和57年) 西落合に住んだ 有名な『大漢和辞典』を編纂した漢学博士 文化勲章受章者 三男の諸橋晋六は三菱商事社長 会長 特別顧問にまでなった人だが 轍次氏宅のすぐ近所の豊島区南長崎に住んでいましたから親子互いの行き来は楽にできたでしょう ※
    私の弟が晋六の息子さんと小学校で同級だったので諸橋家の情報は時々聞いていました
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    本田宗一郎:ホンダ創業者は西落合に住んでいましたが すぐ近くの豊島区南長崎の有名な鰻料理の店「鰻屋(うなぎや)」を贔屓にしていたこともよく知られ  現在は本田氏の息子さんが通われていると先日のテレビが伝えていました 残念ながら私は 店前を時々通るのですが入店したことありません
    (西武池袋線「東長崎」下車徒歩4分 又は大江戸線「落合南長崎」下車徒歩10分
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    写真は「ロケットニュース24」https://rocketnews24.com/2014/06/03/448295/より引用「鰻屋 

    篠沢秀夫 :仏文学者 学習院大学名誉教授 過去にテレビのクイズ番組の迷・珍解答で人気でした 落合に住んでいたので お元気な頃は自転車に乗って目白界隈や豊島区南長崎の方まで来られていました その後 筋萎縮性側索硬化症(ALS)という 手足その他の筋肉を動かせなくなる難病を患い2017年に逝去されました  闘病には奥様や娘さんたちも動作介助しましたが それだけでは まにあわずに介助ヘルパーさんも参加しました 私はそのヘルパーさんの一人を知っていますが その人から聞いた話では・・闘病中でも篠沢教授は講演依頼があれば積極的に受けていたので ある時は教授を介助しながら名古屋の会場までなんとタクシーで往復したこともあったそうです
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    江森盛彌 :プロレタリア詩人 以前に私のブログで紹介した“与謝野晶子の妹のである尾崎栄里子(旧姓江森)“の父で 1935(昭和10)年頃に落合寄りの東中野付近に住んでいた これは明らかに(当時既に退潮だったとは言え)かつてプロレタリア文士の集まった地域を意識しての居住地選択

    盛彌は少年時代に住んでいた鎌倉で 既に名のあるアナーキストから話を聴いたり 鎌倉に移住してきた大杉栄が伊藤野枝との間にもうけた「魔子」を連れて盛彌は栄と一緒に海岸を散歩した・・このような環境から 向かうは左派運動と左派文学

    左派の詩誌に寄稿したり 仲間と社会風刺雑誌を発刊したりした同時期に小熊秀雄(←これも前回のブログで紹介した) 中野重治  村山知義ら左派詩人や芸術家と一緒に「サンチョクラブ」と称する
    団体を立ち上げた 

    江森が後に追想した文章の中に“小熊秀雄が池袋モンパルナスの方から新宿区の落合まで越境してきて交流した”ことを次のように書いています
     
    『そのころ(1935=昭和10年~1940=昭和15年) 国電の東中野の周辺には当時の国家からすると要注意人物が大勢住んでいた 彼らは皆 奥さん子供を含めて家族ぐるみの交流をしていた 
    私の家からは 詩人の壷井繁治(妻の壷井栄はまだ小説は書いていなかった)中野重治 宮本百合子 戸板潤 村山知義らの家が近かった 詩人小熊秀雄は池袋のほうから 一里以上もの道を その細長い顔を空のほうへななめに向けながらブラブラと歩いてちょいちょいやってきた(散歩のためと また電車賃がないせいでもあった

    この地域の住人は 特高に しつこく監視されながら 狭い土地でウロウロとくらしていて みんなふだんは和服をきていたが いつも洋服ばかりきていたのは 西洋の浮浪者みたいな小熊秀雄だけだった』尾崎俊二 著「語りあう日々――尾崎栄里子を思う」より抜粋一部意訳

     尾崎一雄の小説には“小熊が「なめくじ横丁」にも来ていた”という記述があります
     
    その他 山本寛斎 ジョージ秋山(漫画家) 泉麻人なども落合住人です また かつて李香蘭(山口叔子) も住んでいました
      ・・・・・・・・・・・・
    次回は 「トキワ荘を生んだ豊島区の文化的土壌」の予定です

    東京には明治30年代から大正・昭和にかけて 芸術家あるいは文筆家が寄り集まって住んだ地域がいくつか出現しては消えています 
    大きな所では・・北区 大田区にそして トキワ荘が在った豊島区にもそのような地域がありました
    これらを年代順にあげてみますと・・
    ◎「田端文士村」
    現在の北区・田端の地域には明治30年代後半から陶芸家や画家が住み始め 大正初年当時はさながら芸術家村のようでしたが その後に・・芥川龍之介を最初として次々に文筆家が入村して 数で芸術家たちを超えたので・・「田端文士村」と呼ばれるようになりました そこに住んだ有名人は30数人・・例えば・・板谷波山(入村芸術家第1号・陶芸家)  芥川龍之介 室生犀星 萩原朔太郎 中野重治 堀辰雄 菊地寛 佐多稲子 小林秀雄 土屋文明 平塚らいてう 岩田専太郎 高見沢路直(田河水泡)
    北村西望(彫刻家 長崎県の平和記念像の作者)・・ 
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    平和記念像
    そこに芸術家のパトロンだった鹿島組(現 鹿島建設)の創業家2代目の鹿島龍蔵も住みました
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    ↑↓近藤富枝 著「田端文士村」より引用
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    国鉄(JR)田端駅の南側約1000mX700mの範囲に集中居住(赤字が文士・芸術家邸) 芥川邸は田端駅のすぐ近くでした 
     
    立地としては・・田端は明治時代末期でも一面畑の緑が多かったこと 
    坂が多く風情ある眺めが得られたこと 
    蛍飛び交う藍染川も流れていたこと
    上野の美術学校(現 東京藝術大学)も近かったこと
    など条件が良かったのです
     
    中心的存在の芥川をはじめ各人は相互にインスパイアされて 創作活動に励みました
    居住人同士の交流も盛んで 中にはテニスコート2面備えてクラブハウスまで設けたグループもありました
     
    しかし大正12年9月1日に関東大震災があり 焼け出された下町の人たちが高台の日暮里や田端に逃れてきてそのまま居をかまえる人も多く 以後急速に人口が激増して それまでの田端の雰囲気が失せたことで 文士たちの転居が進み さらに昭和2年7月に田端文士村の求心的存在だった芥川が自死して 文士村は崩壊に向かい・・
    萩原朔太郎は1925(大正14)年に 鎌倉へ移り更に1年後に現在の大田区馬込に移り 続いて室生は1928(昭和3)年に大森谷中という馬込の近くの地に移り・・田端文士村は消えました
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    近藤富枝 著「田端文士村」全268ページ

    ◎「馬込文士村」
    現在の大田区・馬込 山王 中央の地域(現 地下鉄馬込駅の南東部の約2.5キロ四方)は 東京の都心から離れた別荘地として開かれたので 大正10年頃 やはり田端と同様に最初は画家など芸術家・・

    小林古径 川端龍子 伊東深水らが集まって住み始め 大正12年の関東大震災後に田端などから転居してくる文士が増えて 「馬込文士村」と呼ばれるようになりましたイメージ 4


    左上が馬込駅 右端近くが大森駅 青丸青字が文士・芸術家邸:大田区馬込特別出張所作成物から引用
     
    その住人メンバーはざっとあげても40人以上・・例えば・・
    石坂洋次郎 尾崎士郎 川端康成 倉田百三 佐多稲子 萩原朔太郎 藤浦洸(詩人 美空ひばりの「悲しき口笛」作詞も) 稲垣足穂 川端龍子 三島由紀夫 吉屋信子 川瀬巴水 北原白秋 小林古径 高見順 三好達治 山本周五郎 和辻哲郎 宇野千代 子母澤寛 室生犀星 山本有三 伊東深水 村岡花子(NHKドラマ「花子とアン」のモデル)・・
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    藤浦洸 
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    村岡花子(東洋英和女学院HPより)
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    宇野千代(同氏HPより)
     

    そうそうたる人達で交流も盛んに行われましたが 1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦間近な頃に この村も急速に衰退しました

     
    ◎「池袋モンパルナス」
    まず1910年代(大正時代初期)に上野の東京美術学校(現 東京藝術大学)学生達が豊島区・池袋に住み始めました 池袋は家賃が安く上野にも近い利点があったからです
    それが1923(大正12)年の関東大震災以後 同じ豊島区でも池袋の西側に隣接する地域への画家など芸術家の移住者が増え 1930年代になると若き芸術家向けの「培風寮(ばいふうりょう)」というアパートのようなものが現在の要町に登場して 以後 アトリエ付き貸家※がまとまって建つ地域が
    やはり池袋西側に隣接する千早や長崎に そしてまた一部は隣の板橋区にと 計5カ所出現しました


    ※赤いセメント瓦の屋根の木造でアトリエは直射日光の影響を受けない北側の大きな窓と屋根からの明り取りの定番スタイルが多く15畳と広いが 居住部は3~4.5畳に小さな台所と便所付きの独身者向けが大半を占めました
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        齋藤求 「パルテノンへの道」  (北側の窓と明り取り付き屋根のアトリエ群)
     
    それらは地域ごとに愛称がついて・・「すずめが丘アトリエ村」(約20軒) 「さくらが丘パルテノン」(約60軒) 「つつじが丘アトリエ村」 「みどりが丘アトリエ村」 「ひかりが丘アトリエ村」
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    国鉄池袋駅西側と武蔵野線(現 西武池袋線)椎名町駅北側地域にアトリエ村
     
    それぞれは池袋から徒歩10~20分圏内なので そこの住人たちは池袋で映画を観たり 喫茶店で芸術論をたたかわせたりしたそうです 大きな作品は荷車に積んで上野の美術館まで運べました
     
    小熊秀雄(詩人 画家)アトリエ村には住まなかったものの 池袋 長崎 千早などに住み アトリエ村の芸術家たちとは広く交流して この地域をまとめて「池袋モンパルナス」と命名しました
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    この地域に定住した芸術家は少ないのですが若き日にこのアトリエ村に住み または 住人ではないもののここに足繁く訪れ 互いに切磋琢磨して この地で あるいはここを出た後に有名になった人たちは・・
    ・靉光(あいみつ):日本のシュルレアリズムの先駆者 
    ・長谷川利行:漂泊の画家 日本のゴッホ アトリエ村へ頻繁来訪
    ・丸木位里(まるきいり)・丸木俊(まるきとし)夫妻:1941(昭和16)から住み始め 1945(昭和20)年に広島へ転居した後 1950(昭和25年から 有名な「原爆の図」連を夫婦共同で連作開始
    ・長沢節::ファッションイラスト学校の「セツモードセミナー」の経営で有名で  卒業生には・・
      
    花井幸子 金子功 穂積和夫(IVYファッションのイラストで有名)
    ・熊谷守一(くまがいもりかず):極端に単純化した画風に到達した画家
          1932(昭和7)年からこの地域の中の千早に自宅を構えて97才まで 終生住み     モンパルナス芸術家たちの理解者だった 現在 自宅は「熊谷守一美術館」になっています
    ・寺田政明:画家で この地域の芸術家たちの面倒をみて兄貴分的存在で 前出の小熊秀雄の絵の師でもありました ご子息は俳優の寺田農(てらだみのり) 
    ・高山良策:画家だが円谷プロの特撮用の怪獣(ガラモン レッドキングなど)の製作者として有名

    イメージ 11←丸木夫妻
     原爆の図↓
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    寺田政明の絵「発芽A
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    田政明の息子:寺田農  (有名人データベースPASONICA JPNより引用)
    イメージ 15 ガラモン

    芸術家たちは戦争近くなると 特に前衛的画家などは警察の監視が厳しくなったり ある者は徴兵で去り 戦争中はアトリエ住宅も多くが焼失した上に 終戦直後の社会は食べるだけでも大変なのに芸術どころではない状態なので 池袋モンパルナス一帯は衰退していきました
     
    ◎小熊秀雄と手塚治虫の関係
    前述しましたが 小熊は「池袋モンパルナス」の名付け親  
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    小熊秀雄↑ (常にこのような頭髪スタイルでした)                                 
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    小熊秀雄「夕陽の立教大学」
    1901(明治34)年 北海道小樽生まれ1928(昭和3)年に上京して 池袋近辺を転々とした プロレタリア詩人 童話作家 画家ですが 最晩年はマンガの原作者でもありました そのマンガ原作の最初が「火星探検」で・・小熊のペンネーム旭太郎作 大城のぼる画 となって出版されました この「火星探検」というマンガは手塚治虫が描くSFマンガの原点となりました
    小熊が1940(昭和15)年に39才で亡くなった時 手塚は12才でしたが 小熊の原作が手塚少年の心に深くつながっていたのです 
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            火星探検の表紙

    小熊のその他の原作は続いて5編あり それぞれが科学や世界地理に関する内容を含んだ知的レベルの高いもので 当時の児童マンガとは一線を画すものでした・・この点が 後に医学博士号を持つまでに
    なった手塚の知的
    マインドを共振させたのでしょう
     

    世に芥川の「河童忌」 太宰の「黄桃忌」 織田作之助の「善哉忌」 正岡子規の「獺祭(だっさい)忌」など文学忌という文人の命日に当たるものがありますが・・小熊の命日11月20日は「長長忌(じゃんじゃんき)」と言うそうです これは彼の長編詩「長長秋夜」に由来していて 「ジャンジャンチュウヤ」読み・・実は朝鮮語で長い長い秋の夜”という意味とのこと

     
    ※ここでちょっとお話がそれますが・・「獺祭」と言う言葉は 山口県の旭酒造が作る日本酒で「獺祭」という銘柄が近年 人気最高位にありますから 私もそれで知ったのですが・・さて「獺祭」のそもそもの意味が分からないので 調べましたら・・
    「獺祭」・・元々の意味は 《「礼記」月令から》獺(カワウソ)が自分の獲った魚を並べることで これがあたかも 人が物を供えて先祖をるのに似ているところから出た言葉で それを念頭に置いて 唐の詩人李商隠が 文章を作る際に多数の書物を座の周囲に置いて参照して 自ら「獺祭魚」と号したので・・多くの書籍を自分の周囲に広げて 思索し詩文を作ること獺祭」と称するようになり 正岡子規も自らをそれになぞらえて「獺祭書屋主人」と称しました
     旭酒造の説明では・・この会社が在る獺越(おそごえ) という地の名の由来は「川上村に古い獺がいて 子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれており この地名から「獺」の一字をとるとともに   明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が獺祭書屋主人」と号したことに因んで「酒造りは夢創り拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに 伝統とか手造りという言葉に安住することなく 変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする思いで「獺祭」と命名したそうです
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    ・・・・・・・・・・・・
    今回こうしてみますと 田端文士村と馬込文士村は既に有名になっていた作家たちが寄り集まって形成された地域ですが 池袋パルテノンは まだ無名の芸術家がほとんどの 寄合いでの形成という相違がありますが いずれも関東大震災や大戦が盛衰に関係していることがわかります 
    しかし池袋パルテノンの小熊秀雄がマンガに関与した例ばかりでなく 東京・豊島区地域はその後のトキワ荘に続くマンガ文化の醸成のための素地があったのですが それについては次回に続けます
     
    参考書籍・資料
    ・田端文士村(近藤富枝 著)
    ・図書館通信:豊島区とマンガ(小出幹雄 著)
    ・池袋・椎名町・目白 アトリエ村散策マップ(豊島区文化商工部 作成)
     
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎男ばかりのトキワ荘の中で・・(文中敬称略します)
    トキワ荘は1952(昭和27)年から1982(昭和57)年まで存在したアパートで 二階部分の賃貸部屋10室は全て四畳半に押し入れ付きで 共同調理場と共同トイレがありました
     
    共同調理場には広く長い「流し台」(今で言う「シンク」)があって 蛇口は3つ付いていたが 赤塚不二夫はそれを全部開いて水を張り 「流し台」でしょっちゅう行水をしていたそうで ある晩に行水しているところを石ノ森に見つかりましたが とがめるどころか 一緒になって行水をしたこともあったと語っています
     
    そういう行為は トキワ荘の住人が殆ど男性マンガ家(最多時8)ばかりだったこと そして住人ではないものの ここに入り浸りの男性マンガ家たちの いわゆる「通い組」も多く なかでも つのだじろう(作品:カラテ馬鹿一代 5五の龍 など)は隣の新宿区から (本人曰く)"1年に366日"スクーターに
    乗って通ったそうですが・・このような"男だらけの環境"なのでできたのでしょう
     
    そんな中で このトキワ荘に住んだ女性が数名いました (1階に入居の普通の家族の奥さんたちについてはここでは触れられませんが・・2階のマンガ家たちが夜遅く集まって騒いでいると下の部屋の奥さんが箒の柄か何かで天井を突いて文句を言っていたそうです)
     
    ◎水野英子(みずのひでこ):女性マンガ家の先達
    1939(昭和14)年 山口県下関生まれ 
    小学5年生時からマンガを描き始め 15才で雑誌掲載デビュー 日本の少女マンガ家の草分けであり 
    また少女マンガに男女の恋愛題材を初めて取り込んだパイオニアであり 後の竹宮恵子 萩尾望都などの少女マンガ家に多大な影響を与えたので「女の手塚」とも言われる (作品:星のたてごと ファイヤーなど)
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    74才頃    (朝日新聞2013年2月12日記事写真)                                
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    ↑作品「銀の花びら」のキャラクター
     
    1958(昭和33)年3月にトキワ荘に入居して 石ノ森章太郎 赤塚不二夫との三人合作のマンガを3作ほど描いた その三人統合ペンネームは「U・マイア」
    しかし入居7か月後の10月に退居・・これは前述のように トキワ荘が男だらけなことの上に共同トイレなどにも耐えられなかったことは想像に難くないことです
    トキワ荘を出てから住んだのは 手塚治虫もトキワ荘から移住した町である豊島区・雑司ヶ谷でした
     
    ◎「小野寺由恵」:石森章太郎の世話した3才上の姉

    章太郎が宮城県の実家の親からははマンガ家になることを反対される中で 由恵は賛成して 上京した章太郎の面倒をみるために 由恵は持病の喘息の治療にかこつけて自分も上京してトキワ荘で一緒の生活をした

    「ジャガイモ」と呼ばれていた章太郎と比べて姉弟とは思えないほど由恵さんは美人で トキワ荘のマドンナだったと言われていたが 本人は藤子不二雄Aに好意をもっていることを弟の章太郎には告白していたそうです
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    しかし ある日 喘息の発作がひどくなり 緊急入院して直後に亡くなってしまいました 23才の誕生日の前日のことでした 生前 弟には「私の分まで好きなことをやってほしい」と言っていたそうです・・私は知らなかったのですが この姉弟の話はテレビドラマ化されて 今年2018年の日本テレビ系列の24時間テレビで放送されたそうですから ご存知の方も多いのでは・・
    ※小野寺由恵については・・「のんびり主婦ブログ」 https://chipipi.info/wp/onoderayosie/ より一部引用
     
    ◎赤塚リヨ:赤塚不二夫の母
    夫「赤塚藤七」と共に トキワ荘に一時住んでいて 不二夫の食事や身の回りの世話をしました
    当時の不二夫は「トキワ荘一の美男子」と同僚だったマンガ家たちの誰もが認めるほどで その頃の写真を見るとなるほどと言えるもので 中年以降にマスコミに登場した容姿からは考えられないほどです それゆえに東京での女性問題発生を危惧しての親心もあったのでしょう
     
    不二夫の母は丁度その頃に向かいの部屋に住んでいた水野英子を気に入り 不二夫に彼女との結婚をしきりに勧めたそうです 
    因みに水野英子はその後1970年代初頭に「未婚の母」の道を選んで男児出産しています
     
    ◎遠藤景子:元NHK松山放送局初の女性局長

    トキワ荘で生まれ 幼少期をここで過ごした NHKに入局して制作部門に勤務する中で 自分の生まれ育ったトキワ荘が老朽化で解体されるという情報を掴むや NHK特集『わが青春のトキワ荘』という番組制作スタッフとなった その放送は1981(昭和56)年にあったが2001(平成13)年の1月5日にも再放送されています 放送内容の中には トキワ荘解体前に元住人による同荘会行った様子が含まれていて 手塚 石ノ森 藤子 赤塚などの中に紅一点の水野英子も参加していました 

     
    遠藤景子はその後2009年にNHK松山放送局長となりました これはNHKの地方キーステーションとしては初の女性局長でありました 
     
    ◎レコード店「目白堂」の奥様
    トキワ荘住人マンガ家でレコードをよく聴いていた赤塚不二夫 石ノ森章太郎 水野英子らはレコードを買うのは専ら トキワ荘から徒歩約15分にあるこの店だったのです
     
    後に赤塚不二夫は「あの当時僕らの1か月の食費が3000円だったのに LPレコードが2500円もしたけれど 買って 腹をすかしながら聴いたことは 今考えると あれがイイ栄養になっていたんだと思う」・・と語っています (昭和30年のトキワ荘の家賃も3000円)
     
    実は私もこの店をよく利用しました バスに乗ってこの店の前を通過するには松尾和子似の美人の奥さんが店のレコードをキレイに揃えるような仕事をしている姿がよく見られました
    (バスの中で立っていると目白堂の売り場が丁度良い角度で見下ろせた)

    赤塚らのマンガ家たちも この奥さんの容貌と優しい対応に好印象をもっていたそうで 後年 奥さんが病気で聖母病院(この地域では有名大病院)に入院した時には・・水野英子小出幹雄(現在 としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会の広報担当)”二人でお見舞いに行ったほどでした 
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    松尾和子に似ていました
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    目白堂のEP盤レコード用ポリ袋 
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    目白堂の30センチLP盤レコード用紙袋の裏面
     
    残念ながら レコード衰退の流れの中で2007年の10月末に目白堂は閉店しました ネット上でも閉店を惜しむ一般の人たちからの声が多数あがりました
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                これが閉店間近の目白堂
    写真は「SARADA BLOG」さんから引用sarada-sarada.sblo.jp/article/5743978.html
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     次回もまだトキワ荘関連内容が続きます 

    マンガの聖地について 前回の続きです(文中敬称略します)
     
    ◎「紫雲荘」や「兎荘」も使われました
    人気が出て制作量が増えると それまでのトキワ荘の部屋では手狭になって 近くに転居するマンガ家がでてきました 
    既に人気作家の手塚治虫は入居後
    1年ちょっとで同じ豊島区雑司ヶ谷の「並木アパート」(現存します)へ  寺田ヒロオは豊島区目白へ
     
    または追加の仕事部屋を求めてトキワ荘に隣接する小規模アパートも利用されました
    「紫雲荘」には赤塚不二夫が転居して仕事場兼住居にしました 「兎荘」には藤子不二雄の二人が仕事部屋を借りました

    これらのアパート住まいだけではなく 上京してきてこの近所に住んだマンガ家も複数いました つまり「マンガの聖地」はトキワ荘だけではなかったのです
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    当時の紫雲荘↑
    (右隣の日暮商店の裏にトキワ荘があった) 
                                                     
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    現在の紫雲荘↑
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    紫雲荘の赤塚不二夫の部屋(再現)

    ※元トキワ荘住人だったマンガ家たちは さらに後年それぞれ遠隔地に移りました 手塚は渋谷区→練馬区→杉並区→東村山市へ 寺田は神奈川県茅ケ崎市へ 藤子F不二雄は神奈川県川崎市へ・・など
     
    トキワ荘住人にはならなかったものの横山光輝(作品:鉄人28号 三国志など)は  同じ豊島区でトキワ荘から約1.5キロと近い千早の自宅に 1960(昭和35)年から2004(平成16)年に亡くなるまで45年間も 定住しました
     
    ※手塚治虫の転居理由は手狭だけではなく 出版社などの人が手塚の仕事部屋を伺うと 人気作家とは思えないほど貧素な室内に皆が驚くので 「それからはなるべく高級品を揃えるようにした」と 後に手塚自身が語ったそうで トキワ荘より少しハイレベルな部屋空間を望んだことにもありましょう

    ◎「紫雲荘活用プロジェクト」はチョッと苦肉の呼称?
    紫雲荘は1959(昭和34)に建てられ、今もなお現存する木造モルタル2階建て アパートです
    そこにマンガ家の卵を公募・選出して かつて赤塚不二夫が仕事場にした同じ場所住みながら制作できるように家賃も補助されるというのが 「紫雲荘活用プロジェクト」で 2011(平成23)から進行しています これは地域団体「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」と豊島区の協働運営となっています


    ここでは 
    最長3年間、月額家賃4万円のうち二分の一の2万円を「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」から補助(光熱費は自己負担)されるほか 慣れない町での生活への助言やアルバイト先の紹介など活動をサポートします

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    「紫雲荘活用プロジェクト」第1回目の募集ポスター
    現在 第3期生が入居していますが これまでにマンガ家デビューした人が数名出ています
    2013(平成25)年には桐木憲一原作の『東京シャッターガール』がヒットして実写映画化
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    映画のワンシーン
    現代的な登場例は 2017(平成29)年4月より3期生となった立藤ともひろの作品がWEB漫画サイト「少年ジャンプ+(プラス)」に掲載されてデビューしたことです 立藤の作品『くらげちゃんの初恋』は下記で閲覧できます) https://shonenjumpplus.com/episode/13932016480028966684

    (立藤ともひろ24才の漫画家デビューの紹介は下記で見られます) https://www.youtube.com/watch?v=p2GtsV1ZgMg

    まだ知名度の低い「紫雲荘」の名を冠したこのプロジェクトは後述しますように 気づいた時には「トキワ荘プロジェクト」という名前の立派なプロジェクトモデルが別の場所で既に進行していたので 「トキワ荘」の名は付けられなかったのです

    ◎他の地で先行発生した「トキワ荘プロジェクト」 ! ?
    実は「トキワ荘プロジェクト」の運営は東京・品川区五反田に事務所を持つ特定非営利活動法人の「NEWBERRY(ニューベリー)」という団体(理事長:小崎文恵氏 職員20名)が行っているものです
     そう 東京豊島区に存在する「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」の運営ではないのです
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    「トキワ荘プロジェクト」とは・・
    マンガ家のプロを目指す人たち5~6名がシェアハウスに住みながら 互いに切磋琢磨して成長を加速させることが目的で2006(平成18)年に活動開始
    家電や家具備え付け済で入居時の初期費用や低めの家賃で経済的負担を軽くしている
     
    そのような場所を東京都 千葉県 埼玉県 京都府 に合計20件 定員総数120名規模を保持していて それぞれを「トキワ荘」と呼んでいる(男性専用と女性専用がある) ※京都トキワ荘は京都府からの委託運営
     
    一部にはプロのマンガ家がメンター(仕事上の指導や助言を与える人)として付いてくれる「トキワ荘」もあります
     
    これまでの実績・・デビューしたマンガ家:約80名 トキワ荘入居者:のべ約400名 マンガ関連の指南書的書物も出版して現在4タイトル 協力・提携関係の出版社や大学などは40社以上

    ◎トキワ荘にまつわるエピソード
    トキワ荘が全国的に知られて有名になり始めたきっかけは・・1970(昭和45)年 藤子不二雄Ⓐが自伝的作品の「まんが道(まんがみち)雑誌に連載を開始してからと言われます
     
     しかしトキワ荘の近所の商店街の人や住人はマンガ家たちの存在を当然早くから知っていました それどころか 当時の近所の子供たちは 折りにふれては マンガ家たちに絵やサインをせがんで色紙や紙に書いてもらっていましたので 現在この南長崎の町の中にはお宝のような色紙が多数存在しています
     
    私はマンガをあまり読まなかったので トキワ荘の存在を知ったのは1960(昭和35年)頃に マンガ好きの友人から 「あれがマンガ家たちがいっぱい居るトキワ荘だよ」と教えられたからで その時に私が目にしたのは 周囲の建物の間から見えるトキワ荘の2階の右側面の一部でした
     
    その時のマンガ好きの友人(私とは小学校と中学校が一緒)”は その後 立派なマンガ家 アニメーション演出家になりました それには才能があったとともに トキワ荘の在る街で育ったことも影響していたことでしょう

    その人の名は・・「樋口雅一(ひぐちまさかず)」(ペンネームと本名は同じ)
    樋口雅一とは・・Wikipediaに載るほどの人物で・・アニメーターとして最初は「竜の子プロダクション(現タツノコプロ)」 次に「虫プロダクション」に在籍 1969年にフリーランスとなり この頃からアニメ演出家としての活動も開始(『ムーミン(新)』『昆虫物語 新みなしごハッチ』など) /1977年『まんが偉人物語』のチーフディレクター / 1975年『まんが日本昔ばなし』の演出と原画 / 2012年『ふるさと再生 日本昔ばなし』(一部のキャラクターデザイン、絵コンテ、演出) / 2017年『ふるさとめぐり 日本の昔ばなし』絵コンテ、演出、作画)・・など

    マンガ家としては・・正統派のスタイルで・・
    『まんが聖書物語(監修:山口昇)』/『まんがキリスト教の歴史(監修:中村敏 発行:いのちのことば社)』/『まんがグリム童話(発行:講談社)』/『マンガ メディチ家物語(監修:森田義之 発行:講談社)』・・など
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     ↑私が戴いた本
    現在でもアニメ「日本の昔ばなし」系などの仕事に忙しく 加えて趣味も複数ありで 忙しい様子は氏のブログ『萬雅堂便り』からも読めます
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    マンガの聖地については次回にも続けます

    ブログを始めて以来 かつて私が暮らし育った地「東京都豊島区南長崎(旧 椎名町)」に住んだ人たち・・「女優の野辺かほるさん」/「マッカーサーに抗した居合道師範の河野兼光さん」/「巨人軍お抱えの接骨医の吉田寅蔵さん」/「歌手の曽根史郎さん」/そして今も在住される「幸福書房の岩楯幸雄さん」・・を紹介しましたが・・
     
    ◎マンガの聖地・としま南長崎「トキワ荘」
    マンガ好きの方なら当然 南長崎(旧 椎名町)といえば・・「マンガの聖地」であり マンガ家が寄り集まっていたアパート「トキワ荘」が在った町としての紹介が不可欠とお思いのことでしょうから 私も早い段階でとりあげたかったのですが トキワ荘とそこに住んだマンガ家についての情報は 今や大量に出回っていて ちょっとやそっとの情報では陳腐なものになってしまう恐れがあって 躊躇していましたが 触れないわけにもいきませんので あまり知られていないと思われる話を含めてご紹介します
     
    マンガに詳しくない方のために 簡単に紹介しますと(以下敬称略)・・
     
    東京都豊島区南長崎(旧 椎名町)には 1952(昭和27)年に建てられた「トキワ荘」という木造2階建てのアパートがありました (1982=昭和57年に老朽化のため取り壊されました)
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     ↑ トキワ荘全景模型           
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     当時のトキワ荘外観
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       当時のトキワ荘外観        当時のトキワ荘の部屋
     
    ここに1953(昭和28)年に入居したマンガ家の最初が・・手塚治虫(作品:鉄腕アトム 火の鳥など) 
     次に寺田ヒロオ(作品:スポーツマン金太郎など)が入り その後に藤子不二雄の二人組も入居して当初は共同制作していました  (二人はその後別れて・・藤子・F・不二雄(作品:ドラえもん パーマンなど) と藤子不二雄 (作品:忍者ハットリくん 笑ゥせぇるすまんなど)とに それぞれ名前を変えた)
     
    手塚治虫が1954(昭和29)年に転居した後の部屋に最初は藤子不二雄の二人で入居しましたが その後にその隣部屋に藤子・F・不二雄が移り住みました
     
    その他 石ノ森章太郎(作品:仮面ライダーなど)/赤塚不二夫(作品:おそ松くん 天才バガボンなど)/
    鈴木伸一/森安なおや/水野英子/よこたとくお/その他のマンガ家が住んでいました
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      トキワ荘住人のマンガ家を仮想集合させた絵葉書(カメラ持つ鈴木伸一がこの絵の作者)
     
    ◎トキワ荘が在った町の現在の状況
    現在 豊島区と地域団体「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」は「マンガの聖地」を全国にアピールしようと多様な策をこうじてきました・・例えば・・ 
    ・トキワ荘跡地には そのアパートの姿再現した小型モニュメント設置
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    ・近くの公園に同様小型モニュメントと居住したマンガ家達の紹介パネル設置イメージ 12
      
    「豊島区トキワ荘通りお休み処」を開設してトキワ荘関連の資料と そこに居住したマンガ家たちの著作マンガ本も少々備えた“町の観光案内所”とした (飲食物販売提供はありません)
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    ・アクセスする西武池袋線・椎名町駅構内には小ギャラリー設置/同線  ・東長崎駅構内には手塚治虫のマンガキャラクターの「レオとライヤ」像を設置/都営地下鉄12号線・落合南長崎駅構内にはモニュメント設置
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    西武池袋線「東長崎」駅構内
                                     
    ・各種パンフレットやポスター作製配布 /また「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」のホームページやブログでも情報発信中
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    ・マンガ文化に関する各種セミナー開催
    「紫雲荘活用プロジェクト」と称する“マンガ家の卵”を支援する事業(次回ブログで紹介)
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     現在の「トキワ荘通り」(右端はマンガで有名なラーメン店「松葉」)

    ◎各地で”マンガで街興し”マンガミュージアム出現
    今 日本各地には“マンガ関連で街興し”する所やマンガとその関連資料を大量に備えたミュージアムも多数出現しています 例えば・・
    鳥取県境港市には「水木しげるロード」があり 妖怪のブロンズ像は150体を 超えて設置され  毎年250万人以上の観光客が来訪
    宮城県石巻市には「石ノ森萬画館」 
    宮城県登米市は「石ノ森章太郎ふるさと記念館」
    富山県氷見市には「氷見市 藤子不二雄Ⓐまんがワールド」
    神奈川県には「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」
    兵庫県宝塚市には手塚治虫記念館
    兵庫県神戸市には横山光輝関連の「神戸三国志ミュージアム」と「鉄人28号の 巨大像」や「三国志登場武将の巨大像」設置
    その他 有名マンガ家の出身地の多くがアピールしています
     
    京都市の「京都国際マンガミュージアム」は、京都市と京都精華大学の共同運営による漫画の博物館および図書施設 国内外のマンガその他の雑誌や資料を約30万点収蔵 建物は元小学校(昭和4年建造)の校舎を利用し 芝生の庭でマンガも読めます イメージ 14
    京都国際マンガミュージアム内一部(同所ホームページより)
     
    東京都千代田区の明治大学敷地内の「米沢嘉博記念図書館」漫画評論家の故・米沢嘉博氏の蔵書寄贈によって作られた 漫画とサブカルチャーの図書館
    東京都新宿区の「明治大学現代マンガ図書館<内記コレクション>」は 国内で最大級のマンガ蔵書18万点を誇る専門図書館 元々は1978年に 日本で初めてマンガ図書館を設立した故・内記稔夫(ないきとしお)氏が50年以上にわたり収集したマンガの単行本や雑誌 マンガの入門書・評論集・マンガ研究本など収蔵した私設図書館だったものが明大に寄贈されたもの
    東京・立川市の「立川まんがぱーく」は 家族みんなでまんがを楽しめるようにと子供向け漫画から大人が子供時代に楽しんだ漫画も揃っている
    東京・あきるの市の「少女まんが館」は寄贈された約5万5千冊の少女漫画が並ぶ私設漫画館で古い昭和少女漫画から現代少女漫画まである 但し当図書館は完全予約制で期間限定
    岐阜県の「まんがサミットハウス」は娯楽施設「飛弾まんが王国」内にある漫画図書館で約3万5千冊の漫画収蔵 ここでは温泉と食事が楽しめる宿泊施設もある
    広島市には「広島市まんが図書館」が市が運営する漫画専門図書館で 13万2千冊漫画収蔵 その他 漫画の資料や情報を収集・保存し各種行事なども開催
    福岡県北九州市の「北九州市漫画ミュージアム」は 特に九州ゆかりのマンガ家作品収蔵が多く計約5万冊 現代の漫画に関する展示やイベントも開催 また漫画制作体験教室もある
     
    さらには海外にもマンガミュージアムはあり特にマンガ家の人口密度世界一と言われるベルギーは同国の人気マンガキャラクターの「スマーフ」や「タンタン」で日本でも知られていますが 首都ブリュッセルには「ベルギー漫画センター」があり内部に「漫画博物館」や「マンガ図書館」あります このセンターの建物はアールヌーボー様式の大きく立派なものです
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    ベルギー漫画センター内部      
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    マンガ図書館内部(右にスマーフの人形がある)
    ベルギー漫画センター関連内容は「ぱんたれい」さんのブログより一部引用https://reipanta.com/outing/cbbd/
            
    がっかり観光名所の一つにならないための計画?
    前述のように 日本各地のマンガ関連による街興しや施設に比べるとトキワ荘が在った町のアピール度は貧素と言わざるをえない状態です それでも名前に魅かれて全国からマンガファンは来られていますが 来ての正直な感想はなにかもの足りない” ”不満がっかり(マンガッカリ)”という人が多いことでしょう

    ところで 「日本三大がっかり観光名所」と言われるのが・・(1)札幌の 時計台/(2)高知の はりまや橋/(3)(諸説あって) 長崎のオランダ坂 沖縄の守礼門 京都タワー 名古屋のテレビ塔 など
     
    このままでは東京豊島区南長崎の「トキワ荘のあった町」も第四のがっかり観光名所なりかねないので・・数年前からやはり俗に言うハコモノも必要ということで 豊島区と「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」と地元住民との間でトキワ荘再現型施設建設構想計画を練った結果・・
    (仮称)マンガの聖地としまミュージアム」をトキワ荘跡地から200mほど西の現在「南長崎花咲公園」となっている土地に建設が決定して2020年3月完成をめざしています
     
    ふるさと納税制度利用の資金調達
    そこで建設資金調達案として登場したのが・・「ふるさと納税」を利用してもらう方法です
    建設整備費予算9億円の内 1億円を「ふるさと納税」でまかなう算段で 今年2018(平成30)年2月から呼びかけ始めた結果 予想以上の反応で・・10月中旬には7500万円が集まったので 目標を上方修正して2億8千万円にしました

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    「ふるさと納税」案内パンフレット

    豊島区という所は どうも資金作りがウマイようで・・2015年完成の「豊島区役所新庁舎」(地上49階・地下3階建 設計:隈研吾)は 総事業費435(予算GO)億円なのに 公共施設ながら税金を一切使わずに建てられたのです
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    新庁舎(wikipediaより引用)
    新庁舎は「としまエコミューゼタウン」と称して 日本初の官公庁舎と民間住宅施設が一つの建物に同居する画期的な複合施設であり 総事業費の半分以上は 11階から49階までをマンション322戸分にあてて その分譲販売収入で賄い その他 国からの補助や旧庁舎跡地に建設される文化芸術施設「ハレザ池袋」からの敷地賃料等で賄ったのです

    ・・・・・・・・・・・・

    「マンガの聖地」については次回にも続きます

    11月17日に 私の母が永眠しました 95才の天寿を全うしたと言えるのでしょう
     
    母は優しくて 私は子供の頃より怒られたことはありませんでしたが それは誰に対してもでした
    とにかく声を荒げて怒ることなど全く無く 人の悪口なども言いませんので 喧嘩などしませんでした
     
    親戚の女性からの弔電の中に心に響く文言が・・「あこがれの おばさまでした・・」

    晩年 骨折して椅子に座ったままなので 私たちが茶碗にお茶を注いであげたり 割り箸を割る力が無くなったので代わりにしてあげると そのたびに「ありがとう」と言って 小さく頭もさげるのでした 他人ならともかく子の私たちが行っても そのような反応を示されるので 私はその姿を見るたびに胸が熱くなりました
     
    一方 「強くなければ 優しくなれない」・・と言われるように 力はともかく 確かに芯は強い人でした 何事にも動ぜず 慌てず騒がず我慢強く・・グチも言いませんでした
     
    母は父親(私の祖父)の仕事の関係で 戦前には台湾で暮らしていましたが 終戦近くには戦火をくぐり 終戦直後に結婚 翌年に超満員の引きあげ船に乗って和歌山県田辺港に上陸した後は福岡県へそして東京へと移住 その後は(私の父)の転勤に伴って東北各地を転々として最後はまた東京に落ち着きましたが 戦争体験とその後の変化の多い生活が強さの醸成に関わっていたと思います
     
    母の母(私の祖母)は 九州は久留米藩の武士の家の生まれだったそうですから 私の母は・・「武士の娘の娘」・・だったことも少し影響しているかも知れません(NHKの朝ドラ「まんぷく」の中でよく聞くような・・)
     
    しかし「優しさ」の中だけで子供が育つとマズイことが起こるのです・・それは 学校や社会に出てから「人が怒る」ことや「人から怒られる」ことへの免疫が無いために それらの場になると非常にショックが大きくて深く落ち込むのです やはり免疫は必要でしょう・・つまり私の母も非のうちどころが無いとは言えなかったのです
     
    もう一つ 特筆に値すると思われることがあります・・これは私の父も一緒で つまり夫婦揃ってのことですが・・それは 私の両親から「おなら」の音を聞いたことも 臭いもしたことが全く無いことです 人間ですから腸内ガスは発生していたはずですが どうしてそんなことができたのか本当に不思議でした 昔 私の弟が父から「おならは したくなったらトイレでするものだ」と言われたと言っていましたから 父母ともそのように対処していたのかもしれませんが そのような品性は私には到底まねができませんでした・・変なお話で恐縮でした 
     
    追記・・野辺かほるさんの本名がわかりました・・鈴木みつ子・・でした
    ・・・・・・・・・・・・
    母死去にともなう事後処理 手続きなどで 特殊事情もありまして 長男である私がどうしても まだ動かなければならず また次のブログまでには日にちをいただきます
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         前回の柳原白蓮に関連して・・
    ◎林真理子の『白蓮れんれん』
    (以下文中敬称略します)
    林真理子は 現在NHKで放送中の大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』の原作者でもありますが

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    柳原白蓮の伝記小説『白蓮れんれん』も書いています(1994=平成6年から雑誌「婦人公論」連載 のち文庫化) 
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    その“白蓮の伝記”を書いた前後の状況・心境をKADOKAWA発行の「本の旅人」という文芸小冊子
    (とでも言うのでしょうか?2015年11月号)への寄稿文で次のようなことを述べています

    「直木賞をいただいたあと ヒットが出ない時期が
    長かった中で初めて挑戦した歴史小説が好評だった
    ためか伝記小説の依頼が来て 選んだ題材が柳原白蓮」でした 幸いに宮崎家から門外不出の"白蓮と龍介のラブレター”※を見せていただくなどして    書いたのが『白蓮れんれん』である うまく書けて 柴田錬三郎賞をいただいたことは大変嬉しかった その後この本は文庫で細々ではあるが売れ続けていたところ 思いがけないことが起こり NHKの朝のドラマ『花子とアン』によって柳原白蓮がスポットライトを浴びることとなった そして20年前に書いた『白蓮れんれん』文庫本は にわかにベストセラーになり この本は私を語る時に欠かせないものなった」

    ※晶子と白蓮関連のNHK番組内で そのラブレターは700通以上もあり 中には一日に2通 3通も書いているものもあると紹介されました

    その他にも林真理子は 『流転の歌人柳原白蓮 紡がれた短歌とその生涯』という本を馬場あき子 東直子 白蓮の娘である宮崎蕗 との共著(NHK出版)で2014(平成26)年に出しています

    ◎文学賞を渇望した林真理子
    林真理子(1954=昭和29年4月1日~)氏の受賞・受章歴は・・直木賞 1986(昭和61)年 (前年発表の『最終便に間に合えば』 『京都まで』の評価による) / 柴田錬三郎賞 1995(平成7)年  (『白蓮れんれん』の評価による) / 吉川英治文学賞 1998(平成10)年 (『みんなの秘密』の評価による) / 島清恋愛文学賞 2013(平成25)年 (『アスクレピオスの愛人』の評価による) / 紫綬褒章 今年2018(平成30)年11月3日 / レジオンドヌール勲章のシュヴァリエ※ 2011年(※フランスへの「卓越した功績」のあった者に与えるもの但しシュヴァリエは最下等級)
     
    このように多くの賞を授与されていますが 氏は31才の時に直木賞をもらった直後から 次なる賞の獲得を必死に目指したことを率直に公言しています 前出の「寄稿文」で・・

    「有名な文学賞は芥川賞 直木賞であるが これがゴールというわけではない。作家は次のハードルに向けて頑張る。芥川賞を受賞した作家なら、野間文学賞、直木賞ならば、柴田錬三郎賞、吉川英治賞というものが待っているのだ 直木賞をいただいた私であるが ヒットが出ず それからが長くつらかった。 『それ見たことか』という声がきこえてくるような気がした。作家によっては いったん名前を知られた後はエッセイや講演 テレビ出演などで それなりに稼げる人もいて 私もそのタイプと思われていたので、なおさら努力した。そうして柴田錬三郎賞をいただいて、新聞のインタビューを受けたら、『馬に喰わせるほどある文学賞の一つを貰ったことが、そんなに嬉しいのか』とかなり皮肉られたが、それは作家の実態を知らないからだ。直木賞の後、作家は必至で書く。書いて書いて、前を走っていくグループに入らなくてはならない。そうした作家にとって、出版社が出す大きな賞はどれほど励みになるだろう」と述べています

     
    そして今年の紫綬褒章受章直後のコメントは・・世間からちゃんと作家として認めてもらえるまで本当に時間がかかった 愚直にひたすら書いてきたことが認められて とても光栄に思います 小説を書くことが私を成長させてくれました」
     
    そして今 林真理子は直木賞をはじめ 講談社エッセイ賞 吉川英治文学賞 中央公論文芸賞 毎日出版文化賞の審査委員になっています
     
    ◎芥川賞を審査員に懇願した太宰治
    太宰 治(本名:津島修治)  (1909=明治42年6月19日-1948=昭和23年6月13日※)
     ※愛人の山崎富栄と入水心中した日は6月13日だが発見されたのは 太宰の誕生日と同じ6月19日でした
     
    太宰は学生時代から芥川に異常なほど傾倒していたことはよく知られています
    学生時代のノート余白には芥川龍之介の名前や似顔絵を多数書きこんだ落書が残されています
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    出典NHKニュース/kajipon.sakura.ne.jp
     
    また芥川の有名な写真のポーズを真似ていたこともよく知られています
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     芥川龍之介       
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    若い頃の太宰 出典takro.blog25.fc2.com

    芥川の1927(昭和2)年7月24日の自殺を知った太宰は 当時旧制弘前高等の学生で 相当のショックを受けて 住んでいた下宿にしばらく閉じこもっていたそうです また友人に「作家はこのようにして死ぬべし」というようなことも言っています そして太宰は最後の自死までに数回の自殺未遂までして芥川の真似をしたような行動とります

     
    このような芥川への心酔者である太宰にとって芥川死後に菊池寛が創設した『芥川龍之介賞』は絶対に必要なものとなりましたが その第一回選考で候補者になったものの 結果は次点で落選
     
    そこで第二回芥川賞を獲得したいがために 『当時選考委員の一人だった佐藤春夫に 受賞できるように懇願する手紙を複数送っていますが 2015(平成27)年になって4メートル超の長さの和紙の
    巻紙に毛筆で書いた手紙(1936=昭和11年1月28日付け)発見されました その文中では・・
     
    「芥川賞は、この一年、私を引きずり廻し、私の生活のほとんど全部を覆ってしまひました・・第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます。私はきっと、佳い作家に成れます。御恩は忘却いたしませぬ・・」・・ということを述べています』『』部分は朝日新聞2015年9月8日の記事より一部引用 (下の写真も)
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    しかしながら芥川賞は「過去に選考候補になった者は対象外とする」という選考規定が設けられたことで 太宰は芥川賞を貰うことはありませんでした
     
    ◎実家が本屋だった林真理子と「幸福書房」
    今年2018年2月に東京・代々木上原の駅前で40年間ひらいていた書店「幸福書房」が閉店しましたが そのニュースが複数の新聞やNHKのニュースにまでもとりあげられ また閉店予告をして以後は
    「昔 この店をよく利用
    していた人」が遠くの移住先から駆けつけてくれたり 閉店日には店前の路上にまで溢れるほどの人たちが感謝の言葉を伝えに来たということで いかに素晴らしい本屋さんであったことかが分かります 例えば・・
    ・店主の岩楯幸雄さん(68才)が弟さんと奥さんと家族経営で 8時から夜11時まで 元日除く364日営業
    ・小さな書店ながら単行本などの中身は硬いが本好きが食いつくような本を厳選して並べていた(経営採算のため雑誌販売もしたが 量的には全体の半分以下)
    ・「書棚へ置く本を通じてお客さんと会話する」と岩楯さんは言い 常連客には その人の好みに合わせた本を仕入れて並べるなど  魅力的な本棚だった

    そして 日本中でここだけというサービスが・・林真理子の本を買うと その本に直筆サインがもらえる』というものでした 
    実は林真理子は代々木上原に住んでいて 幸福書房を贔屓にしてくれていたので 「ある日 林さんにサインをお願いしたのがきっかけで 5,6年前から林さんのサイン本のサービスを始めたのです 店内の一番目立つ場所には林真理子コーナーを設けて 新刊が出るたびに全国からファンが訪れて買う「聖地」のようになり 新刊が出るたびに 遠くは関西や東北などから来店してサインを依頼する熱心なファンがいます ここから読者に届けられた林さんのサイン本は約1万冊にものぼります」・・岩楯さんは言う 「」内は「弁護士ドットコムhttps://www.bengo4.com/internet/n_7461/」より引用

     
    林真理子は本屋の娘だったので この幸福書房を愛していて 閉店日には来店して 
    集まった皆さんの前で 店主への感謝と惜別の挨拶を 涙を流しながら述べたそうです (ネット上ではその際の涙の挨拶写真も流れています)


    ◎幸福書房は南長崎でブックカフェになった
    代々木上原の店を閉じる前に予告していた通り 閉店後間もなく 岩楯さんは東京都豊島区南長崎の地にブックカフェを開きました 実は元々昔からこの場所にご自宅があって岩楯さん自身はここから毎日 自転車で1時間をかけて店まで通っていたのです しかも1977(昭和52)年にこの南長崎に最初の幸福書房を開店して1980(昭和55)年に代々木上原の店を開店するまでは ここが自宅兼本屋だったのです こうして原点の地でブックカフェ開店にこぎつけたのですが ご本人が言うように  なにぶん未経験の業態なので試行錯誤の状態だそうです
     
    先日の夜に私はそのお店の前まで行ってみました 閉店もまじかなようで中には入らなかったのですが 率直に申し上げて お店としての体裁は未完成で 岩楯さんの予告では店名を幸福茶房」とするようだったのですが まだお店の入り口の上には「幸福書房」のままの看板がありました 今後の発展整備の余地が多くあるので むしろこれからが楽しみです
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    まだ「幸福書房」の看板が・・        
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    外から見たブックカフェ店内 中央右のダンボール箱には「一人二冊まで 無料でさし上げます」と文庫本が在中
    林真理子の通った日本大学藝術学部(略称:日芸)文芸学科のある東京都練馬区江古田にあるキャンパスもこのブックカフェから直線距離にして2、3キロの近くですから 日芸出身の名士である林真理子には 講演依頼などされて江古田に来られた際には店に寄っていただけるのではないでしょうか・・
    ・・・・・・・・・・・・

    前回の「柳原白蓮の孫」の話に続きます
    ◎与謝野晶子(の妹)の孫=尾崎榮里子
    (以下文中敬称略します)
    それを語る前に・・「与謝野晶子の直系の孫」で有名人がいました・・与謝野 馨(よさの かおる=昨2017年に死去)でした 氏は晶子の11人の子供の中の次男の息子にあたります 政治家で文部大臣や通商産業大臣を歴任し 祖父母(鉄幹・晶子)夫妻らが創立した文化学院の院長でもありました
     
    さて まず与謝野晶子の妹とは・・晶子の5才下で旧姓は「鳳」(ほう)名は「里」のことです (ゆえに与謝野晶子の旧姓も「鳳」)

    そして「鳳 里」が「志知善友」と結婚して「志知 里」となり⇒ 生まれたのが「志知仁保榮」で 
    ⇒「仁保榮」が「江森盛彌(もりや)」と結婚して⇒生まれたのが「江森榮里子」⇒「榮里子」が「尾崎俊二」と結婚して⇒「尾崎榮里子」となりました・・というわけで この「尾崎榮里子」が「与謝野晶子の妹の孫」となるわけで 晶子とはつながっていることになります


    しかし「尾崎榮里子」は残念ながら2012(平成24)年11月に永眠しました

    私が何故に「尾崎榮里子」のことを今回の表題で (の妹)の孫というような表記をしたかと言いますと 彼女の顔とカタチが与謝野晶子に非常に似ているので 直系の孫として「与謝野晶子の孫」と言ってもおかしくないほどであったというのが一つの理由です

    それを表すエピソードとして・・榮里子の友人が昔 榮里子の母親である江森仁保榮から・・「榮里子が誕生したときは 晶子の生まれ変わりみたいにそっくりだったのよ」・・と聞かされたそうです

     
    また 榮里子と私は(前回のブログで述べましたように)小・中・高と同じ学校に通ったのですが 小・中学校では榮里子と同じクラス(高校では別クラス)だったので ある時 中学校のPTAの集りで聞いた話として私の母親が私に「江森榮里子さんは あの与謝野晶子の孫だそうよ」・・と言っていました(この時点で既に事実と少しズレた情報になっていたようです) 以来 私はそう信じ込んでいましたがそう信じる背景には先述のように 榮里子に与謝野晶子の面影が確かにあったからです
    同様に「榮里子は晶子の孫」説は榮里子の友人の間にも流布されていたようで 榮里子の葬儀の場での友人達の会話の中にも その表現があったと聞きます・・それほど榮里子は晶子に似ていたということでしょう


    尾崎榮里子の顔は “数ある晶子の顔写真”の中でも 最もこれに近いかもしれないのが下の写真
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    厳密に言えば榮里子は晶子ほどには面長な顔ではないのですが 目元をはじめ他は総じて似ています (全集の案内パンフから)


    また 首をやや傾げる所作が多いことも同じでした(下の晶子の写真のように)
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    夫・鉄幹とともに 写真はWikipediaより引用

    そしてもう一つの理由が・・バイタリティ溢れる行動をしたこと それをもって 女性の生活・地位向上を目指したというところが 似ている点です


    晶子は・・

    • 歌会で出会った歌人・与謝野鉄幹と不倫関係となる
    • 女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行 以後世間から何と言われようと その時々の本音の歌を 発表した
    • 鉄幹と結婚して子供を12人産み11人育てた(一人は生後二日で死亡)
    • 鉄幹の収入が無い時期には超多忙・多彩な文筆仕事で家計を支えた
    • 鉄幹をフランス・パリ遊学に送り出したものの 彼のいない寂しさに耐えられず 半年後に子供達を残して 一人パリへ逢いに行く それも船では50日かかるので シベリア鉄道利用して14日で行ける短縮策をとって・・
    • 鉄幹及び建築家の西村伊作や画家の石井柏亭らとともに 日本最初の男女共学校である文化学院を創設
    • 残した歌は5万首 『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』詩作 評論活動も多く
    • 女性解放思想家として婦人参政権を唱えるなどして巨大な足跡を残した 
    一方 榮里子は・・
    • 外国語大学の中国語科へ進み 
    • 同科で知り合った尾崎俊二が同大学の学友会の執行委員長になったと同時に榮里子は副委員長になり 当時日本中の大学で学生運動が激しく展開される時期であり 学友会民主化運動やベトナム戦争反対運動 など行った
    • 大学卒業半年後には尾崎俊二と結婚
    • 会社員や中学校教員を務めたのち 埼玉県の生協の運営の中枢で活躍 その後医療生協 (医療・介護の事業をおこなっている生協)の理事として重要な活動をする
    • ジェンダー(社会的・文化的に作り上げられている男女の相違のことで ”「男らしさ」「女らしさ」は こういうものである  こうであるべき”という通念を意味するので近年はこれを是正しようということで「ジェンダーレス」や「トランスジェンダー」という表現が使われる) に対する勉強にも注力して仕事に活かした
    • 日本婦人団体連合会(婦団連)に勤務して 特に婦団連の発行する「婦人通信」の編集部署では 優れた知見をもって指導的役割を果たした
    • 以上の行動の間 一貫して「憲法九条」や「女性の地位」などの勉強は続けた

     
    ※『日本婦人団体連合会(婦団連)は 朝鮮戦争中の1953年に「平和を願う女性の力をひとつに」しようと設立され 初代会長は、「元始、女性は太陽であった」(『青鞜』発刊の辞)で有名な平塚らいてうです 現在 婦団連は女性の生活と権利・地位向上、子どもの幸せ、平和と独立、民主主義の実現のために広範な女性の共同・連帯の力で運動していて 現在23団体90万人が結集しています』『』内は婦団連ホームページより        

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    ◎尾崎榮里子らしいエピソード
    ) 私が小学1年生の3学期末に 担任の高橋先生から 「終業式の時のこのクラスの総代は〇〇君になってもらいます」と私が指名されたのですが その時 榮里子が・・「なんで〇〇君なの?」と 疑問というか不満というのか そう発言したのには驚いたことをハッキリ覚えています 今思うに 彼女の父はプロレタリア詩人 母は師範学校教員の免許を持っていた そして与謝野晶子とつながるというインテリ一家に育った彼女は学力に自信があったのでしょう この頃すでに納得出来ぬことには しっかり追及・発言していたのです
     
    ) 榮里子と私が同じ高校に通っていたもののクラスはちがっていましたが 2年生のある時に 入学以来 会話することもなかった彼女が私の教室に来て「人文地理の授業のノートを貸して」と言うので貸しました 後日「キレイに書かれて読みやすかったわ」と言って返してくれたのですが・・これも今思えば 彼女のクラスメートに頼めば済むはずを そうせずに  私が試されたのではないかと思えます すなわち・・ノートの書き方を見れば そのヒトの思考回路が分かり しかもノートをキレイに書くという作業は  授業などの内容の理解と記憶のむしろ邪魔になるということを知っているかどうかも分かるということで私のレベルを測ったのでしょう
     
      その後も 時々 私の意識のレベルを試されたようなことがあり 例えば高校3年のある日に彼女から電話がかかってきて 「自衛隊の存在については どう思っているの?」・・とか 私が社会人になってからの中学校のクラス会で会った時には 「今 日本の意匠権の制度の状況はどうなっているの?」・・などと質問(尋問)され その際の私の答えは・・ 最近のNHK人気番組チコちゃんに叱られるでまさに「ボーっと 生きてんじゃねーよ」と言われそうなレベルで あとで私は自己嫌悪に陥ったものです・・このような彼女の行為は モノゴトの価値の判断ができるほどの広く深い知識を持っていたからできたのでしょう それをもって どうも私は彼女から高校生以来 知的品定めをされていたような気がします
     
    以上の文章からは尾崎榮里子は 堅物でガンガン進むイメージの人のようすが違います・・発する言葉の内容は的確で時に辛辣ですが 伝え方は柔らかく静かで 時にはおどけていた風だったそうです それは昔に学生運動やウーマンリブなどの時代を経験して過激な言動は結局 効果が出ないということを知っていたからだと思われます

    そして彼女の言動の基盤となる広く深い経験と知識は 絶え間ない勉強(大学での聴講やセミナーへの参加など) 文学はもとより美術 音楽 演劇 映画などの鑑賞 自らの作陶 国内外各地の訪問 などで溜まった知のプールから湧き出ていました しかもそれらは硬軟あり 例えば・・音楽ではクラッシックもあればフランク永井やB‘zそして美空ひばりの歌も好きで・・「車屋さん」(ちょいとお待ちよ車屋さん・・)も良く聴いていたとか
     
    今回の内容の一部には尾崎榮里子を追悼してご主人の尾崎俊二氏が彼女の死去1年後に自費出版された・・「語り合う日々・・尾崎榮里子を思う」という本(全251頁)を参考させていただきました  "尾崎榮里子が与謝野晶子の直系の孫ではなく 晶子の妹の孫"ということを 私はこの本を読んで初めて知らされた次第です 
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    そう言えば・・本日11月7日夜9時からBS朝日の「昭和偉人伝」という番組で “女王 美空ひばりを支えた二人”として「車屋さん」などを作詞・作曲した米山正夫と石本美由起をとりあげるようです 偶然とは言え何かを感じます 
       ・・・・・・・・・・・・

    今回のテーマでは柳原白蓮と与謝野晶子が登場しますが、その文章作成中の10月31日に丁度良いタイミングでNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」が柳原白蓮と与謝野晶子の二人の新情報を流しましたが・・その中で1927(昭和2)年に歳末助け合い企画として その二人が一緒に並び座って歌を詠んで 色紙か何かに書いているという貴重な映像(写真)が流されました 白蓮は7才年上の晶子を敬愛していましたから 心中は如何だったのでしょうか ※文中 敬称略します

    ◎柳原白蓮の孫の名は宮崎黄石(こうせき)
    私が通った高校の同じ学年に柳原白蓮の孫と与謝野晶子(の妹)の孫がいました
     

    しかも私は柳原白蓮の孫である宮崎黄石とは同じクラスでしたし 与謝野晶子(の妹)の孫である江森榮里子とは小学校と中学校でも同じクラスでした (高校では別クラス)

    宮崎黄石については 高校時代には柳原白蓮の孫とは知りませんでしたが 後年に知ってから振り返ってみれば・・在校中の彼は男ながらにも白蓮さんの面影が確かにありました 70才を過ぎた現在は そのように見えませんが・・(彼の高校時代の白蓮似の顔の写真はあるもののここに掲載できないのが残念)
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    ↑展示会に行きましたが彼には会えませんでした
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    ↑3年前の「目白新聞」掲載の顔写真です


    ◎柳原白蓮とは

    有名なので詳細は割愛しますが 
    1885(明治18)年に誕生 
    1967(昭和42)年に死去(満81才)
    大正・昭和の情熱の歌人 戦後は平和運動も行った 
    本名は宮崎燁子(みやざきあきこ) 大正天皇とは従妹に当たる
    大正三美人の一人(他は九条武子 江木欣々)
    二人目の夫で九州の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門に対して絶縁状のみならず その内容を新聞紙上で発表して 7才年下の東京帝大生ながら社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちして 世に言う「白蓮事件」となり 結婚に至る
     
    龍介は“中国の辛亥革命の孫文を支援した日本人の一人である宮崎滔天(とうてん)”の長男
     
    白蓮と龍介との間に生まれた長男が「宮崎香織」ですが学徒動員で戦死 長女が「宮崎蕗苳(ふき)」でその息子が「黄石」になります


    ◎二人の「香織」

    以前にブログで男女兼用の名である「香織」の男性版の例として「宮崎香織」をあげ さらにもう一人「野口香織」という私の高校で同クラスだった者をあげました(ということで野口香織と宮崎黄石と私は同じクラスだったのです)


    この二人の「香織」は「白蓮の孫の宮崎黄石」にとって 一人は伯父であり もう一人は高校のクラスメート しかも同じラグビー部の仲間だったという縁があったのです


    ◎伊藤家と宮崎家のその後

    2014年のNHK朝ドラ「花子とアン」は「赤毛のアン」の日本語訳者である村岡花子の半生を原案としたもので 主人公は実名と同じ村岡花子として吉高由里子が演じましたが 白蓮はこのドラマの中に仲間由紀恵が演じる葉山蓮子として登場し  白蓮の二度目の夫の伊藤伝右衛門も吉田鋼太郎が演じる嘉納伝助として登場しました
     
    伊藤伝右衛門にしてみれば 絶縁状を突拍子もない格好で示されて妻に逃げられたのですが  その後には白蓮側の宮崎家との和解はあったようで・・ 
    2007年には白蓮の娘である宮崎蕗苳の語りを書き起こした本である『白蓮~娘が語る母燁子~』が
    「旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会」から出版されていますし
    2017年には宮崎黄石が 「旧伊藤伝右衛門邸開館10周年記念トークイベント(座談会)」にゲストとして 伝右衛門の孫の伊藤興十郎と俳優の中村嘉津雄(1985=昭和60年にNHK銀河テレビドラマ
    「恋の華~白蓮~」で伝右衛門役を演じた)とともに出席
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    旧伊藤伝右衛門邸  (福岡県)(同邸ホームページより)
                                                  

    ◎宮崎家と中国

    宮崎黄石は先述のように 曽祖父が中国の辛亥革命の孫文を支援した宮崎滔天でもあるので中国との関連も強くて 例えば・・2011年7月には 香港財界訪日団が日本経団連など各経済団体との交流の他に 熊本県荒尾市の宮崎滔天の生家を訪問しましたが その際に蒲島県知事や黄石も同席し 続いて隣接の福岡県大牟田市において九州観光推進機構・九州運輸局の主催で中国のマスコミによる黄石へのインタビューが行われました
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    宮崎黄石と中国のマスコミの皆さん(荒尾市のホームページより)
     

    また 蕗苳と黄石は同年10月に中国政府の招待で辛亥革命100周年記念大会に出席しました

    同年12月には 辛亥革命100年記念切手が日本郵便から発行されるにあたって 蕗苳と黄石はその切手発行式に出席 その切手のデザインは宮崎蕗苳と孫文の書の文字を一緒に入れたものになりました
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     蕗苳と黄石が発行式で切手シートを手にして
    duan.jp/news/jp/20111203.htmより引用

    ◎白蓮も暮らした宮崎邸を訪れた人たち
    そこは東京都豊島区西池袋の地

    宮崎蕗苳によると 孫文や黄興など革命指導者は何度も池袋の家に来ていたそうですし また宮崎一家と孫文らの子孫の人達との交流が現在も続いているそうです
     
    一方 これも蕗苳によると 村岡花子は白蓮とは東洋英和女学校の同窓生でもあり よく池袋の家にも来られてお茶を飲みながら歓談するなど親交も長く深かったそうです
     
    私が実家の母を車いすに乗せて散歩がてらに宮崎邸の前を通りかかった際に 50~60才くらいの女性5人のグループが向こうから来てこの家の前で立ち止まりましたので ちょっと話を聞いてみたら なんと伊藤伝右衛門の地元である福岡県から「白蓮さんが暮らした東京の家を観にきた」のだそうで 
    こんなに熱心な人達もいるものだと驚いた 2015年夏のことでした
    ※宮崎家宅内は非公開です
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    西池袋の宮崎邸の外塀と格子門
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    与謝野晶子(の妹)の孫の話へ続く⇒柳原白蓮の孫と与謝野晶子の妹の孫とは高校で一緒でした(2) : 

    ◎ジェネリック家具とは?
    前回のブログで テレビドラマに出てきた有名な椅子の名前と およその価格をご覧いただきましたが 同じ椅子でも価格に大きな差があることを示しました その原因は「ジェネリック家具」と呼ばれるモノの存在があるからです
     
    「ジェネリック家具」は以前にはリプロダクト家具や復刻家具などと呼ばれていましたが・・ある元祖(オリジナル)デザインの家具が誕生してから年数が経って その意匠権(権利期間は日本は20年ですが各国により10年~25年と異なります)や 特許権が消滅した場合に それとそっくりに作られた家具のことです
     
    ただし その元祖デザイン家具と比べて・・「製造方法」「使用素材・表面処理」「製造場所(国・地域)などの点でちがいが出るので「同じ椅子でも価格に大きな差が出る」ことになるわけです 具体的には・・ 牛革素材を人工皮革に変える・皮革の厚さを薄いものにする / クッションの中身を羽毛からポリエステル綿やウレタンフォームやポケットコイルというスプリングに変える / パイプフレームを「鉄にクロムメッキしたもの」からステンレスを磨いたもの」に変える / イタリアで製造していたものを中国で製造する / 表面に出ない部分の構造を簡略化する・・など
     
    これらの変更を各ジェネリック家具メーカーがどの程度行うかによって コスト削減額に差が出て 同じような商品で価格の巾がでるわけです
     
    「ジェネリック家具」という呼び方はジェネリック医薬品の呼称が浸透してきたから登場したことは明らかですが・・医薬品の場合はジェネリックであっても元の(先発の)医薬品と比べて成分や効能は変わらないかほぼ変わらない・・という点が家具の場合と違います
     
    つまり大まかに言えば・・「ジェネリック医薬品」は・・外観・形状は違っても 中身は同じ/「ジェネリック家具」は・・外観・形状は同じでも 中身は違う・・ということになります
     
    ◎ジェネリック椅子の代表はル・コルビュジエの作!
    現在 日本で出回っている外国デザイン家具のジェネリック物で目立つものがいくつかあるのですが その代表的なものが・・

    近代建築設計の巨匠ル・コルビュジエ(日本の国立西洋美術館も設計)デザイン※した椅子「グランコンフォート」(「大いなる快適」という意味)でしょう
    その完成されたシンプルな構造とフォルムで1928年に初登場してから丁度90年を経過した今でも変わらぬ魅力があることが人気理由でしょう

    ※この椅子を含めて「コルビュジエ作」とされる家具デザインの大部分は実際は氏とその従兄弟であり建築のパートナーでもあるピエール・ジャンヌレとシャルロット・ペリアンとの3人の共同作業で生まれました
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    「グランコンフォート」の椅子たち・・「水平と垂直」の「線と面」で構成したデザインです(写真はカッシーナ・イクスシー社のHPより)

    ◎この椅子「グランコンフォート」はTVのドラマやCMに度々登場しています!
    例えば・・ドラマ「黒革の手帳」の中で / 小泉孝太郎が出ている住宅メーカーのCMの中で / 何のドラマかCMかで見たか覚えていないのですが・・木村拓也が座っているシーンや ビートたけしが座ったシーンで / 有名人のお宅訪問番組では岩城滉一邸にも置かれていました
     
    それに小規模病院や歯科医院など「クリニック」の待合室に置いてあるのを見かけますので  なぜかお医者さんは この椅子がお気に入りのようです
     
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    ↑東京・池袋の「ハルデンタルクリニック」(屋外から待合室のグランコンフォート3脚を見る)
    その他 東京・文京区の「ゆしまクリニック」の待合室でも見られます
     
    この椅子のジェネリック化は発展して・・オリジナル色の黒の他に 白 灰色 赤 オレンジ 茶色 こげ茶色 ネービイブルーなど多様な色も登場してきました また 金属フレーム部分を一部形状を変えてオリジナル品より座り心地を改良しようとしたと思われるものが登場・・それが前回ブログでも掲載しました"NHK朝ドラの「半分青い」の中の秋風羽織先生のオフィスの赤い椅子”です
    (背もたれ部分は高く伸ばした上で後ろに傾斜)
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    ◎こんなに違うグランコンフォートの価格!
    この椅子は「一人掛け用」「二人掛け用」「三人掛け用」の3種あり そのジェネリック製品は 主にイタリアと中国メーカーの併せて数十社それぞれの会社方針に基づいて オリジナルに忠実で高価なものから 徹底的に低価格なものまで 多様な仕様の製品が登場しています
    以下にその価格例をあげてみます(税込価格/一部除いて送料込価格)
    「一人掛け用」72万3,600円~15万2,228円~2万0,800円(約35倍のひらき)
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    「二人掛け用」114万4,800円~24万6,000円~2万9,900円(約38倍のひらき)
    「三人掛け用」164万1,600円~31万0,000円~10万4,480円(約16倍のひらき)
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    ◎「ジェネリック家電」というものもあります!
    ジェネリック家電とは大手以外に存在する優秀な準大手や中堅の電器メーカーが大手メーカーの旧技術を購入利用した上で 必要機能を絞り込んで製造した低価格の家電製品のことです・・結果として総じてシンプルデザインの製品が多いものです
    ジェネリック家電がジェネリック医薬品と違うのは・・ジェネリック医薬品が大手医薬品メーカーの旧技術をそっくり利用して機能(効能)も同じにしているのに対して・・
    ジェネリック家電は大手メーカーの旧技術を利用するものの 機能は必要最小限に削減して抑えている点です

    「以前は 日本国外メーカーの低品質の家電製品と一緒にして「B級家電」と呼ばれていた状況を流通ジャーナリストの近兼拓史氏が憂いて、粗悪なB級家電と、大手に劣らない高品質低価格の優良家電を明確にわけるために2013年に作った和製造語です

    毎年度末に、その年度中に発売されて最も優秀だった製品に「ジェネリック家電大賞」が与えられ 2015年には、近兼拓史氏を代表理事として、非営利の業界団体である・・一般社団法人ジェネリック家電推進委員会が設立されました」(「」内はWikipediaより)

    ・・・・・・・・・・・・

    ◎旧帝国ホテル(フランクロイドライト氏設計)が使われています 
    今 NHKで放送中の朝の連続ドラマ「まんぷく」で安藤サクラ演じるヒロインの今井福子が勤めるホテルとして使われているのが 元 帝国ホテルの中央玄関部分で 東京に1923年に建てられましたが
    1970年の
    建て替え時に その一部を愛知県犬山市の「博物館 明治村」に移築されたものです 
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    帝国ホテル中央玄関外観と内部↑
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    博物館 明治村」 公式ページより」
     
    この建物の設計者はFrank Lloid Wright=フランク・ロイド・ライト(1867~1959)氏は近代建築設計家の巨匠 
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    生涯に1000件以上の公共建築から一般住宅まで設計をした他に 家具 照明器具 テーブルウェア ガラス器 など多様なデザインも手掛けました

    ◎ライトが デザインの ライト
    「まんぷく」のホテルのフロントのシーンで目に付く照明スタンドもライト氏のデザインです これは TALIESIN 1(タリアセン 1)」 という名がついていますが 背の高さが何種類かある中の ドラマで使用のものはミニサイズです 
     
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    の照明スタンド(ミニ)は市販されています
    税込みで6万円強くらいです
     ●高・406巾・285 奥・325mm Kg 

    その他 ライト氏デザインの照明器具でよく見かけるのは(ドラマでの使用はあったか不明ですが)・・TALIESIN 2(タリアセン 2)」 と称するもので 細長く背が高いフロアスタンドで間接照明的な使い方をするものです
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    このフロア照明スタンドも市販されています
    税込で31万円くらいです 

    TALIESIN 2(タリアセン 2)は1952年に開発されたもので 四角い箱と合板製の遮光板で構成したユニットが多数積まれているカタチです 高・2038 巾&奥行・410mm 20Kg 

    ◎フランク・ロイド・ライト氏の先見性
    氏は「鉄筋コンクリートは木に準じて使うべし」「柔道の理論は建築にも当て嵌まる」として今で言う「建築の柔構造」のような設計をしたことが功を奏して・・んと『このホテルが竣工式を行なった
    1923(大正12)9月1日に関東大地震が発生したのに 被害は出なかった』『』内は下山眞司 氏のブログ「建築をめぐる話・つくることの原点を考える」から一部引用

    ◎ライト設計建築を東京で見るなら・・「自由学園 明日館(みょうにちかん)
    この建物は、1921(大正10)年に 羽仁吉一、もと子夫妻(月刊誌「家庭之友」(婦人之友」の前身)を創刊 息子は映画監督の羽仁進)が創立した自由学園の校舎として ライトの設計により 東京都豊島区西池袋に建設されました (この建物も完成2年後の関東大震災に耐えました)道路を隔てた場所にはライトの弟子の「遠藤新」設計の講堂が在り、併せて国指定重要文化財になっています。』『』内は「明日館ホームページ」www.jiyu.jp/tatemono/myonichi.html引用一部省略
    学校機能移転により内部見学でき 貸会場 カフェ 結婚式場もあります
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    講堂内部

    ◎朝ドラ「半分、青い」では世界的有名家具(主に椅子)が沢山登場
    ドラマの中の 秋風羽織のオフィス内には ちょっとしつこいほどに有名家具が配置されていました   これは美術担当デザイナー掛幸善 氏によるものでした 
    下の3枚のシーン写真は「NHK 半分青い 特集ページより引用 https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/special/column/13.htm 」ただし それぞれの椅子の説明は私が記載しました
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    ↑左奥の網目の椅子は「ハリー・ベルトイア氏のデザインの『ダイヤモンドチェア』」(3~5万円台)
     右の椅子は「ル・コルビュジェ氏デザインのLC4シェーズロング』」(50~80万円台)
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    「フリッツハンセン氏デザインの
    『エッグチェア』」(50~120万円台)
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    の椅子は「ル・コルビュジェ氏デザインの『グランコンフォート』」というリーズ からの
     派生デザインものです
    ・・・・・・・・・・・・・・

    ◎真理ちゃんの「水色の恋」の話は少々厄介なのです・・
    この歌の原曲は『小さな私 』という曲名で その作詞は田上えり  作曲は田上みどり の姉妹だということは 天地真理ファンの間では よく知られているそうですが・・
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    https://www.youtube.com/watch?v=6RnMkwUzro0 で 「小さな私」 と「水色の恋」両方聴けます
     

    実は その『 小さな私 』には さらに原曲があったのです( この“原曲の原曲”を 以降文中では「元祖曲」と表示します )

     
    正確には「元祖曲」からの部分的引用があったと言うべきですが・・私はこのことを 1972(昭和47)年に購入したタンゴ曲集のLPレコードの中に見つけていました※このレコードの発売は1969(昭和44)年
    その元祖曲(タンゴ曲)の名は・・Gran Hotel Victoria (グラン オテル ビクトリア)」(スペイン語ではオテルです)
     
    天地真理のシングルデビュー曲「水色の恋」のレコード発売は1971(昭和46)年ですから その翌年にこの元祖曲を聴いた私は「水色の恋」は一部盗作だ ! 』 と思わず心の中で叫びました
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    DSCN1829 (2)
     ↑ これが46年前のレコード (30センチLP2枚組の1枚目)でサイド1の3曲目が 「グラン・オテル・ビクトリア」
     
    私が今でも所持しているそのタンゴ曲集レコードで聴ける・・「グラン オテル ビクトリア」 は 歯切れのよいタンゴの名演奏で人気があったファン・ダリエンソ楽団のもので・・

    現在 Youtubeで聴けますhttps://www.youtube.com/watch?v=SWp3SeKlv38 ※問題部分のメロディーは 途中から出てきます

    ※後年、上記URLでのサイトが消去されていることが分かったので、代りに同曲を女性がピアノソロで弾いているYouTubeを参照ください
    → 
    グランオテルビクトリア動画
     
    今回私はこの記事を書くにあたって この「元祖曲」の存在の認知状況をネット上で調べましたら・・
     
    タンゴ演奏のプロモートや評論の専門家であり ラジオの西日本放送で昨2017年までタンゴ専門番組を62年間担当された岡田 寛 氏は2011年頃に西日本放送のホームページで・・「グラン オテル ビクトリア」について「ボクは前からこの曲の後半をどこかで聞いた覚えがあると番組ではいい続けてきたが、果たして「天地真理」1971年のデビュー曲「水色の恋」が正体だった」と・・気づかれたと述べられています(つまり私の発見から約40年経っていますね)
     
    一方 一般の人の間では 昨2017(平成29)年から この「元祖曲」情報が複数出てきているようです
     
    さらに話がややこしいのは・・「グラン オテル ビクトリア」はフェリシアーノ・ラタサ作曲 カルロス・ペッセ作詞で 1906年1月にアルゼンチンのコルドバ゙市に誕生した曲名にもなったホテルの開業式で初演されたタンゴで その後 無名だったこの曲は1935年にファン・ダリエンソ楽団による演奏で復活したという曲で 作者没後50年以上経ているので著作権は消滅しているのですが・・
    『天地真理デビュー時のシングルレコードでは 作詞:田上えり 作曲:田上みどり 補作:森岡賢一郎・・とってなっていますが その後2006(平成18)年10月発売のプレミアム・ボックス(CD)では・・作詞:田上えり/Carlos Pesce 作曲:田上みどり/Feliciano Latasa・・なっています


    つまり30年以上経ってから前述の外国の作詞者と作曲者が追加表記されています

    さらに関連しますが この曲は日本音楽著作権協会(JASRAC)での登録上は 「 外国作品 」 扱いになっているそうです』

    ※『』内はブログ「真理さんと」 から引用一部割愛 https://ameblo.jp/usagi-windy2/entry-12242971652.html

    この30年の間に どこかからの指摘があって 盗作とまでは言えないまでも 一部引用と判断され しかも やはり元祖は外国の曲であると判断されたからでしょう
     
    そして現在この曲の隣接著作権はヤマハ音楽振興会と日本アメリカーナ音楽出版㈱の所有とのこと
     
    このように「水色の恋」については 非常に複雑なことになっているのです
     
    ◎「上海帰りのリル」もタンゴ調のヒット曲でしたが・・
    これもある曲からの一部引用で作られていました
    船を見つめていた  ハマのキャバレーにいた  風の噂は リル 上海帰りの リル リル 甘いせつない 思い出だけを   胸にたぐって 探して歩く リル リル どこにいるのか リル   だれかリルを 知らないか」
                                     
     上海帰りのリル)は1951年に発売された津村謙のタンゴ調メロディーの歌で 大ヒット(翌年には同名映画も公開)しましたが 1950年代の日本は丁度タンゴブームになっていたことも影響しているでしょう (https://www.youtube.com/watch?v=19n7uyalzmc で聴けます)
     
    作詞:東條寿三郎/作曲:渡久地政信/編曲:林伊佐雄となっていますが・・
    タイトルや歌詞の内容やイントロの一部は1933年の米国映画である『フットライトパレード(英語版)』の主題歌『 Shanghai Lil 』および同曲を唄川幸子 ディックミネ 江戸川蘭子 らがそれぞれの訳詞で競作した『上海リル』 から引用していて 出だしのメロディーにも模倣が見られるそうです
     

    同曲自体が『上海リル』のアンサーソングであるのに 本家を凌ぐ大ヒットの余波で 同一の作詞家・作曲家・歌手によって 『リルを探してくれないか』(1952年) 『心のリルよなぜ遠い』(1953年)が製作されて これらもヒットしたそうです

    1952年には映画俳優である三条美紀が『私がリルよ』和田隆夫作詞、東為二作曲)で歌手としてもデビュー  他にも三条町子の『私は銀座リル』 三鳩ひとみの『私がリルの妹よ』 久慈あさみ までも『霧の港のリル』 を出すなど関連の歌が連なりました

    ◎タンゴと言えば・・
    昔からタンゴ好きの私は タンゴが主体の専門雑誌であった「中南米音楽」(現 「ラティーナ」 )よく読み 1970年代はレコードの他にも8トラックカートリッジテープを何本も買って一日中エンドレスでタンゴを聞き流したりしていましたが その後はカセットテープとなり 現在はCD主体です
     
    私の捨てがたいレコードの中でも最も大切なのは「タンゴの歴史」と題した3枚組LP(1969=昭和44年発売)で そのハードケースの内側には・・「愛蔵家番号 001207』というラベルが貼ってありました

    その中には 最も有名なタンゴ曲「ラ・クンパルシータ」が1917年に世界最初に録音されたもの入っています
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    「藤沢嵐子」(ふじさわ らんこ)さん (1925年7月21日 -2013年8月22日)は日本人にして本場アルゼンチンでもタンゴ歌手として評価の高かった人で 1950年代の日本のタンゴブームの立役者の一人であり 「タンゴの女王」と呼ばれました
     
    35年ほど前になりますが 私は東京都 千代田区 内幸町にあるプレスセンタービルに立ち寄った際に1階にある書店で 藤沢嵐子さんの著書の表紙を開けたところに ご本人直筆サインが入ったものが展示販売されているのを見つけたものの 仕事先に向かう途中だったので 後で購入しようとして・・ 帰りに店に寄ると既に売れてしまっていました
     
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    ↑プレスセンタービル 1976年竣工  
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    ↑表紙開けたところに直筆サインがあった
     
    東京都千代田区の神保町には・・タンゴファンには有名な喫茶店『ミロンガ・ヌォーバ』あります
    元々は昭和28年(1953年)にタンゴ喫茶「ミロンガ」としてオープンしたもので ビールをメニューに加えた際に現在の呼称になったとのこと 名物は「ピザ・ミロンガ」


    店内はやや仄暗く 哀愁をおびたアルゼンチンタンゴの調べがマッチしています ときにはタンゴのライブ・コンサートも行われているようです

    実は私は短い店名だった頃の『ミロンガ』にしか行ってません

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    ※写真は「神保町ポータルサイト」から引用
    ・・・・・・・・・・・・
     ※タンゴについては またいつか次の機会に!
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎超常識の接骨医 吉田増蔵 氏
    かつて私が住んでいた町 東京都 豊島区 椎名町(現 南長崎)には凄い接骨医がいることで その名を知られた吉田接骨院がありました 
    ここはごく普通の民家と変わらぬ造りで しかも看板も出していないのに 全国から患者が押しかけ 朝早くから300人が並んだこともあったそうです

    また後にここは野球の読売巨人軍のお抱え接骨院として更に有名になりました
     
    骨折でも2週間で治すことで知られた伝説の接骨医は 吉田増蔵 氏・・テレビや新聞にもその名がでることも度々ありました
     
    1955(昭和30)年ころだったかに・・
    私の弟(当時5才?)が高い所から飛び降りて 脚を捻挫したか骨折なのか判然としないが非常な痛みを訴えるので 祖父が翌朝早くに 弟を背負って歩いて吉田接骨院に行きました これに私も一緒について行き 午前7時半頃(だったか?)に着いたら まだ格子の門は閉じられた状態でしたが 門前の路上(大通りには面していませんでした)には既に15人くらいの人たちが待っていました

    その門の格子目が粗いので門外から中が良く見えるのですが やがて・・
    吉田先生が 越中ふんどし一枚だけという裸に近い格好で建物の中から庭に出てきました
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    越中ふんどし:「褌屋」カタログから
    先生は門前で待つ人々に目を遣ることもなく 無言で庭の植物にじょうろで水遣りをしてから また家の中に入っていきました
    これも文字で表せば「傍若無人」でしょう(言葉の意味としてはズレますが)
     
    まだ小学校低学年だった私は 変わった先生もいるものだと驚きましたが このシーンは脳裏にしっかりと焼き付いています
     
    しばらくして開門されて治療が始まったのですが なにしろ今で言う「ゴッドハンド=神の手」ですから 一人当たりの施術時間は短く しかし効果抜群で 私の弟もあっという間の施術で治ったようで 
    その後通院しませんでした

    ※平日で学校があるのに 私が朝に 吉田接骨院へと同行できたのは 当時の小学校では「二部授業」という授業形態がとられていたためで これは生徒数が多くて教室が足りないため、一教室を二学級が使うという方式で 午前と午後に分けて それを一週間ごとに交代して使っていたので たまたま その日の私は 午後授業だったからです・・そんな時代でした
      
    ◎読売巨人軍の選手達が驚異の治癒 王も長嶋も
    『 昭和40年代の野球アニメ『侍ジャイアンツ』(原作・梶原一騎)で主人公のジャイアンツ投手である番場蛮(ばんば ばん)が足首骨折で吉田整骨院に入院するシーンが登場している


    元巨人選手でコーチやスカウトも務めた上田武司氏が その著書であるプロ野球スカウトが教える 一流になる選手 消える選手」(祥伝社黄金文庫)次のように書いている・・
    「背中にデッドボールと食らって少々足に痺れがあったが 大したことは無いと思ったものの 試合後 同じく足を捻った黒江選手と一緒に吉田整骨院に診察を受けに行くよう川上監督から命じられて行ったところ 足が痛くて歩けないほどの黒江選手の施術が済むと・・「黒江の足はもう大丈夫 明日の試合には出られる」と言い 一方私には レントゲン撮影もなく 背中を触っただけで 実は脊髄骨折で そのまま放置しておけば半身不随になるほどの重傷であると診断されて その後 試合復帰まで半年の療養をしたが あのまま試合に出ていたらどうなっていただろうと思うと 背筋が寒くなった

    またある年の試合中にデッドボールを受けて病院で診断を受けたら ボール直撃部分が骨折しているだけではなく亀裂骨折も確認されて 安静必要と言われたものの移動して吉田整骨院に行ったら 吉田先生は「治るから、心配するな」と言って患部に親指の第一関節まで入れるので 激痛だったが 治療を終えると「脳内出血はもう止めた」と説明して 次はボールが当たった箇所以外にできていた亀裂骨折も治してくれた

    東大や慶大の医師が「治療法を調べてみたが科学的には解明できない」と驚き 新聞の一面に登場したこともあったという 「私には命の恩人 先生がいなければ選手生命が絶たれるどころか 今ごろこの世に存在していなかったかもしれない」


    また 文藝春秋Number 掲載の・・
    "最強の阪神"を粉砕した陰の男 吉田増蔵の伝説をたずねて」という記事では・・昭和43年9月に王選手が頭部にデッドボールを受けた際に 吉田先生に施術を依頼したら 右手の親指でボールの当たった箇所を根気よくグウッグウッと押さえられてて激痛だったが その晩は湿布をして 翌朝目が覚めたら すぐ立って歩けと言い 湿布をはがすと熱く蒸したバスタオルを四つ折りにして頭を温める それを何回も何回も繰り返す こうして王選手の頭蓋骨陥没は奇跡的に回復した 王選手は事故から数日で復帰し その復帰試合で特大ホームランを打った』( 『 』内は 「blog:将軍様のぼやき」 より引用一部割愛 )


    こうして 『吉田増蔵先生のもとには 怪我の場合だけではなく体調管理の指導を受ける目的でも 巨人軍の荒川コーチ、王、長嶋、広岡、山内選手』たち来ていたそうです その頃の私はまだ吉田整骨院が在る同じ町に住んでいたのでした ( 『 』内は小林道場 総師範ブログより引用一部割愛 ) 

    吉田先生は読売巨人軍のお抱え接骨院となってからは 原則 一般人の診療は一切されなくなりましたが それでも 神にすがる思いで一般の方が来たようです


    現在 吉田接骨院は それが在った場所には存在していません

      ・・・・・・
    ◎歌手の曽根史郎さんも 住んでいました
    東京都 豊島区 椎名町(現 南長崎) の私が住んでいた家から直線距離にして100メートルくらいの所に 歌謡曲「若いお巡りさん」を1956(昭和31)年にヒットさせた頃の曽根史郎 (現 史朗)さんも住んでいました  (1930=昭和5年生まれで今年88才)

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     Wikipediaから
      
    しかし私はそこでお顔を拝見することは無いままに 曽根さんは転居されてしまいました  それはヒット曲が出てまもなくのことでした その後NHK紅白歌合戦にも4回連続出場しています

    「若いお巡りさん」 作詞:井田誠一 作曲:利根一郎
    もしもしベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 夜が更ける 野暮な説教 するんじゃないが ここらは近頃 物騒だ 話のつづきは 明日にしたら そろそろ広場の 灯も消える
    ・・・・・・・・・・・・

    今年は松茸やや好調とか・・それでも庶民には高嶺の花 私が子供の頃は食べる機会も多かったのですが 今では とんとご無沙汰です
    それもその筈 日本における松茸の生産量は50年前に5000トンでしたが 近年では70トンに激減・・70分の1です 輸入モノは香りがチョット劣りますし・・
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    7本7万円↑
    (2018年 楽天市場より)
     昔から「松茸の人工栽培ができればノーベル賞もの」と言われてきましたが それよりも 生産量激減の原因究明が先決というわけで研究が進み 現在わかっていることは・・
     
    ◎松茸と赤松の生える土地には落ち葉が在ってはならぬ !
    この指摘は 30年ほど前にテレビ講座で農学の先生が述べられていましたが 今は広く知られるようになってきました
     
    先生によれば「近年の松茸の生産量の推移を表すグラフの下降線と木炭の生産量のそれは同じような傾きである」そうで その参考となるのが下のグラフ (薪の生産も関連しそうなので追加)イメージ 2
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    (三つのグラフは明間民央(あけまたみお)氏のページから引用)cse.ffpri.affrc.go.jp/akema/public/satoyama/satoyama.html

    これらのグラフが何を意味するかと言えば・・
    木炭や薪の生産が減ると→それまで利用していたナラやカシなどの広葉樹がそのまま残り→結果として 落ち葉が積もる→落ち葉は腐葉土となり土地に栄養を与える→やせた土地が好みである赤松 (に限らず全ての松) の生命力が弱る→木の根にとりついて生えようとする松茸は赤松が頼りにならなくなり さらに・・→落ち葉の栄養と湿り気を好むバクテリア類が松茸自身の生育の邪魔をすることになり
    →松茸は生えなくなる・・というわけです
     
    因みに 「マツタケの生産量の激減はマツ枯れによってマツ林が失われたせいではないと考えられますマツ枯れの被害が激化する以前に、すでにマツタケの生産は落ち込んでしまっていましたからです
    「」部分: 明間民央(あけまたみお)氏のページから引用
      
    「松に栄養を与えてはいけない」 ことは・・京都は 春の桜と松 秋は紅葉と松のコントラストがきれいな嵐山で 景観維持のために一帯の山に人を入らせずに自然のままにしようと 昔のある期間にそれを実行したら 逆に落ち葉のために松を弱めてしまい枯れるものも出たので 中止した例が示しています やはり松のためには人が落ち葉を掃除しなければならなかったのです
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      嵐山の桜と松
     
    落ち込んだ松茸生産量の復活に向けて取り組んだ例は・・
    「岩手県岩泉町の20,000ヘクタールの赤松の森は日本でも最大規模で 以前は松茸が大量に収穫されたものの1960年半ばに激減したので  20年以上前に岩泉町は、松茸を中心に据えた町おこし計画を発表し 松茸研究所を設立して究始めた結果 やはり広葉樹の影響に気が付きました 岩泉町は木炭産業でも栄えていたので その木炭生産減少に伴って広葉樹が増えたわけで 広葉樹の木を切り、落ち葉と腐葉土を払った結果 松茸生産量は相当に回復して 最盛期には及ばないものの悪い時期の3倍になったそうです」(「」内はブログ「かっとびジャパン」より一部引用)www.kattobi-japan.com/archives/18442521.html
     
    ◎松茸の国内産地ランキングは・・
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    平成28年度生産量 林野庁
     
    総生産量69.4トンの内 長野県だけで61%を占めて突出していますが 先述の岩泉町を含む岩手県が2位で頑張っています
     
    しかしながら 私が関西勤務していた時分には 松茸といえば 「京都の丹波産」が有名でしたし・・
    社員の中には 兵庫県の松茸が採れる地域に住んでいる者がいて 収穫シーズンには 松茸山にロープを張り 見張りをつけて 盗み採りを防ぐ・・などと言っていました
     
    また同じ兵庫県に住む別の者は 自家の松茸山があるので ある時などは 会社に持参の弁当には松茸がびっしりと しかも2層3層にも敷かれていました・・

    というわけで京都 兵庫は生産量が多いと思っていましたが ランキングを見ると確かに上位にはあるものの 長野 岩手には遠く及ばないことがわかりました
     
    ◎我が家の松は 「松ぼっくり」 から誕生 !
    今から35年ほど前に 近所の公園で拾ってきた「松ぼっくり」を庭の片隅に転がしておいたら いつの間にか 「黒松」の子供が生えてきて 成長して 現在 根元の周囲を測ったら64センチ 直径20センチ強になっています  (高さは10年ほど前に切りましたので4メートルほど)

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    松ぼっくり生まれの松」根元手入れ無しで樹形悪し)
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    2階から見下した松
    我が家のある場所は元々は砂を多く含む丘陵地帯を削って造成した所なので 土地がやせていて それが松にとっては良い環境だったわけで 肥料は勿論 水も与えることなくグングン成長しました やはり 「松はハングリーなほど立派になる ! 」を実感しています
     
    今年に入って 外に置いていた植木鉢に転がしておいた「松ぼっくり」から また「子供」が生えてきました 写真は「子供」に気が付いてから4か月経過した状態です 今度はこれを盆栽にしたいと考えていますが・・できるでしょうか ?
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    さて「香り まつたけ 味 しめじ」と言いますので 「香」つながりで話は飛びますが・・

    ◎本物の金木犀がトイレの芳香剤に・・
    今 町のいたるところで金木犀の香りが漂っていますが 我が家のトイレの小窓を開けると
    ちょうどお隣の金木犀が目隠しのように植えられているので 花と香りの両方が 今だけ 楽しめています
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     我が家のトイレから見えて香る金木犀
     
    笑い話で「本物の金木犀の香りを嗅いだ子供が・・あっ トイレの香りだ」と言ったとか・・これは何やら ある若いアナウンサーが 「旧 中山道」のことを「いちにちじゅうやまみち」と読んだという類の 作り話のようにも思えますが・・
     
    さて金木犀はよく見かけますが 私は 白い花が咲くという 銀木犀 を見たことがないので  どこか咲く場所を知りたいものです
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎朝ドラのモデル人物とヒロイン女優は同じ苗字の「安藤」さん
    今年2018(平成30)年10月から半年間 NHKの朝ドラマ「まんぷく」が放送されます

    このドラマはモデルがあり・・台湾出身で後に日本国籍になった実業家で 「チキンラーメン」と「カップヌードル」を開発してインスタントラーメン産業の創始者となった・・安藤百福(あんどう・ももふく)氏とその妻の仁子氏
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    ※今年8月で「チキンラーメン」発売60周年だそうです

    ドラマのヒロイン役は安藤サクラさん で 今年のカンヌ国際映画祭にて最高賞であるパルム・ドールを獲得した是枝裕和監督の「万引き家族」(201868公開) にも出演していますが・・
    今回の朝ドラのモデルである安藤百福氏と同じ苗字 !そこに何か「ご縁 」というものを感じます

    ※この映画での共演はリリーフランキー 先日亡くなった樹木希林さん
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    映画館のチラシ

    そして安藤サクラさんの父親は 奥田暎二 母親は 安藤和津 (祖父=犬養毅) 夫は柄本佑 (たすく=柄本明の息子)

    ◎私のラーメン「食歴」と「忘れえぬ味」
    私のラーメン食初体験の記憶は小学生の頃 まだ「中華ソバ」や「支那ソバ」と言う表現が多かった時代で 一杯が30円でした
    小学校高学年時に「即席ラーメン」 (現 インスタントラーメン)発売され (1958=昭和33年に現 日清食品株式会社が「チキンラーメン」発売) (1959=昭和34年に現 エースコック株式会社から「エースラーメン」発売) 
    すぐに試食 !  熱湯かけて3分で食べられるのは驚きでした
     
    その後の学生時代に夜食として相当な数のインスタントラーメンにお世話になりました 社会人になってからの1971年にカップ麺「カップヌードル」が登場 
     
    私が食べてきたインスタントラーメンには美味い銘柄が多々ある中で 特に印象に残っているものの現在は発売されていないものが・・
    (1) 非常においしいのに半世紀前のことでメーカー名を覚えていない「カレーラーメン」(袋入りタイプ)・・これは今でも食べたいと思うほど 忘れられない味なので なぜ生産中止になったのか不思議な商品です
     
    (2) 「メルビオ 和風ラーメン」・・三共株式会社(製薬会社 現 第一三共株式会社)が医薬品以外の分野に展開した「メルビオ」シリーズ(健康志向のレトルト食品・カップ麺・宅配食品)の一つとして1991(平成3)年発売の醬油味カップ麺でカップの中に大きな梅干が一個入っているものでした
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    当時のテレビコマーシャルから
     
    私は これより20年以上前から インスタントラーメンに梅干を入れて食べることは頻繁にあり 梅干から出た酸味が加わったスープを最後にすすると 何とも言えずおいしかったのです
     
    その後の1980(昭和55)年頃だったか ある新聞の読者投書欄に・・「ラーメンに梅干を入れるととてもおいしいですよ」という内容の投稿文が掲載されたのを 私はたまたま見つけて こんな内容がとりあげられたことに驚くとともに やはりこのおいしさは凄いと 確信したものでした
     
    ◎ラーメンの塩分は相当なもの ! 
    梅干まるまる一個が入った「メルビオ和風ラーメン」は発売されたものの 長くは続きませんでした
    今から思えば 塩分の摂取量からすると 問題があったのでしょう
     
    かなり以前から 「ラーメンのスープは飲み干さないように」 と提言され 実行する人も多くいるものの・・

    日本人の1日あたりの平均塩分摂取量は・・男性 ・・・・・ 11.1g  女性 ・・・・・ 9.4g  厚生労働省『平成25年国民健康・栄養調査結果の概要』  
    この数値は厚生労働省の通常の推奨値である・・男性8グラム 女性7グラムからすると まだ高く・・健康状態によっては下記のように更に抑えなければなりません

    【高血圧学会の1日あたりの塩分摂取量の推奨値】
    6g未満
    【腎臓病患者の目安】
    36gが理想
    【人工透析患者の目安】
    6g
    WHO世界保険機関の1日の塩分量の目標値】
    5g未満

    「無塩ドットコム」社のホームページより
    そこで ラーメンの塩分ですが種類や店 会社によって異なりますが・・
    五目ソバ(五目中華ラーメン) タンメン ワンタンメン・・13グラム強 /醬油ラーメン・・12グラム弱 / 味噌ラーメン・・10グラム / とんこつラーメン・・6グラム弱
    一方 普通容量タイプの カップラーメンの塩分をみてみると・・麺で4グラム前後 スープで2グラム前後 合計6グラム前後
    つまり店などで食べるラーメン1杯だけで塩分1日分に達するか 相当オーバーすることになってしまいますが これより量が少ないカップラーメンにしても1杯だけで1日分に近い塩分摂取になってしまいます
    私は子供の頃から半世紀以上にわたり ラーメンに限らず全ての食事の塩分量が明らかに多かったので 動脈硬化や慢性腎臓病になってしまい 只今 超減塩食事なので・・仕事で海外に1週間滞在したら 寿司よりも無性に食べたくなったほどのラーメン好きの この私が・・今では「ラーメン禁止」で とても苦痛です !  残念です !  
    ・・・・・・・・・・・・

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