徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    カテゴリ: 秘話飛話雑感

    「チャー」という音が今日も我が家の前から聞こえる。だいたい1日に3~4回。
    それはアイドリングストップのクルマからの音。

    そこで思い出すのは私の昔の苦い経験・・それをご披露する前に・・

    ◎アイドリングストップとチャー音
    (クルマを運転しない人のために説明しますと)アイドリングとは、クルマが走行停止時でもエンジンは止めないで動かしている状態のことで、

    これに対して、クルマが走行停止するたびにエンジを(自動的に)停止するのがアイドリングストップ。

    実際には、アイドリングストップ機能を備えたクルマ※が交通信号や交差点で、また歩行者がいる横断歩道の手前で、あるいは渋滞で一旦停車する場合にこの機能が働き、一旦停止したエンジンはアクセルペダルを踏めば再び始動してクルマは走り出します。
    oudanhodou-mae
    ※ただし、アイドリングストップ機能はスイッチ切り替えによって、それを働かせないで一時走行停止時でもエンジンがストップしない選択もできるようになっています。

    アイドリングストップ機能の解除スイッチボタンの一例 (「乗りものニュース」より)
    i-stop-switch

    冒頭の「チャー」※という音は、アイドリングストップのクルマが一旦停止した次に再び走り出す際に出る音で、実はそれ、エンジンの音ではなくてスターター(エンジンを動かし始めるための装置)の音。

    ※「チャー」音は単純ではなく、言葉で表現するのが難しく、各社・各車違うようでもあるので”チャーのような音”としました。

    我が家は住宅地の中の4メートル道路どうしが交差している角地にあり、信号は無いのですが一時停止標識とともに道路上に停止線があるので、アイドリングストップのクルマが一旦停止した後に発進する際に「チャー」音を聞くことになるもので、
    stop-board
    近年のクルマのエンジン音は静かなので(我が家の中に居ては)この音は聞こえずにスターター音だけが聞こえるわけです。

    ◎最近はアイドリングストップ機能廃止の流れ
    アイドリングストップは燃費向上やエンジン音の騒音防止に効果があるとされて、今から20年前頃からこの機能付きのクルマが多く生産されてきましたが、

    最近になってホンダ、トヨタ、ダイハツなどの自動車メーカーは、 ガソリン車のアイドリングストップ機能を廃止し始めて、例えばホンダではミニバンの「フリード」、小型ハッチバック車「フィット」、小型SUV車「ヴェゼル」などは従来は付いていたこの機能を廃止して、小型SUV「WR-V」は最初からこの機能を不採用。

    honda-cars
    フリード(左) / フィット(中) / ヴェゼル(右)

    トヨタでは小型ミニバン「シエンタ」、小型ハッチバック車「ヤリス」など。

    toyota-cars
     ↑シエンタ(左) / ヤリス(右)

    ◎アイドリングストップ機能廃止の理由
    ・アイドリングストップのクルマは一時停止状態から動き出すまでにちょっと”もたつく”。それはアイドリングストップ機能無しのクルマと比べると、”スターター装置が動く時間の分”が余分にかかるから。
    この“もたつき”を嫌う人も少なくないし、安全上 瞬時に発進したい時などには困る。

    ・一旦停止から発進する際の音”チャー”と同時に起こる車体の振動が嫌われる。

    ・アイドリングストップ機能の有無による燃費向上の差が少なくなった。この機能導入開始の頃に比べるとクルマ自体の燃費が向上してきたため、今やこの機能の有無による燃費の差は1リッター当たり1km以下とも言われる。

    ・アイドリングストップのクルマのバッテリーは負荷が大きくかかるために、より高性能な専用品が使われ、しかも寿命が短め。

    したがってこのクルマの持ち主は高価なバッテリーを短期間で買い換える必要が出てくる。そうなるとアイドリングストップで燃費節約、石油資源節約となるものの、専用バッテリー製造にかかる資源やエネルギーコストが余分にかかって環境マイナス要因となってしまう。

    ◎58年前に私がアイドリングストップを実行した結果は?
    1966(昭和41)年のこと、私は東京都の練馬区(あたりだったか?)の道路をクルマで走行中に、ふと”ガソリン代※を節約するためには信号待ちをする間はエンジンを切ってみよう”と思いついて、信号待ち毎に (当時のことだから)手動でエンジンキーを回して切っては、青信号で発進することを繰り返したところ、

    5回目(だったか?)で、発進しようとキーをまわしたら「クウッ・クウッ・クウッ」という音がし始めてエンジンがかからないので、「これはまずい!」とあわててキーを何回かまわしてみたら何とかエンジンが動いた。

    同時にこれはバッテリーに負担がかかった結果と悟って、すぐにこの”アイドリングストップ”行為を中止したのでした。これは私の”苦い経験となりました。

    東京都内のことなので200メートルくらい走行してはエンジンを停止してはまた始動したりを繰り返したのがいけなかったわけで、

    クルマというものは発進時にスターターが働いてバッテリーの電気を喰うものの、その後の走行中のエンジンの回転を利用したダイナモ(発電機)で発電した電気をバッテリーに充電するシステムになっているので通常は問題ないのですが、

    200メートル走行ごとにバッテリーの負担を繰り返せば、その間の充電が追い付かなかったのです。まあ昔のことでバッテリーの性能も現在よりも若干劣っていたかもしれませんが・・

    この経験がある私は、近年にアイドリングストップのクルマが登場したのを知った際に「これはバッテリーに負担がかかるはずだから大丈夫なのかな?」という心配をしていたところでした。
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    当時はレギュラーガソリン1リッター38円前後でした。但しサラリーマンの初任給が現在の約1/10だった時代のこと
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    ある日のこと、私の知人の身に、見たことも聞いたこともない症状が現れて慌てる事態が起こった。その状況は後述しますが、思い起こせば私自身も昔に似たような経験をしていたもの。それは・・

    ◎「一過性全健忘症」 !
    何の前触れもなく突然、脳の中で記憶する機能が停止して、その状態が30分~24時間続き、また突然に正常に戻るのだが、その間の記憶は完全に無いという症状が「一過性全健忘症」。
    この症状の原因は現代医学でも解明されておらず、40才代~70才代に多く現れ、どちらかと言うと男性のほうが多いそうで、さらに不思議なことにこの症状は一生の内に二度と現れないのだそうだ。

    ◎突然発症、突然消滅の実際 !
    その日、私と知人Aさん(70才代・女性)とBさん(40才代・男性)の3人はクルマで千葉市に在るスーパー銭湯に行き・・

    浴後に揃ってそこの食事処で早めの昼食を始めようとした際に、Aさんが突然に「(脱衣)ロッカーに忘れ物をしたみたい」と言って確認しに行ったが、暫くして無表情で戻ってきたと思ったらまた「忘れ物がある」と、同じような事を言って同じ行動をして同じような顔つきで戻ってきた。それは午前10時半ころのことだった。
    doubt-ninti
    私とBさんはAさんが2回目の同じ行動をして席をはずしている間に「これはおかしい。急に認知症が出たか?」と言って動揺したが・・

    Aさんが再び戻ってきた時には料理が運ばれてきていたので、Aさんにも「とりあえず食べよう」とうながして、途中(内容は忘れたが)二言三言の会話しながら食事を終えたところで、Aさんの行動の安全を考えてそこでの入浴を切り上げて・・

    次に皆でやはり近くのスーパーマーケットで買い物をしたのだが、今度はその店内を巡りながらAさんは「何か無くなったような気がする」と言って持っているバッグの中に手を入れてしきりに何かを探る動作。これを20分くらいの間に3回繰り返した。

    最後に喫茶店でコーヒーを飲んでいる最中には、Bさんに向けて「○○さんは元気なの?」、「○○さんの次の勤め先は決まったの?」(※○○さんはBさんの奥様のことで、転職先を探していた)・・という問いを発するのでBさんはそれに答える・・という同じやりとりを、これも20分くらいの間に3~4回繰り返した。
    words-repeat
    Bさんはこのような場合の対応を心得ていて、Aさんが同じ問いを繰り返しても、決して「それはさっき言ったでしょ」とは言わずに普通に返答を繰り返した。

    さて、ここでそれぞれ帰宅することになったがAさんの現状では放っておけないので私がAさんの自宅までクルマで送ることになった。

    車中でもAさんはまた「○○さんはどうなったのかな?」という言葉がまた出たほかはあまりしゃべらなかったが、クルマがAさん宅に到着する10分前くらいになって、急に元気な話し方になってよくしゃべるようになった。実はAさんはこの異常状態になってからは話し方に覇気が無く、従来の大声気味も消えていたのだが、どうやら元に戻ったと感じた。その瞬間が訪れたのは午後3時半ころで、発症から約5時間経っていた。

    こうして私はAさんを送り届けたが、Aさんの言動はまったく普通に戻っているようで不思議に思いながらも安心した。

    後日、会ってみたら会話も体の動きも以前と全く変わらないので、あの異変があったことが信じられない思いだった。

    revival

    しかし、あの日の5時間分の記憶はまったくないそうで・・
    ・浴場にあった何種類かの浴槽とサウナのどれに浸かったが記憶に無い。
    ・二度もロッカーに行って捜し物をしたことの記憶は無い。
    ・食事で何を食べたか記憶に無い。(本人曰く「だからせっかく美味しいものを食べた意味がなかった!」)
    ・歩きながらバッグの中の捜し物をした記憶無し。
    ・喫茶店に入ったこと自体が記憶に無い。
    no-memo

    ・・ということだが、その間に私が見たAさんの動作は・・しゃべり方は(多少覇気がなかったが)まあ普通で、ろれつが回らないことも無く、食事動作も普通で、歩いてもふらつきなど無い状態だった。

    しかも前述のように、記憶機能に関しては今回の発症前の記憶は消えていなかったから、それまでの心配事だった”○○さんの近況”を問う言葉が出たりしていた。     

    しかし当然のようにAさんは翌日に病院でMRI検査もしての診断をしてもらった結果は・・「一過性全健忘症」と言われたとのこと。

    お医者さん曰く「この症状の原因は解明されておらず、海外で若干の研究結果が発表されているものの信用はされていない状況です。ただこの症状は一度はあっても二度とは現れないとされていて、現に私がこの症状を診た数人の中にも、二度受診に来た人はいませんよ」・・だったそうです。
    in-hospital

    後から私は思うに、最初は”ああ、認知症になったか?”と思えたこの症状ですが、明らかに認知症とは違うのであって・・
    (1)認知症はゆっくりと現れるのに対して「一過性全健忘症」は突然発症。
    (2)認知症は記憶力が決して元に戻らないのに対して「一過性全健忘症」は完全に元に戻る。

    ◎ひょっとして、これが誘因か?
    ちょっと"伏線回収"的になりますが、ネットで調べると"一過性全健忘症の根本原因は不明だが、この症状が起きやすい状態、言い換えれば誘因”と考えられる例がいくつかあげられていて・・精神的ストレス時、過度な飲酒時、特定の薬や違法薬物摂取時、性交時、排泄のための"いきみ"時、そして突然の高温湯や冷水に浸かった時などがあるとされる。

    この最後の項目の"高温湯と冷水"というのは、前述のようにスーパー銭湯に入ったAさんに当てはまるかも知れない。もしかして高温サウナの直後に冷水浴槽に入ったかもしれないが、なにしろご本人の記憶が全く無いのでこれ以上確認できないが、有り得ることと考えられます。

    とにかく「一過性全健忘症」という名称が存在するということは、この症状が珍しくはないということで、これが一人暮らし、そうでなくとも一人で部屋に居る時、クルマの運転中などに発症すれば危険を招く恐れがあるものなので、この「一過性全健忘症」というものがあることは皆さん認識しておく必要があるでしょう。

    ◎私が昔に経験した”一時的記憶消失”?
    今から約半世紀前のことで、もう時効だからお話しますが・・私は深夜の酒気帯び運転の最中に全く記憶が無い状態があって、あやうく昇天(悪いことしているから天国は無いか?)するところで覚醒したことがあり、これは前出の「一過性全健忘症」と似るものの、原因が明らかであるから違う話ですが、絶対にやってはいけないと自戒をこめて・・

    1976(昭和51)年のこと、ある夜に私は当時住んでいた兵庫県加西市から大阪府寝屋川市に在る(知人が経営する)スナックに向けて、(免罪符にはならないが)”若気の至り”で無謀にもクルマで行き、サントリーオールド(ウイスキー)の水割りを2杯(だったか?)飲んで、帰ろうとしたのが深夜2時ころ(だったか?)。
    in-snack

    普段ならこれぐらいのアルコール量なら酔わないのだが、深夜の睡魔を想定していなかった状態で、再びクルマに乗って走り出したところまでは覚えているが・・

    ふと気が付いて(後から考えると、居眠り状態から目が覚めて?)バックミラーを見ると、直ぐ後ろを走っている大型トラックがさかんにライトを上向きと下向き交互に切り替えて私のクルマに注意を与えているではないか!

    事の重大さに気が動転しながらもクルマを路肩に一旦寄せてまず反省の念が頭の中を支配したが10分ほど気持ちを落ち着かせながら休み、再びクルマを走らせたが今度は頬をつねったり、叩いたりしながらなんとか帰り着いた。

    後から思い返すと、スナックからの帰りには最初は一般道を走り、次に中国自動車道へ入るのだが、いくつか在る入り口のどこから入ったのかからして記憶に無い。

    実は帰路の全走行距離は約70キロで、その内のおよそ60キロが中国自動車道の走行であり、”走行中にふと我に戻った”のは大阪の吹田インタチェンジから入ったとして約50キロも走っていた地点であり、時間にして約1時間だろうか、その間の記憶が全く無いという恐ろしいそして馬鹿な行動”酒気帯び居眠り運転”でありました。
    drunken-drive

    助かったのは信号のない自動車専用道路でしかも元々交通量が多くない中国自動車道の深夜なので他のクルマが極端に少なかったからでしょう。そして幸か不幸かパトカーがいなかった。
    pat-car
    もしもの結果になっていれば私はここでこの報告もできないことになっていたものの幸い生きているので、あえて”愚行の見本”の一つとして述懐する次第です。
    crash
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    P.S. タクシーの運転手さんから教えてもらった話では「酔っ払い運転のクルマは、走行のフラつきよりも、走行スピードが一定しないほうが多い」ということなので、昔の私の愚行運転も走行スピード不安定で注意喚起されたのでしょう。
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    ブラジル生まれのピアニスト、作曲家、編曲家、バンドマスターであったセルジオ・メンデス氏が先日(2024年9月5日)、83才で米国ロスアンジェルスで亡くなった。
    serumen-la
    写真は「Yahooニュース」より引用

    ◎セルジオ・メンデスのマシュケナダ
    私が最初に氏の音楽を聴いたのは1966(昭和41)年のことだったか、丁度その頃に氏が率いるグループ「セルジオ・メンデスとブラジル66」が「マシュ・ケ・ナダ」(ジョルジュ・ベン作曲のボサノヴァ曲)をカバーして世界的にヒットしていたから。

    マシュ・ケ・ナダ =  https://www.youtube.com/watch?v=wiqDOPCX_pA

    もともと私は10代後半からラテン系音楽が好きで、ペレス・プラード、ザビア・クガート、パーシー・フェースなどのマンボ、ルンバ、サンバ。メキシコ系のマリアッチなど賑やかな演奏をよく聴いていた。(賑やかではなかったトリオ・ロス・パンチョスも聴いたが)

    ◎私の人生最初購入のミュージックテープ
    1960年代後半になると、静かに語り掛けるような調子のボサノヴァ曲の「デサフィナード」や「イパネマの娘※」などが日本でも聴けるようになって、これはこれで良い感じだったが・・

    イパネマの娘 =  https://www.youtube.com/watch?v=a8wcZUUXJFs

    そこに登場した「セルジオ・メンデスとブラジル66」の「マシュ・ケ・ナダ」はボサノヴァ曲をアップテンポで賑やかにアレンジして、これぞ私の好み!ということで、これを収めた”レコードではなくカセットテープ”を購入。

    それは私が人生で最初に購入した”ミュージックテープ”となった。

    ↓今でも保有している
    serumen3

    そのテープに収められていたのは、「マシュ・ケ・ナダ」の他には「ビリンバウ」「おいしい水」「デイ・トリッパー」など全10曲で、当時私が所有していたビクター社(現、(株)JVCケンウッド)の ポータブル・カセットプレーヤー「カセッター※」でそれはそれは何回も聴き入った!

    ※「カセッター」は当時のビクター社によるカセットテープの録音・再生機の独自の呼称。その後”同社が開発して世界を席巻したVHSテープ”の録音・再生機も「ビデオ カセッター」と称していた。

    ※(蛇足ながら)ソニー社もテープレコーダーのことを独自に「テープコーダー」と称していた。

    ◎「ビリンバウ」という民族楽器
    先述のカセットテープに収められている1曲「ビリンバウ」はブラジルの民族楽器のことであり、下の写真のように、弓の形で弦は鉄線で、その弦には”木の実をくり抜いた共鳴椀”が付いていて、弦を細い棒で叩いて音を出すもので、その際の手には叩く棒と同時に”マラカスの中身と同じ種のような物”が入った筒状の小籠も持ちながら行うので、ビリンバウの演奏では弦の音に加えてマラカスのような音が加わったものになる。

    ↓ビリンバウ(一式:全長95センチ:中下の小籠がマラカスのような音出す:中央は500円硬貨)
    latin-inst5

    ↓(ついでに)我が家に在る中南米、アフリカ、ユーゴスラビアの民族楽器
    latin-inst1

    ↓小野リサ氏の監修で「LISA」の金色文字がうたれた木製サンバホイッスル(サンバカーニバルなどでピーピー鳴らす笛:右は裏側) (この品は某FM局の懸賞の当選品でレアモノ?)
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    ※「イパネマの娘」という曲は女性シンガーが歌う場合には曲名を「イパネマの少年」と変え、歌詞の中の「少女」も「少年」に変えることも多い。
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    日本の神道(しんとう※1)における神様と仏教における仏様。それを身近に拝めるのが、神道では祠(ほこら※2)や神棚、仏教では仏壇ですが今回は神棚にちょっと注目。

    ※1
    :神道を「しんとう」と読むと意味は”日本古来の土着信仰”。「しんどう」と読めば”神(そのもの)”又は”墓所の道”の意となる。
    2:一部には仏教に属するお地蔵さま(地蔵菩薩)を祀る祠もある。

    ↓神棚の例(左) / 仏壇の例(右)
    kamdna-butdan
    画像は左:楽天市場より/右:「メモリアルアートの大野屋」のHPより引用

    ◎漁業従事者の家には必ずと言っていいほど神棚がある
    原始より日本人は山、海、火、雷、滝、巨木、疫病など万物に(近年はトイレにも?)神が宿るので”やおよろず(八百万)の神”がおわすという観念があるが、中でも海、川、湖などで漁をする人達は神様に豊漁を願うと同時に、「板子(いたご)一枚 下は地獄」と言われるほど危険な船での無事を祈願することは必須となるので自宅には神棚が必ず設けられる。

    そして船(漁船に限らず船全般)の中にも神棚設置の例が多い。

    ”ある漁村を対象に調査したら神棚の保有率が100%”だったという資料を読んだことがあるが、

    そこでもう一つの特徴として挙げられていたのは”神棚の保有は老若に関係なく、しかも時代が変わっても行われる”ので年寄り世帯のみならず20才代の世帯でも神棚は在るという状況は変わることがないということ。 

    この事実は、日本全体の近年の神棚の保有率が減少傾向にある中で見落とされがち。
    (他の地域と同様にこの漁村でも神棚とともに仏壇も有る家もあると思われるが割合は不明)

    ◎漁村の神道ゆえの「奥津城」(おくつき=墓)
    前述のように漁村では”生きるための糧と命の守りのためという切実な願いは神様にすがる”ことになるから、自ずとこれは神道のカタチとなる。

    一般的には墓と呼ばれるものを神道では「奥津城」または「奥都城」(双方とも読みは「おくつき」)と称する。形式も一般的な(仏式の)墓とはやや異なり墓石にあたる石柱の頭頂部はやや四角錐のようにすることが多く、香炉が無く、線香無し、かわりにロウソク立てが有る。

    ・・・というわけで、漁村では奥津城という墓がたてられるようになる。

    「奥津城」と「奥都城」の使い分けには諸説あり・・
    A) 海、川、湖など水場に近い地域では「奥津城」。それ以外の地域では「奥都城」
    B) 神官や氏子だった人は「奥都城」。それ以外の一般人は「奥津城」
    C) 「奥津城」か「奥都城」かはこだわりなし

    なお、
    現在の奈良県明日香村では、仏教伝来以前の例えば古墳時代に造られた(今で言う)墓や陵墓のことを称して「奥津城」と称している。

    ◎五島列島に在る「奥津城」の例  
    私の亡父の出身地である長崎県の五島列島の中通島(なかどおりしま)の小串(こぐし)という地域は漁港があり、住民の多くは漁業従事者。海に向かって小高いが緩やかな傾斜地に大きな共同墓地があり、先祖はその墓地にある「奥津城」に眠っている。

    goto-map

    ↓小串港
    kogusi-haka_0001

    ↓小串の共同墓地
    kogusi-haka_0002

    ただしその石柱部には「祖先之奥津城」と刻んである。普通よく見る例の「○○家之墓」とは異なる。しかし基台部の石材には”蔦(つた)の紋”が彫ってあり、かろうじて我が家系の奥津城とわかる。

    日本全体では「○○家之奥津城」と刻んだもののほうが多い。

    ↓私の祖先の奥津城(左) / ○○家之奥津城の例(右)
    (「石の東栄」社のHPより)
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     漁村という特に神頼み必須の神道信仰の地であり、かつ言うまでもなく”水”関連の地だから「奥津城」という表記になるのはわかるが、なぜ”「○○家」ではなく「祖先」”なのかという疑問がわくが・・

    伝承によれば”事情により他の家系の死者も受け入れて合葬していたから”ともいわれるが、別の推論として”この奥津城を立てた時代にはこの辺境の漁村には苗字をもつ者が私の祖先も含めて殆どいなかったので○○家とはならなかったのではないか”とも考えられる。

    一般的な(仏式の)墓にも「先祖代々之墓」と刻まれたものを見かけることがあるが、これも同様な理由だろう。

    それでは「奥津城」という言葉と意味を誰が教えて使わせたのか? 当時の漁民自身とは考えられない。そこで登場するのが近くに居た知識人である僧侶や宮司・神官で、彼らは庶民に色々な苗字を(中には遊び心や奇異をてらった苗字もあったが)考えてあげることが日本全国で広く行われたことはよく知られている。

    その延長で建墓についても庶民から相談を受けた結果が現在の「○○家之墓」(仏式)対「○○家之奥津城」(神道式)の存在率の差。それは僧侶と宮司・神官の数の差の表れだろう。

    ちなみに、私の父は生前に「(故郷の五島の)小串に帰った際に会った坊さんから「奥津城」について否定的な説教をされてイヤな思いをした」と言っていた

    ・・ということを私は間接的に聞いたもので詳細不明なので想像するに、お坊さんは「死後の世界は仏教のほうが神道よりも良いから、故人のためにも宗旨替え?して墓も換えた方がよい」というようなことを言ったのではないか? それはお寺にとっても都合がよいのだろうから・・

    そう考えると、この小串という漁業の地であっても奥津城と称する墓が(よく確認できないが、周囲の墓を見渡したところ)稀な存在であろうことの理由は・・多くの家が本来の神道から宗旨替えさせられて仏式の墓にしてしまった・・のではないかと思える。
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    さて、先祖が奥津城に祀られている父だが、信仰心希薄で、自宅には神棚は無く、小さな仏壇らしきものはあったが父親(私からすれば祖父)の小さな写真が置いてあるだけで、線香をあげているのを私は見た記憶がない。

    しかし父がそうなったのには、中国大陸中心に7年間の過酷な戦場で”神も仏もあったものじゃない”という経験が作用していたように思える。

    私が小学校入学から就職までの期間に、学校に提出する家庭状況調査書類や就職用の履歴書には(現在では廃止されている)"信仰宗教記入欄"があったので、父に聞くと(信仰実体が無いものの)「浄土真宗にしておけ」と言われたものだった。

    それでも父は歳をとってからの一時期に、ある”願掛け”のために自宅から徒歩12,3分の長崎神社(昔、帝銀事件があった場所の隣に在る)へ1年ほど毎日お参りしていた。

    一方私の母方の祖父の自宅(東京)には神棚だけあって仏壇は無かった。それもそのはずで、祖父の出身は福岡県宗像市神湊(むなかたし・こうのみなと)であって、ここはユネスコの世界文化遺産にもなっている宗像大社(玄界灘に浮かぶ島に在る)に渡るための港ともされて「神湊」という地名が表しているように"神が近い"地であるから。
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    日本の大企業から個人商店などまで、職場内、ビル屋上あるいは工場敷地内など、そして剣道・柔道の道場、日本刀製作(刀鍛冶)現場、陶器焼成現場などでは神棚あるいは祠(ほこら=神をまつる小さなやしろ)が設けられることも多いが、仏壇は見られない。

    私が勤務していた会社の工場部門では敷地の一角に祠が建てられていて月に一度、幹部による参拝式が行われていましたが、会社全体では従業員が2万人以上いたので、勤務期間中に亡くなる人が年間で10人前後~数人になることで、会社の菩提寺と言えるようなあるお寺で年に一度「物故社員追悼法要」が行われていた。
    つまり、私が勤めた会社は、神にも仏にも頼っていた?

    まあ、多くの日本人が”赤ちゃんが生まれて1か月たてば神社に「お宮参り/初宮参り」して、亡くなればお寺のお世話になる”というような神仏へだたり無しの状態と同じか・・
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    ◎李香蘭(リコウラン)登場!
    先日のNHKの連続テレビ小説(通称:朝ドラ)「ブギウギ」の中で、李香蘭が「夜来香(イエライシャン)」という曲を歌うシーンがあった。

    李香蘭(1920~2014)は旧姓名かつ芸名:山口淑子(よしこ)/米国ではシャーリーヤマグチ/本名:大鷹淑子。
    日本人だが中国で生まれ中国語も堪能だったために、満州映画協会(通称:満映)※専属の”中国人俳優”として、また歌手として戦前戦中の中華民国、満州国、日本で活躍し、戦後は香港や米国で活躍(米国での名はシャーリーヤマグチ)。その後日本のテレビ司会者や参議院議員(3期)をつとめた。

    ↓李香蘭 (コロムビアのHPより)
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    ※「満州映画協会」は国策会社と言われ、理事長は甘粕大尉。彼はその以前は国内で憲兵大尉時にアナキストの大杉栄や伊藤野枝らを虐殺して服役したこともある人物で満州国建国にもかかわったが終戦と同時に服毒自殺した。 映画「ラストエンペラー」では故・坂本龍一が甘粕に扮して出演した。

    さて「ブギウギ」の中で李香蘭に扮して登場したのはミュージカル俳優の昆夏美さん(失礼ながら私はこの方を知りませんでした)で、きれいな歌声で見事に (私ども高齢者はその元歌を知る者が多いのでそう判断できる) 歌い上げていました。

    ↓李香蘭に扮した昆夏美 ((C)NHK© MANTANWEBより)
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    このドラマの制作統括者によれば、もともと昆さんにはこのドラマのオーディションを受けてもらっていて、その際の魅力的な印象が強かったので、たった一話の一シーンだけでも登場願ったとのこと。

    戦前戦中の中国を舞台にした日本製の叙情歌では「支那の夜」と「蘇州夜曲」が双璧だと私は思っていますが、もう一つ同時期に日本でも流行った歌が「夜来香」で、これも私は今まで日本製と思っていたのですが、実は中国の民謡を基に中国の作曲家の黎錦光が作曲したものだそうです。

    朝ドラ「ブギウギ」では実在した笠置シズ子や服部良一は別名にしてありますが、なぜか李香蘭とこの黎錦光は実名で登場しました。

    ◎服部良一、西條八十、李香蘭、渡辺はま子らが交錯してからんだ!
    先述の「支那の夜」、「蘇州夜曲」、「夜来香」に加えて「夜来香幻想曲」という曲があって、これらの作詞家、作曲家、歌手が絡み合ってのちょっと複雑な関係とは・・(カバー版歌う近年の歌手は割愛)

    ・「支那の夜」=作曲:竹岡信幸 / 作詞:西條八十 / 歌手:渡辺はま子
    ・「蘇州夜曲」=作曲:服部良一 / 作詞:西條八十 / 歌手:李香蘭、後に渡辺はま子も
    ・「夜来香」  =作曲: 黎錦光  / 作詞:黎錦光  / 歌手:李香蘭、後に渡辺はま子も
    ・「夜来香幻想曲」=作曲: (黎錦光の原曲を基に) 服部良一

    さらに混乱させる要素として、これらの歌がからんだ映画の存在がある。

    ・映画「支那の夜」=主演:長谷川一夫 / 共演:李香蘭 / 1940(昭和15)年製作
    ・映画「蘇州夜曲”支那の夜”より」=主演:長谷川一夫 / 共演:李香蘭 / 1952(昭和27)年製作
    (1940年製作の「支那の夜」から30分カットして改題のうえ再上映したもの)

    そして「蘇州夜曲」という名の曲は映画「支那の夜」の中で劇中歌として李香蘭が歌うように作られたものなのでこの二つの映画双方ともで「蘇州夜曲」を李香蘭が歌うシーンがある。

    ↓映画「蘇州夜曲”支那の夜”より」のタイトル
    movie-title

    ↓同上映画の出演者名
    actress-name

    ↓同上映画の中の李香蘭(ITによる着色化したもので本来はモノクロ)
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    ↓同上映画で出演の長谷川一夫と李香蘭(本来モノクロ)
    rikouran-with-k
    上記画像4枚は「なつかしの映画をカラーで」サイトより

    ◎李香蘭はイサム・ノグチと結婚していた時期あり!
    イサム・ノグチ(1904~1988)は日系人で彫刻家、造園家、インテリアデザイナーその他の多才人。
    手掛けた彫刻や庭園などは日本と世界の各地に存在するが、インテリア用品でよく目にするのは、”提灯から発想して和紙と竹ひごで構成する「あかり/AKARIシリーズ」”と”シンプルな木製脚とガラス板で構成する(通称)「ノグチテーブル」”

    ↓「あかりシリーズ」の代表作(商品:現在価格1万6千円台など)
    akari

    ↓「ノグチテーブル」(商品:現在リプロダクト品=ジェネリック家具が多く価格は4万円台~27万円台など)
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    李香蘭とは1951年に結婚したが1956年に離婚。

    ↓結婚(式)直後?の二人
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    実は上の写真は、二人が結婚(式)を電撃的に行ったために報道各社がその様子撮影できなかったのでその後に撮影されたもので、実際は1951(昭和26)年12月15日午前9時に明治神宮拝殿前にて二人で拍手しただけで済ませてしまったのだった。”結婚(式)”と表記したのはこのためで、これは「形式はともかく魂で結ばれるのが本当の結婚」という二人の考え方があったから。

    そもそも明治神宮で挙式(虚式?)することになった経緯は・・結婚はマスコミなどがウルサイので、二人でアメリカからイタリアのシシリー島に行って挙式する予定だったが資格取得に3か月もかかるということであきらめ、かわりにインドで挙式と考えたが宗教上の問題で駄目となって結局日本でということになったのだそうです。

    こうして日本に到着したのが挙式1か月前の11月で、ただしイサム・ノグチ一人。理由は途中で李香蘭が急遽 香港の友人に会うことになり遅れて来るためだった。

    空港で二人を待ち構えていた人たちと報道陣は肩透かしをくらって、用意していた花束を半分はイサム・ノグチに、残り半分は”姉を迎えるべく来ていた李香蘭の妹:山口勢子さん”に渡された。その時の写真↓で中央はノグチで左が勢子さん。

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    (上写真2枚と結婚関連内容は「毎日グラフ別冊 サン写真新聞 昭和26年版より抜粋」)

    それにしても、さすが国際的に活躍の二人は考え方も行動もスケールが大きいですね。

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    李香蘭はノグチと離婚の2年後1958(昭和33)年に外交官の大鷹弘 氏と再婚し2001(平成13)年に死別しているので彼女の本名は大鷹淑子のまま亡くなった。
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    現在の日本では「支那(シナ)」の呼称は使わないのがよいとされている。古来から世界各国が中国を指して「シナ」に近いような呼称を使っていて、それが英語では「CHINA」になっているほどだが、ある時期から日本人の一部が"
    支那(シナ)"を蔑称的に使うようになった過去があるためである。

    私が子供の頃(昭和20年代)に「支那そば」と呼んでいたものが、その後「中華そば」になり現在では「ラーメン」が大勢を占めている。同様に「メンマ」を昔は「シナチク」と言っていた。
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    新春を迎えられたお祝いとともに 今年のご健勝をお祈り致します

    さて、今年は辰年ということで・・ 

    神温泉(りゅうじんおんせん:和歌山県田辺市)は「日本三美人の湯」の一つです。※
    弘法大師が難陀王のお告げによって温泉場のかたちを整えたという言い伝えがあり、
    また中里介山の「大菩薩峠」という超長編にして未完の小説の中で
    主人公”机之介が眼を癒した”温泉とされて有名になりました。

    あとの二つは、島根県「湯の川温泉」と群馬県「川中温泉」

    龍神温泉
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    実は私、龍神温泉に一度だけ1972(昭和47)年に行っております。
    当時の職場の先輩にさそわれて、この年に運航開始した「神紀フェリー」に神戸から乗り
    白浜で下船してから約30キロ先の山あいの川沿いにこの温泉は在りました。 

    神紀フェリー
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    「神紀フェリー」は神戸~白浜間を結んでいて、当時はその2地点の間を陸路で往来するには
    道路事情の悪さで時間がかかったので、フェリーの採算がとれると見込まれたのでしょう。

    (正月の話としては恐縮ですが) その後の神紀フェリーは経営不振となって
    1975年に廃止され、船は以後国内の他のフェリー会社、さらに海外へと転売され
    最後は事故で沈没したそうです。

    ついでに同様の例として私が思い出すのは、かつて存在した「セントラルフェリー」。
    これを運営した「セントラルフェリー(株)」は神戸と川崎を結ぶ海路の動脈を目指して、三洋電機創業者でもあった井植歳男氏が設立して開業準備していたが始業前に死去したため弟の井植祐郎氏が三洋電機の2代目社長になるとともに、この「セントラルラルフェリー」会社の社長にも就任している。

    この会社は、大型トラックなら130~150台を積載できる6000トン級の船を5隻も神戸~川崎間に就航させて1971(昭和46)年6月に運航開始したが、なんと当初より陸路輸送に押され気味で翌1972(昭和47)年11月には運航停止になり、その後に船はギリシャの船会社に売却された。

    セントラルラルフェリー 
    (ブログ「N.Eの玉手箱」より引用)
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    このフェリー会社の元々の設立者は明らかに”市場の読みを失敗”しているが、私の経験からみるとほんの少しだけ同情できる部分があり、それは・・

    私は1970(昭和45)年頃は大阪と東京間をクルマで年に2~3回往復していましたが、東名神高速道を夜中の2、3時頃に走行していると、自分のクルマの前後に1台も走行車が無いという区間がいくつもあった(今では考えられない)状態だったのですが、

    その5年後には前述と同じ道路の同じ夜間時間の同じ区間でさえも“大型トラックに前後左右を挟まれて走行”するような状態に、つまり特に深夜ではトラックが圧倒的に多いという状況にあっという間になってしまったからで、トラックによる陸路輸送時代の到来スピードが読めなかったのでしょう。

    蛇足ながら、龍神温泉から南西約28キロにある田辺港は、
    私の両親たちが戦後、台湾からの引き揚げ船で帰還して上陸した地でした。

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    それでは みなさま今年もお元気に !
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    ◎カメムシDream Come True ?!
    先日(2023年11月某日)の午後、自宅のパソコンに向かっていていつのまにか15分くらい居眠りしてしまい、目覚めたのが1時半頃。

    その目覚めの直前に私は夢を見ていて・・その内容は”自宅居間のローテーブルの上を一匹の体長5ミリくらいの小さなカメムシが這っているのを見つけた。

    ↓よく見られるカメムシ 左:ツヤアオカメムシ 右:クサギカメムシ

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    (↑写真左:「兵庫医科大学 夏秋優 准教授撮影」/右:Wikipediaより)

    ご存知のように、カメムシは刺激を与えると、くさい臭いを出すので、近くに在る空き瓶でいざ捕まえようとしたら、そのカメムシがいつの間にか急に大きくなって体長15ミリくらいに変身しているのでびっくりした”・・というところで目が覚めた。

    「ちょっと不思議な夢だったな」と思いながらぼんやりしていて2分くらい経った時に突然、キッチンに居る妻の大声が・・「うわー ! カメムシー ! 」

    とっさに「えっ カメムシ? なんなんだ この”夢と現実のつながり”は!」と思いながらキッチンに向かうと、窓の網戸の外側に体長1センチくらいの灰色のカメムシが張り付いているではないか!

    それならば、捕まえて「子供の頃に体験した”カメムシの出すくさい臭い”を久しぶりに嗅いでみようか」と思った私は(これまたさっきの夢の中の行動と同じように)空き瓶を探すが見つからないものの透明プラスチック製の小型容器が在ったので、これを持って網戸の外側にまわってみたが、そのカメムシはいなくなっていた。

    どうやら妻が、ひょっとしてカメムシから臭いを放出されて、それが部屋に入ってきては困ると考えてガラス窓を勢いよく閉めたので、ガラッという音に反応してカメムシが逃げてしまったようで、残念という思いと同時に、この”夢の中と現実のカメムシ出現”はまさに「Dream Come True※」の文字どおりではないか!と心の中で叫んでしまった次第。 (※通常は少しちがう意味で使われますが)

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    (「U-NEXT」のCMより)

    ではなぜこの不思議現象が起こったのか?

    私は経験上、”ものごとは無から有は生じない”と理解している(但し宇宙の時空間の生まれについては理解不能?)ので、“カメムシが夢に出てきたこと”は腑に落ちる。その理由は・・

    一か月ほど前に、テレビで”今年も多くの都道府県でカメムシが大量発生している”というニュースを観ていたので、その情報が私の脳内に残っていたからと思われる。

    しかし、夢にカメムシが出るのは納得できても、その夢の2分後に現物が現れる理屈がわからない。

    ◎亡き母の予知能力
    今から25年ほど前、ある晩の10時頃に母から電話がかかってきた。日頃こんな時間に電話をかけてくることはないので何事かと思いながら電話口に出ると・・

    「あなたがクルマで事故を起こした夢を見て、どうしても気になったので電話したのだから気をつけるように」・・という内容だったので、ちょっと変な気分になったもののあまり気にせずに寝たのでしたが・・

    翌朝、通勤のために自分のクルマを運転中になんとバイクが車体横腹に接触する事態が起きてしまった。幸いにも双方たいしたダメージもなかった(私のクルマは少々のかすりキズのみでへこみは無し)ので、合意のもとでそのままその場を去ったが・・

    その直後に、昨晩の電話での母の予告?が当たっていることに思わず鳥肌がたった・・ということがあった。

    このケースでも、母は私が過去に小さな事故を起こしていることを知っていたから、それが夢に出ることは納得できるものの、電話で事故発生予知通告されてから9時間足らずして現実に起きるということの理屈がわからない。

    わかったことは・・古今東西で語られる「夢の中のお告げ」は確かにあるということ。

    ◎余録:カメムシについて
    1)「カメムシ」は数ある仲間の総称
    「カメムシ」という名の虫(昆虫)はおらず、日本国内に1000種以上にのぼる仲間の総称であるが、文献などでは総称する場合には「カメムシ類」と表記している。

    その仲間にはすべて「〇〇カメムシ」や「〇〇カメ」などの正式名が付いている。しかし日本各地にはその地方独自の呼び名があり、その総数は40を超すほどで、例えば「ヘッピリムシ」、「ヘクサムシ」、「クサンボ」などがある。

    2)カメムシは臭いの強さを、目的に応じて使い分ける
    敵などへの威嚇、仲間へ警戒呼びかけ、仲間を呼ぶ、求愛などに、それぞれ臭いの強度(分泌液噴射量)をちがえている。

    3) 「カメムシ類」の中には”くさくない臭い”を出す種類もある
    「キバラヘリカメムシ」や「オオツマキヘリカメムシ」などは”青りんご”のような臭い、「オオトビサシガメ」は”バニラ”のような臭いを出す。

    4)農林水産省発表の「カメムシ注意報」今年21府県に
    今年(令和5年)も「カメムシ類」大量発生ありとして21府県に注意報が出ていますが、実は昨年のほうが対象地域は広くて35都道府県に及んでいた。

    注意すべきカメムシ類は2種あって、”果物の汁を吸う「果樹カメムシ類」”と”稲穂の中の米の汁を吸って、黒っぽい点になる吸い跡を残す「斑点米(はんてんまい)カメムシ類」に分かれ、後者は関東以西に多い。

    カメムシ類はストローのような口で果物や米の汁を吸い取るので、米は黒い斑点ばかりでなく米粒がしぼんで平たくなることがある。

    斑点米カメムシ被害にあった米(農研機構のHPより)
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    東京や大阪の都会の住宅や街灯にも少なからず寄り付いていることもあり、外に干している洗濯物や布団にも付くことも多いとのこと。

    5)有益なカメムシもいる!
    高知県ではナス栽培時の害虫退治に"カメムシ類の中でも雑食性の「タバコカスミカメ」という種類のカメムシ"を使って害虫を捕食させていて、15年間で収穫量は2割増加、使用農薬は4割削減という好結果を生んでいる。

    ◎飛話:カメムシ と セイタカアワダチソウの類似点?
    1)カメムシは自分で出した臭いが充満すると自分が死ぬ!
    カメムシが出す強い臭いは(尻からではなく)腹の「臭腺」という部位から射出される化学的に有害な分泌液によるもので、かなり刺激性がある臭いだけではなく我々人間の皮膚に直接付くと炎症を起こすほどなので、カメムシ自身も分泌液が身に降りかかっても安全なように体表は”セメント層”というもので覆われている。

    このように強烈な性質をもつ分泌成分なので、カメムシを密閉容器に入れた状態でこれを分泌させ臭いを充満させると、まず失神し、さらに経過すると死んでしまう。

    2)セイタカアワダチソウは自分が出した毒液で自分が死ぬ!
    まず世間の一部ではセイタカアワダチソウとブタクサが混同と誤解をされているようなので・・

    あえて両者の共通点とするならば、小さな黄色い花を咲かすことぐらいで、全体の姿は全く違っていて、セイタカアワダチソウはクリスマスツリーのもみの木の樹形のようになり、ブタクサはまとまりのない形になる。 

    ↓セイタカアワダチソウ (写真は「もりのいと」のブログより引用)
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    ↓ブタクサ 
    (写真は「エスエス製薬」のHPから引用)
    butakusa

    そして”花粉”について誤解されていて、正しくは・・
    “花粉アレルギーを起こすのはブタクサの花粉”。なぜならセイタカアワダチソウの花粉は重いので風による飛散がおこりにくいから。

    さて、“セイタカアワダチソウは自らの毒で自滅する”のだそうで、その経緯は・・
    ある土地で成長しだしたセイタカアワダチソウは、その土地における他の植物の成長を阻害する「アレロパシー」なる物質を根から分泌して、自分だけの勢力範囲を広げる。

    ところが繁殖したある時点で自ら分泌した「アレロパシー」が自らを攻撃して、言わば自家中毒状態になって枯れて自滅してしまう。結局、その土地における”セイタカアワダチソウ帝国”の繁栄は10年ほどだそうです。その跡地には他の植物(ススキなど)がまた生えてきます。

    私が
    セイタカアワダチソウを最初に見たのは50数年前の関西のある郊外においてでした。それまで見たことが無かった"一面が黄色の情景"に思わずカメラのシャッターをきった覚えがあります。しかしそれから半世紀たって、関西が、いや日本がセイタカアワダチソウの黄色で埋め尽くされていないのは納得です。

    「驕れる者は久しからず」・・ですかね。
    ・・・・・・・・・・・・
    条件が違うとは言え、カメムシとセイタカアワダチソウの”自分の分泌物で自分が死ぬ”という2例でした
    ・・・・・・・・・・・・

    ※以下文中の「西武百貨店」は現在「西武」と称しています

    ◎百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位なのに・・
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    (株)そごう西武の労働組合は、親会社であるセブン&アイ・ホールディングスがそごう西武を米国の投資ファンド会社に売却する方針発表したことに反対して、先日(2023.9.1)に旗艦店である西武池袋本店でストを行った。しかし同じ日に売却決定が発表された。

    ここではスト決行に至った細かい理由は省略しますが、特に西武池袋本店の誇りある従業員の思いは察するに余りあるもの。なにしろ百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位(2022年)※を誇っていて、これだけ頑張っているのに・・という思いだろう。

    ※1位:伊勢丹新宿本店3276億円 / 2位:阪急うめだ本店2610億円 / 3位:西武池袋本店1768億円 / 4位:JR名古屋高島屋1724億円 / 5位高島屋日本橋店1430億円 / 6位:三越日本橋本店1384億円(以下省略しますが、全店舗総額では高島屋が7611億円でトップ)

    かつて東京都豊島区南長崎に在った我が家から最寄りの西武池袋線の東長崎駅から2駅先の池袋駅(終点)に直結した西武百貨店まで”ドア・ツー・ドア”の所要時間は15分・・なので私は、もの心がついてから東京を離れる22才までの間、最も利用したデパートが西武池袋店だったから、現在の状況には寂しさを感じながら今後を心配するものであります。

    ◎私が最初に見た大きなビルが池袋の西武百貨店
    私が5才の頃、祖父に連れられて池袋に行った時のこと、西武百貨店の建物に面した歩道を歩きながら祖父から「どうだい、ずいぶん高い建物だろっ!」・・と上を指さしながら言われたことを覚えている。※

    ただし、その時は建物の完成直前で、まだ一部工事が行われているような状態ではあった。しかも現在のように南北に長い建物になる前だったので南側半分の長さだったのだが・・。
    今、調べてみると西武百貨店の前身である武蔵野百貨店の跡に建物が完成したのは1952(昭和27)年9月だそうで、私はその工事を見ていたことになる。西武はその後に北側へ増築や改装を重ねている。

    西武池袋店最初の建物(私はその完成直前の姿を見ていた)(写真は1950年代前半撮影か?:ブログ「あの町 この道」より引用)・・その後、同店は写真手前=北方向に増築して伸びた)
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    ※「高い建物」と言っても、当時は高さ制限で31メートル止まりで、普通は8階建てが限度だった! これは1919(大正8)年に制定された「市街地建築物法」によって建物の高さにいわゆる「百尺制限」が適用され、百尺=30.303メートル以下に制限されていたものが・・

    1931(昭和6)年に同法が改正されてメートル表記にして31メートル以下とされて以後、1961年の建築基準法改正で容積率による制限方式への変更を経て、1970年に絶対的高さ制限が撤廃されるまで続いたから。

    ◎東に西があり、西に東がある池袋?!
    現在の池袋駅”東”口には”西”武(百貨店)が在り、”西”口には”東”武(百貨店)が在るので、そのようによく言われるのだが、昔は”東に西があり、西に東がある”のは今と変わらないものの中身がちがっていた・・

    というのは・・”東”口には”西”武(百貨店)が在って、”西”口には”東”横(百貨店)が在った時代があったから。(後に、西口に東横と東武が短期間だが並立した時期もある)

    昔の池袋には百貨店が最多で5店存在したことがあり・・

    西武百貨店(東口)=開業1949(昭和24)年~
    東横百貨店(西口)=開業1950(昭和25)年~閉店1964(昭和39)年(東武に譲渡)
    丸物百貨店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店1969(昭和44)年(西武に譲渡後パルコ第一号店になった)
    三越池袋支店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店2009(平成21)年(現在、ヤマダ電機「LABI 1」店)
    東武百貨店(西口)=開業1962(昭和37)年~

    右に丸物百貨店、左に西武百貨店(松井一彦氏1967年撮影)
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    左は東横百貨店(高木進一氏1963年撮影)、右は建設中の三越池袋支店(1957年、撮影者不明)
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    上の写真3枚は全て豊島区立郷土資料館発行誌「かたりべ」掲載より引用

    ◎西武百貨店の火事(1)捨てたマッチの火が招いた大惨事
    1963(昭和38)年8月22日12時50分頃、西武池袋店7階から出火。
    死者7名、負傷者216名となる。(当日は休業日で来店客は無し)

    出火原因はマッチの残り火。休業日を利用して店内消毒を専門業者7人が行っていたが、作業員がタバコに火をつけた後のマッチを床に捨てたところ、床にこぼれていた消毒液に引火し、さらに塗装業者のシンナーにも引火したので火のまわりが速く、当時はスプリンクラー設置義務もなかったために初期消火にも失敗して、100台の消防車が出動して梯子を伸ばしても7階までなので8階にも延焼して鎮火したのは同日20時35分。

    消毒会社と西武店員の死者・負傷者を出すに至った。被害総額は当時の金額で200億円。この火事を契機にスプリンクラー設置義務が制定された。

    西武百貨店火事のニュース映画タイトル (中日ニュースより)
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    燃える西武百貨店(同上ニュース映画より)
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    私が子供の頃は、空気が乾燥する冬には子供たち数人のグループが拍子木をカッチ、カッチと叩きながら「火の用心、マッチいっぽん火事のもと!」と大声を出しながら町内を歩いて巡っていたものだが、まさに西武百貨店の火事は"その言葉どおり"になった。

    ◎西武百貨店の火事(2) 鎮火直後セールで汚点
    なんと火事の2日後、同店は「冠水商品大安売り」を告知したものの、それを知った人たち5万人が押し寄せたために中止となったが、これには「多くの死者、犠牲者を出した直後で不謹慎である」との批判が出たことも影響している。

    私は当時これを聞いた時、「さすが近江商人! 何はともあれ商売か!?」と思ったものでした。
    しかし後年になって、”近江商人”とは近江の国(現在の滋賀県)に自家、拠点を構えてそこから全国に向けて行商する人たちを称したものであることを知ったことにより、”西武経営者は厳密には近江商人ではない”ことになると認識した。

    ちなみに、創業者が近江国(おうみのくに)または滋賀県生まれの会社は・・西川(寝具) / 小泉産業(家電その他) / 高島屋(百貨店) / 伊藤忠商事・丸紅(商社::両社とも創業者は同一人物) / 日本生命(保険) / ワコール(女性用下着その他)など。

    しかし、”西武”が近江商人と全く無関係ではないとは言えるその理由は・・

    現在の西武関連の多数の会社の基を一代で作り上げたのは滋賀県(昔の近江)生まれの堤康次郎(やすじろう:1889~1964)氏であり、早くに父を亡くした氏は母方の祖父と一緒に、行商はしなかったものの色々な仕事をした中には、滋賀県内での耕地整理と土地改良というものがあって、

    これが後に氏による伊豆、箱根の観光地、軽井沢の別荘地、東京の高級住宅地「目白文化村」などの開発に影響を与え、西武鉄道、西武百貨店の展開につながったものと考えられる。なお氏は一方で政治家の一面をもち、衆議院議長を務めたこともある。
    堤康次郎氏
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    そしてなんと現在の「近江鉄道(株)」は創業者が滋賀県出身であり、第二次大戦中に苦境にあった同社を同郷の堤康次郎が救うために西武グループの子会社にして今に至っているもので、

    同社の鉄道車両は関東で走っていた西武鉄道の車両の"お下がり"を利用している。このように"西武と近江はつながっている"。


    堤康次郎氏の死後,”西武鉄道(現、西武)グループ”(土地開発などの不動産関連や西武鉄道)の経営を氏の三男の堤義明(1934=昭和9年~)氏が、”西武流通(後のセゾン)グループ”(西武百貨店など流通部門)の経営を二男の堤清二(1927=昭和2年~2013=平成25年)氏が継承した。(二人は異母兄弟)

    堤義明氏(左)と堤清二氏(右) (写真は日本経済新聞より引用)
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    ・・というわけで、西武百貨店火災の時点で堤清二氏は同店のオーナー店長だったのだが、”東京大学経済学部卒で経済学博士である一方で「辻井喬(つじいたかし)」というペンネームをもつ小説家・詩人”でもあった氏が何故に“鎮火直後の「冠水商品大安売り」という失策”をしてしまったのだろうか?

    これだけのご仁も余程 気が動転していたのだろうか?・・結果として西武百貨店の歴史に汚点を残した一件であった。

    ◎西武百貨店の火事(3) イカリ消毒社は堤氏に赦免されて後の発展につながる
    イカリ消毒(株)は1957年に創業して間もなく創業者が死去したため、その息子二人(黒澤眞次氏、黒澤敬氏)が事業継承して間もない1963年に西武の火事を起こしてしまった。時に眞次氏23才、敬氏21才だった。

    鎮火後、イカリ消毒の経営者の二人は「刑務所に行って死んでお詫びする」ことも考えながらすぐさま堤清二氏のもとへ謝罪にうかがったところ、清二氏から驚くべき言葉を聴いた、それは・・

    「君たちはまだ若い。それに君たちの仕事は今後ますます必要とされるだろう。このような事故を二度と起こさないことを誓い、世のため人のために頑張りなさい」

    その上でさらに清二氏は”損害額のほとんどを西武側で負担”したのだった。

    その有難い言葉と処置の意味を肝に銘じた二人は、それ以来”知恵と技術の向上と絶対の安全”を誓ったが、先ずはこの火事は自分たちが”危険物取扱い”に資格が必要なことさえ知らなかったという無知に気づき、以後は” 危険物取扱主任”資格をはじめとして各種資格取得をして、

    特に黒澤眞次氏は82種もの資格を得た。社員にも奨励した結果、現在では社員650人全員の取得資格総数は4500におよんでいるとのこと。

    その他にも”世のためになること”に注力するなどで信用と実績を積み、今や「イカリ消毒(株)」は・・消毒・害虫駆除の分野のトップ企業として年商150億円となった。・・これは堤清二氏の偉業というか英断による結果とも言えるだろう。

    ◎西武百貨店の火事(4)パトカーの交信内容を聴いていた私
    この火事が起きた日は高校生の私にとって夏休みの最中だった。当時の私の趣味の一つに”アンプや受信機の製作”があったのですが、その流れで”市販のFMラジオの中身のコイルを少し細工して”警察無線を傍受できるように改造していた。今は傍受不可能だが当時は”パトカーと警視庁の交信”などが聴けた。

    その日の昼過ぎにたまたま改造ラジオのスイッチを入れて警察無線傍受を始めたら、池袋の西武百貨店の火事に(消防車だけでなく)出動したパトカーの無線交信が入ってきたので、慌てて2階の窓から東方の池袋方向を見たら確かに大量の煙が見えた。(自宅から西武百貨店までは直線距離にして約2.5キロだった)

    私にとってこの火事発生のニュースは新聞はもちろんテレビでも伝わる前に知ったことになったのですが、ここからお話が飛んで・・

    1961(昭和36)年4月12日にソ連(現、ロシア)のユーリイ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功しましたが、これもたまたまこの日の午後(時刻は記憶にないのですが)に短波放送が聴けるラジオのダイヤルをまわしていたら、普段は昼には聞こえない「モスクワ放送(日本語版)」が聞こえて、なんとその内容が「今、ソ連の宇宙飛行士が地球の周り回っています!という実況中継のようなものだった」ので私も興奮した。

    なぜなら世界初の人工衛星がこれもソ連によって打ち上げ成功した(忘れもしない)1957年10月4日から3年半しか経っていなかったから。

    この有人宇宙飛行の件もまた” 新聞、テレビで伝わる前に知った”ことになったわけですが、後年に知ったのは”ソ連はこの有人宇宙飛行が成功するか否か分からないために、ガガーリン(本来は軍人)が宇宙飛行中に「2階級特進」を本人に伝達した”ということなので、

    ひょっとすると私が聴いたモスクワ放送の内容は”ガーリンが地球の周りを一周して無事帰還に成功”した後に録音版を流したのではないかと思える。それはもちろんリアルタイム放送中に失敗したらマズイでしょうから。
    ユーリイ・ガガーリン(写真は「スプートニク日本ニュース」より)
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    ◎西武百貨店の「日本一」「日本初」(バルサミコ酢も)
    今、窮地に立つ西武百貨店だが、その旗艦店である「西武池袋本店」は、かつて「日本一」や「日本初」を誇るものが沢山ありました。

    ・売上高日本一:1983年に、当時それまでトップだった三越本店を抜いて売り上げ1位になっていた。
    1963年師走の西武百貨店の売り上げ金勘定での札束の山 (以下の写真3枚はTBSテレビ「ひるおび」より)
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    ・百貨店の建物の長さ日本一・・現在の池袋本店に増築完了した際には「日本一どころか東洋一」。

    ・百貨店として初の「パリ オフィス」開設。その結果、エルメス、アルマーニなど有名ブランドを多数導入し、特にラルフローレンを日本へ初めて紹介して普及させた。

    ・百貨店屋上にヘリポート設けて観光事業は日本初・・最盛時には6台のヘリコプター発着。
    「西武スカイ ステーション」と名付けた屋上ヘリポート(1959=昭和34年)
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    ↓屋上ヘリに乗り込み新婚旅行に向かうカップル(1959=昭和34年)
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    ・日本最初のセレクトショップと言われる「SEED館」設置。

    ・百貨店の包装紙デザインに外国人を日本初採用。1959(昭和34)年にスウェーデンのデザイナー「スティグ・リンドベリ」氏によるデザインを包装紙に採用。図柄は”百貨店の多様な品揃えを表して楽しさを感じる”もので人気があった。
    ↓スティグ・リンドベリ氏デザインの包装紙 (私の保有品)
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    しかし西武のイメージ変化に対応させるべく、その使用は1975(昭和50)年までにして同年から日本の著名なグラフィックデザイナー田中一光氏による”青と緑の円で構成する清楚な感じ”のデザインを採用している。
    田中一光氏のデザイン(これは紙袋版)
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    ちなみに日本初の”百貨店オリジナル包装紙”は三越のもので、”濃いピンクの丸っこい石が転がっているようなデザイン"は著名な画家の猪熊弦一郎氏のもの。

    ・日本で最初に「バルサミコ酢」を紹介販売して現在の普及につなげた。
    このバルサミコ酢の件は、今から35年くらい前に故田中千博氏(フードシステム研究所所長、食卓懇話会など主催、食関連著書多数)から私が直接お聞きしたのですが、

    「毎年、相当な期間を海外で"食"関連事情を調べることに費やしている中で、イタリア北部で”ワインと濃縮ぶどう果汁を原料にして熟成させて作る酢”で「アチェート・バルサミコ」と称しているものに出会ったが、これがすばらしいので日本に紹介するべく、西武池袋店に”展示紹介・販売”するよう提案して採用された」・・ということでした。
    ・・・・・・・・・・・・・
    さてさて、百貨店が「諸行無常」のならいに抗う方法を見つけてほしいものです。
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    ◎科学博物館(略称:科博)に1日で1億円の寄付集まったが・・
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    国立科学博物館(東京・上野)は、同館へ国から支給されている運営費交付金が年々削減されている中、コロナ禍で来館者減となって入館料による収入も減り、さらなる光熱費や物価の高騰で収蔵用の標本や資料の収集と500万点以上ある標本類の保存のための資金繰りが苦しくなっていることを理由に先日(2023.8.7)、インターネットを通じて寄付を募るクラウドファンディング(CF)を始めたところ、驚くべきスピードで募金が寄せられて開始9時間20分後の午後5時20分には目標としていた1億円を達成した・・というニュースが流れて、私はそのスピードと集金額よりもむしろ”日本の人たちの文化度、民度の高さの現れ”として感動した。

    このクラウドファンディングは11月5日まで続行する予定だそうだが、何と今日(2023.09.09現在で7億4800万円超も集まっている!

    科学博物館内展示物一例、右は「フタバスズキリュウ」の骨格化石
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    ◎牧野博士の植物標本も収蔵する「小石川植物園」もCFが!
    牧野富太郎博士はその94年の生涯で1500種の植物に命名し、約40万点に及ぶ植物標本や観察記録(図)を残したが、その多くは”終の棲家”として約30年間住んだ東京都練馬区の自宅(現、練馬区立牧野記念庭園)に残されていたものの、(牧野博士は名誉都民第一号でもあり)その後東京都が譲り受けて現在「東京都立大学 牧野標本館」(東京都八王子市)に収蔵されているが・・

    当然のように、長年在籍した東京大学にも一部が残っていてそれらは博士が37年間もかかわった「小石川植物園」(←通称であり、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」:東京都文京区)に収蔵されている。

    小石川植物園内の植物学教室で撮影された牧野富太郎博士(東京大学HPより)
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    5万坪弱の植物園に囲まれた本館(建物内は非公開)
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    本館内には研究室、実験室、図書館、80万点の植物標本の収蔵庫が在るが、1939(昭和14)年に完成した建物は雨漏り、外壁損傷が発生し、標本収蔵庫は満杯なうえに保管のための湿度温度調整用機器も老朽化などで早急な対策が必要だが「資金が無い」と園長の北川篤教授は訴えて・・

    丁度、小石川植物園発足150周年でもあり、募金を受け付けるキャンペーンを行っていて、うたい文句は・・「緑の命を、未来につなごう」・・として「Life in Green Project」と銘打っている。

    期間は2023年4月から2024年3月。目標金額3億円。・・ところが・・現在(2023年9月)のところ約1536万円しか集まっていないようだ。

    先日、私がたまたまテレビで観たのですが、”科学博物館1日で1億円集まる”のニュースに関連して、この小石川植物園の窮状も伝えたシーンでは・・同園の一研究員(なんと白い肌の欧米系外国人)が標本収蔵庫の中で”牧野博士が学名を与えたとしてよく知られる「キンモクセイ」の標本を博士自ら作製してサインも記入した現物”を見せてくれながら指さしたのはキンモクセイの葉の先端付近が”虫に喰われたか乾燥しすぎてパリパリになって折れたか?”で欠損している状態であり、こう言った「このように標本管理がうまく行っていないので困っています!」。

    ↓キンモクセイ:博士が命名した学名は・・Osmanthus fragrans Lour. Var. aurantiacus Makino
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    ここで、科学博物館と小石川植物園の両者はインターネットも使って募金しているのに結果の差は何が原因かを考えると・・両者とも募金に至った詳細説明では運営資金不足を訴えているものの、各々のキャッチフレーズの方向が異なり、前者は「国立科学博物館500万点のコレクションを次世代へ」とやや具体的な内容で語り、後者は「緑の命を、未来につなごう」、「Life in Green Project」という抽象的な表現.。

    もう一つ影響しているのが・・前者は今流に「クラウドファンディング(CF)」という言葉を使っているのに対し、後者は「寄付」という言葉を使っていること。

    後者は前述の”牧野博士作製の標本がダメージを受けた現物”を見せて窮状を訴え、「クラウドファンディング(CF)」という言葉を使ったほうが良いのではないだろうか!

    ◎大賀ハス存続の危機にもクラウドファンディング !
    3000年も地中で眠っていたという貴重な大賀ハスなのですが、どうやらその存在が危うくなっているようで、千葉市役所前に在った大賀ハスも消滅し、安藤忠雄氏設計の本福寺・水御堂(みずみどう:兵庫県淡路島)の大賀ハスも非常に少なくなっている様子。

    大賀ハスと大賀一郎博士
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    安藤忠雄設計の本福寺・水御堂の屋根の池の大賀ハスが衰退・・
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    また”大賀ハスと外国ハスの交配種”が千葉市の「みなと公園」の池に2種類植わっているのですが、これも消滅が近い様相を呈していて、一つは「中日友誼蓮(ちゅうにちゆうぎれん)」で、このハスは大賀博士と坂本祐二(和歌山県御坊市在住のハス研究家。ハスに関する著書もある)氏が大賀ハスの種を二人それぞれ50粒ずつ計100粒を、日本と中国の友好と平和の象徴として中国に寄贈したところ、中国武漢植物園にてその大賀ハスの種と中国古代ハスを交配した種が作られ、これが日本に贈られたもの。

    ↓「みなと公園」(千葉市)の池に建つ「中日友誼蓮」と「舞妃蓮」の説明看板
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    もう一つは「舞妃蓮(まいひれん)」で、これは1966(昭和41)年に坂本祐二氏が大賀ハスと王子蓮(アメリカ黄蓮)を交配して作ったもので、花弁が舞うように閉じるさまが優雅な花。これを1968(昭和43)年に当時の皇太子殿下(現、上皇)ご夫妻がご覧になられたのを機に、美智子妃の美しさになぞらえて命名されたもの。

    この2種のハスは私が10数年前に観た際には池全体にわたって大量に生えていた(残念ながら花は観ていない)のですが今年(2023年)7月に観たら、「中日友誼蓮」は姿が無く、説明看板によると、一旦別の場所に移して元気回復させてから再びこの池に戻す予定とのこと。一方の「舞妃蓮」は極端に少なくなっていてかろうじて存在しているような状態です。

    ここの池ではハスの代わりにスイレン(睡蓮)がはびこっていて、この状況は安藤忠雄氏設計の水御堂の池も同じように見えますから、”スイレンは強し!”と感じます。

    「舞妃蓮」はスイレンに囲まれてわずかに存在。(2023年7月下旬/千葉市・みなと公園)
    大きく丸い葉がハス、小さく「パックマン」のような葉がスイレン
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    ハスの毎年開花にはボランティアとクラウドファンディング必要
    大賀ハスに限らずハスの花を継続的に毎年咲かせるために理想的には、3年に一度は土を入れ替え、土中で増えすぎて密集している蓮根を間引いて整理するなどの手入れの必要があるそうで、これをしないと花咲かずに葉ばかり出るようになり、やがては衰退するそうで、前述のような”各地のハスの衰退状況”はこの手入れが行き届いていない結果だろう。

    千葉市に在る「ハス品種見本園」は東京大学の旧、緑地植物実験所に在ったハスの管理を受け継いだもので、大賀ハスをはじめ世界各地のハス約120種をそれぞれの種類ごとに”一辺280センチの正方形で深さ60センチのコンクリート製の枡(ます)”などで栽培維持していますが、前述のように土(”田土”が最適)の入れ替え、蓮根の整理、肥料やりなどの作業を「大賀ハスのふるさとの会」のボランティアの人たちが行っている。

    枡で育成中の大賀ハスを見学する中国の「大連市普蘭店区古蓮研究所」の視察団:2016年10月 
    (大連市普蘭店の地はかつて大賀博士が中国古代ハスを発見した所)    
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    毎年持続してハスの花が咲くためのこのような作業には人の労力の必要のみならず、土や肥料代など経費が発生して、この「ハス品種見本園」では1枡当たり年間3万円かかるそうで、毎年開催の「ハス祭り」や「観蓮会」で”花托(かたく)※”や”ハスの絵葉書”などのハス関連グッズを販売したりして資金捻出していたが、コロナ禍の影響で収入激減してしまったので・・

    「ハス品種見本園」の維持管理継続のためのクラウドファンディングをすることになり、目標額:35万円として、2021年3月から約一か月かけて72人から46万8千円が集まって、その後の運営が継続されているとのこと。

    「花托」とは、ハスの場合は花の中央の黄色い円形部分で表面に10数個~30数個の小さな穴があるもので、花びらが散った後はその直径が大きくなり緑色に変化し穴も少し大きくなり、最終的には直径10センチぐらいなどになり茶色になる。穴が大きくなった花托は蜂の巣のような印象となり、それぞれの穴には種(実)が入っている状態になる。
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    (↑真ん中の写真は「舞坂の自然を守る会・ちゅうなあ通信」より引用)  
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    秘話:現在日本では大賀ハスの他にも古代ハスが発見されていて、一つは埼玉県行田市の「行田ハス」で、推定1400~3000年前のものと言われているが、その発見の契機がおもしろく、1971年にある公共施設の工事現場で開花したもので、ハスの種というものは堅い殻に包まれていてしかもその表面は撥水性があるため水を吸わない状態で何千年も休眠できるようだが、工事用の重機によって殻の一部が破れてそこから水が入ったために眠りを覚まされて発芽したと考えられている。
    (現在、園芸用にハスを種から育てる場合には必ず種の尻部を切り欠いてから水に漬ける手順がとられる。)
    もう一つは、群馬県館林の城沼のハスで、これも前述の行田ハスと同様、推定1400~3000年前のものと分析されているが、ここのハスは太古の昔から絶えることなくこの沼で生き続けていると考えられている。
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    飛話:近年は非正規就労者や介護職などの給与水準の低さが指摘されていますが、最近は学芸員(博物館や美術館で働く専門職)についても同様の指摘がでてきました。

    そこで思い出すのは・・私が小学校高学年時に上野の科学博物館に(父親に付き添われて)行き、アンモナイトの化石とデスモスチルス
    (日本やサハリンあたりに生息して1300万年前くらいに絶滅したとされる海獣)の骨の一部の化石(と思われるモノ)を、同館の地下に在った地学課で鑑定をしてもらって、前者は約2億年前のセラチテスという部類。後者はデスモスチルスではない他のもっと新しい時代のモノであるが種類は判定不能という結果でしたが・・

    鑑定して下さった地学課長の尾崎博さんは当時のテレビにもコメンテーターとして出演するほどの方だったのですが、私がお礼を言っての帰り際に尾崎課長から「君、地学で将来食っていくのは難しいよ」というショッキングな言葉を投げかけられたのでした!・・

    それは、今から70年ほど前の昔も博物館の学芸員は薄給だったという背景があったからでしょうが、最近の各所で行われているクラウドファンディングの結果で学芸員給与アップに反映されれば良いのですが・・。
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    ◎「大賀ハス」の種は千葉県で2千年以上眠っていたとされるが!?
    1951(昭和26)年に植物学者の大賀一郎(1883=明治16年~1965=昭和40年)博士が千葉県に在った「東京大学検見川厚生農場(現、東京大学検見川総合運動場)」の地にあった「落合遺跡」の発掘調査をした際に地下の草炭(樹木ではなくアシやヨシなどが水中堆積して炭化したもの)層の下の青土層の中(地表から約5.5m)から3粒のハスの種(ハスの場合は”実”とも言う)が発見された。

    ↓大賀一郎博士
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    博士はこの種は約2千年前のものと判断したが、これを現代に蘇らせて発芽育成をすべく自宅で試みたところ、種3粒の内の1粒だけが蓮根を形成しだしたので、それを根分けして三カ所(伊原茂氏宅、千葉公園、千葉農業試験場)にさらなる育成を1952(昭和27)年4月に委託したところ、3か月後の7月に伊原氏宅のハスが見事に開花した。 

    ↓大賀ハス
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    この太古のハス開花のニュースは日本のみならず世界中に伝わり、米国のTIME誌にも「世界最古の花、生命の復活」としてカラー写真とともに紹介された。こうして有名になった古代ハスはその後「大賀ハス」と称されるようになった。

    ◎大賀ハス 本当は3千年前かも?!
    実は、この古代ハスの種が在った層のすぐ上の草炭層から丸木舟も出土していたので、その小片を放射性炭素年代測定してもらうべく (この測定法を世界最初に開発した)米国のシカゴ大学へ送った結果、この丸木舟の素材は3075年(プラスマイナス180年)前のものと判明。

    ↓発掘時の土層図(大賀博士のメモを基にしたもの)
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    (深さ数値は博士のメモでは尺・寸記入だったものをメートル法に変換したもの)

    放射性炭素年代測定用のサンプル木片がこの丸木舟の舟体の厚みの内側のものか外側のものかによって年数値に差が出るが、杉材で厚みが5センチと仮定すれば、内側と外側で約30年の差がでるが当時どちら側の木片を使ったかわかりませんが・・

    ではこの丸木舟が埋まっていた層は”少なくとも(つまり新しくとも)いつごろから形成されたかを考えてみると・・年代測定値の誤差のマイナス値のほうを採用した上で、この舟に使われた木材は伐採直後のものであるだろうことを前提として、測定値が丸木舟の内側の木片測った結果(つまり古い方)だったとして、これを新しい方に振り、またこの舟が20年使われた後に廃棄されたか沈没したとして、その後”草土”となる植物の沈殿物に埋もれだしたとすると・・

    3075-180-30-20=2845(年)・・となって、この丸木舟は新しくとも約2850年前にこの地に在ったということになり・・年代測定誤差を反対にとれば(=古くは)・・3255(年前)となります。

    後に大賀ハスと呼ばれるようになったハスの種は丸木舟が存在した層よりさらに下の層に在ったので、丸木舟より古いとは思われるものの、例えば丸木舟と同じ時代に落ちていた種を当時の人が踏んで、より深い下の土の層まで押し込んだものかも知れず、年代は特定できませんが・・

    現在でも大賀ハスの説明文には「2千年以上前の古代ハスで弥生時代以前のもの」とされることが多いのですが、”弥生時代は約2300年前~約1900年前”とされるので「大賀ハスは約3千年前の縄文時代後期のもの」とするほうが妥当のような気がします。

    ◎博士は大賀ハス発見より以前に中国で古いハスを発見していた!
    大賀博士がまだ若い頃、中国・大連に在った南満州鉄道中央研究所(通称:満鉄調査部)の植物班主任として勤務時代の1927(昭和2)年に、大連郊外の「普蘭店」という地の泥炭層の中から、約300年前のものと推定されるハスの実を採取して発芽させることに成功。これをもとにした論文により東京帝国大学の博士号を取得している。この経験があったればこそ千葉県の東大関連敷地内の泥炭に似た地層でのハスの種の存在の可能性にかけて発掘作業に(68才にはなっていたが)意欲を燃やしたのでしょう。

    ◎大賀ハスは日本各地、世界各地へ。あの水御堂にも !
    大賀ハスは千葉県で発見されたこともあって、現在では千葉県内の多くの公園の池で観られ、千葉市は「市の花」に指定。「検見川大賀蓮」が千葉県指定天然記念物になり、千葉公園では毎年6月に「大賀ハスまつり」が開催されるほど。しかし今や日本全国各地でも観られ、なんと前回のブログでもふれました安藤忠雄氏設計の「本福寺・水御堂」の池にも大賀ハスが植えられています。

    屋根がハス池になっている本福寺・水御堂
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    そして今や大賀ハスは世界150ヵ所に根分けされて花を咲かせているそうです。

    ◎実は大賀ハスの種を最初に発見したのは女子中学生!
    大賀博士が千葉市の地で発掘作業をした際にボランティアとして小学生や中学生も参加していた中で、市立花園中学校の生徒・西野真理子さんが(後に大賀ハスと呼ばれる)ハスの種を一粒見つけたのが最初で、その後に周囲から二粒が追加して見つかり計3粒になった。大賀博士が残しているメモにも”第一発見者として西野さんの個人名”を明記している。

    大賀博士の発掘を手伝う小学生?
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    一本の大賀ハスの開花は4日間。見頃は千葉県では6月中旬~下旬。しかもハス全体の性格として午前中にしか開花は観られない・・というわけで千葉県に住む私なのに、残念ながらこの花をまだ観たことがありません。
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    ハス(蓮)の花、その開花時期は地域や種類によってズレがあり、6月下旬から8月中旬頃までとされます。今回はハスの季節にちなんで・・
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    (写真は教育出版社「植物図鑑」web版より)

    ◎安藤忠雄氏の設計「本福寺・水御堂(みずみどう)」のハス

    元ボクサーにして独学で建築家となって有名な安藤忠雄氏。
    「安藤忠雄展」パンフより(この展覧会は熱烈な安藤ファンの友人に誘われて私も観ました)
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    氏の作品は国内外で人気あり、国内では「水の教会」、「風の教会」、「光の教会」(以上=教会3部作)、「表参道ヒルズ」、米国の「フォートワース美術館」、最近では「こども本の森・中之島」、などが紹介されることが多いのですが・・

    建築関係者以外にはあまり知られていない?と思われる「本福寺・水御堂」は、兵庫県の淡路島の北端近く(淡路市浦1310)で大阪湾を見下ろす小高い丘の上に建つ鉄筋コンクリートのちょっと変わったお堂。

    平安時代後期に創建された本福寺(真言宗御室派別格本山)に新しくお堂を建てる計画が1980年代末に生まれ、設計依頼された安藤氏は、「従来の寺院建築の大屋根は権威主義の表れであるから、これを排するかわりに”ハスで満たされた水盤のような池”を屋根に見立てて、その下に御堂を置くデザインとした。これにはかつてインドで見たハス池の光景を頭に浮かべながら、お釈迦様の象徴と言われるハスに満たされた“大屋根がわりの池”を頂く御堂のほうがよほど仏教精神にかなっているのではないかと考えた」と述べている。

    こうして1991年に完成したのが・・「本福寺・水御堂(みずみどう)」
    ↓俯瞰写真(楕円形のハス池は長径40m X 短径30m。真ん中の階段を下りて地下のお堂に向かう)(写真はタウン誌「神戸っ子」web版より)
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    ↓ハス(写真中央奥)とスイレンが浮かぶ池の中央の階段を下りる人
    (写真はタウン誌「神戸っ子」web版より)
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    ↓ハス池の中央の階段)
    (写真は「花みどりフェア公式サイト」より)
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    ↓水御堂に向かうための最初の入り口を有する横に長い壁は俗界との境を表す(上の俯瞰写真で右上の直線状部分)
    (写真は「花みどりフェア公式サイト」より)
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    ↓赤色を基調としたお堂内部。本尊の薬師如来の背後から光が差し込んで光背のようになる
    (写真はタウン誌「神戸っ子」web版より)
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    ↓この格子を通した光が本尊の光背がわりとなる
    (写真はタウン誌「神戸っ子」web版より)
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    ↓安藤氏による水御堂設計前のイメージスケッチ
    (タウン誌「神戸っ子」web版より)
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    ◎「バスクリン」ならぬ「ハス・クリン」はいかが?!
    ・・・水御堂を盛り上げるために私が出した案・・・

    水御堂を建てた本福寺。実はこのお寺では、私が勤務していた会社の物故社員の慰霊法要が毎年行われていたのです。

    そこで会社も、水御堂完成にあわせて、話題作りをして盛り上げてさしあげようということになって、私の所属する部署にその方策を考えるよう上層部から指示があったので数人からなるチームが取り組んでいました。

    そこで先ず出たのは、「水御堂」という呼び名は印象力が弱いので、「蓮御堂」のほうが良いと思われるが今さら呼称変更はできないので「水御堂(蓮御堂)」という表現を推すことにしたそうで、その上で色々な案が出ていたようですが、途中で”チームメンバーではない私”へも「何か案はないか」という問いがあったので、私が提案したのは・・

    「ハスの葉からの聖なる水『ハス・クリン』」

    私が子供の頃には「朝露を集めて墨をすり、それで七夕の短冊に願い事を書くと成就する」という”言い伝え”がまだしっかり残っていた。(同時に「字も上達する」という教えもある)

    ただし(地方によってか?)”露を集める方法が二種類”あって、一つは”里芋の葉にのっている露を集める”、もう一つは”ハスの葉にのっている露を集める”。

    どちらの葉も大きく、その表面の撥水性(ロータス効果)によって露がコロコロと玉のようになり葉の中心のくぼんでいる部分に集まる
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    (↑写真は「国立研究開発法人 物質・材料研究機構」のメールマガジンvol-104より引用)

    ・・という特徴が同じゆえにどちらでも良いのでしょうが、土の畑に在る里芋の葉からの露のほうが相対的には得やすく、池や沼に生えているハスの葉から露を採るのは苦労と危険を伴う。

    そして、”極楽浄土はハスの花が咲き満ちている”、”お釈迦様は誕生してすぐに7歩あるかれ、しかもその足跡にはハスの花が咲いた”という”教え”があることや”仏様はハスの花をあらわす「蓮華」の上ににおわす姿の像や絵画が多い”ことなどから・・

    得難くしかも聖なる”ハスの葉の露“は『ありがたい』ことになり、これを集めてつくられた水(聖水?)に「ハス・クリン」という名を付け、「このありがたい水で墨をすって願い事を書けば成就!」とうたって売り出せば、話題となり参拝者も増え(俗世的ですが)収益にも貢献することが期待できる・・という狙いです。

    さてこの私の提案は、面白いから検討すると言われたものの実現しませんでした。しかも「ハス・クリン」というネーミングは一瞬大受けしたものの有名な入浴剤の「バスクリン」との関係で直ちに却下されました。(私は丁度、本来業務に忙しかったことと、間もなく転勤したので、その後の詳しい経過や結果を把握していませんが、"水御堂のプロモーションビデオ"の製作・提供はしたようです。)

    最近になって知ったことですが、「蓮文化研究会」の会長:南 定雄氏によれば、「蓮は食用としてはレンコンは勿論、蓮の葉茶や実もおいしいが、その他にも”化粧品”や”香水”を化粧品メーカーとともに開発した」・・そうで、「その手があったか!」と思った次第です。
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    ◎欠陥ルールが起こした悲劇
    先日、テニスの4大大会「全仏オープン」の女子ダブルス3回戦で加藤未唯(日本)とアルディラ・スーチャディ(インドネシア)組が失格するという事件があった。 

    ↓加藤未唯 (事件後の混合ダブルスでの優勝時の写真なので笑顔だが・・)
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    原因は、試合中で相棒のスーチャディがリターンミスして転がっている球を加藤が拾って相手コートに向けて返した球がボールキッズ(ガール)の頭部に当たってしまい、ガールは約15分間泣いてしまった。すぐさま加藤は謝ったものの、主審は加藤に”警告”を与えた。

    しかし、これに対して対戦相手のマリエ・ブズコバ(チェコ)とサラ・ソリベストルモ(スペイン)組はこれを不服として執拗に抗議したので、裁定が変更されて失格となり、ランキングポイントと賞金没収に加えて罰金(7500USドル=約100万円)まで科す宣告がなされた。

    この処分に対して加藤組はグランドスラム評議会に対して”動画を見た上での精査”を要請し、プロテニス選手協会(PTPA)も”処分は不当である”という声明を出したりしたが、後日棄却されてしまったものの、世界中からも多くの疑問や批判が発せられた。

    どうもこの事件の原因の一つは大会ルールの曖昧さにあるようで・・
    審判が加藤組に失格を告げた際に加えた言葉は・・「ルールによっての失格であり、ボールを故意に当てたか否かは関係ない」

    さらに試合後5時間経過した頃に、加藤は大会のスーパーバイザーと審判二人にこう言われた・・「もし球が当たったのが男の子だったらきっと失格にはならなかっただろう」

    後日、全仏大会ディレクターのアメリ・モスレモ氏は「失格はルールによっての正しい判断である」と述べ、付け加えるように「ボールガールは泣いていたではないか」と訳の分からぬ発言をした(この一連の発言に対してモスレモ氏への辞任要求が出ている)が、ブズコバとソリベストルモ組もまたこの”泣かせたことも悪い”として審判に再判定するように主張した。(ちなみに球が当たったのはボールガールの頭部だが顔面ではない)

    一方で、ブズコバとソリベストルモ組が、”最初に加藤に向けて審判が下した判定に対して抗議した行為こそ”ルール違反ではないかという指摘も出てきた。

    関連して、ボールキッズ(ボーイ/ガール)不要論も出ている。

    以上のような“ルールの解釈”が出てくるようでは欠陥があると言わざるをえないので、当然のように世界中からは”これを機会にルールの見直しを行うことになるだろう”という声が上がっている。

    ◎批判集中したブズコバとソリベストルモの品性無き行為
    加藤未唯からの球が頭部に当たったボールガールが泣き出したのを見たブズコバとソリベストルモは”加藤への警告”程度では甘いとして審判に抗議した結果、”加藤は失格”との判定が下された瞬間、二人とも笑顔を見せた。そのシーンは一部のテレビでも流されて、私も観ましたが、その”笑い顔”は喜びを表すというよりも”してやったり”あるいは”しめしめ”というそれであった。

    加藤の打球は故意に当てたのではないことは誰の目にも明らかなのに、その二人は執拗に抗議して不戦勝にもちこむ狙い通りになり、前述のような笑い顔を見せたことも相まって、世界中から批判が集中したが、これに対してソリベストルモは「ボールガールに当てた球は(皆さんが)ビデオで見るより(実際は)2倍も強く、彼女は20分間も泣いていた。ルールとして審判が下した判断であり、我々は何も悪いことはしていない」と主張したから余計に”炎上”した。

    かつてのテニスの女王ナブラチロワもSNS上で猛批判して「これはルールの馬鹿げた解釈で、ブズコバとソリベストルモが相手の失格を主張することは恥ずべき行為だ」と述べている。

    このようにブズコバとソリベストルモは、”テニスの技”ではない他の手段を使って何が何でも勝とうとし、それが成功して心情的に”ほくそ笑む”ところをさらに顔に出した笑みで表してしまったものであり、これは品性の無い行為であります。そこで私のアタマに浮かぶのは・・

    ◎試合中に相手へ思いやり返球した清水善造
    『清水善造(1891=明治24年~1977=昭和52年/86才没)(下写真:Wikipediaより)
    shimizu_zenzo

    清水は1920(大正9)年のロンドン・ウインブルドンのセンターコートで開催のテニス試合で世界中の128人が戦う中で決勝に進んだ。

    第1と第2セットは僅差で負けて迎えたが第3セットで相手の選手が足を滑らせて転倒したのを見た清水は”弧を描くようなゆるい球”を返した。

    そこで相手は体勢を立て直して打ち返したところ、清水のラケットはその球を追えなかったが、そこで観客全員からのスタンディングオベーションが起こった。

    その後は接戦でデュースが続いたものの結局、清水は負けたが、彼がコートから引きあげる際には再び盛大なスタンディングオベーションが起こり、それは長~く続いたのだった。

    ※この試合の対戦相手の名はW・チルデンであり当時世界ランク1位。清水は翌年の別の試合でもチルデンとほぼ互角に戦うほどの実力があったのでランキングは4位だった。

    清水のその行為は、”試合と言えども、あくまで対等な状態で戦おうとする所作”としてスポーツマンシップの鑑とされ世界でも賞賛されたが、特に日本国内では1933(昭和8)年には国語の教科書に「スポーツマンの精神」として載り、その後も修身の教科書にも載るなど戦前に計5冊、戦後は1960(昭和35)年まで計4冊が採用した。』 (『』内は「芦屋市役所」のHPより一部引用)

    かくして、この清水の行為と今回のブズコバとソリベストルモの行為はあまりにも品性に差があって対照的なのであります!

    ここでお話ちょっと逸れ・・私は清水のこの行為を扱った教科書には出会わなかったのですが、習った国語の教科書だったかにスポーツ関係の美談として「西田、大江選手の友情のメダル」が載っていた。

    ↓西田修平(左) / 大江季雄(すえお:右)
    nisida-ooe

    教科書によれば「1936(昭和11)年のオリンピック・ベルリン大会の棒高跳競技の決勝で西田修平と大江季雄の日本人同士が同記録で2位となったがルール上、西田が2位、大江が3位となったものの西田が銀メダルを大江に譲り、自分は銅メダルを受け取り、帰国後に”健闘を称え合って”互いのメダルを半分に切ってつなげて、銀と銅が半分ずつのメダルを各々で持つことにしたのだった」・・という内容だった。
    half-half-medal
    しかし、この話には複雑な経緯と誤解があることを後に西田氏が語っているので、興味ある方はこのホームページ参照ください→ https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic_athlete/24.html    

    ◎勝ち負けの無い球技?:蹴鞠、羽根つき
    今回の全仏オープンでの事件とは対照的に”勝ち負けがない球技”があり、その一つは「蹴鞠(けまり)」で、約1450年前に中国から仏教と共に遊びとして伝来したもので、8人または6人が輪を作るように並んで、一つの鞠(鹿革製で中は空洞)を皆で蹴り上げて、鞠が地面に落ちないように長く蹴り続けることを楽しむものであり・・

    ↓蹴鞠の様子 (現代に継承された姿:京都・白峯神社のHPより引用)
    group-kemari
    そのためには自分が蹴った鞠を他の人が受け易く蹴り返し易いような”思いやりのある蹴り”をするもので、これには前述の清水善造のテニス試合における”ゆるい返球”を連想させられます。

    ↓蹴鞠用の装束と鞠(人物は後述の池田氏)
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    蹴鞠は鎌倉時代になると武家のあいだにも流行し、室町時代にも続き、江戸時代には一部庶民にも取り入れられるようになったが、幕末頃に消滅しかかったものの明治天皇が蹴鞠存続奨励のために援助したこともあって、現在では宮中や一部神社などで継承されている。

    その他、京丹波には、蹴鞠を研究し、普及に貢献されている池田游達(ゆうたつ)、蒼圭(そうけい)のご夫婦がおられ、ご主人は蹴鞠経験40年であり、鞠も伝統製法を研究して自作もされている。

    ↓池田夫妻による蹴鞠実演 (写真は「TRiP EDiTOR」より引用)
    ikeda-kemari

    その他、”勝ち負けのない球技?”と言えるのが”羽根つき”であり、日本の正月に行われてきた伝統的な遊びで、ムクロジの種に鳥の羽根をつけたものを羽子板で二人相互に打つことを繰り返して続けるもので、これも蹴鞠の精神と同様に”(ラリーを)続けることを楽しむ”もの。
    hagoita
    羽根つきの打ち合いの途中で羽根を打ち損じた人の顔に墨をチョイと塗る習慣がありますが、その理由は、羽根つきは本来、健康祈願、厄落としの意味があるので、打ち損じた人には”厄がついてしまう”ということで、それを払うためだそうで、私が子供の頃はこの墨塗り行為は”打ち損じたことに対する単なる罰”の意味だと思っていましたが、そうではなかったわけでした。
    hanetuki

    蹴鞠、羽根つきはいずれにしても球技?ではあるものの勝ち負けはないわけです。

    ◎勝ったのに負けたと公言した正田美智子(現 上皇后)さん
    現在の上皇と上皇后がまだ皇太子と正田美智子さんだった1957(昭和32)年8月にお二人は長野県軽井沢の会員制テニスコートで出会い、そこで行われたトーナメント戦で皇太子と早大生男子のペア対美智子さんとカナダ人13才ボビー・ドイルさんペアの試合があり、結果は2対1で美智子さんペアが勝利した。しかし美智子さんは後日、周囲の人やマスコミには、皇太子組が勝ったと伝えていたそうです

    これは”勝ちにこだわることとは反対の事例?”でしょう。

    ↓「テニスコートの恋」を生んだ「軽井沢会テニスコート」
    karuizawa

    ↓出会いの翌1958年のトーナメント会場にて
    (写真は週刊朝日より引用)
    love-in-court

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    今回、テニスの勝敗に関わるテーマを選んだことにチョッと影響したのが、"我が伴侶の過去のテニス熱中時代の姿"が連想されたからで、初めてラケットを握った30才代中頃から10年足らずの期間、コーチの個人指導も受けるなどして、地域や県内の中・小規模の多くのテニス試合にも出場して、主に女子ダブルスで優勝または準優勝して家の中の飾り棚には約30個ほどの小型の優勝カップに数個の盾が溢れていた。(後年、何を思ったか、全て廃棄してしまいましたが)

    実はテニスの腕前は決してウマイとは言えないのに執念で?優勝したりするので、所属のテニスクラブのメンバーからは「勝つためのテニスをする〇〇さん」と呼ばれていました。

    しかしながら、勝つために品性を問われるようなことはしていなかったと言えるのでホッとしています。
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    5月5日は「子供の日」またの名は「端午の節句」・・というわけで、空に泳ぐ鯉のぼりを眺め、しょうぶ湯に浸かり、”柏餅”や”ちまき”などを食べる慣習がありますが・・

    tangonosekku

    ◎「柏餅」の「柏」は本当は「槲」
    いわゆる「柏餅」に使われている「カシワ」は「槲」の文字が正しいのですが「柏」が通用してしまっているもので、「柏」は本来「コノテガシワ」という別種を表す文字。

    一般的な柏餅に使われるカシワの葉↓
    kasiwanoha

    カシワの葉が使われる理由は・・カシワの葉は枯れても次の年に新芽が出揃うまでは落葉しないため、「家系が絶えない」「子孫繁栄」など縁起が良いとされたから。

    しかし”端午の節句に食べる(柏餅に当たる)お菓子”は地方によって、使われる葉や呼び名などが異なる。

    それを知ったきっかけは・・今から半世紀以上前のある年の端午の節句の日、私が柏餅を食べている時に、居合わせていた祖母(母方)が、「私が子供の頃は、端午の節句には『がめの葉』というもので包んだ餅を食べたものよ」と教えてくれたからで、祖母は現在の福岡県宗像市で生まれ育った人だから、私は、九州の福岡県では”ちがう習慣”なのだと理解し、後年調べてみたら・・

    ◎「サルトリイバラ」のことを福岡県北部では「がめ」と言う
    “がめの葉”の”がめ”とは「サルトリイバラ」のことで、別名サンキライ(山帰来)、ガンタチイバラ、カカラなどという、サルトリイバラ科のつる性多年生植物で”つる”にトゲがある 秋に赤く丸い小さな実がなる。分布は日本全国、中国、朝鮮半島。

    ↓サルトリイバラ(葉と茎とトゲ)/右写真は葉の裏  (「庭木図鑑 植木ペディア」より引用)
    sankirai-leaf
    「がめの葉」という所以は、葉の形と葉脈が亀の甲羅に似ているから。

    ↓サルトリイバラの葉でつつんだ(挟んだ)饅頭(写真は中村学園大学 栄養科学部HPより)
    gamenoha-moti

    ◎「サルトリイバラ」の葉使う餅(又は饅頭、団子)は近畿、四国、九州にある
    「サルトリイバラ」は「がめ」の他にも地方によって異称があり、そのためにその葉を使った餅または饅頭、団子の名前もちがっている。

    ・福岡県北部・・異称は「がめ」  →「がめの葉」を使った「がめの葉餅

    ・鹿児島県・・・異称は「かからん」→「かからん葉」を使った「かからん団子」

    ・長崎県・・・・異称は「かから」 →「かからの葉」を使った「かから団子」

    ・三重県・・・・異称は「いばら」 →「いばらの葉」を使った「いばら餅」

    ・徳島県・和歌山県・・異称は「いばら」 →「いばらの葉」を使った「ばら巻き」、「いばら饅頭」

    ・高知県・・異称があるか不明だが→「サルトリイバラの葉」を使った「しば餅」

    ・紀伊/四国/南九州・・「異称各種?のサルトリイバラの葉」を使って「五郎四郎餅」と称する地もある

    ・九州の一部地域・・「サルトリイバラの葉」を「だんごっぱ」と言う


    ↓鹿児島県・屋久島の「かからん団子」(日本テレビ系「遠くへ行きたい」2020年放送より)
    包んでいる「かからん葉」を開いた状態。中身の餅が黒っぽいのは、湯がいたヨモギをミキサーにかけたものに黒糖を加えて上新粉と白玉粉でこねて蒸したものだから。(食すのは端午の節句だけではない)
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    ↓かからん団子を(俳優の松尾諭が)手に持っているところと食べているところ
    kakaran-eating

    ◎なぜ西日本ではサルトリイバラの葉なのか?
    カシワもサルトリイバラも双方とも北海道から九州まで分布していることになっているが、カシワはどちらかと言えば寒冷地を好むため、西日本ではカシワの自生数が少ないことと、もともとサルトリイバラの地下茎は腫物、ニキビなどに効き、葉は風邪の解熱、膀胱炎など効くという効能もあってサルトリイバラの葉が使われるようになった。

    ※実は、このブログにちなんで、千葉県でもサルトリイバラが生えていないものか探し歩いたところ、見つけたので西日本でなくても存在していることが確認できましたが、それでもカシワの葉を使った柏餅しか在りません。

    ↓千葉県で見つけたサルトリイバラ(4mくらいの高さの場所にあるのでズーム写真がボケています)
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    ◎柏餅の関西と関東のちがいは?
    関西・・餅の形が丸く、葉っぱをとれば大福餅のようなカタチ。材料は白玉粉がメイン。
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    (↑「七條甘春堂」のHPより)

    関東・・餅の形はやや平たく、言わばあんこを包んだクレープに近いカタチ。材料は上新粉がメイン。
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    (↑「湘南菓庵 三鈴」のHPより)

    ◎関西の端午の節句は「ちまき」が多い
    今回のブログの冒頭のイラストで皿の上に柏餅と並んだ「ちまき」。端午の節句にちまきを食べるのは関西が多いのですが、東北、北陸、中国地方も食べるそうで、岡山県ではちまきと柏餅の両方が存在しているとのこと。

    「ちまき」は古代中国の楚の詩人・政治家の「屈原」の命日にあたる5月5日に供養のために備えたのが始まりだそうで、それが日本に伝わって平安時代には普及したとされるが、当時の中国文化の受け皿は奈良・京都であったため関西文化として定着したものの、それが関東などへは'(いわゆる)"下(くだ)らなかった"ものであろう。

    ◎鹿児島県の「あくまき」
    端午の節句に特に鹿児島県で食べられる「あくまき」。”あく”は”灰汁”のことであり、文字通り(木材などを焼いて作った)灰を溶かした水に”もち米”を浸した後、孟宗竹の皮に包んで再び灰汁水で煮込んで作る。
    ↓「あくまき」(きな粉をまぶした状態)(画像は農林水産省のHPより)
    akumaki

    アルカリ性である灰汁はもち米を軟らかくする上に殺菌性があり、保存がきくので、元々は昔の戦の際に食べられていたこともあって、端午の節句に関係付けられるようになったとされる。

    「あくまき」は時に「ちまき」とも呼ばれるように、中国伝来のちまきが鹿児島に伝わってきて、この土地ならではのカタチに変化したもの・・という理由は・・なにしろ鹿児島県は竹林面積が日本一で日本の全竹林の1割以上を占めるほど竹豊富。ならば竹の葉よりも”巾が広くて強い竹皮”を使うべし‥と言うことになったのだろう。竹皮も殺菌力があるし!

    「あくまき」の良さが伝わり、宮崎県や熊本県の人吉、球磨地方でも食べられるとのこと。
    ・・・・・・・・・・・・・


    ※前回の”円周率に関するちょっとした間違い情報”に続いて今回はトランジスタテレビに関してです。

    今や、わざわざ「トランジスタを使用したテレビ」なんてメーカーは言いませんが、世の中にテレビが登場してしばらくは、その中身に真空管が使われていたところに、今から60余年前、その真空管に代わってトランジスタというものが使われだしました。その結果、テレビは一気に小型・軽量・省電力で熱もあまり出ないものになりました。

    そのトランジスタ化したテレビの登場にかかわるちょっとした誤報を、ご紹介します。

    ◎某「デザイン評論家」氏の間違い
    氏は30冊以上の著作物がありますが、昭和60年代末頃に出版されたある本の中で、近代デザインの流れを紹介している分部があり、事例の一つとして「最初のトランジスタテレビ」をとりあげて、その写真も添えているのですが、これが間違っているのです!

    何が間違っているのか・・それは掲載写真がソニーの「マイクロテレビTV5-303」型のものだったからで、このテレビはソニーのトランジスタテレビとしては2番目のもので発売は1962(昭和37)年。
    ソニーのトランジスタテレビ第2弾TV5-303
    tv5-303

    最初の機種はそれより2年前の1960(昭和35)年に登場した「TV8-301」だったのです。
    寸法:縦18、巾20、奥行21.5センチ/重量6キログラム   
    ソニー初のトランジスタテレビTV8-301 
    tv8-301
    ・・というわけで、著名な評論家の著作本ゆえに、これを信じた人が多いでしょうが、その後何らかの方法で訂正されたのでしょうか?

    ※↓当時使われていた”ソニーのトランジスタの形状”
    sound-tenji-b (5)
    右から2番目の最小のもので黒い本体部の直径5.5ミリ、高さ8.6ミリ

    さて、ここで初期のトランジスタテレビについては誤解をまねく状況があったので、結果として誤報が生まれたことなどを紹介しましょう。

    ◎世界初のトランジスタテレビは「モトローラ」社が発売
    発売は1958年。「モトローラ」社は米国の電気メーカーで現在はレノボ傘下になってスマホを製造していますが、昔はテレビやトランシーバ、そして世界初の携帯電話を作り出した企業。ついでながら、昨年まで私のパソコンへつないでいたルーターもモトローラ製でした。残念ながらその世界初のトランジスタテレビの姿や詳細が私には見つかりません。

    ◎世界で2番目のトランジスタテレビは「フィルコ」社が発売
    発売は1959年。「フィルコ」社は自動車のFORDの子会社としての電気メーカーだったが、現在は英国のブリタニア社に買収されてスマホなどを生産している。この会社のトランジスタテレビ「H2010」は当時の日本でも注目されて、電気・電子関係の雑誌にはその詳細仕様とともに回路図まで紹介されていた。(回路図に興味ある方は、当編の後部に掲載しましたのでご覧ください)

    画面方式はブラウン管を本体内で縦に配置して、天を向いている2インチ画面をミラー(マジックミラー使用という説明もある)反射させると同時に拡大させて前面から見えるようにしたもの。

    寸法:縦42、巾21、奥行15センチ/重量:7キログラム/全面レザー張り

    ↓ PHILCO H2010 ①左はミラーの様子がわかるもの、②真ん中はレザー張りがわかる、③右は実際の画像が見える状態
    philco-tv
    引用元:①「ラジオ少年の博物館」のブログ、②ヤフオク出品物、③「真空管テレビ工房」のHP)

    ◎「直視型」トランジスタテレビではソニーが世界初
    「直視型」とは、ブラウン管の画面が直接見られる、いわば一般的なものを言い、先述のフィルコ社のトランジスタテレビのようにミラーを使った反射映像を見るタイプに対する形式。

    それゆえに、(ネット上で散見されるような)ソニーのTV8-301型を単に「世界初のトランジスタテレビ」とする言は正確ではないことになる。ソニー自身も「直視型として世界最初」と表現している。

    ◎発売時に世界最小・最軽量だったソニーTV5-303型
    ソニーのTV5-303型の寸法は、縦11、巾19.4、奥行き18.6センチ/重量3.7キログラム。
    発売の1962年時点では世界最小・最軽量を誇った。

    ひょっとすると前出の評論家氏は”「世界最小」を「せかいさいしょ」と聞き間違えていた”のかもしれません。

    ◎初期のトランジスタテレビは真空管も使われていた
    「トランジスタテレビ」と称していたが、初期には日米のメーカーは例外なく真空管も混ぜて使っていて、今風に言えば「ハイブリッド」だった。ブラウン管も真空管の一種であるがこれは別として、当時はテレビ内部の”高圧電流の整流”用には2本または3本の真空管を使わざるをえなかった。(この稿の最後部に掲載の回路図参照ください) 後年、大電力用半導体の開発や回路設計の改良などで真空管は使われなくなりました。

    ・・というわけで、「オールトランジスタテレビ」という表現も昔はあったが、今なら誇大広告とされかねないので使われないでしょう。

    SONY CORPORATION OF AMERICAも、広告文の中で「ALL-TRANSISTORIZED」(全てトランジスタ化した)と表現してしまっていた。(下図の左側英文)
    sony-usa-cm
    (図は「廣田恵介」氏のツイッターより引用)


    余禄(1)「石」の呼称は「トランジスタ」か「トランジスター」か?
    トランジスタは日本では「石(いし/せき)」とも呼ばれ、例えばトランジスタを6個使ったラジオは「6石(せき)トランジスタラジオ」と称した。ソニーのTV5-303型テレビは25石を使っていた。

    トランジスタは日本に登場した当初からは「トランジスター」と語尾を延ばした表記がされていたが、その後(私は時期を把握できていないが)、「外来語をカタカナにした場合に3音以上になり、しかも語尾が延びる単語は、語尾の長音符号は省略する」という決まりができて、1960年台前半頃まではまだ「トランジスタ」と「トランジスター」の表記が併存していたものの、さらにその後は「トランジスタ」呼称のみとなった。
    しかし、2008年にJISの改定によって長音符合を付けた表記も認められたそうです。

    余禄(2)フィルコ社のユニークな真空管式テレビ
    フィルコ社はブラウン管部を独立させたユニークなデザインの機種をいくつか発売し、下の写真の他に四本脚を備えたものもあった。これらのテレビは当時の日本でも盛んに紹介されていた。
    PHILCOのユニークテレビ(「究極映像研究所」のブログより引用)
    philco-tube-tv

    余禄(3)ソニーTV5-303発売直後の電気雑誌グラビア記事
    (雑誌「電波技術」1962年6月号)
    sound-tenji-b (2)

    よく見るとテレビ画面のはめ込み合成と思われる写真には”プロ野球のジャイアンツの大スター背番号3の長嶋茂雄”選手の姿。(顔を見なくても私の年代ならこの姿だけで判断できる) 発売当時イコール長嶋選手活躍時代だったことがわかる。
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    そして下部の帯状広告には”テレビキット”の広告があり、これも当時はまだ”テレビはメーカー製品を買うよりも自分で製作する方が安い”時代だったこともわかる。
    tv-kit

    余禄(4)Appleのスマホは160億石?
    現在のアップルのスマホ「iPhone14Pro」にはトランジスタが約160億個使われているそうで、かつてのソニーのテレビ5-303は25個だったから、実に6億4千万倍にもなる!

    ・・・・・・・・・・・・
    以下は各社の初期のトランジスタテレビの回路図の紹介なので、ご興味無い方はスルーして下さい

    余禄(5)各社初期のトランジスタテレビ回路図
    昔はテレビ、ラジオ、アンプなどのメーカーは自社製品の回路図を公開していたので、電気関係雑誌社は出版月刊誌の中で回路図をよく掲載していたし、「○○回路集」の本も出版していた。

    《フィルコ「H2010」回路図》(クリックで拡大)
    回路図の中で”右下で縦に二つ並んでいる丸型の記号”が真空管。(つまり真空管は2本)
    (「ラジオ少年の博物館」のブログより引用)
    philco-circuit

    (以下、3件とも「実用トランジスター回路集」(誠分堂新光社「無線と実験」昭和38年6月号臨時増刊より)

    《ソニー「TV5-303」回路図》 (クリックで拡大)
    5-303
    上図右下部拡大図:真空管3本の記号(左の丸中に矢印あるのがトランジスタ)
    5-303tube3

    《ナショナル「T9-21R」回路図》(クリックで拡大)(真空管は3本)
    national

    《サンヨー「8-P3」回路図》(クリックで拡大)(真空管は2本)
    sanyo

    ・・・・・・・・・・・・・

    今や「東京タワー」は「東京スカイツリー」の登場後、やや影が薄い感がありますが、私は丁度その東京タワーの建設途中から完成までの姿を遠くからですが眺めていた経験があり、また後年には建設に従事した職人たちが超高所で命綱もつけずに作業して、特に鉄骨のリベット打ちに特殊な技が使われたことなどを知ったこともあって愛着があります。
    tokyo-tower

    TOKYO TOWERのHPより

    ◎昔は9キロ離れても日増しに背が伸びる東京タワーが見られた
    東京タワーは1957(昭和32)年6月29日に着工して、1958(昭和33)年12月23日に完成。その時点でパリのエッフェル塔の高さ321(現在は330)メートルを抜いて、333メートルの”塔としては世界一”の建造物が約1年半で出来上がったことになります。

    この時期は私が小学6年生から中学1年生だった。通った東京都豊島区立椎名町小学校(現存)と同豊島区立長崎中学校(現在、廃校で解体消滅)はともに東京タワーの建設地からは直線距離にして9キロ強の地に在ったが、たまたまその間に高いビルなどの視界をさえぎるものが無かったという(今では考えられない※)状況だったために、この小学校の教室の窓から(推定ですが)地上100メートルくらいまでに伸びた骨組みが見えることに気が付いてからは徐々に上に伸びていく姿を見るのが楽しみでした。

    しかし、その途中で卒業して中学校入学となって、「もう見られない」と思っていたら、中学校の教室からも見えることがわかって心中密かに喜んだもので、結果、見事東京タワー完成を見届けたのでした。

    ※東京タワーを足元で見上げる以外に、やや離れた地点からでもそのほぼ全体の姿がすっきり見える場所は現在の東京都内でも在ります。私が知っている例は六本木交差点(有名な「アマンド」という洋菓子と喫茶の店がある)から東麻布方面(旧、飯倉地区)に向けて東南東に伸びる道路が向かう正面に1.3キロ先の東京タワーがほぼすっきり見えるケースです。

    六本木交差点から望む東京タワーは”額縁効果”(←小津安二郎監督が多用した)に近い見え方
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    ↑写真は「townphoto.net」より引用

    ◎リベット16万8千個で結合した鉄骨で東京タワーが建った!
    使われた鉄骨は塔本体に3600トン、電波送受信部に80トン、計3680トン。それを組み立てるために16万8千個のリベットが使われた。(ボルトとナットも多数使われてはいる)

    建造中に高所で鉄骨どうしを接合する際には(さすがに、タイタニック号建造時に部分的に使われた”手持ちのハンマーによるリベットの打ち込み(かしめ)という方法”はとられなかったが)職人の使う自動ハンマー工具でリベットを一本一本打ち込まなければならなかった。

    ◎800度Cのリベットを投げる人と受ける人のスゴ技
    建設現場で800度に加熱されて赤熱したリベットを、一人の職人が”柄の長いヤットコ”のようなものでつまむと同時に10~20メートル上方に居るもう一人の職人が持つ” メガホンのような形をしたリベット受け”にめがけて正確に投げるという至難の業が使われた。それはあたかも野球の投手が捕手のミットにストライクの球を投げるようなものだが、野球のスピードあるボールと違って、投げ上げられたリベットが放物線を描いてその頂点での静止に近い状態で受け手に届くようにするという技だった。しかも、投げる方も受ける方も高所の足場が悪い中で、赤熱のリベットを取りこぼせば大やけどどころか死をまねく恐れがあるという危険をともなう作業だった。

    ↓建設中の鉄骨に多数のリベットが見られる
    tokyo-tower (2)

    ↓炉から摘まみ出された800度のリベット
    (以下5枚の写真はNHKテレビ番組「探検バクモン」から引用)
    red-rivet


    ↓受け手に向けて投げられたリベット
    throwed-rivet

    ↓この取っ手の付いた受け器でキャッチ
    rivet-catcher

    ↓飛んできたリベットをキャッチしようと身構える職人
    rivet-catching

    ↓まだ赤熱のリベットがかしめられる様子
    rivet-kasime

    ◎鉄骨素材:東京タワーは軟鉄と鋼鉄、エッフェル塔は錬鉄
    東京タワーの主体を成す鉄骨は中間の大展望台(メインデッキ)までは軟鉄材、それより上層は鋼鉄材が使われた。鋼鉄材にはアメリカ軍から払い下げられたM4やM47戦車の鋼材を溶かしたものが使われた。

    一方、1889年に完成したエッフェル塔の鉄骨は錬鉄(れんてつ)材が使われた。この錬鉄という素材はあのタイタニック号の船体一部のリベットにも使われ、炭素含有量が少ないために、鉄材の中では軟らかいものだった。それゆえに塔全体の強度を確保するためには、軟鉄や鋼鉄を使った東京タワーより多くの鉄骨が構造的に必要だった。

    その結果は、東京タワーの使用鉄骨3680トンに対して、エッフェル塔は7300トンと約2倍となっている。しかしそのためエッフェル塔の方が重厚で力強く見える。ちなみに使用リベット数も前者16万8千に対して後者250万。

    ◎東京タワー誕生理由
    それまではNHKテレビ、日本テレビ、TBSテレビは各局独自のテレビ電波送信アンテナをそれぞれ東京都内の異なった場所に立てていたが、そうすると家庭などでの受信アンテナをチャンネルを変える度にそれぞれの局方向に向けなければならないことになり、それを一本のアンテナで対応するのは無理というケースも多く発生していた。しかも各社の送信アンテナの高さは153~177メートルであり、広い関東平野に電波を届けるには低かった。

    そこで各社の送信アンテナを文字通り一本化して同時に高さのある塔が必要という声が民間から、そして電波や放送を管轄する郵政省からも出ていた。そこに目を付けたのが、なんと”大阪の新聞王”と言われた前田久吉氏。日本工業新聞社、後の産業経済新聞社や大阪放送(ラジオ大阪)、 関西テレビ放送などを経営していたので、”東京に新テレビ塔を立てる”という事業は参入しやすかった。

    ちなみに関西のテレビ放送各社は、大阪府と奈良県の県境に位置する生駒山の山頂に送信アンテナを立てているので電波は楽に関西一円に届いている。アンテナ自身は低いが、なにしろ生駒山の山頂は海抜642メートルだから、アンテナの足元の高さだけで、海抜0かそれに近い土地に立つ東京スカイツリーの634メートルを超えているという好立地を活かしている。(生駒山は大阪市の最西部からでも15キロくらいしか離れていない) このような関西から見れば関東のテレビ電波送信アンテナは”低すぎる!”と前田氏が考えたのは自然でしょう。

    かくて、前田氏は「日本電波塔株式会社」を作り、多方面から資金を集めて総工費30億円(当時)で東京タワーを完成させた。それとほぼ同時に産業経済新聞社を手放した。

    ◎「マザー牧場」もつくった前田氏
    前田氏にはもう一つ夢があった。それは大阪の貧しい農家に生まれた氏が子供の頃、夜中にふと目を覚ますと母親が小さな灯りのもとで針仕事をしていた。その母親は日頃「ウチに牛の一頭でもいたら楽になるんやけどな~」と言っていたこともあり、牧場をつくってみようとした。そこで目を付けたのが”日本の畜産業の発祥地である(・・と氏が知っていたか否かはわかりませんが)千葉県”。こうして千葉県富津市の鹿野山に広さ250ヘクタールの土地を入手して、かつての母親の願いにちなんで「マザー牧場」と名付けて1962(唱和37)年に始業。以後、牛、羊、その他の動物も増やし広大な花畑もつくり、観光地化して現在に至っている。

    ↓マザー牧場のイベントの一つ
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    というわけで、東京タワーもマザー牧場も日本電波塔株式会社が経営し、創業から現在まで経営は前田一族が行っている。(現在は創業者の息子さんが社長) ただし同社は2019年に社名変更して「株式会社TOKYO TOWER」となっている。

    ◎美空ひばり?「東京タワー」エトセトラ
    ◎東京タワーの出現によって、新たな東京のシンボル(ランドマーク、アイコン)ができ、新しい風景が生まれて、多くの人が様々な思いを抱いた結果、「東京タワー」という言葉の入った曲名あるいは歌詞が入った歌が数えきれないほど多く作られた。

    私の中では、ある
    うろ覚えの歌謡曲の歌詞「~東京タワーの見える街~」が気になっていて、それが誰の何という曲なのかを覚えていないので、これを機会に調べても依然不明状態。かわりに、あの美空ひばりの「東京タワー」という曲があったことがわかった。(1959年、作詞:野村俊夫/作曲:船村徹)

    ◎冒頭で”影が薄い”東京タワーと言ってしまいましたが、一部のFM放送電波発信に利用され、また東京スカイツリーが何らかの事情で機能不全に陥った際には、東京タワーが代わって電波を発信できる体制になっており、まだまだ存在価値はあります。

    ◎2011年3月の東日本大震災では震源地から遠く離れた地に在る東京タワーでもその先端のアンテナ部分が曲がってしまったという情報を私も耳にしていたのですが、地震の2週間後くらいにたまたま六本木のスウェーデン大使館の建物越しに、先端がやや右(西側)に曲がっている姿が見えたので、持っていたガラケーのカメラで撮ったのですが、その映像を他の媒体に移さないままそのガラケーを処分してしまったのでここに載せられないのが残念です。(ちがう方向から見ればもっと曲がっていたかもしれません)

    ◎東京タワーにまたがれている恰好の地上ビル(地上16階地下2階)の中には昔、日本の大手電機、家電メーカー各社のショールームが存在していたので、私は時々覗きに行きましたが、その際にタワーに上ることはありませんでした。

    ◎東京タワーが完成した10年後の1968(昭和43)年に、当時の日本テレビ会長の正力(しょうりき)松太郎氏※が「高さ550メートルのテレビ電波送信塔建造の構想」を発表した。これを世間では「正力タワー」と称して一時期は騒がれたものの、様々な理由で結局頓挫したのですが、これについて語るとまた長くなるので割愛します。

    正力松太郎=創立させた「日本テレビ」は日本初の民放テレビ局。また「読売新聞」を発行部数世界最大にした。そして野球の「読売巨人軍」を創設した。

    P.S.・・ちなみに現在世界最高建築のブルジュ・ハリファ(828m) のいくつかある展望台の内、中間は555mにあり、幻の正力タワーとほぼ同じ高さだが、最高位置の展望フロアは585mにある。

    ・・・・・・・・・・・・

    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを大学生仲間4人グループがクルマ旅。前回は札幌を出発したところまでのお話。今回はそれより少し西を回ってから帰路につきます。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)
    hkd-map

    ◎余市のニッカウイスキー工場
    札幌から西の小樽を(なぜか)素通りして、積丹(しゃこたん)半島の北側の付け根に当たる余市町(よいちちょう)に至り、ニッカウイスキーの工場(正式名:余市蒸留所)入り口まで来たが中には入らなかった。それには、奇跡的?にも我ら全員が”酒好きではなかった”ということも影響しています。しかし、門の外からでも見えた工場建物独特の”とんがり帽子”の姿は印象に残りました。

    ↓ニッカウイスキー余市蒸留所の正門前からの撮影だけ行った
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    今、調べてみると、ニッカウイスキー(株)※の創業者:竹鶴政孝(1894=明治27年生まれ)氏※はウイスキー作りを学んで英国からリタ夫人を伴っての帰国直後はこの余市工場内敷地に建てた住宅に住み、後に工場外に居をかまえたが、亡くなる1979(昭和54)年まで一貫して余市町内に住んだそうなので、我らが1968年にここを訪れた際にはまだお元気でこの工場内に居られたかも知れない。ただし、奥様のリタさんは1961(昭和36)年に他界されていた。

    ※ニッカウイスキー(株)は2001年にアサヒビール(株)(現、アサヒグループホールディングス)の完全子会社となった。
    ※竹鶴政孝をモデルにしたNHKの朝ドラ「マッサン」が2014年に放送された。

    ◎「ローソク岩」は何か感じる?
    余市町の中心から10キロほど西に(同じ余市町だが奇妙な町名の)「余市町豊浜町(よいちちょうとよはまちょう)」という所があり、そこの沖合約500mの海面からニョキっと垂直に立って高さ約45mになる細長い岩が「ローソク岩」。その姿だけでもその名に値するが、朝日が丁度その岩の先っぽに重なって、ローソクが灯ったように見えると、ピッタリの名となる・・とのことですが・・これが見られるのは夏至を挟んで前後各2回のある限られた時期のみだそうで・・
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    ↑画像は余市町のHPより

    我らがここを訪れたのは、時期、時刻とも完全にずれていて”火が灯っていないローソク”を見たのですが・・この岩の根元に在る岩の形と相まって、全体が”あるシンボル”のようにも見えます。

    後述しますが、現在のローソク岩が過去にはもっと大きく太い形であった時代にアイヌの人たちはこの岩のことを「カムイ・イカシ」(男神)と称していたとのことで”さもありなん”です。

    ↓我ら二人の視線の先に在るのは”ローソク”か、それとも・・
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    この岩の組成は溶岩が水中で冷え固まったもので脆いのだそうで、太古にはそうとう大きかったものが時代とともに崩壊が進み、ついに1940(昭和15)年の積丹半島沖地震の津波によって半分に割れてほぼ今の形になったそうですが、その後も小さな崩壊・崩落があり、2016(平成28)年にも先端が欠けたそうなので、我らが半世紀前に撮った写真と現在のものを比べてみたのが次の画像で、明らかに現在は”短小”化して先が尖っています。

    ↓左:1968年に我らが撮影/右:最近(DomingoのHPより引用)
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    ↓ローソク岩を見た海岸で (ここも砂利道だった)
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    ◎再び通った八雲町は木彫りの熊の発祥地だった!
    いよいよ帰路に向かって内浦湾(噴火湾)沿いの往路と同じ道を南下して、途中で再び通過した八雲町は、(先記のように)立ち寄ったガソリンスタンドで粗悪ガソリンを入れられたという良からぬ印象があったのですが、後で知ったことは、この八雲町は食品以外の北海道土産としてポピュラーな”木彫りの熊”の発祥地であり製作地でもあるということです。ただし現在は旭川市も製作地だが八雲では熊だけの姿なのに対して旭川は熊が鮭をくわえている姿・・という違いがあるとのこと。

    ↓左:八雲の木彫り熊(八雲町木彫り熊資料館HPより)/右:旭川の木彫り熊(ヤフーショッピングのサイトより)
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    ◎駒ヶ岳が見える大沼国定公園で道内最後の休憩
    この地は”行き”に通過していたもののよくは見ていなかったこともあり、休憩がてら北海道で最後の風景として眺めた。本来は大沼という名の湖とその後ろにみえる雄大な裾野の駒ヶ岳(1133m)をセットで眺めるのが定番だが、時間の関係で我らは大沼に隣接する小沼という湖越しに駒ヶ岳を見ることになりました。
    ↓駒ヶ岳遠望
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    そしていよいよ南へ20キロほど先の函館港へ到着し、そこから往路と同じフェリーに乗船して大間へ夕刻に到着。夕食をとっった後すぐに、大間から一気に飛ばして(立ち寄り地の)千葉県の太平洋側の某所経由で東京までの約850キロを走行して(途中2回の食事をとって)午後5時頃に新宿へ到着しました。

    ◎大間~千葉~東京をぶっ飛ばし走行で得たテクニック?
    帰路の内、青森県から東京近くまでは長い国道4号線を使ったのですが、クルマが極端に少ない夜間走行の部分が長かったので、その間は(違反ですが時効?)時速50~60キロで飛ばしました。

    そこで起きたのが・・当時の幹線道路は舗装されているとはいえ、平たんな道路の途中に(コブ状態ではなく道幅全体が)こんもり盛り上がっている部分が在るという箇所が少なからずあって、スピードを出して走行中にこの部分に出会うと、車体はその道路の盛り上がり頂点では少し浮き上がるか又は空中に浮く(ラフロードのラリーでよく見られる)状態となり、盛り上がり部分が終わって平たん部分に着地すると車体はガックン、ガックンと揺れます。

    これでは夜間で眠っている他の同乗メンバーを起こしてしまうので、何とかならないかと2,3回試行錯誤の結果、体得した方法が・・

    道路の盛り上がり頂点で車体が浮き上がり気味または空中に浮く状態となった状態では車輪(動輪)が空回りするのでアクセルから足先を離しますが、次に車体が着地すると同時※にアクセルをグッと強く踏むと、車体がガックン、ガックンすることが無くスムーズに前椎する・・というもの。ただしこれを実行したクルマは後輪駆動車であり、他の前輪駆動車や四輪駆動車でも同様な効果があるのかは分かりません。

    ※ここで言う「同時」とは・・接地の瞬間には駆動輪のタイヤにエンジンのパワーが伝わっていなければならないので、アクセルとの間のタイムラグを考えて、接地のコンマ数秒前。

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    後年、社会人になってある時に上司を乗せて社用車を運転中に、道路の盛り上がり部分があったので、前述の方法で対処した途端に、その上司が私に向かって「○○君は運転がうまいなあ」と言われたことがあります。

    ◎泥汚れを「満身装衣」して新宿到着
    全4200キロ走行中に(窓ガラスとライト以外は)一度も洗車しなかったので、新宿駅前に到着した車体には泥の膜がこびりついていた。そこで車体横腹に指で文字を書いたのが下の写真。

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    ◎(参考)同時期に「カニ族」が北海道に大発生していた!
    1960年代後半から1970年後半にかけて、大学生など長期の夏休みが取れる者たちのあいだに、鉄道の周遊券を利用するなどで交通費を抑え、かつ安い宿泊施設、ユースホステルに泊る、あるいはテントで野宿しながら旅をすることが流行り、その実行者たちが背負ったリュックが当時は(現在の様な縦長ではなく)横長でしかも幅約80センチが主流(女性用は少し小型)だったので、列車内通路や乗車口ではリュックを背負った状態では横歩きしなければならず、これがカニの歩き方のようだということで付いた名が「カニ族」。これは今で言う「バックパッカー」。
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    ↓帯広駅前には無料宿泊テント「カニの家」が設置され、ここだけでもひと夏に約3000人の利用があった。(画像は「北海道ファンマガジン」のHPより引用) 
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    現在は帯広駅からクルマで20分の所にログハウス調の無料宿泊所あり、オール電化のキッチン付き。女性専用スペースあり。・・なので年間約1000人が利用。

    カニ族にとっては特に北海道が人気だった。その影響の一つが国鉄広尾線の”「愛国」駅から「幸福」駅行きの切符」の入手がブームになったこと。

    私の手許に在る切符(戴きもの)
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    ただし、我らが9月に入ってから訪れた北海道ではもう肌寒いせいか、カニ族は見当たりませんでした。

    ◎只一つ見た花「エゾリンドウ」
    この北海道の旅で見かけたのは本当にこの「エゾリンドウ」だけ。ただし「エゾオヤマリンドウ」という種があり、こちらは高地に咲くという違いだけで、この2種の見分けはかなり難しいとのことで、花名は後者かも知れません。
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    ◎今にして思えば・・
    我らが北海道クルマ旅をした1968年は、カニ族も隆盛の一方で、ベトナム戦争の最中でもあり、派兵拒否米兵が北海道経由で亡命したり、また大学紛争(闘争)、学園紛争も過激化しているという時期だったことは複雑な気持ちになるものです。

    この旅の実行にあたっては事前の十分な下調べも無く、かつ”定番の観光地訪問は将来にその機会があるだろうとして”それ以外の地をなるべく訪ねようとしたため、殆ど手つかずの自然に多くふれられた一方で、北海道ならではの文化を見逃したことは否めませんが、このレポート型ブログ5編が何らかのお役に立てば幸いです。
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    以上、北海道クルマ旅シリーズは、この(5)を最終回といたします。
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを大学生仲間4人グループがクルマ旅。前回は根室から知床半島を巡ったところまでのお話。今回はそれより西に向かって進みます。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)

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    ◎大雪山 早くも初冠雪、ストーブ活躍の地も・・
    9月に入ってまだ間もない8日(だったか?)に、北海道の最高峰にして大雪山(系)の主峰である旭岳(2291m)に初冠雪があったというニュースをカーラジオで聴きました。ちょうど今年2022年の10月5日に旭岳に初冠雪があったというニュースがあり、それによると昨年より1日早いが平年より10日遅いというから、平年の初冠雪は9月25日頃ということになり、やはり半世紀前に比べれば温暖化が進んでいる影響なのでしょうか?

    ↓(参考)雪を頂く大雪山系(美瑛からの遠望:Wikipediaより)
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    初冠雪のニュースを聴いた直後に通った北見市の町の店などでは、すでにストーブを焚いていたのでビックリしましたが、さすがに北海道のほぼ中央で内陸性気候の証だと感じたもの。しかし、いつ頃から焚き始めていたのでしょうか?それを聞き忘れてしまいました。

    ◎層雲峡は滝もさることながら柱状節理もみごと!
    北見市と旭川市の中間、大雪山の北側の麓にあたる地域に、高さ約200メートルの断崖絶壁が24キロにわたって続く層雲峡。その崖下に沿って流れる石狩川はまだ上流にあたるので川巾が細く、これにまた沿う道路を我らは走ったので、見上げる崖は迫力あり、途中にはいくつかの滝も見られた。その代表は「銀河・流星の滝」という一対を成して落差約100メートルの見事さで「日本の滝100選」の一つ。
    ↓「銀河・流星の滝」(層雲峡観光協会のHPより引用)
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    もう一つの見どころは、この層雲峡の崖全体の「柱状節理」。それが延々と続く様子が見られる所が日本では他にあるだろうか?福井県の東尋坊(自殺名所、ドラマロケ多数)も有名ですが、どうなんでしょうか?  「柱状節理」はマグマや溶岩が固まる際にほぼ法則的な形の亀裂が入り、その結果、断面がほぼ6角形(または5角形)の石柱を束ねたようなカタチとなるもの。
    その石柱1本分の太さは各地さまざまで、層雲峡は不明ですが、兵庫県の玄武洞のモノは直径約20センチなど。東尋坊では場所によって大きくちがい30~100センチ近いものまであるとのこと。

    ↓層雲峡の「柱状節理」の崖
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    今にして思えば、我らが層雲峡見物した時代は良かった。というのは上の写真でも見られるように、「柱状節理」の崖下には剥がれ落ちた”石柱部分”が砕けて転がっていて、崩落が多いことがわかります。従来から小さな崩落で、我らが通った道路にも岩石が転がることがあったそうですが、1987(昭和62)年に大規模崩落が発生して道路にも大量岩石が落下して走行中のトラックの運転手とサイクリング中の人の計3人が死亡、重軽傷が数人という事故が発生。その後も小規模崩落ありで、現在はこの道路を封鎖した代わりに、より崖から離れた位置に、安全のためのトンネルがほとんどを占めるという新道がつくられているとのことで、今は景色が見られる区間が狭まっているのです。

    層雲峡で見られるような”柱状節理のある所に滝がある”というケースは多いようで、私は日光「華厳の滝」、和歌山県「那智の滝」、宮崎県「高千穂峡の〇〇滝」、伊豆半島の「浄蓮の滝」を思い浮かべますが、調べたら伊豆には他にも「萬城の滝」、「初景滝」などがこれにあたるそうです。

    ◎ラジエーターホース亀裂で蒸気漏れてピンチ!
    我らが層雲峡を抜け、西にある旭川市に向けてしばらく走行していると、突然、ハンドル握っている彼が「あれっ!オーバーヒートかなっ!」と叫んだ。(エンジンの)水温警告表示が出たので気づいたそうだが、昇りでもない道を普通に走行しているのにおかしい?ということで、停車してボンネットを開けてみたら、なんとラジエーターホースの一部に亀裂が入って、そこから蒸気が噴出しているではないか! 

    ラジエーターホースとは、エンジンとラジエーターの間で冷却液を循環させるためのホースで、液がエンジンから出ていくためのホースと戻って来るためのホースの二つが存在する。この時は前者のホースなので発見しやすかったのではありました。

    ↓ラジエーターホース例:車種などによって太さ(2~5cm)、長さ(10cm~)、曲がり具合いが異なる。(指先より右部分がホース)
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    もしこのまま冷却液の水分が蒸発して無くなってしまえばエンジンが焼き付いて大変な事になる。ということで、すぐにでもホースを交換したいが、周囲はまだ原野でどうしようもない。しかしあと10キロほど進めば旭川なので、そこまでソロソロ気味で走行してヒヤヒヤしながらもなんとか到着し、修理工場を見つけて事態は解決した。

    ◎札幌での体験(1)時計台、ポプラ並木、札幌ラーメン
    旭川から札幌に到着。先ずはお決まりの「時計台」(旧、札幌農学校演武場)へ。この建物自体は良い感じなのに、我らが訪れた半世紀前、既にその周囲にはビルが建ち並んでいて、噂通りムードをこわしていたので、写真も撮らなかった。つくづく、フランス・パリのエッフェル塔周囲の景観維持の意識の高さを感じ入る。

    日本三大「がっかり観光スポット」の筆頭にあげられるのが「札幌時計台」、2位は高知「はりまや橋」、3位は諸説あって、長崎「オランダ坂」、沖縄「守礼門」、「京都タワー」、「名古屋テレビ塔」など。不名誉なランクから逃れる方策はないのでしょうか?

    ↓(参考)現在の「時計台」(エムエムエス マンションマネジメント サービス(株)のHPより)
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    実は、仲間の一人のお兄様がちょうど北海道大学の医学部に在学中ということで、お会いすることになりましたが、その前に有名な「北大ポプラ並木」と(Boys, be ambitious!の)「クラーク博士胸像」を観た。ポプラ並木は当時、300メートル続くすべてを観られた。ここのポプラの木の正式名称は「セイヨウハコヤナギ」であるが、樹高20メートルで根も浅くて、柳の仲間にしては”風を受け流す”ことができずに過去に何度も台風で折れたり倒れたりで、その後は全面通行禁止だった時期があったものの、現在は80メートルだけは解放されているということで、我らが訪れた際は制限は無くイイ時代だった。

    ↓「北大ポプラ並木」(uu-hokkaido HPより引用)/「クラーク胸像」(Wikipediaより引用)
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    そのお兄様にお会いして挨拶した後、有名な商店街「狸小路」を案内いただき、その中の中華ソバ屋さんで本場札幌の「味噌ラーメン」をおいしく食べて満足の夕食となったのでした。

    ↓(参考)現在の「狸小路」
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    ◎札幌での体験(2)お菓子のテスト販売品もらう!
    時間が前後しますが、まだ明るい時分に札幌市内の繁華街を歩いていたら、明治製菓(現、明治)の旗を立てた横に居並ぶ二人の女性が、なにやら小箱入りのキャラメルのようなもの(だったか)を配りながら、言うことには「一口召し上がってみてお味はいかがでしょうか。これはまだ東京などでは発売していない商品なんです!」・・ということは、いわゆるテストマーケティングとして、東京などに近い文化傾向があると言われる札幌の地を選んで”味などの評価を得られるか否かの試し”が行われていたのでしょう。

    札幌での体験(3)東京と全く同じ新聞!?
    札幌に在るYH(ユースホステル)で宿泊をした翌朝に、ふと目にした新聞に驚きました! それは、掲載広告が全て東京のデパート、例えば銀座の松屋、その他の東京近辺のショップなどのものだったからで、そこで記事内容を読んでみるとやはり東京とその近隣県関係の内容なのです。その新聞名を忘れましたが、ある全国紙だったので、これは東京版紙面をそのまま電送(今でいうファクス?)されたものを札幌などで受けて印刷したものか、あるいは新聞現物が空輸されたものか、たぶん前者だったと思いますが、詳しいことをご存知の方は教えてください。
    それにしても、ご当地「北海道新聞」というものがあるにもかかわらず、このような新聞が存在するというのは、札幌は東京文化的志向が強いゆえの事象だったのでしょうか。

    そして次の目的地へ向けて出発して市内の大通り公園の「さっぽろテレビ塔」の横を通過したのが午前8時22分・・と細かいのは、たまたま我らメンバーの誰かが撮影していた8ミリフィルムの動画にテレビ塔の中間位置に在る大型の(日本初とされる)電光時計が映っていたからでした。

    ↓現在の「さっぽろテレビ塔」:中間位置に電光時計。(さっぽろテレビ塔(株)のHPより引用)
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    次回は「北海道 半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事!!(最終回)」です。
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを4人グループのクルマ旅。前回は道東の根室半島の花咲港でカニを食べたところまでのお話。
    今回は根室から北上して知床半島へ進んだものです。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)

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    ◎根室はベトナム戦争と関係があったとは知らずに!?
    花咲ガニが目当ての花咲港に行ったために素通りした根室市に、あらためて戻って昼食をとった。市のほぼ中央に在る根室駅は、釧路と根室を結ぶ国鉄(現JR)根室本線(別名:花咲線)の終着駅「東根室」の一つ手前だが”有人駅”としては日本で最も東に位置する

    根室駅舎前にて(左後ろの壁に小さく「ねむろ」の文字が・・)
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    ↓2022年、初冬の夕刻に釧路と根室の中間の落石(おちいし)海岸の”樹木が無く寂しい風景”の中を行く根室本線の車両。写真右方向に進むと根室に至る。左の海は太平洋 (朝日新聞より引用)
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    根室駅は東端に在り、そして根室港からは向うに国後島が見え、最も近いケレムイ岬までは約40キロ
    という地理的条件を背景に・・なんと、我らが根室を訪れたわずか4か月半前に、根室駅や根室港が関係して”ソ連、日本、米国がからんだある事件”が、起きていたのです。その事件とは・・

    1968(昭和43)年4月22日、ベトナム戦争への被派兵を拒否する米兵6人が根室港からいわゆる「レポ船」※で国後島に渡り、そこからソ連のモスクワへ、最終的に中立国スウェーデンに亡命したもの。この亡命ルートは日本側では「根室ルート」と呼んでいた。

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     (↑2019年7月27日発行の朝日新聞より引用)

    この時期には、同じ目的ながら別ルートによる亡命の事例もあり、それらを日本側で支援する2大組織が、当時有名な「べ平連」※と地下組織「ジャテック」(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)であり、この「根室ルート」には双方が関与した。

    前述の米兵6人の内5人は、「べ平連」の支援で空路で釧路まで来てそこからクルマで根室へ向かい、もう一人は「ジャテック」支援で札幌から列車に乗って根室駅まで来てから6人が合流した。

    この種亡命が多発したため、米国政府か米軍かはわからないが、スパイを使い米兵亡命工作実施途中に潜入させていた結果、この年11月には”根室ルートを使った亡命”寸前の米兵1人が釧路で逮捕された。

    ・・というわけで、我らが9月に、ちょうど根室駅前で写真を撮ったりしていた様子も米国スパイが監視していたかも知れなかったのです。・・というのも、根室ルート使用事例の中には”日本人ガイド付きの外国人観光グループ”を装ったケースもあったそうなのです。

    ※「レポ船」とは・・根室には、ソ連による北方領土占拠によって漁場を奪われた漁民たちが多かったが、彼らがソ連側に拿捕されることなく元の漁場での操業を黙認してもらえるように、日本の海上保安庁や自衛隊関連の情報、つまりレポート、略してレポをソ連の国境警備員に渡すために国後島などに渡った船が「レポ船」と呼ばれた。また、情報の代わりにラジオや衣類など金品が使われることもあった。しかし、レポ船は1991年のソ連崩壊の頃に消滅したとされる。

    「ベ平連」とは・・正式名称「ベトナムに平和を!市民連合」で1965(昭和40)年に小説家の小田実(おだまこと:1932~2007)が代表となって数人の知識人らで発足させた”反戦”、”反米”の運動体であったので反戦目的脱走米兵の支援などもしたが、規則や登録名簿などは無かったので、後に自称「ベ平連」の単なる左翼グループなど似非「ベ平連」が多発したので、純粋な反戦主張者たちは脱退していき、1974(昭和49)年に解散。ソ連崩壊後の公文書開示によれば、KGB(ソ連国家保安委員会)は米兵亡命のための支援金を「ベ平連」に渡していたとされる。

    ◎国後島を見ずに悔いが残る!
    根室半島から次に目指す知床半島へ向かう途中の野付半島の先端からは、国後島までの距離は約16キロであるが、そうでなくとも海岸線を走る国道244号線からでも約23キロしかないので、島影ははっきり見えたはずなのに我らはそれを見逃していた。道東地域では「呼び戻そう 北方領土」と書かれた看板を頻繁に目にしていたにもかかわらずであり、後日これに気づいて悔やんだのです。

    (参考)国後島を国道244号線沿い海岸から望む写真(標津町の「北方領土館」のサイトより引用)
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    ◎知床半島の「知床五湖」に行き着いたが・・
    知床半島の根元から先端までの間のちょうど半分くらいの位置の西側海岸近くに在る「知床五湖」は小さな湖が文字通り5個あり、静寂だが比較的明るい感じがする風景だった。しかし我らが訪れた半世紀前には湖周囲の道はあまり整備されていなかったので、すべての湖を巡ることはしなかった。

    知床五湖の一つをバックに。周囲にエゾマツ、トドマツが多い
    siretokogoko

    後年になって気づいたのは、まだヒグマが出没する時期であったことを我らは意識せずに、なんと無防備であったことかということで、今、調べてみたら「知床五湖」を観光地として整備され始めたのは1970年代後半から(=昭和50年ころ~)だそうで、五湖を巡る遊歩道が整備され、ヒグマ対策上、春から夏の終わりまではガイド人を頼まないと歩行不可。しかし遊歩道の一部に沿って、自由に安全に歩けるように、地上2メートルくらい?の高さに柵付きの渡り廊下のような「高架木道」(全て木製)が設けられている。

    ◎狭い道では何度となく「デフ」をこすった? !
    「デフ」は「ディファレンシャルギア」の略称で、これは(詳しい原理は省略しますが)自動車がスムーズに曲がるために左右の車輪の回転を調整するための”歯車を組み合わせた装置”で、その全体をくるむケースが特に”前エンジン・後輪駆動車”や”4輪駆動車”では車体の下側に出っ張ったカタチで左右両輪の中間に見えやすい。(下写真参照)
    defu

    大型トラックの「デフ」(のケース)は後ろをちょっと低い位置から見ると覗き込まなくてもよく見えることがある。ちなみに現在のEV(電気自動車)にはデフがありません。

    ところで、クルマの運転では、「コブ(地面の出っ張り)は乗り越える」 「穴や凹みはまたぐ」という鉄則のようなものがあります。(下図参照)
    kobu-ana

    しかし、道幅が狭い場合は”わだち”がほぼ定位置に出来てしまい、それがどんどん深くなり、前述の鉄則もツカエズニ、デフ(ケース)が地面にツカエル(こする)・・ことになる。(下図参照)

    wadati

    ・・というわけで、知床五湖へ向かう道もまだ整備されておらずに狭かったために・・走行車内での録音には「ゴツッ」という音にすかさず「あっ デフをこすった!」という声が残っていますが、この”デフこすり”はこのクルマ旅では他の場所でも何回かありました。これも半世紀前ゆえのことだったのでしょう。

    ◎「オシンコシンの滝」の名を観光船沈没ニュースで・・
    知床五湖から次に南へ14キロほどの距離のやはり沿岸部にある「オシンコシンの滝」に向かった。「オシンコシン」とはアイヌ語で”川下にエゾマツが群生する所”という意味とのこと。落差は30メートルで北海道の中では大きい滝で、「日本の滝100選」の一つ。

    ↓「オシンコシンの滝」(参考写真:知床斜里町観光協会のサイトより引用)
    osinkosin2

    滝を見下ろす場所で
    osinkosin

    ところで、今年2022年4月23日に発生した”知床遊覧船KAZU Ι沈没事故”関連ニュースの中で、(我らにとっては懐かしい)「オシンコシンの滝」の名が登場しました。それは4月29日に「カシュニの滝」(知床五湖より北18キロ)の沖の海底に沈んでいるのが発見され、その後にやや持ち揚げて曳航中の5月24日に、「オシンコシンの滝」の沖合10キロのところで落下させてまた海底に沈んだので、それを再度引き揚げする作業が5月26日に行われたからで、その様子は「オシンコシンの滝」横の駐車場から観察できたそうです。

    ↓知床遊覧船KAZU Ι(「知床遊覧船」HPに掲載されていた姿)
    kazu-wan2

    合掌
    ・・・・・・・・・・・・・
    今回はここまで。次回は道内を西に進みます。
    ・・・・・・・・・・・・・

    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを4人グループのクルマ旅。前回は函館から北上して洞爺湖、支笏湖までのお話。(前回は・・http://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/16698682.html)今回はそれより東に向かって進むところからです。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)
    hkd-map
    ※前回、述べ忘れましたが・・この北海道クルマ旅にはカメラの他にカセットテープレコーダーと8ミリフィルムムービーカメラも携行していたので、それらによる記録も少し役立てています。(一方でメモや日記はつけていなかったのですが・・)
    8mm

    ◎むかわ町には恐竜が眠っていたとは知らずに・・
    支笏湖から南下して沿岸部を東に向かって計50キロほど走行したところに在る鵡川という町(現、むかわ町)は観光地でもなく、単に通過地点だったにもかかわらず我らは「むかわ」という名前を記憶しているのですが、その理由は後述するとして・・

    今や、「むかわ」と聞けば恐竜好きの方なら即反応するでしょう。それは、むかわ町で白亜紀後期である7200万年前の地層から恐竜の化石の一部断片が2013年に発見されて「むかわ竜」と呼ばれ注目され始め、その後、体長8m超となる体形の約8割の部位が発掘され、2019(令和元年)に新種恐竜と認定されて「カムイサウルス ジャポニクス」と命名されたから。

    ↓「カムイサウルス ジャポニクス」(むかわ竜)の化石(画像は朝日新聞2019年6月16日発行記事より引用)
    mukawaryuu
    我らが鵡川町を通過した時点ではこの恐竜が近くで眠っていたことなど知る由もなかったのですが、少しばかり化石や岩石・鉱物収集が趣味だった私にとっても「むかわ町」は今や大いに興味ある地なのです。

    さて、我らが「むかわ」の名を記憶することになった理由は・・走行中に道路工事による片側通行規制区間に行き当たったのでいったん停車して、係員からの通行OKの指示を待つのですが、長い時間待たされた。その間の様子の録音が残っていて、係員の中年女性に話かけてみたら、「時にゃ『いつまで待たせんだよ!バカヤロー』って怒鳴られんだよ・・」とのぼやきの声があり、これは当時、通行制限区間の両端に配置された係員同士の合図や連絡には、今のようなトランシーバ使用も無くて時間がかかっていたからでもありましょう。
    そんな状況の中、待っている間の車内の仲間同士の会話録音には「いったい、ここはどこなんだ?」という問いに「むかわダヨ」と答えるやりとりがしっかり残っているからです。

    「鵡川町」(むかわちょう)は、その後2006(平成18)年に穂別町(ほべつちょう)と合併して現在「むかわ町」となったもの。ついでながら、ここは本物の天然の柳葉魚(シシャモ)特産の町でもあることは最近知りました。

    ◎日勝峠(にっしょうとうげ)は、濃い霧で・・
    次には内陸に向かって進み、日高町から日高山脈の北側山麓を通って十勝平野に抜ける途中の日勝峠では見晴らし良いとされていたので雄大な十勝平野を展望できると期待していたが、その日は濃い霧のために願いかなわずに残念でした。天気が良ければ下の参考写真のような景色が望めるはずだった。

    ↓(参考)日勝峠展望台から望む広大な十勝平野 
    (kukiさん撮影写真を引用)
    nissyoutouge

    ↓濃霧で5メートル先さえ見えず、左端の私は思わず天を仰ぐ。
      停車中も、前からや後ろから来るクルマに注意をうながすためにヘッドライト(同時に自動的に後ろの赤いランプも)を点灯させている。
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    ◎然別湖(しかりべつこ)→オンネトー→阿寒湖
    次に向かった然別湖は海抜810mに在って北海道で最も高い場所にある湖。ここも我ら以外は人が見当たらず寂しかった。

    ↓然別湖畔にて
    sikaribetuko

    次は雌阿寒岳の麓に在る「オンネトー」で、その名はアイヌ語そのままで「年老いた沼」又は「大きな沼」という意味だそうだが”沼ではなく湖”で周囲2.5kmと小さいが美しい。オンネトー以外でも北海道の中の小さな湖には”シカリベツ→然別”のような漢字の当て字をしていない例がみられます。

    ↓オンネトー   (画像は「あしょろ観光協会」のサイトより引用)
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    次は阿寒湖。ここは特別天然記念物のマリモで有名だけに、土産物売店、飲食店、ホテル、遊覧船があり、観光客もちらほらいた。まともなマリモを見るためには、時間もかかるちょっと面倒な行動が必要なのであきらめたが、ある売店の水槽にマリモを見た。しかしそれは阿寒湖のものだったのだろうか? 日本の他地域でも小さいながらマリモはあると言うから、それだったのか?

    ↓阿寒湖 (「釧路・阿寒湖観光公式サイト」より引用)
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    ↓阿寒湖のマリモは直径2~20センチ超
    (「ちーず」さん提示写真を引用)
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    ◎硫黄山(いおうやま)の噴気はすさまじい!
    屈斜路湖(くっしゃろこ)と摩周湖の間に位置する硫黄山は標高512mと低いが活火山であり、中腹にある沢山の噴気孔からは硫黄分を含んだ蒸気が「ゴー」というすさまじい音とともに噴き出している。我らはその音も録音しているので、今聴いてもその凄さが伝わってくる。同時に、メンバーの一人が噴気孔に近づきすぎて「ゴホゴホッ」とむせる声や「この凄さは箱根の大涌谷・小涌谷の比ではまったくありません!」とレポーター口調の声も入っています。
    この山はアイヌ語では「アトサヌプリ」と言って「裸の山」という意味だそうで、硫黄分を含む大量の噴気によって周囲に草木が生えない様子を表すものでしょう。
    当然のように硫黄の産出も多かったので明治10年から昭和38年まで硫黄鉱山も操業していたのだそうです。

    ↓硫黄山の噴気地帯に近づく我ら
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    ↓噴気に包まれる中、手前の彼は肩からカセットレコーダを下げて左手にマイクをもって録音中
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    ◎摩周湖の夜に花火大会を観た
    霧が出ることが多いという摩周湖もなんとか眺められた後で、いったん硫黄山近くの川湯温泉のYH兼業の旅館へ行き、そこで夕食を済ませてから再び夜の摩周湖展望台へ着いたのが午後8時半ころ。昼間よりも人が多く集まってきて、打ち上げ花火も始まり、我らは夜店で買った焼きトウモロコシを食べながら見物したのでした。ところで北海道ではトウモロコシのことを「トウキビ」と言っています。

    ↓摩周湖
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    ◎「花咲ガニ」1キログラムがなんと150円なり!
    摩周湖から南下して根室半島へ。当初の予定では東端の納沙布岬までいくつもりだったが、時間の関係で断念して根室の少し南の花咲という町の漁港に行き、名物という「花咲ガニ」を食べることに。

    「花咲ガニ」は文字通り花咲近辺の漁場で獲れるもので、タラバガニと同じでザリガニの仲間だがタラバよりカニミソが多く旨いとされる。標準的な本体は縦横各約15センチ 。脚はハサミ(爪)の付いている腕も含めると計8本(タラバガニも同じ)で太く短い。(ズワイガニ、ケガニは脚・腕計10本)

    ↓花咲ガニ(生では暗い紫色だが茹でると赤色)
    (「オホーツクの風」社の通販サイトから引用)
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    そこでは花咲ガニが直径が60センチくらいの大釜で大量に茹でられ、そこから取り出されたものが販売用の台に並べられていた。
    価格は、やや小ぶりの3杯※で1キロなんと150円。我らはそれを6杯2キロ300円で購入。皆で分けてクルマの中で食べたが、それは新鮮でおいしかった。

    ちなみに現在の花咲ガニ価格はどうなっているのかをネット通販サイトで調べてみたら・・大きさや見映えによって幅があり、大きくて立派な1杯約1キログラムあるものは1万2千円の例もありますが、比較しやすい例を探してみたら有りました! 3杯1キロで3999円。これでも我らが昔食べたモノと単純比較すると約27倍というとんでもない状態。(但し、これらは「送料無料」とうたっているものの、その分を商品価格に潜り込ませているでしょうが・・)

    ※カニの数え方は、生きていれば「匹」だが死んだものは通常「杯」。しかし地方や店によっては「枚」や「尾」がつかわれる。ところが最近のネット通販では「匹」が多く使われています。

    ↓茹で上がったばかりの花咲ガニ(赤ん坊を背負ったままの女性の作業姿も印象的)
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    ↓黙々としてムシャムシャと食べた
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    ・・・・・・・・・・・・
    今回はここまで。次回は知床半島巡りなど「北海道 半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事 !(3)」です
    ・・・・・・・・・・・・

    約半世紀前のちょうど今頃、夏の終わりに大学生仲間4人で北海道をクルマ(←私の父から借用)で巡った際の珍しい体験、今では起きないようなクルマトラブルなどをご紹介してみます。

    この旅の計画の言い出しっぺは4人の内の一人の「トラック大好き人間」でした。彼は早くから大型免許を取得して、春・夏・冬の長い休みには、学友でもう一人の
    「トラック大好き人間」と共に日本列島の北から南までトラック輸送のアルバイトをしていたので、他のメンバー3人は彼の長距離運転のノウハウを頼りに安心して参加したという次第。

    hkd-head

    期間:1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間
       (9月15日まで夏休みだったので実行できた)

    行程:東京→北海道巡行(詳細別図)→(千葉県経由) →東京:4200km

    全費用:一人当たり2万円弱(ガソリン代、フェリー代、宿泊費、食費などすべて込み)

    使用車種:トヨペット・コロナ(1500cc)

    ↓東京→北海道内→東京の経路概略図
    map2

    ◎一人2万円以内で全費用が済んだワケ
    いくつかの経費節減策を講じたことと、勿論、半世紀前なので物価が安かったこともあります。

    1) ユースホステル(YH)を利用した
    全員が事前にユースホステル会員登録して”にわか会員”となって、北海道内の施設を低料金で利用した。当時は1泊2食付きで1100円前後(くらいだったか?)、素泊まり平均800円くらいだったので、素泊まりもたまに利用した。(非会員でも少し高い「ビジター料金」で利用はできます)

    ↓ 現在の北海道のYHの一例(美瑛)
    yh-in-biei

    ※「ユースホステル(略称YH)」:ドイツ発祥の”青少年少女に安全で安価な宿泊場所を提供する主旨に基づいた宿泊施設”であるが、現在では賛同する約80の国と地域でもYH施設が多数あり、会員は世界共通でこれらを利用できる。日本のYH数はピークだった1970年代前半の約600から今は約200。利用者数は約340万人から約38万人へと激減しているが、施設のリニューアルや細則の廃止などで状況改善がはかられているようです。(我々が利用した当時は基本的に洗面道具とパジャマ(寝間着)持参が条件だったが、今はどうでしょうか?)

    2) 携行食の活用
    保存のきくフランスパン(バゲット)と魚肉ソーセージを大量にクルマにつんで、移動中に飲食店や食料品店が見当たらない場合に備え、実際にこれを食べてしのいだことも多かったので、結果としても食費を低く抑えられた。
    french-bread

    3) ガソリンが安かった
    当時は1リッター38円前後。(ちなみにハイオクは53円前後) つまり単純計算で現在の四分の一。

    4) すべて一般道路を走った
    通行料が発生する道路は利用しなかった。東北自動車道はまだ無かったが、あったとしても利用しなかった。

    ※西側の高速道路:東京~名古屋はこの年1968年4月に開通。名古屋~京都~大阪~兵庫県・西宮は1955=昭和38年に開通済みだった。

    5) 航路が短い「大間~函館」フェリーを利用
    大間(青森県の下北半島の北端)と函館を結ぶフェリーは、青森と函館を結ぶいわゆる「青函フェリー」の航行距離の約三分の一以下なので当然料金は安く(参考:現在2022年時点での車長6m以下の小型車運搬料金のこの2航路での差は約8800円)、青森市より北の大間までの余分走行分のガソリン代を足しても格段に経済的。

    大間から函館へ向かうフェリー船上で
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    フェリー内では前後を大型トラックに挟まれた位置に・・
    car-on-ferry

    ちなみに現在は、大間沖でとれる天然本まぐろは有名になっていますが、当時は“大間のマグロ”という言葉は聞いたことはなかったのは、それもそのはずで、2000(平成12)年のNHKの朝ドラで”大間のまぐろ漁師の娘が主人公”の「私の青空」が放映されてからやっと全国に知られるようになったので、それを契機に地元も知名度向上に注力して2007(平成19)年に「大間まぐろ」として商標登録したとのこと。

    ◎混浴ができるユースホステルも多かった
    当時は温泉ホテル・旅館がユースホステルを兼業していることも多く、旅行途中でそれに気づいた我々は以降ほとんどをこの”温泉付きユースホステル?”を利用した。

    しかも多くの温泉が実質的には”混浴”で、浴場の入り口は”男”、”女”と印した暖簾がかかっていても、中に入れば湯が張られている浴槽部は一つだけだったり、一応別々に浴槽部があっても男女を仕切る壁などが無い形式で、これは楽し?かった。

    (↓本文と関係ありません:層雲峡観光ホテルのHPより「水着着用混浴風呂」)
    konyoku

    現在、北海道には100軒弱のYHがあるようですが、今でもYHを兼業する温泉ホテルや旅館はあるのでしょうか? 今、チョイと調べてみたらYH専業の施設には「源泉かけ流し温泉付き」のところがあります。

    実は、
    ユースホステルを兼業する温泉ホテル・旅館を利用すると、もう一つ利点があって、(現在もあるかは知りませんが)当時の正式なYHでは管理人の方は「ペアレント」と呼ばれ、宿泊利用者は夕食後にペアレント主催のミーティングに参加して懇親をはかる・・という定番スタイルがあったのですが、それが無いので気楽だったこと。我々も道内1泊目だけは普通のYHだったのでこの定番スタイルに従がったが、それ以降は無しで済んだのです。

    ◎一日2回のパンクには困った!・・とにかく道路に釘が多かった
    当時の北海道では未舗装道路も多く、砂利または泥の道を走るのですが、そこには落ちている釘が多いとみえて、北海道内だけで約2千数百キロ走った中で計3回も釘でパンクした。

    その内の2回は同じ日に起こったので、1回目でスペアタイヤを使って、それで走行中にまた別のタイヤが辺鄙な所でパンクしたから、さあ大変! もうスペアは無いので仕方なくパンクしたまま整備工場が在りそうな近くの町まで何とか走り、2本分のパンク修理をしてもらった。

    現在のように舗装道路ばかりを10万キロ走行してもパンクゼロも珍しくもないことからすると隔世の感ありです。しかし、現在でも道路への落とし物が無いわけではなく、都会や郊外などの舗装道路を歩いていて気付くのは釘よりもネジの類(木ネジ、タッピングネジ、ボルトなど)が圧倒的に多い。私はこれらを見つけたら即座に拾って適宜処分をします。これも世の為、人の為 !(笑)

    実は往路で下北半島の大間の近くでもタイヤが釘をひろったらしく、フェリーで函館に上陸した途端、パンクに気が付いてスペアタイヤに交換したので、全行程でパンクは4回でした。

    函館港に着くなりパンクタイヤ交換
    h-taiyakoukan
    ↑写真でお分かりのようにパンクしたのは後輪で、これは「釘によるパンクで多いのは、"道に寝ている釘を前輪が起こして"釘の尖った先っぽが上を向いたタイミングで後輪が踏んでしまって起きるケース」ということの実例でしょう。

    ◎一回だけ粗悪ガソリンを入れられた
    函館から約80キロ北上した地に八雲町があるが、そこのガソリンスタンドで入れてもらったガソリンに何か混ぜ物が入っているか、あるいは水が混じっていたか、それが故意なのか、そうでなかったのかは分からなかったが、走り出してすぐにエンジンがノッキング(通常のギヤ位置ではエンジンがチカラ不足でコトコトというような苦しそうな音をだす)を起こしやすくなったので「あのスタンドのガソリンが悪い」と気づいたが、先を急ぐので我慢して走行した。そうして次にガソリン注油した後は案の定、ノッキングは解消したのでした。
    このクルマ旅では9回だったかのガソリン注油をした中で、ガソリン不具合はこの1回とはいえ、本来ならあってはならないこと。ところが今年2022年にもなってのつい最近に、某大手石油会社のガソリンに水が混入していて問題になっていましたが・・

    さて、ここからは北海道内の訪れた地順にレポートします。
    hkd-map
    先述のように、函館上陸と同時に第1回目のパンク修理、北上途中の八雲町で粗悪ガソリン給油、次に向かったのが・・

    ◎洞爺湖と支笏湖・・不気味な中で泳ぐ
    二つともカルデラ湖で、洞爺湖は高い場所から見下ろしただけでしたが、ここは2008年7月に「洞爺湖サミット」が開かれて当時の福田首相、ブッシュ大統領、メルケル首相らが、やはり見下ろしていました。

    支笏湖では水辺にまで行っただけでなく、皆で泳いだのですが、なにしろ周りに人影は全く無く、建物の類も湖面周囲全体を見渡しても見えない、当然静寂そのもの、おまけに天候は曇り。そうなるとなんだか薄気味悪かった。

    支笏湖で泳いだが・・
    sikotuko

    その後に道内の湖、大きな沼などを巡ってみても、支笏湖の場合と同様な感じを受けた。それは我々が本州の大きな湖などで湖畔に人家、別荘やホテルが点在、あるいは密集しているような光景、場所によっては遊覧船まで見ることに慣れてしまっている故の心情。自然保護の観点からも気になりますが、その後の北海道ではどうなっているのでしょうか?

    もう一つ、後で知ったのは支笏湖は日本最北の不凍湖で水の透明度はトップクラス(昔は日本一の時期あり、現在4位というデータがある)だが、最深部が263mもあって日本で二番目に深く(一番は田沢湖)。そのためか、溺れる人、自殺者も多く、沈んだ者が浮かび上がらないこともあるそうで、俗に「死骨湖」という表現も多く、これも気味悪い

    とは言うものの、天気が良いと湖水がいわゆる「支笏湖ブルー」となってキレイで明るい感じになるようで、そうなれば好印象の「神秘の湖」と言えるのでしょう。
    現在の「支笏湖ブルー」の風景(支笏湖運営協議会のHPより)
    sikotuko-blue
    ・・・・・・・・・・・・
    長くなるので、今回はここまでにします。次回「北海道へ半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事 !(2)」につづく!
    ・・・・・・・・・・・・

    明日待子をモデルにしたNHKドラマ「アイドル」が8月11日に放映された直後に、私が2018年8月18日に発信したブログ・・http://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/4443890.html・・を閲覧された方が多数いらっしゃったので、少し関連情報を追加してみます。

    ※再放送はNHKのBSプレミアムで8月29日(月)21時~22時30分

    ※佐々木千里(ささきせんり)とはムーランルージュの設立者であり、NHKのドラマの中では椎名桔平が扮していた人物。

    ※ドラマの中でも使われた「ムーランルージュ」という呼称はていねいな表現では「ムーランルージュ新宿座」とも呼びますが、正式名称は「新宿座」。しかしここでは以下、当時の通称である「ムーラン」を使います。

    ◎ムーランの在った場所はどこか?
    現在の住所で言えば東京都新宿区新宿3丁目(昔は淀橋区角筈=つのはず・・と称した所)。現JR山手線新宿駅南口(甲州街道側)を出て北へ徒歩約3~4分くらいか。現在は「ドンキホーテ」のお店があるビルあたり。下地図の赤印位置。(左側の桃色の帯部分は新宿駅ホーム)(クリックで拡大)
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    ↓ムーラン跡地に建つビル(ディスカウントショップ「ドンキホーテ」などが入っている)
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    ◎佐々木千里は隣の豊島区で区議会議員にもなったのか?
    答は・・NO! 新宿区に在ったムーランの設立者である佐々木千里とは別に、すぐ隣の豊島区に区議会議員などをして活躍した同姓同名でしかもほぼ年齢が同じと思える人がいたのです。私を含めた70才以上の人で昭和30年代に豊島区の住民だったか、あるいは東京都に住んでいた人の一部は「佐々木千里」という名前を聞けば、昔は選挙運動で連呼される名前をさんざん聞いていたからこちらの議員さんのことしか思い浮かばない。ですから昔に豊島区在住者だった私もムーランの佐々木千里を知った時点で「ムーランをやめてから議員にもなったのか?と思わずつぶやいたのですが、私と同じ思いをした人がネット上でとりあげたら一時、騒ぎになり、当初は「それって絶対に同一人物だ!」という声もあったものの最終的には「どうやら、別人のようです」ということで終息。・・というわけでご両人について今回少し調べてみました。(実際は10才ちがいでした)

    《ムーランの佐々木千里》
    静岡県生まれ。1891(明治24)年~1961(昭和36)年 69才没。
    浅草オペラでチェロ奏者だったが後に浅草の他の演劇場の支配人となる。新宿に移り1931(昭和6)年の大晦日に「新宿座(ムーランルージュ新宿座)」を設立。劇団も作り、多くの人材を育てた。その内の一人が明日待子。↓(写真は「ライブドアニュース」より引用)
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    佐々木千里は当時人気のエログロナンセンスの風潮とは異なる路線をとったが、前年の昭和5年に、純潔性をうたって宝塚歌劇(レビュー)が関西で始まったことも意識にあったものと私は思う。

    当時の出し物の構成は”世相を反映した芝居3本とダンス(ラインダンス含む)”など。
    人気女優らのラインダンス(明日待子さん所持の写真を朝日新聞がムーラン関連記事(2011年2月16日発行)用に借用したもの)
    moulin-dance

    ムーランの周囲には大正から昭和にかけて10数軒の映画館があって、その内の1軒を改装して誕生したのがムーランなので、一時期は映画上映も行った。
    『戦時中も興行は中止することなく続いたが、空襲警報が出ると観客と一緒に地下の防空壕に潜った。しかし45(昭和20)年春の空襲でムーランは表側だけを残して焼け落ちた』(『』内は朝日新聞2014.10.10記事より抜粋)
    氏は劇場経営は松竹などに任せていたが、丁度還暦の頃1961(昭和26)年に閉館した。

    閉館間近の時期にムーランの劇団員をまとめていたのは、当時座長夫人でその後映画「男はつらいよ」シリーズでおばちゃん役をつとめた三崎千恵子だった。三崎は後年「ムーランは私の人生!」と言っていた。

    《議員であり実業家だった佐々木千里》
    長野県生まれ。1901(明治34)年~1975(昭和50)年以降没で不詳。
    27才で上京以降、商社、造船会社、製塩会社、漁業会社など創業。昭和28年には「東京丸物百貨店」※を開業。
    更に学校法人設立。東京商工会議所豊島支部設立同時に支部長就任。そして昭和22年から豊島区議会議員。昭和26年から44年までは都議会議員。その間に自民党幹事長にも就任。
    1975(昭和50)年に勲四等旭日しょう(糸へんに賞)受章。
    ・・というわけで、この方は東京都板橋区の松月院にブロンズ胸像があるほどの人でした。

    ※丸物百貨店は東京・池袋東口の西武百貨店の北側に隣り合わせて存在したが後に西武側に売却されて「パルコ」になった。これはその後各地に出来たパルコの第1号。

    まあ、それにしても「佐々木千里」という名前は世の中には少なそうで実は結構多いもので、今回とりあげた二人の他にネット上だけでも多数存在していたのは意外でした。

    ◎暗い世相ゆえに明るく咲いたムーランか?
    ムーラン開業の1931(昭和6)年とその前後の社会は総体的には暗い時代であり、その中で生まれ、存在し続けたのは、民衆の心に少しでも明るい光を提供しようとしたからであろう。

    1927(昭和2)年には経済恐慌が始まり、銀行の休業が相次ぎ、都会では失業者が多数。土管の中や無料宿泊施設に寝泊まりする人は多く、東北・北海道では昭和6年と10年の冷害で農作物収穫量は平年の3分の1以下で困窮して、ナラの実やワラビの根を粉にしたものまで食べ、それでもしのげずに娘を売りに出す農家が続出した。

    ↓土管に寝泊まりする人たち(昭和5年)(以下写真5枚は毎日新聞社刊の「昭和全史」より引用)
    dokanseikatu

    ↓東京市の無料宿泊所は満杯(昭和6年)
    muryousyukuhaku

    ↓大根かじって空腹まぎらわせるか?
    daikonkajiri

    その上、軍靴の足音高くなり、丁度昭和6年9月18日、日本の関東軍は中国・奉天郊外柳条湖の南満州鉄道の線路を自作自演で爆破したものを、蒋介石率いる国民党軍の仕業ということにして戦闘開始で満州事変勃発。以降15年間におよぶ戦争に突入していくことになる。
    翌7年には満州国建国。8年には国際連盟脱退。

    ↓チチハル(中国北東部の町)に出撃直前の関東軍第2師団歩兵(昭和6年)
    kantougun

    一方で世の中には「エログロナンセンス」がもてはやされ、「モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)」が都会を闊歩し、上流階級は女性でもゴルフに興じるという現象も現れたが、これは今ほどは情報伝達が機能しなかったから農村の窮状がピンとこないこともあったかも知れないが、暗い先行きの不安をまぎらわす一時のあだ花だったようにも思われます。

    ↓モガたち(昭和6年)
    mobo-moga

    そして戦争激化で学徒出陣体制にまでなり、出征前にせめての見納めにと多くの大学生がムーランを訪れた。その彼らの内で生還できた人はどれくらいいたのでしょうか。

    ◎明日待子さんの亡くなる2年前のお顔
    2017年に97才でテレビ番組「爆報THEフライデー」(TBS系)の取材に応じた際のお顔です。小ジワが無いのには驚きます。
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    2014年の朝日新聞の取材時には、「上京して間もない頃、ムーランの屋根裏部屋の壁に『この部屋は屋根裏の天国だ』と落書きしました」、「本当に楽しかったんですよ」と語っている。

    結婚後の札幌では日本舞踊のお師匠さんをされていましたが、亡くなったのは2019年7月14日・・そう、この日は「パリ祭」(フランス革命記念日)であり、ムーランルージュの本家が在るパリに因んだ日とは・・明日待子さん、さすがに粋でしたね。

    ↓谷中安規 作「ムーランルージュ」(昭和8年)
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    ・・・・・・・・・・・・

    ◎きのうの友はきょうの敵
    現在、ポーランドはロシアと戦うウクライナ支援をしているので間接的にはロシアに敵対しているようなもの。しかしロシアがソ連(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)だった時代の1957年10月4日に人類初の人工衛星「スプートニク1号」打ち上げに成功して以降、矢継ぎ早に打ち上げられた草創期に、それを讃えるようにポーランドはソ連の人工衛星図柄の切手を発行していた。それを思うとなにやら「きのうの友はきょうの敵」のような感じですが・・
    polska

    ◎「ソ連の衛星国」という立場や「ワルシャワ条約機構」が影響?
    実は、同様に”ソ連の人工衛星を讃えた切手”を発行した国々が他にもあった。それが何か国にのぼったのか正確には知りませんが、少なくとも私が当時集めた切手から分かることは・・

    ポーランド以外では・・ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、北朝鮮

    ↓ハンガリー(切手での国名表記は”マジャール人の国”として「MAGYAR」)
      (上の切手はソ連の国旗まで表記)
    magyar1
    (下の3枚は人類初の有人宇宙飛行にソ連のボストーク1号に乗って成功したガガーリンとボストーク3,4,5,6号:1966年12月29日の発行切手)(画像3枚はヤフオクより引用)
    gagalin


    magyar-posta

    ↓チェコスロバキア(チェコとスロバキアに分離する前)
    cesko

    ↓東ドイツ(人類初衛星成功の1957年10月4日の日付も右下に明記)
    east-germany

    ↓北朝鮮(ロケットの横腹にはソ連を表すCCCP表記。上はソ連のガガーリン)
    kitacyosen

    これらの国の内、北朝鮮以外は「ソ連の衛星国」と言われ、かつ「ワルシャワ条約機構」の加盟国だったという共通の立場だったのです。(他に「コメコン」=経済相互援助会議という組織もあったが実際には機能しなかった)

    ◎「ソ連の衛星国」とは・・
    まず「衛星国」とは、”一応は独立国家でありながら、大国によって主権を制限されて従属的な国”。
    「ソ連の衛星国」はポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、モンゴル。

    ◎「ワルシャワ条約機構」とは・・
    ”平和と社会主義のための、友好・協力・相互援助に基づく軍事同盟”
    で、ポーランドの首都ワルシャワで調印された故の名称だが本部はモスクワにあった。ワルシャワ条約機構加盟国は、盟主であるソ連、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア。

    「ワルシャワ条約機構」成立に先立つ1949年4月4日に自由主義国間に「北大西洋条約機構」(NATO)が発足したことへの対抗は明らかだが、「ワルシャワ条約機構」の実際の機能は、同盟国=衛星国から抜け出そうとして事件や動乱が起きた国に対してこれをソ連を主体とした武力で鎮圧して離脱阻止するものだった。

    この機構は1955.5.14から1991.7.1まで存続した。(ソ連の正式な崩壊は1991.12.26)

    ということは・・この機構が発足して間もない2年後にソ連による人類初の人工衛星打ち上げが成功したことになり、これは社会主義体制の優秀さの表れであるとして喜び、機構加盟国にとってはまさに”同慶の至り”ゆえに、祝いの切手を発行したのか、それとも”親分”への忖度だったのか?。

    ◎かつてソ連の衛星国で現在はNATOとEU加盟の国
    1991年のソ連崩壊以降、ソ連に従属することから転向してNATOとEUに加盟した国は・・
    チェコ、ハンガリー、ポーランド、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア。アルバニアはNATO加盟だがEUには未加入。

    ◎「トゥヴァ」(または「タンヌ・トゥヴァ」)という国をご存知?
    私が小学生の頃、収集した切手の中に”菱形”の珍しい1枚があって、それには「POSTA TOUVA」という表記があり、切手情報誌によれば「タンヌ・トーバ」(現在の一般表記と少し違うが)というモンゴルに接する国が発行したものと分かった。
    今回、調べ直したら、「トゥヴァ」はモンゴル北西部に接する国で1921年に「トゥヴァ人民共和国」(それを表記すると「タンヌ・トゥヴァ」)として独立。しかしこの国はソ連による傀儡国であり、世界ではソ連とモンゴルのみが国として承認したものだったので1944年にはソ連に併合された。その後1991年のソ連崩壊後に独立権を得たが、他の衛星国と呼ばれた国々と異なり、新しい「ロシア連邦」の一員となる路を選んで「トゥヴァ共和国」として存在している。
    touva

    上の菱形切手は「トゥヴァ人民共和国」時代に1926年から1936年の間に発行されたもの。

    ◎ソ連の人類初人工衛星の成功記念切手を私はもってないが・・
    他の初期の衛星切手とともに「ツィオルコフスキー」を讃える切手がある。ツィオルコフスキー(1857~1935)はロシア帝国時代からソ連に至る時期に存在した物理学者、数学者、SF作家であり、ロケットの基礎理論を産み、人工衛星登場を予測したりで「宇宙飛行の父」と呼ばれた人物。
    ↓ツィオルコフスキー、ロケット、人工衛星のソ連発行切手
    tiorkovsky
    cccp
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    余談ですが、私が外国の歴史的事件発生を年月日まで覚えているのは、ソ連が人類初の人工衛星打ち上げに成功した1957年10月4日の他はフランス革命が始まったとされる1789年7月14日と米国が英国からの独立を宣言した1776年7月4日ぐらいで、それくらいに私の中では人工衛星登場が衝撃的だったのです。
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    先日、藤井聡太さんが将棋8大タイトルの一つ王将も獲得して、19才の最年少5冠となったが、将棋は全くダメな私でもオセロゲームなら単純だからできる。それもオセロが登場した直後からやり始めたゆえのちょっとしたエピソードがあるので、これをご紹介。
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    ◎きっかけと自作のコマ
    オセロゲームは中外製薬の営業担当だった長谷川五郎(本名:敏)氏(1932~2016)が考案したものを玩具メーカーのツクダが商品化して1973(昭和48)年に発売開始された。

    その直後にこれを知った”私の職場の先輩TKさん”が、私に向かって「おい、自分たちでオセロのコマを作ってゲームしてみようや」と言って、ラジオの部品のプッシュボタン(オフホワイト色のプラスチック製)を200個くらい手に入れてきた。

    (当時の職場はラジオやテープレコーダーの製造工程で発生した”余りモノの部品”は簡単に入手できる環境に在った)

    そのプッシュボタン(約15X16X10mm)の裏部分を二人で黒く塗って”丸くはないが、表は白、裏は黒としたオセロのコマ”の代替品を作った。

    プッシュボタンの裏部は黒く塗った

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    板に8X8=64のマス目を描いた盤も用意して早速二人で、昼休みや終業後の小時間にオセロゲームを始めたら、これが案外面白い。

    数日プレーしているうちに、これは職場全員(男性しかいない)を巻き込んでリーグ(総当たり)戦をしようじゃないか・・ということになって、勝負好きな上司も含めて総勢15人参加するために、ゲームのセットを2つ追加して作り、計3盤を使って熱戦が始まった。

    このゲームは1試合平均所要時間は約30分だが、業務時間外に皆でプレーするので、全試合の結果が出揃うまでには約1か月かかったように記憶しているが、終盤になってわが身に異常が現れたのだ!

    ◎私の後頭部に円形脱毛が発生!
    先輩のTKさんが「〇〇くんは、もとから頭の後ろにハゲがあったか?」と私に問いかけたが、そんなはずはないと思って自分の指先で探ってみたら、なんと500円硬貨大の面積の髪の毛が全く無くなっていて完全にツルツルの皮膚が現れているではないか!

    後頭部の右寄りで、耳より少し上に出現
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    それは強烈なショックだった。そもそも頭を怪我したこともなく毛が生えない傷跡など無いのに、なんということ! 

    それにしてもいつの間に毛が抜けたのだろうか、痛くも痒くも無いから全く気が付かなかった。

    職場近くの病院で診察してもらったら「円形脱毛症」と診断され、円形脱毛部の周囲に沿って7~8所に注射をうたれ、塗布用薬液を処方された。

    それは当時テレビで流れたCM「抜け始めてわかる、髪は長~い友達」※というキャッチコピーでよく知られた育毛剤「カロヤン」(第一製薬=現、第一三共ヘルスケア社製)だった。

    しかし市販品と同じものなのか気になったので調べたら、有効成分の「カルプロニウム塩化物」の含有量が病院処方品は市販品のちょうど2倍なので納得した。

    ※「髪」という字は、右上部分のカタカナの「ノ」3本を髪の毛と見立てて、これが抜けて無くなれば、残る部分は左上部の「長(い)」と下の「友(だち)」というモジリ。
    当時のコマーシャル→ https://www.youtube.com/watch?v=MgAN92U1kyk

    そうして病院処方カロヤンを塗布すること約1か月でハゲが目立たないほどの毛髪が生えてきたが、完全復元に要した期間はなぜか記憶に無い。

    さて私の円形脱毛症が発現した原因は何か? 答えは明らかにオセロゲーム。しかし他の人には発現していないのはなぜか?

    それは私の場合、職場ではオセロを先行してプレーしていた立場から、このリーグ戦では負けられないという意識が強くあった。

    とは言えまだまだ技術は未熟なので、”初心者のオセロにありがち”な・・

    ”中盤まで自分のコマが圧倒的に多くても最後に逆転される”ことや

    ”いやでも最後には相手のコマによって盤面すべてが占められてしまい完敗”そしてやはり

    ”将棋をしない私に比べて将棋が強い人はオセロにも強い傾向がある”‥

    というこれらの事態が自分にとっても例外ではないことが分かっていたので・・

    ゲームの最中は”いやな感じの負け方にならないかハラハラというよりむしろ恐怖感の連続”という強大なストレスがかかっていて、それが1か月ほど続いたことで起きたとしか考えられない。

    昔から強烈な感情が頭髪に急激な変化をもたらす例が示されていて・・例えば

    "もの凄い恐怖で一夜にして白髪になった" 

    "強い怒りで髪の毛が逆立ち「怒髪 天をつく」となる"・・

    私の脱毛もそれらに類するのではないだろうか。

    近年の学説では、
    円形脱毛発症はストレスだけでなく、過労、睡眠不足、出産、風邪などが引き金となって自己免疫反応が頭髪の一部に現れて脱毛するものとされていて、通常の免疫作用というのはTリンパ球が人体内に入ろうとする異物を攻撃するものだが、何を間違ったか体外からの異物が無いのに毛根を(異物と勘違いして?)攻撃して毛が抜けるのだそうだ。しかし"なぜ円形に毛髪が抜けるか"の理由がわからないが・・

    さらに不思議なのは、昔から胃腸が強くはない私ならストレスを感じるとすぐに胃が痛くなるのに、それが現れずに、かわりに円形脱毛症になったこと。

    その理由はと言えば、同じストレスでも当時の私にとっては”一種の恐怖心を伴ったちょっと異質なもの”だったからではないだろうか。(職場でオセロ大会をするくらいなので、業務上のストレスは無かった状態だった)

    さてそのリーグ戦での私の成績は・・中位にとどまるという結果に終わったのであった。

    私はこの経験から、以後はオセロゲームはリラックスしてプレーしている。そして円形脱毛は現れなくなった。

    今、気が付いたが、私の
    円形脱毛の大きさはちょうどオセロのコマの直径である24ミリと同じだったのではないかと思える。お~オセロ、オセロシヤ?!
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    蛇足ながら・・藤井聡太さんの5冠獲得翌日の会見での記者質問「富士山でいえば何合目まで登ったイメージ?」に対する即座の回答がすごい!・・「将棋は奥が深く、頂上は見えないのでその意味では森林限界の手前と思います」・・つまり”まだ樹木が在る場所だから頂上が見えない”という意味だろう。
    以前から彼の将棋以外の知識とボキャブラリーの豊富さには感心していたが、ここでまた再認識した。
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    ◎「カレーの日」の由来は
    1982(昭和57)年、社団法人全国学校栄養士協議会が学校給食35周年をむかえて、小中学校の給食においてカレーを1月22日に一斉に出したことにちなんで決められたのが「カレーの日」。

    実は「カレー」と名の付く記念日は他にも沢山あって少なくとも18種あり、例えば「レトルトカレーの日(2月12日)」、「横浜カレーの日(6月2日)」など。

    その内、日本記念日協会認定の記念日は「カレーの日」を含めた10種。
    (詳しくは→

    ◎イトーヨーカドーが「カレーの日」を知らぬはずはないが?
    日本の代表的スーパー(マーケット)の一つであるイトーヨーカドーは今年1月11日~16日まで、「冬のカレーフェス」と称して、カレーの有名店のシェフが監修したカレーの販売とそのカレーを作るために必要な食材の販売、各地の”カレー名店が監修したレトルトカレー”の詰め合わせ福袋、さらにカレー味のお菓子までも販売するというキャンペーンを行った。

    しかし、前述のように”1月22日が「カレーの日」”と知っていたら、その日をからませた「カレーフェス」を設定するのが常套手法だろう。もしそうしていたら期間中の売上高はよりアップしたにちがいない。もしかしてカレーの日の存在を承知の上でのことなら、その理由を知りたいところ。
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    ◎私は”日本の昔の黄いろい色をした独特の香りのカレー”が好き!
    現在は、レストランで出されるカレーも各社発売のカレールウもレトルトカレーも全てと言ってよいほどが”茶色いカレー”になっている状態で、しかも昔のカレーのような強い香りはせずに、少々酸味を帯びているものも多い。

    しかし、私は昔に食べていた”黄色で独特の香りでしかも酸味など無いカレー”のほうが断然に好きだ。”黄色い”ということはターメリック(ウコン)が沢山含まれている証であり、独特の強い香りはクミンが多いことによるもの。昔はまさしくその香りがカレーであり、ご近所のお宅からカレーの香りが漂ってきて”きょうの晩御飯はカレーだな”などと分かることが普通だった。それは現在のようなカレールウがまだ売られていない当時は”カレー粉”を使っていたからで、そのカレー粉がターメリックとクミンを多く含んでいたからだろう。
    昔はこれよりもっと黄色が強くとろみのあるカレーが多かった
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    (写真は「はるか」(食の贅沢)さんのブログより)

    もう半世紀も前のこと、私の妹が”インド人からカレー(のようなもの)の作り方を直接教わったという友人”の手ほどきで作ったカレー(のようなもの)を私も食べたが、それまでに食べていた日本のカレーとはまるで違った味と食感で色も茶色。正直言って”馴染めない”と思ったもの。しかし今考えると、その時のカレーにとろみを加えたものが、現在の日本のカレーの主流になっているレシピにつながっているように思える。

    ちなみに、カレーとガラムマサラは同じような香辛料でできていて、ただ一つ違うのは、ガラムマサラにはターメリックが含まれないことだそうだ。

    ◎カレーの源はインドだが日本型カレーとカレー粉のルーツは英国
    古来よりインドでは多数の香辛料や薬効のある材料を組み合わせて一種の複合調味料としたものを色々な料理に”混ぜる(あえる)”あるいは”上から振りかける”などして使っていたが、その調味料がインドを植民地としていた英国へ18世紀後半に伝わりCURRY(カリー)と呼ばれるようになり、さらに明治期に日本に伝わり、現在に至る間に、基となったインドの調味料は英国風に、さらに日本風に変化した。したがって、厳密に言えば”インドにカレーと言うものは無い”とされる。

    カレーの基となったインドの複合調味料は英国では小麦粉を加えた”とろみ”のあるものに変化し、さらに各種香辛料を粉末にしてまぜたカレーパウダー(カレー粉)を産み出してカレー料理が普及。それが日本に伝わったのだから、日本型カレーとカレー粉のルーツは英国ということになる。
    日本初の純国産カレー粉を1923(大正12)年に発売したエスビー食品の現在のカレー粉缶
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    英国と米国に居住経験があり、両国の食に詳しいブロガー”アサヒ”さんによれば、カレー粉発祥の地のカレー粉の中でも”シャーウッド(Sharwood’s)ブランドのカレー粉”は日本人が是非にも使って欲しい逸品だという。

    ◎インドでは離乳食も病院食もカレーが使われる!
     (以下、便宜上、インドの複合調味料も”カレー”と表記)

    インドに限らずカレーは多数の香辛料やハーブから成るが・・

    ターメリックの効能は・・消化促進、肝臓機能促進、解毒、抗アレルギー、殺菌、がん細胞再生抑制、アルツハイマー予防、歯周病予防、などなど。

    クミンの効能は・・消化促進、腹痛緩和、食欲増進、肌老化抑制、便秘解消、免疫力増進、強壮、などなど。
    ・・というわけで、カレーは薬であり、それを使えば薬膳料理と言えるものになるので、インドでは離乳食にも、病院食にもカレーが使われるそうだ。

    ◎カレーに入る肉 東京(関東)は豚、大阪(関西)は牛だったが・・
    カレーに限らず、肉じゃが、コロッケの中のひき肉などに使われる肉は、昔の関東は豚肉、関西は牛肉と分かれていたが、いつの頃からか関東(と言うより全国区?)も牛肉が主流になってしまった。(他に若干の鶏肉、マトン、魚介など。強いて言えば”カツカレー”で豚カツが使われる)

    私の小学校(東京都豊島区)時代(昭和30年代)の給食のカレーは、まさに黄色くて豚肉の小さいかたまりが入っていて、当時はその豚の油のかたまり部分が好みだった。年とった今では考えられないことだが・・

    そんなことを思っていたら、なんとエスビー食品のホームページには「懐かしの給食カレー」レシピが紹介されていることを知った! 色は昔の黄色に近いし、入れる肉は豚肉だが”こま切れ肉”を使っているのが惜しい!
    「懐かしの給食カレー」出来上がり写真(エスビー食品のHPより)
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    ◎華麗(カレー)なる発展の神保町(東京)
    さすが英国にはカレー(インド料理)のレストランが8000店もあるそうで、ロンドンでは東部のシューディッチという街に店が多く存在するそうですが、日本では東京の神保町がカレー店の密集地となり、地下鉄の神保町駅から半径1キロ以内に"カレー専門店"が約60店、”カレーも食べられる店”を併せると約400店となり、今やカレー店経営を目指す者にとっても聖地とまで言われるようになった。

    神保町と言えば、本屋の密集地として世界一の規模で有名だが、カレー店の街としても世界一になるのだろうか。私は高校生時代から現在まで、神保町へはよく行くが、昔はカレー店など見当たらなかったもので、調べたらカレー店の急増は2000年代に入ってからとのこと。

    ◎「ハウス加齢」はいかが?
    20数年前だったかに、住宅メーカー、住宅設備機器メーカー、電機メーカーなどが協同で、"将来の住宅のあるべき姿"を探るために、あるワーキンググループを編成して作業した時期があって、そこに私も参加していたのだが、ある時に"住む人が歳をとるにしたがって住宅と設備はどう対応させるか、あるいは歳をとると必要となる住宅と設備をあらかじめどの程度備えておくべきか"などを考慮した住宅を提案してみようということになって、私がその住宅のネーミングは「ハウス加齢」にしたらどうかと、あのカレーメーカーの名を借りた提案をしたら、「それは面白い」という反応があったものの、やはり没となった。
    ・・・・・・・・・・・・

    (文中 敬称略)
    今や「ジェンダー」は"人口に膾炙"されていますが、少なくとも34年も前に「ジェンダー」という言葉を発信していた人物、それが黒柳俊恭(くろやなぎ としやす)

    実は私は彼とは小学校で同じクラスだったので、断言できることは・・彼はすでに小学生時代には”将来、ジェンダー学者になる"素地をしっかりと体現していました。

    そして彼の言動は私の意識に影響を与えてくれていたのです。以下に紹介するエピソードなどは昔ならば公表がはばかれるところですが、今なら堂々と語られてよいものと思います。

    ◎黒柳は”通念的には女子が使う言葉”を使っていた!
    生徒同士の会話の中では・・「わたし、そう思うわ」 「わたし、そんなのいやだわ」・・など。

    ◎黒柳は女の子と「ゴム段飛び(ゴムとび)」をしていた!
    「ゴム段飛び」は普通、女の子の遊びで、私ら男の子はしなかったのだが、黒柳君だけは女の子に混じってやっていた。(ゴム段飛びとは→ https://45mix.net/gomutobi_itidan/ )

    ◎そんな彼に対して”いじめ”や“からかい”を誰もできなかった!
    彼は学業成績優秀。背が高く、クラスで1位か2位くらい。容貌は、鼻筋通ってまことに整った顔。
    それは今にして思えば、デビューした頃の丸山明宏(現在の美輪明宏)にちょっと似ていた。そして卑屈なところなど全く無い、というわけで、クラスメートからの”いじめ”どころか“からかい”も寄せ付けない気品と気概があった

    若い頃の丸山明宏(1971年に改名して現在は美輪明宏)
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    ただし、丸山明宏が”宝塚歌劇の男役のような容姿”で1957(昭和32)年に「メケメケ」を歌って世の脚光を浴びて、「シスターボーイ」(今は死語か?)と呼ばれるようになったので、我々の仲間内では黒柳君のことも、そう呼んでいたことがあった。

    ◎その後、道を究める努力と結果
    私は彼の小学校卒業後の足跡を知らなかったのですが、6年前にひょんなことから彼の近年の業績を知るようになったのです。そして数年前に、ある用事で彼の自宅に電話した際に、本人不在だったが代わりにお母上が語られたことには、「息子はジェンダー関連の研究で、アメリカやイギリスにも行っておりましたよ」ということでした。その際のお母上の”口ぶり”は”息子さんをここまでにした誇りをもっておられる”ことが感じられました。確かに60年以上も前の時代に、息子さんの意志を尊重して見守ったお母上も素晴らしい。

    彼は、その結果、日本において各種関連学会に属しながら論文発表や書籍執筆、翻訳、ジェンダー関連のクリニック、アドバイザーなども行い、帝京平成大学 健康メディカル学部臨床心理学科の助教授でもある。

    ◎黒柳俊恭の著作と論文
    ●「彷徨えるジェンダー(さまよえるじぇんだー)- 性別不快症候群のエスノグラフィー -」※(単行本)・・1987年2月発行/現代書館
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    ●「イヴ・内なる女性を求めて」
    (アン・ボリン著/黒柳訳 単行本)・・1990年6月発行/現代書館

    ●「同性愛のカルチャー研究」(ギルバート・ハート著/黒柳・塩野美奈 共同訳)・・2002年2月発行/現代書館
    kuroya-yaku

    ●「思春期前後の性同一性障害の治療を中心に」(「日本思春期学会誌」掲載論文)・・2002年6月

    ●「『性転換手術を受けない性同一性障害者』の心のケアに関する一考察」(「日本性科学会誌」掲載論文)・・2002年10月
      
    ※「彷徨えるジェンダー」の内容は「少々難解だが、時代に先がけている」としながら紹介している人のブログ参照下さい。→「梢おばさまのトランス日記」=
    http://blog.livedoor.jp/kozuesug/archives/52308724.html

    ・・・・・・・・・・・・
    かくして、私は幸いにも小学生の時から、今で言うジェンダー意識の種を得ていたこと、加えて私の高校時代にはクラスの女性で”私が解けない数学の問題をスラスラ解いて、大学の医学部を出て立派な医者になった人”もいたなどの経験から、私の中では”世の中、(ある面では)男も女も無いものだ”というスタンスになっているのです。
    ・・・・・・・・・・・・

    この文章作成中に、自民党の甘利幹事長が衆院選の小選挙区で落選、比例で復活となったものの、役職辞任したニュースが出てしまいました。これには以前からくすぶっている問題に加えて、以下の内容もちょっとだけ影響しているかも知れません。

    ◎「セコ」なのか「エコ」なのか?
    先日、情報誌「フライデー」(2021.11.5号)の発刊広告見出しの中に次のような一文があった。

    『就任祝いに贈られた花を別の大臣や政務官へ・・ 甘利明幹事長「祝いの胡蝶蘭」使い回し疑惑』

    胡蝶蘭(生産者ネット直販「ふじみのラン園」のHPより)

    fujimino_ran2

    私はそのフライデー誌の記事を読んでいないので詳細な内容、事の真偽はわかりませんが、事実だったとしても、使い回し品を受けた方には実害はないでしょう。

    しかも、(甘利氏側が)戴いた胡蝶蘭(例外なく鉢植え?)への水やりなど手入れが十分にできないですぐに枯らしてしまうくらいなら、他の人、事務所など生かしてくれそうなところへ送る(贈る)ほうが良いし、そうすることで一種のエコとなるとも言えるので・・「これはセコなのかエコなのか?」などという文言もネット上に飛び出した。

    ・・ということでこの話、 “あまり(甘利)酷い話”とまでは言えないのでしょう。

    しかし今回のフライデー情報に関連して思い出すのは・・昔、私が聞いてその酷さに驚いた実話ともう一つの同様な事件であり、これらは実害が出た可能性があるもので、まず・・

    ◎大企業の副社長宅での”飲み物使い回し行為”
    今から約60年前、私の友人のお姉さんが、東京でも”お嬢様学校”と言われる「跡見学園」の高等学校(私の記憶があいまいで中学校だったかも)の生徒だった時の話。

    当時の学校の教育カリキュラムの一つとしての”家事見習い実習”があったようで、彼女が送り込まれたのは”重電も家電も製造する(誰もが知る)大企業の副社長宅”だった。

    そこで家事の手伝いをする中で驚いたのは・・頻繁に来訪してくるお客さんに対して出す飲み物が、夏には「カルピス」が多かったのだが、そこで彼女が指示されたのは・・

    「お客さんが飲み残したカルピスは、次のお客さん用にそのまま少し注ぎ足して出すように」・・という信じがたいものだったそうです。

    左は昭和30年頃のカルピス

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    そして・・
    ◎「船場吉兆・料理使い回し事件」
    2007年、大阪市中央区北久宝寺町に在った料亭「船場吉兆」で、まず”賞味期限切れ食材の販売” “食材の産地偽装”が発覚して、客足が遠のいて営業不振の結果、2008年1月に民事再生法適用によって再出発していたところ、5月に”客の食べ残し料理の使い回し”も発覚して同月末、遂に廃業に追い込まれた。この店は有名な高級料亭「吉兆」から”のれん分け”された存在だったため、特に注目されたものだった。

    ◎「見ぬこと清し」では済まされない!
    昔から「見ぬこと清し」(または「見ぬもの清し」)という言葉があり、その意味は・・

    “料理やお菓子などは、そのもとの材料が”見にくい(醜い)"ものだったり、調理場・製造現場が汚かったりした場合、それを実際に見てしまうと気になって食欲が無くなるものだが、それを見ることがなかったら、出されたものを何の疑いもなく清く美しくおいしい食べ物として口にしてしまうものである。”というもので、

    この言葉が存在するということは、これに当てはまるケースが世の中にいかに多いかを表すものでしょう。

    「胡蝶蘭の使い回し」と違って「大企業副社長宅」と「船場吉兆」双方とも、食べ物・飲み物の使い回しであり、その行為による飲食物には、”先客の会話中に飛んだつば”や目に見えぬほどの埃が入り、その上に材料の酸化・乾燥も進んでいるなどの可能性が十分にあり、万が一、先客が持っていたかも知れない何らかの病原菌が入ったりすることもあり得る。ゆえに摂食者が体調不良や何らかの病気を発症するなどの実害が発生する恐れも無いとは言えず、

    この”飲食物使い回し行為”は絶対に許されるものではないことは言うまでもない。
     
    しかも、このお宅・この店を訪れたお客さんは"普通よりは上質の飲食物が出てくるもの”という認識をもっているものなのに、それを裏切る酷さで、二重の罪をおかしている。

    ここでとり上げた二件の罪ある行為は、まさにこの「見ぬこと清し」を意識して実行したことになる。

    ところで・・
    ◎なぜ副社長宅でカルピスなのか?
    カルピスは1919=大正8年、日本最初の乳酸飲料として、三島海雲(1878=明治11年~1974=昭和49年)氏が製造・販売開始。
    三島海雲(Wikipediaより)
    KaiunMishima
    カルピス開発の元となったのはモンゴルの"酸乳"という飲み物であり、これが三島氏の体調回復に効果があった実体験から、これを研究改良して完成したもので、健康のために安心して飲める飲料とうたって大ヒットしたので「国民的飲料」とまで言われるようになった。

    三島氏は大阪のあるお寺の住職のもとに生まれ、13才で得度し、仏教系学校(後の龍谷大学)に学んだことによる仏教哲学が根底にあるから、私利私欲を求めず、言行は”国のため、民のため”に向けられ、例えば、関東大震災被災で飲み水が得られない地域民には、カルピス希釈液を無料で供給した。その際にはカルピスに加え入れるための氷も買い集め、動いてくれるトラック数台をやっとの思いで手配するなどもあって多額の費用がかかって工場の金庫の中のお金すべてを使ってしまっていた。

    しかも三島氏は何事にも正直であったので、自然に一流の政財界人、文化人と交流があり、またそれらの人からの支持も得られた。その表れの一つとして・・与謝野晶子は「カルピス」という商品名を読み込んだ歌を数首詠んでいる。

    三島氏はカルピスを一流の飲料にするために、何事も日本一を目指して斬新で積極的なマーケティングを行った。

    先ずカルピスという商品名決定に際しては、三つのネーミング案の中から語感の最も良いものを、当時、日本の音楽界の重鎮である山田耕筰氏に選んでもらった。 (2020年のNHKの連続テレビ小説「エール」の中で故志村けんが山田氏を演じていた)

    宣伝ポスターは洋画家の東郷青児、漫画家の岡本一平(岡本太郎の父)ら一流人に依頼。

    第一次大戦後の特にドイツを中心とした欧州の芸術家たちの経済的救済目的で、ポスター図案を懸賞金付きで国際公募した。その時の第3位を獲得したのがオットー・デュンケルス・ビューラー作の”カルピスを飲む黒人”の図案であり、これがマークとして以後70年近く使われた。※
    そして日本最初のアンテナショップの性格をもった喫茶店「カピー」を1933(昭和8)年に新宿、翌年に井の頭公園内に開店して、新規開発した飲料をここでテスト販売もして民の趣向も探っていた。

    このようにカルピスは国民的人気の飲料でありながら、一流感も伴うという性格をもっていたことに加えて、常温でも保存がきくという利点もあったために贈答用に多く使われた。・・そこで前出の大企業の副社長宅には大量の贈答品のカルピスもあったであろうことは想像に難くない。

    ※”カルピスを飲む黒人(黒い人物)”マークは黒人差別を表すものか?
    calpis-oldmark2

    長年親しまれてきた”帽子をかぶった黒人がカルピスを飲んでいるマーク”は、日本の某団体が「黒人差別」の図柄であると主張したので、1990(平成2)年1月をもって使用が中止されてしまった。
    しかし、このマークの図は”差別を表しているとは言えない”であろう。
    むしろ”楽しそうに、おいしそうにカルピスを飲んでいるなら、それは誰が飲んでもよいものであり、それを黒人はダメと言うなら、それこそ差別である”・・この図案の原作者は差別意識など無く、単に白いカルピスを際立たせるため、および画面上での白黒の強弱のバランスをとるために単に黒色を人物と服に配色したにすぎないものと考えられる。(実際に使用のマークは濃紺色が多かった)

    ◎カルピスの姉妹品「567」(ゴロナ)
    「567」(ゴロナ)と称する飲み物の主原料ガラナは”つる性“植物で褐色の実は直径1センチほどの球状であり、その種を利用する。これはアマゾン川の一部の流域にだけで採取される貴重なもの。
    この種には”人間の体と健康のためになる効能としては挙げればきりがないほど※”多様な成分が大量に含まれるので、むしろ多量に摂取すると副作用を起こすほどで、例えばカフェインはコーヒーの数倍含有。
    そこで、三島氏がその効用に着目して、ガラナエキスに柑橘果汁を加えた日本初のガラナ飲料を1932(昭和7)年に開発して、翌年から前述の新宿と井の頭公園内のアンテナショップで”滋養強壮”の効能をうたって、品名を「567」(ゴロナ)として供した。このネーミング「ガラナ」と語呂合わせしたことは勿論、56(語呂)あわせともなっている!

    ところが(ガラナ入りの飲み物を飲まれた経験がある方はご理解できると思いますが、ちょっとクセがあるので)人気が出なかったからであろう、本格的製造販売はされなかった。

    しかし1962(昭和37)年に復活させて再販売。その背景として、この頃にはコーラが普及していたので、たぶん、似たような風味のガラナも支持されるのではないかという読みがあったのではないだろうか?

    「567」(ヤフオクのtynnJ551さんの出品写真から引用)
    calpis567


    私は丁度この頃に、実家がお中元で戴いたカルピスとオレンジカルピスなど詰め合わせセットの中に「567」が1本入っていたので、「何、コレ?」と思いながらそれを飲んでみて、奇妙な味ながら嫌いではないなと感じた経験がありますが、それはこの一回きりでした。それもその筈で、やはり「567」は充分な支持を得られなかったのでしょう。すぐに市場から消えてしまいました。

    しかし、ガラナ自体は効能の優秀さで需要は廃れることは無く、現在は各種エナジードリンクなどに多用されている。

    ※ガラナの効能に興味ある方は→https://alloeh.jp/articles/459 

    ◎”飛話”:「船場吉兆」釈明会見にちなみ、話は飛んで・・
    「船場吉兆」の不祥事が最初に発覚した2か月も後になってやっと、女将とその長男が出席して釈明会見が行われたが、その際に”言葉がつまってばかりいる長男”に対して女将が横から”言葉の指示”を小声で出していたのだが、それをすっかりマイクが拾っていたから大変 !これがテレビで全国に流れてしまった。

    それ以後、この女将は「ささやき女将」と呼ばれるようになった。会見後に息子は女将に向かって「あんなこと(横から)言わんでもよかったのに」・・と言ったそうで・・

    それはまさに「ささやかないで」・・「Whisper not」(ウィスパーノット)であり、これから連想されるのはモダンジャズの名曲「Whisper Not」(ベニー・ゴルソン作曲、後に別人が歌詞を加えた)
    https://www.youtube.com/watch?v=fEG09imI4-I
      (作曲者本人のサックス他ミルト・ジャクソン、アート・ファーマーらとの共演版)
    そのヴォーカル版をエラ・フィッツジェラルドが歌うと・・
    https://www.youtube.com/watch?v=Mn2QWcP1pWU

    ついでに同様な”~not”のカタチの「forget me not」(フォゲットミーノット=忘れな草)も忘れられない? !
    日本の歌にも「勿忘草(わすれなぐさ)」や「忘れな草をあなたに」などがありますが・・
    ドイツ、イタリア、スイスが共同で1959年に製作の映画「忘れな草」の主題歌「Non Ti Scorder Di Me」名曲 !
    https://www.youtube.com/watch?v=-lJ0oG03eOQ  (パヴァロッティ版)
    ・・・・・・・・・・・・

    「TOKYO 2020」において、ロシアは以前に起こした“組織的ドーピング問題で2022年12月までは国際的大会には国としての参加は認めらない”ために、「ROC=RUSSIAN OLYMPIC COMMITTEE=ロシア・オリンピック委員会」と名乗りながら個人資格で参加というアイマイな形になっている。本来ならロシアは「RUS」という表記なのだが・・。さて今回の「ROC」という表記、かつては現在の台湾のことだった。

    今大会のROCのマーク
    roc-mark

    ◎ROC=REPUBLIC OF CHINAだった!
    現在の台湾が中華民国と称していた時期には、それを英語表記すればREPUBLIC OF CHINA。つまり頭文字をとればROC。オリンピックでは、1972年ミュンヘン大会(ゲリラによるイスラエル選手団犠牲事件あった)や1976年モントリオール大会(コマネチ活躍)において「ROC」表記が使われたのが最後。

    今回のTOKYO 2020では台湾は「CHINESE TAIPEI」としてIOCコード(オリンピック用の略称)を「TPE」とされた。他方、中国のIOCコードは「CHN」。
    今大会でのCHINESE TAIPEIのマーク
    Chinese_Taipei
    ところで、ROCは台湾製品に「MADE IN ROC」として使われている。私自身はこの表記がされた製品をいくつか実際に見ているが、果たしてこの表記が今でも続行しているのかは知らない。現在は「MADE IN TAIWAN」表記のほうが多いように見受けられるが・・。

    一方、中国の正式名称は「中華人民共和国」なので英語表記は「PEOPLE‘S REPUBLIC OF CHINA」なので略称は「PRC」。ゆえに中国製品には「MADE IN PRC」が使われるが、現状は「MADE IN CHINA」表記のほうが多いのではないか。

    ◎IOCコードは一般的略称や単語とダブリも多い!
    国。地域名、IOCコード、他の意味・・の順に並べると・・

    アンドラ=AND=~と、そして
    アンティグア・バブーダ=ANT=蟻、ANTENNA(アンテナ)の略
    アルメニア=ARM=
    バルバドス=BAR=棒、飲み屋 など
    ベリーズ=BIZ=BUSINESSの略称。クールビズなどに
    デンマーク=DEN=隠れ屋、私室
    スペイン=ESP=超能力の一種
    フィンランド=FIN=魚のヒレ、飛行機の垂直尾翼、フランス語で英語のENDと同義
    ギニア=GUI=グラフィック・ユーザー・インターフェース(機器などの使い勝手をよくするための視覚的処理など)の略
    グアム=GUM=ゴム、チューインガム
    ガイアナ=GUY=男、ヤツ
    ジャマイカ=JAM=ジャム、押しあい
    ラトビア=LAT=LATITUDE(緯度)の略称
    ルクセンブルク=LUX=ヘアケアやボディケア製品の英国ブランド
    マダガスカル=MAD=気が狂った
    モナコ=MON=MONDAYの略
    ソロモン諸島=SOL=太陽(神)など
    スリランカ=SRI=SOCIALLY RESPOSIBLE INVESTMENT(社会的責任投資)の略
    バヌアツ=VAN=日本にアメリカントラッドスタイルを流行させたアパレルブランド

    ついでながらIOCコードではないが中国の略称「PRC」は鉄道運行システムにおいての「自動進路制御装置」の略称と同じで、これは「列車集中制御装置」である「CTC」とコンビで機能する。

    ◎飛話・・プール飛込みで絶対してはいけない行為 ?!
    五輪に限らず競泳のスタートでは(背泳を除けば)、両手を頭より前に伸ばした格好で飛込みますが、両手を前に出さずに頭から水に突っ込んだら、プールの底に頭をぶつけて、首の骨を折るか、脳挫傷を起こして後に思考能力低下、発語障害、意識不明、身体能力マヒなど発症の危険性があるので・・
    ”水泳時に両手を前に出さない飛込みは絶対にやってはいけません“
    ご本人は勿論、子供さん、お孫さんがおられる方、是非とも注意してあげて下さい!

    私は高校時代の体育の水泳時間の合間に、” 両手を前に出さないで頭から水に飛び込んだらどうなるか?”という疑問が浮かんだので即実行。結果はアッという間にプールの底に頭をガーンとぶつけて、一瞬「これはマズイ!このまま死ぬのか!」という思いが脳内を駆け巡った。まことに幸いにもその後の身体状況に異常は現れなかったが、元々良くなかったアタマが悪化したような気がする。

    普通の飛込み方
    tobikomi2
    映像はhttps://sposhiru.com/be36d577-0c08-4841-b3cb-aa853b1706caより引用

    両手を前に出さない飛込みではこうなる
    IMG_20210814_0001 (2)

    私がその後に考えてみたら、”頭より前に伸ばした手”は入水直後の適度な身体角度を得るための、飛行機などの昇降舵のような役目があるのだろう。もう一つ、実は普通の飛込みでも入水角度※が大きすぎると
    底に頭をぶつける危険があるそうで、つまり手を前に出していれば、入水後の身体角度が適度に確保され、かつ、間違っても頭より先に手が底に着くので頭は守られることになる。
    ※飛込みの指導要領では推奨入水角度は45度(一部には30度推奨もある)

    それにしても不思議なのは、射程距離が300~1000数百メートル(特殊な7000メートルもある)という”ライフル銃を水中で発射したら弾が2メートルにも届かない”という不思議な現象を考えると、たかが人間が頭から水に突っ込んだくらいで1.5メートル下の底に届くものかということ。
    ・・・・・・・・・・・・・
    「おもしろ画像」・・今大会で偶然に撮影された”飛込み人間T文字”
    tobikomi1 (2)
    https://the-ans.jp/tokyo-olympic/182459/2/より引用
    ・・・・・・・・・・・・・・
    ◎東京オリ・パラのエンブレムの文字が惜しい!
    以前に発信したの私のブログ
    (2019年6月26日 付け)でふれましたが、1964年の東京五輪のシンボルマークにそえられた「TOKYO 1964」という表記の中の文字どうしの配置が良くなかったのに比べれば今回の「TOKYO 2020」は大きく改善してはいる。
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    しかし、"まだよくない"・・その改善点を指摘するにあたって、ここでは便宜上"
    TOKYOのアタマの"TとOの文字間隔"を基準とした場合について述べます。

    1)
    "TとOの文字間隔からすると、他の3文字は微妙に間隔を調整する必要があり、特に"KとY"の間隔は狭めねばならない。

    2)上記1をクリアしたとして、2020の中の各数字間隔が、左の
    TOKYOの各文字間隔より明らかに狭い(いわゆる「つまっている」)から広げなければならない。

    3)上記1,2をクリアした上で、もともと
    TOKYOと2020の2語の間が狭いので離す。

    以上の調整は微妙な操作となりますが、ここで言う"間隔"とは"感覚"的でもあります。

    私があえてこの提言をするのは、この東京オリ・パラのエンブレムを考案した野老朝雄(ところ あさお)氏が私の出身高校の後輩でもあるからで、今後はレタリングにも注力をして、更なる活躍を期待するからなのです。
    ※参考までに、
    野老氏ご本人が語る"エンブレム創出"の経緯は・・
    https://www.parasapo.tokyo/topics/22117
    ・・・・・・・・・・・・・

    今回も”挿絵、口絵など、純粋絵画ではないが大切な絵”シリーズ続きの第3弾で、子供も大人も”ワクワクさせるような絵”とそれを描く”絵師”たちをとりあげます。(文中、敬称略)

    絵師たちの絵というものは、それを見る立場の人に向けて、”あるモノやシーン”、 例えば、まだ存在しないモノの姿、未来世界のシーン、物語や小説での場面、などを可視化(ビジュアライズ)、今どきの言葉で言えば”見える化”するためという役目を負って描かれる。

    今回に登場の絵は、すべてひと昔前のものなので、CGではなく絵師という人間の手描きですが、優れた知見による想像力や再現能力が発揮されていて、それは単に現在の効率的描画のツールであるCGを使っただけでは成しえないものであり、結局は絵師の一種の人間力が魅力を感じさせるのでしょう。

    《未来を「見える化」した絵師たち》

    ◎シド・ミード (1933~2019)
    米国の工業デザイナー、イラストレーター、コンセプトアーチスト。フォード社のデザイナーを経て独立し、ソニー、フィリップス、ホンダの製品デザインも手掛けたが、映画関係の仕事も多く、例えば「ブレードランナー」の背景から乗り物、小物まで、「トロン」のバイク、「∀(ターンエー)ガンダム」のメカニック外観などのデザインを担当した。

    以下画像11枚は(※印の8枚目を除き)画集書籍「SYD MEAD TECHNO-FANTASY BOOK」(講談社 発行)より
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    「∀(ターンエー)ガンダム」向け
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    「∀(ターンエー)ガンダム」向けの初期提案図(※シドミード展より)
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    映画「ブレードランナー」向け
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    私が初めてシド・ミードの絵を見たのは半世紀以上前になる1966年。友人が米国のUSスチール社から取り寄せた同社の企業広告パンフレットに、シド・ミードが描く"鋼板の利用で開く未来"を想像した絵が数枚使われていた。それは夢が現実のように感じられるリアルさで衝撃的だった。

    ◎小松崎茂(こまつざきしげる:1915=大正4年~2001=平成13年)
    戦前から活躍したが、戦後間もなくは西部劇調やSF冒険活劇などの絵物語を描いて、後にはいわゆる「空想科学」的な絵を得意として、雑誌の口絵や折り込みページ絵なども多く描いた。その他、プラモデルの箱の天面にリアルな絵を描く「箱絵(ボックスアート)」の分野でも活躍した絵師。

    (画像は「yuzuru themolice」さんのブログから引用)
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    「サンダーバード」関連のマシンや飛行体のプラモデル箱絵も多く描いた
       (Daily News AgencyのHPより引用)
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    旧日本海軍の戦闘機「震電」(試験飛行12日後に終戦)のプラモデル箱絵
      (画像は「Antique Toy Shop SHOOTING STAR」のHPより)
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    ジグソーパズル用の絵「戦艦大和」(「Aucfree」のサイトより引用)
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    サインが目立った
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    ◎ラルフ・マクォーリー※(1929~2012)
    ボーイング社でテクニカルイラストレーション(工業製品などの構造と部品配置などをわかりやすくした絵)の仕事をした後に独立して、「コンセプトアート」という”ある概念を可視化した絵”の分野で活躍。
    テクニカルイラストレーション例:ゼネラルダイナミクス社のF16戦闘機(米国、クラウンパブリッシャー社発行「Combat Aircraft」より)
    IMG_20210712_0001 (2)

    映画「スターウォーズ」ではその制作企画段階から参加して、ジョ-ジルーカス監督が考えた構想概念と登場者イメージなどをマクォーリーが可視化(見える化)してイラストを描くという重要な仕事をした。

    以下画像5枚は、書籍「スターウォーズオリジナルイラスト集」((株)バンダイ出版事業部 発行)より
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    オリジナル画のR2-D2とC-3POは映画では少し変えられた
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    ※ブログ「アディクト・レポート」さん曰く「従来、日本では「マッカリー」と表記されることが通例だが、ご本人に直接会って確認したところ、本当の読み方は(日本語のカタカナで表記するのも難しいのだが、最も近いのは)「マクワウリ」だそうで、このままでは野菜の「まくわ瓜」とダブって違和感あるので「マクォーリー」とするのが妥当であろう」・・とのこと。

    《過去や現在のシーンを緻密に「見える化」した絵師たち》
    (以下、樺島、鈴木、伊藤の作品画像は「大正・昭和少年少女雑誌の名場面画集」(学習研究社刊)より)
    img1 (2)

    ◎樺島勝一(かばしまかついち:1988=明治21~1965=昭和40年)
     独学ながら抜群の緻密さのペン画で、「船の樺島」と言われるほど軍艦や帆船を描くことが多かったが、時代的には軍事冒険小説の挿絵も手掛けた。
    小さな画像ではわかり難いが、ペン画(上)
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    ◎鈴木御水(すずきぎょすい:1898=明治31年~1982=昭和57年)
     雑誌「キング」や「少年倶楽部」の口絵や挿絵を多く手掛けた。特に飛行機の絵を得意とした。
    「上海の空中戦」(絵葉書資料館のHPより)
    wr290-鈴木御水-上海の空中戦

    「飛行艇」(郷愁倶楽部のHPより)
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    ◎山口将吉郎(やまぐちしょうきちろう:1896=明治29年~1972=昭和47年)
      東京美術学校(現、東京藝術大学)卒業後、雑誌「幼年の友」の挿絵画家として登場。正確なデッサン力で”時代モノ”特に若武者の絵を得意とした。時代考証に忠実たらんとするために等身大の鎧を作り、弓道を習得するなどした。
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    ◎伊藤彦造(いとうひこぞう:1904=明治37年~2004=平成16年:享年満100才)
    朝日新聞の一社員時に同社専属挿絵画家の指導受け、その後に日本画家の橋本関雪に学んだ。剣術家の息子であり師範免許を持っていたため、描く剣戟世界は真に迫っていた。通常の彩色画も描いたが、緻密なペン画も得意とした。
    「扇の的」
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    ペン画「阿修羅天狗」
    itouhikozou (2)

    ・・・・・・・・・・・・・
    ”挿絵、口絵など、純粋絵画ではないが大切な絵”シリーズ続きの第4弾は少し間をおいて綴ります
    ・・・・・・・・・・・・

    挿絵など、純粋絵画ではないが大切な絵の色々!(1)
    世の中には用途によって多様な種類の”絵”がありますが、美術作品として鑑賞されるような絵ではないが、”ある役目を背負って描かれる絵”という存在があり、それを描く作者たちがいます。

    ◎絵本の挿絵への疑問
    今回、そもそも“絵”をテーマにしたきっかけは、近代の子供向け絵本の挿絵の現状に少し疑問をもったからで、それは”描かれる人、動物、植物、服、モノ、家、山、川などあらゆるものが概念的で単純化されている”ことが、全ての絵本にとってそれで良いことなのか?・・というものです。

    一般的に脳力が未発達の”幼児”向けには、物語と挿絵は動物、植物、やモノなどを単純化、擬人化、概念化したカタチがとられ、例えば先日(2021.5.23)に亡くなった米国の絵本作家エリック・カール氏の「はらぺこあおむし」の挿絵などは、これに該当するでしょう。
    harapeko

    ◎具体的・写実的な挿絵の効果
    しかし一方、その対象読者となる子供の脳の情報処理力が発達してからは、絵本のストーリーと挿絵が具体的で細かい表現であっても認識されるようになって、例えば「あおむしはこんな色・形をしているんだ」 「(都会育ちの子なら)田舎はこんな風景で、山や川はこうゆう風に見られるんだな」 「昔は水を、こんな格好した井戸というものから汲んだんだ」 「武士が着ている鎧というものは何か細かい板が沢山ついているな」・・

    というような写実的付帯情報を得ながら登場人物が置かれている環境や時代背景を踏まえられるのでストーリーの印象がより強まりますが、挿絵が”概念化、単純化”したものであれば印象に残ることは少ないもの。

    私がこのようなことを言い出した背景には、私自身の体験があるからで、その原点は「講談社の絵本」シリーズで、小学校入学前後から読み始めたものですが、この本の挿絵は殆どが具体的(具象的)・写実的であり、しかも(私は最近になって知ったことですが)絵の作者は日本画、洋画の一流の人たち※だったので、丁寧に描かれた挿絵の視覚的印象は強く残っています。

    例えば「安寿と厨子王」では”昔の子どもたちの旅姿はこんな着物を着ていたんだ”とか「ロビンソン漂流記」では”無人島でも工夫してこんな家具や住家が作れて作物も自分で作れるんだ! 僕もやってみたいな”・・などと視覚情報からも刺激を受けるなどインパクトは大きく、その後の人生にまで影響された人も多いようで、グラフィックデザイナーから画家にもなった横尾忠則氏や歴史作家になった永峯清成氏もそのように述懐されている。私も少なからず影響を受けて後の自分の職業につながった部分があります。
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    ◎「講談社の絵本」シリーズ
    現在の講談社がまだ「大日本雄弁会講談社」と称していた戦前の昭和11年から昭和33年まで、途中で何度かシリーズ名を改称しながら刊行。その後も平成に至るまで二度ほど”シリーズの中から厳選約20冊をまとめて発刊”などした。こうして創刊から販売総計なんと7000万部は、その質と量で日本の子どもたちに与える影響が大きかった。

    ・「講談社の絵本」・・1936(昭和11)年~1942(昭和17)年
    ・「コドモヱバナシ」と改称して・・1942(昭和17)年~1944(昭和19)年
    ・「講談社の絵本イッポンノワラ」と改称して・・1945年10月
       (終戦2か月後)復刊するもすぐ終刊
    ・「講談社の絵本」の名で再登場して・・1946(昭和21)年~1958(昭和33)年
         (この昭和33年に社名を(株)「講談社」に変更)
    ・「講談社の絵本 ゴールド版」・・1959(昭和34)年~1965(昭和40)年まで?発刊
    ・「講談社の絵本 完全復刻版」(全24巻)同時発刊・・1970(昭和45)年
    ・「新・講談社の絵本」(全20巻) 同時発刊・・2004(平成16)年

    戦後の「講談社の絵本」の一部(ヤフオクページより引用)
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    表紙絵の例「牛若丸」(戦前版):右から書き・カタカナルビ
    usiwakamaru-old

    表紙絵の例「牛若丸」(戦後版):左から書き・ひらがなルビ
    usiwakamaru

    表紙絵の例「牛若丸」(「新・講談社の絵本」版):丸ゴチック文字
    new-usiwaka

    挿絵の例「かぐや姫」
    kaguyahime

    挿絵の例「青い鳥」(supekuri.shop-pro.jpより引用)
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    「講談社の絵本」の本文と挿絵の一流作家・画家(イラストレーター)たち
    本文を担当した作家:村岡花子、西條八十、宇野千代、川端康成、円地文子、有吉佐和子、石井桃子、平野威馬雄(平野レミの父)、他

    挿絵を担当した画家:高畠華宵、蕗谷虹児、加藤まさを、小松崎茂、沢田重隆、松本かつぢ、他。(この6人については次回に紹介)

    ◎具体的・写実的基礎を踏まえての単純化・抽象化・概念化
    画家のピカソ、マチス、熊谷守一たちは、絵の対象物を抽象化あるいは単純化した画風が有名ですが、この人たちも元は精密な石膏像デッサンなどで基礎を磨き、その後に具象的・写実的絵画を描いた時期を経過した後に”単純化・抽象化”の領域に至っている。換言すれば、彼らは”モノの姿・有様”をしっかり捉えているからこそ、そのエッセンスを抜き出して単純化や抽象化した表現ができた。

    ピカソのデッサン(新美ブログより引用)
    picaso-foot (2)

    マチスのデッサン(アトリエヒュッテのHPより引用)
    matis-dessin (2)
    熊谷守一のデッサン(ちょっと狂いがあるが・・)
      (金井 直氏の論文より引用)
    kumagai-dessin3 (2)

    ◎子供向け絵本には具体的・写実的な挿絵がもっと在って良い!
    子どもに最初から単純化・抽象化したモノばかり見せたら、モノの実際の姿、本物を知らないまま育ってしまう。それらを先に知らしめてから、必要に応じて単純化・抽象化するのが順序というものでしょう。

    別の視点から見れば、子供向け絵本などの挿絵作者は「語りの文章の内容に沿って、実にうまく単純化・象徴化した絵が描けた!」として大人の視点の満足感を得ているでしょう。しかしすべてこれが子供のためになっているか?・・ということです。
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    なお、ここでは絵本の挿絵に特定しましたが、テレビや映画のアニメ化した物語に関しては、動画なので製作コストや時間的制約など条件が絵本とは異なるので、単純化した絵が主流になるもの。
    しかし、単品モノの物語作品などでコストをかけられる場合には、(人物はともかく)背景などには写実的な絵が採用されることも多い。スタジオジブリ作品にもそれが多く、「おもひでぽろぽろ」では紅花畑が出てくるシーンのために高畑勲監督はスタッフをひきつれて山形県に行き、実際の紅花とその栽培畑を観察させて、本物を十分に知ってから作画させている。
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    長くなるので次回には、子供または大人に向けた”写実を基本にした(純粋絵画ではない)絵”を紹介。
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    蛇足:先日(2021.6.5)、「はらぺこあおむし」の作者の死去間もなくのこと、毎日新聞の風刺漫画コーナーに「エリック・カールさんを偲んで はらぺこIOC 食べまくる物語」という題で” はらぺこあおむしの恰好をしたバッハ会長やIOC役員たちが《放映権》というリンゴをむさぼり食う似顔絵”が掲載されたそう。
    これに対して、「はらぺこあおむし」の日本での出版元である偕成社は「風刺の意図はわかるが、この物語の本当の意味が分かっていない表現であり、強い違和感を感じる」というコメントを同社の公式サイトで表明したとのこと。・・この物語は”あおむしが一生懸命に食べて後に美しい蝶になる”という筋書きであるので、これとなじまないからだ。
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    前回、岩手県を流れる猿ケ石川の中流に在る「田瀬ダム(田瀬堰堤=たせえんてい)」をとりあげましたが、実はこのダム建設途中の現場を実際に使って撮影された映画があったのです。主演の三船敏郎は石原裕次郎と共同で映画「黒部の太陽」も作っていますが、その16年前の"ダム建設関連映画"出演でした。その映画とは・・

    ◎映画「激流」
    主演:三船敏郎、その他に久慈あさみ、島崎雪子、若山セツ子、多々良純
    監督:谷口千吉 脚本・編集:黒澤明 1952(昭和27)年 東宝作品
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    三船敏郎と島崎雪子

    戦時中に中断していた田瀬ダム工事が1950(昭和25)から再開されて2年経過した1952(昭和27)年7月から8月にかけて、この工事中のダムとその関係施設をロケに使って撮影された映画で、32才の三船敏郎を主役にすえた谷口監督(夫人は八千草薫)は、もともと映画「銀嶺の果て」に、当時27才の三船を起用してデヴューさせた人。

    映画のあらすじは・・『熱血ダム技術者(三船)が、戦後日本の復興期に使命感に燃えてダム現場に立ち向かい、水没地域住民の抵抗、金目当ての不逞の輩による工事妨害、死傷事故発生などに真正面からぶつかり、まさに激流にもまれながら大きな人間として成長する。その途中では、東京に残してきた恋人(島崎)との遠距離恋愛の悲哀、新たな恋人との出会いなどがからんだ人間模様も織り込まれている。』

    ロケによる映像は・・『劇映画ではあるが、全編のほとんどが実際の現場でロケーションが行われたので、コンクリート打設現場、現場事務所の活気ある雰囲気、従業員宿舎や食堂の生活風景など昭和20年代当時の空気を感じられ、記録映画的な一面がある。』・・つまりドキュメンタリー部分も多かった。(『』内は、一般財団法人 日本ダム協会のホームページの「このごろ」欄の北川征男氏の文章より引用)。

    実際の「田瀬ダム(堰堤)」は工事開始前に、水没地域住民には補償金が払われて皆は移住していたところ、前述のように、戦時中に工事中断になり、当該住民たちは元の家に戻っても良いことになり、(全ての人がそうしたかはわかりませんが)戻った人たちがいました。ところが戦後また工事再開となったので、再び移転補償費が払われて再度住民移住がありました。このようにダム建設において”二度も移転補償費が払われた”例は他にないそうです。・・このような事情で住民との交渉が大変だったことも、この映画のシナリオに反映されたのでしょうか。

    ↓映画「激流」出演俳優たちの田瀬ダム工事現場ロケでの記念撮影写真(東北地方建設局発行の小冊子「田瀬堰堤」に掲載のもの)。前列右から2番目が三船敏郎。前列中央の洋服女性が島崎雪子。
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    ↑後方のダム本体の建設中の姿からは、複雑な形でコンクリートを重ねて作っていく様子が分かります。
    (蛇足ながら、右側の立て札の「その日その日が安全日間」という文字は私の父が書いたもの)

    三船敏郎(帽子かぶったままでは顔が影になり失敗だ!)
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    ※三船敏郎の「激流」の前後の出演映画は・・
    1947(昭和22)年 : 「銀嶺の果て」(監督:谷口千吉)
    1948(昭和23)年 : 「酔いどれ天使」(監督:黒澤明)
    1950(昭和25)年 : 「羅生門」(監督:黒澤明)
    1952(昭和27)年 : 「激流」(監督:谷口千吉)
    1954(昭和29)年 : 「七人の侍」(監督:黒澤明)
          (以後多数出演)

    ※ダム建設現場を舞台にした映画について綴りたいことがもう少しあるのですが、長くなるので次回にまわすとして、ここで脇道に逸れ、話は飛んで・・

    ◎映画「もぐら横丁」
    この映画をとり上げた理由は・・主役の夫婦の夫を演じるのは佐野周二ですが、妻を演じるのが島崎雪子、そうです、前述の映画「激流」で三船敏郎の”東京の恋人”役を演じた女優が出演しているからで、しかもこの映画は面白い。「激流」公開の翌年のことです。

    出演者:佐野周二、島崎雪子、森繁久彌、宇野重吉、千秋実、天地茂 、(その他、特別出演の小説家本人:尾崎一雄、丹羽文雄、檀一雄=女優・エッセイストの檀ふみの父) / 監督:清水宏 / 1953(昭和28)年 / 新東宝

    原作は尾崎一雄(1899=明治32年~1983=昭和58年)の私小説である「もぐら横丁」、「なめくじ横丁」、「芳兵衛物語」、そして芥川賞をとった「暢気眼鏡」などであり、これらのほとんど実話の中から抽出したものが基になっている。
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    妻をおんぶする夫。このスチール写真はモノクロながら背景が青空に綿雲が浮かんでいるようで良い効果をだしています。(写真はwikipediaより引用)

    ストーリーは・・東京の淀橋区(今の新宿区)に「落合」という地域があって、そこには有名・無名(後に有名)な小説家たちが多く住んでいた。映画中でも(実際に近くに住んでいた)林芙美子にあたる人物も登場。そのような作家の一人が、うだつのあがらない男である緒方一雄(尾崎一雄)であり、若い妻の芳枝(実名は松枝)と貧乏暮らしで、質屋通いの常連という状態。住む家にも困っていた。(実話では、檀一雄が借りていた家の一階に住まわせてもらい、檀は二階に住んだ) 最初に住んでいた所から事情により引っ越した先の家の在るあたりが「もぐら横丁」と呼ばれる所だった。(確かに今でも”もぐら”が出るそうですが・・) 夫の原稿を清書して手伝い、貧乏も苦にしない明るい妻に支えられながら、そして周囲の善意の人たちにも恵まれて、遂に一雄は芥川賞を受賞。しかし賞金も借金返済などですぐに消え、しかたなく賞品の腕時計を質屋に入れて、二人で浅草に出かけて映画を観て、美味しいものを食べたその後で大混雑の人ごみの中ではぐれるが、やっと見つけて互いに呼び合う・・。

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    実際に檀一雄と同居した時期には既に子供がいた(写真は、落合道人ブログ「落合学」から引用)

    映画というものをあまり観ない私ですが、なぜかこの映画「もぐら横丁」は2回観ています。(ただしテレビ画面を通じてですが)・・それは昭和初期の時代の”物は無くても心が豊かな人間模様”に魅かれるからでしょう。
    そして、ある”映画好きの人”は自身のブログ「パラパラ映画手帳」の中で、”妻の芳枝”についてこう述べています・・「私が男だったら、こんなお嫁さんがほしかった。私が女だったら、こんなお嫁さんになりたかった。そんな映画です。」・・ジェンダー云々という時代では反発する方もありましょうが、芳枝のように自分の信念でこういう生き方をする人に他人がとやかく言うものではないでしょう。 この映画の詳しい内容も含めて興味ある方は→
    No1151『もぐら横丁』~群衆の中ではぐれ、互いに呼び合う夫と妻~ - パラパラ映画手帖 (goo.ne.jp)

    それにしても、関口宏さん、お父さんはイイ味を出していますよね!
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    実は私、この映画・小説の舞台となった淀橋区で生まれました。(まだ新宿区になる前のことでした。) また淀橋と言えば、1898(明治31)年から1965(昭和40)年の間、新宿駅の西側には約34万平米(約10万坪)を占める「淀橋浄水場」が在って、水をたたえた大きなプールのようなものが沢山並んで、実に殺風景なものでしたが、現在はその跡地に新宿副都心高層ビル群が華々しく建っています。そして「ヨドバシカメラ」の名前の由来の地でもあります。
    ・・・・・・・・・・・・
    次回は、ダム映画作りを石原裕次郎が実現できた例と、できなかった例です。
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    ◎メガソーラーの環境問題
    今年(2021年)になって、一部のマスコミに次のような内容の記事が出た。・・『岩手県を流れる猿ケ石川(さるがいしがわ)の上流にあたる山奥の山林90万平方メートルを切り開いた造成地に設置されたメガソーラーの土地から土が雨などによって、まず近くの小川に流れ出し、その先で猿ケ石川に流れ込んで水は赤茶色に濁ってしまっている。(太陽光パネル10万枚の工事開始は2018年4月。川の濁水が発見されたのは翌年4月。抗議を受けて事業者は土の流出防止工事をしたがまだ不完全状態)

    問題のメガソーラー(岩手県)
    nec-megasolar
    その濁水は周辺流域の田んぼにも流れ込み、ヤマメの養殖も一時ストップし、アユの養殖量も減った。』

    つまり、環境のためになるはずのモノが、一方で環境を壊してしまっていることになる。この件に限らず、近年は日本全国でメガソーラー設置による周辺環境への弊害が問題化している。

    それは、土の流出による河川の汚濁による生態系の破壊、水源が確保できなくなる、森林伐採による保水力の低下による地滑りの危険性発生、自然景観を損なう、流れる水が不快な色になる、などで、各地の住民の反対運動が多発している。

    『そのために「現在全国で少なくとも138の自治体がメガソーラー施設の設置を規制する条例を定めている。

    遠野市も昨年(2020年)に「1万平方メートル以上の太陽光発電事業は許可しない」という全国的にも厳しい条例を定めた。』(以上『』内の内容と写真は読売新聞オンラインからの引用。一部編集)

    ◎猿ケ石川とは
    岩手県のほぼ中央部にある遠野市。ここは柳田国男の書いた「遠野物語」で知られる地。その市内を西へ流れて隣の花巻市内で北上川に合流するのが一級河川「猿ケ石川」

    この川の流域には「カッパ伝説」が多く残っている理由として、このような説もある・・「昔、この地方の農民は極貧で凶作も多く、いわゆる「口減らし」のためにと言ってもさすがに我が子を殺すわけにもいかず、捨てるに際してもせめて水が飲める川辺に置き去りにする。その子らがやがて骨と皮だけのような体になったところを見られたのが”カッパ”とされたのではないか。カッパは河童と書くように人間の大人の大きさのカッパはいないのはこのためである。」
    JR遠野駅前のカッパ像(townphoto.netより引用)
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    余談ですが、今は亡き私の両親は(父の勤務の関係で)岩手県に住んでいたことがあり、後年に、よく「さるがえし」という言葉を口にしていたので、私はてっきりそれは「猿返し(帰し)」という”猿も寄せ付けないほどの険しい地”を表すものだと思い込んでいたのですが、つい最近になって、それは「猿ケ石」のことだと知った次第。どうやら九州出身の両親でも東北風の発音に慣れて「い」が「え」になっていたのだと思います。

    ◎田瀬ダム(田瀬堰堤=たせえんてい)
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    写真は「岩手日日新聞社」のHPより引用

    猿ケ石川が遠野市を流れ出てすぐ西隣の花巻市に入った中流にあたる所に「田瀬ダム」が在り、それによって「田瀬湖」が出来ている。
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    (google map利用)

    田瀬ダム(田瀬堰堤)は・・
    高さ81,5m/長さ320m 重力式コンクリートダム。 
    北上川水系の5大ダムの内で最大。
    このダムは国の直轄建設ダム第1号。
    着工は1941(昭和16)年、戦況悪化で1944(昭和19)年に工事中断、戦後1950(昭和25)年に工事再開、完成1954(昭和29)年10月。

    終戦間もない時期で、物資や建設機械も不足しがちの中で工事を請け負ったのは、戦前の中国大陸や朝鮮半島で特に堰堤や隧道(ずいどう=トンネル)の施工などいわゆる"土木"分野を得意としていた西松建設。

    工事再開にあたっては、中断時点で約10分の1までコンクリートを”打っていた”部分の上に覆いかぶさるように新しいコンクリートを打つ方針にしたが、約6年の工事中断期間中に”コンクリート表面が風化・劣化“していたので、新旧のコンクリートの確実な接合のためには古い表面を”はつる(はがす)”という通常ではあり得ない余計な作業が必要だった。

    ダム完成時には、国も初の直轄ダムということで、時の建設大臣の小澤佐重喜氏(現在の衆議院議員の小沢一郎氏の父)をはじめとした要人出席のもと竣工式が行われ、(気合が入っていたか)その後日には”東北地方建設局“製作の「田瀬堰堤(たせえんてい)」という41ページからなる記念小冊子が発行された。

    ↓小冊子「田瀬堰堤」(西松建設で当時は当堰堤工事従事者の労務管理責任者だった父が残したもの)
    以下は、この小冊子に使用されている写真からピックアップしたものです。
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    ↓岩盤掘削作業
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    ↓骨材(セメントに混ぜる砕石)貯蔵地
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    ↓堰体カットオフボーリング作業
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    ↓旧堰体コンクリート表面の”はつり”作業(機械不足のため、この作業には増援要員として宮城刑務所の囚人40名が参加した)
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    ↓堰体コンクリート打設作業
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    ↓堰体コンクリート打設作業
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    ↓竣工直後の田瀬堰堤(下流側)
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    ↓竣工直後の”湛水(たんすい=貯水)”を待つ田瀬堰堤(上流側)
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     ↑こちら側が現在は水没して見られない風景。私の父によれば「ダム工事再開の翌年の昭和26年にダムより少し上流部分で、父に連れられた私を含めた兄弟3人で水遊びをした」そうですが、私は記憶にないものの、何やら感慨深いものがあります。

    ↓東北地方建設局長:左=池田徳治 右=伊藤 信
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    ↓西松建設社長:西松三好
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    ↓工事関係責任者たち(一部)
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    田瀬ダム建設再開の翌年か翌々年に、4、5才だった私は父に連れられて工事現場をちょっとだけ見せられたという貴重な経験をしました。そこでは多くの人が働いていて、張られたケーブルに吊られた大きなバケット(金属製の容器?)が右上の方に昇っていく様子が目に焼き付いていますが、子供ながらにも、その活気にワクワクしたことを覚えています。それはまさに戦後復興期のワンシーンだったと思います。
    ・・・・・・・・・・・・・
    次回は、この田瀬ダムと関係する大物俳優についてです
    ・・・・・・・・・・・・・

    ◎カッコ良さ最高のドライバーを見た!
    それは1976(昭和51)年のこと。私の運転するクルマは東名高速道路を東京から西に向かって神奈川県内か静岡県に入ったあたりか?を走行していた。

    ふと気が付くと、いつの間にか私の右側の追い越し車線に現れて抜き去ろうとするクルマがいた。

    横を通り過ぎようとするそのクルマには、高齢の男性ドライバー1人だけが乗っていて、ハンティングキャップ(日本で言う「鳥撃ち帽」)をかぶっていたのははっきり覚えているのだが、服装がどうだったか詳細は思い出せない。ただトータルのファッションセンスが良いのは一見して分かった。その上、ハンドルを握っている姿勢が良く、つまり姿全体の雰囲気がとにかくカッコいい!・・と感動したものの、それは一瞬のことで、その人はチラッとこちらを見てスーッと走り去った。

    これは今から40数年前のことだが、このシーンははっきり目に焼き付いている。その理由は、ハンドル握って55年になる私の経験の中で、後にも先にも”これ以上にかっこいいドライバーを見たことがない”からだ。

    それは、乗っていたクルマがオープンカーだった影響もある。クルマ自体がかっこいい上に、屋根や窓ガラスが無いので車内が明るい上に、外からの視線を遮るものが無いので、そのドライバーの身なりと仕草がハッキリと見てとれたからでもある。

    私がクルマに詳しければ瞬時にその車種・車名が分かったのでしょうが・・、白だったかシルバーだったか?の色の外車のオープンカーを今、記憶を頼りに調べてみると、たぶんそれは「ポルシェ911タルガ」ではなかったかと思える。
    現在のポルシェ911カブリオレ(オープンカー)
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    もうひとつ大きな要素が、”運転していたのが渋い高齢者”だったことで、「えっ その歳で!」という驚きが好感とともに感動を呼んだのであり、これが若者の運転だったらそうはいかない。

    そこで、最近になって、あのかっこいいドライバーはきっと”白洲次郎”氏(以降、敬称略)だったのではないかという思いを強くしている。私が当時すでに白洲次郎をその顔も含めて知っていたら、その場で確定できていたのでしょうが、氏のことを知ったのはその20年ほど後のことになるので残念ですが・・

    ◎白洲次郎とは
    白洲次郎(1902=明治35年~1985=昭和60年:83才没)は、兵庫県の(現)芦屋市に生まれ、ケンブリッジ大学留学経験と堪能な英語力を駆使して、終戦後は吉田総理の懐刀として、GHQの一方的な指示や放漫な態度にも抗議したり、日本国憲法草案作成時には氏の意見を述べるなど、GHQの高官をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという話は有名。その他貿易庁長官、総理大臣秘書官、サンフランシスコ講和会議時の主席全権委員顧問、東北電力会長などを務めたが、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長であった時期に当時の総理大臣の田中角栄から外国要人を伴ってプレーしたいという要望があった際に”非会員である”ことを理由に拒否したのも語り草。とにかくその功績や武勇伝のようなエピソードは非常に多い。
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    しかし白洲次郎を語るには欠かせない側面があり、そのことが”私が東名高速道路で見たのは白洲次郎”とする判断理由となるもの。・・さてその側面とは・・

    ◎白洲の側面(1)ダンディを極めた!
    英国留学時に物心両面のダンディズムを体得し、帰国後もそれが活かされて、終戦後のGHQのマッカーサー司令長官や要人に対しても”敗戦国の人間として見下されるようなことを阻止する”効果※は充分にあった。(※他の要素として、流ちょうなキングズ・イングリッシュ=英国語を使ったこと、子供の頃から喧嘩に強かったこと、身長が180センチとも185センチともされて体格でも対等だったことがあげられる)
    外国要人と会話する吉田首相と白洲(右から2人目)
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    当然、服の着こなし方にもうるさかったが、カジュアルな服装においても、日本で最初にジーンズパンツ(リーバイス501)を履いた男とされる。白洲の大切にした言葉「プリンシプル」(信条、原則、道義)を守る意思が顔や態度に現れていたために、いかなる服装でも身なりが締まって見えた。

    ネクタイの生地にもこだわりが・・
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    ジーンズにTシャツ姿(48才)
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    そのダンディさから三宅一生のファッションモデルにもなった。
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    最晩年の白洲と夫人(正子)(画像はBS-TBSテレビより)
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    ◎白洲の側面(2)中学時代~晩年~死後まで?クルマ漬け!
    ・中学(旧制)時代には、米国の高級車「ペイジ・グレンブルック」を (白洲商会を経営して綿花貿易で財を成した父親から) 与えられた。(最右が白洲少年)(画像はBS-TBSテレビより)
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    ・英国ケンブリッジ大学に留学時代には「1924年式ブガッティ・タイプ35」と「1924年式ベントレー3Lスピードモデル」との2台を乗り回して欧州ドライブしたり、サーキットでも走らせた。
    ブガッティを運転する白洲(左)
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    ↓白洲が実際に乗っていたベントレー
     (現在、茨城県加須市にあるWAKUI MUSEUM※に動態保存展示している。右に立つのは涌井館長) (画像はNHK ETVより引用)
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    ・帰国後に正子と結婚した際には、父親から贈られた「ランチャ・ラムダ」で新婚旅行をした。
    ・東北電力会長時代には、ダム工事現場回り用に輸入した「ランドローバー・ディフェンダー」を自ら運転した。
    ・その他、公用には「メルセデスベンツS」を利用したがこれは運転手付きで乗ることが多かった。

    ・ホンダの「シビック」がCVCCという、当時としては画期的な低公害エンジンを載せて発売されるや、購入して一時期は公用に使ったが、その際には運転手の横の助手席に座ることが多かった。
    CivicRS
    ・プライベートで80才過ぎまで最も愛用したのが「1968年式ポルシェ911S。(排気量アップしたエンジンに積み替えていた。)↓
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    ・トヨタが1981年に、当時の同社の最高技術を注ぎ込んで開発し発売した「ソアラ」を購入。
    初代ソアラ(画像は「ベストカーweb」より引用)
    soala
    ・白洲は”ソアラはまだ改良の余地あり”との思いを強くして、当時のトヨタ社長にも提言して、”参考になればと考えて?”自分の愛車ポルシェ911Sをトヨタ社に寄贈してしまった。

    ・トヨタは白洲の熱意に応えるために、初代ソアラからの開発主査である岡田稔弘(としひろ)と白洲を直接コンタクトさせた。以後白洲から改良提案事項記載の手紙などを岡田に送ったりして、次のソアラが出たら購入すると宣言。

    ・白洲提案も取り入れた2代目ソアラの発売3か月前に、惜しくも白洲が他界。しかし正子夫人はすぐにそのソアラを(運転免許を持っていないのに)購入して遺志を継いだ。

    ・ほどなく、当時の豊田章一郎社長、息子で現社長の章男、正子夫人の三人は2代目ソアラに同乗して、白洲次郎の墓(兵庫県三田市)に報告のお参りをしたのであった。

    ◎やはり、あれは白洲次郎だったか?!
    前述のように、私が体験した1976(昭和51)年なら白洲は74才。運転者はダンディこの上ない。そして”屋根の無いクルマ”に乗るなど、いかにもクルマ好き。・・しかしただ一つ引っかかるのが”白洲がオープンカー(カブリオレ)を運転したことがあるという記述や写真が見られないこと”なのだが、クルマ好きで”飛ばし屋”ならその運転の可能性はありうること。

    白洲次郎は、80才を過ぎたある日、家人に「東名高速で若いヤツが競(せ)りかけてきたから、ぶっちぎってやったら、びっくりして諦めていたよ!」と満足げに言ったとのことなので、70才代ならなおさら飛ばすことが多かっただろうから、私のクルマが追い抜かれたことも考えられる。

    やはりあれは白洲次郎に違いないと思う私なのですが、もし違っていたとしても、あのかっこいいシニアドライバーの姿は見習いたい。
    ・・・・・・・・・・・・・
    ※WAKUI MUSEUM (ワクイミュージアム)・・https://www.wakuimuseum.com/
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    追記:光あるところには影がつきものなように、白洲次郎にも"手放しで礼賛できるものではない部分がある"とされているようです。
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    昨年末(2020年12月29日)に世界的な服飾デザイナーのピエール・カルダン(文中敬称略)が98才で亡くなった。(以下の画像7枚はNHK-BS1テレビより引用)
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    ピエール・カルダン(↑晩年)(↓38才頃)
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    ↓カルダン作品
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    カルダンは高い創造力をベースにして、まず服飾デザインでは、斬新さに加えて従来に無い”素材”例えばビニールなどを採用したり、オートクチュール(高級注文服)に加えてプレタポルテ(高級既製服)にも進出したりした。

    またヨーロッパの服飾デザイナーが東洋人のモデルを採用する初動の一端を担い、1959年にルイ・フェローが日本人のモデル松田和子を起用したのに次いで、カルダンも翌1960年に松本弘子を起用した。(イブ・サンローランも同年に松田和子を起用) カルダンはその後も初のアフリカ系モデルも採用。こうして氏は「ファッションの革命児」と称された。

    さらに氏のセンスを服飾の世界以外の広い分野に活かしてデザインした。例えば食器、調理器具、家具、タオル、タオルケット、足拭きマット、壁紙、車椅子のシート、自動車の外装、などに及んだ。

    それらは800件に及ぶライセンスで生産販売された。

    さて、その”ピエールカルダン・デザイン”の製品の中で、私が忘れられない電気製品がある。それが・・

    ◎ポケッタブルラジオ(三菱電機製:7X-800)
    1963(昭和38)年に発売されたトランジスタ7石のAM(中波)ラジオで、寸法は86X86X35ミリ、重さ約200グラム。単3電池2本使用。
    本体色は、レッド、オレンジ、ブルー、ライトグリーン、ライトブラウン。

    最大の特長は全体が丸みを帯び、角もアールがついて、手に持ってはよく馴染み、服のポケットに入れても布地を傷めない形状デザインであり、この時代の同様の大きさのラジオが全て”四角い角張った箱”という形状であった中で、ズバ抜けて斬新で素晴らしいモノであった。

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    p.c-radio5 (2)
    上記5枚の画像はヤフオク出品物写真より引用

    ↓形状がより理解できる動画

    デザインの専門家によれば、このラジオの形状には”アールどうしのつなぎ方”に難ありの部分があることと、”ボリュームやチューニングのツマミ周り”の処理に改善の余地があるそうだが、とにかく大きな視点で見れば、やはり優れモノ。

    このラジオの出現に関連して思い出されるのが、1957(昭和32)年から以後数年間にわたって当時の日本専売公社(現、JT)が展開したCMで「たばこは動くアクセサリー」というコピーを使い、当時の有名女優の司葉子、池内淳子、久我美子、香川京子、団令子、白川由美らをそれぞれ登場させた多数のポスターとテレビコマーシャル。
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    画像は「十和堂」のHPより引用

    カルダンデザインは、言わば"ラジオを「音の出るアクセサリー」にした"とも言えよう。

    カルダンの他にも"服飾デザイナーで家電デザインに関わった"2例を以下に綴ります。

    ◎アンドレ・クレージュがデザインした家電品
    カルダンと同じくフランスで活躍した服飾デザイナーのアンドレ・クレージュ(1923~2016)も服飾以外の分野にもデザインを提供した。クルマのホイールのパターンやバイクの外装などもあるが、日立家電販売(現 日立グローバルライフソリューションズ(株))が同社の複数の家電製品にクレージュデザインを採用したことがある。

    ↓日立ヘアドライヤー(HD-1234AC)
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    ↓日立ポータブルカセットプレーヤー(CP-S3C)
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    ↓アンドレ・クレージュのロゴ(最下部が最新変更版)
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    a.c-mark2 (2)
    a.c-mark (4)

    ◎森英恵デザイン採用の家電品
    ファションデザイナーの森英恵も服飾以外にも食器、タオル製品、寝具などに関与していて、家電製品には・・
    松下電器(現、パナソニック)が1977(昭和52)年に森英恵の代表的モチーフである”蝶”をあしらった洗濯機を製造販売したことがある。本体色は白、赤、青。

    当時、日本の多くの家電メーカーは、カラフルな本体色や”蝶よ花よ?”と模様を入れた製品が流行していたもの。
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    写真は「リサイクルショップ『やしの実』」のHPより引用

    荒川金属工業(株)は、電気式スロークッカーの「マルビシ スローポットミニ ハナエモリ」(EP-550)を製造販売。これも本体表面に森英恵の”蝶”とロゴを配したデザイン。
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    余録 : カルダン、クレージュが家電製品以外に関与した例

    カルダン・・車椅子「iR-PC」のシート類(日進医療器(株))↓
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    カルダンがいかに大量のライセンスを与えたかを表すように、我家にも存在するカルダンもの2点(すべて自家購入ではなく貰い物)

    1)カルダンクッキングパン (カルダンらしい丸型取っ手)↓
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    2)カルダン マット↓
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    クレージュ・・「クレージュ タクト」 HONDAから1985年に発売されたバイク
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    飛話・・カルダンデザインのポケッタブルラジオが発売された
    1963(昭和38)年と言えば、発売元である三菱電機のデザイン部署には、あの女優「鶴田真由」の父上である「鶴田剛司(たけし)」氏(東京藝術大学卒)が勤務していて、その前年の(毎日新聞社主催)「1962年度毎日工業デザイン賞」には氏を中心とする6名から成るチームが応募した「三菱超小型テレビジョン受像機」のデザインが特選1席を獲得している。

    その後1964(昭和39)年には米国イリノイ工科大学に留学し、帰国後に結婚して1970(昭和45)年に"真由"が誕生。氏はその後三菱電機のデザイン部門のトップの地位に昇りつめられた。

    私は氏がトップにおられた時期の1992(平成4)年3月に東京の湯島で一度お会いして会話をしたことがありますが、氏は"全く偉ぶるようなことをされない方で実に紳士的に"対応してくださったことが強く印象に残っています。端正なお顔でダンディ、まさに「この親にして、この子"真由"あり!」・・確かに納得します。
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    「鶴田真由」写真はhttps://anoima.infoより引用
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    近年の国会などでの陳述、質疑応答などは殆どが原稿ありきで、しかも自身で作成せずに官僚が作成したものと思われるものを棒読みするような場面も多く、ましてや演説と言えるようなものは無いようだ。それを見るにつけ、聴くにつけ、私は“かつて名演説家と言われたある人の名”が頭に浮かぶのです!・・その人とは・・(以下敬称略)

    ◎斎藤隆夫(さいとうたかお)
    政治家であり弁護士でもあった斎藤隆夫(1870=明治3年~1949=昭和24年)は名演説家として有名。その理由は、演説の内容が“当時の軍部や国会の流れに対する批判”が多かったこと、つまり時代の雰囲気の中で“言いにくいことを敢然として発言した”ことと、氏は“長時間の演説でもことごとく原稿無しで行った”ことによる。
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    その
    斎藤の「三大演説」と言われるのが・・

    「普通選挙法賛成演説」(1925=大正14年、同法案成立前に演説)

    「粛軍演説」(1936=昭和11年、軍に対して革正を求め、軍による議会軽視への批判、1時間25分)

    「反軍演説」(1940=昭和15年、支那事変の処理への質問演説、2時間)

    「粛軍演説」の肉声一部(イントネーションなど口調は時代を感じるが)
    https://www.youtube.com/watch?v=oD1470HX95E

    斎藤は終生、議会政治重視、立憲主義、自由主義を貫いたので、戦前は“軍部の政治介入”と“軍部に同調する政治”に対する強烈な批判演説が多かった。但し「粛軍」「反軍」と言われる内容の演説を行ったものの、斎藤は、世界の歴史をトータルでみると、 “力と戦争の行使”の期間が大部分を占めており、平和の期間は僅かであることが事実という見地から反戦主義者ではなかった。

    ゆえに、軍部への批判の根幹は“国内外の政治に関しては素人の軍部は口を出すな、それより世界(特に中国)情勢と戦局をもっと直視して行動すべし”という思いにあり、必ずしも戦争をするなとは言っておらず、このスタンスが斎藤への総合評価の分かれ所ではある。

    とは言え「粛軍演説」「反軍演説」は軍部への懐疑、批判であることにはかわりがないので、軍部からの監視、脅迫もあり、また「反軍演説」後に親軍部的な諸党派が中心となって斎藤の衆議院議員除名案が圧倒的多数で可決され、一時国会を去るが、1942=昭和17年の総選挙では、軍部からの妨害があったり、選挙に圧倒的有利な“翼賛政治体制協議会※推薦”ではない“非推薦”で立候補するも兵庫5区でトップ当選して衆議院議員に返り咲いた。(※翼賛政治体制協議会=軍部の方針を追認する党派と議員の集団)

    戦後は第1次吉田内閣、片山内閣の国務大臣などを歴任、最後は1948=昭和23年に「民主自由党」(「自由民主党」ではない!)創立に参加し、翌年に79才で死去。

    斎藤隆夫は兵庫県豊岡市出石(いずし)に生まれ、東京の「東京専門学校(後の早稲田大学)」を主席で卒業、エール大学に留学した後に弁護士試験(現在の司法試験)に合格して衆議院議員になっている。

    ◎斎藤隆夫記念館「静思堂」
    出石が生んだ政治家・斎藤隆夫の功績を伝えるために、同町内に1983(昭和58)年に竣工。
    設計は著名な建築家:宮脇檀(みやわき・まゆみ1936~1998)。氏は出石の町全体を気に入っていた上に、元々氏は“街並み景観や都市計画の観点からの建築設計”に注力していたので、その後も同町の美術館、町役場、中学校など“町全体の調和を意識した一連の建築”の設計も手掛けた。

    2018年7月にこの記念館を訪れた自民党の石破茂氏は、見学後に「世論に迎合したい、自分の身が大事との思いにとらわれそうになる時、斎藤氏を思い出すと、これじゃいかんと思う。一歩でも近づきたい」と(記者団に)語ったそうである。

    ↓「静思堂」入り口(正面に斎藤の胸像あり)(蒲島古都多氏撮影写真を引用)
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    ↓「静思堂」外観
    写真はブログhttps://shinmemo04.exblog.jp/26147531/さんから引用
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    ◎なぜ、私が斎藤隆夫の名を覚えたのか
    それは今から40年ほど前、当時私が住んでいた兵庫県に東京の両親が来た際に、県内を私が案内して巡った場所の一つが県北部の豊岡市出石であり、そこのある場所に“郷土が生んだ雄弁家「斎藤隆夫」”というような文言を記した看板が立っていた。(残念ながら当時は斎藤隆夫記念館がまだ建っていなかった。)それを見た父が、「確かにこの人の演説は有名だったものだ。そうか、ここの出身だったのか」と感慨深げに言ったので、それ以来私の脳裏から離れなかったもの。

    なぜ私の父さえもが斎藤を知っていたかというと、当時の国会での氏の長時間演説は大新聞が一面トップに全発言を掲載することもあったとのことで、自ずと大衆にも名前が浸透していたからだ。

    ・・・・・・・・・・・・・
    次に、斎藤隆夫の演説も参考にしながら、“発言とはこうありたい”と思えることについて綴ろうと考えましたが、長くなるので次回にまわし、以下は氏を生んだ出石についての紹介です。
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    ◎斎藤隆夫を生んだ兵庫県豊岡市出石とは・・
    「但馬の小京都」と称される、出石城の城下町。つい先日(2020年12月12日)にNHKテレビの「ブラタモリ」に登場した「玄武洞」は、この出石から北に約13キロの地に在り、そのまた約4キロ先には志賀直哉の小説で有名な「城崎温泉」などが同じ豊岡市内に存在し、同市の最北部は日本海に面する。また同市はコウノトリ繁殖取り組みでも有名。

    ◎出石出身の斎藤以外の有名人は・

    沢庵和尚・・漬物のたくわんの創始者とも深い愛好家だったとも言われる和尚は出石で生まれて、京都の大徳寺を経て江戸の寺の住職で終わるが、郷里の出石城主代々の菩提寺であった出石の「宗鏡寺(すきょうじ)」 が荒廃していたので、生前に乞われてこの寺を再興した。ゆえに「沢庵寺」とも称される。

    加藤弘之・・東京大学初代総長も出石出身。

    ◎その他の出石名所、名産、名物
    ↓出石の代表的風景(中央は「辰鼓楼=しんころう」:wikipediaより
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    宗鏡寺(すきょうじ=別名:沢庵寺)の庭
     沢庵和尚が作庭したもの
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    出石焼(伊万里より白いとされる磁器が作られる)
     
    (山本製陶所商品紹介より)
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    出石そば(江戸時代の国替えで信州上田の城主が新たに入城するにあたって蕎麦職人も引き連れてきたため広まった。現在の名物「皿そば」が盛られる小皿は出石焼
     (「沢庵」店の皿そばの例:写真はRumi・Kawashima氏撮影)
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    「日産フェアレディZ」が1969年に誕生してから、昨2019年に50周年を迎え、現在までに世界での販売累計180万台(北米だけで130万台)に達しているが、つい先日の9月16日に新たに「フェアレディZプロトタイプ」が発表された。
    フェアレディZプロトタイプ(日産自動車株式会社グローバルサイトより)
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    日産のグローバルデザイン担当専務執行役員であるアルフォンソ・アルバイサ氏いわく「今回のフェアレディZプロトタイプのデザインは初代とそれ以降の代の良い点を随所に意識しているが、特に初代フェアレディZへのオマージュを織り込みながら、過去から未来へと時代を超えるデザインとした。」

    その初代「日産フェアレディZ」が51年前に登場したときの姿が次の写真
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    first-z-rear

    ◎初代フェアレディZデザインの松尾良彦氏、逝去
    初代フェアレディZのデザインを語る際に必ず名前が登場するのが松尾良彦氏だった。しかし今年2020年7月11日に87才(一部ネット上で86才の誤記複数あり)で肺炎によりご逝去された。(1933.7.10―2020.7.11)
    松尾良彦氏 (2019年、Z生誕50周年記念トークショーより)
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    写真はhttps://news.mynavi.jp/article/20200719-1163468/より引用

    氏は1959年に日産自動車に入社。第一造形課・第四スタジオで1969年に発売の初代フェアレディZのデザインを生み出したチームのチーフだった。
    当時、日産のデザイン部門は国立の東京藝術大学や千葉大学工学部デザインコース出身者で占められていた中で、氏は日本大学芸術学部出身だが”子供の頃からクルマ大好きで、クルマをよく知っているデザイナー”として存在感を示していた。
    ↓当時の第一造形課・第四スタジオでの松尾氏
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    写真はhttps://news.mynavi.jp/article/20200719-1163468/より引用

    フェアレディZの世界的な大ヒットにより、会社からご褒美の欧州旅行など貰ったが、1974年に退社して”デザイン設計オフィス”を設立。以後は幅広い分野の製品デザインをする一方で、自動車デザイン評論家としても雑誌などで活躍された。(私は、テレビ出演された氏を拝見したこともある。)

    ◎松尾氏の一面を私は見た!
    今から35年くらい前に私は氏と少しだけお付き合いした期間があった。氏との初対面は、ある機関の主催でドイツ・ケルンで開催の欧州家庭用機器の見本市視察を主目的としたツアーに参加した際の同行メンバーとしてであった。この見本市会場は広大で展示機器の種類は多岐にわたり、その数が膨大なので、ここだけでの視察日程は4日間も設定されていた。その視察3日目になって、松尾氏は「私は今日これからオランダの〇〇〇に行ってヨーロッパの大型バス・トラックのショウの見学をしてきますよ」と言って別行動。このように氏のエネルギッシュな面は、その言動だけではなくお顔にも現れていたのが印象的だった。

    そして帰国後しばらくして氏から私に電話があり「実はウチで使っている掃除機は〇〇(私が勤務する会社名)製なのですが、長年使っていてモーターのカーボンブラシ※がすり減ってしまったようで最近調子が悪くなってきたのです。修理に出してその間に掃除機が使えなくても困るので部品さえ手に入れば自分で部品交換したいので機種名△△用のカーボンブラシを手配してもらえないだろうか」とおっしゃる。一般の人でそんなことをするのは聞いたことがなかったので驚くと同時に、氏がそこまで我が社製品を愛用して下さるのならと、私もこれに応じてカーボンブラシを用意して、来社された氏に手渡しした。(部品代は数百円) その際に氏は今はヨットの部品をデザイン中とおっしゃっていた。

    この一件で、松尾氏は”単に形や色を追うデザインではなく、モノの構造や機能を十分に把握して、自分でモノを作ってしまうというマインドをもって総合的にデザインをする”、言わば“ものづくりを本当に知っているデザイナー"なのであろうと、私は強い印象を受けた。

    ◎夢を追い続けた松尾良彦氏!
    晩年はデザイン事務所はたたんだが、日米各地で開催のフェアレディZのファンの集いなどに呼ばれたりして精力的に参加していた。そんな中で2014年には、米国の熱狂的フェアレディZフアンが企画した”初代フェアレディZをスポーツワゴン化するプロジェクト”が立ち上がったが、このスポーツワゴンバージョンは松尾氏自身が現役時代に構想した一つの形態だったので、当時すでに80才を超えていたが頼まれた監修役を喜んで受けたのだった。
    『このプロジェクトの監修にあたり、松尾氏はロサンゼルスの工房を度々訪れては、スケッチを描いたり、製作者へのアドバイスを行った。↓
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    実車が完成し、サンディエゴで開催されるフェアレディZ の集いでお披露目された瞬間には松尾さんの晴れやかな笑顔があった。 これは松尾氏の夢がまた一つ実現した瞬間だった。
    ↓完成した初代フェアレディZのスポーツワゴンを前に充実した笑顔の松尾氏(中央)。右は、松尾氏が描いたスケッチを元に初代フェアレディZ・スポーツワゴン プロジェクトを完遂させたロサンゼルスの「JDMカーパーツ」代表の安宅二弥氏。左は、同プロジェクトをサポートした、ダットサンフリーウェイ代表の畑中雅博氏。』
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    (『』内は写真も含めhttps://news.mynavi.jp/article/20200719-1163468/より引用、一部割愛)
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    以上の参考サイトはhttps://news.mynavi.jp/article/20200719-1163468/および
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    ※カーボンブラシ:モーターは目的・用途によって多種あるが、小型でパワーを要するモーターにはカーボンブラシと呼ばれる部品を使ったものが利用され、その用途の一つが電気掃除機用。この種のモーター使用の電気機器類は下記の表を参照下さい。
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    電気掃除機(東芝ライフスタイル(株)製)のモーター内部のカーボンブラシの写真
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    表及びモーター写真は(株)富士カーボン製造所のHPより引用
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    19年前の(米国では)本日である2001年9月11日、米国内での同時多発テロによりニューヨーク・マンハッタンのワールドトレードセンター(WTC)は崩壊したが、私の手許にこのビル完成前の屋上の写真が数枚あるので、一部を紹介しながら・・

    ◎WTCビル南棟の完成前の屋上
    このツインビルの完成は、北棟(テレビ電波送信アンテナがあった建物)は1972年で、南棟は1973年。ゼネコンと呼ばれる会社に勤務していた私の父は1972年(当時54才)、まだ南棟の屋上が出来上がったばかりで、これから屋上展望デッキを追加して設置する前の状態の現場を“日本のゼネコンということで特別扱い”の総勢14名の視察団の一員として見学した。

    縁周りに柵らしい柵も無く、高所恐怖症の父は恐々だっただろうが、突風が吹けば人間も、無造作に置いてある道具や資材も吹っ飛ぶことへの配慮が無いのは理解に苦しむ。
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    前列右から3人目が父
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    西側から見たWTCを視察団員が撮影(右が完成前の南棟)
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    ↓その後、完成したWTCの屋上(アンテナの無い左が南棟)
    (ディスカバリーチャンネルテレビより)
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    ◎設計者はミノル・ヤマサキ
    WTCビル崩壊時のニュースなどで、(米国内ではどうだったか知らないが)なぜか日本では、このビルの設計者が日系人のミノル・ヤマサキであることに言及したマスコミは少なかったように私は記憶しているが、その理由は、“あのようにもろく崩れ去るようなビルを設計した日系人”という意識が働いたからではないだろうか。

    しかし、彼の名誉のために申せば、彼の仕事は主に(勿論基本的構造強度を踏まえてはいるが)デザインであり、強度計算などは別の専門担当者が行っている。ちなみに強度計算でも、事件当該旅客機よりほんの少し小さい飛行機が衝突しても耐えられる設計になっていて、実際に事件後の日本の鹿島建設の膨大な実績データを駆使した綿密な解析では、あの飛行機の衝突でも建物は十分耐えていたことが立証されていて、ただし航空機燃料による火災で想定外の高熱発生で鉄材が耐えられなかった。

    一方でミノル・ヤマサキ氏自身の考え方に“建物は時代の要請に合わせて変わるべきで、10年先が読めないのに、何十年も先は読めず、したがって建物の寿命は20年と考えて、その際に解体しやすいことも重要”というものがあり、そこでWTCビルは“エレベータと非常階段を中心にして鉄柱47本で支えるコア部分”と“外壁を鉄柱240本の鉄材で囲んでチューブのようにした部分”と“コアから伸びる梁で支えられた床”で1棟が構成され、建物総重量37万トンをコア部分で60%、外壁部分で40%支える設計になっていた。そして結果は建築完成後28年でテロによってだが簡単に解体されたカタチとなった。
    フロア構成図(wikipediaより)
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    ◎ミノル・ヤマサキとは
    ミノル・ヤマサキ(1921~1966)は日本からの移民の子として生まれ、大学卒業後建築事務所勤務後に独立、米国建築家協会の「ファースト・オナー・アウォーズ」を4回受賞。日本でも「シェラトン都ホテル東京」などいくつか設計。日系人では初めて「TIME」誌の表紙を飾った。生涯で4回結婚(4回目は初婚相手と復婚)。
    ミノル・ヤマサキとWTCビル模型。氏は徹底的に模型作りを重視したそうだ。(写真はwww.skyscraper.comより引用)

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    ◎WTCビルのデザイン
    ミノル・ヤマサキのWTCビルのデザインテイストは「ゴシックモダン」であり、ル・コルビュジェの建築の影響も受け、イスラム建築のニュアンスも取り込んでいる。建物エントランスの幅広開口部分を除けば巾46センチの窓を挟むように “鉄材にアルミ合金板をかぶせた縦枠”が密集しながら天まで届くように見えるデザインだが、ここに至るまでには、その以前に手掛けた別の建築で“WTCビル同様の見え方を狙ったものの失敗”という経験を経ている。氏に限らず、有名建築家でも失敗はあるもので、雨漏りが多数発生する建築、雨風が吹き込みやすい建築などある。

    ↓写真はwww.skoutr.comより引用

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    ◎9・11事件画像
    南棟に突入寸前の旅客機(ナショジオチャンネルTVより)
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    南棟に突入直後(AFP=時事 写真より引用)
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    崩壊開始(AFP=時事 写真より引用)
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    残骸(Shutterstock/アフロより引用)
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    WTC跡地には新しく「One Wold Trade Center」が・・(写真はwikipediaより引用)
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    WTCビル群が在る場所は、元々は「ラジオ・ロウ」と呼ばれた“電気部品街が数ブロックを占めていた所”だそうで、WTCビル建設決定によりこのビルの施主であるニューヨーク港湾公社はラジオ・ロウの電気部品店に補償金を払って移転してもらった。ラジオ・ロウは言わば日本の秋葉原のようなものだったようだが、秋葉原の電気店街も元々は戦後に神田小川町や神田須田町あたりで電気部品などの露天商だった店が1949年のGHQによる露天撤廃令で総武本線ガード下やその付近に集中移転したのが始まり。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ◎ドイツ人も納豆のパワーに納得(納豆食う)!
    とにかく納豆の効力が絶大なワケは後にして 日本の食の歴史研究の第一人者として テレビの番組にもよく出ておられる永山久夫氏 最近ではNHKの「チコちゃんに叱られる」にも解説者として登場 その永山氏の著書である「なっとうの神秘」によると・・(以降の文中青文字部分はこの本からの引用)
    「日露戦争での日本の勝因を多方面から分析したドイツは 日本人の食生活における大豆の発酵食品その中でも特に納豆に注目して第二次大戦が始まると大量に輸入した満州産大豆(※1)を“ソーセージ風の燻製納豆”に加工したものを大いに利用して 潜水艦Uボートにも積み込んで保存のきく蛋白源として活用した」(永山氏は第二次大戦としているが この大戦開始前に満州からドイツへの大豆輸出は無くなっているので間違いの可能性がある ちなみにUボートは第一次大戦から活動している)
    第一次大戦時のドイツのUボート(wikipediaより)
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    ◎日本の納豆は「糸引き納豆」と「唐納豆」の2種
    今年(2020年)7月に ある中国系のネットニュースメディアが次のような記事を掲載した・・「納豆は中国に起源をもち、日本に伝わったのち大いに発展した。現代の日本では毎年7月10日が『納豆の日』とされるなど、納豆の文化が広く浸透し、多くの人にとって食卓に欠かせない食べ物になっている」 しかしこの記事には誤解がある 中国伝来の納豆は「唐納豆(からなっとう)」と呼ばれ 現在日本で主流となっている納豆(糸引き納豆)とは全く違う種類であるからだ

    ◎納豆(糸引き納豆)はいつ何処で生まれたか
    糸引き納豆は大豆が納豆菌によって発酵したもの この納豆は 大まかに言えば大豆とワラ(藁)があれば自然にできてしまうようなもの つまり納豆は他国から伝来などしなくても出現していたはず このため日本の納豆の歴史はほぼイコール日本での大豆栽培と稲の栽培が揃った時期が始まりと言えそうで それならば縄文時代後期の今から約3500年前と考えられる(※2)
    ワラ苞(わらづと)に包まれて作られたた納豆
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    ◎納豆(糸引き納豆)の特長
    1) 栄養豊富:蛋白質(消化吸収良い状態)/ナットウキナーゼ(血栓防止)/ビタミン(B2特に多くK2は骨にカルシウム定着させる働き/血液を固める)/イソフラボン(ポリフェノールの一種で抗酸化作用/)レシチン(脳の活性化)/ミネラル(カリウム・鉄・マグネシウム・カルシウム)/脂質(大豆油とるほど豊富)
    2) 同時に食べた他の食品の消化も助け 腸の善玉菌を助けて腸内環境もよくする
    3) 納豆菌の強烈な繁殖力で腐敗菌や病原菌を抑え食中毒など起こりにくくする・・日本酒をつくる工場では、日本酒用の麹菌が負けてしまうのを防止するために杜氏など従業員は普段から納豆を食べることが禁止されているか長期の納豆食禁止期間があるほど
    4) 基本的には作り方が簡単:“水に浸した後に煮た大豆 ”を“納豆菌が自然に潜むワラ”に触れさせて “少しの空気(密閉しないで適当な酸素)”を与えながら“40度くらいの保温状態”を保っていれば1~2日でできてしまう→現在の工場生産はこの応用の効率化

    ◎唐納豆(からなっとう)
    古代中国で生まれたこの納豆の製法は大豆を麹菌で発酵させたもので 色は黒褐色 糸引き納豆よりは硬い この納豆は中国では「豉」(豆偏に支 発音は「シ」または「チ」)と称している それを宋・元時代の中国に渡った僧が持ち帰って日本では「豉」を「くき」又は「しと」と呼んでいたが その後に「唐納豆」と呼ばれ 塩辛いので「辛納豆」とも書く
    現在は京都の「大徳寺納豆」や静岡県・浜名湖周辺の「浜なっとう」などとして残っている その食べ方としては“酒のつまみ”や“甘い菓子などの後口”“汁物の具”などになるが 昔は一種の薬(毒消し)になり 徳川家康は“戦の際には必ず「浜なっとう」を携行して水あたりを予防した”そうである
    大徳寺納豆(本家磯田 のHPより)
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    ◎中国で2100年前の「豉」が残っていた
    1972年に中国の前漢時代の馬王堆(まおうたい)遺跡から2100年前の“世界で最も保存状態が良い”女性(利蒼の夫人)の遺体が出土したが同時に豉(生姜が混ぜられた豉)も副葬品の中にあって注目された
    2100年前の女性遺体(wikipediaより)
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    ・・・・・・・・・・・・
    ※1:日露戦争終結後の1906(明治39)年に発足した南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)は半官半民の国策会社で基本はいわゆる満州国圏内での鉄道事業だったが 炭鉱 製鉄 農業 畜産 航空 ホテルなど多分野に進出して一大コンツェルンとなり 農業では大豆に着目して農業関係の研究所とその支所を多数設置して大豆の新品種や大豆の加工法の開発に実に約30年間費やした それは大豆が増産されればその鉄道運送量増加および大豆と大豆油の輸出増加につながるからで 最盛時には満州国の年間輸出額の半分を大豆関連の輸出が占めていた 終戦とともに会社は閉鎖・消滅したが鉄道そのものなどはソ連と中国の合弁会社に移管された

    ※2:以前は“日本の稲作は弥生時代から始まった”とされたが 今やそれは完全に否定されて縄文時代からとされるが 縄文と言っても紀元前1万4千年~紀元前1千年と幅広く そのどの時期にあたるのか判断は確定していない 稲や大豆が食べられるようになった痕跡を探る方法として「レプリカ・セム法」があり これは土器を作る際にその表面に穀物などが付いてしまい その形の跡「圧痕」が残っていることを利用して その凹みにシリコン樹脂を流し込み それを取り出したモノは言わば元の形が再現されたことになり それが微細なモノであれば走査型顕微鏡で観察するもので この方法によって現在 各地から出土の縄文土器が調査されて年代特定の努力がされている その結果の一つが“大豆は今から5千年前” “稲は今から約3千500年前(ただし陸稲の可能性あり)”であるという 
    ・・・・・・・・・・・・
    “納豆と戦争の歴史” “納豆珍製法”など次回にまだつづきます!
    ・・・・・・・・・・・・

    黒澤明の戦後初作品「わが青春に悔なし」
    黒澤明監督(当時36才)の戦後初作品である「わが青春に悔なし」は原節子の主演で1946(昭和21)年10月公開されたモノクロ映画
    wagaseisyun-title
    この映画製作にあたっては 戦後に日本の旧領土を除く本土部分を占領することになった米国が ポツダム宣言の全13項の第10項の中に在る「民主主義的傾向の強化 言論・宗教・思想の自由 基本的人権の尊重」の遵守を日本国民に指示していたので この映画もそれに沿った内容にする必要があり そのための米国による検閲もあった その結果この映画は”ファシズム的体制の悪しき実態とその中にあっても自我を貫いて強く生きる女性”を描いた

    ◎なぜか
    「米国戦略爆撃調査団」も来て撮影
    黒澤監督たちが京都でこの映画撮影最中の1946(昭和21)年5月16日に「米国戦略爆撃調査団」※の一行が現場にやってきて 日本側の映画撮影風景を撮影している それは映画の劇場公開5か月前のことだった
    「米国戦略爆撃調査団」とは 米国が第二次大戦における欧州での戦略爆撃の効果を検証するために設けていた組織で 日本敗戦によりその検証対象を日本関係にも広げて 広島や長崎は勿論 その他各地でも調査していた

    「わが青春に悔なし」撮影現場のカラー映像
    この映画はモノクロであるが 米国側はカラー撮影しているので カラーでの原節子(当時26才)たちが記録されたのだった 以下はその記録フィルム映画から切り取った画像です
    hara2 (2)
    ↑↓レンゲ畑の原節子(上図の原の"歯を見せての笑顔"は珍しい!)
    hara4 (2)
    レンゲ畑を駆ける原節子
    hara1 (2)
    映画冒頭シーンを米国側がやや俯瞰して撮影したもの
     原がおどけて携帯魔法瓶を頭に置くシーン
    hara3 (3)
    スタッフも真近な原節子 レフ板も左端に見える
    staff1 (2)
    撮影スタッフ
    staff2 (2)
    撮影カメラとスタッフ
    camera (2)
    日本で最初の国産カラーフィルムによる総天然色映画「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督・高峰秀子主演)が公開されたのは1951(昭和26)年だから 「わが青春に悔なし」の撮影風景とは言えその5年前の米国側撮影のカラーフィルム映像が存在することになる
    carmen
    「カルメン故郷に帰る」はカラー映像が不出来だった場合に備えて カラー撮影終了直後に再度モノクロフィルムでの撮影も行ったため 出演者は同じ演技を2回行ったことになる (カラーとモノクロを同時撮影したという話も流布しているが・・)

    ◎この映画の脚本が参考にした事件
    この映画「わが青春に悔いなし」の冒頭画面に出る説明文は「~この映画は京大事件に取材したものであるが 登場人物は凡て作者の創造である」・・としているが 現在一般的にはもう一つの事件からも影響を受けているとされる つまりこの映画の脚本内容の基となったのは戦前の「京大事件(別称:瀧川事件)」と太平洋戦争直前から戦中にかけての「ゾルゲ事件」である

    「京大事件」とは”1933(昭和8)年に京都大学法学部の瀧川教授が政府批判したため政府圧力(※2)によって罷免に追い込まれたことに端を発して法学部の他の教授たちが抵抗して多数の辞職者をだしてその影響は他の帝大や私大にも及んだ事件”(瀧川教授は終戦直後にGHQ指令により復権)  

    「ゾルゲ事件」とは”ソ連と通じたドイツ人ゾルゲや尾崎秀実らのスパイ事件“(しかしその裏には当時の近衛文麿首相が防共連盟の顧問と言う立場でありながら 深みにはまる日中戦争問題の解決のためにはむしろソ連と手を握る必要があると考えて 近衛のブレーンでもあった元朝日新聞記者の尾崎を動かしたことを検察側はつかんでいたが近衛は高い身分・地位にあったので 国政や人心の混乱回避のために逮捕はできなかった)

    (※2)京都大学に瀧川教授の罷免をするように指示したのは当時文部大臣だった鳩山一郎で 後に首相になった人物だが その孫である故鳩山邦夫も文部大臣になり その兄鳩山由紀夫も短期間だが首相になった
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    なお この映画の原節子は最後の方の場面で 珍しくも”きつい言動”と”日焼けした黒い顔で髪も乱した姿”をみせているのも印象的 !
    kuinasi-hara (2)
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    小津安二郎監督のこだわりが素晴らしい作品を産み出すので、俳優の宝田明は小津を「オズの魔法使い」と呼んでいますが、今回は「小津アングル」や前回のブログでとりあげた「水影」以外のこだわり例少し集めて私見も加えてみました 

    ◎小津のこだわり(1)小道具
    小津は撮影画面に登場させる 食器 やかん 茶箪笥 美術・骨董品 ラジオ なども画面の中の重要な一要素として意識的に扱った そのためには 日頃自宅で使用中のお気に入りのモノを撮影現場に持ち込んで使ってもいた したがって撮影期間中は小津の自宅室内はガランとしていたことも多かった 

    しかし中には”そのモノがそこに在る違和感”を感じさせる場面もある・・例えば室内に普通のテレビ受信機を置いているところを見せないのか またはもともとテレビを見ない家庭であるという設定ともとれる中で 茶箪笥?の上に小型ポータブルタイプのトランジスタテレビ(ソニー製ではない)を置いているのは不可解だが何か深い意味があるのだろうか また 居間では茶箪笥などの上に置いた据え置き型ラジオを聴くのが一般的だったのにポータブルタイプの(小津好み?のちょっと変わったデザインの)ラジオが置いてあり それを聴くシーン(彼岸花)がある そして後述する"やかん"も普通は畳の上に置かないのに置いてしまっている このように小津映画には
    "こと画面の中でのモノに関しては一般的家庭との乖離"を感じさせる部分がある

    ◎小津のこだわり(2)色使い(特に赤)
    画面の中での色彩構成にも気を使い 色彩的に単調な画面にアクセントとなる いわゆる「差し色」として「赤」を使うことが多かった 
    画面に赤いものをぽつんと置く狙いを小津はよくこう言っていた「全体の画(え)が締まる」! それは具体的には “畳の上にポンと赤いやかんが置いてあったり(彼岸花)” ”画面中央の人物の後ろに赤い消火器と赤いバケツが並べられていたり(浮草)” 決して赤が主張はしないが 観る者には意識しなくても視覚的好感を与えるようにしている  しかしやはり(朝日新聞2014年7月13日の「小津安二郎がいた時代」というコラム記事によると)"小津映画のプロデューサーだった山内静夫は振り返る。「ちょっとこの座敷に赤いやかんはおかしいなと思っても、赤いものがすきだってことが優先するんです」"という証言がある

    ◎小津のこだわり(3)水平・垂直
    画面に端正さや落ち着きを持たせるために よく使われたのが“オフィスの狭い廊下や街の狭い路地とその突き当りの組み合わせ”で これによってできる”廊下や路地の切れ目にできる垂直的な線”と”突き当りに存在する水平的な線”が「水平・垂直線による構成画面」を形成する
    水平・垂直例 ここにも差し色の赤が入っている(「秋刀魚の味」より)
    samma-floor
    そして(これは小津作品に非常に詳しい伊藤弘了氏の文章によると)水平と垂直は室内のパーティーシーンなどに注目すべき表現で現れるのだそうで・・テーブル上に置かれたグラスの中身の液体の飲料のそれぞれの水面の高さを揃え その水面も丁度カメラを同じ高さにして飲料表面が楕円形として現われないようにし かつその他の食器(下画面ではフルーツ皿)の縁の高さも揃え すべてを結ぶと一本の水平線になるように綿密に配慮されている そして背景には垂直な二本の線 それも下画面の田中絹代のように中心に人間が居ればそれを取り囲むフレーム(額縁)のような効果を生む構成にする
    小津分析の伊藤弘了氏の文章と写真(文春オンライン)→  https://bunshun.jp/articles/-/9552

    ワインやジュースの高さと皿の縁高さ揃えと額縁効果(「彼岸花」より)
    ozu-horizon (2)

    ◎小津のこだわり(4)妥協しない演技指示
    「秋刀魚の味」に出演した岩下志麻の証言としてよく知られている話が “やるせなく悲しい気持ちで呆然とする”シーンで”左手指二本に右手にもった布製巻き尺(洋装店などでよく見る)をグルグル巻いては解く動作を数回繰り返す”のだが 撮影事前テストで岩下はその行為を100回以上やり直しさせられた やっとOKが出た後で小津に言われた言葉は・・「悲しい時に人間っていうものは悲しい顔をするもんじゃないんだよ 人間の感情ってそんな単純なものじゃないんだよ」・・岩下は”ただ悲しい表情にこだわりすぎていたのだ”と気づかされたのだった
    ↓これがOK出た後のシーン
    iwasita-sima (2)
    (それにしても 小津はこの”指にヒモ状のモノを巻く行為”の演技を盛り込むことを好み 例えば「晩春」にも採用している)

    アイロンがけの動作にも小津から実に細かい指示があるので それを忠実に実行しようとするあまりに演技が不自然になり それが自然に見えるようになるまで50~60回のテストになったこともあったという
    青字部分は映画史研究家の春日太一氏の文章から引用
    アイロンがけシーン ここでも赤色あり
    iwaasita-iron
    上映像引用先

    そして小津作品に必須の俳優である笠智衆は自ら不器用と称していたが 撮影現場でベテラン俳優は2~3回のテストで本番に入るが 笠の場合はそれが20回に及ぶこともあったという
    話はチョットそれるが 日本の映画撮影における最高のカメラマンだった宮川一夫は多くの名監督とコンビを組んだが 小津とは所属する映画会社がちがっていたから 基本的にコンビはあり得なかったが ある状況のもとで一回だけ実現した それが「浮草」だった この映画では宮川の強い主張によって 従来の小津作品には無い”町を俯瞰”するシーンが冒頭から出現するなど 特異な作品となった
    宮川一夫
    miyagawa2
    上写真引用先
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    映画監督たちは当然のように皆こだわりをもっているが 小津安二郎監督のそれはよくあげられ 中でも有名なのは「小津アングル」と言われるローアングル撮影 その他にも多々あるが 今回は ある一つのこだわりをとりあげてみた

    ◎小津作品に多く採用の「水影」(みずかげ)に注目! 
    「水影」とは陽の光が水面に当たって反射して建物の軒や室内の天井あるいは壁などに”ゆらゆらとゆれる光”となって映るもの (「水影」については 私の広辞苑には”水にうつるかげ”としか載っていないが最近の他の辞書には(1)水面に映る者の姿 また 姿を映している水面 (2)水面の照り返し・・とある) 
    実例として下の写真参照下さい
    terikaesi1
    より引用

    terikaesi2
    より引用

    ◎小津監督作品10本の内7本に「水影」あり!
    小津氏がいかに「水影」を重要視したかは それが登場するシーンが非常に多いことで分かる 私は以前から小津作品に「水影」登場が多いことに気づいていたのだが 今回このブログを綴るにあたって とりあえずあらためて10本ほど急いで観た結果 「水影」シーン登場作品は・・「東京物語」 「彼岸花」 「秋日和」 「お茶漬けの味」 「早春」 「戸田家の兄妹」 「小早川家の秋」・・しかし今回は観ていない作品もあるので まだ存在すると思われる ちなみに「水影」登場無し作品は「秋刀魚の味」 「晩春」 「東京暮色」(ただし見逃しがあった可能性もあり)

    ◎「東京物語」では「水影」が4回も登場 
    この映画のスタート画面は まず石灯籠一つだけの大写しであるが よく見ると その石灯籠の笠部分の裏側(地面を向いている面)に「水影」が映っているのだ! 「水影」はこの冒頭含めて計4回も登場で これは他の小津作品の中では登場は1~2回であるのに比べると抜群に多く いかに「水影」を重要視している作品かが分かるというもの
    この代表的シーンは冒頭のものではないが 右に映っているのが その石灯籠
    tokyo-story-r.jpg (2)

    ↓母親の葬儀後に会食する場面 右側の障子と提灯に「水影」が
    t-story-teri1 (2)

    ↓同じ会食した料亭の提灯を大写しして「水影」強調
    t-story-teri2 (2)

    ◎「水影」を映す意図は?
    そもそも「水影」現象が現れる条件は 海・湖・池・川・プール・つくばい・あるいは水たまり などの水の存在と無風の晴れた日中で陽の光の入射角と反射角の条件が揃えば現れるのだが これを天候要素に限ってみれば・・「水影」は明るく穏やかな状態の現われであり これを見ると我々の心も穏やかになるもので 小津監督は映画の中での場の雰囲気や登場人物の心理状態を表す一種のメタファーとして使っているのでしょう  この見方からすれば 小津作品の中でも最も暗い内容とされる「東京暮色」には「水影」が使われなかったのもうなづけるというもの!

    小津監督が30才のときに出版された谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」はたぶん読んでいるのではないかと思われるが 陰翳を大切にした結果として「水影」の明るさが生き また相互に強調し合う効果も意図しているのだろう また"谷崎が礼賛した和紙"を使った障子や提灯に
    「水影」を映したのでもあろう

    ・・・・・・・・・・・・・
    この映画の冒頭画面で水影の映った石灯籠の"笠"を強調しているが この映画の主役の一人である笠智衆の苗字も"笠"であることは なにやら符合するような感じがする?

    今年2020年の1月18日~7月19日までニューヨークの「MUSEUM OF THE MOVING IMAGE」(映像博物館)で「エンヴィジョニング2001展」が開催されて スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」に登場したモノや資料パネルが多数展示されている 1968年の映画公開から半世紀を経た今も根強い人気があることの証だ
    space-o-2001

    ◎「airborne(エアボーン)」社のチェア「DJINN(ジン)」
    この「エンヴィジョニング2001展」での展示物の一つであるイス(イスともソファとも言えるモノ)は映画の中では宇宙ステーションの中のヒルトンホテルのロビーに多数置かれていたものだ
    djinn-chair (2)
    展示のイス
    映画の中のイス
    djinn-chair 2001.png (2)
    このイスはフランスの「airborne(エアボーン)」社(現在は消滅)製である 1969年(映画公開1年後)に日本エアボーン(株)が発行したカタログを私は所持しているが それには確かに同型のイスがのっている


    ※今回のブログの中で"ピンク系のイスの画像を多く掲載していますが その本当の色の表現としては 最初の"会場で展示されているイス"の色が最適と思われます(これも確かとは言えません それは皆様のパソコンのモニター画面やスマホ画面の色再現特性によって変わってしまうからです また以下の"私所有のカタログ写真"もカメラの特性によって ここでは"明るく派手なピンク"に写ってしまっています)
    eaborn-box (2) 
    厚ボール紙製ケースに入ったエアボーン社の豪華カタログ
    (36cm 36cm x 1cm)
    映画の中のイスと同型(カタログでの品番「DJINN 7001」)
    dijinn-blue (3)
    このイスは現在一般には「ジンチェア」と呼ばれている ところがこのエアボーン社のカタログによれば 同社はこれをイスともソファとも呼ばずに単に「DJINN LIVING(ジン リビング)」としてシリーズ化している ただし別に明らかにイスであるタイプがあり これは「DJINN DINING CHAIR(ジン ダイニング チェア)」と称している 双方には共通してジャージの布とウレタンフォームが使われている 

    このDJINNシリーズはフランス人デザイナーの
    オリヴィエ・ムルグのデザインである
    dijinn-series (2)
    「DJINN LIVING」シリーズ
    「DJINN DINING CHAIR」
    djinn-dining (2)

    ◎映画中のイスの色は「ピンク系」
    映画で使われたイスの色が”赤かピンクか”の論争が長いあいだあったらしいが 2018年にロンドン南部の個人宅で本物の当該品が発見されて”ピンクである”ことで決着 ところで私が1969年に入手したエアボーン社のカタログにはDJINNシリーズの商品には使っているジャージ生地はピンクとブルーの2種があり ピンクのほうは映画用イスにも使っているものと同じに見えることから 早くからこのカタログを多くの人が見ていたら論争も起こらなかったのではないだろうか 以上の文中では「ピンク」としているが正確には「やや赤みがかったマゼンタ(濃いピンク)」
    djinn-pink (2)
    ↑「DJINN LIVING」シリーズ「DJINN 7111」(ピンク)

    ◎万事にこだわるキューブリック監督が選んだモノたち
    原作者であるSF作家アーサーCクラークと共同で脚本を作り 構想から4年かけてこの映画を完成させた 使用した音楽は有名作曲家に作曲依頼したりもしたが 古今東西の既存曲も聴き尽くして選曲もした結果が 映画冒頭の「ツアラトゥーストラはかく語りき」(リヒャルト・シュトラウス作曲)を そして“地球と月の中間点に浮かぶ宇宙ステーション”が人口重力を作るために1分間に1回転しながら浮かぶシーンでは「美しき青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス作曲)を採用した
    kyubric-cleark (2)
    スタンリー・キューブリック(左)とアーサーCクラーク
    kubrick-in-studio
    撮影現場のスタンリー・キューブリック
    また“時空を超えるシーン(大量の光るすじが放射状に出現する)”作りだけに4か月も費やした

    ◎実在の企業名が多数登場
    映画の真実味を出す意味と製作費捻出のためもあってか?実在の企業名が多数見られた・・宇宙機の機体には「パン・アメリカン航空」(1991年に破産・消滅)の文字とマーク / 宇宙ステーション内部には「AT&T」や「ヒルトン(ホテル)」の表示があるブース・出店 / 「IBM」のマークも所どころに見られる(当初は登場するコンピュータすべてにIBMマークが付けられる予定だったが宇宙船内の”意思を持ったコンピュータHAL9000”が人間に反抗し 殺人と殺人未遂を起こす筋書きであることに気づいたIBM社は撤退したものの 撮影現場が徹底せずに一部に同社のマークが残されたまま撮影されている) その他 表面に出ない一流ブランド品も多い・・「HAMILTON」のリストウォッチ / 「アルネ・ヤコブセン」のカトラリー / 「ハーディ・エイミス」がデザインした未来志向の服など・・そして「airborne(エアボーン)」社のチェア
    panam-whole (2)
    宇宙機の機体にはPAN AMERICANの文字とマーク
    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    以上文中にはキューブリックについて非常に詳しい「キューブリック・ブログ」http://kubrick.blog.jp/archives/52345526.html
    より引用した部分があります
    ・・・・・・・・・・・・・・

    ◎新商品テストするなら・・札幌 福岡 広島か
    世に商品(モノあるいはサービス)を送り出すには テストマーケティングと称して 販売前に 一部の人やグループあるいは地域を対象に商品を試してもらって反応や評価を得ることがよくある
     
    商品の性格や種類によってテスト対象は色々だが 一例をあげるならば・・地域では
     
    北から札幌 仙台 東京 横浜 名古屋 京都 大阪 神戸 広島 福岡が対象となることが多いが
    最大都市である東京都をその対象から除外することも多く その理由は 発売前に情報が漏洩・拡散するリスクが大きいことと この地でもし悪い評価が出たらダメージの拡散も大きいことにある 

    そこで 東京から離れてはいるが“都市として大きすぎず小さすぎない”で“新しもの好き志向”などから特に札幌 福岡 広島が対象になることも多いと言われる

    日本での紙おむつの先駆けとなったパンパースについても福岡で行われたし 私自身は昔に札幌訪問時にたまたま明治製菓(現 明治)のお菓子(キャラメルの類だったか?)を「東京などでもまだ販売していません」と言われてテスト品を食べたことがある 

    現在 私の手許にはいくつかの「テスト品」「見本品」と呼ばれるものがあるのでご紹介!

    ◎白レーベルレコード 
    レコード会社が新しいレコ-ドを出す際 それを事前に音楽評論家や有力販売店に無料配布するもので「見本盤」「プロモ盤」「サンプル盤」などと称し その場合レコード本体の真ん中のレーベル(ラベル)は殆どが白地に文字印刷されているので「白レーベル(レコード)」と呼ばれる
    white-label (2)
     
    ohtukahakudou (2)
    白レーベルの例 大塚博堂の白レーベルLP↑ 
    ogawatomoko (2)
    小川知子の白レーベルLP↑ 

    しかし例外もあり レーベルが白ではない見本盤もある
     
    皆さんはこの見本盤ジャケットの女性が誰だかすぐわかりますか? 
    yamase-jacket-b (2)

    答えは「山瀬まみ」・・これは彼女のデビューアルバム「Ribbon」のジャケット写真だから1986年つまり今から34年前のお顔だ
    ジャケットおもての写真ならわかりやすいか?!
    yamase-jacket-a (2)
     
    さて私が所持しているこのアルバムの見本盤のレーベルは白ではなくカラーで彼女の全身写真が入ったものだ
    yamase-label (2)

    ちなみに これら白レーベル盤は昔は中古市場では価格が安かったが 現在はむしろ高価になっているそうだ それも妥当なことで 希少性ばかりではなく初期のレコードプレスとなるために音質も良いからだ

    ついでに・・山瀬まみに続いて歌手からバラドルに転身した井森美幸だが歌手としての売り出しキャンペーン時のキャッチフレーズは「井森美幸16歳、まだ誰のものでもありません」だったから彼女の初レコードはまさに白レーベルがピッタリだったはず!

    ◎飲料の白無地テスト缶
    新しい缶飲料発売に味や香りが微妙に異なる何種類ものテスト品が用意される その一つを私が手に入れたものがあるが これは缶全体が遠目には白っぽい(よく見るとやや青味がかってはいる)無地で
    (青文字の「TULC」は東洋製罐(株)が開発した"生産性に優れ環境にも良い製法で作られた缶"を表すもので この缶の飲料とは無関係) これに中身を表す文字がプリントされた白ラベル貼付という姿 
    ↓(下写真左) 
    can-tabacco-b (2)

    ◎“たばこ”の白無垢テスト品 (上写真右)
    今やたばこは勢いが無いものですが 昔話として・・たばこのテスト品も何種類かを作るようですが
    20年くらい前のこと 私の知人が ある筋からたばこのテスト品を手に入れたそうで その内の一箱を私も貰ったものが今まだ手許にある それは20本入りの真っ白な箱で 3桁の数字と「NOT FOR SALE」の文字が印刷されているだけで 中身のたばこ自体も真っ白で文字の印刷は無し 

    さてその知人はそのテスト用たばこを新幹線の座席で吸っていたら鉄道保安官らしき人に職務質問されるはめに・・特殊な白い箱を窓際に置いていたので目立ったわけだ

    ◎テストマーケティングでGOとなれば・・
    市場評価がわからない内は “発売前に新製品情報が漏れるのを防ぐ意味”と“商品名などを表記したモノをテストにかけて もしも悪い評価の場合はその名前のついた商品への悪い評価がついてまわる事態を避けるため”白無垢スタイルのテスト品を使うが 良い評価を得られて 商品の製造販売にGOがかかれば そこで今度は商品名がしっかり入った「試供品」を登場させて売り込むことも多い いわゆる販促策の一つだ
    sampule-beer-a (2)
    アルコール飲料の「試飲缶」
    (私の所持品はアサヒばかりなのは何故か?)
    ・・・・・・・・・・・・・

    前回のブログで 私と小・中学校で同級だった榊原栄という音楽家について綴りましたが その彼が中学時代に所属していたブラバン(ブラスバンド部=吹奏楽部)はマーチ(行進曲)演奏が主体でしたが それ以外のジャンルもたまにありました 

    ある年の吹奏楽コンクール用(課題曲だったか?)に演奏した曲が・・

    ◎フィンランディア
    この曲はフィンランドの作曲家シベリウスの作 彼がある歴史劇の伴奏曲を依頼されて1899年に作曲した組曲の中の最終曲部分を1900年に独立させて「フィンランディア作品26」と命名されたもの

    この曲が書かれた頃のフィンランドは「フィンランド大公国」とは名乗っていたものの 東側の国境で接する隣国ロシア帝国の支配下にあって 国民の多くが不満を抱えていた

    その不満を表し 爆発させるように感じるこの曲は 出だしが”怒りを押し殺したような”暗く重い表現 そして中ほどでは金管楽器による「パッパラパパ パッパラパパ・・」と攻撃的な感情表現(金管楽器によるこの表現部分があるから 吹奏楽コンクールの課題曲になることが多かったのだろうか 今回調べたら他の方も この曲が課題曲だったと述べている)

    過激でフィンランド人の愛国心を鼓舞する表現ゆえにロシアはこの曲の演奏を禁止してしまったほど

    →フィンランディア演奏
    https://www.youtube.com/watch?v=D8DxmUutTgc


    このフィンランディアができた1900(明治33)年からまもなく 遠く離れた東洋で日露戦争が起こったのだ(1904年開戦~1905(明治38)年終戦)

    ◎東郷元帥肖像がラベルのビール確かにあるが・・
    従来 巷では「フィンランドは圧政をしいていたロシアを日露戦争で破った日本に対して親日的であり その戦争の中でも有名な
    "日本海海戦"で連合艦隊を率いてロシアのバルチック艦隊を壊滅させた東郷元帥を称えて『東郷ビール』をつくった」というような話が流布されていて 

    私も最近までそう信じていたので 20年ほど前に『東郷ビール』を あるデパートで見つけて数本購入 内1本(空ビン)を今でも保存している

    togo-beer (2)
    これが私の保存している東郷提督ラベルビール瓶


    しかし このブログを綴るにあたって 調べたところ その巷の話は間違いだったことが判明した

    真相は・・このビールの名前は「AMIRAALI=提督」であり 世界中の歴史上有名な提督を24人選んで その各人別のラベルをつけたビールが作られた その内の一つが東郷平八郎元帥の肖像画入りラベルのビールというわけだ

    フィンランドのピューニッキ社が1970年にこの提督ビールシリーズを製造開始して 東郷ラベルのものは翌1971年からの製造 その後この提督ビールシリーズの製造は別のいくつかの会社に受け継がれて 途中に製造停止期間もあったりしたものの 現在も続いているそうだ

    おもしろいことに製造停止期間中に 日本の「日本ビール株式会社」がオランダ産のビールに東郷元帥の肖像画入りラベルを貼ったものを輸入販売していた 実は私の手許に残しているモノがこのオランダ産である 現在は日本産もあるそうだ
     
    ◎フィンランドはバランスとる国なので「親〇〇国」にはならない!
    日露戦争で(フィンランドと国土面積がほぼ同じ小国)日本が勝利した際には 勇気づけられた人もいたが 「ロシアが負けて悲しい」と嘆く婦人 ロシア側の将校となって日本と戦った者もいた

    1917年にロシアから独立の直後の内戦では社会主義信奉者の「赤軍」と それを嫌う「白軍」が戦い「白軍」が勝利して バランスとは無縁の一党独裁のみちを避ける選択をした

    24人の提督ビールシリーズの中には 東郷元帥以外には山本五十六元帥も含まれ日本人二人がいるが ロシアのマカロフ提督 ロジェストヴェンスキー提督の(ともに日本海海戦で日本相手に戦った)二人もしっかり入っている 他には英国ネルソン提督など

    EUに加盟しながらもロシアとの関係にも留意している 国内には「レーニン博物館」や「アレクサンドル2世(ロシア皇帝)の像」「アレクサンドル通り」が存在する

    このように一方の国に偏らない姿勢でバランスをとるので・・フィンランド(正式名:フィンランド共和国)に居住経験のある日本人でも同国が親日的と感じたことはないと言う

    ただし言語の構成的には「膠着語(こうちゃくご)」(私には難しいことはわかりませんが)に分類されるとして 日本語 フィンランド語 トルコ語 朝鮮語 などは同類とのこと

    (東郷元帥ラベルビールやフィンランド事情について詳しくは・・
    https://historivia.com/togo-heihachiro/4207/
     suomi.racco.mikeneko.jp/Elama/ystava.html
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    前回紹介した5人の内の二人 小椋佳と榊原栄に関する追加話です
    ◎小椋佳と あの喜劇王チャップリンの共通点?!
    tyapurin
    チャップリン (wikipediaより)
    小椋佳とチャップリンは”楽譜の読み書きができないのに名曲を作っている”
    と言う点で共通
    していますが 

    “曲として完成させる手法”も共通しています 
    それは先ず本人が曲想に基づいて口ずさみ 
    それを別の音楽専門家が聴きながら譜面起こしをし 
    編曲もする
    のです
     
    小椋の場合はその専門家の一人として安田裕美の存在があり
    彼女は「よく小椋さんの家に行って曲作りと譜面おこしを手伝いました」
    と述べています 

    チャップリンの場合も彼の映画の中でスタッフ名掲示には音楽担当として
    チャップリンとともに音楽専門家の名を併記することも多かった 

    ただし小椋佳とチャップリンの二人とも
    楽器が全く弾けないわけでもなく
     
    小椋佳はギターが少しは弾けるし 
    チャップリンにいたってはチェロ ヴァイオリン 
    ピアノ ハーモニウム(一種のオルガン)などを
    独習したものながら弾いていたので 

    二人とも 曲想を練る際に
    楽器を有効に使っている

    チャップリンの作曲した曲の例としては・・
    映画「ライムライト」の「テリーのテーマ」 
    映画「モダンタイムス」の「スマイル」 
    映画「ニューヨークの王様」の
    「マンドリンセレナーデ」
    (自身が指揮する演奏がコレ) などが有名

    〇他にも います
    前記の二人以外にも”楽譜の読み書きができない”とされている人として
    井上陽水 桑田佳祐の名もあがっているが 
    昔 よく知られていたのは美空ひばり この人はやはり天才的で 
    かつて「題名のない音楽会」というテレビ番組だったかの中で 
    楽譜の読めない美空ひばりにクラシックのオペラの一部を
    歌ってもらったが 音楽評論家も賞賛していたほどであった

     
    ◎榊原栄が居たブラバンの演奏と朝礼行進
    前回にも述べたように"山本直純の後継者と言われた榊原栄"
    と私が通った東京都の豊島区立長崎中学校では 
    校庭での朝礼などの集会の後 生徒たちが教室に戻る際に 
    同校自慢のブラスバンド部員(榊原はトローンボーン担当)が
    実演奏するマーチ(行進曲)に合わせて歩を進めた
    ものでした
     
    それによって同校の生徒たちは3年間聴かされると
    部員ならずとも多くのマーチのメロディーを
    口ずさめるようになりました
     
    現在 日本ではブラスバンドという言葉は
    使われなくなったようで 吹奏楽部と名をかえて 
    全国の小学校から大学まで 世界的に見ても非常に多く
    存在するようになっているそうですが 
    “朝礼などに吹奏楽部が出演する学校”はあるのでしょうか?

    さて私たちが覚えてしまったマーチは・・
    「雷神」「忠誠」「星条旗よ永遠なれ」
    「ワシントンポスト」(以上は作曲者スーザ) 
    「旧友」(同タイケ)「双頭の鷲の下に」(同ワーグナー)
    「エルカピタン」「美中の美」などで
     
    朝礼時に最も使われたマーチは「旧友」だったと記憶しています


    〇世界の「マーチ王」:スーザ 
    「和製マーチ王」:古関祐而

    米国の作曲家・指揮者スーザ(1854~1032年)は
    100曲以上のマーチを作曲したので
    「マーチ王」と呼ばれていますが ・・
    su-za
    スーザ(wikipediaより)
    日本の古関祐而も 
    1964年の東京オリンピック用の
    「オリンピックマーチ」 
    NHKのスポーツ中継番組冒頭に流れるテーマ曲
    「スポーツショー行進曲」などを作曲して
    「和製スーザ」と称されています

    スーザも榊原もトロンボーン奏者だった
    スーザは米国大統領直属ワシントン海兵隊楽団で 
    そして榊原栄は中学校のブラスバンド部で 
    二人ともトロンボーン奏者だったことは 
    ちょっとした縁を感じさせます
    ・・・・・・・・・・・・

    世の中に音楽を職業とする人が多い中で 天才モーツァルトのように子供の頃から成るべくして成ったような人 努力を重ねて成った人 いろいろな人がいるが ここでとりあげるのは・・

    一旦は違う道に入ったものの音楽の道へ進み直した人たち・・有名人を挙げてみれば
    (文中敬称略)・・
    (但し 私の不得意なポップス系ロック系などの分野には触れることができませんので悪しからず・・
    トラック運転手だったフランク永井 バスガイド嬢だった八代亜紀たちもいますが・・)

    ◎元は銀行員だった作曲家:古関裕而 / 小椋佳
    ↓古関裕而 (wikipediaより引用)
    koseki (2)
    古関裕而はちょうど現在NHKテレビで放送中の朝ドラ「エール」の主人公のモデル 不本意ながら地方銀行(福島県の旧川俣銀行)の行員となったが 夢捨てきれず 専業音楽家を目指し 独学ながらクラシック音楽の素養をベースに交響曲 オペラ 歌謡曲 軍歌 校歌 応援歌 行進曲など巾の広い分野で名曲多数を生み出した 

    その中でも最も日本中に流れているのはNHKラジオの正午のニュースの後に始まる「ひるのいこい」のテーマ曲ではないだろうか なにしろ50年もの間 日曜を除く毎日である

    ↓小椋佳 (wikipediaより引用)
    ogurakei
    小椋佳は旧日本勧業銀行の行員時代からシンガーソングライターを始めていて 名曲多数だが他の歌手向けに作った曲(「シクラメンのかほり」「愛燦燦」など) も多い

    またCMソングもあり おもしろいのは・・彼は東京大学出身であり将来の頭取と目されていたほどだったので 必須条件である”支店長経験“のために浜松支店長を任ぜられたことがあり その在任中の地元の縁で “浜松と言えば有名な春華堂の「夜のお菓子『うなぎパイ』」”のCMソングも作っている

    氏も銀行を早期退職して音楽専念の道を選んだ

    ◎医学生やめて作曲家になった小林亜星
    正確には”慶応大学医学部に入学したものの医者になる気は無いので 経済学部に転部した上で音楽の方に打ち込みながら卒業 わずか2週間の会社勤務を経て音楽勉強に専念 後に 私の前回のブログで紹介したように 作曲 作詞 役者 タレントもやり CM作曲多数(レナウンの「イエイエ」 日立の「この木なんの木」など)

    そして 私がかつてお付き合いがあった” 音楽へ進み直した人”が二人いる それが黒崎錬太郎と榊原栄・・

    ◎工業デザイナーから声楽家になった黒崎錬太郎
    氏の若い頃に私は大阪の地で少なからず面識があったもの 氏は某大手電機メーカーの工業意匠(今で言うインダストリアルデザイン)部に勤務する優秀な"電気製品デザイナー"だったが あるアマチュアコーラスグループにも属していて歌っているうちに 本格的な声楽の道に進みたくなり ついには退社して・・

    東京芸術大学音楽部に入学しなおして研鑽を重ねて卒業後 音楽界にバリトン歌手としてデヴューを果たした その後は複数の声楽コンクールで1位や金賞など獲得してオペラなどで活躍 近年はテノールに変更している

    ◎大学中退し東京芸大に入り直して音楽家になった榊原栄
    ↓榊原栄 (https://digital-sonic-design.jp/?p=7942から引用 )
    sakakibara (2)
    彼と私は東京都豊島区で小・中学校が一緒 中学校の名は「豊島区立長崎中学校」(現在は廃校で校舎も消滅)で当時同校のブラスバンド(略称ブラバン)部は東京でも最上位クラスの実力だった そのブラバンで彼はトロンボーンを吹いていた 

    その後 彼は某大学(私の記憶があいまいで法政 中央 明治のどれか)に入学したものの 音楽こそ我が行く道と思い直して1年足らずで退学 東京芸術大学音楽部に入学しなおして 卒業後は作曲 編曲 指揮(日本各地の交響楽団を指揮と指導したことが多いが海外での客員指揮者もした) 楽器(特にトロンボーン)指導など巾広く活躍 その結果・・

    あの山本直純氏の後継者と言われるまでになっていたが 惜しくも還暦前59才で他界してしまった
    ・・・・・・・・・・・
    榊原栄氏と小椋佳氏に関連したお話 まだ尽きず 長くなるので次回に続けます

    アパレル大手の株式会社レナウンが株式一部上場会社としてはコロナ影響による民事再生法適用の第一号となってしまいました

    “レナウン”は日本語で”名声”・・レナウンの名声が復活することを祈ります・・ と言うのも かつて・・

    ◎レナウンのCMは新鮮だった
    レナウンと言えば 私らが若いころの1961(昭和36)年に 従来とは違った新しい感覚のCMソングをテレビで流したのです 

    それは「わんさか娘」と題名が付いていたとは知らない(オリジナルCMソングはほとんどそうなのですが)曲で 

    出だしは「ドライヴウエイに春が来りゃ イエイ イエイ・・」 

    この軽快な作曲をしたのは小林亜星(後にテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の親父さん役もした)
     
    CMソング「わんさか娘」(シルヴィ・バルタン版)は・・
    https://www.youtube.com/watch?v=NhQ5FO5RxB8

    小林は 次に1967(昭和42)年にも同社CMソング「イエイエ」も作曲
    renown-iyeiye (2)
    「イエイエ」のCMソングとともに流れた映像

    これを機会に 私が昔から”心に残るCM名曲”と 勝手に決めているものを挙げてみます

    ◎「オリエンタルカレー」のCMソング(株式会社オリエンタル)
    この曲は新しい感覚ではないが 流れるようなメロディーと情感にうったえる歌詞で歌いやすく覚えやすいものです 

    3番まである その1番は・・「なつかしい なつかしい あのリズム エキゾチックなあの調べ オリエンタルの謎を秘め 香るカレーよ 夢の味 あゝ 夢のひと時 即席カレー 君知るや 君知るや オリエンタルカレー」  

    この曲は1954(昭和29)年に出来て 日本最初の本格的CMソングとされて なんとレコード(盤)にもなっているのだそうです なるほど それに値すると納得できます

    そのCMソングは・・
    https://www.youtube.com/watch?v=78FJ3W4j2Ns

    oriental-curry-new (2)
    ↑↓
    新旧の商品
    oriental-curry-old (2)

    ◎「グンゼのナイロン靴下」のCMソング
    (グンゼ株式会社)
    雪村いずみが歌う このソングは・・商品名がからんだサビ的な部分の歌詞は・・
    「グ~ンゼの ナ~イロンく~つ下は~ な~んとも言~えない す~ばらしさ~」だが 

    この曲は出だしの歌詞とメロディーが良いのです しかし残念ながら 私はうろ覚えで ここにご紹介できません ネット上のyoutubeでも見つかりません 同社がナイロン靴下を製造開始したのは1952(昭和27)年ですから CMソングはその後に流れたのでしょうが年代も不詳です

    ◎「不二家のお菓子」のCMに使われた歌(株式会社不二家)
    この曲 私は子供の頃聴いていましたが 何となくシャレた歌であり 歌詞もメロディーも歌いやすく覚えやすかったものです 

    その後 長い間 これは不二家のオリジナルだと思っていましたら 数年前に この歌は古くから存在したものと知りました それは1928(昭和3)年に西條八十の作詞で 橋本國彦が作曲した「お菓子と娘」 

    その出だしは・・「お菓子の好きな巴里(パリ)娘 二人そろえば いそいそと 角の菓子屋へボンジュール・・」というもの → 
    https://www.youtube.com/watch?v=MxuXbI5D-e8

    この歌はシャンソン風なのですが 今にして思えば 当時不二家は「フランスキャラメル」を製造販売していたからでしょう 私も子供の頃によく食べましたが 調べたら なんと発売開始は1934(昭和9)年でした
    france-cyaramel
    戦後の昭和の一時期に数寄屋橋店に掲げられていた「フランスキャラメル」の大きな看板は目立った
    france-cyaramel-billboad

    ・・・・・・・・・・・・・・・
    おまけ・・ “懐かしいテレビCMいろいろ”・・
    https://www.youtube.com/watch?v=OSOze2CP1Qc
    ・・・・・・・・・・・・・・・

    テレビ番組「がっちりマンデー」(TBS系)は “独創(独走)的商品でがっちり儲かっている会社”をとりあげて毎週日曜日の朝に放送されていますが 

    去る5月3日には(コロナの影響で同番組の過去放送分からチョイスされて再登場の)“一芸家電”を誇る5社が紹介されました 

    これを観て私は実に感慨深いものがありました という理由は 5社の内なんと3社に私はご縁があるからです その3社とは・・

    [1](株式会社)「千石」(せんごく)
    発熱スピードが超速な独自開発のヒーターを使用した「グラファイトトースター」が売れ行き好調!
    ttl_catop[1] (2)
    株式会社 千石の社屋(同社HPより)
    AGT-G13AG[1]

    グラファイトトースター(同社HPより)
    さてこの会社の本社所在地は兵庫県加西市 そこは昔の私の勤務地であり住んでもいた土地であり 

    しかも同社は私の勤務していた会社とも協力関係があったもので 当時は「千石鉄工」(株式会社)という名称で その工場に掲げられた社名看板はよく目立っていました 

    「千石」は創業者名であり現在の社長は千石唯司氏 

    ところで「千石イエス」と呼ばれた人をご記憶だろうか 本名は「千石剛賢(たけよし)」1970年代後半から 「イエスの方舟」という一団を主宰して東京・恋ヶ窪はじめ各地を転々としたが マスコミの間違った報道によってオカルト教団の教祖のようなとらえ方をされて批判にさらされたものの 実は彼の許に集まったのはDVなどを受けたりした女性たちで そこは「駆け込み寺」のような性格が強かった 

    その千石イエス氏(2001年78才で死去)も加西市出身であり 世間で注目を浴び始めたころに同市に住んでいた私は “千石家は土地の豪農だったもので千石鉄工社長と千石イエス氏は血縁関係がある”という話は聞いていました(加賀百万石とは比べ物にならないですが千石とは豪農らしい苗字ですね)

    [2]「タニカ電器」(株式会社)
    tanika-company (2)
    冒頭で社長の「谷口幸子」氏自ら ヒット商品であるヨーグルトメーカーの「ヨーグルティア」を手に持って登場 

    いやお懐かしや 谷口氏と私は同じ大学の同じ学部・科だったのです この同社紹介番組収録は5年前ですが お歳を感じぬ若い声です
    ms-taniguti3.jpg (2)
    谷口幸子社長(同社HPより)
    この会社は岐阜県多治見市で現社長の父君が創業して当初製造していた電気式酒かん器の温度管理ノウハウを活かして 日本初のヨーグルトメーカーを製造した 

    ヨーグルトの生成に必要な一定温度を安定して保つ機能では 他の大手メーカーでも追随できないので同社のヨーグルトメーカーはシェアNo1であり 最新製品の「ヨーグルティアS」は設定温度を25~70℃まで可変にすることで様々な醗酵食を作ることができる醗酵器に進化させたので 作れるものは・・カスピ海ヨーグルト/天然酵母の醗酵/市販のヨーグルトを種菌とするヨーグルト/納豆/西京みそ/チーズ/発酵バター/甘酒/塩こうじ/醤油こうじ/温泉卵/低温調理(サラダチキン、ローストビーフ)など 谷口社長曰く・・「健康志向の中で重要視されている”腸の健康”のためになる発酵食は簡単にホームメードできるということをもっと多くの方に知っていただきたいと思っています」
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    ヨーグルティアS(同社HPより)

    [3](株式会社)「シリウス」
    同社も冒頭から社長の「亀井隆平」氏が“一芸家電”である「スイトル」を抱えて登場
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    亀井隆平社長(同社HPより)
    実は亀井社長が以前に勤めていたのは私と同じ会社だったのです しかも東京・御徒町駅に近い場所にあった会社のビル(中に当時は多数の部署があり社員も数百人いた)その中で短期間ながら同時期にこの二人が勤務していた可能性が高いのです 現在のシリウス社の所在地はそのかつてのビルから500メートルくらいの位置にあります 

    さて社長自慢の「スイトル」ですが “じゅうたんなどにこぼれたコーヒーや醤油などの汚れやペットのおしっこもきれいに吸い取る「世界初の水洗いクリーナー」”であり 家庭用の掃除機につないで使うもので その仕組みはここで文章で説明するのは長くなるので割愛するとして 掃除機の吸引力とスイトル内部の水を利用して“水を吹き出しながら汚れを吸い取る”ものです
    swittle_cropped1[1]
    「スイトル」(右横部分に掃除機ホースをつなぐ)(同社HPより)
    以上 私がご縁ある会社・人ですが 70数年生きていれば今回のようなことが起こるものですね

    ちなみに「がっちりマンデー」で紹介された他の2社は・・
    ◎「テスコム電機」(株式会社)
    ヘアドライヤーのメーカーで 特にプロ用では圧倒的シェアで“日本の理美容店の70%が採用” その理由は“風速”が強大 その分大きくてやや重いので小型化して軽くした一般用も製造販売

    ◎「富士工業」(株式会社)
    レンジフード・換気扇では64%のシェアを誇る 大手電機メーカー製には無い 個性的なデザインで多様な商品陣容 その一環として開発された“一芸家電”が「クーキレイ」 でシーリングペンダント(天井吊り下げ)型照明器具と吸煙装置を合体させたもので好評
    ・・・・・・・・・・・・・・

    現在NHKの朝ドラの「エール」に故志村けんが“小山田耕三”として登場していますが そのモデルが“山田耕筰(改名前は耕作)”(1886=明治19年~1965=昭和40年) 

    耕筰は作曲家・指揮者の大御所であって交響曲から童謡(赤とんぼ ペチカ 待ちぼうけ など) 校歌 軍歌まで非常に多くの作曲をしました
    kosaku-yamada (2)
    山田耕筰(wikipediaより引用)
    ◎映画「ここに泉あり」に本人役で出演しています

    映画ですから山田耕筰の生前の動く姿が“楽団を指揮するシーン”などで見られます 

    出演当時は68才ですが62才の時の脳溢血の影響で身体の動きがやや不自由な状態でした 
    ◎「ここに泉あり」とは
    高崎の市民楽団が“群馬交響楽団”に成長した実話に基づいたストーリーを名脚本家である水木洋子が手掛け 監督:今井正 主演:岸恵子 その他:岡田英次 小林圭樹 加東大介 草笛光子など豪華メンバー(子役から出て後に日活で活躍する浜田光男も少年で)出演し 音楽は山田耕筰の弟子であった団伊久麿が担当した 1955(昭和30)年公開のモノクロ映画 

    私はこれをテレビ放映されたもので観ましたが 全編にわたり“楽団経営の難しさ”が描かれていて 今またコロナウイルス禍による楽団経営のさらなる苦境は如何ばかりかと思わずにはいられません 

    また印象的なのは 楽団が草津にあるハンセン病療養所で演奏した際に 入所者たちが不自由な手で“音が出ない拍手”をするシーンです 

    この映画のダイジェスト版(1分57秒)は
    youtubeで観られ山田耕筰氏が指揮するシーンなどが観られます
    kokoni-izumi1 (2)
    kokoni-izumi2 (2)
    映画の中で楽団を指揮する山田耕筰本人(上記写真2枚とも新井まり子氏制作のyoutubeより引用)
    ◎私が通った学校の校歌も山田耕筰作曲 北原白秋作詞

    我が校歌の作曲者が山田耕筰だったなんて 今回調べて気が付いたわけですが それもそのはずで在校中にその校歌を歌った記憶は全くないのです 

    ちなみに私の心中で日頃から気になっていたことがあり それは・・小・中・高・大と通った学校の校歌を覚えているのが小学校と高校のものだけで中間期と最後期の校歌の記憶が“完全に無い”ことなのです こんなことがあるものでしょうか?
    ・・・・・・・・・・・

    今からちょうど50年前の1970(昭和45)年3月から半年間にわたって大阪で“日本万国博覧会(通称:大阪万博)”が開催されました 

    私は当時 関西勤務でしたから期間中に3度 見に行きました 世界77か国が参加して117のパビリオンで多様なモノの出展がありましたが その中でも最大級の“目玉”は米国館の“月の石”でした

    先日(4月17日)にBSテレ東の「発見ニッポンの100年」という番組で懐かしい映像がいくつか放映されましたが その中でこの大阪万博もとりあげられました

    さて そこで私の思い入れが強い”ある展示物”が出てきました それは・・

    ◎人間洗濯機(ウルトラソニックバス)

    これは当時の三洋電機が展示実演したもので 人間洗濯機に入った人の体を気泡噴射して洗いながら お湯の中のマッサージボールが肌を揉み 乾燥まで全自動で行うというものでした 

    p-washing4 (2)

    ↑人間洗濯機(全体)・・頭だけ残して中に入る↓
    p-washing1 (2)

    これを私は面白いと思いましたし人気も高かった しかし実際は人間洗濯機の中のイスに座ったお尻の部分の乾燥に難があったそうです 

    それでも万博終了後は あるラブホテルが採用したという噂も聞きましたし 前述のBSテレビ番組の中で「この人間洗濯機の技術は現在の介護入浴機器に応用されている」という説明がありました 

    人間洗濯機は現在でもネットでは話題にのぼっていて「これは欲しい」という声がある一方で「洗髪機能が無い」というつっこみもあります 

    ちなみに私のブログの2018年9月19日の
    「ジャグジーの40年前の元祖の姿を知っていますか?!」の中で“ジャグジー社が最初の気泡風呂を1968年に発売した”と書きましたので三洋電機が同様の気泡噴射風呂を同時期に考えていたことになります

    ◎マッサージに使われたボールを私はもっています

    稼働中は気泡を含んだジェット水流とともに多数のマッサージボールが肌に軽い刺激を与えます
    p-washing3 (2)
    ↑お湯の中のボール(上記3枚の写真はBSテレ東の番組より)

    このボールの実際は500円硬貨より少し大きい“金平糖のような形”のゴム製 

    私はこれを3個 万博終了直後に ある縁で入手したもので 今 手許にあるボールを触ってみると 50年を経た表面は硬くなり少し粉っぽいのですが全体ではまだクッション性は残っています 
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    ↑マッサージボール(左端は500円硬貨)

    このボールは万博の半年の会期中に人間洗濯機に入ってデモンストレーションしたモデル嬢の肌をマッサージしたわけで そう思うと何やら感慨深いもの!

    しかし終活を始めた私は このボールを処分するつもりですが ひょっとすると必要な人がいるかもしれませんね メルカリ使うことも検討中!

     ・・・・・・・・・・・・・・


     

    ◎日本独特方法で聖火を維持管理したらいかが!?
    ギリシャから受け継いだ聖火を来年の五輪開催まで日本で維持管理するために 現代技術による常識的な方法がとられると同時に 不測の事態に備えていくつかに“分火”されるでしょう 

    そこで提案ですが・・ “分火”の一つを日本独特の伝統的な方法で維持したらいかがでしょうか 

    火を燃え続けさせている例でよく知られているのは米国のアーリントン墓地に眠る故ケネディ大統領(JFK=第35代 1963年11月22日暗殺)の墓に添えてある「永遠の炎」(Eternal Flame)で 消えることなく半世紀以上を経ていますが これには(よくはわかりませんが)ガスを常時供給するシステムになっているのでしょう
    jfk-flame (2)
    「永遠の炎」(Wikimapiaより引用) 
    わずか50年あまりの火・・まだまだ若い! 日本には一千年を超す火がありますぞ!

    ◎1200年間 火を守ってきた横大路家!
    日本には独特な方法で1200年も“火“を絶やさずに維持している所があります 

    それは福岡県糟屋郡新宮町にある横大路家(その住宅は通称「千年家」と呼ばれて現在の建物は17世紀後期から18世紀前期のもので民家として日本最古級)が守ってきたもので 

    伝教大師(最澄)が805(延暦24)年に(現在の新宮町に)独鈷(とっこ)寺を建立した際にこの家に滞在したお礼に”法火“として授けたものを かまど(竈)の中で絶やさぬように 毎朝火を焚き 毎晩残り火に灰をかけて 翌朝まで消えないようにするということを繰り返す苦労を1200年続けてきましたが 2011年に法火は太宰府の神社に引き継がれているそうです
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    「千年家」(写真は「じゃらん:横大路住宅」より引用)

    1200年間 火を消さなかった“かまど”
     
    ((株)システム工房のHP「横大路住宅」より引用)
    sennenya-kanado

    ◎800年間 火を守る千葉家!
    岐阜県郡上市にある千葉家も800年間“火”を絶やさず守り続けています 

    「始まりは1221(承久3)年に火打ち石で いろりの火として点火されたもので 以来家訓により代々家長が受け継いで一度も消えていないそうです

    『いろり火を絶やさないコツは 朝起きたら 夕べの火種を掘り起こして 新たな炭を足して《おき火》をたくさん作っておくこと。昼間は灰をかけて その上から十能一杯分の籾殻をふりかけておきます。 そうすれば13時間くらいは大丈夫。 夕方も朝と同じように火を起こして同じことを繰り返す』(『』内は野見山広明氏のブログ「かんながらの道」www.caguya.com/kannagara/?m=201603&paged=2より引用)
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    千葉家のいろり(写真は「中広」社のHPより引用)

    ◎原爆による火災の残り火を消さずに75年!
    福岡県八女郡(現八女市)星野村の故山本達雄氏が1945(昭和20)年8月6日の広島原爆投下時には広島近郊の軍隊にいたので 約1か月後に広島市内に入り 被災して亡くなった叔父の家の焼け跡で残り火を発見した

    それを祖母(叔父にとっては母)のためにと思い 持ち合わせた懐炉に転火して故郷の星野村に持ち帰り 以後まずは祖母がその火を仏壇に灯して12年間守って死去したので その後は山本氏が囲炉裏や火鉢にも火を移して守った 

    その間計23年間は“その火”の存在は山本家以外には秘密にされていたものを あるきっかけで村中に知れ渡った結果 村民の要望によって1968(昭和43)年8月6日に建立された「平和の塔」の中に転火されて現在まで 広島での採火から75年灯り続けています 

    この火は「原爆の火」又は「平和の火」と称されて その後全国の学校やお寺などに分火されています(山本氏は2004年に亡くなられています)
    heiwanotou (2)
    平和の塔(八女市のHPより引用)
    ◎バイオ燃料と灰活用で火を守るサステナビリティをアピール
    前述の3例に共通するのは”薪または木炭を使い”かつ“火を消さずに静かに生かしておくためには灰をかけておく”という方法がとられていることでしょう これは“バイオ燃料を使ったサステナブルな方法”と言えます 

    この日本の伝統的でしかもエコなやり方で聖火(の分火)を維持することは(手間がかかるローテクだが)意義がありましょう 

    私も子供の頃は家庭での暖房と言えば 炬燵と火鉢であり それには木炭と灰を使っていたので 灰自体を作ることや “灰をかけて火をもたせる”こともよく行ったものです
      ・・・・・・・・・・・・・・・

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