徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

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    カテゴリ:秘話飛話雑感 > 記憶遺産

    「チャー」という音が今日も我が家の前から聞こえる。だいたい1日に3~4回。
    それはアイドリングストップのクルマからの音。

    そこで思い出すのは私の昔の苦い経験・・それをご披露する前に・・

    ◎アイドリングストップとチャー音
    (クルマを運転しない人のために説明しますと)アイドリングとは、クルマが走行停止時でもエンジンは止めないで動かしている状態のことで、

    これに対して、クルマが走行停止するたびにエンジを(自動的に)停止するのがアイドリングストップ。

    実際には、アイドリングストップ機能を備えたクルマ※が交通信号や交差点で、また歩行者がいる横断歩道の手前で、あるいは渋滞で一旦停車する場合にこの機能が働き、一旦停止したエンジンはアクセルペダルを踏めば再び始動してクルマは走り出します。
    oudanhodou-mae
    ※ただし、アイドリングストップ機能はスイッチ切り替えによって、それを働かせないで一時走行停止時でもエンジンがストップしない選択もできるようになっています。

    アイドリングストップ機能の解除スイッチボタンの一例 (「乗りものニュース」より)
    i-stop-switch

    冒頭の「チャー」※という音は、アイドリングストップのクルマが一旦停止した次に再び走り出す際に出る音で、実はそれ、エンジンの音ではなくてスターター(エンジンを動かし始めるための装置)の音。

    ※「チャー」音は単純ではなく、言葉で表現するのが難しく、各社・各車違うようでもあるので”チャーのような音”としました。

    我が家は住宅地の中の4メートル道路どうしが交差している角地にあり、信号は無いのですが一時停止標識とともに道路上に停止線があるので、アイドリングストップのクルマが一旦停止した後に発進する際に「チャー」音を聞くことになるもので、
    stop-board
    近年のクルマのエンジン音は静かなので(我が家の中に居ては)この音は聞こえずにスターター音だけが聞こえるわけです。

    ◎最近はアイドリングストップ機能廃止の流れ
    アイドリングストップは燃費向上やエンジン音の騒音防止に効果があるとされて、今から20年前頃からこの機能付きのクルマが多く生産されてきましたが、

    最近になってホンダ、トヨタ、ダイハツなどの自動車メーカーは、 ガソリン車のアイドリングストップ機能を廃止し始めて、例えばホンダではミニバンの「フリード」、小型ハッチバック車「フィット」、小型SUV車「ヴェゼル」などは従来は付いていたこの機能を廃止して、小型SUV「WR-V」は最初からこの機能を不採用。

    honda-cars
    フリード(左) / フィット(中) / ヴェゼル(右)

    トヨタでは小型ミニバン「シエンタ」、小型ハッチバック車「ヤリス」など。

    toyota-cars
     ↑シエンタ(左) / ヤリス(右)

    ◎アイドリングストップ機能廃止の理由
    ・アイドリングストップのクルマは一時停止状態から動き出すまでにちょっと”もたつく”。それはアイドリングストップ機能無しのクルマと比べると、”スターター装置が動く時間の分”が余分にかかるから。
    この“もたつき”を嫌う人も少なくないし、安全上 瞬時に発進したい時などには困る。

    ・一旦停止から発進する際の音”チャー”と同時に起こる車体の振動が嫌われる。

    ・アイドリングストップ機能の有無による燃費向上の差が少なくなった。この機能導入開始の頃に比べるとクルマ自体の燃費が向上してきたため、今やこの機能の有無による燃費の差は1リッター当たり1km以下とも言われる。

    ・アイドリングストップのクルマのバッテリーは負荷が大きくかかるために、より高性能な専用品が使われ、しかも寿命が短め。

    したがってこのクルマの持ち主は高価なバッテリーを短期間で買い換える必要が出てくる。そうなるとアイドリングストップで燃費節約、石油資源節約となるものの、専用バッテリー製造にかかる資源やエネルギーコストが余分にかかって環境マイナス要因となってしまう。

    ◎58年前に私がアイドリングストップを実行した結果は?
    1966(昭和41)年のこと、私は東京都の練馬区(あたりだったか?)の道路をクルマで走行中に、ふと”ガソリン代※を節約するためには信号待ちをする間はエンジンを切ってみよう”と思いついて、信号待ち毎に (当時のことだから)手動でエンジンキーを回して切っては、青信号で発進することを繰り返したところ、

    5回目(だったか?)で、発進しようとキーをまわしたら「クウッ・クウッ・クウッ」という音がし始めてエンジンがかからないので、「これはまずい!」とあわててキーを何回かまわしてみたら何とかエンジンが動いた。

    同時にこれはバッテリーに負担がかかった結果と悟って、すぐにこの”アイドリングストップ”行為を中止したのでした。これは私の”苦い経験となりました。

    東京都内のことなので200メートルくらい走行してはエンジンを停止してはまた始動したりを繰り返したのがいけなかったわけで、

    クルマというものは発進時にスターターが働いてバッテリーの電気を喰うものの、その後の走行中のエンジンの回転を利用したダイナモ(発電機)で発電した電気をバッテリーに充電するシステムになっているので通常は問題ないのですが、

    200メートル走行ごとにバッテリーの負担を繰り返せば、その間の充電が追い付かなかったのです。まあ昔のことでバッテリーの性能も現在よりも若干劣っていたかもしれませんが・・

    この経験がある私は、近年にアイドリングストップのクルマが登場したのを知った際に「これはバッテリーに負担がかかるはずだから大丈夫なのかな?」という心配をしていたところでした。
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    当時はレギュラーガソリン1リッター38円前後でした。但しサラリーマンの初任給が現在の約1/10だった時代のこと
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    ある日のこと、私の知人の身に、見たことも聞いたこともない症状が現れて慌てる事態が起こった。その状況は後述しますが、思い起こせば私自身も昔に似たような経験をしていたもの。それは・・

    ◎「一過性全健忘症」 !
    何の前触れもなく突然、脳の中で記憶する機能が停止して、その状態が30分~24時間続き、また突然に正常に戻るのだが、その間の記憶は完全に無いという症状が「一過性全健忘症」。
    この症状の原因は現代医学でも解明されておらず、40才代~70才代に多く現れ、どちらかと言うと男性のほうが多いそうで、さらに不思議なことにこの症状は一生の内に二度と現れないのだそうだ。

    ◎突然発症、突然消滅の実際 !
    その日、私と知人Aさん(70才代・女性)とBさん(40才代・男性)の3人はクルマで千葉市に在るスーパー銭湯に行き・・

    浴後に揃ってそこの食事処で早めの昼食を始めようとした際に、Aさんが突然に「(脱衣)ロッカーに忘れ物をしたみたい」と言って確認しに行ったが、暫くして無表情で戻ってきたと思ったらまた「忘れ物がある」と、同じような事を言って同じ行動をして同じような顔つきで戻ってきた。それは午前10時半ころのことだった。
    doubt-ninti
    私とBさんはAさんが2回目の同じ行動をして席をはずしている間に「これはおかしい。急に認知症が出たか?」と言って動揺したが・・

    Aさんが再び戻ってきた時には料理が運ばれてきていたので、Aさんにも「とりあえず食べよう」とうながして、途中(内容は忘れたが)二言三言の会話しながら食事を終えたところで、Aさんの行動の安全を考えてそこでの入浴を切り上げて・・

    次に皆でやはり近くのスーパーマーケットで買い物をしたのだが、今度はその店内を巡りながらAさんは「何か無くなったような気がする」と言って持っているバッグの中に手を入れてしきりに何かを探る動作。これを20分くらいの間に3回繰り返した。

    最後に喫茶店でコーヒーを飲んでいる最中には、Bさんに向けて「○○さんは元気なの?」、「○○さんの次の勤め先は決まったの?」(※○○さんはBさんの奥様のことで、転職先を探していた)・・という問いを発するのでBさんはそれに答える・・という同じやりとりを、これも20分くらいの間に3~4回繰り返した。
    words-repeat
    Bさんはこのような場合の対応を心得ていて、Aさんが同じ問いを繰り返しても、決して「それはさっき言ったでしょ」とは言わずに普通に返答を繰り返した。

    さて、ここでそれぞれ帰宅することになったがAさんの現状では放っておけないので私がAさんの自宅までクルマで送ることになった。

    車中でもAさんはまた「○○さんはどうなったのかな?」という言葉がまた出たほかはあまりしゃべらなかったが、クルマがAさん宅に到着する10分前くらいになって、急に元気な話し方になってよくしゃべるようになった。実はAさんはこの異常状態になってからは話し方に覇気が無く、従来の大声気味も消えていたのだが、どうやら元に戻ったと感じた。その瞬間が訪れたのは午後3時半ころで、発症から約5時間経っていた。

    こうして私はAさんを送り届けたが、Aさんの言動はまったく普通に戻っているようで不思議に思いながらも安心した。

    後日、会ってみたら会話も体の動きも以前と全く変わらないので、あの異変があったことが信じられない思いだった。

    revival

    しかし、あの日の5時間分の記憶はまったくないそうで・・
    ・浴場にあった何種類かの浴槽とサウナのどれに浸かったが記憶に無い。
    ・二度もロッカーに行って捜し物をしたことの記憶は無い。
    ・食事で何を食べたか記憶に無い。(本人曰く「だからせっかく美味しいものを食べた意味がなかった!」)
    ・歩きながらバッグの中の捜し物をした記憶無し。
    ・喫茶店に入ったこと自体が記憶に無い。
    no-memo

    ・・ということだが、その間に私が見たAさんの動作は・・しゃべり方は(多少覇気がなかったが)まあ普通で、ろれつが回らないことも無く、食事動作も普通で、歩いてもふらつきなど無い状態だった。

    しかも前述のように、記憶機能に関しては今回の発症前の記憶は消えていなかったから、それまでの心配事だった”○○さんの近況”を問う言葉が出たりしていた。     

    しかし当然のようにAさんは翌日に病院でMRI検査もしての診断をしてもらった結果は・・「一過性全健忘症」と言われたとのこと。

    お医者さん曰く「この症状の原因は解明されておらず、海外で若干の研究結果が発表されているものの信用はされていない状況です。ただこの症状は一度はあっても二度とは現れないとされていて、現に私がこの症状を診た数人の中にも、二度受診に来た人はいませんよ」・・だったそうです。
    in-hospital

    後から私は思うに、最初は”ああ、認知症になったか?”と思えたこの症状ですが、明らかに認知症とは違うのであって・・
    (1)認知症はゆっくりと現れるのに対して「一過性全健忘症」は突然発症。
    (2)認知症は記憶力が決して元に戻らないのに対して「一過性全健忘症」は完全に元に戻る。

    ◎ひょっとして、これが誘因か?
    ちょっと"伏線回収"的になりますが、ネットで調べると"一過性全健忘症の根本原因は不明だが、この症状が起きやすい状態、言い換えれば誘因”と考えられる例がいくつかあげられていて・・精神的ストレス時、過度な飲酒時、特定の薬や違法薬物摂取時、性交時、排泄のための"いきみ"時、そして突然の高温湯や冷水に浸かった時などがあるとされる。

    この最後の項目の"高温湯と冷水"というのは、前述のようにスーパー銭湯に入ったAさんに当てはまるかも知れない。もしかして高温サウナの直後に冷水浴槽に入ったかもしれないが、なにしろご本人の記憶が全く無いのでこれ以上確認できないが、有り得ることと考えられます。

    とにかく「一過性全健忘症」という名称が存在するということは、この症状が珍しくはないということで、これが一人暮らし、そうでなくとも一人で部屋に居る時、クルマの運転中などに発症すれば危険を招く恐れがあるものなので、この「一過性全健忘症」というものがあることは皆さん認識しておく必要があるでしょう。

    ◎私が昔に経験した”一時的記憶消失”?
    今から約半世紀前のことで、もう時効だからお話しますが・・私は深夜の酒気帯び運転の最中に全く記憶が無い状態があって、あやうく昇天(悪いことしているから天国は無いか?)するところで覚醒したことがあり、これは前出の「一過性全健忘症」と似るものの、原因が明らかであるから違う話ですが、絶対にやってはいけないと自戒をこめて・・

    1976(昭和51)年のこと、ある夜に私は当時住んでいた兵庫県加西市から大阪府寝屋川市に在る(知人が経営する)スナックに向けて、(免罪符にはならないが)”若気の至り”で無謀にもクルマで行き、サントリーオールド(ウイスキー)の水割りを2杯(だったか?)飲んで、帰ろうとしたのが深夜2時ころ(だったか?)。
    in-snack

    普段ならこれぐらいのアルコール量なら酔わないのだが、深夜の睡魔を想定していなかった状態で、再びクルマに乗って走り出したところまでは覚えているが・・

    ふと気が付いて(後から考えると、居眠り状態から目が覚めて?)バックミラーを見ると、直ぐ後ろを走っている大型トラックがさかんにライトを上向きと下向き交互に切り替えて私のクルマに注意を与えているではないか!

    事の重大さに気が動転しながらもクルマを路肩に一旦寄せてまず反省の念が頭の中を支配したが10分ほど気持ちを落ち着かせながら休み、再びクルマを走らせたが今度は頬をつねったり、叩いたりしながらなんとか帰り着いた。

    後から思い返すと、スナックからの帰りには最初は一般道を走り、次に中国自動車道へ入るのだが、いくつか在る入り口のどこから入ったのかからして記憶に無い。

    実は帰路の全走行距離は約70キロで、その内のおよそ60キロが中国自動車道の走行であり、”走行中にふと我に戻った”のは大阪の吹田インタチェンジから入ったとして約50キロも走っていた地点であり、時間にして約1時間だろうか、その間の記憶が全く無いという恐ろしいそして馬鹿な行動”酒気帯び居眠り運転”でありました。
    drunken-drive

    助かったのは信号のない自動車専用道路でしかも元々交通量が多くない中国自動車道の深夜なので他のクルマが極端に少なかったからでしょう。そして幸か不幸かパトカーがいなかった。
    pat-car
    もしもの結果になっていれば私はここでこの報告もできないことになっていたものの幸い生きているので、あえて”愚行の見本”の一つとして述懐する次第です。
    crash
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    P.S. タクシーの運転手さんから教えてもらった話では「酔っ払い運転のクルマは、走行のフラつきよりも、走行スピードが一定しないほうが多い」ということなので、昔の私の愚行運転も走行スピード不安定で注意喚起されたのでしょう。
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    ブラジル生まれのピアニスト、作曲家、編曲家、バンドマスターであったセルジオ・メンデス氏が先日(2024年9月5日)、83才で米国ロスアンジェルスで亡くなった。
    serumen-la
    写真は「Yahooニュース」より引用

    ◎セルジオ・メンデスのマシュケナダ
    私が最初に氏の音楽を聴いたのは1966(昭和41)年のことだったか、丁度その頃に氏が率いるグループ「セルジオ・メンデスとブラジル66」が「マシュ・ケ・ナダ」(ジョルジュ・ベン作曲のボサノヴァ曲)をカバーして世界的にヒットしていたから。

    マシュ・ケ・ナダ =  https://www.youtube.com/watch?v=wiqDOPCX_pA

    もともと私は10代後半からラテン系音楽が好きで、ペレス・プラード、ザビア・クガート、パーシー・フェースなどのマンボ、ルンバ、サンバ。メキシコ系のマリアッチなど賑やかな演奏をよく聴いていた。(賑やかではなかったトリオ・ロス・パンチョスも聴いたが)

    ◎私の人生最初購入のミュージックテープ
    1960年代後半になると、静かに語り掛けるような調子のボサノヴァ曲の「デサフィナード」や「イパネマの娘※」などが日本でも聴けるようになって、これはこれで良い感じだったが・・

    イパネマの娘 =  https://www.youtube.com/watch?v=a8wcZUUXJFs

    そこに登場した「セルジオ・メンデスとブラジル66」の「マシュ・ケ・ナダ」はボサノヴァ曲をアップテンポで賑やかにアレンジして、これぞ私の好み!ということで、これを収めた”レコードではなくカセットテープ”を購入。

    それは私が人生で最初に購入した”ミュージックテープ”となった。

    ↓今でも保有している
    serumen3

    そのテープに収められていたのは、「マシュ・ケ・ナダ」の他には「ビリンバウ」「おいしい水」「デイ・トリッパー」など全10曲で、当時私が所有していたビクター社(現、(株)JVCケンウッド)の ポータブル・カセットプレーヤー「カセッター※」でそれはそれは何回も聴き入った!

    ※「カセッター」は当時のビクター社によるカセットテープの録音・再生機の独自の呼称。その後”同社が開発して世界を席巻したVHSテープ”の録音・再生機も「ビデオ カセッター」と称していた。

    ※(蛇足ながら)ソニー社もテープレコーダーのことを独自に「テープコーダー」と称していた。

    ◎「ビリンバウ」という民族楽器
    先述のカセットテープに収められている1曲「ビリンバウ」はブラジルの民族楽器のことであり、下の写真のように、弓の形で弦は鉄線で、その弦には”木の実をくり抜いた共鳴椀”が付いていて、弦を細い棒で叩いて音を出すもので、その際の手には叩く棒と同時に”マラカスの中身と同じ種のような物”が入った筒状の小籠も持ちながら行うので、ビリンバウの演奏では弦の音に加えてマラカスのような音が加わったものになる。

    ↓ビリンバウ(一式:全長95センチ:中下の小籠がマラカスのような音出す:中央は500円硬貨)
    latin-inst5

    ↓(ついでに)我が家に在る中南米、アフリカ、ユーゴスラビアの民族楽器
    latin-inst1

    ↓小野リサ氏の監修で「LISA」の金色文字がうたれた木製サンバホイッスル(サンバカーニバルなどでピーピー鳴らす笛:右は裏側) (この品は某FM局の懸賞の当選品でレアモノ?)
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    ※「イパネマの娘」という曲は女性シンガーが歌う場合には曲名を「イパネマの少年」と変え、歌詞の中の「少女」も「少年」に変えることも多い。
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    日本の神道(しんとう※1)における神様と仏教における仏様。それを身近に拝めるのが、神道では祠(ほこら※2)や神棚、仏教では仏壇ですが今回は神棚にちょっと注目。

    ※1
    :神道を「しんとう」と読むと意味は”日本古来の土着信仰”。「しんどう」と読めば”神(そのもの)”又は”墓所の道”の意となる。
    2:一部には仏教に属するお地蔵さま(地蔵菩薩)を祀る祠もある。

    ↓神棚の例(左) / 仏壇の例(右)
    kamdna-butdan
    画像は左:楽天市場より/右:「メモリアルアートの大野屋」のHPより引用

    ◎漁業従事者の家には必ずと言っていいほど神棚がある
    原始より日本人は山、海、火、雷、滝、巨木、疫病など万物に(近年はトイレにも?)神が宿るので”やおよろず(八百万)の神”がおわすという観念があるが、中でも海、川、湖などで漁をする人達は神様に豊漁を願うと同時に、「板子(いたご)一枚 下は地獄」と言われるほど危険な船での無事を祈願することは必須となるので自宅には神棚が必ず設けられる。

    そして船(漁船に限らず船全般)の中にも神棚設置の例が多い。

    ”ある漁村を対象に調査したら神棚の保有率が100%”だったという資料を読んだことがあるが、

    そこでもう一つの特徴として挙げられていたのは”神棚の保有は老若に関係なく、しかも時代が変わっても行われる”ので年寄り世帯のみならず20才代の世帯でも神棚は在るという状況は変わることがないということ。 

    この事実は、日本全体の近年の神棚の保有率が減少傾向にある中で見落とされがち。
    (他の地域と同様にこの漁村でも神棚とともに仏壇も有る家もあると思われるが割合は不明)

    ◎漁村の神道ゆえの「奥津城」(おくつき=墓)
    前述のように漁村では”生きるための糧と命の守りのためという切実な願いは神様にすがる”ことになるから、自ずとこれは神道のカタチとなる。

    一般的には墓と呼ばれるものを神道では「奥津城」または「奥都城」(双方とも読みは「おくつき」)と称する。形式も一般的な(仏式の)墓とはやや異なり墓石にあたる石柱の頭頂部はやや四角錐のようにすることが多く、香炉が無く、線香無し、かわりにロウソク立てが有る。

    ・・・というわけで、漁村では奥津城という墓がたてられるようになる。

    「奥津城」と「奥都城」の使い分けには諸説あり・・
    A) 海、川、湖など水場に近い地域では「奥津城」。それ以外の地域では「奥都城」
    B) 神官や氏子だった人は「奥都城」。それ以外の一般人は「奥津城」
    C) 「奥津城」か「奥都城」かはこだわりなし

    なお、
    現在の奈良県明日香村では、仏教伝来以前の例えば古墳時代に造られた(今で言う)墓や陵墓のことを称して「奥津城」と称している。

    ◎五島列島に在る「奥津城」の例  
    私の亡父の出身地である長崎県の五島列島の中通島(なかどおりしま)の小串(こぐし)という地域は漁港があり、住民の多くは漁業従事者。海に向かって小高いが緩やかな傾斜地に大きな共同墓地があり、先祖はその墓地にある「奥津城」に眠っている。

    goto-map

    ↓小串港
    kogusi-haka_0001

    ↓小串の共同墓地
    kogusi-haka_0002

    ただしその石柱部には「祖先之奥津城」と刻んである。普通よく見る例の「○○家之墓」とは異なる。しかし基台部の石材には”蔦(つた)の紋”が彫ってあり、かろうじて我が家系の奥津城とわかる。

    日本全体では「○○家之奥津城」と刻んだもののほうが多い。

    ↓私の祖先の奥津城(左) / ○○家之奥津城の例(右)
    (「石の東栄」社のHPより)
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     漁村という特に神頼み必須の神道信仰の地であり、かつ言うまでもなく”水”関連の地だから「奥津城」という表記になるのはわかるが、なぜ”「○○家」ではなく「祖先」”なのかという疑問がわくが・・

    伝承によれば”事情により他の家系の死者も受け入れて合葬していたから”ともいわれるが、別の推論として”この奥津城を立てた時代にはこの辺境の漁村には苗字をもつ者が私の祖先も含めて殆どいなかったので○○家とはならなかったのではないか”とも考えられる。

    一般的な(仏式の)墓にも「先祖代々之墓」と刻まれたものを見かけることがあるが、これも同様な理由だろう。

    それでは「奥津城」という言葉と意味を誰が教えて使わせたのか? 当時の漁民自身とは考えられない。そこで登場するのが近くに居た知識人である僧侶や宮司・神官で、彼らは庶民に色々な苗字を(中には遊び心や奇異をてらった苗字もあったが)考えてあげることが日本全国で広く行われたことはよく知られている。

    その延長で建墓についても庶民から相談を受けた結果が現在の「○○家之墓」(仏式)対「○○家之奥津城」(神道式)の存在率の差。それは僧侶と宮司・神官の数の差の表れだろう。

    ちなみに、私の父は生前に「(故郷の五島の)小串に帰った際に会った坊さんから「奥津城」について否定的な説教をされてイヤな思いをした」と言っていた

    ・・ということを私は間接的に聞いたもので詳細不明なので想像するに、お坊さんは「死後の世界は仏教のほうが神道よりも良いから、故人のためにも宗旨替え?して墓も換えた方がよい」というようなことを言ったのではないか? それはお寺にとっても都合がよいのだろうから・・

    そう考えると、この小串という漁業の地であっても奥津城と称する墓が(よく確認できないが、周囲の墓を見渡したところ)稀な存在であろうことの理由は・・多くの家が本来の神道から宗旨替えさせられて仏式の墓にしてしまった・・のではないかと思える。
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    さて、先祖が奥津城に祀られている父だが、信仰心希薄で、自宅には神棚は無く、小さな仏壇らしきものはあったが父親(私からすれば祖父)の小さな写真が置いてあるだけで、線香をあげているのを私は見た記憶がない。

    しかし父がそうなったのには、中国大陸中心に7年間の過酷な戦場で”神も仏もあったものじゃない”という経験が作用していたように思える。

    私が小学校入学から就職までの期間に、学校に提出する家庭状況調査書類や就職用の履歴書には(現在では廃止されている)"信仰宗教記入欄"があったので、父に聞くと(信仰実体が無いものの)「浄土真宗にしておけ」と言われたものだった。

    それでも父は歳をとってからの一時期に、ある”願掛け”のために自宅から徒歩12,3分の長崎神社(昔、帝銀事件があった場所の隣に在る)へ1年ほど毎日お参りしていた。

    一方私の母方の祖父の自宅(東京)には神棚だけあって仏壇は無かった。それもそのはずで、祖父の出身は福岡県宗像市神湊(むなかたし・こうのみなと)であって、ここはユネスコの世界文化遺産にもなっている宗像大社(玄界灘に浮かぶ島に在る)に渡るための港ともされて「神湊」という地名が表しているように"神が近い"地であるから。
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    日本の大企業から個人商店などまで、職場内、ビル屋上あるいは工場敷地内など、そして剣道・柔道の道場、日本刀製作(刀鍛冶)現場、陶器焼成現場などでは神棚あるいは祠(ほこら=神をまつる小さなやしろ)が設けられることも多いが、仏壇は見られない。

    私が勤務していた会社の工場部門では敷地の一角に祠が建てられていて月に一度、幹部による参拝式が行われていましたが、会社全体では従業員が2万人以上いたので、勤務期間中に亡くなる人が年間で10人前後~数人になることで、会社の菩提寺と言えるようなあるお寺で年に一度「物故社員追悼法要」が行われていた。
    つまり、私が勤めた会社は、神にも仏にも頼っていた?

    まあ、多くの日本人が”赤ちゃんが生まれて1か月たてば神社に「お宮参り/初宮参り」して、亡くなればお寺のお世話になる”というような神仏へだたり無しの状態と同じか・・
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    ◎李香蘭(リコウラン)登場!
    先日のNHKの連続テレビ小説(通称:朝ドラ)「ブギウギ」の中で、李香蘭が「夜来香(イエライシャン)」という曲を歌うシーンがあった。

    李香蘭(1920~2014)は旧姓名かつ芸名:山口淑子(よしこ)/米国ではシャーリーヤマグチ/本名:大鷹淑子。
    日本人だが中国で生まれ中国語も堪能だったために、満州映画協会(通称:満映)※専属の”中国人俳優”として、また歌手として戦前戦中の中華民国、満州国、日本で活躍し、戦後は香港や米国で活躍(米国での名はシャーリーヤマグチ)。その後日本のテレビ司会者や参議院議員(3期)をつとめた。

    ↓李香蘭 (コロムビアのHPより)
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    ※「満州映画協会」は国策会社と言われ、理事長は甘粕大尉。彼はその以前は国内で憲兵大尉時にアナキストの大杉栄や伊藤野枝らを虐殺して服役したこともある人物で満州国建国にもかかわったが終戦と同時に服毒自殺した。 映画「ラストエンペラー」では故・坂本龍一が甘粕に扮して出演した。

    さて「ブギウギ」の中で李香蘭に扮して登場したのはミュージカル俳優の昆夏美さん(失礼ながら私はこの方を知りませんでした)で、きれいな歌声で見事に (私ども高齢者はその元歌を知る者が多いのでそう判断できる) 歌い上げていました。

    ↓李香蘭に扮した昆夏美 ((C)NHK© MANTANWEBより)
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    このドラマの制作統括者によれば、もともと昆さんにはこのドラマのオーディションを受けてもらっていて、その際の魅力的な印象が強かったので、たった一話の一シーンだけでも登場願ったとのこと。

    戦前戦中の中国を舞台にした日本製の叙情歌では「支那の夜」と「蘇州夜曲」が双璧だと私は思っていますが、もう一つ同時期に日本でも流行った歌が「夜来香」で、これも私は今まで日本製と思っていたのですが、実は中国の民謡を基に中国の作曲家の黎錦光が作曲したものだそうです。

    朝ドラ「ブギウギ」では実在した笠置シズ子や服部良一は別名にしてありますが、なぜか李香蘭とこの黎錦光は実名で登場しました。

    ◎服部良一、西條八十、李香蘭、渡辺はま子らが交錯してからんだ!
    先述の「支那の夜」、「蘇州夜曲」、「夜来香」に加えて「夜来香幻想曲」という曲があって、これらの作詞家、作曲家、歌手が絡み合ってのちょっと複雑な関係とは・・(カバー版歌う近年の歌手は割愛)

    ・「支那の夜」=作曲:竹岡信幸 / 作詞:西條八十 / 歌手:渡辺はま子
    ・「蘇州夜曲」=作曲:服部良一 / 作詞:西條八十 / 歌手:李香蘭、後に渡辺はま子も
    ・「夜来香」  =作曲: 黎錦光  / 作詞:黎錦光  / 歌手:李香蘭、後に渡辺はま子も
    ・「夜来香幻想曲」=作曲: (黎錦光の原曲を基に) 服部良一

    さらに混乱させる要素として、これらの歌がからんだ映画の存在がある。

    ・映画「支那の夜」=主演:長谷川一夫 / 共演:李香蘭 / 1940(昭和15)年製作
    ・映画「蘇州夜曲”支那の夜”より」=主演:長谷川一夫 / 共演:李香蘭 / 1952(昭和27)年製作
    (1940年製作の「支那の夜」から30分カットして改題のうえ再上映したもの)

    そして「蘇州夜曲」という名の曲は映画「支那の夜」の中で劇中歌として李香蘭が歌うように作られたものなのでこの二つの映画双方ともで「蘇州夜曲」を李香蘭が歌うシーンがある。

    ↓映画「蘇州夜曲”支那の夜”より」のタイトル
    movie-title

    ↓同上映画の出演者名
    actress-name

    ↓同上映画の中の李香蘭(ITによる着色化したもので本来はモノクロ)
    rikouran-in-syk

    ↓同上映画で出演の長谷川一夫と李香蘭(本来モノクロ)
    rikouran-with-k
    上記画像4枚は「なつかしの映画をカラーで」サイトより

    ◎李香蘭はイサム・ノグチと結婚していた時期あり!
    イサム・ノグチ(1904~1988)は日系人で彫刻家、造園家、インテリアデザイナーその他の多才人。
    手掛けた彫刻や庭園などは日本と世界の各地に存在するが、インテリア用品でよく目にするのは、”提灯から発想して和紙と竹ひごで構成する「あかり/AKARIシリーズ」”と”シンプルな木製脚とガラス板で構成する(通称)「ノグチテーブル」”

    ↓「あかりシリーズ」の代表作(商品:現在価格1万6千円台など)
    akari

    ↓「ノグチテーブル」(商品:現在リプロダクト品=ジェネリック家具が多く価格は4万円台~27万円台など)
    2noguti-table

    李香蘭とは1951年に結婚したが1956年に離婚。

    ↓結婚(式)直後?の二人
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    実は上の写真は、二人が結婚(式)を電撃的に行ったために報道各社がその様子撮影できなかったのでその後に撮影されたもので、実際は1951(昭和26)年12月15日午前9時に明治神宮拝殿前にて二人で拍手しただけで済ませてしまったのだった。”結婚(式)”と表記したのはこのためで、これは「形式はともかく魂で結ばれるのが本当の結婚」という二人の考え方があったから。

    そもそも明治神宮で挙式(虚式?)することになった経緯は・・結婚はマスコミなどがウルサイので、二人でアメリカからイタリアのシシリー島に行って挙式する予定だったが資格取得に3か月もかかるということであきらめ、かわりにインドで挙式と考えたが宗教上の問題で駄目となって結局日本でということになったのだそうです。

    こうして日本に到着したのが挙式1か月前の11月で、ただしイサム・ノグチ一人。理由は途中で李香蘭が急遽 香港の友人に会うことになり遅れて来るためだった。

    空港で二人を待ち構えていた人たちと報道陣は肩透かしをくらって、用意していた花束を半分はイサム・ノグチに、残り半分は”姉を迎えるべく来ていた李香蘭の妹:山口勢子さん”に渡された。その時の写真↓で中央はノグチで左が勢子さん。

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    (上写真2枚と結婚関連内容は「毎日グラフ別冊 サン写真新聞 昭和26年版より抜粋」)

    それにしても、さすが国際的に活躍の二人は考え方も行動もスケールが大きいですね。

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    李香蘭はノグチと離婚の2年後1958(昭和33)年に外交官の大鷹弘 氏と再婚し2001(平成13)年に死別しているので彼女の本名は大鷹淑子のまま亡くなった。
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    現在の日本では「支那(シナ)」の呼称は使わないのがよいとされている。古来から世界各国が中国を指して「シナ」に近いような呼称を使っていて、それが英語では「CHINA」になっているほどだが、ある時期から日本人の一部が"
    支那(シナ)"を蔑称的に使うようになった過去があるためである。

    私が子供の頃(昭和20年代)に「支那そば」と呼んでいたものが、その後「中華そば」になり現在では「ラーメン」が大勢を占めている。同様に「メンマ」を昔は「シナチク」と言っていた。
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    新春を迎えられたお祝いとともに 今年のご健勝をお祈り致します

    さて、今年は辰年ということで・・ 

    神温泉(りゅうじんおんせん:和歌山県田辺市)は「日本三美人の湯」の一つです。※
    弘法大師が難陀王のお告げによって温泉場のかたちを整えたという言い伝えがあり、
    また中里介山の「大菩薩峠」という超長編にして未完の小説の中で
    主人公”机之介が眼を癒した”温泉とされて有名になりました。

    あとの二つは、島根県「湯の川温泉」と群馬県「川中温泉」

    龍神温泉
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    実は私、龍神温泉に一度だけ1972(昭和47)年に行っております。
    当時の職場の先輩にさそわれて、この年に運航開始した「神紀フェリー」に神戸から乗り
    白浜で下船してから約30キロ先の山あいの川沿いにこの温泉は在りました。 

    神紀フェリー
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    「神紀フェリー」は神戸~白浜間を結んでいて、当時はその2地点の間を陸路で往来するには
    道路事情の悪さで時間がかかったので、フェリーの採算がとれると見込まれたのでしょう。

    (正月の話としては恐縮ですが) その後の神紀フェリーは経営不振となって
    1975年に廃止され、船は以後国内の他のフェリー会社、さらに海外へと転売され
    最後は事故で沈没したそうです。

    ついでに同様の例として私が思い出すのは、かつて存在した「セントラルフェリー」。
    これを運営した「セントラルフェリー(株)」は神戸と川崎を結ぶ海路の動脈を目指して、三洋電機創業者でもあった井植歳男氏が設立して開業準備していたが始業前に死去したため弟の井植祐郎氏が三洋電機の2代目社長になるとともに、この「セントラルラルフェリー」会社の社長にも就任している。

    この会社は、大型トラックなら130~150台を積載できる6000トン級の船を5隻も神戸~川崎間に就航させて1971(昭和46)年6月に運航開始したが、なんと当初より陸路輸送に押され気味で翌1972(昭和47)年11月には運航停止になり、その後に船はギリシャの船会社に売却された。

    セントラルラルフェリー 
    (ブログ「N.Eの玉手箱」より引用)
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    このフェリー会社の元々の設立者は明らかに”市場の読みを失敗”しているが、私の経験からみるとほんの少しだけ同情できる部分があり、それは・・

    私は1970(昭和45)年頃は大阪と東京間をクルマで年に2~3回往復していましたが、東名神高速道を夜中の2、3時頃に走行していると、自分のクルマの前後に1台も走行車が無いという区間がいくつもあった(今では考えられない)状態だったのですが、

    その5年後には前述と同じ道路の同じ夜間時間の同じ区間でさえも“大型トラックに前後左右を挟まれて走行”するような状態に、つまり特に深夜ではトラックが圧倒的に多いという状況にあっという間になってしまったからで、トラックによる陸路輸送時代の到来スピードが読めなかったのでしょう。

    蛇足ながら、龍神温泉から南西約28キロにある田辺港は、
    私の両親たちが戦後、台湾からの引き揚げ船で帰還して上陸した地でした。

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    それでは みなさま今年もお元気に !
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    ※以下文中の「西武百貨店」は現在「西武」と称しています

    ◎百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位なのに・・
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    (株)そごう西武の労働組合は、親会社であるセブン&アイ・ホールディングスがそごう西武を米国の投資ファンド会社に売却する方針発表したことに反対して、先日(2023.9.1)に旗艦店である西武池袋本店でストを行った。しかし同じ日に売却決定が発表された。

    ここではスト決行に至った細かい理由は省略しますが、特に西武池袋本店の誇りある従業員の思いは察するに余りあるもの。なにしろ百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位(2022年)※を誇っていて、これだけ頑張っているのに・・という思いだろう。

    ※1位:伊勢丹新宿本店3276億円 / 2位:阪急うめだ本店2610億円 / 3位:西武池袋本店1768億円 / 4位:JR名古屋高島屋1724億円 / 5位高島屋日本橋店1430億円 / 6位:三越日本橋本店1384億円(以下省略しますが、全店舗総額では高島屋が7611億円でトップ)

    かつて東京都豊島区南長崎に在った我が家から最寄りの西武池袋線の東長崎駅から2駅先の池袋駅(終点)に直結した西武百貨店まで”ドア・ツー・ドア”の所要時間は15分・・なので私は、もの心がついてから東京を離れる22才までの間、最も利用したデパートが西武池袋店だったから、現在の状況には寂しさを感じながら今後を心配するものであります。

    ◎私が最初に見た大きなビルが池袋の西武百貨店
    私が5才の頃、祖父に連れられて池袋に行った時のこと、西武百貨店の建物に面した歩道を歩きながら祖父から「どうだい、ずいぶん高い建物だろっ!」・・と上を指さしながら言われたことを覚えている。※

    ただし、その時は建物の完成直前で、まだ一部工事が行われているような状態ではあった。しかも現在のように南北に長い建物になる前だったので南側半分の長さだったのだが・・。
    今、調べてみると西武百貨店の前身である武蔵野百貨店の跡に建物が完成したのは1952(昭和27)年9月だそうで、私はその工事を見ていたことになる。西武はその後に北側へ増築や改装を重ねている。

    西武池袋店最初の建物(私はその完成直前の姿を見ていた)(写真は1950年代前半撮影か?:ブログ「あの町 この道」より引用)・・その後、同店は写真手前=北方向に増築して伸びた)
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    ※「高い建物」と言っても、当時は高さ制限で31メートル止まりで、普通は8階建てが限度だった! これは1919(大正8)年に制定された「市街地建築物法」によって建物の高さにいわゆる「百尺制限」が適用され、百尺=30.303メートル以下に制限されていたものが・・

    1931(昭和6)年に同法が改正されてメートル表記にして31メートル以下とされて以後、1961年の建築基準法改正で容積率による制限方式への変更を経て、1970年に絶対的高さ制限が撤廃されるまで続いたから。

    ◎東に西があり、西に東がある池袋?!
    現在の池袋駅”東”口には”西”武(百貨店)が在り、”西”口には”東”武(百貨店)が在るので、そのようによく言われるのだが、昔は”東に西があり、西に東がある”のは今と変わらないものの中身がちがっていた・・

    というのは・・”東”口には”西”武(百貨店)が在って、”西”口には”東”横(百貨店)が在った時代があったから。(後に、西口に東横と東武が短期間だが並立した時期もある)

    昔の池袋には百貨店が最多で5店存在したことがあり・・

    西武百貨店(東口)=開業1949(昭和24)年~
    東横百貨店(西口)=開業1950(昭和25)年~閉店1964(昭和39)年(東武に譲渡)
    丸物百貨店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店1969(昭和44)年(西武に譲渡後パルコ第一号店になった)
    三越池袋支店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店2009(平成21)年(現在、ヤマダ電機「LABI 1」店)
    東武百貨店(西口)=開業1962(昭和37)年~

    右に丸物百貨店、左に西武百貨店(松井一彦氏1967年撮影)
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    左は東横百貨店(高木進一氏1963年撮影)、右は建設中の三越池袋支店(1957年、撮影者不明)
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    上の写真3枚は全て豊島区立郷土資料館発行誌「かたりべ」掲載より引用

    ◎西武百貨店の火事(1)捨てたマッチの火が招いた大惨事
    1963(昭和38)年8月22日12時50分頃、西武池袋店7階から出火。
    死者7名、負傷者216名となる。(当日は休業日で来店客は無し)

    出火原因はマッチの残り火。休業日を利用して店内消毒を専門業者7人が行っていたが、作業員がタバコに火をつけた後のマッチを床に捨てたところ、床にこぼれていた消毒液に引火し、さらに塗装業者のシンナーにも引火したので火のまわりが速く、当時はスプリンクラー設置義務もなかったために初期消火にも失敗して、100台の消防車が出動して梯子を伸ばしても7階までなので8階にも延焼して鎮火したのは同日20時35分。

    消毒会社と西武店員の死者・負傷者を出すに至った。被害総額は当時の金額で200億円。この火事を契機にスプリンクラー設置義務が制定された。

    西武百貨店火事のニュース映画タイトル (中日ニュースより)
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    燃える西武百貨店(同上ニュース映画より)
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    私が子供の頃は、空気が乾燥する冬には子供たち数人のグループが拍子木をカッチ、カッチと叩きながら「火の用心、マッチいっぽん火事のもと!」と大声を出しながら町内を歩いて巡っていたものだが、まさに西武百貨店の火事は"その言葉どおり"になった。

    ◎西武百貨店の火事(2) 鎮火直後セールで汚点
    なんと火事の2日後、同店は「冠水商品大安売り」を告知したものの、それを知った人たち5万人が押し寄せたために中止となったが、これには「多くの死者、犠牲者を出した直後で不謹慎である」との批判が出たことも影響している。

    私は当時これを聞いた時、「さすが近江商人! 何はともあれ商売か!?」と思ったものでした。
    しかし後年になって、”近江商人”とは近江の国(現在の滋賀県)に自家、拠点を構えてそこから全国に向けて行商する人たちを称したものであることを知ったことにより、”西武経営者は厳密には近江商人ではない”ことになると認識した。

    ちなみに、創業者が近江国(おうみのくに)または滋賀県生まれの会社は・・西川(寝具) / 小泉産業(家電その他) / 高島屋(百貨店) / 伊藤忠商事・丸紅(商社::両社とも創業者は同一人物) / 日本生命(保険) / ワコール(女性用下着その他)など。

    しかし、”西武”が近江商人と全く無関係ではないとは言えるその理由は・・

    現在の西武関連の多数の会社の基を一代で作り上げたのは滋賀県(昔の近江)生まれの堤康次郎(やすじろう:1889~1964)氏であり、早くに父を亡くした氏は母方の祖父と一緒に、行商はしなかったものの色々な仕事をした中には、滋賀県内での耕地整理と土地改良というものがあって、

    これが後に氏による伊豆、箱根の観光地、軽井沢の別荘地、東京の高級住宅地「目白文化村」などの開発に影響を与え、西武鉄道、西武百貨店の展開につながったものと考えられる。なお氏は一方で政治家の一面をもち、衆議院議長を務めたこともある。
    堤康次郎氏
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    そしてなんと現在の「近江鉄道(株)」は創業者が滋賀県出身であり、第二次大戦中に苦境にあった同社を同郷の堤康次郎が救うために西武グループの子会社にして今に至っているもので、

    同社の鉄道車両は関東で走っていた西武鉄道の車両の"お下がり"を利用している。このように"西武と近江はつながっている"。


    堤康次郎氏の死後,”西武鉄道(現、西武)グループ”(土地開発などの不動産関連や西武鉄道)の経営を氏の三男の堤義明(1934=昭和9年~)氏が、”西武流通(後のセゾン)グループ”(西武百貨店など流通部門)の経営を二男の堤清二(1927=昭和2年~2013=平成25年)氏が継承した。(二人は異母兄弟)

    堤義明氏(左)と堤清二氏(右) (写真は日本経済新聞より引用)
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    ・・というわけで、西武百貨店火災の時点で堤清二氏は同店のオーナー店長だったのだが、”東京大学経済学部卒で経済学博士である一方で「辻井喬(つじいたかし)」というペンネームをもつ小説家・詩人”でもあった氏が何故に“鎮火直後の「冠水商品大安売り」という失策”をしてしまったのだろうか?

    これだけのご仁も余程 気が動転していたのだろうか?・・結果として西武百貨店の歴史に汚点を残した一件であった。

    ◎西武百貨店の火事(3) イカリ消毒社は堤氏に赦免されて後の発展につながる
    イカリ消毒(株)は1957年に創業して間もなく創業者が死去したため、その息子二人(黒澤眞次氏、黒澤敬氏)が事業継承して間もない1963年に西武の火事を起こしてしまった。時に眞次氏23才、敬氏21才だった。

    鎮火後、イカリ消毒の経営者の二人は「刑務所に行って死んでお詫びする」ことも考えながらすぐさま堤清二氏のもとへ謝罪にうかがったところ、清二氏から驚くべき言葉を聴いた、それは・・

    「君たちはまだ若い。それに君たちの仕事は今後ますます必要とされるだろう。このような事故を二度と起こさないことを誓い、世のため人のために頑張りなさい」

    その上でさらに清二氏は”損害額のほとんどを西武側で負担”したのだった。

    その有難い言葉と処置の意味を肝に銘じた二人は、それ以来”知恵と技術の向上と絶対の安全”を誓ったが、先ずはこの火事は自分たちが”危険物取扱い”に資格が必要なことさえ知らなかったという無知に気づき、以後は” 危険物取扱主任”資格をはじめとして各種資格取得をして、

    特に黒澤眞次氏は82種もの資格を得た。社員にも奨励した結果、現在では社員650人全員の取得資格総数は4500におよんでいるとのこと。

    その他にも”世のためになること”に注力するなどで信用と実績を積み、今や「イカリ消毒(株)」は・・消毒・害虫駆除の分野のトップ企業として年商150億円となった。・・これは堤清二氏の偉業というか英断による結果とも言えるだろう。

    ◎西武百貨店の火事(4)パトカーの交信内容を聴いていた私
    この火事が起きた日は高校生の私にとって夏休みの最中だった。当時の私の趣味の一つに”アンプや受信機の製作”があったのですが、その流れで”市販のFMラジオの中身のコイルを少し細工して”警察無線を傍受できるように改造していた。今は傍受不可能だが当時は”パトカーと警視庁の交信”などが聴けた。

    その日の昼過ぎにたまたま改造ラジオのスイッチを入れて警察無線傍受を始めたら、池袋の西武百貨店の火事に(消防車だけでなく)出動したパトカーの無線交信が入ってきたので、慌てて2階の窓から東方の池袋方向を見たら確かに大量の煙が見えた。(自宅から西武百貨店までは直線距離にして約2.5キロだった)

    私にとってこの火事発生のニュースは新聞はもちろんテレビでも伝わる前に知ったことになったのですが、ここからお話が飛んで・・

    1961(昭和36)年4月12日にソ連(現、ロシア)のユーリイ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功しましたが、これもたまたまこの日の午後(時刻は記憶にないのですが)に短波放送が聴けるラジオのダイヤルをまわしていたら、普段は昼には聞こえない「モスクワ放送(日本語版)」が聞こえて、なんとその内容が「今、ソ連の宇宙飛行士が地球の周り回っています!という実況中継のようなものだった」ので私も興奮した。

    なぜなら世界初の人工衛星がこれもソ連によって打ち上げ成功した(忘れもしない)1957年10月4日から3年半しか経っていなかったから。

    この有人宇宙飛行の件もまた” 新聞、テレビで伝わる前に知った”ことになったわけですが、後年に知ったのは”ソ連はこの有人宇宙飛行が成功するか否か分からないために、ガガーリン(本来は軍人)が宇宙飛行中に「2階級特進」を本人に伝達した”ということなので、

    ひょっとすると私が聴いたモスクワ放送の内容は”ガーリンが地球の周りを一周して無事帰還に成功”した後に録音版を流したのではないかと思える。それはもちろんリアルタイム放送中に失敗したらマズイでしょうから。
    ユーリイ・ガガーリン(写真は「スプートニク日本ニュース」より)
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    ◎西武百貨店の「日本一」「日本初」(バルサミコ酢も)
    今、窮地に立つ西武百貨店だが、その旗艦店である「西武池袋本店」は、かつて「日本一」や「日本初」を誇るものが沢山ありました。

    ・売上高日本一:1983年に、当時それまでトップだった三越本店を抜いて売り上げ1位になっていた。
    1963年師走の西武百貨店の売り上げ金勘定での札束の山 (以下の写真3枚はTBSテレビ「ひるおび」より)
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    ・百貨店の建物の長さ日本一・・現在の池袋本店に増築完了した際には「日本一どころか東洋一」。

    ・百貨店として初の「パリ オフィス」開設。その結果、エルメス、アルマーニなど有名ブランドを多数導入し、特にラルフローレンを日本へ初めて紹介して普及させた。

    ・百貨店屋上にヘリポート設けて観光事業は日本初・・最盛時には6台のヘリコプター発着。
    「西武スカイ ステーション」と名付けた屋上ヘリポート(1959=昭和34年)
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    ↓屋上ヘリに乗り込み新婚旅行に向かうカップル(1959=昭和34年)
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    ・日本最初のセレクトショップと言われる「SEED館」設置。

    ・百貨店の包装紙デザインに外国人を日本初採用。1959(昭和34)年にスウェーデンのデザイナー「スティグ・リンドベリ」氏によるデザインを包装紙に採用。図柄は”百貨店の多様な品揃えを表して楽しさを感じる”もので人気があった。
    ↓スティグ・リンドベリ氏デザインの包装紙 (私の保有品)
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    しかし西武のイメージ変化に対応させるべく、その使用は1975(昭和50)年までにして同年から日本の著名なグラフィックデザイナー田中一光氏による”青と緑の円で構成する清楚な感じ”のデザインを採用している。
    田中一光氏のデザイン(これは紙袋版)
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    ちなみに日本初の”百貨店オリジナル包装紙”は三越のもので、”濃いピンクの丸っこい石が転がっているようなデザイン"は著名な画家の猪熊弦一郎氏のもの。

    ・日本で最初に「バルサミコ酢」を紹介販売して現在の普及につなげた。
    このバルサミコ酢の件は、今から35年くらい前に故田中千博氏(フードシステム研究所所長、食卓懇話会など主催、食関連著書多数)から私が直接お聞きしたのですが、

    「毎年、相当な期間を海外で"食"関連事情を調べることに費やしている中で、イタリア北部で”ワインと濃縮ぶどう果汁を原料にして熟成させて作る酢”で「アチェート・バルサミコ」と称しているものに出会ったが、これがすばらしいので日本に紹介するべく、西武池袋店に”展示紹介・販売”するよう提案して採用された」・・ということでした。
    ・・・・・・・・・・・・・
    さてさて、百貨店が「諸行無常」のならいに抗う方法を見つけてほしいものです。
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    ◎科学博物館(略称:科博)に1日で1億円の寄付集まったが・・
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    国立科学博物館(東京・上野)は、同館へ国から支給されている運営費交付金が年々削減されている中、コロナ禍で来館者減となって入館料による収入も減り、さらなる光熱費や物価の高騰で収蔵用の標本や資料の収集と500万点以上ある標本類の保存のための資金繰りが苦しくなっていることを理由に先日(2023.8.7)、インターネットを通じて寄付を募るクラウドファンディング(CF)を始めたところ、驚くべきスピードで募金が寄せられて開始9時間20分後の午後5時20分には目標としていた1億円を達成した・・というニュースが流れて、私はそのスピードと集金額よりもむしろ”日本の人たちの文化度、民度の高さの現れ”として感動した。

    このクラウドファンディングは11月5日まで続行する予定だそうだが、何と今日(2023.09.09現在で7億4800万円超も集まっている!

    科学博物館内展示物一例、右は「フタバスズキリュウ」の骨格化石
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    ◎牧野博士の植物標本も収蔵する「小石川植物園」もCFが!
    牧野富太郎博士はその94年の生涯で1500種の植物に命名し、約40万点に及ぶ植物標本や観察記録(図)を残したが、その多くは”終の棲家”として約30年間住んだ東京都練馬区の自宅(現、練馬区立牧野記念庭園)に残されていたものの、(牧野博士は名誉都民第一号でもあり)その後東京都が譲り受けて現在「東京都立大学 牧野標本館」(東京都八王子市)に収蔵されているが・・

    当然のように、長年在籍した東京大学にも一部が残っていてそれらは博士が37年間もかかわった「小石川植物園」(←通称であり、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」:東京都文京区)に収蔵されている。

    小石川植物園内の植物学教室で撮影された牧野富太郎博士(東京大学HPより)
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    5万坪弱の植物園に囲まれた本館(建物内は非公開)
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    本館内には研究室、実験室、図書館、80万点の植物標本の収蔵庫が在るが、1939(昭和14)年に完成した建物は雨漏り、外壁損傷が発生し、標本収蔵庫は満杯なうえに保管のための湿度温度調整用機器も老朽化などで早急な対策が必要だが「資金が無い」と園長の北川篤教授は訴えて・・

    丁度、小石川植物園発足150周年でもあり、募金を受け付けるキャンペーンを行っていて、うたい文句は・・「緑の命を、未来につなごう」・・として「Life in Green Project」と銘打っている。

    期間は2023年4月から2024年3月。目標金額3億円。・・ところが・・現在(2023年9月)のところ約1536万円しか集まっていないようだ。

    先日、私がたまたまテレビで観たのですが、”科学博物館1日で1億円集まる”のニュースに関連して、この小石川植物園の窮状も伝えたシーンでは・・同園の一研究員(なんと白い肌の欧米系外国人)が標本収蔵庫の中で”牧野博士が学名を与えたとしてよく知られる「キンモクセイ」の標本を博士自ら作製してサインも記入した現物”を見せてくれながら指さしたのはキンモクセイの葉の先端付近が”虫に喰われたか乾燥しすぎてパリパリになって折れたか?”で欠損している状態であり、こう言った「このように標本管理がうまく行っていないので困っています!」。

    ↓キンモクセイ:博士が命名した学名は・・Osmanthus fragrans Lour. Var. aurantiacus Makino
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    ここで、科学博物館と小石川植物園の両者はインターネットも使って募金しているのに結果の差は何が原因かを考えると・・両者とも募金に至った詳細説明では運営資金不足を訴えているものの、各々のキャッチフレーズの方向が異なり、前者は「国立科学博物館500万点のコレクションを次世代へ」とやや具体的な内容で語り、後者は「緑の命を、未来につなごう」、「Life in Green Project」という抽象的な表現.。

    もう一つ影響しているのが・・前者は今流に「クラウドファンディング(CF)」という言葉を使っているのに対し、後者は「寄付」という言葉を使っていること。

    後者は前述の”牧野博士作製の標本がダメージを受けた現物”を見せて窮状を訴え、「クラウドファンディング(CF)」という言葉を使ったほうが良いのではないだろうか!

    ◎大賀ハス存続の危機にもクラウドファンディング !
    3000年も地中で眠っていたという貴重な大賀ハスなのですが、どうやらその存在が危うくなっているようで、千葉市役所前に在った大賀ハスも消滅し、安藤忠雄氏設計の本福寺・水御堂(みずみどう:兵庫県淡路島)の大賀ハスも非常に少なくなっている様子。

    大賀ハスと大賀一郎博士
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    安藤忠雄設計の本福寺・水御堂の屋根の池の大賀ハスが衰退・・
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    また”大賀ハスと外国ハスの交配種”が千葉市の「みなと公園」の池に2種類植わっているのですが、これも消滅が近い様相を呈していて、一つは「中日友誼蓮(ちゅうにちゆうぎれん)」で、このハスは大賀博士と坂本祐二(和歌山県御坊市在住のハス研究家。ハスに関する著書もある)氏が大賀ハスの種を二人それぞれ50粒ずつ計100粒を、日本と中国の友好と平和の象徴として中国に寄贈したところ、中国武漢植物園にてその大賀ハスの種と中国古代ハスを交配した種が作られ、これが日本に贈られたもの。

    ↓「みなと公園」(千葉市)の池に建つ「中日友誼蓮」と「舞妃蓮」の説明看板
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    もう一つは「舞妃蓮(まいひれん)」で、これは1966(昭和41)年に坂本祐二氏が大賀ハスと王子蓮(アメリカ黄蓮)を交配して作ったもので、花弁が舞うように閉じるさまが優雅な花。これを1968(昭和43)年に当時の皇太子殿下(現、上皇)ご夫妻がご覧になられたのを機に、美智子妃の美しさになぞらえて命名されたもの。

    この2種のハスは私が10数年前に観た際には池全体にわたって大量に生えていた(残念ながら花は観ていない)のですが今年(2023年)7月に観たら、「中日友誼蓮」は姿が無く、説明看板によると、一旦別の場所に移して元気回復させてから再びこの池に戻す予定とのこと。一方の「舞妃蓮」は極端に少なくなっていてかろうじて存在しているような状態です。

    ここの池ではハスの代わりにスイレン(睡蓮)がはびこっていて、この状況は安藤忠雄氏設計の水御堂の池も同じように見えますから、”スイレンは強し!”と感じます。

    「舞妃蓮」はスイレンに囲まれてわずかに存在。(2023年7月下旬/千葉市・みなと公園)
    大きく丸い葉がハス、小さく「パックマン」のような葉がスイレン
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    lts5 (2)

    ハスの毎年開花にはボランティアとクラウドファンディング必要
    大賀ハスに限らずハスの花を継続的に毎年咲かせるために理想的には、3年に一度は土を入れ替え、土中で増えすぎて密集している蓮根を間引いて整理するなどの手入れの必要があるそうで、これをしないと花咲かずに葉ばかり出るようになり、やがては衰退するそうで、前述のような”各地のハスの衰退状況”はこの手入れが行き届いていない結果だろう。

    千葉市に在る「ハス品種見本園」は東京大学の旧、緑地植物実験所に在ったハスの管理を受け継いだもので、大賀ハスをはじめ世界各地のハス約120種をそれぞれの種類ごとに”一辺280センチの正方形で深さ60センチのコンクリート製の枡(ます)”などで栽培維持していますが、前述のように土(”田土”が最適)の入れ替え、蓮根の整理、肥料やりなどの作業を「大賀ハスのふるさとの会」のボランティアの人たちが行っている。

    枡で育成中の大賀ハスを見学する中国の「大連市普蘭店区古蓮研究所」の視察団:2016年10月 
    (大連市普蘭店の地はかつて大賀博士が中国古代ハスを発見した所)    
    chinese-t

    毎年持続してハスの花が咲くためのこのような作業には人の労力の必要のみならず、土や肥料代など経費が発生して、この「ハス品種見本園」では1枡当たり年間3万円かかるそうで、毎年開催の「ハス祭り」や「観蓮会」で”花托(かたく)※”や”ハスの絵葉書”などのハス関連グッズを販売したりして資金捻出していたが、コロナ禍の影響で収入激減してしまったので・・

    「ハス品種見本園」の維持管理継続のためのクラウドファンディングをすることになり、目標額:35万円として、2021年3月から約一か月かけて72人から46万8千円が集まって、その後の運営が継続されているとのこと。

    「花托」とは、ハスの場合は花の中央の黄色い円形部分で表面に10数個~30数個の小さな穴があるもので、花びらが散った後はその直径が大きくなり緑色に変化し穴も少し大きくなり、最終的には直径10センチぐらいなどになり茶色になる。穴が大きくなった花托は蜂の巣のような印象となり、それぞれの穴には種(実)が入っている状態になる。
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    (↑真ん中の写真は「舞坂の自然を守る会・ちゅうなあ通信」より引用)  
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    秘話:現在日本では大賀ハスの他にも古代ハスが発見されていて、一つは埼玉県行田市の「行田ハス」で、推定1400~3000年前のものと言われているが、その発見の契機がおもしろく、1971年にある公共施設の工事現場で開花したもので、ハスの種というものは堅い殻に包まれていてしかもその表面は撥水性があるため水を吸わない状態で何千年も休眠できるようだが、工事用の重機によって殻の一部が破れてそこから水が入ったために眠りを覚まされて発芽したと考えられている。
    (現在、園芸用にハスを種から育てる場合には必ず種の尻部を切り欠いてから水に漬ける手順がとられる。)
    もう一つは、群馬県館林の城沼のハスで、これも前述の行田ハスと同様、推定1400~3000年前のものと分析されているが、ここのハスは太古の昔から絶えることなくこの沼で生き続けていると考えられている。
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    飛話:近年は非正規就労者や介護職などの給与水準の低さが指摘されていますが、最近は学芸員(博物館や美術館で働く専門職)についても同様の指摘がでてきました。

    そこで思い出すのは・・私が小学校高学年時に上野の科学博物館に(父親に付き添われて)行き、アンモナイトの化石とデスモスチルス
    (日本やサハリンあたりに生息して1300万年前くらいに絶滅したとされる海獣)の骨の一部の化石(と思われるモノ)を、同館の地下に在った地学課で鑑定をしてもらって、前者は約2億年前のセラチテスという部類。後者はデスモスチルスではない他のもっと新しい時代のモノであるが種類は判定不能という結果でしたが・・

    鑑定して下さった地学課長の尾崎博さんは当時のテレビにもコメンテーターとして出演するほどの方だったのですが、私がお礼を言っての帰り際に尾崎課長から「君、地学で将来食っていくのは難しいよ」というショッキングな言葉を投げかけられたのでした!・・

    それは、今から70年ほど前の昔も博物館の学芸員は薄給だったという背景があったからでしょうが、最近の各所で行われているクラウドファンディングの結果で学芸員給与アップに反映されれば良いのですが・・。
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    5月5日は「子供の日」またの名は「端午の節句」・・というわけで、空に泳ぐ鯉のぼりを眺め、しょうぶ湯に浸かり、”柏餅”や”ちまき”などを食べる慣習がありますが・・

    tangonosekku

    ◎「柏餅」の「柏」は本当は「槲」
    いわゆる「柏餅」に使われている「カシワ」は「槲」の文字が正しいのですが「柏」が通用してしまっているもので、「柏」は本来「コノテガシワ」という別種を表す文字。

    一般的な柏餅に使われるカシワの葉↓
    kasiwanoha

    カシワの葉が使われる理由は・・カシワの葉は枯れても次の年に新芽が出揃うまでは落葉しないため、「家系が絶えない」「子孫繁栄」など縁起が良いとされたから。

    しかし”端午の節句に食べる(柏餅に当たる)お菓子”は地方によって、使われる葉や呼び名などが異なる。

    それを知ったきっかけは・・今から半世紀以上前のある年の端午の節句の日、私が柏餅を食べている時に、居合わせていた祖母(母方)が、「私が子供の頃は、端午の節句には『がめの葉』というもので包んだ餅を食べたものよ」と教えてくれたからで、祖母は現在の福岡県宗像市で生まれ育った人だから、私は、九州の福岡県では”ちがう習慣”なのだと理解し、後年調べてみたら・・

    ◎「サルトリイバラ」のことを福岡県北部では「がめ」と言う
    “がめの葉”の”がめ”とは「サルトリイバラ」のことで、別名サンキライ(山帰来)、ガンタチイバラ、カカラなどという、サルトリイバラ科のつる性多年生植物で”つる”にトゲがある 秋に赤く丸い小さな実がなる。分布は日本全国、中国、朝鮮半島。

    ↓サルトリイバラ(葉と茎とトゲ)/右写真は葉の裏  (「庭木図鑑 植木ペディア」より引用)
    sankirai-leaf
    「がめの葉」という所以は、葉の形と葉脈が亀の甲羅に似ているから。

    ↓サルトリイバラの葉でつつんだ(挟んだ)饅頭(写真は中村学園大学 栄養科学部HPより)
    gamenoha-moti

    ◎「サルトリイバラ」の葉使う餅(又は饅頭、団子)は近畿、四国、九州にある
    「サルトリイバラ」は「がめ」の他にも地方によって異称があり、そのためにその葉を使った餅または饅頭、団子の名前もちがっている。

    ・福岡県北部・・異称は「がめ」  →「がめの葉」を使った「がめの葉餅

    ・鹿児島県・・・異称は「かからん」→「かからん葉」を使った「かからん団子」

    ・長崎県・・・・異称は「かから」 →「かからの葉」を使った「かから団子」

    ・三重県・・・・異称は「いばら」 →「いばらの葉」を使った「いばら餅」

    ・徳島県・和歌山県・・異称は「いばら」 →「いばらの葉」を使った「ばら巻き」、「いばら饅頭」

    ・高知県・・異称があるか不明だが→「サルトリイバラの葉」を使った「しば餅」

    ・紀伊/四国/南九州・・「異称各種?のサルトリイバラの葉」を使って「五郎四郎餅」と称する地もある

    ・九州の一部地域・・「サルトリイバラの葉」を「だんごっぱ」と言う


    ↓鹿児島県・屋久島の「かからん団子」(日本テレビ系「遠くへ行きたい」2020年放送より)
    包んでいる「かからん葉」を開いた状態。中身の餅が黒っぽいのは、湯がいたヨモギをミキサーにかけたものに黒糖を加えて上新粉と白玉粉でこねて蒸したものだから。(食すのは端午の節句だけではない)
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    ↓かからん団子を(俳優の松尾諭が)手に持っているところと食べているところ
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    ◎なぜ西日本ではサルトリイバラの葉なのか?
    カシワもサルトリイバラも双方とも北海道から九州まで分布していることになっているが、カシワはどちらかと言えば寒冷地を好むため、西日本ではカシワの自生数が少ないことと、もともとサルトリイバラの地下茎は腫物、ニキビなどに効き、葉は風邪の解熱、膀胱炎など効くという効能もあってサルトリイバラの葉が使われるようになった。

    ※実は、このブログにちなんで、千葉県でもサルトリイバラが生えていないものか探し歩いたところ、見つけたので西日本でなくても存在していることが確認できましたが、それでもカシワの葉を使った柏餅しか在りません。

    ↓千葉県で見つけたサルトリイバラ(4mくらいの高さの場所にあるのでズーム写真がボケています)
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    ◎柏餅の関西と関東のちがいは?
    関西・・餅の形が丸く、葉っぱをとれば大福餅のようなカタチ。材料は白玉粉がメイン。
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    (↑「七條甘春堂」のHPより)

    関東・・餅の形はやや平たく、言わばあんこを包んだクレープに近いカタチ。材料は上新粉がメイン。
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    (↑「湘南菓庵 三鈴」のHPより)

    ◎関西の端午の節句は「ちまき」が多い
    今回のブログの冒頭のイラストで皿の上に柏餅と並んだ「ちまき」。端午の節句にちまきを食べるのは関西が多いのですが、東北、北陸、中国地方も食べるそうで、岡山県ではちまきと柏餅の両方が存在しているとのこと。

    「ちまき」は古代中国の楚の詩人・政治家の「屈原」の命日にあたる5月5日に供養のために備えたのが始まりだそうで、それが日本に伝わって平安時代には普及したとされるが、当時の中国文化の受け皿は奈良・京都であったため関西文化として定着したものの、それが関東などへは'(いわゆる)"下(くだ)らなかった"ものであろう。

    ◎鹿児島県の「あくまき」
    端午の節句に特に鹿児島県で食べられる「あくまき」。”あく”は”灰汁”のことであり、文字通り(木材などを焼いて作った)灰を溶かした水に”もち米”を浸した後、孟宗竹の皮に包んで再び灰汁水で煮込んで作る。
    ↓「あくまき」(きな粉をまぶした状態)(画像は農林水産省のHPより)
    akumaki

    アルカリ性である灰汁はもち米を軟らかくする上に殺菌性があり、保存がきくので、元々は昔の戦の際に食べられていたこともあって、端午の節句に関係付けられるようになったとされる。

    「あくまき」は時に「ちまき」とも呼ばれるように、中国伝来のちまきが鹿児島に伝わってきて、この土地ならではのカタチに変化したもの・・という理由は・・なにしろ鹿児島県は竹林面積が日本一で日本の全竹林の1割以上を占めるほど竹豊富。ならば竹の葉よりも”巾が広くて強い竹皮”を使うべし‥と言うことになったのだろう。竹皮も殺菌力があるし!

    「あくまき」の良さが伝わり、宮崎県や熊本県の人吉、球磨地方でも食べられるとのこと。
    ・・・・・・・・・・・・・


    ※前回の”円周率に関するちょっとした間違い情報”に続いて今回はトランジスタテレビに関してです。

    今や、わざわざ「トランジスタを使用したテレビ」なんてメーカーは言いませんが、世の中にテレビが登場してしばらくは、その中身に真空管が使われていたところに、今から60余年前、その真空管に代わってトランジスタというものが使われだしました。その結果、テレビは一気に小型・軽量・省電力で熱もあまり出ないものになりました。

    そのトランジスタ化したテレビの登場にかかわるちょっとした誤報を、ご紹介します。

    ◎某「デザイン評論家」氏の間違い
    氏は30冊以上の著作物がありますが、昭和60年代末頃に出版されたある本の中で、近代デザインの流れを紹介している分部があり、事例の一つとして「最初のトランジスタテレビ」をとりあげて、その写真も添えているのですが、これが間違っているのです!

    何が間違っているのか・・それは掲載写真がソニーの「マイクロテレビTV5-303」型のものだったからで、このテレビはソニーのトランジスタテレビとしては2番目のもので発売は1962(昭和37)年。
    ソニーのトランジスタテレビ第2弾TV5-303
    tv5-303

    最初の機種はそれより2年前の1960(昭和35)年に登場した「TV8-301」だったのです。
    寸法:縦18、巾20、奥行21.5センチ/重量6キログラム   
    ソニー初のトランジスタテレビTV8-301 
    tv8-301
    ・・というわけで、著名な評論家の著作本ゆえに、これを信じた人が多いでしょうが、その後何らかの方法で訂正されたのでしょうか?

    ※↓当時使われていた”ソニーのトランジスタの形状”
    sound-tenji-b (5)
    右から2番目の最小のもので黒い本体部の直径5.5ミリ、高さ8.6ミリ

    さて、ここで初期のトランジスタテレビについては誤解をまねく状況があったので、結果として誤報が生まれたことなどを紹介しましょう。

    ◎世界初のトランジスタテレビは「モトローラ」社が発売
    発売は1958年。「モトローラ」社は米国の電気メーカーで現在はレノボ傘下になってスマホを製造していますが、昔はテレビやトランシーバ、そして世界初の携帯電話を作り出した企業。ついでながら、昨年まで私のパソコンへつないでいたルーターもモトローラ製でした。残念ながらその世界初のトランジスタテレビの姿や詳細が私には見つかりません。

    ◎世界で2番目のトランジスタテレビは「フィルコ」社が発売
    発売は1959年。「フィルコ」社は自動車のFORDの子会社としての電気メーカーだったが、現在は英国のブリタニア社に買収されてスマホなどを生産している。この会社のトランジスタテレビ「H2010」は当時の日本でも注目されて、電気・電子関係の雑誌にはその詳細仕様とともに回路図まで紹介されていた。(回路図に興味ある方は、当編の後部に掲載しましたのでご覧ください)

    画面方式はブラウン管を本体内で縦に配置して、天を向いている2インチ画面をミラー(マジックミラー使用という説明もある)反射させると同時に拡大させて前面から見えるようにしたもの。

    寸法:縦42、巾21、奥行15センチ/重量:7キログラム/全面レザー張り

    ↓ PHILCO H2010 ①左はミラーの様子がわかるもの、②真ん中はレザー張りがわかる、③右は実際の画像が見える状態
    philco-tv
    引用元:①「ラジオ少年の博物館」のブログ、②ヤフオク出品物、③「真空管テレビ工房」のHP)

    ◎「直視型」トランジスタテレビではソニーが世界初
    「直視型」とは、ブラウン管の画面が直接見られる、いわば一般的なものを言い、先述のフィルコ社のトランジスタテレビのようにミラーを使った反射映像を見るタイプに対する形式。

    それゆえに、(ネット上で散見されるような)ソニーのTV8-301型を単に「世界初のトランジスタテレビ」とする言は正確ではないことになる。ソニー自身も「直視型として世界最初」と表現している。

    ◎発売時に世界最小・最軽量だったソニーTV5-303型
    ソニーのTV5-303型の寸法は、縦11、巾19.4、奥行き18.6センチ/重量3.7キログラム。
    発売の1962年時点では世界最小・最軽量を誇った。

    ひょっとすると前出の評論家氏は”「世界最小」を「せかいさいしょ」と聞き間違えていた”のかもしれません。

    ◎初期のトランジスタテレビは真空管も使われていた
    「トランジスタテレビ」と称していたが、初期には日米のメーカーは例外なく真空管も混ぜて使っていて、今風に言えば「ハイブリッド」だった。ブラウン管も真空管の一種であるがこれは別として、当時はテレビ内部の”高圧電流の整流”用には2本または3本の真空管を使わざるをえなかった。(この稿の最後部に掲載の回路図参照ください) 後年、大電力用半導体の開発や回路設計の改良などで真空管は使われなくなりました。

    ・・というわけで、「オールトランジスタテレビ」という表現も昔はあったが、今なら誇大広告とされかねないので使われないでしょう。

    SONY CORPORATION OF AMERICAも、広告文の中で「ALL-TRANSISTORIZED」(全てトランジスタ化した)と表現してしまっていた。(下図の左側英文)
    sony-usa-cm
    (図は「廣田恵介」氏のツイッターより引用)


    余禄(1)「石」の呼称は「トランジスタ」か「トランジスター」か?
    トランジスタは日本では「石(いし/せき)」とも呼ばれ、例えばトランジスタを6個使ったラジオは「6石(せき)トランジスタラジオ」と称した。ソニーのTV5-303型テレビは25石を使っていた。

    トランジスタは日本に登場した当初からは「トランジスター」と語尾を延ばした表記がされていたが、その後(私は時期を把握できていないが)、「外来語をカタカナにした場合に3音以上になり、しかも語尾が延びる単語は、語尾の長音符号は省略する」という決まりができて、1960年台前半頃まではまだ「トランジスタ」と「トランジスター」の表記が併存していたものの、さらにその後は「トランジスタ」呼称のみとなった。
    しかし、2008年にJISの改定によって長音符合を付けた表記も認められたそうです。

    余禄(2)フィルコ社のユニークな真空管式テレビ
    フィルコ社はブラウン管部を独立させたユニークなデザインの機種をいくつか発売し、下の写真の他に四本脚を備えたものもあった。これらのテレビは当時の日本でも盛んに紹介されていた。
    PHILCOのユニークテレビ(「究極映像研究所」のブログより引用)
    philco-tube-tv

    余禄(3)ソニーTV5-303発売直後の電気雑誌グラビア記事
    (雑誌「電波技術」1962年6月号)
    sound-tenji-b (2)

    よく見るとテレビ画面のはめ込み合成と思われる写真には”プロ野球のジャイアンツの大スター背番号3の長嶋茂雄”選手の姿。(顔を見なくても私の年代ならこの姿だけで判断できる) 発売当時イコール長嶋選手活躍時代だったことがわかる。
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    そして下部の帯状広告には”テレビキット”の広告があり、これも当時はまだ”テレビはメーカー製品を買うよりも自分で製作する方が安い”時代だったこともわかる。
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    余禄(4)Appleのスマホは160億石?
    現在のアップルのスマホ「iPhone14Pro」にはトランジスタが約160億個使われているそうで、かつてのソニーのテレビ5-303は25個だったから、実に6億4千万倍にもなる!

    ・・・・・・・・・・・・
    以下は各社の初期のトランジスタテレビの回路図の紹介なので、ご興味無い方はスルーして下さい

    余禄(5)各社初期のトランジスタテレビ回路図
    昔はテレビ、ラジオ、アンプなどのメーカーは自社製品の回路図を公開していたので、電気関係雑誌社は出版月刊誌の中で回路図をよく掲載していたし、「○○回路集」の本も出版していた。

    《フィルコ「H2010」回路図》(クリックで拡大)
    回路図の中で”右下で縦に二つ並んでいる丸型の記号”が真空管。(つまり真空管は2本)
    (「ラジオ少年の博物館」のブログより引用)
    philco-circuit

    (以下、3件とも「実用トランジスター回路集」(誠分堂新光社「無線と実験」昭和38年6月号臨時増刊より)

    《ソニー「TV5-303」回路図》 (クリックで拡大)
    5-303
    上図右下部拡大図:真空管3本の記号(左の丸中に矢印あるのがトランジスタ)
    5-303tube3

    《ナショナル「T9-21R」回路図》(クリックで拡大)(真空管は3本)
    national

    《サンヨー「8-P3」回路図》(クリックで拡大)(真空管は2本)
    sanyo

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    今や「東京タワー」は「東京スカイツリー」の登場後、やや影が薄い感がありますが、私は丁度その東京タワーの建設途中から完成までの姿を遠くからですが眺めていた経験があり、また後年には建設に従事した職人たちが超高所で命綱もつけずに作業して、特に鉄骨のリベット打ちに特殊な技が使われたことなどを知ったこともあって愛着があります。
    tokyo-tower

    TOKYO TOWERのHPより

    ◎昔は9キロ離れても日増しに背が伸びる東京タワーが見られた
    東京タワーは1957(昭和32)年6月29日に着工して、1958(昭和33)年12月23日に完成。その時点でパリのエッフェル塔の高さ321(現在は330)メートルを抜いて、333メートルの”塔としては世界一”の建造物が約1年半で出来上がったことになります。

    この時期は私が小学6年生から中学1年生だった。通った東京都豊島区立椎名町小学校(現存)と同豊島区立長崎中学校(現在、廃校で解体消滅)はともに東京タワーの建設地からは直線距離にして9キロ強の地に在ったが、たまたまその間に高いビルなどの視界をさえぎるものが無かったという(今では考えられない※)状況だったために、この小学校の教室の窓から(推定ですが)地上100メートルくらいまでに伸びた骨組みが見えることに気が付いてからは徐々に上に伸びていく姿を見るのが楽しみでした。

    しかし、その途中で卒業して中学校入学となって、「もう見られない」と思っていたら、中学校の教室からも見えることがわかって心中密かに喜んだもので、結果、見事東京タワー完成を見届けたのでした。

    ※東京タワーを足元で見上げる以外に、やや離れた地点からでもそのほぼ全体の姿がすっきり見える場所は現在の東京都内でも在ります。私が知っている例は六本木交差点(有名な「アマンド」という洋菓子と喫茶の店がある)から東麻布方面(旧、飯倉地区)に向けて東南東に伸びる道路が向かう正面に1.3キロ先の東京タワーがほぼすっきり見えるケースです。

    六本木交差点から望む東京タワーは”額縁効果”(←小津安二郎監督が多用した)に近い見え方
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    ↑写真は「townphoto.net」より引用

    ◎リベット16万8千個で結合した鉄骨で東京タワーが建った!
    使われた鉄骨は塔本体に3600トン、電波送受信部に80トン、計3680トン。それを組み立てるために16万8千個のリベットが使われた。(ボルトとナットも多数使われてはいる)

    建造中に高所で鉄骨どうしを接合する際には(さすがに、タイタニック号建造時に部分的に使われた”手持ちのハンマーによるリベットの打ち込み(かしめ)という方法”はとられなかったが)職人の使う自動ハンマー工具でリベットを一本一本打ち込まなければならなかった。

    ◎800度Cのリベットを投げる人と受ける人のスゴ技
    建設現場で800度に加熱されて赤熱したリベットを、一人の職人が”柄の長いヤットコ”のようなものでつまむと同時に10~20メートル上方に居るもう一人の職人が持つ” メガホンのような形をしたリベット受け”にめがけて正確に投げるという至難の業が使われた。それはあたかも野球の投手が捕手のミットにストライクの球を投げるようなものだが、野球のスピードあるボールと違って、投げ上げられたリベットが放物線を描いてその頂点での静止に近い状態で受け手に届くようにするという技だった。しかも、投げる方も受ける方も高所の足場が悪い中で、赤熱のリベットを取りこぼせば大やけどどころか死をまねく恐れがあるという危険をともなう作業だった。

    ↓建設中の鉄骨に多数のリベットが見られる
    tokyo-tower (2)

    ↓炉から摘まみ出された800度のリベット
    (以下5枚の写真はNHKテレビ番組「探検バクモン」から引用)
    red-rivet


    ↓受け手に向けて投げられたリベット
    throwed-rivet

    ↓この取っ手の付いた受け器でキャッチ
    rivet-catcher

    ↓飛んできたリベットをキャッチしようと身構える職人
    rivet-catching

    ↓まだ赤熱のリベットがかしめられる様子
    rivet-kasime

    ◎鉄骨素材:東京タワーは軟鉄と鋼鉄、エッフェル塔は錬鉄
    東京タワーの主体を成す鉄骨は中間の大展望台(メインデッキ)までは軟鉄材、それより上層は鋼鉄材が使われた。鋼鉄材にはアメリカ軍から払い下げられたM4やM47戦車の鋼材を溶かしたものが使われた。

    一方、1889年に完成したエッフェル塔の鉄骨は錬鉄(れんてつ)材が使われた。この錬鉄という素材はあのタイタニック号の船体一部のリベットにも使われ、炭素含有量が少ないために、鉄材の中では軟らかいものだった。それゆえに塔全体の強度を確保するためには、軟鉄や鋼鉄を使った東京タワーより多くの鉄骨が構造的に必要だった。

    その結果は、東京タワーの使用鉄骨3680トンに対して、エッフェル塔は7300トンと約2倍となっている。しかしそのためエッフェル塔の方が重厚で力強く見える。ちなみに使用リベット数も前者16万8千に対して後者250万。

    ◎東京タワー誕生理由
    それまではNHKテレビ、日本テレビ、TBSテレビは各局独自のテレビ電波送信アンテナをそれぞれ東京都内の異なった場所に立てていたが、そうすると家庭などでの受信アンテナをチャンネルを変える度にそれぞれの局方向に向けなければならないことになり、それを一本のアンテナで対応するのは無理というケースも多く発生していた。しかも各社の送信アンテナの高さは153~177メートルであり、広い関東平野に電波を届けるには低かった。

    そこで各社の送信アンテナを文字通り一本化して同時に高さのある塔が必要という声が民間から、そして電波や放送を管轄する郵政省からも出ていた。そこに目を付けたのが、なんと”大阪の新聞王”と言われた前田久吉氏。日本工業新聞社、後の産業経済新聞社や大阪放送(ラジオ大阪)、 関西テレビ放送などを経営していたので、”東京に新テレビ塔を立てる”という事業は参入しやすかった。

    ちなみに関西のテレビ放送各社は、大阪府と奈良県の県境に位置する生駒山の山頂に送信アンテナを立てているので電波は楽に関西一円に届いている。アンテナ自身は低いが、なにしろ生駒山の山頂は海抜642メートルだから、アンテナの足元の高さだけで、海抜0かそれに近い土地に立つ東京スカイツリーの634メートルを超えているという好立地を活かしている。(生駒山は大阪市の最西部からでも15キロくらいしか離れていない) このような関西から見れば関東のテレビ電波送信アンテナは”低すぎる!”と前田氏が考えたのは自然でしょう。

    かくて、前田氏は「日本電波塔株式会社」を作り、多方面から資金を集めて総工費30億円(当時)で東京タワーを完成させた。それとほぼ同時に産業経済新聞社を手放した。

    ◎「マザー牧場」もつくった前田氏
    前田氏にはもう一つ夢があった。それは大阪の貧しい農家に生まれた氏が子供の頃、夜中にふと目を覚ますと母親が小さな灯りのもとで針仕事をしていた。その母親は日頃「ウチに牛の一頭でもいたら楽になるんやけどな~」と言っていたこともあり、牧場をつくってみようとした。そこで目を付けたのが”日本の畜産業の発祥地である(・・と氏が知っていたか否かはわかりませんが)千葉県”。こうして千葉県富津市の鹿野山に広さ250ヘクタールの土地を入手して、かつての母親の願いにちなんで「マザー牧場」と名付けて1962(唱和37)年に始業。以後、牛、羊、その他の動物も増やし広大な花畑もつくり、観光地化して現在に至っている。

    ↓マザー牧場のイベントの一つ
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    というわけで、東京タワーもマザー牧場も日本電波塔株式会社が経営し、創業から現在まで経営は前田一族が行っている。(現在は創業者の息子さんが社長) ただし同社は2019年に社名変更して「株式会社TOKYO TOWER」となっている。

    ◎美空ひばり?「東京タワー」エトセトラ
    ◎東京タワーの出現によって、新たな東京のシンボル(ランドマーク、アイコン)ができ、新しい風景が生まれて、多くの人が様々な思いを抱いた結果、「東京タワー」という言葉の入った曲名あるいは歌詞が入った歌が数えきれないほど多く作られた。

    私の中では、ある
    うろ覚えの歌謡曲の歌詞「~東京タワーの見える街~」が気になっていて、それが誰の何という曲なのかを覚えていないので、これを機会に調べても依然不明状態。かわりに、あの美空ひばりの「東京タワー」という曲があったことがわかった。(1959年、作詞:野村俊夫/作曲:船村徹)

    ◎冒頭で”影が薄い”東京タワーと言ってしまいましたが、一部のFM放送電波発信に利用され、また東京スカイツリーが何らかの事情で機能不全に陥った際には、東京タワーが代わって電波を発信できる体制になっており、まだまだ存在価値はあります。

    ◎2011年3月の東日本大震災では震源地から遠く離れた地に在る東京タワーでもその先端のアンテナ部分が曲がってしまったという情報を私も耳にしていたのですが、地震の2週間後くらいにたまたま六本木のスウェーデン大使館の建物越しに、先端がやや右(西側)に曲がっている姿が見えたので、持っていたガラケーのカメラで撮ったのですが、その映像を他の媒体に移さないままそのガラケーを処分してしまったのでここに載せられないのが残念です。(ちがう方向から見ればもっと曲がっていたかもしれません)

    ◎東京タワーにまたがれている恰好の地上ビル(地上16階地下2階)の中には昔、日本の大手電機、家電メーカー各社のショールームが存在していたので、私は時々覗きに行きましたが、その際にタワーに上ることはありませんでした。

    ◎東京タワーが完成した10年後の1968(昭和43)年に、当時の日本テレビ会長の正力(しょうりき)松太郎氏※が「高さ550メートルのテレビ電波送信塔建造の構想」を発表した。これを世間では「正力タワー」と称して一時期は騒がれたものの、様々な理由で結局頓挫したのですが、これについて語るとまた長くなるので割愛します。

    正力松太郎=創立させた「日本テレビ」は日本初の民放テレビ局。また「読売新聞」を発行部数世界最大にした。そして野球の「読売巨人軍」を創設した。

    P.S.・・ちなみに現在世界最高建築のブルジュ・ハリファ(828m) のいくつかある展望台の内、中間は555mにあり、幻の正力タワーとほぼ同じ高さだが、最高位置の展望フロアは585mにある。

    ・・・・・・・・・・・・

    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを大学生仲間4人グループがクルマ旅。前回は札幌を出発したところまでのお話。今回はそれより少し西を回ってから帰路につきます。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)
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    ◎余市のニッカウイスキー工場
    札幌から西の小樽を(なぜか)素通りして、積丹(しゃこたん)半島の北側の付け根に当たる余市町(よいちちょう)に至り、ニッカウイスキーの工場(正式名:余市蒸留所)入り口まで来たが中には入らなかった。それには、奇跡的?にも我ら全員が”酒好きではなかった”ということも影響しています。しかし、門の外からでも見えた工場建物独特の”とんがり帽子”の姿は印象に残りました。

    ↓ニッカウイスキー余市蒸留所の正門前からの撮影だけ行った
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    今、調べてみると、ニッカウイスキー(株)※の創業者:竹鶴政孝(1894=明治27年生まれ)氏※はウイスキー作りを学んで英国からリタ夫人を伴っての帰国直後はこの余市工場内敷地に建てた住宅に住み、後に工場外に居をかまえたが、亡くなる1979(昭和54)年まで一貫して余市町内に住んだそうなので、我らが1968年にここを訪れた際にはまだお元気でこの工場内に居られたかも知れない。ただし、奥様のリタさんは1961(昭和36)年に他界されていた。

    ※ニッカウイスキー(株)は2001年にアサヒビール(株)(現、アサヒグループホールディングス)の完全子会社となった。
    ※竹鶴政孝をモデルにしたNHKの朝ドラ「マッサン」が2014年に放送された。

    ◎「ローソク岩」は何か感じる?
    余市町の中心から10キロほど西に(同じ余市町だが奇妙な町名の)「余市町豊浜町(よいちちょうとよはまちょう)」という所があり、そこの沖合約500mの海面からニョキっと垂直に立って高さ約45mになる細長い岩が「ローソク岩」。その姿だけでもその名に値するが、朝日が丁度その岩の先っぽに重なって、ローソクが灯ったように見えると、ピッタリの名となる・・とのことですが・・これが見られるのは夏至を挟んで前後各2回のある限られた時期のみだそうで・・
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    ↑画像は余市町のHPより

    我らがここを訪れたのは、時期、時刻とも完全にずれていて”火が灯っていないローソク”を見たのですが・・この岩の根元に在る岩の形と相まって、全体が”あるシンボル”のようにも見えます。

    後述しますが、現在のローソク岩が過去にはもっと大きく太い形であった時代にアイヌの人たちはこの岩のことを「カムイ・イカシ」(男神)と称していたとのことで”さもありなん”です。

    ↓我ら二人の視線の先に在るのは”ローソク”か、それとも・・
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    この岩の組成は溶岩が水中で冷え固まったもので脆いのだそうで、太古にはそうとう大きかったものが時代とともに崩壊が進み、ついに1940(昭和15)年の積丹半島沖地震の津波によって半分に割れてほぼ今の形になったそうですが、その後も小さな崩壊・崩落があり、2016(平成28)年にも先端が欠けたそうなので、我らが半世紀前に撮った写真と現在のものを比べてみたのが次の画像で、明らかに現在は”短小”化して先が尖っています。

    ↓左:1968年に我らが撮影/右:最近(DomingoのHPより引用)
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    ↓ローソク岩を見た海岸で (ここも砂利道だった)
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    ◎再び通った八雲町は木彫りの熊の発祥地だった!
    いよいよ帰路に向かって内浦湾(噴火湾)沿いの往路と同じ道を南下して、途中で再び通過した八雲町は、(先記のように)立ち寄ったガソリンスタンドで粗悪ガソリンを入れられたという良からぬ印象があったのですが、後で知ったことは、この八雲町は食品以外の北海道土産としてポピュラーな”木彫りの熊”の発祥地であり製作地でもあるということです。ただし現在は旭川市も製作地だが八雲では熊だけの姿なのに対して旭川は熊が鮭をくわえている姿・・という違いがあるとのこと。

    ↓左:八雲の木彫り熊(八雲町木彫り熊資料館HPより)/右:旭川の木彫り熊(ヤフーショッピングのサイトより)
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    ◎駒ヶ岳が見える大沼国定公園で道内最後の休憩
    この地は”行き”に通過していたもののよくは見ていなかったこともあり、休憩がてら北海道で最後の風景として眺めた。本来は大沼という名の湖とその後ろにみえる雄大な裾野の駒ヶ岳(1133m)をセットで眺めるのが定番だが、時間の関係で我らは大沼に隣接する小沼という湖越しに駒ヶ岳を見ることになりました。
    ↓駒ヶ岳遠望
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    そしていよいよ南へ20キロほど先の函館港へ到着し、そこから往路と同じフェリーに乗船して大間へ夕刻に到着。夕食をとっった後すぐに、大間から一気に飛ばして(立ち寄り地の)千葉県の太平洋側の某所経由で東京までの約850キロを走行して(途中2回の食事をとって)午後5時頃に新宿へ到着しました。

    ◎大間~千葉~東京をぶっ飛ばし走行で得たテクニック?
    帰路の内、青森県から東京近くまでは長い国道4号線を使ったのですが、クルマが極端に少ない夜間走行の部分が長かったので、その間は(違反ですが時効?)時速50~60キロで飛ばしました。

    そこで起きたのが・・当時の幹線道路は舗装されているとはいえ、平たんな道路の途中に(コブ状態ではなく道幅全体が)こんもり盛り上がっている部分が在るという箇所が少なからずあって、スピードを出して走行中にこの部分に出会うと、車体はその道路の盛り上がり頂点では少し浮き上がるか又は空中に浮く(ラフロードのラリーでよく見られる)状態となり、盛り上がり部分が終わって平たん部分に着地すると車体はガックン、ガックンと揺れます。

    これでは夜間で眠っている他の同乗メンバーを起こしてしまうので、何とかならないかと2,3回試行錯誤の結果、体得した方法が・・

    道路の盛り上がり頂点で車体が浮き上がり気味または空中に浮く状態となった状態では車輪(動輪)が空回りするのでアクセルから足先を離しますが、次に車体が着地すると同時※にアクセルをグッと強く踏むと、車体がガックン、ガックンすることが無くスムーズに前椎する・・というもの。ただしこれを実行したクルマは後輪駆動車であり、他の前輪駆動車や四輪駆動車でも同様な効果があるのかは分かりません。

    ※ここで言う「同時」とは・・接地の瞬間には駆動輪のタイヤにエンジンのパワーが伝わっていなければならないので、アクセルとの間のタイムラグを考えて、接地のコンマ数秒前。

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    後年、社会人になってある時に上司を乗せて社用車を運転中に、道路の盛り上がり部分があったので、前述の方法で対処した途端に、その上司が私に向かって「○○君は運転がうまいなあ」と言われたことがあります。

    ◎泥汚れを「満身装衣」して新宿到着
    全4200キロ走行中に(窓ガラスとライト以外は)一度も洗車しなかったので、新宿駅前に到着した車体には泥の膜がこびりついていた。そこで車体横腹に指で文字を書いたのが下の写真。

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    ◎(参考)同時期に「カニ族」が北海道に大発生していた!
    1960年代後半から1970年後半にかけて、大学生など長期の夏休みが取れる者たちのあいだに、鉄道の周遊券を利用するなどで交通費を抑え、かつ安い宿泊施設、ユースホステルに泊る、あるいはテントで野宿しながら旅をすることが流行り、その実行者たちが背負ったリュックが当時は(現在の様な縦長ではなく)横長でしかも幅約80センチが主流(女性用は少し小型)だったので、列車内通路や乗車口ではリュックを背負った状態では横歩きしなければならず、これがカニの歩き方のようだということで付いた名が「カニ族」。これは今で言う「バックパッカー」。
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    ↓帯広駅前には無料宿泊テント「カニの家」が設置され、ここだけでもひと夏に約3000人の利用があった。(画像は「北海道ファンマガジン」のHPより引用) 
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    現在は帯広駅からクルマで20分の所にログハウス調の無料宿泊所あり、オール電化のキッチン付き。女性専用スペースあり。・・なので年間約1000人が利用。

    カニ族にとっては特に北海道が人気だった。その影響の一つが国鉄広尾線の”「愛国」駅から「幸福」駅行きの切符」の入手がブームになったこと。

    私の手許に在る切符(戴きもの)
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    ただし、我らが9月に入ってから訪れた北海道ではもう肌寒いせいか、カニ族は見当たりませんでした。

    ◎只一つ見た花「エゾリンドウ」
    この北海道の旅で見かけたのは本当にこの「エゾリンドウ」だけ。ただし「エゾオヤマリンドウ」という種があり、こちらは高地に咲くという違いだけで、この2種の見分けはかなり難しいとのことで、花名は後者かも知れません。
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    ◎今にして思えば・・
    我らが北海道クルマ旅をした1968年は、カニ族も隆盛の一方で、ベトナム戦争の最中でもあり、派兵拒否米兵が北海道経由で亡命したり、また大学紛争(闘争)、学園紛争も過激化しているという時期だったことは複雑な気持ちになるものです。

    この旅の実行にあたっては事前の十分な下調べも無く、かつ”定番の観光地訪問は将来にその機会があるだろうとして”それ以外の地をなるべく訪ねようとしたため、殆ど手つかずの自然に多くふれられた一方で、北海道ならではの文化を見逃したことは否めませんが、このレポート型ブログ5編が何らかのお役に立てば幸いです。
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    以上、北海道クルマ旅シリーズは、この(5)を最終回といたします。
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを大学生仲間4人グループがクルマ旅。前回は根室から知床半島を巡ったところまでのお話。今回はそれより西に向かって進みます。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)

    hkd-map

    ◎大雪山 早くも初冠雪、ストーブ活躍の地も・・
    9月に入ってまだ間もない8日(だったか?)に、北海道の最高峰にして大雪山(系)の主峰である旭岳(2291m)に初冠雪があったというニュースをカーラジオで聴きました。ちょうど今年2022年の10月5日に旭岳に初冠雪があったというニュースがあり、それによると昨年より1日早いが平年より10日遅いというから、平年の初冠雪は9月25日頃ということになり、やはり半世紀前に比べれば温暖化が進んでいる影響なのでしょうか?

    ↓(参考)雪を頂く大雪山系(美瑛からの遠望:Wikipediaより)
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    初冠雪のニュースを聴いた直後に通った北見市の町の店などでは、すでにストーブを焚いていたのでビックリしましたが、さすがに北海道のほぼ中央で内陸性気候の証だと感じたもの。しかし、いつ頃から焚き始めていたのでしょうか?それを聞き忘れてしまいました。

    ◎層雲峡は滝もさることながら柱状節理もみごと!
    北見市と旭川市の中間、大雪山の北側の麓にあたる地域に、高さ約200メートルの断崖絶壁が24キロにわたって続く層雲峡。その崖下に沿って流れる石狩川はまだ上流にあたるので川巾が細く、これにまた沿う道路を我らは走ったので、見上げる崖は迫力あり、途中にはいくつかの滝も見られた。その代表は「銀河・流星の滝」という一対を成して落差約100メートルの見事さで「日本の滝100選」の一つ。
    ↓「銀河・流星の滝」(層雲峡観光協会のHPより引用)
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    もう一つの見どころは、この層雲峡の崖全体の「柱状節理」。それが延々と続く様子が見られる所が日本では他にあるだろうか?福井県の東尋坊(自殺名所、ドラマロケ多数)も有名ですが、どうなんでしょうか?  「柱状節理」はマグマや溶岩が固まる際にほぼ法則的な形の亀裂が入り、その結果、断面がほぼ6角形(または5角形)の石柱を束ねたようなカタチとなるもの。
    その石柱1本分の太さは各地さまざまで、層雲峡は不明ですが、兵庫県の玄武洞のモノは直径約20センチなど。東尋坊では場所によって大きくちがい30~100センチ近いものまであるとのこと。

    ↓層雲峡の「柱状節理」の崖
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    今にして思えば、我らが層雲峡見物した時代は良かった。というのは上の写真でも見られるように、「柱状節理」の崖下には剥がれ落ちた”石柱部分”が砕けて転がっていて、崩落が多いことがわかります。従来から小さな崩落で、我らが通った道路にも岩石が転がることがあったそうですが、1987(昭和62)年に大規模崩落が発生して道路にも大量岩石が落下して走行中のトラックの運転手とサイクリング中の人の計3人が死亡、重軽傷が数人という事故が発生。その後も小規模崩落ありで、現在はこの道路を封鎖した代わりに、より崖から離れた位置に、安全のためのトンネルがほとんどを占めるという新道がつくられているとのことで、今は景色が見られる区間が狭まっているのです。

    層雲峡で見られるような”柱状節理のある所に滝がある”というケースは多いようで、私は日光「華厳の滝」、和歌山県「那智の滝」、宮崎県「高千穂峡の〇〇滝」、伊豆半島の「浄蓮の滝」を思い浮かべますが、調べたら伊豆には他にも「萬城の滝」、「初景滝」などがこれにあたるそうです。

    ◎ラジエーターホース亀裂で蒸気漏れてピンチ!
    我らが層雲峡を抜け、西にある旭川市に向けてしばらく走行していると、突然、ハンドル握っている彼が「あれっ!オーバーヒートかなっ!」と叫んだ。(エンジンの)水温警告表示が出たので気づいたそうだが、昇りでもない道を普通に走行しているのにおかしい?ということで、停車してボンネットを開けてみたら、なんとラジエーターホースの一部に亀裂が入って、そこから蒸気が噴出しているではないか! 

    ラジエーターホースとは、エンジンとラジエーターの間で冷却液を循環させるためのホースで、液がエンジンから出ていくためのホースと戻って来るためのホースの二つが存在する。この時は前者のホースなので発見しやすかったのではありました。

    ↓ラジエーターホース例:車種などによって太さ(2~5cm)、長さ(10cm~)、曲がり具合いが異なる。(指先より右部分がホース)
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    もしこのまま冷却液の水分が蒸発して無くなってしまえばエンジンが焼き付いて大変な事になる。ということで、すぐにでもホースを交換したいが、周囲はまだ原野でどうしようもない。しかしあと10キロほど進めば旭川なので、そこまでソロソロ気味で走行してヒヤヒヤしながらもなんとか到着し、修理工場を見つけて事態は解決した。

    ◎札幌での体験(1)時計台、ポプラ並木、札幌ラーメン
    旭川から札幌に到着。先ずはお決まりの「時計台」(旧、札幌農学校演武場)へ。この建物自体は良い感じなのに、我らが訪れた半世紀前、既にその周囲にはビルが建ち並んでいて、噂通りムードをこわしていたので、写真も撮らなかった。つくづく、フランス・パリのエッフェル塔周囲の景観維持の意識の高さを感じ入る。

    日本三大「がっかり観光スポット」の筆頭にあげられるのが「札幌時計台」、2位は高知「はりまや橋」、3位は諸説あって、長崎「オランダ坂」、沖縄「守礼門」、「京都タワー」、「名古屋テレビ塔」など。不名誉なランクから逃れる方策はないのでしょうか?

    ↓(参考)現在の「時計台」(エムエムエス マンションマネジメント サービス(株)のHPより)
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    実は、仲間の一人のお兄様がちょうど北海道大学の医学部に在学中ということで、お会いすることになりましたが、その前に有名な「北大ポプラ並木」と(Boys, be ambitious!の)「クラーク博士胸像」を観た。ポプラ並木は当時、300メートル続くすべてを観られた。ここのポプラの木の正式名称は「セイヨウハコヤナギ」であるが、樹高20メートルで根も浅くて、柳の仲間にしては”風を受け流す”ことができずに過去に何度も台風で折れたり倒れたりで、その後は全面通行禁止だった時期があったものの、現在は80メートルだけは解放されているということで、我らが訪れた際は制限は無くイイ時代だった。

    ↓「北大ポプラ並木」(uu-hokkaido HPより引用)/「クラーク胸像」(Wikipediaより引用)
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    そのお兄様にお会いして挨拶した後、有名な商店街「狸小路」を案内いただき、その中の中華ソバ屋さんで本場札幌の「味噌ラーメン」をおいしく食べて満足の夕食となったのでした。

    ↓(参考)現在の「狸小路」
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    ◎札幌での体験(2)お菓子のテスト販売品もらう!
    時間が前後しますが、まだ明るい時分に札幌市内の繁華街を歩いていたら、明治製菓(現、明治)の旗を立てた横に居並ぶ二人の女性が、なにやら小箱入りのキャラメルのようなもの(だったか)を配りながら、言うことには「一口召し上がってみてお味はいかがでしょうか。これはまだ東京などでは発売していない商品なんです!」・・ということは、いわゆるテストマーケティングとして、東京などに近い文化傾向があると言われる札幌の地を選んで”味などの評価を得られるか否かの試し”が行われていたのでしょう。

    札幌での体験(3)東京と全く同じ新聞!?
    札幌に在るYH(ユースホステル)で宿泊をした翌朝に、ふと目にした新聞に驚きました! それは、掲載広告が全て東京のデパート、例えば銀座の松屋、その他の東京近辺のショップなどのものだったからで、そこで記事内容を読んでみるとやはり東京とその近隣県関係の内容なのです。その新聞名を忘れましたが、ある全国紙だったので、これは東京版紙面をそのまま電送(今でいうファクス?)されたものを札幌などで受けて印刷したものか、あるいは新聞現物が空輸されたものか、たぶん前者だったと思いますが、詳しいことをご存知の方は教えてください。
    それにしても、ご当地「北海道新聞」というものがあるにもかかわらず、このような新聞が存在するというのは、札幌は東京文化的志向が強いゆえの事象だったのでしょうか。

    そして次の目的地へ向けて出発して市内の大通り公園の「さっぽろテレビ塔」の横を通過したのが午前8時22分・・と細かいのは、たまたま我らメンバーの誰かが撮影していた8ミリフィルムの動画にテレビ塔の中間位置に在る大型の(日本初とされる)電光時計が映っていたからでした。

    ↓現在の「さっぽろテレビ塔」:中間位置に電光時計。(さっぽろテレビ塔(株)のHPより引用)
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    次回は「北海道 半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事!!(最終回)」です。
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを4人グループのクルマ旅。前回は道東の根室半島の花咲港でカニを食べたところまでのお話。
    今回は根室から北上して知床半島へ進んだものです。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)

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    ◎根室はベトナム戦争と関係があったとは知らずに!?
    花咲ガニが目当ての花咲港に行ったために素通りした根室市に、あらためて戻って昼食をとった。市のほぼ中央に在る根室駅は、釧路と根室を結ぶ国鉄(現JR)根室本線(別名:花咲線)の終着駅「東根室」の一つ手前だが”有人駅”としては日本で最も東に位置する

    根室駅舎前にて(左後ろの壁に小さく「ねむろ」の文字が・・)
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    ↓2022年、初冬の夕刻に釧路と根室の中間の落石(おちいし)海岸の”樹木が無く寂しい風景”の中を行く根室本線の車両。写真右方向に進むと根室に至る。左の海は太平洋 (朝日新聞より引用)
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    根室駅は東端に在り、そして根室港からは向うに国後島が見え、最も近いケレムイ岬までは約40キロ
    という地理的条件を背景に・・なんと、我らが根室を訪れたわずか4か月半前に、根室駅や根室港が関係して”ソ連、日本、米国がからんだある事件”が、起きていたのです。その事件とは・・

    1968(昭和43)年4月22日、ベトナム戦争への被派兵を拒否する米兵6人が根室港からいわゆる「レポ船」※で国後島に渡り、そこからソ連のモスクワへ、最終的に中立国スウェーデンに亡命したもの。この亡命ルートは日本側では「根室ルート」と呼んでいた。

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     (↑2019年7月27日発行の朝日新聞より引用)

    この時期には、同じ目的ながら別ルートによる亡命の事例もあり、それらを日本側で支援する2大組織が、当時有名な「べ平連」※と地下組織「ジャテック」(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)であり、この「根室ルート」には双方が関与した。

    前述の米兵6人の内5人は、「べ平連」の支援で空路で釧路まで来てそこからクルマで根室へ向かい、もう一人は「ジャテック」支援で札幌から列車に乗って根室駅まで来てから6人が合流した。

    この種亡命が多発したため、米国政府か米軍かはわからないが、スパイを使い米兵亡命工作実施途中に潜入させていた結果、この年11月には”根室ルートを使った亡命”寸前の米兵1人が釧路で逮捕された。

    ・・というわけで、我らが9月に、ちょうど根室駅前で写真を撮ったりしていた様子も米国スパイが監視していたかも知れなかったのです。・・というのも、根室ルート使用事例の中には”日本人ガイド付きの外国人観光グループ”を装ったケースもあったそうなのです。

    ※「レポ船」とは・・根室には、ソ連による北方領土占拠によって漁場を奪われた漁民たちが多かったが、彼らがソ連側に拿捕されることなく元の漁場での操業を黙認してもらえるように、日本の海上保安庁や自衛隊関連の情報、つまりレポート、略してレポをソ連の国境警備員に渡すために国後島などに渡った船が「レポ船」と呼ばれた。また、情報の代わりにラジオや衣類など金品が使われることもあった。しかし、レポ船は1991年のソ連崩壊の頃に消滅したとされる。

    「ベ平連」とは・・正式名称「ベトナムに平和を!市民連合」で1965(昭和40)年に小説家の小田実(おだまこと:1932~2007)が代表となって数人の知識人らで発足させた”反戦”、”反米”の運動体であったので反戦目的脱走米兵の支援などもしたが、規則や登録名簿などは無かったので、後に自称「ベ平連」の単なる左翼グループなど似非「ベ平連」が多発したので、純粋な反戦主張者たちは脱退していき、1974(昭和49)年に解散。ソ連崩壊後の公文書開示によれば、KGB(ソ連国家保安委員会)は米兵亡命のための支援金を「ベ平連」に渡していたとされる。

    ◎国後島を見ずに悔いが残る!
    根室半島から次に目指す知床半島へ向かう途中の野付半島の先端からは、国後島までの距離は約16キロであるが、そうでなくとも海岸線を走る国道244号線からでも約23キロしかないので、島影ははっきり見えたはずなのに我らはそれを見逃していた。道東地域では「呼び戻そう 北方領土」と書かれた看板を頻繁に目にしていたにもかかわらずであり、後日これに気づいて悔やんだのです。

    (参考)国後島を国道244号線沿い海岸から望む写真(標津町の「北方領土館」のサイトより引用)
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    ◎知床半島の「知床五湖」に行き着いたが・・
    知床半島の根元から先端までの間のちょうど半分くらいの位置の西側海岸近くに在る「知床五湖」は小さな湖が文字通り5個あり、静寂だが比較的明るい感じがする風景だった。しかし我らが訪れた半世紀前には湖周囲の道はあまり整備されていなかったので、すべての湖を巡ることはしなかった。

    知床五湖の一つをバックに。周囲にエゾマツ、トドマツが多い
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    後年になって気づいたのは、まだヒグマが出没する時期であったことを我らは意識せずに、なんと無防備であったことかということで、今、調べてみたら「知床五湖」を観光地として整備され始めたのは1970年代後半から(=昭和50年ころ~)だそうで、五湖を巡る遊歩道が整備され、ヒグマ対策上、春から夏の終わりまではガイド人を頼まないと歩行不可。しかし遊歩道の一部に沿って、自由に安全に歩けるように、地上2メートルくらい?の高さに柵付きの渡り廊下のような「高架木道」(全て木製)が設けられている。

    ◎狭い道では何度となく「デフ」をこすった? !
    「デフ」は「ディファレンシャルギア」の略称で、これは(詳しい原理は省略しますが)自動車がスムーズに曲がるために左右の車輪の回転を調整するための”歯車を組み合わせた装置”で、その全体をくるむケースが特に”前エンジン・後輪駆動車”や”4輪駆動車”では車体の下側に出っ張ったカタチで左右両輪の中間に見えやすい。(下写真参照)
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    大型トラックの「デフ」(のケース)は後ろをちょっと低い位置から見ると覗き込まなくてもよく見えることがある。ちなみに現在のEV(電気自動車)にはデフがありません。

    ところで、クルマの運転では、「コブ(地面の出っ張り)は乗り越える」 「穴や凹みはまたぐ」という鉄則のようなものがあります。(下図参照)
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    しかし、道幅が狭い場合は”わだち”がほぼ定位置に出来てしまい、それがどんどん深くなり、前述の鉄則もツカエズニ、デフ(ケース)が地面にツカエル(こする)・・ことになる。(下図参照)

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    ・・というわけで、知床五湖へ向かう道もまだ整備されておらずに狭かったために・・走行車内での録音には「ゴツッ」という音にすかさず「あっ デフをこすった!」という声が残っていますが、この”デフこすり”はこのクルマ旅では他の場所でも何回かありました。これも半世紀前ゆえのことだったのでしょう。

    ◎「オシンコシンの滝」の名を観光船沈没ニュースで・・
    知床五湖から次に南へ14キロほどの距離のやはり沿岸部にある「オシンコシンの滝」に向かった。「オシンコシン」とはアイヌ語で”川下にエゾマツが群生する所”という意味とのこと。落差は30メートルで北海道の中では大きい滝で、「日本の滝100選」の一つ。

    ↓「オシンコシンの滝」(参考写真:知床斜里町観光協会のサイトより引用)
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    滝を見下ろす場所で
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    ところで、今年2022年4月23日に発生した”知床遊覧船KAZU Ι沈没事故”関連ニュースの中で、(我らにとっては懐かしい)「オシンコシンの滝」の名が登場しました。それは4月29日に「カシュニの滝」(知床五湖より北18キロ)の沖の海底に沈んでいるのが発見され、その後にやや持ち揚げて曳航中の5月24日に、「オシンコシンの滝」の沖合10キロのところで落下させてまた海底に沈んだので、それを再度引き揚げする作業が5月26日に行われたからで、その様子は「オシンコシンの滝」横の駐車場から観察できたそうです。

    ↓知床遊覧船KAZU Ι(「知床遊覧船」HPに掲載されていた姿)
    kazu-wan2

    合掌
    ・・・・・・・・・・・・・
    今回はここまで。次回は道内を西に進みます。
    ・・・・・・・・・・・・・

    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを4人グループのクルマ旅。前回は函館から北上して洞爺湖、支笏湖までのお話。(前回は・・http://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/16698682.html)今回はそれより東に向かって進むところからです。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)
    hkd-map
    ※前回、述べ忘れましたが・・この北海道クルマ旅にはカメラの他にカセットテープレコーダーと8ミリフィルムムービーカメラも携行していたので、それらによる記録も少し役立てています。(一方でメモや日記はつけていなかったのですが・・)
    8mm

    ◎むかわ町には恐竜が眠っていたとは知らずに・・
    支笏湖から南下して沿岸部を東に向かって計50キロほど走行したところに在る鵡川という町(現、むかわ町)は観光地でもなく、単に通過地点だったにもかかわらず我らは「むかわ」という名前を記憶しているのですが、その理由は後述するとして・・

    今や、「むかわ」と聞けば恐竜好きの方なら即反応するでしょう。それは、むかわ町で白亜紀後期である7200万年前の地層から恐竜の化石の一部断片が2013年に発見されて「むかわ竜」と呼ばれ注目され始め、その後、体長8m超となる体形の約8割の部位が発掘され、2019(令和元年)に新種恐竜と認定されて「カムイサウルス ジャポニクス」と命名されたから。

    ↓「カムイサウルス ジャポニクス」(むかわ竜)の化石(画像は朝日新聞2019年6月16日発行記事より引用)
    mukawaryuu
    我らが鵡川町を通過した時点ではこの恐竜が近くで眠っていたことなど知る由もなかったのですが、少しばかり化石や岩石・鉱物収集が趣味だった私にとっても「むかわ町」は今や大いに興味ある地なのです。

    さて、我らが「むかわ」の名を記憶することになった理由は・・走行中に道路工事による片側通行規制区間に行き当たったのでいったん停車して、係員からの通行OKの指示を待つのですが、長い時間待たされた。その間の様子の録音が残っていて、係員の中年女性に話かけてみたら、「時にゃ『いつまで待たせんだよ!バカヤロー』って怒鳴られんだよ・・」とのぼやきの声があり、これは当時、通行制限区間の両端に配置された係員同士の合図や連絡には、今のようなトランシーバ使用も無くて時間がかかっていたからでもありましょう。
    そんな状況の中、待っている間の車内の仲間同士の会話録音には「いったい、ここはどこなんだ?」という問いに「むかわダヨ」と答えるやりとりがしっかり残っているからです。

    「鵡川町」(むかわちょう)は、その後2006(平成18)年に穂別町(ほべつちょう)と合併して現在「むかわ町」となったもの。ついでながら、ここは本物の天然の柳葉魚(シシャモ)特産の町でもあることは最近知りました。

    ◎日勝峠(にっしょうとうげ)は、濃い霧で・・
    次には内陸に向かって進み、日高町から日高山脈の北側山麓を通って十勝平野に抜ける途中の日勝峠では見晴らし良いとされていたので雄大な十勝平野を展望できると期待していたが、その日は濃い霧のために願いかなわずに残念でした。天気が良ければ下の参考写真のような景色が望めるはずだった。

    ↓(参考)日勝峠展望台から望む広大な十勝平野 
    (kukiさん撮影写真を引用)
    nissyoutouge

    ↓濃霧で5メートル先さえ見えず、左端の私は思わず天を仰ぐ。
      停車中も、前からや後ろから来るクルマに注意をうながすためにヘッドライト(同時に自動的に後ろの赤いランプも)を点灯させている。
    foggy-weather (2)

    ◎然別湖(しかりべつこ)→オンネトー→阿寒湖
    次に向かった然別湖は海抜810mに在って北海道で最も高い場所にある湖。ここも我ら以外は人が見当たらず寂しかった。

    ↓然別湖畔にて
    sikaribetuko

    次は雌阿寒岳の麓に在る「オンネトー」で、その名はアイヌ語そのままで「年老いた沼」又は「大きな沼」という意味だそうだが”沼ではなく湖”で周囲2.5kmと小さいが美しい。オンネトー以外でも北海道の中の小さな湖には”シカリベツ→然別”のような漢字の当て字をしていない例がみられます。

    ↓オンネトー   (画像は「あしょろ観光協会」のサイトより引用)
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    次は阿寒湖。ここは特別天然記念物のマリモで有名だけに、土産物売店、飲食店、ホテル、遊覧船があり、観光客もちらほらいた。まともなマリモを見るためには、時間もかかるちょっと面倒な行動が必要なのであきらめたが、ある売店の水槽にマリモを見た。しかしそれは阿寒湖のものだったのだろうか? 日本の他地域でも小さいながらマリモはあると言うから、それだったのか?

    ↓阿寒湖 (「釧路・阿寒湖観光公式サイト」より引用)
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    ↓阿寒湖のマリモは直径2~20センチ超
    (「ちーず」さん提示写真を引用)
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    ◎硫黄山(いおうやま)の噴気はすさまじい!
    屈斜路湖(くっしゃろこ)と摩周湖の間に位置する硫黄山は標高512mと低いが活火山であり、中腹にある沢山の噴気孔からは硫黄分を含んだ蒸気が「ゴー」というすさまじい音とともに噴き出している。我らはその音も録音しているので、今聴いてもその凄さが伝わってくる。同時に、メンバーの一人が噴気孔に近づきすぎて「ゴホゴホッ」とむせる声や「この凄さは箱根の大涌谷・小涌谷の比ではまったくありません!」とレポーター口調の声も入っています。
    この山はアイヌ語では「アトサヌプリ」と言って「裸の山」という意味だそうで、硫黄分を含む大量の噴気によって周囲に草木が生えない様子を表すものでしょう。
    当然のように硫黄の産出も多かったので明治10年から昭和38年まで硫黄鉱山も操業していたのだそうです。

    ↓硫黄山の噴気地帯に近づく我ら
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    ↓噴気に包まれる中、手前の彼は肩からカセットレコーダを下げて左手にマイクをもって録音中
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    ◎摩周湖の夜に花火大会を観た
    霧が出ることが多いという摩周湖もなんとか眺められた後で、いったん硫黄山近くの川湯温泉のYH兼業の旅館へ行き、そこで夕食を済ませてから再び夜の摩周湖展望台へ着いたのが午後8時半ころ。昼間よりも人が多く集まってきて、打ち上げ花火も始まり、我らは夜店で買った焼きトウモロコシを食べながら見物したのでした。ところで北海道ではトウモロコシのことを「トウキビ」と言っています。

    ↓摩周湖
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    ◎「花咲ガニ」1キログラムがなんと150円なり!
    摩周湖から南下して根室半島へ。当初の予定では東端の納沙布岬までいくつもりだったが、時間の関係で断念して根室の少し南の花咲という町の漁港に行き、名物という「花咲ガニ」を食べることに。

    「花咲ガニ」は文字通り花咲近辺の漁場で獲れるもので、タラバガニと同じでザリガニの仲間だがタラバよりカニミソが多く旨いとされる。標準的な本体は縦横各約15センチ 。脚はハサミ(爪)の付いている腕も含めると計8本(タラバガニも同じ)で太く短い。(ズワイガニ、ケガニは脚・腕計10本)

    ↓花咲ガニ(生では暗い紫色だが茹でると赤色)
    (「オホーツクの風」社の通販サイトから引用)
    hanasakigani2

    そこでは花咲ガニが直径が60センチくらいの大釜で大量に茹でられ、そこから取り出されたものが販売用の台に並べられていた。
    価格は、やや小ぶりの3杯※で1キロなんと150円。我らはそれを6杯2キロ300円で購入。皆で分けてクルマの中で食べたが、それは新鮮でおいしかった。

    ちなみに現在の花咲ガニ価格はどうなっているのかをネット通販サイトで調べてみたら・・大きさや見映えによって幅があり、大きくて立派な1杯約1キログラムあるものは1万2千円の例もありますが、比較しやすい例を探してみたら有りました! 3杯1キロで3999円。これでも我らが昔食べたモノと単純比較すると約27倍というとんでもない状態。(但し、これらは「送料無料」とうたっているものの、その分を商品価格に潜り込ませているでしょうが・・)

    ※カニの数え方は、生きていれば「匹」だが死んだものは通常「杯」。しかし地方や店によっては「枚」や「尾」がつかわれる。ところが最近のネット通販では「匹」が多く使われています。

    ↓茹で上がったばかりの花咲ガニ(赤ん坊を背負ったままの女性の作業姿も印象的)
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    ↓黙々としてムシャムシャと食べた
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    今回はここまで。次回は知床半島巡りなど「北海道 半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事 !(3)」です
    ・・・・・・・・・・・・

    約半世紀前のちょうど今頃、夏の終わりに大学生仲間4人で北海道をクルマ(←私の父から借用)で巡った際の珍しい体験、今では起きないようなクルマトラブルなどをご紹介してみます。

    この旅の計画の言い出しっぺは4人の内の一人の「トラック大好き人間」でした。彼は早くから大型免許を取得して、春・夏・冬の長い休みには、学友でもう一人の
    「トラック大好き人間」と共に日本列島の北から南までトラック輸送のアルバイトをしていたので、他のメンバー3人は彼の長距離運転のノウハウを頼りに安心して参加したという次第。

    hkd-head

    期間:1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間
       (9月15日まで夏休みだったので実行できた)

    行程:東京→北海道巡行(詳細別図)→(千葉県経由) →東京:4200km

    全費用:一人当たり2万円弱(ガソリン代、フェリー代、宿泊費、食費などすべて込み)

    使用車種:トヨペット・コロナ(1500cc)

    ↓東京→北海道内→東京の経路概略図
    map2

    ◎一人2万円以内で全費用が済んだワケ
    いくつかの経費節減策を講じたことと、勿論、半世紀前なので物価が安かったこともあります。

    1) ユースホステル(YH)を利用した
    全員が事前にユースホステル会員登録して”にわか会員”となって、北海道内の施設を低料金で利用した。当時は1泊2食付きで1100円前後(くらいだったか?)、素泊まり平均800円くらいだったので、素泊まりもたまに利用した。(非会員でも少し高い「ビジター料金」で利用はできます)

    ↓ 現在の北海道のYHの一例(美瑛)
    yh-in-biei

    ※「ユースホステル(略称YH)」:ドイツ発祥の”青少年少女に安全で安価な宿泊場所を提供する主旨に基づいた宿泊施設”であるが、現在では賛同する約80の国と地域でもYH施設が多数あり、会員は世界共通でこれらを利用できる。日本のYH数はピークだった1970年代前半の約600から今は約200。利用者数は約340万人から約38万人へと激減しているが、施設のリニューアルや細則の廃止などで状況改善がはかられているようです。(我々が利用した当時は基本的に洗面道具とパジャマ(寝間着)持参が条件だったが、今はどうでしょうか?)

    2) 携行食の活用
    保存のきくフランスパン(バゲット)と魚肉ソーセージを大量にクルマにつんで、移動中に飲食店や食料品店が見当たらない場合に備え、実際にこれを食べてしのいだことも多かったので、結果としても食費を低く抑えられた。
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    3) ガソリンが安かった
    当時は1リッター38円前後。(ちなみにハイオクは53円前後) つまり単純計算で現在の四分の一。

    4) すべて一般道路を走った
    通行料が発生する道路は利用しなかった。東北自動車道はまだ無かったが、あったとしても利用しなかった。

    ※西側の高速道路:東京~名古屋はこの年1968年4月に開通。名古屋~京都~大阪~兵庫県・西宮は1955=昭和38年に開通済みだった。

    5) 航路が短い「大間~函館」フェリーを利用
    大間(青森県の下北半島の北端)と函館を結ぶフェリーは、青森と函館を結ぶいわゆる「青函フェリー」の航行距離の約三分の一以下なので当然料金は安く(参考:現在2022年時点での車長6m以下の小型車運搬料金のこの2航路での差は約8800円)、青森市より北の大間までの余分走行分のガソリン代を足しても格段に経済的。

    大間から函館へ向かうフェリー船上で
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    フェリー内では前後を大型トラックに挟まれた位置に・・
    car-on-ferry

    ちなみに現在は、大間沖でとれる天然本まぐろは有名になっていますが、当時は“大間のマグロ”という言葉は聞いたことはなかったのは、それもそのはずで、2000(平成12)年のNHKの朝ドラで”大間のまぐろ漁師の娘が主人公”の「私の青空」が放映されてからやっと全国に知られるようになったので、それを契機に地元も知名度向上に注力して2007(平成19)年に「大間まぐろ」として商標登録したとのこと。

    ◎混浴ができるユースホステルも多かった
    当時は温泉ホテル・旅館がユースホステルを兼業していることも多く、旅行途中でそれに気づいた我々は以降ほとんどをこの”温泉付きユースホステル?”を利用した。

    しかも多くの温泉が実質的には”混浴”で、浴場の入り口は”男”、”女”と印した暖簾がかかっていても、中に入れば湯が張られている浴槽部は一つだけだったり、一応別々に浴槽部があっても男女を仕切る壁などが無い形式で、これは楽し?かった。

    (↓本文と関係ありません:層雲峡観光ホテルのHPより「水着着用混浴風呂」)
    konyoku

    現在、北海道には100軒弱のYHがあるようですが、今でもYHを兼業する温泉ホテルや旅館はあるのでしょうか? 今、チョイと調べてみたらYH専業の施設には「源泉かけ流し温泉付き」のところがあります。

    実は、
    ユースホステルを兼業する温泉ホテル・旅館を利用すると、もう一つ利点があって、(現在もあるかは知りませんが)当時の正式なYHでは管理人の方は「ペアレント」と呼ばれ、宿泊利用者は夕食後にペアレント主催のミーティングに参加して懇親をはかる・・という定番スタイルがあったのですが、それが無いので気楽だったこと。我々も道内1泊目だけは普通のYHだったのでこの定番スタイルに従がったが、それ以降は無しで済んだのです。

    ◎一日2回のパンクには困った!・・とにかく道路に釘が多かった
    当時の北海道では未舗装道路も多く、砂利または泥の道を走るのですが、そこには落ちている釘が多いとみえて、北海道内だけで約2千数百キロ走った中で計3回も釘でパンクした。

    その内の2回は同じ日に起こったので、1回目でスペアタイヤを使って、それで走行中にまた別のタイヤが辺鄙な所でパンクしたから、さあ大変! もうスペアは無いので仕方なくパンクしたまま整備工場が在りそうな近くの町まで何とか走り、2本分のパンク修理をしてもらった。

    現在のように舗装道路ばかりを10万キロ走行してもパンクゼロも珍しくもないことからすると隔世の感ありです。しかし、現在でも道路への落とし物が無いわけではなく、都会や郊外などの舗装道路を歩いていて気付くのは釘よりもネジの類(木ネジ、タッピングネジ、ボルトなど)が圧倒的に多い。私はこれらを見つけたら即座に拾って適宜処分をします。これも世の為、人の為 !(笑)

    実は往路で下北半島の大間の近くでもタイヤが釘をひろったらしく、フェリーで函館に上陸した途端、パンクに気が付いてスペアタイヤに交換したので、全行程でパンクは4回でした。

    函館港に着くなりパンクタイヤ交換
    h-taiyakoukan
    ↑写真でお分かりのようにパンクしたのは後輪で、これは「釘によるパンクで多いのは、"道に寝ている釘を前輪が起こして"釘の尖った先っぽが上を向いたタイミングで後輪が踏んでしまって起きるケース」ということの実例でしょう。

    ◎一回だけ粗悪ガソリンを入れられた
    函館から約80キロ北上した地に八雲町があるが、そこのガソリンスタンドで入れてもらったガソリンに何か混ぜ物が入っているか、あるいは水が混じっていたか、それが故意なのか、そうでなかったのかは分からなかったが、走り出してすぐにエンジンがノッキング(通常のギヤ位置ではエンジンがチカラ不足でコトコトというような苦しそうな音をだす)を起こしやすくなったので「あのスタンドのガソリンが悪い」と気づいたが、先を急ぐので我慢して走行した。そうして次にガソリン注油した後は案の定、ノッキングは解消したのでした。
    このクルマ旅では9回だったかのガソリン注油をした中で、ガソリン不具合はこの1回とはいえ、本来ならあってはならないこと。ところが今年2022年にもなってのつい最近に、某大手石油会社のガソリンに水が混入していて問題になっていましたが・・

    さて、ここからは北海道内の訪れた地順にレポートします。
    hkd-map
    先述のように、函館上陸と同時に第1回目のパンク修理、北上途中の八雲町で粗悪ガソリン給油、次に向かったのが・・

    ◎洞爺湖と支笏湖・・不気味な中で泳ぐ
    二つともカルデラ湖で、洞爺湖は高い場所から見下ろしただけでしたが、ここは2008年7月に「洞爺湖サミット」が開かれて当時の福田首相、ブッシュ大統領、メルケル首相らが、やはり見下ろしていました。

    支笏湖では水辺にまで行っただけでなく、皆で泳いだのですが、なにしろ周りに人影は全く無く、建物の類も湖面周囲全体を見渡しても見えない、当然静寂そのもの、おまけに天候は曇り。そうなるとなんだか薄気味悪かった。

    支笏湖で泳いだが・・
    sikotuko

    その後に道内の湖、大きな沼などを巡ってみても、支笏湖の場合と同様な感じを受けた。それは我々が本州の大きな湖などで湖畔に人家、別荘やホテルが点在、あるいは密集しているような光景、場所によっては遊覧船まで見ることに慣れてしまっている故の心情。自然保護の観点からも気になりますが、その後の北海道ではどうなっているのでしょうか?

    もう一つ、後で知ったのは支笏湖は日本最北の不凍湖で水の透明度はトップクラス(昔は日本一の時期あり、現在4位というデータがある)だが、最深部が263mもあって日本で二番目に深く(一番は田沢湖)。そのためか、溺れる人、自殺者も多く、沈んだ者が浮かび上がらないこともあるそうで、俗に「死骨湖」という表現も多く、これも気味悪い

    とは言うものの、天気が良いと湖水がいわゆる「支笏湖ブルー」となってキレイで明るい感じになるようで、そうなれば好印象の「神秘の湖」と言えるのでしょう。
    現在の「支笏湖ブルー」の風景(支笏湖運営協議会のHPより)
    sikotuko-blue
    ・・・・・・・・・・・・
    長くなるので、今回はここまでにします。次回「北海道へ半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事 !(2)」につづく!
    ・・・・・・・・・・・・

    明日待子をモデルにしたNHKドラマ「アイドル」が8月11日に放映された直後に、私が2018年8月18日に発信したブログ・・http://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/4443890.html・・を閲覧された方が多数いらっしゃったので、少し関連情報を追加してみます。

    ※再放送はNHKのBSプレミアムで8月29日(月)21時~22時30分

    ※佐々木千里(ささきせんり)とはムーランルージュの設立者であり、NHKのドラマの中では椎名桔平が扮していた人物。

    ※ドラマの中でも使われた「ムーランルージュ」という呼称はていねいな表現では「ムーランルージュ新宿座」とも呼びますが、正式名称は「新宿座」。しかしここでは以下、当時の通称である「ムーラン」を使います。

    ◎ムーランの在った場所はどこか?
    現在の住所で言えば東京都新宿区新宿3丁目(昔は淀橋区角筈=つのはず・・と称した所)。現JR山手線新宿駅南口(甲州街道側)を出て北へ徒歩約3~4分くらいか。現在は「ドンキホーテ」のお店があるビルあたり。下地図の赤印位置。(左側の桃色の帯部分は新宿駅ホーム)(クリックで拡大)
    muran-map3

    ↓ムーラン跡地に建つビル(ディスカウントショップ「ドンキホーテ」などが入っている)
    sinjyuku3-36-16


    ◎佐々木千里は隣の豊島区で区議会議員にもなったのか?
    答は・・NO! 新宿区に在ったムーランの設立者である佐々木千里とは別に、すぐ隣の豊島区に区議会議員などをして活躍した同姓同名でしかもほぼ年齢が同じと思える人がいたのです。私を含めた70才以上の人で昭和30年代に豊島区の住民だったか、あるいは東京都に住んでいた人の一部は「佐々木千里」という名前を聞けば、昔は選挙運動で連呼される名前をさんざん聞いていたからこちらの議員さんのことしか思い浮かばない。ですから昔に豊島区在住者だった私もムーランの佐々木千里を知った時点で「ムーランをやめてから議員にもなったのか?と思わずつぶやいたのですが、私と同じ思いをした人がネット上でとりあげたら一時、騒ぎになり、当初は「それって絶対に同一人物だ!」という声もあったものの最終的には「どうやら、別人のようです」ということで終息。・・というわけでご両人について今回少し調べてみました。(実際は10才ちがいでした)

    《ムーランの佐々木千里》
    静岡県生まれ。1891(明治24)年~1961(昭和36)年 69才没。
    浅草オペラでチェロ奏者だったが後に浅草の他の演劇場の支配人となる。新宿に移り1931(昭和6)年の大晦日に「新宿座(ムーランルージュ新宿座)」を設立。劇団も作り、多くの人材を育てた。その内の一人が明日待子。↓(写真は「ライブドアニュース」より引用)
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    佐々木千里は当時人気のエログロナンセンスの風潮とは異なる路線をとったが、前年の昭和5年に、純潔性をうたって宝塚歌劇(レビュー)が関西で始まったことも意識にあったものと私は思う。

    当時の出し物の構成は”世相を反映した芝居3本とダンス(ラインダンス含む)”など。
    人気女優らのラインダンス(明日待子さん所持の写真を朝日新聞がムーラン関連記事(2011年2月16日発行)用に借用したもの)
    moulin-dance

    ムーランの周囲には大正から昭和にかけて10数軒の映画館があって、その内の1軒を改装して誕生したのがムーランなので、一時期は映画上映も行った。
    『戦時中も興行は中止することなく続いたが、空襲警報が出ると観客と一緒に地下の防空壕に潜った。しかし45(昭和20)年春の空襲でムーランは表側だけを残して焼け落ちた』(『』内は朝日新聞2014.10.10記事より抜粋)
    氏は劇場経営は松竹などに任せていたが、丁度還暦の頃1961(昭和26)年に閉館した。

    閉館間近の時期にムーランの劇団員をまとめていたのは、当時座長夫人でその後映画「男はつらいよ」シリーズでおばちゃん役をつとめた三崎千恵子だった。三崎は後年「ムーランは私の人生!」と言っていた。

    《議員であり実業家だった佐々木千里》
    長野県生まれ。1901(明治34)年~1975(昭和50)年以降没で不詳。
    27才で上京以降、商社、造船会社、製塩会社、漁業会社など創業。昭和28年には「東京丸物百貨店」※を開業。
    更に学校法人設立。東京商工会議所豊島支部設立同時に支部長就任。そして昭和22年から豊島区議会議員。昭和26年から44年までは都議会議員。その間に自民党幹事長にも就任。
    1975(昭和50)年に勲四等旭日しょう(糸へんに賞)受章。
    ・・というわけで、この方は東京都板橋区の松月院にブロンズ胸像があるほどの人でした。

    ※丸物百貨店は東京・池袋東口の西武百貨店の北側に隣り合わせて存在したが後に西武側に売却されて「パルコ」になった。これはその後各地に出来たパルコの第1号。

    まあ、それにしても「佐々木千里」という名前は世の中には少なそうで実は結構多いもので、今回とりあげた二人の他にネット上だけでも多数存在していたのは意外でした。

    ◎暗い世相ゆえに明るく咲いたムーランか?
    ムーラン開業の1931(昭和6)年とその前後の社会は総体的には暗い時代であり、その中で生まれ、存在し続けたのは、民衆の心に少しでも明るい光を提供しようとしたからであろう。

    1927(昭和2)年には経済恐慌が始まり、銀行の休業が相次ぎ、都会では失業者が多数。土管の中や無料宿泊施設に寝泊まりする人は多く、東北・北海道では昭和6年と10年の冷害で農作物収穫量は平年の3分の1以下で困窮して、ナラの実やワラビの根を粉にしたものまで食べ、それでもしのげずに娘を売りに出す農家が続出した。

    ↓土管に寝泊まりする人たち(昭和5年)(以下写真5枚は毎日新聞社刊の「昭和全史」より引用)
    dokanseikatu

    ↓東京市の無料宿泊所は満杯(昭和6年)
    muryousyukuhaku

    ↓大根かじって空腹まぎらわせるか?
    daikonkajiri

    その上、軍靴の足音高くなり、丁度昭和6年9月18日、日本の関東軍は中国・奉天郊外柳条湖の南満州鉄道の線路を自作自演で爆破したものを、蒋介石率いる国民党軍の仕業ということにして戦闘開始で満州事変勃発。以降15年間におよぶ戦争に突入していくことになる。
    翌7年には満州国建国。8年には国際連盟脱退。

    ↓チチハル(中国北東部の町)に出撃直前の関東軍第2師団歩兵(昭和6年)
    kantougun

    一方で世の中には「エログロナンセンス」がもてはやされ、「モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)」が都会を闊歩し、上流階級は女性でもゴルフに興じるという現象も現れたが、これは今ほどは情報伝達が機能しなかったから農村の窮状がピンとこないこともあったかも知れないが、暗い先行きの不安をまぎらわす一時のあだ花だったようにも思われます。

    ↓モガたち(昭和6年)
    mobo-moga

    そして戦争激化で学徒出陣体制にまでなり、出征前にせめての見納めにと多くの大学生がムーランを訪れた。その彼らの内で生還できた人はどれくらいいたのでしょうか。

    ◎明日待子さんの亡くなる2年前のお顔
    2017年に97才でテレビ番組「爆報THEフライデー」(TBS系)の取材に応じた際のお顔です。小ジワが無いのには驚きます。
    asitamatuko2 (2)

    2014年の朝日新聞の取材時には、「上京して間もない頃、ムーランの屋根裏部屋の壁に『この部屋は屋根裏の天国だ』と落書きしました」、「本当に楽しかったんですよ」と語っている。

    結婚後の札幌では日本舞踊のお師匠さんをされていましたが、亡くなったのは2019年7月14日・・そう、この日は「パリ祭」(フランス革命記念日)であり、ムーランルージュの本家が在るパリに因んだ日とは・・明日待子さん、さすがに粋でしたね。

    ↓谷中安規 作「ムーランルージュ」(昭和8年)
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    ・・・・・・・・・・・・

    ◎きのうの友はきょうの敵
    現在、ポーランドはロシアと戦うウクライナ支援をしているので間接的にはロシアに敵対しているようなもの。しかしロシアがソ連(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)だった時代の1957年10月4日に人類初の人工衛星「スプートニク1号」打ち上げに成功して以降、矢継ぎ早に打ち上げられた草創期に、それを讃えるようにポーランドはソ連の人工衛星図柄の切手を発行していた。それを思うとなにやら「きのうの友はきょうの敵」のような感じですが・・
    polska

    ◎「ソ連の衛星国」という立場や「ワルシャワ条約機構」が影響?
    実は、同様に”ソ連の人工衛星を讃えた切手”を発行した国々が他にもあった。それが何か国にのぼったのか正確には知りませんが、少なくとも私が当時集めた切手から分かることは・・

    ポーランド以外では・・ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、北朝鮮

    ↓ハンガリー(切手での国名表記は”マジャール人の国”として「MAGYAR」)
      (上の切手はソ連の国旗まで表記)
    magyar1
    (下の3枚は人類初の有人宇宙飛行にソ連のボストーク1号に乗って成功したガガーリンとボストーク3,4,5,6号:1966年12月29日の発行切手)(画像3枚はヤフオクより引用)
    gagalin


    magyar-posta

    ↓チェコスロバキア(チェコとスロバキアに分離する前)
    cesko

    ↓東ドイツ(人類初衛星成功の1957年10月4日の日付も右下に明記)
    east-germany

    ↓北朝鮮(ロケットの横腹にはソ連を表すCCCP表記。上はソ連のガガーリン)
    kitacyosen

    これらの国の内、北朝鮮以外は「ソ連の衛星国」と言われ、かつ「ワルシャワ条約機構」の加盟国だったという共通の立場だったのです。(他に「コメコン」=経済相互援助会議という組織もあったが実際には機能しなかった)

    ◎「ソ連の衛星国」とは・・
    まず「衛星国」とは、”一応は独立国家でありながら、大国によって主権を制限されて従属的な国”。
    「ソ連の衛星国」はポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、モンゴル。

    ◎「ワルシャワ条約機構」とは・・
    ”平和と社会主義のための、友好・協力・相互援助に基づく軍事同盟”
    で、ポーランドの首都ワルシャワで調印された故の名称だが本部はモスクワにあった。ワルシャワ条約機構加盟国は、盟主であるソ連、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、東ドイツ、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア。

    「ワルシャワ条約機構」成立に先立つ1949年4月4日に自由主義国間に「北大西洋条約機構」(NATO)が発足したことへの対抗は明らかだが、「ワルシャワ条約機構」の実際の機能は、同盟国=衛星国から抜け出そうとして事件や動乱が起きた国に対してこれをソ連を主体とした武力で鎮圧して離脱阻止するものだった。

    この機構は1955.5.14から1991.7.1まで存続した。(ソ連の正式な崩壊は1991.12.26)

    ということは・・この機構が発足して間もない2年後にソ連による人類初の人工衛星打ち上げが成功したことになり、これは社会主義体制の優秀さの表れであるとして喜び、機構加盟国にとってはまさに”同慶の至り”ゆえに、祝いの切手を発行したのか、それとも”親分”への忖度だったのか?。

    ◎かつてソ連の衛星国で現在はNATOとEU加盟の国
    1991年のソ連崩壊以降、ソ連に従属することから転向してNATOとEUに加盟した国は・・
    チェコ、ハンガリー、ポーランド、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア。アルバニアはNATO加盟だがEUには未加入。

    ◎「トゥヴァ」(または「タンヌ・トゥヴァ」)という国をご存知?
    私が小学生の頃、収集した切手の中に”菱形”の珍しい1枚があって、それには「POSTA TOUVA」という表記があり、切手情報誌によれば「タンヌ・トーバ」(現在の一般表記と少し違うが)というモンゴルに接する国が発行したものと分かった。
    今回、調べ直したら、「トゥヴァ」はモンゴル北西部に接する国で1921年に「トゥヴァ人民共和国」(それを表記すると「タンヌ・トゥヴァ」)として独立。しかしこの国はソ連による傀儡国であり、世界ではソ連とモンゴルのみが国として承認したものだったので1944年にはソ連に併合された。その後1991年のソ連崩壊後に独立権を得たが、他の衛星国と呼ばれた国々と異なり、新しい「ロシア連邦」の一員となる路を選んで「トゥヴァ共和国」として存在している。
    touva

    上の菱形切手は「トゥヴァ人民共和国」時代に1926年から1936年の間に発行されたもの。

    ◎ソ連の人類初人工衛星の成功記念切手を私はもってないが・・
    他の初期の衛星切手とともに「ツィオルコフスキー」を讃える切手がある。ツィオルコフスキー(1857~1935)はロシア帝国時代からソ連に至る時期に存在した物理学者、数学者、SF作家であり、ロケットの基礎理論を産み、人工衛星登場を予測したりで「宇宙飛行の父」と呼ばれた人物。
    ↓ツィオルコフスキー、ロケット、人工衛星のソ連発行切手
    tiorkovsky
    cccp
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    余談ですが、私が外国の歴史的事件発生を年月日まで覚えているのは、ソ連が人類初の人工衛星打ち上げに成功した1957年10月4日の他はフランス革命が始まったとされる1789年7月14日と米国が英国からの独立を宣言した1776年7月4日ぐらいで、それくらいに私の中では人工衛星登場が衝撃的だったのです。
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎「カレーの日」の由来は
    1982(昭和57)年、社団法人全国学校栄養士協議会が学校給食35周年をむかえて、小中学校の給食においてカレーを1月22日に一斉に出したことにちなんで決められたのが「カレーの日」。

    実は「カレー」と名の付く記念日は他にも沢山あって少なくとも18種あり、例えば「レトルトカレーの日(2月12日)」、「横浜カレーの日(6月2日)」など。

    その内、日本記念日協会認定の記念日は「カレーの日」を含めた10種。
    (詳しくは→

    ◎イトーヨーカドーが「カレーの日」を知らぬはずはないが?
    日本の代表的スーパー(マーケット)の一つであるイトーヨーカドーは今年1月11日~16日まで、「冬のカレーフェス」と称して、カレーの有名店のシェフが監修したカレーの販売とそのカレーを作るために必要な食材の販売、各地の”カレー名店が監修したレトルトカレー”の詰め合わせ福袋、さらにカレー味のお菓子までも販売するというキャンペーンを行った。

    しかし、前述のように”1月22日が「カレーの日」”と知っていたら、その日をからませた「カレーフェス」を設定するのが常套手法だろう。もしそうしていたら期間中の売上高はよりアップしたにちがいない。もしかしてカレーの日の存在を承知の上でのことなら、その理由を知りたいところ。
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    ◎私は”日本の昔の黄いろい色をした独特の香りのカレー”が好き!
    現在は、レストランで出されるカレーも各社発売のカレールウもレトルトカレーも全てと言ってよいほどが”茶色いカレー”になっている状態で、しかも昔のカレーのような強い香りはせずに、少々酸味を帯びているものも多い。

    しかし、私は昔に食べていた”黄色で独特の香りでしかも酸味など無いカレー”のほうが断然に好きだ。”黄色い”ということはターメリック(ウコン)が沢山含まれている証であり、独特の強い香りはクミンが多いことによるもの。昔はまさしくその香りがカレーであり、ご近所のお宅からカレーの香りが漂ってきて”きょうの晩御飯はカレーだな”などと分かることが普通だった。それは現在のようなカレールウがまだ売られていない当時は”カレー粉”を使っていたからで、そのカレー粉がターメリックとクミンを多く含んでいたからだろう。
    昔はこれよりもっと黄色が強くとろみのあるカレーが多かった
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    (写真は「はるか」(食の贅沢)さんのブログより)

    もう半世紀も前のこと、私の妹が”インド人からカレー(のようなもの)の作り方を直接教わったという友人”の手ほどきで作ったカレー(のようなもの)を私も食べたが、それまでに食べていた日本のカレーとはまるで違った味と食感で色も茶色。正直言って”馴染めない”と思ったもの。しかし今考えると、その時のカレーにとろみを加えたものが、現在の日本のカレーの主流になっているレシピにつながっているように思える。

    ちなみに、カレーとガラムマサラは同じような香辛料でできていて、ただ一つ違うのは、ガラムマサラにはターメリックが含まれないことだそうだ。

    ◎カレーの源はインドだが日本型カレーとカレー粉のルーツは英国
    古来よりインドでは多数の香辛料や薬効のある材料を組み合わせて一種の複合調味料としたものを色々な料理に”混ぜる(あえる)”あるいは”上から振りかける”などして使っていたが、その調味料がインドを植民地としていた英国へ18世紀後半に伝わりCURRY(カリー)と呼ばれるようになり、さらに明治期に日本に伝わり、現在に至る間に、基となったインドの調味料は英国風に、さらに日本風に変化した。したがって、厳密に言えば”インドにカレーと言うものは無い”とされる。

    カレーの基となったインドの複合調味料は英国では小麦粉を加えた”とろみ”のあるものに変化し、さらに各種香辛料を粉末にしてまぜたカレーパウダー(カレー粉)を産み出してカレー料理が普及。それが日本に伝わったのだから、日本型カレーとカレー粉のルーツは英国ということになる。
    日本初の純国産カレー粉を1923(大正12)年に発売したエスビー食品の現在のカレー粉缶
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    英国と米国に居住経験があり、両国の食に詳しいブロガー”アサヒ”さんによれば、カレー粉発祥の地のカレー粉の中でも”シャーウッド(Sharwood’s)ブランドのカレー粉”は日本人が是非にも使って欲しい逸品だという。

    ◎インドでは離乳食も病院食もカレーが使われる!
     (以下、便宜上、インドの複合調味料も”カレー”と表記)

    インドに限らずカレーは多数の香辛料やハーブから成るが・・

    ターメリックの効能は・・消化促進、肝臓機能促進、解毒、抗アレルギー、殺菌、がん細胞再生抑制、アルツハイマー予防、歯周病予防、などなど。

    クミンの効能は・・消化促進、腹痛緩和、食欲増進、肌老化抑制、便秘解消、免疫力増進、強壮、などなど。
    ・・というわけで、カレーは薬であり、それを使えば薬膳料理と言えるものになるので、インドでは離乳食にも、病院食にもカレーが使われるそうだ。

    ◎カレーに入る肉 東京(関東)は豚、大阪(関西)は牛だったが・・
    カレーに限らず、肉じゃが、コロッケの中のひき肉などに使われる肉は、昔の関東は豚肉、関西は牛肉と分かれていたが、いつの頃からか関東(と言うより全国区?)も牛肉が主流になってしまった。(他に若干の鶏肉、マトン、魚介など。強いて言えば”カツカレー”で豚カツが使われる)

    私の小学校(東京都豊島区)時代(昭和30年代)の給食のカレーは、まさに黄色くて豚肉の小さいかたまりが入っていて、当時はその豚の油のかたまり部分が好みだった。年とった今では考えられないことだが・・

    そんなことを思っていたら、なんとエスビー食品のホームページには「懐かしの給食カレー」レシピが紹介されていることを知った! 色は昔の黄色に近いし、入れる肉は豚肉だが”こま切れ肉”を使っているのが惜しい!
    「懐かしの給食カレー」出来上がり写真(エスビー食品のHPより)
    q-syoku-curry

    ◎華麗(カレー)なる発展の神保町(東京)
    さすが英国にはカレー(インド料理)のレストランが8000店もあるそうで、ロンドンでは東部のシューディッチという街に店が多く存在するそうですが、日本では東京の神保町がカレー店の密集地となり、地下鉄の神保町駅から半径1キロ以内に"カレー専門店"が約60店、”カレーも食べられる店”を併せると約400店となり、今やカレー店経営を目指す者にとっても聖地とまで言われるようになった。

    神保町と言えば、本屋の密集地として世界一の規模で有名だが、カレー店の街としても世界一になるのだろうか。私は高校生時代から現在まで、神保町へはよく行くが、昔はカレー店など見当たらなかったもので、調べたらカレー店の急増は2000年代に入ってからとのこと。

    ◎「ハウス加齢」はいかが?
    20数年前だったかに、住宅メーカー、住宅設備機器メーカー、電機メーカーなどが協同で、"将来の住宅のあるべき姿"を探るために、あるワーキンググループを編成して作業した時期があって、そこに私も参加していたのだが、ある時に"住む人が歳をとるにしたがって住宅と設備はどう対応させるか、あるいは歳をとると必要となる住宅と設備をあらかじめどの程度備えておくべきか"などを考慮した住宅を提案してみようということになって、私がその住宅のネーミングは「ハウス加齢」にしたらどうかと、あのカレーメーカーの名を借りた提案をしたら、「それは面白い」という反応があったものの、やはり没となった。
    ・・・・・・・・・・・・

    今回も”挿絵、口絵など、純粋絵画ではないが大切な絵”シリーズ続きの第3弾で、子供も大人も”ワクワクさせるような絵”とそれを描く”絵師”たちをとりあげます。(文中、敬称略)

    絵師たちの絵というものは、それを見る立場の人に向けて、”あるモノやシーン”、 例えば、まだ存在しないモノの姿、未来世界のシーン、物語や小説での場面、などを可視化(ビジュアライズ)、今どきの言葉で言えば”見える化”するためという役目を負って描かれる。

    今回に登場の絵は、すべてひと昔前のものなので、CGではなく絵師という人間の手描きですが、優れた知見による想像力や再現能力が発揮されていて、それは単に現在の効率的描画のツールであるCGを使っただけでは成しえないものであり、結局は絵師の一種の人間力が魅力を感じさせるのでしょう。

    《未来を「見える化」した絵師たち》

    ◎シド・ミード (1933~2019)
    米国の工業デザイナー、イラストレーター、コンセプトアーチスト。フォード社のデザイナーを経て独立し、ソニー、フィリップス、ホンダの製品デザインも手掛けたが、映画関係の仕事も多く、例えば「ブレードランナー」の背景から乗り物、小物まで、「トロン」のバイク、「∀(ターンエー)ガンダム」のメカニック外観などのデザインを担当した。

    以下画像11枚は(※印の8枚目を除き)画集書籍「SYD MEAD TECHNO-FANTASY BOOK」(講談社 発行)より
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    「∀(ターンエー)ガンダム」向け
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    「∀(ターンエー)ガンダム」向けの初期提案図(※シドミード展より)
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    映画「ブレードランナー」向け
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    私が初めてシド・ミードの絵を見たのは半世紀以上前になる1966年。友人が米国のUSスチール社から取り寄せた同社の企業広告パンフレットに、シド・ミードが描く"鋼板の利用で開く未来"を想像した絵が数枚使われていた。それは夢が現実のように感じられるリアルさで衝撃的だった。

    ◎小松崎茂(こまつざきしげる:1915=大正4年~2001=平成13年)
    戦前から活躍したが、戦後間もなくは西部劇調やSF冒険活劇などの絵物語を描いて、後にはいわゆる「空想科学」的な絵を得意として、雑誌の口絵や折り込みページ絵なども多く描いた。その他、プラモデルの箱の天面にリアルな絵を描く「箱絵(ボックスアート)」の分野でも活躍した絵師。

    (画像は「yuzuru themolice」さんのブログから引用)
    komatu-space

    「サンダーバード」関連のマシンや飛行体のプラモデル箱絵も多く描いた
       (Daily News AgencyのHPより引用)
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    旧日本海軍の戦闘機「震電」(試験飛行12日後に終戦)のプラモデル箱絵
      (画像は「Antique Toy Shop SHOOTING STAR」のHPより)
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    ジグソーパズル用の絵「戦艦大和」(「Aucfree」のサイトより引用)
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    サインが目立った
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    ◎ラルフ・マクォーリー※(1929~2012)
    ボーイング社でテクニカルイラストレーション(工業製品などの構造と部品配置などをわかりやすくした絵)の仕事をした後に独立して、「コンセプトアート」という”ある概念を可視化した絵”の分野で活躍。
    テクニカルイラストレーション例:ゼネラルダイナミクス社のF16戦闘機(米国、クラウンパブリッシャー社発行「Combat Aircraft」より)
    IMG_20210712_0001 (2)

    映画「スターウォーズ」ではその制作企画段階から参加して、ジョ-ジルーカス監督が考えた構想概念と登場者イメージなどをマクォーリーが可視化(見える化)してイラストを描くという重要な仕事をした。

    以下画像5枚は、書籍「スターウォーズオリジナルイラスト集」((株)バンダイ出版事業部 発行)より
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    オリジナル画のR2-D2とC-3POは映画では少し変えられた
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    ※ブログ「アディクト・レポート」さん曰く「従来、日本では「マッカリー」と表記されることが通例だが、ご本人に直接会って確認したところ、本当の読み方は(日本語のカタカナで表記するのも難しいのだが、最も近いのは)「マクワウリ」だそうで、このままでは野菜の「まくわ瓜」とダブって違和感あるので「マクォーリー」とするのが妥当であろう」・・とのこと。

    《過去や現在のシーンを緻密に「見える化」した絵師たち》
    (以下、樺島、鈴木、伊藤の作品画像は「大正・昭和少年少女雑誌の名場面画集」(学習研究社刊)より)
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    ◎樺島勝一(かばしまかついち:1988=明治21~1965=昭和40年)
     独学ながら抜群の緻密さのペン画で、「船の樺島」と言われるほど軍艦や帆船を描くことが多かったが、時代的には軍事冒険小説の挿絵も手掛けた。
    小さな画像ではわかり難いが、ペン画(上)
    kabasima (2)

    kabasima-yacht (2)

    ◎鈴木御水(すずきぎょすい:1898=明治31年~1982=昭和57年)
     雑誌「キング」や「少年倶楽部」の口絵や挿絵を多く手掛けた。特に飛行機の絵を得意とした。
    「上海の空中戦」(絵葉書資料館のHPより)
    wr290-鈴木御水-上海の空中戦

    「飛行艇」(郷愁倶楽部のHPより)
    gyosui1

    ◎山口将吉郎(やまぐちしょうきちろう:1896=明治29年~1972=昭和47年)
      東京美術学校(現、東京藝術大学)卒業後、雑誌「幼年の友」の挿絵画家として登場。正確なデッサン力で”時代モノ”特に若武者の絵を得意とした。時代考証に忠実たらんとするために等身大の鎧を作り、弓道を習得するなどした。
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    ◎伊藤彦造(いとうひこぞう:1904=明治37年~2004=平成16年:享年満100才)
    朝日新聞の一社員時に同社専属挿絵画家の指導受け、その後に日本画家の橋本関雪に学んだ。剣術家の息子であり師範免許を持っていたため、描く剣戟世界は真に迫っていた。通常の彩色画も描いたが、緻密なペン画も得意とした。
    「扇の的」
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    ペン画「阿修羅天狗」
    itouhikozou (2)

    ・・・・・・・・・・・・・
    ”挿絵、口絵など、純粋絵画ではないが大切な絵”シリーズ続きの第4弾は少し間をおいて綴ります
    ・・・・・・・・・・・・

    挿絵など、純粋絵画ではないが大切な絵の色々!(1)
    世の中には用途によって多様な種類の”絵”がありますが、美術作品として鑑賞されるような絵ではないが、”ある役目を背負って描かれる絵”という存在があり、それを描く作者たちがいます。

    ◎絵本の挿絵への疑問
    今回、そもそも“絵”をテーマにしたきっかけは、近代の子供向け絵本の挿絵の現状に少し疑問をもったからで、それは”描かれる人、動物、植物、服、モノ、家、山、川などあらゆるものが概念的で単純化されている”ことが、全ての絵本にとってそれで良いことなのか?・・というものです。

    一般的に脳力が未発達の”幼児”向けには、物語と挿絵は動物、植物、やモノなどを単純化、擬人化、概念化したカタチがとられ、例えば先日(2021.5.23)に亡くなった米国の絵本作家エリック・カール氏の「はらぺこあおむし」の挿絵などは、これに該当するでしょう。
    harapeko

    ◎具体的・写実的な挿絵の効果
    しかし一方、その対象読者となる子供の脳の情報処理力が発達してからは、絵本のストーリーと挿絵が具体的で細かい表現であっても認識されるようになって、例えば「あおむしはこんな色・形をしているんだ」 「(都会育ちの子なら)田舎はこんな風景で、山や川はこうゆう風に見られるんだな」 「昔は水を、こんな格好した井戸というものから汲んだんだ」 「武士が着ている鎧というものは何か細かい板が沢山ついているな」・・

    というような写実的付帯情報を得ながら登場人物が置かれている環境や時代背景を踏まえられるのでストーリーの印象がより強まりますが、挿絵が”概念化、単純化”したものであれば印象に残ることは少ないもの。

    私がこのようなことを言い出した背景には、私自身の体験があるからで、その原点は「講談社の絵本」シリーズで、小学校入学前後から読み始めたものですが、この本の挿絵は殆どが具体的(具象的)・写実的であり、しかも(私は最近になって知ったことですが)絵の作者は日本画、洋画の一流の人たち※だったので、丁寧に描かれた挿絵の視覚的印象は強く残っています。

    例えば「安寿と厨子王」では”昔の子どもたちの旅姿はこんな着物を着ていたんだ”とか「ロビンソン漂流記」では”無人島でも工夫してこんな家具や住家が作れて作物も自分で作れるんだ! 僕もやってみたいな”・・などと視覚情報からも刺激を受けるなどインパクトは大きく、その後の人生にまで影響された人も多いようで、グラフィックデザイナーから画家にもなった横尾忠則氏や歴史作家になった永峯清成氏もそのように述懐されている。私も少なからず影響を受けて後の自分の職業につながった部分があります。
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    ◎「講談社の絵本」シリーズ
    現在の講談社がまだ「大日本雄弁会講談社」と称していた戦前の昭和11年から昭和33年まで、途中で何度かシリーズ名を改称しながら刊行。その後も平成に至るまで二度ほど”シリーズの中から厳選約20冊をまとめて発刊”などした。こうして創刊から販売総計なんと7000万部は、その質と量で日本の子どもたちに与える影響が大きかった。

    ・「講談社の絵本」・・1936(昭和11)年~1942(昭和17)年
    ・「コドモヱバナシ」と改称して・・1942(昭和17)年~1944(昭和19)年
    ・「講談社の絵本イッポンノワラ」と改称して・・1945年10月
       (終戦2か月後)復刊するもすぐ終刊
    ・「講談社の絵本」の名で再登場して・・1946(昭和21)年~1958(昭和33)年
         (この昭和33年に社名を(株)「講談社」に変更)
    ・「講談社の絵本 ゴールド版」・・1959(昭和34)年~1965(昭和40)年まで?発刊
    ・「講談社の絵本 完全復刻版」(全24巻)同時発刊・・1970(昭和45)年
    ・「新・講談社の絵本」(全20巻) 同時発刊・・2004(平成16)年

    戦後の「講談社の絵本」の一部(ヤフオクページより引用)
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    表紙絵の例「牛若丸」(戦前版):右から書き・カタカナルビ
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    表紙絵の例「牛若丸」(戦後版):左から書き・ひらがなルビ
    usiwakamaru

    表紙絵の例「牛若丸」(「新・講談社の絵本」版):丸ゴチック文字
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    挿絵の例「かぐや姫」
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    挿絵の例「青い鳥」(supekuri.shop-pro.jpより引用)
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    「講談社の絵本」の本文と挿絵の一流作家・画家(イラストレーター)たち
    本文を担当した作家:村岡花子、西條八十、宇野千代、川端康成、円地文子、有吉佐和子、石井桃子、平野威馬雄(平野レミの父)、他

    挿絵を担当した画家:高畠華宵、蕗谷虹児、加藤まさを、小松崎茂、沢田重隆、松本かつぢ、他。(この6人については次回に紹介)

    ◎具体的・写実的基礎を踏まえての単純化・抽象化・概念化
    画家のピカソ、マチス、熊谷守一たちは、絵の対象物を抽象化あるいは単純化した画風が有名ですが、この人たちも元は精密な石膏像デッサンなどで基礎を磨き、その後に具象的・写実的絵画を描いた時期を経過した後に”単純化・抽象化”の領域に至っている。換言すれば、彼らは”モノの姿・有様”をしっかり捉えているからこそ、そのエッセンスを抜き出して単純化や抽象化した表現ができた。

    ピカソのデッサン(新美ブログより引用)
    picaso-foot (2)

    マチスのデッサン(アトリエヒュッテのHPより引用)
    matis-dessin (2)
    熊谷守一のデッサン(ちょっと狂いがあるが・・)
      (金井 直氏の論文より引用)
    kumagai-dessin3 (2)

    ◎子供向け絵本には具体的・写実的な挿絵がもっと在って良い!
    子どもに最初から単純化・抽象化したモノばかり見せたら、モノの実際の姿、本物を知らないまま育ってしまう。それらを先に知らしめてから、必要に応じて単純化・抽象化するのが順序というものでしょう。

    別の視点から見れば、子供向け絵本などの挿絵作者は「語りの文章の内容に沿って、実にうまく単純化・象徴化した絵が描けた!」として大人の視点の満足感を得ているでしょう。しかしすべてこれが子供のためになっているか?・・ということです。
    ・・・・・・・・・・・・・
    なお、ここでは絵本の挿絵に特定しましたが、テレビや映画のアニメ化した物語に関しては、動画なので製作コストや時間的制約など条件が絵本とは異なるので、単純化した絵が主流になるもの。
    しかし、単品モノの物語作品などでコストをかけられる場合には、(人物はともかく)背景などには写実的な絵が採用されることも多い。スタジオジブリ作品にもそれが多く、「おもひでぽろぽろ」では紅花畑が出てくるシーンのために高畑勲監督はスタッフをひきつれて山形県に行き、実際の紅花とその栽培畑を観察させて、本物を十分に知ってから作画させている。
    ・・・・・・・・・・・・・
    長くなるので次回には、子供または大人に向けた”写実を基本にした(純粋絵画ではない)絵”を紹介。
    ・・・・・・・・・・・・・
    蛇足:先日(2021.6.5)、「はらぺこあおむし」の作者の死去間もなくのこと、毎日新聞の風刺漫画コーナーに「エリック・カールさんを偲んで はらぺこIOC 食べまくる物語」という題で” はらぺこあおむしの恰好をしたバッハ会長やIOC役員たちが《放映権》というリンゴをむさぼり食う似顔絵”が掲載されたそう。
    これに対して、「はらぺこあおむし」の日本での出版元である偕成社は「風刺の意図はわかるが、この物語の本当の意味が分かっていない表現であり、強い違和感を感じる」というコメントを同社の公式サイトで表明したとのこと。・・この物語は”あおむしが一生懸命に食べて後に美しい蝶になる”という筋書きであるので、これとなじまないからだ。
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎メガソーラーの環境問題
    今年(2021年)になって、一部のマスコミに次のような内容の記事が出た。・・『岩手県を流れる猿ケ石川(さるがいしがわ)の上流にあたる山奥の山林90万平方メートルを切り開いた造成地に設置されたメガソーラーの土地から土が雨などによって、まず近くの小川に流れ出し、その先で猿ケ石川に流れ込んで水は赤茶色に濁ってしまっている。(太陽光パネル10万枚の工事開始は2018年4月。川の濁水が発見されたのは翌年4月。抗議を受けて事業者は土の流出防止工事をしたがまだ不完全状態)

    問題のメガソーラー(岩手県)
    nec-megasolar
    その濁水は周辺流域の田んぼにも流れ込み、ヤマメの養殖も一時ストップし、アユの養殖量も減った。』

    つまり、環境のためになるはずのモノが、一方で環境を壊してしまっていることになる。この件に限らず、近年は日本全国でメガソーラー設置による周辺環境への弊害が問題化している。

    それは、土の流出による河川の汚濁による生態系の破壊、水源が確保できなくなる、森林伐採による保水力の低下による地滑りの危険性発生、自然景観を損なう、流れる水が不快な色になる、などで、各地の住民の反対運動が多発している。

    『そのために「現在全国で少なくとも138の自治体がメガソーラー施設の設置を規制する条例を定めている。

    遠野市も昨年(2020年)に「1万平方メートル以上の太陽光発電事業は許可しない」という全国的にも厳しい条例を定めた。』(以上『』内の内容と写真は読売新聞オンラインからの引用。一部編集)

    ◎猿ケ石川とは
    岩手県のほぼ中央部にある遠野市。ここは柳田国男の書いた「遠野物語」で知られる地。その市内を西へ流れて隣の花巻市内で北上川に合流するのが一級河川「猿ケ石川」

    この川の流域には「カッパ伝説」が多く残っている理由として、このような説もある・・「昔、この地方の農民は極貧で凶作も多く、いわゆる「口減らし」のためにと言ってもさすがに我が子を殺すわけにもいかず、捨てるに際してもせめて水が飲める川辺に置き去りにする。その子らがやがて骨と皮だけのような体になったところを見られたのが”カッパ”とされたのではないか。カッパは河童と書くように人間の大人の大きさのカッパはいないのはこのためである。」
    JR遠野駅前のカッパ像(townphoto.netより引用)
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    余談ですが、今は亡き私の両親は(父の勤務の関係で)岩手県に住んでいたことがあり、後年に、よく「さるがえし」という言葉を口にしていたので、私はてっきりそれは「猿返し(帰し)」という”猿も寄せ付けないほどの険しい地”を表すものだと思い込んでいたのですが、つい最近になって、それは「猿ケ石」のことだと知った次第。どうやら九州出身の両親でも東北風の発音に慣れて「い」が「え」になっていたのだと思います。

    ◎田瀬ダム(田瀬堰堤=たせえんてい)
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    写真は「岩手日日新聞社」のHPより引用

    猿ケ石川が遠野市を流れ出てすぐ西隣の花巻市に入った中流にあたる所に「田瀬ダム」が在り、それによって「田瀬湖」が出来ている。
    tasedamu-map (2)
    (google map利用)

    田瀬ダム(田瀬堰堤)は・・
    高さ81,5m/長さ320m 重力式コンクリートダム。 
    北上川水系の5大ダムの内で最大。
    このダムは国の直轄建設ダム第1号。
    着工は1941(昭和16)年、戦況悪化で1944(昭和19)年に工事中断、戦後1950(昭和25)年に工事再開、完成1954(昭和29)年10月。

    終戦間もない時期で、物資や建設機械も不足しがちの中で工事を請け負ったのは、戦前の中国大陸や朝鮮半島で特に堰堤や隧道(ずいどう=トンネル)の施工などいわゆる"土木"分野を得意としていた西松建設。

    工事再開にあたっては、中断時点で約10分の1までコンクリートを”打っていた”部分の上に覆いかぶさるように新しいコンクリートを打つ方針にしたが、約6年の工事中断期間中に”コンクリート表面が風化・劣化“していたので、新旧のコンクリートの確実な接合のためには古い表面を”はつる(はがす)”という通常ではあり得ない余計な作業が必要だった。

    ダム完成時には、国も初の直轄ダムということで、時の建設大臣の小澤佐重喜氏(現在の衆議院議員の小沢一郎氏の父)をはじめとした要人出席のもと竣工式が行われ、(気合が入っていたか)その後日には”東北地方建設局“製作の「田瀬堰堤(たせえんてい)」という41ページからなる記念小冊子が発行された。

    ↓小冊子「田瀬堰堤」(西松建設で当時は当堰堤工事従事者の労務管理責任者だった父が残したもの)
    以下は、この小冊子に使用されている写真からピックアップしたものです。
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    ↓岩盤掘削作業
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    ↓骨材(セメントに混ぜる砕石)貯蔵地
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    ↓堰体カットオフボーリング作業
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    ↓旧堰体コンクリート表面の”はつり”作業(機械不足のため、この作業には増援要員として宮城刑務所の囚人40名が参加した)
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    ↓堰体コンクリート打設作業
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    ↓堰体コンクリート打設作業
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    ↓竣工直後の田瀬堰堤(下流側)
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    ↓竣工直後の”湛水(たんすい=貯水)”を待つ田瀬堰堤(上流側)
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     ↑こちら側が現在は水没して見られない風景。私の父によれば「ダム工事再開の翌年の昭和26年にダムより少し上流部分で、父に連れられた私を含めた兄弟3人で水遊びをした」そうですが、私は記憶にないものの、何やら感慨深いものがあります。

    ↓東北地方建設局長:左=池田徳治 右=伊藤 信
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    ↓西松建設社長:西松三好
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    ↓工事関係責任者たち(一部)
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    田瀬ダム建設再開の翌年か翌々年に、4、5才だった私は父に連れられて工事現場をちょっとだけ見せられたという貴重な経験をしました。そこでは多くの人が働いていて、張られたケーブルに吊られた大きなバケット(金属製の容器?)が右上の方に昇っていく様子が目に焼き付いていますが、子供ながらにも、その活気にワクワクしたことを覚えています。それはまさに戦後復興期のワンシーンだったと思います。
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    次回は、この田瀬ダムと関係する大物俳優についてです
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    ◎カッコ良さ最高のドライバーを見た!
    それは1976(昭和51)年のこと。私の運転するクルマは東名高速道路を東京から西に向かって神奈川県内か静岡県に入ったあたりか?を走行していた。

    ふと気が付くと、いつの間にか私の右側の追い越し車線に現れて抜き去ろうとするクルマがいた。

    横を通り過ぎようとするそのクルマには、高齢の男性ドライバー1人だけが乗っていて、ハンティングキャップ(日本で言う「鳥撃ち帽」)をかぶっていたのははっきり覚えているのだが、服装がどうだったか詳細は思い出せない。ただトータルのファッションセンスが良いのは一見して分かった。その上、ハンドルを握っている姿勢が良く、つまり姿全体の雰囲気がとにかくカッコいい!・・と感動したものの、それは一瞬のことで、その人はチラッとこちらを見てスーッと走り去った。

    これは今から40数年前のことだが、このシーンははっきり目に焼き付いている。その理由は、ハンドル握って55年になる私の経験の中で、後にも先にも”これ以上にかっこいいドライバーを見たことがない”からだ。

    それは、乗っていたクルマがオープンカーだった影響もある。クルマ自体がかっこいい上に、屋根や窓ガラスが無いので車内が明るい上に、外からの視線を遮るものが無いので、そのドライバーの身なりと仕草がハッキリと見てとれたからでもある。

    私がクルマに詳しければ瞬時にその車種・車名が分かったのでしょうが・・、白だったかシルバーだったか?の色の外車のオープンカーを今、記憶を頼りに調べてみると、たぶんそれは「ポルシェ911タルガ」ではなかったかと思える。
    現在のポルシェ911カブリオレ(オープンカー)
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    もうひとつ大きな要素が、”運転していたのが渋い高齢者”だったことで、「えっ その歳で!」という驚きが好感とともに感動を呼んだのであり、これが若者の運転だったらそうはいかない。

    そこで、最近になって、あのかっこいいドライバーはきっと”白洲次郎”氏(以降、敬称略)だったのではないかという思いを強くしている。私が当時すでに白洲次郎をその顔も含めて知っていたら、その場で確定できていたのでしょうが、氏のことを知ったのはその20年ほど後のことになるので残念ですが・・

    ◎白洲次郎とは
    白洲次郎(1902=明治35年~1985=昭和60年:83才没)は、兵庫県の(現)芦屋市に生まれ、ケンブリッジ大学留学経験と堪能な英語力を駆使して、終戦後は吉田総理の懐刀として、GHQの一方的な指示や放漫な態度にも抗議したり、日本国憲法草案作成時には氏の意見を述べるなど、GHQの高官をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという話は有名。その他貿易庁長官、総理大臣秘書官、サンフランシスコ講和会議時の主席全権委員顧問、東北電力会長などを務めたが、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長であった時期に当時の総理大臣の田中角栄から外国要人を伴ってプレーしたいという要望があった際に”非会員である”ことを理由に拒否したのも語り草。とにかくその功績や武勇伝のようなエピソードは非常に多い。
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    しかし白洲次郎を語るには欠かせない側面があり、そのことが”私が東名高速道路で見たのは白洲次郎”とする判断理由となるもの。・・さてその側面とは・・

    ◎白洲の側面(1)ダンディを極めた!
    英国留学時に物心両面のダンディズムを体得し、帰国後もそれが活かされて、終戦後のGHQのマッカーサー司令長官や要人に対しても”敗戦国の人間として見下されるようなことを阻止する”効果※は充分にあった。(※他の要素として、流ちょうなキングズ・イングリッシュ=英国語を使ったこと、子供の頃から喧嘩に強かったこと、身長が180センチとも185センチともされて体格でも対等だったことがあげられる)
    外国要人と会話する吉田首相と白洲(右から2人目)
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    当然、服の着こなし方にもうるさかったが、カジュアルな服装においても、日本で最初にジーンズパンツ(リーバイス501)を履いた男とされる。白洲の大切にした言葉「プリンシプル」(信条、原則、道義)を守る意思が顔や態度に現れていたために、いかなる服装でも身なりが締まって見えた。

    ネクタイの生地にもこだわりが・・
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    ジーンズにTシャツ姿(48才)
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    そのダンディさから三宅一生のファッションモデルにもなった。
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    最晩年の白洲と夫人(正子)(画像はBS-TBSテレビより)
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    ◎白洲の側面(2)中学時代~晩年~死後まで?クルマ漬け!
    ・中学(旧制)時代には、米国の高級車「ペイジ・グレンブルック」を (白洲商会を経営して綿花貿易で財を成した父親から) 与えられた。(最右が白洲少年)(画像はBS-TBSテレビより)
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    ・英国ケンブリッジ大学に留学時代には「1924年式ブガッティ・タイプ35」と「1924年式ベントレー3Lスピードモデル」との2台を乗り回して欧州ドライブしたり、サーキットでも走らせた。
    ブガッティを運転する白洲(左)
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    ↓白洲が実際に乗っていたベントレー
     (現在、茨城県加須市にあるWAKUI MUSEUM※に動態保存展示している。右に立つのは涌井館長) (画像はNHK ETVより引用)
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    ・帰国後に正子と結婚した際には、父親から贈られた「ランチャ・ラムダ」で新婚旅行をした。
    ・東北電力会長時代には、ダム工事現場回り用に輸入した「ランドローバー・ディフェンダー」を自ら運転した。
    ・その他、公用には「メルセデスベンツS」を利用したがこれは運転手付きで乗ることが多かった。

    ・ホンダの「シビック」がCVCCという、当時としては画期的な低公害エンジンを載せて発売されるや、購入して一時期は公用に使ったが、その際には運転手の横の助手席に座ることが多かった。
    CivicRS
    ・プライベートで80才過ぎまで最も愛用したのが「1968年式ポルシェ911S。(排気量アップしたエンジンに積み替えていた。)↓
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    ・トヨタが1981年に、当時の同社の最高技術を注ぎ込んで開発し発売した「ソアラ」を購入。
    初代ソアラ(画像は「ベストカーweb」より引用)
    soala
    ・白洲は”ソアラはまだ改良の余地あり”との思いを強くして、当時のトヨタ社長にも提言して、”参考になればと考えて?”自分の愛車ポルシェ911Sをトヨタ社に寄贈してしまった。

    ・トヨタは白洲の熱意に応えるために、初代ソアラからの開発主査である岡田稔弘(としひろ)と白洲を直接コンタクトさせた。以後白洲から改良提案事項記載の手紙などを岡田に送ったりして、次のソアラが出たら購入すると宣言。

    ・白洲提案も取り入れた2代目ソアラの発売3か月前に、惜しくも白洲が他界。しかし正子夫人はすぐにそのソアラを(運転免許を持っていないのに)購入して遺志を継いだ。

    ・ほどなく、当時の豊田章一郎社長、息子で現社長の章男、正子夫人の三人は2代目ソアラに同乗して、白洲次郎の墓(兵庫県三田市)に報告のお参りをしたのであった。

    ◎やはり、あれは白洲次郎だったか?!
    前述のように、私が体験した1976(昭和51)年なら白洲は74才。運転者はダンディこの上ない。そして”屋根の無いクルマ”に乗るなど、いかにもクルマ好き。・・しかしただ一つ引っかかるのが”白洲がオープンカー(カブリオレ)を運転したことがあるという記述や写真が見られないこと”なのだが、クルマ好きで”飛ばし屋”ならその運転の可能性はありうること。

    白洲次郎は、80才を過ぎたある日、家人に「東名高速で若いヤツが競(せ)りかけてきたから、ぶっちぎってやったら、びっくりして諦めていたよ!」と満足げに言ったとのことなので、70才代ならなおさら飛ばすことが多かっただろうから、私のクルマが追い抜かれたことも考えられる。

    やはりあれは白洲次郎に違いないと思う私なのですが、もし違っていたとしても、あのかっこいいシニアドライバーの姿は見習いたい。
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    ※WAKUI MUSEUM (ワクイミュージアム)・・https://www.wakuimuseum.com/
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    追記:光あるところには影がつきものなように、白洲次郎にも"手放しで礼賛できるものではない部分がある"とされているようです。
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    昨年末(2020年12月29日)に世界的な服飾デザイナーのピエール・カルダン(文中敬称略)が98才で亡くなった。(以下の画像7枚はNHK-BS1テレビより引用)
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    ピエール・カルダン(↑晩年)(↓38才頃)
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    ↓カルダン作品
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    カルダンは高い創造力をベースにして、まず服飾デザインでは、斬新さに加えて従来に無い”素材”例えばビニールなどを採用したり、オートクチュール(高級注文服)に加えてプレタポルテ(高級既製服)にも進出したりした。

    またヨーロッパの服飾デザイナーが東洋人のモデルを採用する初動の一端を担い、1959年にルイ・フェローが日本人のモデル松田和子を起用したのに次いで、カルダンも翌1960年に松本弘子を起用した。(イブ・サンローランも同年に松田和子を起用) カルダンはその後も初のアフリカ系モデルも採用。こうして氏は「ファッションの革命児」と称された。

    さらに氏のセンスを服飾の世界以外の広い分野に活かしてデザインした。例えば食器、調理器具、家具、タオル、タオルケット、足拭きマット、壁紙、車椅子のシート、自動車の外装、などに及んだ。

    それらは800件に及ぶライセンスで生産販売された。

    さて、その”ピエールカルダン・デザイン”の製品の中で、私が忘れられない電気製品がある。それが・・

    ◎ポケッタブルラジオ(三菱電機製:7X-800)
    1963(昭和38)年に発売されたトランジスタ7石のAM(中波)ラジオで、寸法は86X86X35ミリ、重さ約200グラム。単3電池2本使用。
    本体色は、レッド、オレンジ、ブルー、ライトグリーン、ライトブラウン。

    最大の特長は全体が丸みを帯び、角もアールがついて、手に持ってはよく馴染み、服のポケットに入れても布地を傷めない形状デザインであり、この時代の同様の大きさのラジオが全て”四角い角張った箱”という形状であった中で、ズバ抜けて斬新で素晴らしいモノであった。

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    上記5枚の画像はヤフオク出品物写真より引用

    ↓形状がより理解できる動画

    デザインの専門家によれば、このラジオの形状には”アールどうしのつなぎ方”に難ありの部分があることと、”ボリュームやチューニングのツマミ周り”の処理に改善の余地があるそうだが、とにかく大きな視点で見れば、やはり優れモノ。

    このラジオの出現に関連して思い出されるのが、1957(昭和32)年から以後数年間にわたって当時の日本専売公社(現、JT)が展開したCMで「たばこは動くアクセサリー」というコピーを使い、当時の有名女優の司葉子、池内淳子、久我美子、香川京子、団令子、白川由美らをそれぞれ登場させた多数のポスターとテレビコマーシャル。
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    画像は「十和堂」のHPより引用

    カルダンデザインは、言わば"ラジオを「音の出るアクセサリー」にした"とも言えよう。

    カルダンの他にも"服飾デザイナーで家電デザインに関わった"2例を以下に綴ります。

    ◎アンドレ・クレージュがデザインした家電品
    カルダンと同じくフランスで活躍した服飾デザイナーのアンドレ・クレージュ(1923~2016)も服飾以外の分野にもデザインを提供した。クルマのホイールのパターンやバイクの外装などもあるが、日立家電販売(現 日立グローバルライフソリューションズ(株))が同社の複数の家電製品にクレージュデザインを採用したことがある。

    ↓日立ヘアドライヤー(HD-1234AC)
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    ↓日立ポータブルカセットプレーヤー(CP-S3C)
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    ↓アンドレ・クレージュのロゴ(最下部が最新変更版)
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    ◎森英恵デザイン採用の家電品
    ファションデザイナーの森英恵も服飾以外にも食器、タオル製品、寝具などに関与していて、家電製品には・・
    松下電器(現、パナソニック)が1977(昭和52)年に森英恵の代表的モチーフである”蝶”をあしらった洗濯機を製造販売したことがある。本体色は白、赤、青。

    当時、日本の多くの家電メーカーは、カラフルな本体色や”蝶よ花よ?”と模様を入れた製品が流行していたもの。
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    写真は「リサイクルショップ『やしの実』」のHPより引用

    荒川金属工業(株)は、電気式スロークッカーの「マルビシ スローポットミニ ハナエモリ」(EP-550)を製造販売。これも本体表面に森英恵の”蝶”とロゴを配したデザイン。
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    ・・・・・・・・・・・・
    余録 : カルダン、クレージュが家電製品以外に関与した例

    カルダン・・車椅子「iR-PC」のシート類(日進医療器(株))↓
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    カルダンがいかに大量のライセンスを与えたかを表すように、我家にも存在するカルダンもの2点(すべて自家購入ではなく貰い物)

    1)カルダンクッキングパン (カルダンらしい丸型取っ手)↓
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    2)カルダン マット↓
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    クレージュ・・「クレージュ タクト」 HONDAから1985年に発売されたバイク
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    飛話・・カルダンデザインのポケッタブルラジオが発売された
    1963(昭和38)年と言えば、発売元である三菱電機のデザイン部署には、あの女優「鶴田真由」の父上である「鶴田剛司(たけし)」氏(東京藝術大学卒)が勤務していて、その前年の(毎日新聞社主催)「1962年度毎日工業デザイン賞」には氏を中心とする6名から成るチームが応募した「三菱超小型テレビジョン受像機」のデザインが特選1席を獲得している。

    その後1964(昭和39)年には米国イリノイ工科大学に留学し、帰国後に結婚して1970(昭和45)年に"真由"が誕生。氏はその後三菱電機のデザイン部門のトップの地位に昇りつめられた。

    私は氏がトップにおられた時期の1992(平成4)年3月に東京の湯島で一度お会いして会話をしたことがありますが、氏は"全く偉ぶるようなことをされない方で実に紳士的に"対応してくださったことが強く印象に残っています。端正なお顔でダンディ、まさに「この親にして、この子"真由"あり!」・・確かに納得します。
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    「鶴田真由」写真はhttps://anoima.infoより引用
    ・・・・・・・・・・・・

    近年の国会などでの陳述、質疑応答などは殆どが原稿ありきで、しかも自身で作成せずに官僚が作成したものと思われるものを棒読みするような場面も多く、ましてや演説と言えるようなものは無いようだ。それを見るにつけ、聴くにつけ、私は“かつて名演説家と言われたある人の名”が頭に浮かぶのです!・・その人とは・・(以下敬称略)

    ◎斎藤隆夫(さいとうたかお)
    政治家であり弁護士でもあった斎藤隆夫(1870=明治3年~1949=昭和24年)は名演説家として有名。その理由は、演説の内容が“当時の軍部や国会の流れに対する批判”が多かったこと、つまり時代の雰囲気の中で“言いにくいことを敢然として発言した”ことと、氏は“長時間の演説でもことごとく原稿無しで行った”ことによる。
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    その
    斎藤の「三大演説」と言われるのが・・

    「普通選挙法賛成演説」(1925=大正14年、同法案成立前に演説)

    「粛軍演説」(1936=昭和11年、軍に対して革正を求め、軍による議会軽視への批判、1時間25分)

    「反軍演説」(1940=昭和15年、支那事変の処理への質問演説、2時間)

    「粛軍演説」の肉声一部(イントネーションなど口調は時代を感じるが)
    https://www.youtube.com/watch?v=oD1470HX95E

    斎藤は終生、議会政治重視、立憲主義、自由主義を貫いたので、戦前は“軍部の政治介入”と“軍部に同調する政治”に対する強烈な批判演説が多かった。但し「粛軍」「反軍」と言われる内容の演説を行ったものの、斎藤は、世界の歴史をトータルでみると、 “力と戦争の行使”の期間が大部分を占めており、平和の期間は僅かであることが事実という見地から反戦主義者ではなかった。

    ゆえに、軍部への批判の根幹は“国内外の政治に関しては素人の軍部は口を出すな、それより世界(特に中国)情勢と戦局をもっと直視して行動すべし”という思いにあり、必ずしも戦争をするなとは言っておらず、このスタンスが斎藤への総合評価の分かれ所ではある。

    とは言え「粛軍演説」「反軍演説」は軍部への懐疑、批判であることにはかわりがないので、軍部からの監視、脅迫もあり、また「反軍演説」後に親軍部的な諸党派が中心となって斎藤の衆議院議員除名案が圧倒的多数で可決され、一時国会を去るが、1942=昭和17年の総選挙では、軍部からの妨害があったり、選挙に圧倒的有利な“翼賛政治体制協議会※推薦”ではない“非推薦”で立候補するも兵庫5区でトップ当選して衆議院議員に返り咲いた。(※翼賛政治体制協議会=軍部の方針を追認する党派と議員の集団)

    戦後は第1次吉田内閣、片山内閣の国務大臣などを歴任、最後は1948=昭和23年に「民主自由党」(「自由民主党」ではない!)創立に参加し、翌年に79才で死去。

    斎藤隆夫は兵庫県豊岡市出石(いずし)に生まれ、東京の「東京専門学校(後の早稲田大学)」を主席で卒業、エール大学に留学した後に弁護士試験(現在の司法試験)に合格して衆議院議員になっている。

    ◎斎藤隆夫記念館「静思堂」
    出石が生んだ政治家・斎藤隆夫の功績を伝えるために、同町内に1983(昭和58)年に竣工。
    設計は著名な建築家:宮脇檀(みやわき・まゆみ1936~1998)。氏は出石の町全体を気に入っていた上に、元々氏は“街並み景観や都市計画の観点からの建築設計”に注力していたので、その後も同町の美術館、町役場、中学校など“町全体の調和を意識した一連の建築”の設計も手掛けた。

    2018年7月にこの記念館を訪れた自民党の石破茂氏は、見学後に「世論に迎合したい、自分の身が大事との思いにとらわれそうになる時、斎藤氏を思い出すと、これじゃいかんと思う。一歩でも近づきたい」と(記者団に)語ったそうである。

    ↓「静思堂」入り口(正面に斎藤の胸像あり)(蒲島古都多氏撮影写真を引用)
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    ↓「静思堂」外観
    写真はブログhttps://shinmemo04.exblog.jp/26147531/さんから引用
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    ◎なぜ、私が斎藤隆夫の名を覚えたのか
    それは今から40年ほど前、当時私が住んでいた兵庫県に東京の両親が来た際に、県内を私が案内して巡った場所の一つが県北部の豊岡市出石であり、そこのある場所に“郷土が生んだ雄弁家「斎藤隆夫」”というような文言を記した看板が立っていた。(残念ながら当時は斎藤隆夫記念館がまだ建っていなかった。)それを見た父が、「確かにこの人の演説は有名だったものだ。そうか、ここの出身だったのか」と感慨深げに言ったので、それ以来私の脳裏から離れなかったもの。

    なぜ私の父さえもが斎藤を知っていたかというと、当時の国会での氏の長時間演説は大新聞が一面トップに全発言を掲載することもあったとのことで、自ずと大衆にも名前が浸透していたからだ。

    ・・・・・・・・・・・・・
    次に、斎藤隆夫の演説も参考にしながら、“発言とはこうありたい”と思えることについて綴ろうと考えましたが、長くなるので次回にまわし、以下は氏を生んだ出石についての紹介です。
    ・・・・・・・・・・・・・
    ◎斎藤隆夫を生んだ兵庫県豊岡市出石とは・・
    「但馬の小京都」と称される、出石城の城下町。つい先日(2020年12月12日)にNHKテレビの「ブラタモリ」に登場した「玄武洞」は、この出石から北に約13キロの地に在り、そのまた約4キロ先には志賀直哉の小説で有名な「城崎温泉」などが同じ豊岡市内に存在し、同市の最北部は日本海に面する。また同市はコウノトリ繁殖取り組みでも有名。

    ◎出石出身の斎藤以外の有名人は・

    沢庵和尚・・漬物のたくわんの創始者とも深い愛好家だったとも言われる和尚は出石で生まれて、京都の大徳寺を経て江戸の寺の住職で終わるが、郷里の出石城主代々の菩提寺であった出石の「宗鏡寺(すきょうじ)」 が荒廃していたので、生前に乞われてこの寺を再興した。ゆえに「沢庵寺」とも称される。

    加藤弘之・・東京大学初代総長も出石出身。

    ◎その他の出石名所、名産、名物
    ↓出石の代表的風景(中央は「辰鼓楼=しんころう」:wikipediaより
    Izushi_Toyooka
    宗鏡寺(すきょうじ=別名:沢庵寺)の庭
     沢庵和尚が作庭したもの
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    出石焼(伊万里より白いとされる磁器が作られる)
     
    (山本製陶所商品紹介より)
    yamamoto_item03
    出石そば(江戸時代の国替えで信州上田の城主が新たに入城するにあたって蕎麦職人も引き連れてきたため広まった。現在の名物「皿そば」が盛られる小皿は出石焼
     (「沢庵」店の皿そばの例:写真はRumi・Kawashima氏撮影)
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    19年前の(米国では)本日である2001年9月11日、米国内での同時多発テロによりニューヨーク・マンハッタンのワールドトレードセンター(WTC)は崩壊したが、私の手許にこのビル完成前の屋上の写真が数枚あるので、一部を紹介しながら・・

    ◎WTCビル南棟の完成前の屋上
    このツインビルの完成は、北棟(テレビ電波送信アンテナがあった建物)は1972年で、南棟は1973年。ゼネコンと呼ばれる会社に勤務していた私の父は1972年(当時54才)、まだ南棟の屋上が出来上がったばかりで、これから屋上展望デッキを追加して設置する前の状態の現場を“日本のゼネコンということで特別扱い”の総勢14名の視察団の一員として見学した。

    縁周りに柵らしい柵も無く、高所恐怖症の父は恐々だっただろうが、突風が吹けば人間も、無造作に置いてある道具や資材も吹っ飛ぶことへの配慮が無いのは理解に苦しむ。
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    前列右から3人目が父
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    西側から見たWTCを視察団員が撮影(右が完成前の南棟)
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    ↓その後、完成したWTCの屋上(アンテナの無い左が南棟)
    (ディスカバリーチャンネルテレビより)
    wtc

    ◎設計者はミノル・ヤマサキ
    WTCビル崩壊時のニュースなどで、(米国内ではどうだったか知らないが)なぜか日本では、このビルの設計者が日系人のミノル・ヤマサキであることに言及したマスコミは少なかったように私は記憶しているが、その理由は、“あのようにもろく崩れ去るようなビルを設計した日系人”という意識が働いたからではないだろうか。

    しかし、彼の名誉のために申せば、彼の仕事は主に(勿論基本的構造強度を踏まえてはいるが)デザインであり、強度計算などは別の専門担当者が行っている。ちなみに強度計算でも、事件当該旅客機よりほんの少し小さい飛行機が衝突しても耐えられる設計になっていて、実際に事件後の日本の鹿島建設の膨大な実績データを駆使した綿密な解析では、あの飛行機の衝突でも建物は十分耐えていたことが立証されていて、ただし航空機燃料による火災で想定外の高熱発生で鉄材が耐えられなかった。

    一方でミノル・ヤマサキ氏自身の考え方に“建物は時代の要請に合わせて変わるべきで、10年先が読めないのに、何十年も先は読めず、したがって建物の寿命は20年と考えて、その際に解体しやすいことも重要”というものがあり、そこでWTCビルは“エレベータと非常階段を中心にして鉄柱47本で支えるコア部分”と“外壁を鉄柱240本の鉄材で囲んでチューブのようにした部分”と“コアから伸びる梁で支えられた床”で1棟が構成され、建物総重量37万トンをコア部分で60%、外壁部分で40%支える設計になっていた。そして結果は建築完成後28年でテロによってだが簡単に解体されたカタチとなった。
    フロア構成図(wikipediaより)
    wtc-floor (2)

    ◎ミノル・ヤマサキとは
    ミノル・ヤマサキ(1921~1966)は日本からの移民の子として生まれ、大学卒業後建築事務所勤務後に独立、米国建築家協会の「ファースト・オナー・アウォーズ」を4回受賞。日本でも「シェラトン都ホテル東京」などいくつか設計。日系人では初めて「TIME」誌の表紙を飾った。生涯で4回結婚(4回目は初婚相手と復婚)。
    ミノル・ヤマサキとWTCビル模型。氏は徹底的に模型作りを重視したそうだ。(写真はwww.skyscraper.comより引用)

    minoru-yamasaki
    ◎WTCビルのデザイン
    ミノル・ヤマサキのWTCビルのデザインテイストは「ゴシックモダン」であり、ル・コルビュジェの建築の影響も受け、イスラム建築のニュアンスも取り込んでいる。建物エントランスの幅広開口部分を除けば巾46センチの窓を挟むように “鉄材にアルミ合金板をかぶせた縦枠”が密集しながら天まで届くように見えるデザインだが、ここに至るまでには、その以前に手掛けた別の建築で“WTCビル同様の見え方を狙ったものの失敗”という経験を経ている。氏に限らず、有名建築家でも失敗はあるもので、雨漏りが多数発生する建築、雨風が吹き込みやすい建築などある。

    ↓写真はwww.skoutr.comより引用

    wtc-entorance

    ◎9・11事件画像
    南棟に突入寸前の旅客機(ナショジオチャンネルTVより)
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    南棟に突入直後(AFP=時事 写真より引用)
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    崩壊開始(AFP=時事 写真より引用)
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    残骸(Shutterstock/アフロより引用)
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    WTC跡地には新しく「One Wold Trade Center」が・・(写真はwikipediaより引用)
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    WTCビル群が在る場所は、元々は「ラジオ・ロウ」と呼ばれた“電気部品街が数ブロックを占めていた所”だそうで、WTCビル建設決定によりこのビルの施主であるニューヨーク港湾公社はラジオ・ロウの電気部品店に補償金を払って移転してもらった。ラジオ・ロウは言わば日本の秋葉原のようなものだったようだが、秋葉原の電気店街も元々は戦後に神田小川町や神田須田町あたりで電気部品などの露天商だった店が1949年のGHQによる露天撤廃令で総武本線ガード下やその付近に集中移転したのが始まり。
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    アパレル大手の株式会社レナウンが株式一部上場会社としてはコロナ影響による民事再生法適用の第一号となってしまいました

    “レナウン”は日本語で”名声”・・レナウンの名声が復活することを祈ります・・ と言うのも かつて・・

    ◎レナウンのCMは新鮮だった
    レナウンと言えば 私らが若いころの1961(昭和36)年に 従来とは違った新しい感覚のCMソングをテレビで流したのです 

    それは「わんさか娘」と題名が付いていたとは知らない(オリジナルCMソングはほとんどそうなのですが)曲で 

    出だしは「ドライヴウエイに春が来りゃ イエイ イエイ・・」 

    この軽快な作曲をしたのは小林亜星(後にテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の親父さん役もした)
     
    CMソング「わんさか娘」(シルヴィ・バルタン版)は・・
    https://www.youtube.com/watch?v=NhQ5FO5RxB8

    小林は 次に1967(昭和42)年にも同社CMソング「イエイエ」も作曲
    renown-iyeiye (2)
    「イエイエ」のCMソングとともに流れた映像

    これを機会に 私が昔から”心に残るCM名曲”と 勝手に決めているものを挙げてみます

    ◎「オリエンタルカレー」のCMソング(株式会社オリエンタル)
    この曲は新しい感覚ではないが 流れるようなメロディーと情感にうったえる歌詞で歌いやすく覚えやすいものです 

    3番まである その1番は・・「なつかしい なつかしい あのリズム エキゾチックなあの調べ オリエンタルの謎を秘め 香るカレーよ 夢の味 あゝ 夢のひと時 即席カレー 君知るや 君知るや オリエンタルカレー」  

    この曲は1954(昭和29)年に出来て 日本最初の本格的CMソングとされて なんとレコード(盤)にもなっているのだそうです なるほど それに値すると納得できます

    そのCMソングは・・
    https://www.youtube.com/watch?v=78FJ3W4j2Ns

    oriental-curry-new (2)
    ↑↓
    新旧の商品
    oriental-curry-old (2)

    ◎「グンゼのナイロン靴下」のCMソング
    (グンゼ株式会社)
    雪村いずみが歌う このソングは・・商品名がからんだサビ的な部分の歌詞は・・
    「グ~ンゼの ナ~イロンく~つ下は~ な~んとも言~えない す~ばらしさ~」だが 

    この曲は出だしの歌詞とメロディーが良いのです しかし残念ながら 私はうろ覚えで ここにご紹介できません ネット上のyoutubeでも見つかりません 同社がナイロン靴下を製造開始したのは1952(昭和27)年ですから CMソングはその後に流れたのでしょうが年代も不詳です

    ◎「不二家のお菓子」のCMに使われた歌(株式会社不二家)
    この曲 私は子供の頃聴いていましたが 何となくシャレた歌であり 歌詞もメロディーも歌いやすく覚えやすかったものです 

    その後 長い間 これは不二家のオリジナルだと思っていましたら 数年前に この歌は古くから存在したものと知りました それは1928(昭和3)年に西條八十の作詞で 橋本國彦が作曲した「お菓子と娘」 

    その出だしは・・「お菓子の好きな巴里(パリ)娘 二人そろえば いそいそと 角の菓子屋へボンジュール・・」というもの → 
    https://www.youtube.com/watch?v=MxuXbI5D-e8

    この歌はシャンソン風なのですが 今にして思えば 当時不二家は「フランスキャラメル」を製造販売していたからでしょう 私も子供の頃によく食べましたが 調べたら なんと発売開始は1934(昭和9)年でした
    france-cyaramel
    戦後の昭和の一時期に数寄屋橋店に掲げられていた「フランスキャラメル」の大きな看板は目立った
    france-cyaramel-billboad

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    おまけ・・ “懐かしいテレビCMいろいろ”・・
    https://www.youtube.com/watch?v=OSOze2CP1Qc
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    現在NHKの朝ドラの「エール」に故志村けんが“小山田耕三”として登場していますが そのモデルが“山田耕筰(改名前は耕作)”(1886=明治19年~1965=昭和40年) 

    耕筰は作曲家・指揮者の大御所であって交響曲から童謡(赤とんぼ ペチカ 待ちぼうけ など) 校歌 軍歌まで非常に多くの作曲をしました
    kosaku-yamada (2)
    山田耕筰(wikipediaより引用)
    ◎映画「ここに泉あり」に本人役で出演しています

    映画ですから山田耕筰の生前の動く姿が“楽団を指揮するシーン”などで見られます 

    出演当時は68才ですが62才の時の脳溢血の影響で身体の動きがやや不自由な状態でした 
    ◎「ここに泉あり」とは
    高崎の市民楽団が“群馬交響楽団”に成長した実話に基づいたストーリーを名脚本家である水木洋子が手掛け 監督:今井正 主演:岸恵子 その他:岡田英次 小林圭樹 加東大介 草笛光子など豪華メンバー(子役から出て後に日活で活躍する浜田光男も少年で)出演し 音楽は山田耕筰の弟子であった団伊久麿が担当した 1955(昭和30)年公開のモノクロ映画 

    私はこれをテレビ放映されたもので観ましたが 全編にわたり“楽団経営の難しさ”が描かれていて 今またコロナウイルス禍による楽団経営のさらなる苦境は如何ばかりかと思わずにはいられません 

    また印象的なのは 楽団が草津にあるハンセン病療養所で演奏した際に 入所者たちが不自由な手で“音が出ない拍手”をするシーンです 

    この映画のダイジェスト版(1分57秒)は
    youtubeで観られ山田耕筰氏が指揮するシーンなどが観られます
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    映画の中で楽団を指揮する山田耕筰本人(上記写真2枚とも新井まり子氏制作のyoutubeより引用)
    ◎私が通った学校の校歌も山田耕筰作曲 北原白秋作詞

    我が校歌の作曲者が山田耕筰だったなんて 今回調べて気が付いたわけですが それもそのはずで在校中にその校歌を歌った記憶は全くないのです 

    ちなみに私の心中で日頃から気になっていたことがあり それは・・小・中・高・大と通った学校の校歌を覚えているのが小学校と高校のものだけで中間期と最後期の校歌の記憶が“完全に無い”ことなのです こんなことがあるものでしょうか?
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    今からちょうど50年前の1970(昭和45)年3月から半年間にわたって大阪で“日本万国博覧会(通称:大阪万博)”が開催されました 

    私は当時 関西勤務でしたから期間中に3度 見に行きました 世界77か国が参加して117のパビリオンで多様なモノの出展がありましたが その中でも最大級の“目玉”は米国館の“月の石”でした

    先日(4月17日)にBSテレ東の「発見ニッポンの100年」という番組で懐かしい映像がいくつか放映されましたが その中でこの大阪万博もとりあげられました

    さて そこで私の思い入れが強い”ある展示物”が出てきました それは・・

    ◎人間洗濯機(ウルトラソニックバス)

    これは当時の三洋電機が展示実演したもので 人間洗濯機に入った人の体を気泡噴射して洗いながら お湯の中のマッサージボールが肌を揉み 乾燥まで全自動で行うというものでした 

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    ↑人間洗濯機(全体)・・頭だけ残して中に入る↓
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    これを私は面白いと思いましたし人気も高かった しかし実際は人間洗濯機の中のイスに座ったお尻の部分の乾燥に難があったそうです 

    それでも万博終了後は あるラブホテルが採用したという噂も聞きましたし 前述のBSテレビ番組の中で「この人間洗濯機の技術は現在の介護入浴機器に応用されている」という説明がありました 

    人間洗濯機は現在でもネットでは話題にのぼっていて「これは欲しい」という声がある一方で「洗髪機能が無い」というつっこみもあります 

    ちなみに私のブログの2018年9月19日の
    「ジャグジーの40年前の元祖の姿を知っていますか?!」の中で“ジャグジー社が最初の気泡風呂を1968年に発売した”と書きましたので三洋電機が同様の気泡噴射風呂を同時期に考えていたことになります

    ◎マッサージに使われたボールを私はもっています

    稼働中は気泡を含んだジェット水流とともに多数のマッサージボールが肌に軽い刺激を与えます
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    ↑お湯の中のボール(上記3枚の写真はBSテレ東の番組より)

    このボールの実際は500円硬貨より少し大きい“金平糖のような形”のゴム製 

    私はこれを3個 万博終了直後に ある縁で入手したもので 今 手許にあるボールを触ってみると 50年を経た表面は硬くなり少し粉っぽいのですが全体ではまだクッション性は残っています 
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    ↑マッサージボール(左端は500円硬貨)

    このボールは万博の半年の会期中に人間洗濯機に入ってデモンストレーションしたモデル嬢の肌をマッサージしたわけで そう思うと何やら感慨深いもの!

    しかし終活を始めた私は このボールを処分するつもりですが ひょっとすると必要な人がいるかもしれませんね メルカリ使うことも検討中!

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    五輪開催は来年に延期となりましたが とにかく何とか聖火だけは日本にやって来ました
     
    その「何とか」と言うわけは アテネで採火された聖火を日本側が受け取る儀式には当初の予定では日本オリンピック委員会の森会長 柔道の野村忠宏氏とレスリングの吉田沙保里氏の3名が出席することになっていたものが コロナウイルス対策のためギリシャ側が入国規制を開始したために不可能になり 急遽 井本直歩子(いもとなおこ)氏が日本代表に抜擢されて聖火受け取りが行われたからです

    (詳しくは井本直歩子氏のブログ「地球散歩」の2020年3月21日と30日の発信分を参照ください)
    (以下文中敬称略)
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    聖火受け取る井本 日本国旗表す赤ジャケットに白ブラウスで(NHKニュースから)

    ◎井本直歩子(いもとなおこ)とは

    1976年 愛知県生まれの東京都育ち 43才
     
    1996年アトランタオリンピックの競泳選手で千葉すずらと組んだ800メートル自由形リレーで4位入賞
     
    引退後 慶応大学 サザンメソジスト大学 マンチェスター大学大学院を卒業・修了 橋本聖子参議院議員(現・五輪担当相)の秘書 国際協力機構インターンを経て
     
    2007年から国連児童基金(ユニセフ)職員となり その後この組織の中で事務所教育専門官として世界各地の主に発展途上国や大規模被災地(ガーナ スリランカ ハイチ フィリピン マリ 東日本大震災被災地など)のような生活困窮地において人道支援や子供たちの教育支援に尽力している
     
    そして2016年から現在まで 難民滞留地でもあるギリシャに赴任して在住中です

    というわけで 井本自身が五輪出場経験者 橋本五輪担当相とは旧知の関係 現在ギリシャ在住と これ以上の人選はあり得なかったのです
     
    しかし元々井本直歩子は世界も日本も認めるスゴイ人なのです 
    2009年にはニューズウィークが「世界が尊敬する日本人100人」の一人として選出 2019年12月には日本財団主催の「HEROs AWARD 2019」を受賞 


    そしてこの3月に雑誌「AERA」(2020年3月23日号)には〈現代の肖像〉として井本が登場 現在の仕事の道に進んだ経緯や信念など詳しく述べられています その一部を紹介すると・・

    “アスリートとしての現役時代 恵まれない環境で練習せざるを得ない外国の水泳選手を目の当たりにしたことで格差があることを知った井本が引退後に選んだのが人道支援の道だった
     
    特に教育は、係争地域や難民の子どもたちをリスクから遠ざける一番の武器と信じてやまない
     
    そして「競技生活で培った絶対にあきらめない心と 最高の結果を求める信念は この道でも同じ どんな困難があろうと諦めずに突き進み 子どもたちの未来に最高の結果を出すのが私の任務」と言う”
    ・・

    井本直歩子は まさに名前の通り 目標に向かってひたすらに真っすぐ歩んでいる人です
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    AERAの掲載記事から
    井本直歩子は強さと優しさを併せ持った人 生まれながらに体は大きく 子供の頃はガキ大将だが弱い子には優しかった 障がいのある子はおぶって保育園に通った
     
    その優しさとともに 五輪選手になるほどの根性で磨いた心身の強さで 例えばギリシャでは難民のためにギリシャ政府にかけあうことも行う・・

    そこで想起するのは「強くなければ優しくなれない」という言葉 井本はまさにこれを体現しているようです 


    2014年9月8日NHKテレビ番組〈視点・論点〉で井本は「自然災害と開発途上国」と題して 2013年の台風30号によるフィリピンの大災害後の支援の実際を説明しながら その大切さ 難しさを訴えています
     
    その中で方策の一例として「クラスター制度」というものも紹介していましたが ここでは詳細を割愛します 現在はコロナウイルス関連で頻出している「クラスター」という言葉は元々昔から広い分野で使われていることの一端です
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    NHK〈視点・論点〉放送画面から
    ◎井本直歩子の父とは

    父親の名前は井本雄司 彼の高校生時代は私も同じクラスでしたのでちょっと紹介しますと
     
    彼は身長180センチ超のクラス一の大男(直歩子の身長が172センチなのは父親ゆずり?)でした しかし彼は派手な言動はせずに目立つことはしませんでした むしろ静かで優しい・・一言で言えば“ジェントル”な秀才でした
     
    実は私のすぐ後ろの席が彼でしたからクラスの中でも私が最も“彼のつぶやき”を聴いていました 声が背後からなのでよく聞こえ しかし“つぶやき”なので他の級友には聞こえていなかったでしょう その声というのが優しかった(それは心のやさしさの反映である)ことを半世紀以上経ても私ははっきり覚えています 

    雑誌AERAの記事によれば 井本直歩子が12才の時に水泳の能力を見込まれて大阪のスイミングスクールの名門「イトマン」に勧誘された際に それを受け入れれば 親元を離れることになるために 大阪行きを反対する父親と賛成する母親で意見が分かれ その決断をまかされた直歩子自身が出した答えは「大阪に行く」 だった その時のことを母親である三恵子(70)は「直歩子の言葉を聞いて 彼は娘に背を向け肩を震わせていた」と語っています・・その彼の所作のシーンは私には容易に想像できるのです
     
    しかしながら その後の結果は 諺「かわいい子には旅をさせよ」の立場を三恵子が主張したことがよかったわけです

    彼は千葉大学工学部に進み 卒業後は某企業の設計管理職を経て独立して建築設計事務所をご夫婦で経営していましたが 平成30年2月に亡くなりました
     
    しかし ご夫婦の教育方針である「他人(ひと)とくらべない」ことが見事に井本直歩子の中で開花して立派な仕事をしていること そして今 日本代表として聖火受け取りしたことには彼岸から喜んでいることでしょう
     
    そして彼の高校時代の級友たちも 直歩子の活躍を賞賛し“わが子”のことのように喜んでいます 今回もAERAの井本紹介記事掲載号を 売り切れ店が多い中を探しだして入手し その記事内容を級友仲間に伝えてくれた者もいるほどです(級友間にはSNSならぬCNS=クラスメイト・ネットワーク・システムとも呼ぶべきものがあり これを介してです)
     
    このような級友の動きは 直歩子のみならず雄司もの人徳によるものでしょう

    ◎“秀吉の醍醐の桜”より“西行の桜”
    井本雄司の他界直後に級友が弔文を奥様に送ったことにたいして返信いただいた文面が他の級友の皆にも(CNSを介して)公開されました・・

    奥様の文面には「『願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃』という西行の歌の通り 願うことなら旧暦2月15日の満月の頃 満開の桜の下で死ぬ・・ということ叶わず 急足でいってしまった良人 今春は彼のいない桜を愛でながら 和船に乗ってしのびました(以下割愛)」・・とありました
     
    これに対して浮かぶのは“豊臣秀吉が催した『醍醐の花見』”で 
    慶長3(1598)年3月15日 京都の醍醐寺において総勢1300人が参加した盛大な花見の宴で 男性は秀吉 秀頼 前田利家だけ 他はすべて女性で北政所 淀殿 まつ(利家の妻)の3人以下は女房・女中がしめた 女性には着物が3着ずつ与えられて 宴の途中で衣装替えが義務付けられたので その衣装代の総額は現在価値に換算して39億円にものぼった・・というほど派手なもの
     
    井本雄司と三恵子のご夫妻にふさわしいのは 言うまでもなく“西行の桜”ですね
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    DSCN1627
    ちなみに西行はこの歌を詠んだ10年後の2月16日に亡くなったのでお釈迦様入滅の2月15日に1日だけずれたことになり 願いはほぼ叶っています 一方 秀吉は醍醐の桜の宴の5か月後に亡くなっています 
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    これまで私は  東京都豊島区南長崎 あるいは その旧町名である椎名町に関係した題材を多く取り上げてきましたが 皆さんの中には「椎名町」という地名を聞けば・・あの「帝銀事件」を思い出される方もおられることでしょう
    今や「椎名町」という名は 西武池袋線の「椎名町」駅と私がかつて通い  今も存続する「椎名町小学校」にしか残っていません この小学校も近年の少子化による統廃合で名前が消えるかもしれません
    しかし「帝銀事件」は日本の社会史または犯罪史の中に残るでしょう それゆえに「椎名町」の名は消えることはないでしょう
     
    ◎帝銀事件のあらまし
    1948(昭和23)年1月26日
    東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店で 
    行員たち16人が毒を飲まされて12人が殺され現金と小切手が奪われた事件・・これが通称「帝銀事件」
    ※帝国銀行は後の三井銀行 現在の三井住友銀行
    椎名町支店は1950年に統合閉鎖され廃店
    事件詳細は「シェアチューブ」(sharetube.jp/article/12965/)など参考下さい
     
    イメージ 1 
    事件直後の帝国銀行椎名町支店jaa2100.orgより引用

    警察の捜査の結果 テンペラ画家(※1)の平沢定通(ひらさわさだみち)が逮捕され  1955(昭和30)年に死刑が確定したものの 冤罪の可能性は否定できないために 代々の法務大臣が平沢の恩赦請求は退けながら死刑執行命令書には署名しないまま年月が過ぎ 平沢は 獄中生活30余年経過した
    1987(昭和62)年5月10日 肺炎のため95才で死去
    イメージ 2 
    平沢貞通 
    en.wikipedia.comより引用

    1:テンペラ画とは“顔料に卵黄を混ぜて作った絵具”を使って描いたもの

    ◎平沢貞通は犯人か?
    平沢が犯人とされた決定的証拠は無く ただ過去に銀行詐欺4回の犯歴があるくらいで その他は“可能性はあるが確定はできない”理由ばかりです
    中には “後日 いわゆる「面通し」として被害者に平沢の顔を見せたが 犯人の顔と断言できる者は皆無だった“ということもあったとのこと そして 犯行に特殊な毒薬を使った手口は 高度な知識と経験を持つ者以外では不可能なもの
     
    「歴史に“もしも”は無い」と よく言いますが “ある一つの歴史”がその後の人や社会に悪い状況を招いたならば それは いわゆる「歴史の教訓」として反省材料としなければならないもので そこで必要となるのは“もしも”の状況設定です
     
    帝銀事件に関しては大量の研究・考察結果情報が出ているようですが 私が読み取った範囲から言えるのは・・平沢貞通は 下記のような“もしも”によって そもそも逮捕もされず 獄死もせずに済んだのでは?ということ
     
    “もしも1”・・事件で奪われた金額とほぼ同等の大金を事件直後に所持していたことが判明していて 平沢はそのカネの出どころをガンとして説明しなかった ゆえに これが証拠の一つとされたが・・
     
    平沢の養子となって“冤罪追求”活動をしていた故平沢武彦氏が 生前の2000(平成12)年6月に『平沢貞通氏を救う会』のホームページhttps://www.gasho.net/teigin-case/jiken/shunga/shunga.htm「平沢が 死刑確定の約8年後に『平沢貞通氏を救う会』の初代事務局長であり武彦の実父であった作家の森川哲郎に・・「実は(あの大金は)『秘画12カ月』(春画)というものを描いて得たカネです」と告白していたし 小樽在住の“平沢の親族は 終戦後に 平沢が春画をよく描いていた事実を認めている」・・と発表している
    そして同じ2000年にNHKテレビが“小樽のある家で発見された 平沢作の『秘画12カ月』とみられる巻物を武彦が実際に見て調べているシーン” を放映している・・
    このことから・・もしも 平沢が「所持している大金は春画を描いて得たものです」と一言 言えば 罪を被せられることも無かったのではないだろうか・・まさに“言うは一時の恥 言わぬは一生の獄中生活”

    ※戦後の混乱と生活困難期には 大物の画家の中にも春画を描いていた人が多くいたことは後年 知られるようになったが 当時 平沢は文展無鑑査(現在の日展にあたる美術展に審査無しで出品できる) および日本水彩画会の審査員という高い身分であったゆえに 春画を描いているとは とても言えなかったことは想像に難くない
     
    “もしも2”・・帝銀事件での毒殺の手口は 前述のように とても 一般人では不可能ゆえに 犯人は旧陸軍「731部隊」または同「登戸(のぼりと)研究所」(双方とも毒や細菌で人体実験などして 兵器化の研究など行った)の関係者が容疑者であるとにらんで 捜査が進んだが すぐにGHQから その筋の捜査中止命令が出された
    GHQは旧日本軍の「731部隊」や「登戸研究所」の存在を感知していたので そこに関与した者たちへの戦犯不問とする交換条件として 研究結果資料や証言を731部隊長だった石井中将をはじめ 元部隊員や元登戸研究所員から収集していた そこに帝銀事件発生で警察が動き さらにマスコミまでが動くと “731や登戸”などの存在と資料が・・当時既に 米国が敵視し始めていたソ連側に漏れることを恐れたことは間違いないだろう
    もしも ソ連敵視の米国が中心のGHQの存在が無かったら・・「731部隊」か「登戸研究所」の関係者が真犯人となり 平沢は逮捕さえされなかったことになる
     
    ◎帝銀事件以前に同様な事件が2件発生していた
    第1件目:1947(昭和22)年10月14日 安田銀行(後に富士銀行 現みずほ銀行)荏原支店で 後の帝銀事件と全く同じ手口で犯行が行われようとしたが 毒殺も金品奪取も未遂に終わっている
     
    第2件目:1948(昭和22)年1月19日 つまり帝銀事件の1週間前に 三菱銀行中井支店で 現れた男が“前年の安田銀行の場合と同様な言動をした”ものの支店長の機転で未遂に終わっている
     
    ◎三つの事件はGHQがやらせた? 
    GHQは敗戦した日本を占領した「連合国軍最高司令部」のことであり 形式的には 米国 英国 ソ連 中華民国が関与したが 実質は米国の独占的権限が行使されて 米国は自国の軍事的優位性確保のために 前述のように 独占的に また秘密裏に“旧日本陸軍の毒薬や細菌による兵器開発資料“を731部隊あるいは登戸研究所に関与した人間から引き出して利用しようとするが・・
    ここからは私の推測ですが・・ 
    その引き出した情報を本国に送る前に その真偽性を確認しておこうとして 一つ“特殊な毒薬”の効果を“731または登戸にいた人間”に実証させようとしたのではないか その実行役を指名された人間は“実行すれば 戦犯不問にする”という交換条件を出され また絶対的権力を持つGHQの指示は拒否できるものではなかったであろう・・この推測の背景となるのが・・
    『帝銀事件の捜査主任であった成智(なるち)英雄警視は昭和47年に 雑誌の中でこのように述べている「アリバイが無いことと 事件の生き残りの者の証言による犯人像にピッタリ一致したのは 731部隊に所属していた医学博士のS軍医中佐ただ一人であった」(実際は“S”部分は実名)』
    『』内は「シェアチューブ:12人を一度に毒殺した「帝銀事件」とは」sharetube.jp/article/12965/より引用一部省略
    これに加えて・・
    帝銀事件の際 犯人は「GHQのホートク中尉の指示で先に来た」「ホートク中尉は消毒班を連れて後から来る」‥のように“GHQ”と“ホートク中尉”を口にしている
    ホートク中尉はGHQに実在する防疫関係の軍人であり その名前がスラスラと出るというのは 犯人がGHQと何らかのつながりがあったと考えられるので “SはGHQの指示で犯行せざるをえなかったのではないか”とも思える
     
    ◎帝銀事件現場跡は今・・
    帝銀椎名町支店が在った場所は 現在の東京都豊島区長崎1-7-1で 西武池袋線の椎名町駅から北に40mほどの距離に在り 現在はマンションが建っています 私も最初は場所が特定できずに 駅に張り付いたカタチで在る交番で「元帝銀事件が在った場所」を訊ねたのですが・・「分からない」という答えが返ってきたのには驚いた 聞けば「時々同じ問い合わせはある」と言うのにもかかわらず・・であり これは“何かある?” と勘繰らざるをえない 
    そう言えば 最近 帝銀跡地のマンションの住人が “大量殺人事件があった跡地とは知らされていなかった”として クレームをつけた・・というような話を聞いています
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    帝銀跡地に建つ茶色のマンション 
    この道路を40mほど先に進めば椎名町駅 

    この道路左側に在るのが長崎神社(下写真)
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     ・・・・・・・・・・

    5月初旬の丁度今 町のあちこちで ジャスミンの花の香りが漂っています
    昔から香の強い植栽として 金木犀 クチナシ 沈丁花などがありましたが 近年は ジャスミンも増え、これもイイ香りで私は好きですが しかし これらの香りを嫌いという人も実際にいますし 最近の洗濯洗剤の強い香りが付いた服を着た生徒が多い教室では気分が悪くなる者が出ている また そのような服を着た者に スズメバチが寄ってくるそうで 事実 昨年 庭に金木犀が咲いた際に スズメバチが確かに飛来してきました・・というわけで “密かに香る”  ”秘めて薫る”良さを再評価する必要もありそうです
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     近所のお宅のジャスミンの花

    ◎我が家で紅白の花咲くめでたい植物
    世は祝賀ムード 考えたら自宅の小さい庭にも めでたい植物がありました
    先ず松竹梅があります その内の松は 以前にブログでも紹介しましたように 近所の公園で拾ってきた松ぼっくりからこぼれ落ちた種から生えて大きくなったものです
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    そして 梅ですが 紅白の花が一緒に咲く品種でこれだけでもめでたいもの
     
    もう一つ 毎年5月中旬から6月にかけて紅白の花が咲くのが・・
    多分「ハコネウツギ」・・“多分”と言う訳は・・これによく似た「ニシキウツギ」という種があって見分けがつきにくいからで この二種のちがいを調べても 私には判別がつかないという状態です いずれにせよこの二種の花は 最初は白色なのが 次第に赤(実際は濃いピンク)になるもので 全部の花が同時に色変化しないので紅白混在となります
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     ↑ハコネウツギの花の大きさは私の手の指との比較で ご判断下さい

    その他 センリョウ マンリョウ ナリキンソウ(金のなる木)もあります それなのにウチはおカネに縁が薄いのです
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    ↑センリョウ←写真は「NHKみんなの趣味の園芸HP」より引用→↑マンリョウ
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    ナリキンソウ

    ◎あの花たちはどこへ行った
    私は22才まで東京都豊島区に住んでいましたが 子供の頃は近所には 小さいながらも麦畑がまだあったような所で 私の祖父はその豊島区の自宅敷地内で色々な花を栽培していました と言ってもプロではなく しかし趣味の域は越えていました 大量に作るので それを隣近所や学校・幼稚園などに贈呈していました そのため町の花屋さんからは“商売に差し障る”からと苦情が出たほどでした
     
    当時 祖父が栽培していた花は・・
    ダリア 百日草 キンセンカ 矢車草 鶏頭 グラジオラス カンナ 葉ボタン 向日葵 コスモス など

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    ↑A)ダリア
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    ↑B)百日草    
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    C)キンセンカ(マリーゴールド)
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    D)矢車草 
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    E)鶏頭   
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    F)グラジオラス
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    G)カンナ 
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    H)葉ボタン   
    ※上記写真引用先
    A,D=「ヤサシイエンゲイ」HP/B,C=「Garden Memo」のHP E=「sozai.cms.am」のHP/F=「japaneseclass」HP G=「city.tonami.toyama.jp」HP/H=gardenia12.net」HP  
    しかし現在では これらの中には 花屋さんであまり見かけなくなったものがあります
    中でも私が気になるのはダリア それも大型の花のダリア その他 “鶏のトサカ”のような形が大きな鶏頭 大輪の向日葵 など 同じ品種でも大きなタイプを見なくなりました

    そこで私などは「花はどこへ行った」(Where have all the flowers gone)という言葉が頭に浮かびます これは本当はベトナム反戦歌として米国ピートシガーが作詞作曲して1955年に発表した後の60年代にキングストントリオやPPM(ピーターポールアンドマリー ) 変わったところでは あの女優マレーネディートリッヒがドイツ語とフランス語で歌ったりして 日本でも広まったものです ※PPMの歌:https://www.youtube.com/watch?v=bOTCa1F3F0c

    また 以前 雑誌「サライ」が「あの花はどこへ行った」という表題だったか?で特集を組んだことがありましたが (私はその記事をよく読んでいないものですが)これはストレートに昔の花を懐かしむ
    内容だったのだと思います やはり私と同じ思いを抱く人たちが存在しているのです
     
    ◎このテスト問題は問題?
    ここで“ダリアつながり”で 話は飛びますが・・
    私が実際に経験した 学校でのテスト問題や入学試験の中には・・“はたして この問題は何のためのものか?”と思ってしまうものがありました それゆえにこれらの問題だけは60年経過しても忘れません
     
    中学生の時の 「全国共通模擬テスト」だったか?で“職業・家庭科”(現在の“技術・家庭科”)の科目で出された問題が・・
    「ダリアの球根の分割の正しい方法を 次の三つの図の中から選びなさい」・・というもので 私は ダリアを栽培していた祖父が 毎年 花が咲き終わると 土中でいくつか束になってできる球根を分ける作業をよく目にしていましたから 勿論正解できましたけれど 学校では全く教えられていない問題内容でした これが全国対象のテスト問題として妥当なのか疑問をもちました
     
    また 東京都内の某私立中学校を受験した際に出された問題は・・
    「カニの『ふんどし』と呼ばれる部分は何にあたるのか」・・というもので これは 親が水産業に従事していたり 魚屋さんの子供ならともかく 都会の12才の子供が学校では習わないものであり 知っていることにこしたことはないものの 試験問題としては普遍性 公平性を欠いたものでした 

    それはともかく ではその正解は何なのか周囲の大人に聞いたら・・「それは カニのエラ」ということでした ところが その後 詳しく調べたら“問題の問題”が現れたのです
    結論から申せば“カニのふんどしの部分はエラではなく かと言って一言で答えられるようなものではない複雑な部位である”ので このような問いは中学入試問題に出すには不適切である・・ということです
     
    カニのふんどしとは・・カニの腹部分の下方にあるもので カニの種類によって 腹全体に占める大きさや形が違うものの 大まかに言えば 雄では三角形の形  雌は半円形のような形という相違があり 
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    雌雄のふんどし
     
    雌雄どちらのふんどしも薄く軟らかな殻のようなもので それ自体の裏側には少量の肉が付いているものの通常は捨てられることが多いが タラバガニのふんどしの肉は食べると 脚などの身と違う食感で
    おいしいそうです
    ふんどしは簡単にはがせて それがあった部分の“中身”側にはいわゆる“ミソ”と称されるものが一部存在し 唯一特徴的なのは産卵期近くの雌だけは ふんどし部分に粒々の卵を沢山抱える・・ものです

    つまり ”カニのふんどしはエラにあたる部分である”というのは間違いで エラというものは ふんどし部位から離れた所にある左右の脚の付け根に近い部分に 灰色の“魔女の爪”ような形で 左右5~6本ずつくらいが存在しているもので これは毒ではないが雑菌や寄生虫がいる可能性があるので食べられないものだそうです
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    カニのエラ 写真は「最北の海鮮市場」

    ・・このように“カニのふんどし問題”への解答は複雑な記述になってしまうのです
    ・・・・・・・・・・

    ◎童話・童謡の発信「児童文化運動」発祥地であった豊島区
    (文中敬称略します)
    1918(大正7)年に現在の豊島区・目白(旧 高田)の地で鈴木三重吉により児童向け雑誌「赤い鳥」が創刊されました 三重吉のモットーは・・「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して 子供の純性を保全開発する」というもので芸術性の高い童話や童謡を子供たちに提供しました
     
    これに創刊時から参加した北原白秋は童謡歌詞「からたちの花」や「この道」を発表し その他 芥川龍之介は童話「蜘蛛の糸」を 新美南吉は童話「ごん狐」を 西条八十は童謡歌詞「かなりや」を それぞれ誌上で発表しました
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    「赤い鳥」第一号

    そして 坪田譲治豊島区・西池袋(ここも旧高田)に住みながら「赤い鳥」に「河童の話」という童話を寄稿しています 坪田は小川未明と浜田広介らとともに「戦後童話界の三大御所」一人となりました なお坪田を鈴木三重吉に紹介したのは・・池袋モンパルナスの童画画家の深澤省三でした

     
    「赤い鳥」に続いて同様な雑誌「おとぎの世界」「金の船」「童話」が創刊されて 童話・童謡・童画など「童心主義」とも称される清新な内容とスタイルを採用しました
    この子供のための文化推進をした動きを「児童文化運動」と称しましたが それは東京の豊島区から生まれたものでした
     
    ◎「自由教育運動」の発祥地でもあった豊島区
    一方 ”公立学校の画一的で個性の芽を摘み取るような教育に反対して 子供の自由を教育の基本理念にした私学校が続々と豊島区に現れました

    1912(明治45)年に「帝国小学校」が開校

    同じ1912(明治45)年に「成蹊実務学校」が開校 後年に中学校 小学校なども開校 後に成蹊大学(現在地:東京・吉祥寺)にまで発展  (安倍晋三首相も同大学の卒業生)

     1921(大正10)年 羽仁吉一/羽仁もと子夫妻により「自由学園」開校※
    1924(大正13)年 「池袋児童の村 小学校」開校・・と続きました
     
    ※羽仁夫妻は現在も続く婦人雑誌出版の「婦人之友社」をつくりましたが 児童向け雑誌の「子供之友」も出版して坪田譲治の童話も同誌に掲載されました つまり児童文化運動と自由教育運動が結びつくかたちになっていたわけです 
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    ↑東京都豊島区池袋の東京芸術劇場の近くに在る「成蹊学園発祥の地」の碑 右の石板には成蹊の由来となった中国の古い諺 「桃李不言 下自成蹊」※の文字が 創立者の中村春二による書で刻まれています   ※成蹊学園のホームページによると その書き下し文は・・「桃李(とうり)ものいはざれども 下 おのづから蹊(こみち)を成す」と なっています   俳優の松坂桃李の名前はこの諺が由来と公言しています
     
    ◎大正時代から漫画家が住み 集っていた豊島区
    1920(大正9)年に子供向け漫画を描いた山田みのるは晩年には豊島区・要町に居住 岡本一平(漫画家で岡本太郎の父)の弟子の宮尾しげるも豊島区・巣鴨に住んで 本格的に子供漫画を開拓 初山滋は大正期から豊島区・長崎に住んで 童画や4コママンガを描いていました
     
    現豊島区南長崎ではトキワ荘が在った地点から200メートルと離れていない所に1934(昭和9)年まで「プロレタリア美術研究所」があり(黒澤明も通ったそうです) そこではマンガの講座もあったので 所属メンバーにはマンガ本を出版した者がいて それが吉賀たかしで 彼が小熊秀雄に児童漫画の
    出版社「中村書店」を紹介して 小熊はそこの編集顧問をしながら(以前のブログで紹介したマンガ)「火星探検」の原作を書きました
     
    「プロレタリア美術研究所」の消滅後も同所出身者たちはマンガのレベル向上に貢献しました
     
    ◎紙芝居は山の手随一の繁盛地であった豊島区
    豊島区立中央図書館発行の広報紙「図書館通信」に浅岡靖央(白百合女子大学教授)寄稿された文章によれば・・
    『1929(昭和4)年に起きた世界大恐慌が波及した日本でも大量派生した失業者が飛びついた職業の一つが紙芝居屋であった 1930(昭和5)年には 紙芝居最大のヒット作「黄金バット」が東京・台東区で生まれて紙芝居屋は大繁盛した 
    街角のあちこちで紙芝居を見せながら駄菓子を売り歩く紙芝居屋は その紙芝居を有料で貸し出す貸元に所属していたが その貸元の所在地のほとんどは 荒川区 台東区 墨田区などの下町であったが 
    豊島区にも貸元が一つ存在していた 紙芝居屋の人数も最も多い荒川区の93人に対して豊島区も32人いた つまり豊島区は山の手では唯一 街頭紙芝居の盛んな地域であり それだけの営業を可能にする 庶民的子供とその親が大勢いたということになる 』  (一部意訳)
     
    私も豊島区育ちですから 昭和20年代後半から30年代中頃まで 近所に来る紙芝居屋さんをよく見かけました 紙芝居そのものは殆ど見ませんでしたが  紙芝居を始める前に 子供たちにそのおじさんが来たことを知らせるために自ら近所を回り歩きながら鳴らす太鼓または拍子木の音が頻繁に聞こえていました
     
    ◎こうしてマンガ人の梁山泊トキワ荘へとつながりました
    これまでみてきましたように 豊島区には児童・少年少女の文化向上や自由と個性育成をめざした 児童文学者 童画家 漫画家たちが存在し また新しい組織・学校が多く生まれました 
    これらが成り立つためには それを
    受け入れる土地柄つまり そこに暮らす人々の文化・気風が合っていたからでしょう 豊島区に住む庶民たちは特に子供達向けの自由で新しい文化に寛容であり 戦後の日本中で「マンガ雑誌は悪書」とされて追放運動まで起こっていても  マンガや紙芝居などに総じて
    拒否反応を示さなかったようです
     
    こうして豊島区が後に漫画の聖地と呼ばれるトキワ荘を生み出すことにつながるのですが その最大の牽引力となったのが 言うまでもなく手塚治虫
    手塚がトキワ荘に入る事になった理由は・・1951年に当時の児童マンガの巨匠である島田啓三(「冒険だん吉」作者)会長とする「東京児童漫画会」が結成されて入会した手塚治虫 馬場のぼる 福井英一の三人は「児童漫画界の三羽ガラス」とよばれていたが 
    島田啓三が練馬区桜台に 馬場のぼるが同じく練馬区練馬に住んでいて また前出の初山滋は豊島区長崎に居たというように 西武池袋線沿線にマンガ家が多く住んでいたので 手塚はその近くに住むことを希望していたところ 同じ沿線で近い豊島区椎名町(現南長崎)に建てられて間もないトキワ荘に先に入居していた加藤宏泰※に勧誘されて1953(昭和28)年に入居したのです
     
    ※加藤は有名なマンガ雑誌「漫画少年」を出版する学童社の編集者で 手塚は同誌で掲載のジャングル大帝を執筆しながら 同誌が設けていた「読者による漫画投稿」の審査もしていたので 同じところに居住すれば互いに便利だったわけです
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      「漫画少年」投稿欄入賞記念メダル
     
    学童社側の思惑として 同様に当時自社の雑誌に執筆中の他のマンガ家たちも入居させたので ある者が製作時間的に窮地に陥れば 他の者が手助けするなど互助体制がうまく機能していました
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    手塚のすぐ後に寺田ヒロオが入居したが その10か月後に手塚が同じ豊島区の雑司ヶ谷の「並木アパート」に転居した後は 寺田がマンガ家住人たちのリーダー格となり 以後は 入居資格基準を設けて
    人選したので トキワ荘のマンガ家たちは優秀で 後にほとんどが「大先生」になりました
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    寺田ヒロオのヒット作 「スポーツマン金太郎」

    (その後のトキワ荘関連は 以前のブログで綴りました)
     
    「トキワ荘の夏」という演劇(竹内一郎 作・演出)は2010年以降に何回か公演され 2012年には頼 三四郎(故加藤剛の次男=俳優座)出演しました
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    劇シーン
     
    近年は豊島区・池袋は秋葉原や中野ブロードウェイと並んでアニメファンの集う街ともなりましたが 池袋には「乙女ロード」よばれる地域も登場しています ここでは自らアニメキャラのコスチューム着用して楽しんでいる女性が圧倒的に多く  対する秋葉原で見かけるコスチュームは この街に多数存在するメイドカフェの類のものがほとんどで そのお客となる「萌え」る男性が多いのも異なるところです
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    ↑マップ中央やや右下のピンクハートが10個「く」の字に曲がっている通りが「乙女ロード」
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     池袋ハロウィンコスプレフェスの案内ページから  
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    アキバ(秋葉原)に多いコスチューム系

    先日 豊島区ではアニメがテーマの成人式が行われました
    (豊島区主催)
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    NHKニュースから
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      参考資料・雑誌
    「豊島区と童話」(宮田航平「図書館通信」2017年 寄稿文) 「豊島区とマンガ」(小出幹雄「図書館通信」2018年 寄稿文) 「マンガがいつもあった」(「東京人」2012年11月号 桐木憲一 寄稿文)
    ・・・・・・・・・・・・

    前回に 東京において現れては消えた芸術家と文士が寄り集まった地域三カ所紹介しましたが もう一つ追加します(文中敬称略)

    実はこの四カ所目に当たる地域が東西に細長くてかつての文人宅もばらけて存在していた様子なので 三カ所以外の「その他の注目スポット地」しようかと迷っていたのですが 大きくくくってとりあげることにしました・・というわけで今回はその第4の地域・・大まかに言って「新宿区落合」 を中心とした地域についてです

    少し詳しくは・・東京都新宿区落合(下落合/中落合/上落合/西落合) + 新宿区中井の一部  +  中野区上高田の一部=JR山手線目白駅の西側 x 西武新宿線中井駅北側=東西に約2.5キロ x 南北に約1.5キロの範囲
     
    この落合地区と中井地区併せて大正時代末期には東京府豊多摩郡落合村と称しました
     
    以下今回は少しややこしいので下のマップを参照されながらお読み下さい
    ※「落合記念館散策マップ」(公益財団法人新宿未来創造財団作成)  流用改作したものです

    マップ上部に東西に走るのが「目白通り」で これより北が豊島区  南が新宿区です
    マップ左上で目白通りと交わりその南側に東西に延びているのが「新目白通り」で 中央に南北に走るのが「山手通り」(環状6)です

    左上では現豊島区南長崎のトキワ荘(跡地)が近いことがわかりますイメージ 7
    ※以下文中で誤解と混乱を避けるために・・現在では「目白」という地名は  豊島区に属しており 上のマップで 目白通りより北側かつ山手通りの東側が 目白です

    JR山手線目白駅も豊島区に在り また「目白台」という地名は文京区に属しています

    新宿区に目白という地名はありません 但し目白通りに沿ったすぐ南側の  一帯までは「目白台地」と呼ばれて この表現は新宿区の落合側でも 使われているようです
     
    この落合地域をかつての文化傾向によって大まかに分類すれば・・「目白文化村」と「落合文士村」に分けられますが それに属さない文化人もいました
     
    ◎佐伯祐三と中村(なかむらつね)
    この二人は後述します文化村や文士村の出現以前から落合にアトリエを構えて住んだ画家です
     
    佐伯祐三:1898(明治31)年~1928(昭和3)年 佐伯はパリでの絵が有名ですが落合の絵も30枚くらい残しています 
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    佐伯祐三 「下落合風景」     「テラスの広告」
     
    中村 彝:1887(明治20)年~1924(大正13)年 新宿中村屋の相馬夫妻の援助を受けていて 同家の長女・俊子をモデルにした絵があり俊子に求婚するものの結核を理由に夫妻から反対されての失恋は有名
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    中村 彝「自画像」と 「少女」
     
    ◎「目白文化村」
    新宿区下落合の土地を 西武鉄道・西武百貨店の創業者の堤康次郎が1922(大正11)年に分譲開始 先進的インフラを採用して 電柱無し ガス 水道 下水完備 クラブハウスやテニスコートも備えて これが後に「目白第一文化村」と称しました その後 第二 第三 と続き 1985(大正14)年の「目白第四文化村」まで分譲 ※前出マップの点線囲いの数字の1~4部分が分譲範囲
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      目白文化村紹介絵葉書
                                    
    高級住宅地ゆえに購入者は医者 学者 大学教授 国会議員が多かった 例えば・・ 
    会津八一(早大教授) 安倍能成(文部大臣) 石橋湛山(首相)鎌田弥彦(中将) 信夫淳平(法学博士) 島峰徹(医博)末高信(早大教授) 関口存男(独文学者)等々 一部を除きなじみがない人が圧倒的に多いので割愛しますが 文芸関係は少なく 吉屋信子 

    ※その他 “目白文化村に住んだかは明確にはわからず しかし落合と名の付くいずれかの町に住んだ人”としてあげられるのが・・武者小路実篤 平林たい子 船橋聖一  安井曽太郎(目白にも自邸在り)   
     

    目白文化村は多くの部分が高台に在り眺めも良い高級住宅地でしたが 戦災で多くが焼失し その後は新しく「山手通り」や「新目白通り」が文化村を分断するように開通したので往時の面影は薄れましたが一部は残っています


    ◎落合文士村
    目白文化村が(住所で言うと下落合の)主に高台に造られたのに対して 「上落合」地域は 前出マップで下の方に流れる二本の川「妙正寺川」と「神田川」(あの「南こうせつとかぐや姫」にも歌われた川)が落ち合う(これが「落合」の由来)ので低地であり 自ずと住居費が安いので 初めはコミュニストたちが住み始め・・

    1927(昭和2)年になるとここに西武鉄道(西武新宿線)が通るようになって便利になったこともあり 若く収入の少ない文士が多く住むようになりました

    そこで「落合文士村」と言われるカタチができるのですが この「村」については明確な範囲が分かりづらく 前出マップの左下部分あたりを指すのでしょうか とにかく目白文化村地域よりは南西部分のようです

    最初期の1923(大正12=関東大震災の年)には 前衛芸術家が住居を構え それに触発されてアナーキストや共産賛主義者たちが集まるようになり 遂にこの地はプロレタリア文学の牙城になりました この特異性が他の地域の文士村と違う点です


    昭和初期にはプロレタリア文士の定住者が出始めて最盛期の1932 (昭和7)年時点での居住者は70人にのぼりました しかし同年から 政府による思想弾圧が厳しくなり 1933(昭和8)年には 急速に衰退しました 代わって尾崎一雄らの非プロレタリア系の新興作家(いわゆる芸術派)たちが住むようになりました

    この事態が起こる少し前の1930(昭和5)年に 林芙美子がこの地で 先ず借家住まいを始めます その後落合の中で転居を繰り返して 最終的には文士村の中では例外的な高台へ向かう傾斜地に立派な終の棲家を建てて終生住みました 同じ落合に住んだ吉屋信子は最終的には鎌倉に移住しましたが 芙美子はよほど落合が気に入ったのでしょう 
    過去の苦労の生活と国内外を見聞した経験をふまえて 家の設計にあたっては 腕利きの大工さんを伴って京都にまで行って建築の研究までしたという有名な逸話があります
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    林芙美子
    その後 尾崎一雄壇一雄(小説家・女優の壇ふみの父)が現西武新宿線の「中井駅」南西約300メートルに在った二軒長屋に入居しましたが この長屋が数棟あるこの一帯を尾崎は「なめくじ横丁」と称したのは この一帯が低地でじめじめしているためのナメクジの多さを表しているのでしょう
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    壇一雄
    その他 文士村の有名文士たちは・・(下記の人名には 落合文士村以外の「落合」領域に住んだ人が

    含まれるかもしれません(参考文献によって相違があります)・・丹羽文雄 中野重治 壷井繁治 壷井栄 芹沢光治良 小野十三郎 神近市子 古谷綱武・・そして住人ではないが頻繁にこの地に来訪したのが太宰治


    後年林芙美子らを除き 多くの文士達は落合を去って行ったので 落合文士村は第二次大戦前には ほぼ消滅しました


    ◎「アビラ村」別名「芸術村」は村人一人で終わった
    旧落合の一部だが現在は中井となっている地には南北に走る坂が多数在り 「一の坂」から「八の坂」までの名前がついていますが 1923(大正12)年ころに画家の金山平三が「二の坂」を上った丘の上に芸術家の村 その名も「アビラ村」の建設を構想した アビラとはスペインの首都マドリッドの西北約100キロに位置する小さな村の名で「二の坂」の上あたりはアビラに似ていたのが由来

    賛同者を募った結果 北村西望 満谷國四郎 南薫造 金子保 新海竹太郎らが集まり 皆で土地購入した しかし購入直後に関東大震災がおきて 丘の上の土地に危険を感じたのか 建物を作ったのは金山だけに終わった

    ※林芙美子の最後の邸宅(現 林芙美子記念館)はここの「四の坂」の脇にあります

    ◎その他 落合居住人と越境往来人とエピソード
    先掲のマップでも分かりますが新宿区の落合地区と豊島区の目白と南長崎は目白通りを境に隣接しているので当然のように人も文化も相互交流がありました

    赤塚不二夫:豊島区南長崎のトキワ荘を離れた後に新宿区中落合に住みましたがトキワ荘から直線距離で800メートルの近さでした 現在は「フジオプロ」事務所になっています

    九条武子 :1887(明治20)年~1928(昭和3)年 「大正三美人」の一人 ※他の二人は柳原白蓮と江木 欣々(えぎ きんきん 1877=明治10年~1930=昭和5年)
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    白蓮の娘である宮崎蕗苳(ふき)は白蓮も居た豊島区西池袋の家に住んでいますが「九条武子さんや村岡花子さんは よくいらしてました」・・と述懐しています 実は白蓮宅は武子が住んでいた下落合から歩いても15分くらいで行き来できたのでした

    諸橋轍次(もろはしてつじ 1883=明治16年~1982=昭和57年) 西落合に住んだ 有名な『大漢和辞典』を編纂した漢学博士 文化勲章受章者 三男の諸橋晋六は三菱商事社長 会長 特別顧問にまでなった人だが 轍次氏宅のすぐ近所の豊島区南長崎に住んでいましたから親子互いの行き来は楽にできたでしょう ※
    私の弟が晋六の息子さんと小学校で同級だったので諸橋家の情報は時々聞いていました
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    本田宗一郎:ホンダ創業者は西落合に住んでいましたが すぐ近くの豊島区南長崎の有名な鰻料理の店「鰻屋(うなぎや)」を贔屓にしていたこともよく知られ  現在は本田氏の息子さんが通われていると先日のテレビが伝えていました 残念ながら私は 店前を時々通るのですが入店したことありません
    (西武池袋線「東長崎」下車徒歩4分 又は大江戸線「落合南長崎」下車徒歩10分
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    写真は「ロケットニュース24」https://rocketnews24.com/2014/06/03/448295/より引用「鰻屋 

    篠沢秀夫 :仏文学者 学習院大学名誉教授 過去にテレビのクイズ番組の迷・珍解答で人気でした 落合に住んでいたので お元気な頃は自転車に乗って目白界隈や豊島区南長崎の方まで来られていました その後 筋萎縮性側索硬化症(ALS)という 手足その他の筋肉を動かせなくなる難病を患い2017年に逝去されました  闘病には奥様や娘さんたちも動作介助しましたが それだけでは まにあわずに介助ヘルパーさんも参加しました 私はそのヘルパーさんの一人を知っていますが その人から聞いた話では・・闘病中でも篠沢教授は講演依頼があれば積極的に受けていたので ある時は教授を介助しながら名古屋の会場までなんとタクシーで往復したこともあったそうです
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    江森盛彌 :プロレタリア詩人 以前に私のブログで紹介した“与謝野晶子の妹のである尾崎栄里子(旧姓江森)“の父で 1935(昭和10)年頃に落合寄りの東中野付近に住んでいた これは明らかに(当時既に退潮だったとは言え)かつてプロレタリア文士の集まった地域を意識しての居住地選択

    盛彌は少年時代に住んでいた鎌倉で 既に名のあるアナーキストから話を聴いたり 鎌倉に移住してきた大杉栄が伊藤野枝との間にもうけた「魔子」を連れて盛彌は栄と一緒に海岸を散歩した・・このような環境から 向かうは左派運動と左派文学

    左派の詩誌に寄稿したり 仲間と社会風刺雑誌を発刊したりした同時期に小熊秀雄(←これも前回のブログで紹介した) 中野重治  村山知義ら左派詩人や芸術家と一緒に「サンチョクラブ」と称する
    団体を立ち上げた 

    江森が後に追想した文章の中に“小熊秀雄が池袋モンパルナスの方から新宿区の落合まで越境してきて交流した”ことを次のように書いています
     
    『そのころ(1935=昭和10年~1940=昭和15年) 国電の東中野の周辺には当時の国家からすると要注意人物が大勢住んでいた 彼らは皆 奥さん子供を含めて家族ぐるみの交流をしていた 
    私の家からは 詩人の壷井繁治(妻の壷井栄はまだ小説は書いていなかった)中野重治 宮本百合子 戸板潤 村山知義らの家が近かった 詩人小熊秀雄は池袋のほうから 一里以上もの道を その細長い顔を空のほうへななめに向けながらブラブラと歩いてちょいちょいやってきた(散歩のためと また電車賃がないせいでもあった

    この地域の住人は 特高に しつこく監視されながら 狭い土地でウロウロとくらしていて みんなふだんは和服をきていたが いつも洋服ばかりきていたのは 西洋の浮浪者みたいな小熊秀雄だけだった』尾崎俊二 著「語りあう日々――尾崎栄里子を思う」より抜粋一部意訳

     尾崎一雄の小説には“小熊が「なめくじ横丁」にも来ていた”という記述があります
     
    その他 山本寛斎 ジョージ秋山(漫画家) 泉麻人なども落合住人です また かつて李香蘭(山口叔子) も住んでいました
      ・・・・・・・・・・・・
    次回は 「トキワ荘を生んだ豊島区の文化的土壌」の予定です

    東京には明治30年代から大正・昭和にかけて 芸術家あるいは文筆家が寄り集まって住んだ地域がいくつか出現しては消えています 
    大きな所では・・北区 大田区にそして トキワ荘が在った豊島区にもそのような地域がありました
    これらを年代順にあげてみますと・・
    ◎「田端文士村」
    現在の北区・田端の地域には明治30年代後半から陶芸家や画家が住み始め 大正初年当時はさながら芸術家村のようでしたが その後に・・芥川龍之介を最初として次々に文筆家が入村して 数で芸術家たちを超えたので・・「田端文士村」と呼ばれるようになりました そこに住んだ有名人は30数人・・例えば・・板谷波山(入村芸術家第1号・陶芸家)  芥川龍之介 室生犀星 萩原朔太郎 中野重治 堀辰雄 菊地寛 佐多稲子 小林秀雄 土屋文明 平塚らいてう 岩田専太郎 高見沢路直(田河水泡)
    北村西望(彫刻家 長崎県の平和記念像の作者)・・ 
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    平和記念像
    そこに芸術家のパトロンだった鹿島組(現 鹿島建設)の創業家2代目の鹿島龍蔵も住みました
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    ↑↓近藤富枝 著「田端文士村」より引用
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    国鉄(JR)田端駅の南側約1000mX700mの範囲に集中居住(赤字が文士・芸術家邸) 芥川邸は田端駅のすぐ近くでした 
     
    立地としては・・田端は明治時代末期でも一面畑の緑が多かったこと 
    坂が多く風情ある眺めが得られたこと 
    蛍飛び交う藍染川も流れていたこと
    上野の美術学校(現 東京藝術大学)も近かったこと
    など条件が良かったのです
     
    中心的存在の芥川をはじめ各人は相互にインスパイアされて 創作活動に励みました
    居住人同士の交流も盛んで 中にはテニスコート2面備えてクラブハウスまで設けたグループもありました
     
    しかし大正12年9月1日に関東大震災があり 焼け出された下町の人たちが高台の日暮里や田端に逃れてきてそのまま居をかまえる人も多く 以後急速に人口が激増して それまでの田端の雰囲気が失せたことで 文士たちの転居が進み さらに昭和2年7月に田端文士村の求心的存在だった芥川が自死して 文士村は崩壊に向かい・・
    萩原朔太郎は1925(大正14)年に 鎌倉へ移り更に1年後に現在の大田区馬込に移り 続いて室生は1928(昭和3)年に大森谷中という馬込の近くの地に移り・・田端文士村は消えました
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    近藤富枝 著「田端文士村」全268ページ

    ◎「馬込文士村」
    現在の大田区・馬込 山王 中央の地域(現 地下鉄馬込駅の南東部の約2.5キロ四方)は 東京の都心から離れた別荘地として開かれたので 大正10年頃 やはり田端と同様に最初は画家など芸術家・・

    小林古径 川端龍子 伊東深水らが集まって住み始め 大正12年の関東大震災後に田端などから転居してくる文士が増えて 「馬込文士村」と呼ばれるようになりましたイメージ 4


    左上が馬込駅 右端近くが大森駅 青丸青字が文士・芸術家邸:大田区馬込特別出張所作成物から引用
     
    その住人メンバーはざっとあげても40人以上・・例えば・・
    石坂洋次郎 尾崎士郎 川端康成 倉田百三 佐多稲子 萩原朔太郎 藤浦洸(詩人 美空ひばりの「悲しき口笛」作詞も) 稲垣足穂 川端龍子 三島由紀夫 吉屋信子 川瀬巴水 北原白秋 小林古径 高見順 三好達治 山本周五郎 和辻哲郎 宇野千代 子母澤寛 室生犀星 山本有三 伊東深水 村岡花子(NHKドラマ「花子とアン」のモデル)・・
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    藤浦洸 
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    村岡花子(東洋英和女学院HPより)
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    宇野千代(同氏HPより)
     

    そうそうたる人達で交流も盛んに行われましたが 1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦間近な頃に この村も急速に衰退しました

     
    ◎「池袋モンパルナス」
    まず1910年代(大正時代初期)に上野の東京美術学校(現 東京藝術大学)学生達が豊島区・池袋に住み始めました 池袋は家賃が安く上野にも近い利点があったからです
    それが1923(大正12)年の関東大震災以後 同じ豊島区でも池袋の西側に隣接する地域への画家など芸術家の移住者が増え 1930年代になると若き芸術家向けの「培風寮(ばいふうりょう)」というアパートのようなものが現在の要町に登場して 以後 アトリエ付き貸家※がまとまって建つ地域が
    やはり池袋西側に隣接する千早や長崎に そしてまた一部は隣の板橋区にと 計5カ所出現しました


    ※赤いセメント瓦の屋根の木造でアトリエは直射日光の影響を受けない北側の大きな窓と屋根からの明り取りの定番スタイルが多く15畳と広いが 居住部は3~4.5畳に小さな台所と便所付きの独身者向けが大半を占めました
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        齋藤求 「パルテノンへの道」  (北側の窓と明り取り付き屋根のアトリエ群)
     
    それらは地域ごとに愛称がついて・・「すずめが丘アトリエ村」(約20軒) 「さくらが丘パルテノン」(約60軒) 「つつじが丘アトリエ村」 「みどりが丘アトリエ村」 「ひかりが丘アトリエ村」
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    国鉄池袋駅西側と武蔵野線(現 西武池袋線)椎名町駅北側地域にアトリエ村
     
    それぞれは池袋から徒歩10~20分圏内なので そこの住人たちは池袋で映画を観たり 喫茶店で芸術論をたたかわせたりしたそうです 大きな作品は荷車に積んで上野の美術館まで運べました
     
    小熊秀雄(詩人 画家)アトリエ村には住まなかったものの 池袋 長崎 千早などに住み アトリエ村の芸術家たちとは広く交流して この地域をまとめて「池袋モンパルナス」と命名しました
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    この地域に定住した芸術家は少ないのですが若き日にこのアトリエ村に住み または 住人ではないもののここに足繁く訪れ 互いに切磋琢磨して この地で あるいはここを出た後に有名になった人たちは・・
    ・靉光(あいみつ):日本のシュルレアリズムの先駆者 
    ・長谷川利行:漂泊の画家 日本のゴッホ アトリエ村へ頻繁来訪
    ・丸木位里(まるきいり)・丸木俊(まるきとし)夫妻:1941(昭和16)から住み始め 1945(昭和20)年に広島へ転居した後 1950(昭和25年から 有名な「原爆の図」連を夫婦共同で連作開始
    ・長沢節::ファッションイラスト学校の「セツモードセミナー」の経営で有名で  卒業生には・・
      
    花井幸子 金子功 穂積和夫(IVYファッションのイラストで有名)
    ・熊谷守一(くまがいもりかず):極端に単純化した画風に到達した画家
          1932(昭和7)年からこの地域の中の千早に自宅を構えて97才まで 終生住み     モンパルナス芸術家たちの理解者だった 現在 自宅は「熊谷守一美術館」になっています
    ・寺田政明:画家で この地域の芸術家たちの面倒をみて兄貴分的存在で 前出の小熊秀雄の絵の師でもありました ご子息は俳優の寺田農(てらだみのり) 
    ・高山良策:画家だが円谷プロの特撮用の怪獣(ガラモン レッドキングなど)の製作者として有名

    イメージ 11←丸木夫妻
     原爆の図↓
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    イメージ 13 
    寺田政明の絵「発芽A
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    田政明の息子:寺田農  (有名人データベースPASONICA JPNより引用)
    イメージ 15 ガラモン

    芸術家たちは戦争近くなると 特に前衛的画家などは警察の監視が厳しくなったり ある者は徴兵で去り 戦争中はアトリエ住宅も多くが焼失した上に 終戦直後の社会は食べるだけでも大変なのに芸術どころではない状態なので 池袋モンパルナス一帯は衰退していきました
     
    ◎小熊秀雄と手塚治虫の関係
    前述しましたが 小熊は「池袋モンパルナス」の名付け親  
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    小熊秀雄↑ (常にこのような頭髪スタイルでした)                                 
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    小熊秀雄「夕陽の立教大学」
    1901(明治34)年 北海道小樽生まれ1928(昭和3)年に上京して 池袋近辺を転々とした プロレタリア詩人 童話作家 画家ですが 最晩年はマンガの原作者でもありました そのマンガ原作の最初が「火星探検」で・・小熊のペンネーム旭太郎作 大城のぼる画 となって出版されました この「火星探検」というマンガは手塚治虫が描くSFマンガの原点となりました
    小熊が1940(昭和15)年に39才で亡くなった時 手塚は12才でしたが 小熊の原作が手塚少年の心に深くつながっていたのです 
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            火星探検の表紙

    小熊のその他の原作は続いて5編あり それぞれが科学や世界地理に関する内容を含んだ知的レベルの高いもので 当時の児童マンガとは一線を画すものでした・・この点が 後に医学博士号を持つまでに
    なった手塚の知的
    マインドを共振させたのでしょう
     

    世に芥川の「河童忌」 太宰の「黄桃忌」 織田作之助の「善哉忌」 正岡子規の「獺祭(だっさい)忌」など文学忌という文人の命日に当たるものがありますが・・小熊の命日11月20日は「長長忌(じゃんじゃんき)」と言うそうです これは彼の長編詩「長長秋夜」に由来していて 「ジャンジャンチュウヤ」読み・・実は朝鮮語で長い長い秋の夜”という意味とのこと

     
    ※ここでちょっとお話がそれますが・・「獺祭」と言う言葉は 山口県の旭酒造が作る日本酒で「獺祭」という銘柄が近年 人気最高位にありますから 私もそれで知ったのですが・・さて「獺祭」のそもそもの意味が分からないので 調べましたら・・
    「獺祭」・・元々の意味は 《「礼記」月令から》獺(カワウソ)が自分の獲った魚を並べることで これがあたかも 人が物を供えて先祖をるのに似ているところから出た言葉で それを念頭に置いて 唐の詩人李商隠が 文章を作る際に多数の書物を座の周囲に置いて参照して 自ら「獺祭魚」と号したので・・多くの書籍を自分の周囲に広げて 思索し詩文を作ること獺祭」と称するようになり 正岡子規も自らをそれになぞらえて「獺祭書屋主人」と称しました
     旭酒造の説明では・・この会社が在る獺越(おそごえ) という地の名の由来は「川上村に古い獺がいて 子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれており この地名から「獺」の一字をとるとともに   明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が獺祭書屋主人」と号したことに因んで「酒造りは夢創り拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに 伝統とか手造りという言葉に安住することなく 変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする思いで「獺祭」と命名したそうです
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    ・・・・・・・・・・・・
    今回こうしてみますと 田端文士村と馬込文士村は既に有名になっていた作家たちが寄り集まって形成された地域ですが 池袋パルテノンは まだ無名の芸術家がほとんどの 寄合いでの形成という相違がありますが いずれも関東大震災や大戦が盛衰に関係していることがわかります 
    しかし池袋パルテノンの小熊秀雄がマンガに関与した例ばかりでなく 東京・豊島区地域はその後のトキワ荘に続くマンガ文化の醸成のための素地があったのですが それについては次回に続けます
     
    参考書籍・資料
    ・田端文士村(近藤富枝 著)
    ・図書館通信:豊島区とマンガ(小出幹雄 著)
    ・池袋・椎名町・目白 アトリエ村散策マップ(豊島区文化商工部 作成)
     
    ・・・・・・・・・・・・

    ◎男ばかりのトキワ荘の中で・・(文中敬称略します)
    トキワ荘は1952(昭和27)年から1982(昭和57)年まで存在したアパートで 二階部分の賃貸部屋10室は全て四畳半に押し入れ付きで 共同調理場と共同トイレがありました
     
    共同調理場には広く長い「流し台」(今で言う「シンク」)があって 蛇口は3つ付いていたが 赤塚不二夫はそれを全部開いて水を張り 「流し台」でしょっちゅう行水をしていたそうで ある晩に行水しているところを石ノ森に見つかりましたが とがめるどころか 一緒になって行水をしたこともあったと語っています
     
    そういう行為は トキワ荘の住人が殆ど男性マンガ家(最多時8)ばかりだったこと そして住人ではないものの ここに入り浸りの男性マンガ家たちの いわゆる「通い組」も多く なかでも つのだじろう(作品:カラテ馬鹿一代 5五の龍 など)は隣の新宿区から (本人曰く)"1年に366日"スクーターに
    乗って通ったそうですが・・このような"男だらけの環境"なのでできたのでしょう
     
    そんな中で このトキワ荘に住んだ女性が数名いました (1階に入居の普通の家族の奥さんたちについてはここでは触れられませんが・・2階のマンガ家たちが夜遅く集まって騒いでいると下の部屋の奥さんが箒の柄か何かで天井を突いて文句を言っていたそうです)
     
    ◎水野英子(みずのひでこ):女性マンガ家の先達
    1939(昭和14)年 山口県下関生まれ 
    小学5年生時からマンガを描き始め 15才で雑誌掲載デビュー 日本の少女マンガ家の草分けであり 
    また少女マンガに男女の恋愛題材を初めて取り込んだパイオニアであり 後の竹宮恵子 萩尾望都などの少女マンガ家に多大な影響を与えたので「女の手塚」とも言われる (作品:星のたてごと ファイヤーなど)
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    74才頃    (朝日新聞2013年2月12日記事写真)                                
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    ↑作品「銀の花びら」のキャラクター
     
    1958(昭和33)年3月にトキワ荘に入居して 石ノ森章太郎 赤塚不二夫との三人合作のマンガを3作ほど描いた その三人統合ペンネームは「U・マイア」
    しかし入居7か月後の10月に退居・・これは前述のように トキワ荘が男だらけなことの上に共同トイレなどにも耐えられなかったことは想像に難くないことです
    トキワ荘を出てから住んだのは 手塚治虫もトキワ荘から移住した町である豊島区・雑司ヶ谷でした
     
    ◎「小野寺由恵」:石森章太郎の世話した3才上の姉

    章太郎が宮城県の実家の親からははマンガ家になることを反対される中で 由恵は賛成して 上京した章太郎の面倒をみるために 由恵は持病の喘息の治療にかこつけて自分も上京してトキワ荘で一緒の生活をした

    「ジャガイモ」と呼ばれていた章太郎と比べて姉弟とは思えないほど由恵さんは美人で トキワ荘のマドンナだったと言われていたが 本人は藤子不二雄Aに好意をもっていることを弟の章太郎には告白していたそうです
       イメージ 7 
    しかし ある日 喘息の発作がひどくなり 緊急入院して直後に亡くなってしまいました 23才の誕生日の前日のことでした 生前 弟には「私の分まで好きなことをやってほしい」と言っていたそうです・・私は知らなかったのですが この姉弟の話はテレビドラマ化されて 今年2018年の日本テレビ系列の24時間テレビで放送されたそうですから ご存知の方も多いのでは・・
    ※小野寺由恵については・・「のんびり主婦ブログ」 https://chipipi.info/wp/onoderayosie/ より一部引用
     
    ◎赤塚リヨ:赤塚不二夫の母
    夫「赤塚藤七」と共に トキワ荘に一時住んでいて 不二夫の食事や身の回りの世話をしました
    当時の不二夫は「トキワ荘一の美男子」と同僚だったマンガ家たちの誰もが認めるほどで その頃の写真を見るとなるほどと言えるもので 中年以降にマスコミに登場した容姿からは考えられないほどです それゆえに東京での女性問題発生を危惧しての親心もあったのでしょう
     
    不二夫の母は丁度その頃に向かいの部屋に住んでいた水野英子を気に入り 不二夫に彼女との結婚をしきりに勧めたそうです 
    因みに水野英子はその後1970年代初頭に「未婚の母」の道を選んで男児出産しています
     
    ◎遠藤景子:元NHK松山放送局初の女性局長

    トキワ荘で生まれ 幼少期をここで過ごした NHKに入局して制作部門に勤務する中で 自分の生まれ育ったトキワ荘が老朽化で解体されるという情報を掴むや NHK特集『わが青春のトキワ荘』という番組制作スタッフとなった その放送は1981(昭和56)年にあったが2001(平成13)年の1月5日にも再放送されています 放送内容の中には トキワ荘解体前に元住人による同荘会行った様子が含まれていて 手塚 石ノ森 藤子 赤塚などの中に紅一点の水野英子も参加していました 

     
    遠藤景子はその後2009年にNHK松山放送局長となりました これはNHKの地方キーステーションとしては初の女性局長でありました 
     
    ◎レコード店「目白堂」の奥様
    トキワ荘住人マンガ家でレコードをよく聴いていた赤塚不二夫 石ノ森章太郎 水野英子らはレコードを買うのは専ら トキワ荘から徒歩約15分にあるこの店だったのです
     
    後に赤塚不二夫は「あの当時僕らの1か月の食費が3000円だったのに LPレコードが2500円もしたけれど 買って 腹をすかしながら聴いたことは 今考えると あれがイイ栄養になっていたんだと思う」・・と語っています (昭和30年のトキワ荘の家賃も3000円)
     
    実は私もこの店をよく利用しました バスに乗ってこの店の前を通過するには松尾和子似の美人の奥さんが店のレコードをキレイに揃えるような仕事をしている姿がよく見られました
    (バスの中で立っていると目白堂の売り場が丁度良い角度で見下ろせた)

    赤塚らのマンガ家たちも この奥さんの容貌と優しい対応に好印象をもっていたそうで 後年 奥さんが病気で聖母病院(この地域では有名大病院)に入院した時には・・水野英子小出幹雄(現在 としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会の広報担当)”二人でお見舞いに行ったほどでした 
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    松尾和子に似ていました
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    目白堂のEP盤レコード用ポリ袋 
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    目白堂の30センチLP盤レコード用紙袋の裏面
     
    残念ながら レコード衰退の流れの中で2007年の10月末に目白堂は閉店しました ネット上でも閉店を惜しむ一般の人たちからの声が多数あがりました
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                これが閉店間近の目白堂
    写真は「SARADA BLOG」さんから引用sarada-sarada.sblo.jp/article/5743978.html
    ・・・・・・・・・・・・
     次回もまだトキワ荘関連内容が続きます 

    マンガの聖地について 前回の続きです(文中敬称略します)
     
    ◎「紫雲荘」や「兎荘」も使われました
    人気が出て制作量が増えると それまでのトキワ荘の部屋では手狭になって 近くに転居するマンガ家がでてきました 
    既に人気作家の手塚治虫は入居後
    1年ちょっとで同じ豊島区雑司ヶ谷の「並木アパート」(現存します)へ  寺田ヒロオは豊島区目白へ
     
    または追加の仕事部屋を求めてトキワ荘に隣接する小規模アパートも利用されました
    「紫雲荘」には赤塚不二夫が転居して仕事場兼住居にしました 「兎荘」には藤子不二雄の二人が仕事部屋を借りました

    これらのアパート住まいだけではなく 上京してきてこの近所に住んだマンガ家も複数いました つまり「マンガの聖地」はトキワ荘だけではなかったのです
    イメージ 1
    当時の紫雲荘↑
    (右隣の日暮商店の裏にトキワ荘があった) 
                                                     
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    現在の紫雲荘↑
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    紫雲荘の赤塚不二夫の部屋(再現)

    ※元トキワ荘住人だったマンガ家たちは さらに後年それぞれ遠隔地に移りました 手塚は渋谷区→練馬区→杉並区→東村山市へ 寺田は神奈川県茅ケ崎市へ 藤子F不二雄は神奈川県川崎市へ・・など
     
    トキワ荘住人にはならなかったものの横山光輝(作品:鉄人28号 三国志など)は  同じ豊島区でトキワ荘から約1.5キロと近い千早の自宅に 1960(昭和35)年から2004(平成16)年に亡くなるまで45年間も 定住しました
     
    ※手塚治虫の転居理由は手狭だけではなく 出版社などの人が手塚の仕事部屋を伺うと 人気作家とは思えないほど貧素な室内に皆が驚くので 「それからはなるべく高級品を揃えるようにした」と 後に手塚自身が語ったそうで トキワ荘より少しハイレベルな部屋空間を望んだことにもありましょう

    ◎「紫雲荘活用プロジェクト」はチョッと苦肉の呼称?
    紫雲荘は1959(昭和34)に建てられ、今もなお現存する木造モルタル2階建て アパートです
    そこにマンガ家の卵を公募・選出して かつて赤塚不二夫が仕事場にした同じ場所住みながら制作できるように家賃も補助されるというのが 「紫雲荘活用プロジェクト」で 2011(平成23)から進行しています これは地域団体「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」と豊島区の協働運営となっています


    ここでは 
    最長3年間、月額家賃4万円のうち二分の一の2万円を「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」から補助(光熱費は自己負担)されるほか 慣れない町での生活への助言やアルバイト先の紹介など活動をサポートします

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    「紫雲荘活用プロジェクト」第1回目の募集ポスター
    現在 第3期生が入居していますが これまでにマンガ家デビューした人が数名出ています
    2013(平成25)年には桐木憲一原作の『東京シャッターガール』がヒットして実写映画化
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    映画のワンシーン
    現代的な登場例は 2017(平成29)年4月より3期生となった立藤ともひろの作品がWEB漫画サイト「少年ジャンプ+(プラス)」に掲載されてデビューしたことです 立藤の作品『くらげちゃんの初恋』は下記で閲覧できます) https://shonenjumpplus.com/episode/13932016480028966684

    (立藤ともひろ24才の漫画家デビューの紹介は下記で見られます) https://www.youtube.com/watch?v=p2GtsV1ZgMg

    まだ知名度の低い「紫雲荘」の名を冠したこのプロジェクトは後述しますように 気づいた時には「トキワ荘プロジェクト」という名前の立派なプロジェクトモデルが別の場所で既に進行していたので 「トキワ荘」の名は付けられなかったのです

    ◎他の地で先行発生した「トキワ荘プロジェクト」 ! ?
    実は「トキワ荘プロジェクト」の運営は東京・品川区五反田に事務所を持つ特定非営利活動法人の「NEWBERRY(ニューベリー)」という団体(理事長:小崎文恵氏 職員20名)が行っているものです
     そう 東京豊島区に存在する「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」の運営ではないのです
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    「トキワ荘プロジェクト」とは・・
    マンガ家のプロを目指す人たち5~6名がシェアハウスに住みながら 互いに切磋琢磨して成長を加速させることが目的で2006(平成18)年に活動開始
    家電や家具備え付け済で入居時の初期費用や低めの家賃で経済的負担を軽くしている
     
    そのような場所を東京都 千葉県 埼玉県 京都府 に合計20件 定員総数120名規模を保持していて それぞれを「トキワ荘」と呼んでいる(男性専用と女性専用がある) ※京都トキワ荘は京都府からの委託運営
     
    一部にはプロのマンガ家がメンター(仕事上の指導や助言を与える人)として付いてくれる「トキワ荘」もあります
     
    これまでの実績・・デビューしたマンガ家:約80名 トキワ荘入居者:のべ約400名 マンガ関連の指南書的書物も出版して現在4タイトル 協力・提携関係の出版社や大学などは40社以上

    ◎トキワ荘にまつわるエピソード
    トキワ荘が全国的に知られて有名になり始めたきっかけは・・1970(昭和45)年 藤子不二雄Ⓐが自伝的作品の「まんが道(まんがみち)雑誌に連載を開始してからと言われます
     
     しかしトキワ荘の近所の商店街の人や住人はマンガ家たちの存在を当然早くから知っていました それどころか 当時の近所の子供たちは 折りにふれては マンガ家たちに絵やサインをせがんで色紙や紙に書いてもらっていましたので 現在この南長崎の町の中にはお宝のような色紙が多数存在しています
     
    私はマンガをあまり読まなかったので トキワ荘の存在を知ったのは1960(昭和35年)頃に マンガ好きの友人から 「あれがマンガ家たちがいっぱい居るトキワ荘だよ」と教えられたからで その時に私が目にしたのは 周囲の建物の間から見えるトキワ荘の2階の右側面の一部でした
     
    その時のマンガ好きの友人(私とは小学校と中学校が一緒)”は その後 立派なマンガ家 アニメーション演出家になりました それには才能があったとともに トキワ荘の在る街で育ったことも影響していたことでしょう

    その人の名は・・「樋口雅一(ひぐちまさかず)」(ペンネームと本名は同じ)
    樋口雅一とは・・Wikipediaに載るほどの人物で・・アニメーターとして最初は「竜の子プロダクション(現タツノコプロ)」 次に「虫プロダクション」に在籍 1969年にフリーランスとなり この頃からアニメ演出家としての活動も開始(『ムーミン(新)』『昆虫物語 新みなしごハッチ』など) /1977年『まんが偉人物語』のチーフディレクター / 1975年『まんが日本昔ばなし』の演出と原画 / 2012年『ふるさと再生 日本昔ばなし』(一部のキャラクターデザイン、絵コンテ、演出) / 2017年『ふるさとめぐり 日本の昔ばなし』絵コンテ、演出、作画)・・など

    マンガ家としては・・正統派のスタイルで・・
    『まんが聖書物語(監修:山口昇)』/『まんがキリスト教の歴史(監修:中村敏 発行:いのちのことば社)』/『まんがグリム童話(発行:講談社)』/『マンガ メディチ家物語(監修:森田義之 発行:講談社)』・・など
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     ↑私が戴いた本
    現在でもアニメ「日本の昔ばなし」系などの仕事に忙しく 加えて趣味も複数ありで 忙しい様子は氏のブログ『萬雅堂便り』からも読めます
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    マンガの聖地については次回にも続けます

    11月17日に 私の母が永眠しました 95才の天寿を全うしたと言えるのでしょう
     
    母は優しくて 私は子供の頃より怒られたことはありませんでしたが それは誰に対してもでした
    とにかく声を荒げて怒ることなど全く無く 人の悪口なども言いませんので 喧嘩などしませんでした
     
    親戚の女性からの弔電の中に心に響く文言が・・「あこがれの おばさまでした・・」

    晩年 骨折して椅子に座ったままなので 私たちが茶碗にお茶を注いであげたり 割り箸を割る力が無くなったので代わりにしてあげると そのたびに「ありがとう」と言って 小さく頭もさげるのでした 他人ならともかく子の私たちが行っても そのような反応を示されるので 私はその姿を見るたびに胸が熱くなりました
     
    一方 「強くなければ 優しくなれない」・・と言われるように 力はともかく 確かに芯は強い人でした 何事にも動ぜず 慌てず騒がず我慢強く・・グチも言いませんでした
     
    母は父親(私の祖父)の仕事の関係で 戦前には台湾で暮らしていましたが 終戦近くには戦火をくぐり 終戦直後に結婚 翌年に超満員の引きあげ船に乗って和歌山県田辺港に上陸した後は福岡県へそして東京へと移住 その後は(私の父)の転勤に伴って東北各地を転々として最後はまた東京に落ち着きましたが 戦争体験とその後の変化の多い生活が強さの醸成に関わっていたと思います
     
    母の母(私の祖母)は 九州は久留米藩の武士の家の生まれだったそうですから 私の母は・・「武士の娘の娘」・・だったことも少し影響しているかも知れません(NHKの朝ドラ「まんぷく」の中でよく聞くような・・)
     
    しかし「優しさ」の中だけで子供が育つとマズイことが起こるのです・・それは 学校や社会に出てから「人が怒る」ことや「人から怒られる」ことへの免疫が無いために それらの場になると非常にショックが大きくて深く落ち込むのです やはり免疫は必要でしょう・・つまり私の母も非のうちどころが無いとは言えなかったのです
     
    もう一つ 特筆に値すると思われることがあります・・これは私の父も一緒で つまり夫婦揃ってのことですが・・それは 私の両親から「おなら」の音を聞いたことも 臭いもしたことが全く無いことです 人間ですから腸内ガスは発生していたはずですが どうしてそんなことができたのか本当に不思議でした 昔 私の弟が父から「おならは したくなったらトイレでするものだ」と言われたと言っていましたから 父母ともそのように対処していたのかもしれませんが そのような品性は私には到底まねができませんでした・・変なお話で恐縮でした 
     
    追記・・野辺かほるさんの本名がわかりました・・鈴木みつ子・・でした
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    母死去にともなう事後処理 手続きなどで 特殊事情もありまして 長男である私がどうしても まだ動かなければならず また次のブログまでには日にちをいただきます
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    前回の「柳原白蓮の孫」の話に続きます
    ◎与謝野晶子(の妹)の孫=尾崎榮里子
    (以下文中敬称略します)
    それを語る前に・・「与謝野晶子の直系の孫」で有名人がいました・・与謝野 馨(よさの かおる=昨2017年に死去)でした 氏は晶子の11人の子供の中の次男の息子にあたります 政治家で文部大臣や通商産業大臣を歴任し 祖父母(鉄幹・晶子)夫妻らが創立した文化学院の院長でもありました
     
    さて まず与謝野晶子の妹とは・・晶子の5才下で旧姓は「鳳」(ほう)名は「里」のことです (ゆえに与謝野晶子の旧姓も「鳳」)

    そして「鳳 里」が「志知善友」と結婚して「志知 里」となり⇒ 生まれたのが「志知仁保榮」で 
    ⇒「仁保榮」が「江森盛彌(もりや)」と結婚して⇒生まれたのが「江森榮里子」⇒「榮里子」が「尾崎俊二」と結婚して⇒「尾崎榮里子」となりました・・というわけで この「尾崎榮里子」が「与謝野晶子の妹の孫」となるわけで 晶子とはつながっていることになります


    しかし「尾崎榮里子」は残念ながら2012(平成24)年11月に永眠しました

    私が何故に「尾崎榮里子」のことを今回の表題で (の妹)の孫というような表記をしたかと言いますと 彼女の顔とカタチが与謝野晶子に非常に似ているので 直系の孫として「与謝野晶子の孫」と言ってもおかしくないほどであったというのが一つの理由です

    それを表すエピソードとして・・榮里子の友人が昔 榮里子の母親である江森仁保榮から・・「榮里子が誕生したときは 晶子の生まれ変わりみたいにそっくりだったのよ」・・と聞かされたそうです

     
    また 榮里子と私は(前回のブログで述べましたように)小・中・高と同じ学校に通ったのですが 小・中学校では榮里子と同じクラス(高校では別クラス)だったので ある時 中学校のPTAの集りで聞いた話として私の母親が私に「江森榮里子さんは あの与謝野晶子の孫だそうよ」・・と言っていました(この時点で既に事実と少しズレた情報になっていたようです) 以来 私はそう信じ込んでいましたがそう信じる背景には先述のように 榮里子に与謝野晶子の面影が確かにあったからです
    同様に「榮里子は晶子の孫」説は榮里子の友人の間にも流布されていたようで 榮里子の葬儀の場での友人達の会話の中にも その表現があったと聞きます・・それほど榮里子は晶子に似ていたということでしょう


    尾崎榮里子の顔は “数ある晶子の顔写真”の中でも 最もこれに近いかもしれないのが下の写真
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    厳密に言えば榮里子は晶子ほどには面長な顔ではないのですが 目元をはじめ他は総じて似ています (全集の案内パンフから)


    また 首をやや傾げる所作が多いことも同じでした(下の晶子の写真のように)
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    夫・鉄幹とともに 写真はWikipediaより引用

    そしてもう一つの理由が・・バイタリティ溢れる行動をしたこと それをもって 女性の生活・地位向上を目指したというところが 似ている点です


    晶子は・・

    • 歌会で出会った歌人・与謝野鉄幹と不倫関係となる
    • 女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行 以後世間から何と言われようと その時々の本音の歌を 発表した
    • 鉄幹と結婚して子供を12人産み11人育てた(一人は生後二日で死亡)
    • 鉄幹の収入が無い時期には超多忙・多彩な文筆仕事で家計を支えた
    • 鉄幹をフランス・パリ遊学に送り出したものの 彼のいない寂しさに耐えられず 半年後に子供達を残して 一人パリへ逢いに行く それも船では50日かかるので シベリア鉄道利用して14日で行ける短縮策をとって・・
    • 鉄幹及び建築家の西村伊作や画家の石井柏亭らとともに 日本最初の男女共学校である文化学院を創設
    • 残した歌は5万首 『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』詩作 評論活動も多く
    • 女性解放思想家として婦人参政権を唱えるなどして巨大な足跡を残した 
    一方 榮里子は・・
    • 外国語大学の中国語科へ進み 
    • 同科で知り合った尾崎俊二が同大学の学友会の執行委員長になったと同時に榮里子は副委員長になり 当時日本中の大学で学生運動が激しく展開される時期であり 学友会民主化運動やベトナム戦争反対運動 など行った
    • 大学卒業半年後には尾崎俊二と結婚
    • 会社員や中学校教員を務めたのち 埼玉県の生協の運営の中枢で活躍 その後医療生協 (医療・介護の事業をおこなっている生協)の理事として重要な活動をする
    • ジェンダー(社会的・文化的に作り上げられている男女の相違のことで ”「男らしさ」「女らしさ」は こういうものである  こうであるべき”という通念を意味するので近年はこれを是正しようということで「ジェンダーレス」や「トランスジェンダー」という表現が使われる) に対する勉強にも注力して仕事に活かした
    • 日本婦人団体連合会(婦団連)に勤務して 特に婦団連の発行する「婦人通信」の編集部署では 優れた知見をもって指導的役割を果たした
    • 以上の行動の間 一貫して「憲法九条」や「女性の地位」などの勉強は続けた

     
    ※『日本婦人団体連合会(婦団連)は 朝鮮戦争中の1953年に「平和を願う女性の力をひとつに」しようと設立され 初代会長は、「元始、女性は太陽であった」(『青鞜』発刊の辞)で有名な平塚らいてうです 現在 婦団連は女性の生活と権利・地位向上、子どもの幸せ、平和と独立、民主主義の実現のために広範な女性の共同・連帯の力で運動していて 現在23団体90万人が結集しています』『』内は婦団連ホームページより        

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    ◎尾崎榮里子らしいエピソード
    ) 私が小学1年生の3学期末に 担任の高橋先生から 「終業式の時のこのクラスの総代は〇〇君になってもらいます」と私が指名されたのですが その時 榮里子が・・「なんで〇〇君なの?」と 疑問というか不満というのか そう発言したのには驚いたことをハッキリ覚えています 今思うに 彼女の父はプロレタリア詩人 母は師範学校教員の免許を持っていた そして与謝野晶子とつながるというインテリ一家に育った彼女は学力に自信があったのでしょう この頃すでに納得出来ぬことには しっかり追及・発言していたのです
     
    ) 榮里子と私が同じ高校に通っていたもののクラスはちがっていましたが 2年生のある時に 入学以来 会話することもなかった彼女が私の教室に来て「人文地理の授業のノートを貸して」と言うので貸しました 後日「キレイに書かれて読みやすかったわ」と言って返してくれたのですが・・これも今思えば 彼女のクラスメートに頼めば済むはずを そうせずに  私が試されたのではないかと思えます すなわち・・ノートの書き方を見れば そのヒトの思考回路が分かり しかもノートをキレイに書くという作業は  授業などの内容の理解と記憶のむしろ邪魔になるということを知っているかどうかも分かるということで私のレベルを測ったのでしょう
     
      その後も 時々 私の意識のレベルを試されたようなことがあり 例えば高校3年のある日に彼女から電話がかかってきて 「自衛隊の存在については どう思っているの?」・・とか 私が社会人になってからの中学校のクラス会で会った時には 「今 日本の意匠権の制度の状況はどうなっているの?」・・などと質問(尋問)され その際の私の答えは・・ 最近のNHK人気番組チコちゃんに叱られるでまさに「ボーっと 生きてんじゃねーよ」と言われそうなレベルで あとで私は自己嫌悪に陥ったものです・・このような彼女の行為は モノゴトの価値の判断ができるほどの広く深い知識を持っていたからできたのでしょう それをもって どうも私は彼女から高校生以来 知的品定めをされていたような気がします
     
    以上の文章からは尾崎榮里子は 堅物でガンガン進むイメージの人のようすが違います・・発する言葉の内容は的確で時に辛辣ですが 伝え方は柔らかく静かで 時にはおどけていた風だったそうです それは昔に学生運動やウーマンリブなどの時代を経験して過激な言動は結局 効果が出ないということを知っていたからだと思われます

    そして彼女の言動の基盤となる広く深い経験と知識は 絶え間ない勉強(大学での聴講やセミナーへの参加など) 文学はもとより美術 音楽 演劇 映画などの鑑賞 自らの作陶 国内外各地の訪問 などで溜まった知のプールから湧き出ていました しかもそれらは硬軟あり 例えば・・音楽ではクラッシックもあればフランク永井やB‘zそして美空ひばりの歌も好きで・・「車屋さん」(ちょいとお待ちよ車屋さん・・)も良く聴いていたとか
     
    今回の内容の一部には尾崎榮里子を追悼してご主人の尾崎俊二氏が彼女の死去1年後に自費出版された・・「語り合う日々・・尾崎榮里子を思う」という本(全251頁)を参考させていただきました  "尾崎榮里子が与謝野晶子の直系の孫ではなく 晶子の妹の孫"ということを 私はこの本を読んで初めて知らされた次第です 
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    そう言えば・・本日11月7日夜9時からBS朝日の「昭和偉人伝」という番組で “女王 美空ひばりを支えた二人”として「車屋さん」などを作詞・作曲した米山正夫と石本美由起をとりあげるようです 偶然とは言え何かを感じます 
       ・・・・・・・・・・・・

    今回のテーマでは柳原白蓮と与謝野晶子が登場しますが、その文章作成中の10月31日に丁度良いタイミングでNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」が柳原白蓮と与謝野晶子の二人の新情報を流しましたが・・その中で1927(昭和2)年に歳末助け合い企画として その二人が一緒に並び座って歌を詠んで 色紙か何かに書いているという貴重な映像(写真)が流されました 白蓮は7才年上の晶子を敬愛していましたから 心中は如何だったのでしょうか ※文中 敬称略します

    ◎柳原白蓮の孫の名は宮崎黄石(こうせき)
    私が通った高校の同じ学年に柳原白蓮の孫と与謝野晶子(の妹)の孫がいました
     

    しかも私は柳原白蓮の孫である宮崎黄石とは同じクラスでしたし 与謝野晶子(の妹)の孫である江森榮里子とは小学校と中学校でも同じクラスでした (高校では別クラス)

    宮崎黄石については 高校時代には柳原白蓮の孫とは知りませんでしたが 後年に知ってから振り返ってみれば・・在校中の彼は男ながらにも白蓮さんの面影が確かにありました 70才を過ぎた現在は そのように見えませんが・・(彼の高校時代の白蓮似の顔の写真はあるもののここに掲載できないのが残念)
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    ↑展示会に行きましたが彼には会えませんでした
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    ↑3年前の「目白新聞」掲載の顔写真です


    ◎柳原白蓮とは

    有名なので詳細は割愛しますが 
    1885(明治18)年に誕生 
    1967(昭和42)年に死去(満81才)
    大正・昭和の情熱の歌人 戦後は平和運動も行った 
    本名は宮崎燁子(みやざきあきこ) 大正天皇とは従妹に当たる
    大正三美人の一人(他は九条武子 江木欣々)
    二人目の夫で九州の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門に対して絶縁状のみならず その内容を新聞紙上で発表して 7才年下の東京帝大生ながら社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちして 世に言う「白蓮事件」となり 結婚に至る
     
    龍介は“中国の辛亥革命の孫文を支援した日本人の一人である宮崎滔天(とうてん)”の長男
     
    白蓮と龍介との間に生まれた長男が「宮崎香織」ですが学徒動員で戦死 長女が「宮崎蕗苳(ふき)」でその息子が「黄石」になります


    ◎二人の「香織」

    以前にブログで男女兼用の名である「香織」の男性版の例として「宮崎香織」をあげ さらにもう一人「野口香織」という私の高校で同クラスだった者をあげました(ということで野口香織と宮崎黄石と私は同じクラスだったのです)


    この二人の「香織」は「白蓮の孫の宮崎黄石」にとって 一人は伯父であり もう一人は高校のクラスメート しかも同じラグビー部の仲間だったという縁があったのです


    ◎伊藤家と宮崎家のその後

    2014年のNHK朝ドラ「花子とアン」は「赤毛のアン」の日本語訳者である村岡花子の半生を原案としたもので 主人公は実名と同じ村岡花子として吉高由里子が演じましたが 白蓮はこのドラマの中に仲間由紀恵が演じる葉山蓮子として登場し  白蓮の二度目の夫の伊藤伝右衛門も吉田鋼太郎が演じる嘉納伝助として登場しました
     
    伊藤伝右衛門にしてみれば 絶縁状を突拍子もない格好で示されて妻に逃げられたのですが  その後には白蓮側の宮崎家との和解はあったようで・・ 
    2007年には白蓮の娘である宮崎蕗苳の語りを書き起こした本である『白蓮~娘が語る母燁子~』が
    「旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会」から出版されていますし