前回にとりあげた映画「激流」(三船敏郎主演)のように、”ダム建設”はドラマチック映画の恰好の題材ということで、以後も”ダム映画”が作られたり、作られかけたり?した。例えば・・
◎「黒部の太陽」は映画化実現
出演者:三船敏郎、石原裕次郎、辰巳柳太郎、志村喬、滝沢修、宇野重吉、佐野周二、岡田英次、樫山文枝、日色ともゑ、高峰美枝子、他多数。
監督:熊井啓 1968(昭和43)年 三船プロダクション・石原プロモーション共同作品
原作:木本正次(きもとしょうじ1912=大正元年~1995=平成7年)の1964(昭和39)年の毎日新聞連載小説「黒部の太陽」(同年に書籍化)・・これは実際の「黒部ダム」建設現場とこれに関わる人間模様を描いたもので、これもほぼドキュメンタリー。
このダムの建設場所がもともと”人を寄せ付けないような峡谷”だったこと、工事途中で”破砕帯“という”砕けた岩と大量の水を含む特殊な地質部分”に当たって手こずったりした難工事だったが、これは着工前から予想されていたために、(前回のブログでとりあげた岩手県の田瀬ダムは西松建設1社のみで工事担当したが)、黒部ダム(併設の黒四発電所含む)は間組、鹿島建設、熊谷組、大成建設、佐藤工業の5社で分担しなければならないほどの大事業であった。
1956(昭和31)年に着工したが、171人という異常な数の殉職者を出し、7年の歳月をかけて1963(昭和38)年に完成した。(ダムの形式はアーチ式だが両端一部が重力式。高さ186m※=日本最高、長さ492m)
※高さ186mは東京タワーの大展望台150mと特別展望台250mのほぼ中間の高さにあたる。
こうして「黒部の太陽」は石原裕次郎と三船敏郎が共同で映画化に成功したが、石原がもう一つ、ダム建設を題材にした映画の企画をたてたものの実現しなかったことがある・・
◎小説「香港の水」の映画化計画頓挫
なんと、この「香港の水」も「黒部の太陽」と同じ原作者である木本正次(きもとしょうじ)が小説として、これも毎日新聞に連載したもので、香港のダム建設をめぐるドキュメンタリーの小説仕立て。単行本化(初版発行1967=昭和42年)もされた。(現在は絶版)
ストーリー・・1960年代の香港は、急増した人口と発展した産業によって深刻な水不足状態で、1964年には”4日に一度、しかも4時間だけの水道給水”という異常事態になったほど。その数年前から対策を進めていた香港政庁(この頃はまだ英国領)は貯水用の「ロアシンダム」建設を決め、その工事請負の国際入札に日本の西松建設(ダム建設)、熊谷組(水路トンネル)が受注に成功。これは戦後に海外物件を受注した第1号だった。
ダム建設担当の西松建設の機械課長で工事当初から多様な難題を解決しながら仕事に没頭していた藤沢功氏は竣工間近の1964年12月14日(この日は「赤穂浪士討ち入りの日」)、機械点検の際に事故にあって命を落としてしまった。氏には香港人の恋人があり、その彼女が事情によりシンガポールにいたが帰国する前日の出来事だった。彼女は藤沢氏の一周忌が氏の故郷である岩手県で行われる際に来日して、持参した「香港の水」を墓にかけながらこう唱えた。・・「これはあなたが生命をかけた、あの香港の水です。でもその水道の水もまるで百年も昔からあったかのように、いずれあなたの名を忘れるでしょう。私にも忘れさせてください。」
↓ロアシンダム(香港)
この感動的実話を知った石原裕次郎は映画化する決意をしたので、1967年の「香港の水」初版本の帯には「毎日新聞連載・石原プロ映画化」と表記され、石原裕次郎の推薦文が記されていたそうで、(ブログ「まぜるなきけん」の”せんきち”氏によれば、その文章とは・・)
「毎日新聞連載中にこの作品を読んで、私は壮大なロマンに感動した。日本映画の復興には、骨格の太く逞しい、真のロマンが必要で、そのために私はいま三船敏郎氏と協力して、「黒部の太陽」の製作に全力を傾注しているのだが、同じ著者による本書は、その上さらに国際的な規模の雄大さに加えて、感動の振幅は一層大きい。私は次作をこの原作と決めて、欧米の一流映画製作者との提携を準備中である。日本では始めて(原文ママ)の、本当の意味での国際的映画の実現を決意している。」
◎映画「慕情」を石原裕次郎は意識していたのでは?
「国際都市・香港を舞台に美しくもはかなく消えた恋の物語、『慕情』! 主演ウイリアム・ホールデン、ジェニファー・ジョ-ンズ」・・これはこの映画の宣伝文句の一つだった。原題は「Love Is A Many-Splendored Thing」で公開は1955(昭和30)年。
長くなるのでストーリーなど割愛しますが、「香港の水」とは多くの共通点があり・・
1) 実話がベースになっている。(原作者ハン・スーインの自伝的著書による)
2) 香港が主な舞台
3) 主役のカップルが異国人同士(男性は米国の従軍記者、女性は香港在住の医者で母は中国人、父は英国人)
4)恋愛期間中に男性が(朝鮮戦争に従軍中に)死亡して悲恋となる。
この映画は、その主題歌がプッチーニの蝶々夫人を下敷きにしたとされるメロディーで、後に多くの歌手がカバーするほどの名曲であることもあいまって印象深いものになっているので、当然のように石原裕次郎の頭の中にも存在感があったでしょう。
※ストーリー概略の参考には・・
※映像と主題歌の参考には・・
https://www.youtube.com/watch?v=fXgrcYIv59Q
↓予告編より(以下画像4枚とも)
↓今となっては古き良き香港市街を見下ろす場で・・
↓病院裏の丘の上の一本の木の下が逢引きの場所
しかしながら、石原裕次郎の計画は頓挫した! それにはどうやら中国の内外の事情も絡んでいたようで、映画化断念の決定は1976(昭和51)年だったらしい。
◎「香港の水」映画化できず無念だった人
1) 石原裕次郎・・企画立案者だから当然。実現していれば主役で藤沢功氏役をやっていたはず。
2) 木本正次・・・・原作者だからこれも当然ですが、氏のご子息の木本正紀氏によれば・・
『父は「香港の水」は、何とか映画化したいと熱望していました。殆ど、映画化が決定的になった時、あの天安門事件(注1)が起こり、全ての計画は、一夜にして水泡に帰してしまいました。・・幸い、その後、NHKがドラマ化(注2)してTVで流して下さいましたが、父は、そのことが一番残念だった様です。』
注1:ここで言う「天安門事件」とは、1976年に起きた”市民弾圧”事件のことであり、戦車の前に立ちはだかる一人の若者のシーンで有名な(第二次)「天安門事件」は1989年に起きたもの。
注2:1991年にNHKでテレブドラマ化して「ホンコン・ドリーム 私の愛した日本人」 というタイトルで放映された。(NHK出版からも「香港の水」という題名で単行本が発刊された)
3) 西松建設社員(私の父も含む)・・・・・これは”無念”と言うほどではなく”残念”の範疇でしょうが、当時あまり会社のことは口にしなかった父が「今度、西松が香港で作ったダムの映画ができるぞ!」と言って『香港の水』の本を5冊ほど家に持ってきて、私どもに配りました。しかしその後、映画化が実現しなかったことについては何も言いませんでしたが、心中は残念だったに違いなく、それは勿論、父のみならず西松建設の社員全員が抱いたものだったでしょう。
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私は黒部ダムを2回訪れていて、最初は1968年の晩秋に雪が降る中を学友たちと一緒でした。今、気が付きましたが、このダムが出来てからまだ5年しか経っていなかったこの年の2月に映画「黒部の太陽」が公開されていたので、これを観てから訪ねたら感慨は増していただろうと思っています。
↓1968年の雪降る黒部ダムで(左端で下を覗き込んでいるのが私)
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映画「慕情」のロケで使われた”逢引きの丘”は、ビクトリアピークと呼ばれるようで現在はケーブルカーなどで登れるようですが、映画公開の後に、ある人物がその丘の一本の木の生えているあたりの土地を買い取ったので、そこには自由に立ち入れなくなったという話があったが、その後どうなったのでしょうか?
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今から40数年前に、私の大学の先輩であり、また同じ会社の先輩でもあるT・K氏の結婚披露宴に出席した時のこと、新郎であるその先輩が、映画「慕情」のテーマ曲(Love Is A Many-Splendored thing)を熱っぽく独唱したことは、私が経験した披露宴出席が数ある中でも非常に印象に残るものでした。
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今から40数年前に、私の大学の先輩であり、また同じ会社の先輩でもあるT・K氏の結婚披露宴に出席した時のこと、新郎であるその先輩が、映画「慕情」のテーマ曲(Love Is A Many-Splendored thing)を熱っぽく独唱したことは、私が経験した披露宴出席が数ある中でも非常に印象に残るものでした。
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