◎メガソーラーの環境問題
今年(2021年)になって、一部のマスコミに次のような内容の記事が出た。・・『岩手県を流れる猿ケ石川(さるがいしがわ)の上流にあたる山奥の山林90万平方メートルを切り開いた造成地に設置されたメガソーラーの土地から土が雨などによって、まず近くの小川に流れ出し、その先で猿ケ石川に流れ込んで水は赤茶色に濁ってしまっている。(太陽光パネル10万枚の工事開始は2018年4月。川の濁水が発見されたのは翌年4月。抗議を受けて事業者は土の流出防止工事をしたがまだ不完全状態)
その濁水は周辺流域の田んぼにも流れ込み、ヤマメの養殖も一時ストップし、アユの養殖量も減った。』
つまり、環境のためになるはずのモノが、一方で環境を壊してしまっていることになる。この件に限らず、近年は日本全国でメガソーラー設置による周辺環境への弊害が問題化している。
それは、土の流出による河川の汚濁による生態系の破壊、水源が確保できなくなる、森林伐採による保水力の低下による地滑りの危険性発生、自然景観を損なう、流れる水が不快な色になる、などで、各地の住民の反対運動が多発している。
『そのために「現在全国で少なくとも138の自治体がメガソーラー施設の設置を規制する条例を定めている。
遠野市も昨年(2020年)に「1万平方メートル以上の太陽光発電事業は許可しない」という全国的にも厳しい条例を定めた。』(以上『』内の内容と写真は読売新聞オンラインからの引用。一部編集)
◎猿ケ石川とは
岩手県のほぼ中央部にある遠野市。ここは柳田国男の書いた「遠野物語」で知られる地。その市内を西へ流れて隣の花巻市内で北上川に合流するのが一級河川「猿ケ石川」。
この川の流域には「カッパ伝説」が多く残っている理由として、このような説もある・・「昔、この地方の農民は極貧で凶作も多く、いわゆる「口減らし」のためにと言ってもさすがに我が子を殺すわけにもいかず、捨てるに際してもせめて水が飲める川辺に置き去りにする。その子らがやがて骨と皮だけのような体になったところを見られたのが”カッパ”とされたのではないか。カッパは河童と書くように人間の大人の大きさのカッパはいないのはこのためである。」
余談ですが、今は亡き私の両親は(父の勤務の関係で)岩手県に住んでいたことがあり、後年に、よく「さるがえし」という言葉を口にしていたので、私はてっきりそれは「猿返し(帰し)」という”猿も寄せ付けないほどの険しい地”を表すものだと思い込んでいたのですが、つい最近になって、それは「猿ケ石」のことだと知った次第。どうやら九州出身の両親でも東北風の発音に慣れて「い」が「え」になっていたのだと思います。
◎田瀬ダム(田瀬堰堤=たせえんてい)
↑写真は「岩手日日新聞社」のHPより引用
猿ケ石川が遠野市を流れ出てすぐ西隣の花巻市に入った中流にあたる所に「田瀬ダム」が在り、それによって「田瀬湖」が出来ている。
↑(google map利用)
田瀬ダム(田瀬堰堤)は・・
高さ81,5m/長さ320m 重力式コンクリートダム。
北上川水系の5大ダムの内で最大。
このダムは国の直轄建設ダム第1号。
着工は1941(昭和16)年、戦況悪化で1944(昭和19)年に工事中断、戦後1950(昭和25)年に工事再開、完成1954(昭和29)年10月。
終戦間もない時期で、物資や建設機械も不足しがちの中で工事を請け負ったのは、戦前の中国大陸や朝鮮半島で特に堰堤や隧道(ずいどう=トンネル)の施工などいわゆる"土木"分野を得意としていた西松建設。
工事再開にあたっては、中断時点で約10分の1までコンクリートを”打っていた”部分の上に覆いかぶさるように新しいコンクリートを打つ方針にしたが、約6年の工事中断期間中に”コンクリート表面が風化・劣化“していたので、新旧のコンクリートの確実な接合のためには古い表面を”はつる(はがす)”という通常ではあり得ない余計な作業が必要だった。
ダム完成時には、国も初の直轄ダムということで、時の建設大臣の小澤佐重喜氏(現在の衆議院議員の小沢一郎氏の父)をはじめとした要人出席のもと竣工式が行われ、(気合が入っていたか)その後日には”東北地方建設局“製作の「田瀬堰堤(たせえんてい)」という41ページからなる記念小冊子が発行された。
↓小冊子「田瀬堰堤」(西松建設で当時は当堰堤工事従事者の労務管理責任者だった父が残したもの)
↑こちら側が現在は水没して見られない風景。私の父によれば「ダム工事再開の翌年の昭和26年にダムより少し上流部分で、父に連れられた私を含めた兄弟3人で水遊びをした」そうですが、私は記憶にないものの、何やら感慨深いものがあります。
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田瀬ダム建設再開の翌年か翌々年に、4、5才だった私は父に連れられて工事現場をちょっとだけ見せられたという貴重な経験をしました。そこでは多くの人が働いていて、張られたケーブルに吊られた大きなバケット(金属製の容器?)が右上の方に昇っていく様子が目に焼き付いていますが、子供ながらにも、その活気にワクワクしたことを覚えています。それはまさに戦後復興期のワンシーンだったと思います。
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次回は、この田瀬ダムと関係する大物俳優についてです
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