◎カッコ良さ最高のドライバーを見た!
それは1976(昭和51)年のこと。私の運転するクルマは東名高速道路を東京から西に向かって神奈川県内か静岡県に入ったあたりか?を走行していた。

ふと気が付くと、いつの間にか私の右側の追い越し車線に現れて抜き去ろうとするクルマがいた。

横を通り過ぎようとするそのクルマには、高齢の男性ドライバー1人だけが乗っていて、ハンティングキャップ(日本で言う「鳥撃ち帽」)をかぶっていたのははっきり覚えているのだが、服装がどうだったか詳細は思い出せない。ただトータルのファッションセンスが良いのは一見して分かった。その上、ハンドルを握っている姿勢が良く、つまり姿全体の雰囲気がとにかくカッコいい!・・と感動したものの、それは一瞬のことで、その人はチラッとこちらを見てスーッと走り去った。

これは今から40数年前のことだが、このシーンははっきり目に焼き付いている。その理由は、ハンドル握って55年になる私の経験の中で、後にも先にも”これ以上にかっこいいドライバーを見たことがない”からだ。

それは、乗っていたクルマがオープンカーだった影響もある。クルマ自体がかっこいい上に、屋根や窓ガラスが無いので車内が明るい上に、外からの視線を遮るものが無いので、そのドライバーの身なりと仕草がハッキリと見てとれたからでもある。

私がクルマに詳しければ瞬時にその車種・車名が分かったのでしょうが・・、白だったかシルバーだったか?の色の外車のオープンカーを今、記憶を頼りに調べてみると、たぶんそれは「ポルシェ911タルガ」ではなかったかと思える。
現在のポルシェ911カブリオレ(オープンカー)
porsche-cabriore

もうひとつ大きな要素が、”運転していたのが渋い高齢者”だったことで、「えっ その歳で!」という驚きが好感とともに感動を呼んだのであり、これが若者の運転だったらそうはいかない。

そこで、最近になって、あのかっこいいドライバーはきっと”白洲次郎”氏(以降、敬称略)だったのではないかという思いを強くしている。私が当時すでに白洲次郎をその顔も含めて知っていたら、その場で確定できていたのでしょうが、氏のことを知ったのはその20年ほど後のことになるので残念ですが・・

◎白洲次郎とは
白洲次郎(1902=明治35年~1985=昭和60年:83才没)は、兵庫県の(現)芦屋市に生まれ、ケンブリッジ大学留学経験と堪能な英語力を駆使して、終戦後は吉田総理の懐刀として、GHQの一方的な指示や放漫な態度にも抗議したり、日本国憲法草案作成時には氏の意見を述べるなど、GHQの高官をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという話は有名。その他貿易庁長官、総理大臣秘書官、サンフランシスコ講和会議時の主席全権委員顧問、東北電力会長などを務めたが、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長であった時期に当時の総理大臣の田中角栄から外国要人を伴ってプレーしたいという要望があった際に”非会員である”ことを理由に拒否したのも語り草。とにかくその功績や武勇伝のようなエピソードは非常に多い。
sirasu7 (2)

しかし白洲次郎を語るには欠かせない側面があり、そのことが”私が東名高速道路で見たのは白洲次郎”とする判断理由となるもの。・・さてその側面とは・・

◎白洲の側面(1)ダンディを極めた!
英国留学時に物心両面のダンディズムを体得し、帰国後もそれが活かされて、終戦後のGHQのマッカーサー司令長官や要人に対しても”敗戦国の人間として見下されるようなことを阻止する”効果※は充分にあった。(※他の要素として、流ちょうなキングズ・イングリッシュ=英国語を使ったこと、子供の頃から喧嘩に強かったこと、身長が180センチとも185センチともされて体格でも対等だったことがあげられる)
外国要人と会話する吉田首相と白洲(右から2人目)
sirasu-grandstyle (2)
当然、服の着こなし方にもうるさかったが、カジュアルな服装においても、日本で最初にジーンズパンツ(リーバイス501)を履いた男とされる。白洲の大切にした言葉「プリンシプル」(信条、原則、道義)を守る意思が顔や態度に現れていたために、いかなる服装でも身なりが締まって見えた。

ネクタイの生地にもこだわりが・・
sirasu-p1 (2)
ジーンズにTシャツ姿(48才)
sirasu-jeens (2)
そのダンディさから三宅一生のファッションモデルにもなった。
sirasu-p2 (2)
最晩年の白洲と夫人(正子)(画像はBS-TBSテレビより)
last-of-sirasu (2)

◎白洲の側面(2)中学時代~晩年~死後まで?クルマ漬け!
・中学(旧制)時代には、米国の高級車「ペイジ・グレンブルック」を (白洲商会を経営して綿花貿易で財を成した父親から) 与えられた。(最右が白洲少年)(画像はBS-TBSテレビより)
sirasu-bentray (2)
・英国ケンブリッジ大学に留学時代には「1924年式ブガッティ・タイプ35」と「1924年式ベントレー3Lスピードモデル」との2台を乗り回して欧州ドライブしたり、サーキットでも走らせた。
ブガッティを運転する白洲(左)
sirasu-bugatti
↓白洲が実際に乗っていたベントレー
 (現在、茨城県加須市にあるWAKUI MUSEUM※に動態保存展示している。右に立つのは涌井館長) (画像はNHK ETVより引用)
sirasu-car-wakui (2)

・帰国後に正子と結婚した際には、父親から贈られた「ランチャ・ラムダ」で新婚旅行をした。
・東北電力会長時代には、ダム工事現場回り用に輸入した「ランドローバー・ディフェンダー」を自ら運転した。
・その他、公用には「メルセデスベンツS」を利用したがこれは運転手付きで乗ることが多かった。

・ホンダの「シビック」がCVCCという、当時としては画期的な低公害エンジンを載せて発売されるや、購入して一時期は公用に使ったが、その際には運転手の横の助手席に座ることが多かった。
CivicRS
・プライベートで80才過ぎまで最も愛用したのが「1968年式ポルシェ911S。(排気量アップしたエンジンに積み替えていた。)↓
sirasu-with-porsche (2)
・トヨタが1981年に、当時の同社の最高技術を注ぎ込んで開発し発売した「ソアラ」を購入。
初代ソアラ(画像は「ベストカーweb」より引用)
soala
・白洲は”ソアラはまだ改良の余地あり”との思いを強くして、当時のトヨタ社長にも提言して、”参考になればと考えて?”自分の愛車ポルシェ911Sをトヨタ社に寄贈してしまった。

・トヨタは白洲の熱意に応えるために、初代ソアラからの開発主査である岡田稔弘(としひろ)と白洲を直接コンタクトさせた。以後白洲から改良提案事項記載の手紙などを岡田に送ったりして、次のソアラが出たら購入すると宣言。

・白洲提案も取り入れた2代目ソアラの発売3か月前に、惜しくも白洲が他界。しかし正子夫人はすぐにそのソアラを(運転免許を持っていないのに)購入して遺志を継いだ。

・ほどなく、当時の豊田章一郎社長、息子で現社長の章男、正子夫人の三人は2代目ソアラに同乗して、白洲次郎の墓(兵庫県三田市)に報告のお参りをしたのであった。

◎やはり、あれは白洲次郎だったか?!
前述のように、私が体験した1976(昭和51)年なら白洲は74才。運転者はダンディこの上ない。そして”屋根の無いクルマ”に乗るなど、いかにもクルマ好き。・・しかしただ一つ引っかかるのが”白洲がオープンカー(カブリオレ)を運転したことがあるという記述や写真が見られないこと”なのだが、クルマ好きで”飛ばし屋”ならその運転の可能性はありうること。

白洲次郎は、80才を過ぎたある日、家人に「東名高速で若いヤツが競(せ)りかけてきたから、ぶっちぎってやったら、びっくりして諦めていたよ!」と満足げに言ったとのことなので、70才代ならなおさら飛ばすことが多かっただろうから、私のクルマが追い抜かれたことも考えられる。

やはりあれは白洲次郎に違いないと思う私なのですが、もし違っていたとしても、あのかっこいいシニアドライバーの姿は見習いたい。
・・・・・・・・・・・・・
※WAKUI MUSEUM (ワクイミュージアム)・・https://www.wakuimuseum.com/
・・・・・・・・・・・・・
追記:光あるところには影がつきものなように、白洲次郎にも"手放しで礼賛できるものではない部分がある"とされているようです。
・・・・・・・・・・・・