近年の国会などでの陳述、質疑応答などは殆どが原稿ありきで、しかも自身で作成せずに官僚が作成したものと思われるものを棒読みするような場面も多く、ましてや演説と言えるようなものは無いようだ。それを見るにつけ、聴くにつけ、私は“かつて名演説家と言われたある人の名”が頭に浮かぶのです!・・その人とは・・(以下敬称略)

◎斎藤隆夫(さいとうたかお)
政治家であり弁護士でもあった斎藤隆夫(1870=明治3年~1949=昭和24年)は名演説家として有名。その理由は、演説の内容が“当時の軍部や国会の流れに対する批判”が多かったこと、つまり時代の雰囲気の中で“言いにくいことを敢然として発言した”ことと、氏は“長時間の演説でもことごとく原稿無しで行った”ことによる。
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その
斎藤の「三大演説」と言われるのが・・

「普通選挙法賛成演説」(1925=大正14年、同法案成立前に演説)

「粛軍演説」(1936=昭和11年、軍に対して革正を求め、軍による議会軽視への批判、1時間25分)

「反軍演説」(1940=昭和15年、支那事変の処理への質問演説、2時間)

「粛軍演説」の肉声一部(イントネーションなど口調は時代を感じるが)
https://www.youtube.com/watch?v=oD1470HX95E

斎藤は終生、議会政治重視、立憲主義、自由主義を貫いたので、戦前は“軍部の政治介入”と“軍部に同調する政治”に対する強烈な批判演説が多かった。但し「粛軍」「反軍」と言われる内容の演説を行ったものの、斎藤は、世界の歴史をトータルでみると、 “力と戦争の行使”の期間が大部分を占めており、平和の期間は僅かであることが事実という見地から反戦主義者ではなかった。

ゆえに、軍部への批判の根幹は“国内外の政治に関しては素人の軍部は口を出すな、それより世界(特に中国)情勢と戦局をもっと直視して行動すべし”という思いにあり、必ずしも戦争をするなとは言っておらず、このスタンスが斎藤への総合評価の分かれ所ではある。

とは言え「粛軍演説」「反軍演説」は軍部への懐疑、批判であることにはかわりがないので、軍部からの監視、脅迫もあり、また「反軍演説」後に親軍部的な諸党派が中心となって斎藤の衆議院議員除名案が圧倒的多数で可決され、一時国会を去るが、1942=昭和17年の総選挙では、軍部からの妨害があったり、選挙に圧倒的有利な“翼賛政治体制協議会※推薦”ではない“非推薦”で立候補するも兵庫5区でトップ当選して衆議院議員に返り咲いた。(※翼賛政治体制協議会=軍部の方針を追認する党派と議員の集団)

戦後は第1次吉田内閣、片山内閣の国務大臣などを歴任、最後は1948=昭和23年に「民主自由党」(「自由民主党」ではない!)創立に参加し、翌年に79才で死去。

斎藤隆夫は兵庫県豊岡市出石(いずし)に生まれ、東京の「東京専門学校(後の早稲田大学)」を主席で卒業、エール大学に留学した後に弁護士試験(現在の司法試験)に合格して衆議院議員になっている。

◎斎藤隆夫記念館「静思堂」
出石が生んだ政治家・斎藤隆夫の功績を伝えるために、同町内に1983(昭和58)年に竣工。
設計は著名な建築家:宮脇檀(みやわき・まゆみ1936~1998)。氏は出石の町全体を気に入っていた上に、元々氏は“街並み景観や都市計画の観点からの建築設計”に注力していたので、その後も同町の美術館、町役場、中学校など“町全体の調和を意識した一連の建築”の設計も手掛けた。

2018年7月にこの記念館を訪れた自民党の石破茂氏は、見学後に「世論に迎合したい、自分の身が大事との思いにとらわれそうになる時、斎藤氏を思い出すと、これじゃいかんと思う。一歩でも近づきたい」と(記者団に)語ったそうである。

↓「静思堂」入り口(正面に斎藤の胸像あり)(蒲島古都多氏撮影写真を引用)
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↓「静思堂」外観
写真はブログhttps://shinmemo04.exblog.jp/26147531/さんから引用
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◎なぜ、私が斎藤隆夫の名を覚えたのか
それは今から40年ほど前、当時私が住んでいた兵庫県に東京の両親が来た際に、県内を私が案内して巡った場所の一つが県北部の豊岡市出石であり、そこのある場所に“郷土が生んだ雄弁家「斎藤隆夫」”というような文言を記した看板が立っていた。(残念ながら当時は斎藤隆夫記念館がまだ建っていなかった。)それを見た父が、「確かにこの人の演説は有名だったものだ。そうか、ここの出身だったのか」と感慨深げに言ったので、それ以来私の脳裏から離れなかったもの。

なぜ私の父さえもが斎藤を知っていたかというと、当時の国会での氏の長時間演説は大新聞が一面トップに全発言を掲載することもあったとのことで、自ずと大衆にも名前が浸透していたからだ。

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次に、斎藤隆夫の演説も参考にしながら、“発言とはこうありたい”と思えることについて綴ろうと考えましたが、長くなるので次回にまわし、以下は氏を生んだ出石についての紹介です。
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◎斎藤隆夫を生んだ兵庫県豊岡市出石とは・・
「但馬の小京都」と称される、出石城の城下町。つい先日(2020年12月12日)にNHKテレビの「ブラタモリ」に登場した「玄武洞」は、この出石から北に約13キロの地に在り、そのまた約4キロ先には志賀直哉の小説で有名な「城崎温泉」などが同じ豊岡市内に存在し、同市の最北部は日本海に面する。また同市はコウノトリ繁殖取り組みでも有名。

◎出石出身の斎藤以外の有名人は・

沢庵和尚・・漬物のたくわんの創始者とも深い愛好家だったとも言われる和尚は出石で生まれて、京都の大徳寺を経て江戸の寺の住職で終わるが、郷里の出石城主代々の菩提寺であった出石の「宗鏡寺(すきょうじ)」 が荒廃していたので、生前に乞われてこの寺を再興した。ゆえに「沢庵寺」とも称される。

加藤弘之・・東京大学初代総長も出石出身。

◎その他の出石名所、名産、名物
↓出石の代表的風景(中央は「辰鼓楼=しんころう」:wikipediaより
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宗鏡寺(すきょうじ=別名:沢庵寺)の庭
 沢庵和尚が作庭したもの
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出石焼(伊万里より白いとされる磁器が作られる)
 
(山本製陶所商品紹介より)
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出石そば(江戸時代の国替えで信州上田の城主が新たに入城するにあたって蕎麦職人も引き連れてきたため広まった。現在の名物「皿そば」が盛られる小皿は出石焼
 (「沢庵」店の皿そばの例:写真はRumi・Kawashima氏撮影)
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