黒澤明の戦後初作品「わが青春に悔なし」
黒澤明監督(当時36才)の戦後初作品である「わが青春に悔なし」は原節子の主演で1946(昭和21)年10月公開されたモノクロ映画
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この映画製作にあたっては 戦後に日本の旧領土を除く本土部分を占領することになった米国が ポツダム宣言の全13項の第10項の中に在る「民主主義的傾向の強化 言論・宗教・思想の自由 基本的人権の尊重」の遵守を日本国民に指示していたので この映画もそれに沿った内容にする必要があり そのための米国による検閲もあった その結果この映画は”ファシズム的体制の悪しき実態とその中にあっても自我を貫いて強く生きる女性”を描いた

◎なぜか
「米国戦略爆撃調査団」も来て撮影
黒澤監督たちが京都でこの映画撮影最中の1946(昭和21)年5月16日に「米国戦略爆撃調査団」※の一行が現場にやってきて 日本側の映画撮影風景を撮影している それは映画の劇場公開5か月前のことだった
「米国戦略爆撃調査団」とは 米国が第二次大戦における欧州での戦略爆撃の効果を検証するために設けていた組織で 日本敗戦によりその検証対象を日本関係にも広げて 広島や長崎は勿論 その他各地でも調査していた

「わが青春に悔なし」撮影現場のカラー映像
この映画はモノクロであるが 米国側はカラー撮影しているので カラーでの原節子(当時26才)たちが記録されたのだった 以下はその記録フィルム映画から切り取った画像です
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↑↓レンゲ畑の原節子(上図の原の"歯を見せての笑顔"は珍しい!)
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レンゲ畑を駆ける原節子
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映画冒頭シーンを米国側がやや俯瞰して撮影したもの
 原がおどけて携帯魔法瓶を頭に置くシーン
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スタッフも真近な原節子 レフ板も左端に見える
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撮影スタッフ
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撮影カメラとスタッフ
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日本で最初の国産カラーフィルムによる総天然色映画「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督・高峰秀子主演)が公開されたのは1951(昭和26)年だから 「わが青春に悔なし」の撮影風景とは言えその5年前の米国側撮影のカラーフィルム映像が存在することになる
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「カルメン故郷に帰る」はカラー映像が不出来だった場合に備えて カラー撮影終了直後に再度モノクロフィルムでの撮影も行ったため 出演者は同じ演技を2回行ったことになる (カラーとモノクロを同時撮影したという話も流布しているが・・)

◎この映画の脚本が参考にした事件
この映画「わが青春に悔いなし」の冒頭画面に出る説明文は「~この映画は京大事件に取材したものであるが 登場人物は凡て作者の創造である」・・としているが 現在一般的にはもう一つの事件からも影響を受けているとされる つまりこの映画の脚本内容の基となったのは戦前の「京大事件(別称:瀧川事件)」と太平洋戦争直前から戦中にかけての「ゾルゲ事件」である

「京大事件」とは”1933(昭和8)年に京都大学法学部の瀧川教授が政府批判したため政府圧力(※2)によって罷免に追い込まれたことに端を発して法学部の他の教授たちが抵抗して多数の辞職者をだしてその影響は他の帝大や私大にも及んだ事件”(瀧川教授は終戦直後にGHQ指令により復権)  

「ゾルゲ事件」とは”ソ連と通じたドイツ人ゾルゲや尾崎秀実らのスパイ事件“(しかしその裏には当時の近衛文麿首相が防共連盟の顧問と言う立場でありながら 深みにはまる日中戦争問題の解決のためにはむしろソ連と手を握る必要があると考えて 近衛のブレーンでもあった元朝日新聞記者の尾崎を動かしたことを検察側はつかんでいたが近衛は高い身分・地位にあったので 国政や人心の混乱回避のために逮捕はできなかった)

(※2)京都大学に瀧川教授の罷免をするように指示したのは当時文部大臣だった鳩山一郎で 後に首相になった人物だが その孫である故鳩山邦夫も文部大臣になり その兄鳩山由紀夫も短期間だが首相になった
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なお この映画の原節子は最後の方の場面で 珍しくも”きつい言動”と”日焼けした黒い顔で髪も乱した姿”をみせているのも印象的 !
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