前回の「柳原白蓮の孫」の話に続きます
◎与謝野晶子(の妹)の孫=尾崎榮里子
(以下文中敬称略します)
(以下文中敬称略します)
それを語る前に・・「与謝野晶子の直系の孫」で有名人がいました・・与謝野 馨(よさの かおる=昨2017年に死去)でした 氏は晶子の11人の子供の中の次男の息子にあたります 政治家で文部大臣や通商産業大臣を歴任し 祖父母(鉄幹・晶子)夫妻らが創立した文化学院の院長でもありました
さて まず与謝野晶子の妹とは・・晶子の5才下で旧姓は「鳳」(ほう)名は「里」のことです (ゆえに与謝野晶子の旧姓も「鳳」)
そして「鳳 里」が「志知善友」と結婚して「志知 里」となり⇒ 生まれたのが「志知仁保榮」で
⇒「仁保榮」が「江森盛彌(もりや)」と結婚して⇒生まれたのが「江森榮里子」⇒「榮里子」が「尾崎俊二」と結婚して⇒「尾崎榮里子」となりました・・というわけで この「尾崎榮里子」が「与謝野晶子の妹の孫」となるわけで 晶子と“血”はつながっていることになります
しかし「尾崎榮里子」は残念ながら2012(平成24)年11月に永眠しました
私が何故に「尾崎榮里子」のことを今回の表題で ” (の妹)の孫”というような表記をしたかと言いますと 彼女の顔とカタチが与謝野晶子に非常に似ているので 直系の孫として「与謝野晶子の孫」と言ってもおかしくないほどであったというのが一つの理由です
それを表すエピソードとして・・榮里子の友人が昔 榮里子の母親である江森仁保榮から・・「榮里子が誕生したときは 晶子の生まれ変わりみたいにそっくりだったのよ」・・と聞かされたそうです
また 榮里子と私は(前回のブログで述べましたように)小・中・高と同じ学校に通ったのですが 小・中学校では榮里子と同じクラス(高校では別クラス)だったので ある時 中学校のPTAの集りで聞いた話として私の母親が私に「江森榮里子さんは あの与謝野晶子の孫だそうよ」・・と言っていました(この時点で既に事実と少しズレた情報になっていたようです) 以来 私はそう信じ込んでいましたがそう信じる背景には先述のように 榮里子に与謝野晶子の面影が確かにあったからです
同様に「榮里子は晶子の孫」説は榮里子の友人の間にも流布されていたようで 榮里子の葬儀の場での友人達の会話の中にも その表現があったと聞きます・・それほど榮里子は晶子に似ていたということでしょう
尾崎榮里子の顔は “数ある晶子の顔写真”の中でも 最もこれに近いかもしれないのが下の写真


厳密に言えば榮里子は晶子ほどには面長な顔ではないのですが 目元をはじめ他は総じて似ています (全集の案内パンフから)
また 首をやや傾げる所作が多いことも同じでした(下の晶子の写真のように)

夫・鉄幹とともに 写真はWikipediaより引用
そしてもう一つの理由が・・バイタリティ溢れる行動をしたこと それをもって 女性の生活・地位向上を目指したというところが 似ている点です
晶子は・・
- 歌会で出会った歌人・与謝野鉄幹と不倫関係となる
- 女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行 以後世間から何と言われようと “その時々の”本音の歌を 発表した
- 鉄幹と結婚して子供を12人産み11人育てた(一人は生後二日で死亡)
- 鉄幹の収入が無い時期には超多忙・多彩な文筆仕事で家計を支えた
- 鉄幹をフランス・パリ遊学に送り出したものの 彼のいない寂しさに耐えられず 半年後に子供達を残して 一人パリへ逢いに行く それも船では50日かかるので シベリア鉄道利用して14日で行ける短縮策をとって・・
- 鉄幹及び建築家の西村伊作や画家の石井柏亭らとともに 日本最初の男女共学校である文化学院を創設
- 残した歌は5万首 『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』詩作 評論活動も多く
- 女性解放思想家として婦人参政権を唱えるなどして巨大な足跡を残した
- 外国語大学の中国語科へ進み
- 同科で知り合った尾崎俊二が同大学の学友会の執行委員長になったと同時に榮里子は副委員長になり 当時日本中の大学で学生運動が激しく展開される時期であり 学友会民主化運動やベトナム戦争反対運動 など行った
- 大学卒業半年後には尾崎俊二と結婚
- 会社員や中学校教員を務めたのち 埼玉県の生協の運営の中枢で活躍 その後医療生協 (医療・介護の事業をおこなっている生協)の理事として重要な活動をする
- ジェンダー(社会的・文化的に作り上げられている男女の相違のことで ”「男らしさ」「女らしさ」は こういうものである こうであるべき”という通念を意味するので近年はこれを是正しようということで「ジェンダーレス」や「トランスジェンダー」という表現が使われる) に対する勉強にも注力して仕事に活かした
- 日本婦人団体連合会(婦団連)に勤務して 特に婦団連の発行する「婦人通信」の編集部署では 優れた知見をもって指導的役割を果たした
- 以上の行動の間 一貫して「憲法九条」や「女性の地位」などの勉強は続けた
※『日本婦人団体連合会(婦団連)は 朝鮮戦争中の1953年に「平和を願う女性の力をひとつに」しようと設立され 初代会長は、「元始、女性は太陽であった」(『青鞜』発刊の辞)で有名な平塚らいてうです 現在 婦団連は女性の生活と権利・地位向上、子どもの幸せ、平和と独立、民主主義の実現のために広範な女性の共同・連帯の力で運動していて 現在23団体90万人が結集しています』『』内は婦団連ホームページより
◎尾崎榮里子らしいエピソード
1) 私が小学1年生の3学期末に 担任の高橋先生から 「終業式の時のこのクラスの総代は〇〇君になってもらいます」と私が指名されたのですが その時 榮里子が・・「なんで〇〇君なの?」と 疑問というか不満というのか そう発言したのには驚いたことをハッキリ覚えています 今思うに 彼女の父はプロレタリア詩人 母は師範学校教員の免許を持っていた そして与謝野晶子とつながるというインテリ一家に育った彼女は学力に自信があったのでしょう この頃すでに納得出来ぬことには しっかり追及・発言していたのです
2) 榮里子と私が同じ高校に通っていたもののクラスはちがっていましたが 2年生のある時に 入学以来 会話することもなかった彼女が私の教室に来て「人文地理の授業のノートを貸して」と言うので貸しました 後日「キレイに書かれて読みやすかったわ」と言って返してくれたのですが・・これも今思えば 彼女のクラスメートに頼めば済むはずを そうせずに 私が試されたのではないかと思えます すなわち・・”ノートの書き方を見れば そのヒトの思考回路が分かり しかもノートをキレイに書くという作業は 授業などの内容の理解と記憶のむしろ邪魔になるということを知っているかどうかも分かる”ということで私のレベルを測ったのでしょう
その後も 時々 私の意識のレベルを試されたようなことがあり 例えば高校3年のある日に彼女から電話がかかってきて 「自衛隊の存在については どう思っているの?」・・とか 私が社会人になってからの”中学校のクラス会”で会った時には 「今 日本の意匠権の制度の状況はどうなっているの?」・・などと質問(尋問)され その際の私の答えは・・ 最近のNHKの人気番組”チコちゃんに叱られる”でまさに「ボーっと 生きてんじゃねーよ」と言われそうなレベルで あとで私は自己嫌悪に陥ったものです・・このような彼女の行為は “モノゴトの価値の判断ができるほどの広く深い知識”を持っていたからできたのでしょう それをもって どうも私は彼女から高校生以来 知的品定めをされていたような気がします
以上の文章からは尾崎榮里子は 堅物でガンガン進む”イメージ”の人のようですが違います・・発する言葉の内容は的確で時に辛辣ですが 伝え方は柔らかく静かで 時にはおどけていた風だったそうです それは昔に学生運動やウーマンリブなどの時代を経験して過激な言動は結局 効果が出ないということを知っていたからだと思われます
そして彼女の言動の基盤となる広く深い経験と知識は 絶え間ない勉強(大学での聴講やセミナーへの参加など) 文学はもとより美術 音楽 演劇 映画などの鑑賞 自らの作陶 国内外各地の訪問 などで溜まった知のプールから湧き出ていました しかもそれらは硬軟あり 例えば・・音楽ではクラッシックもあればフランク永井やB‘zそして美空ひばりの歌も好きで・・「車屋さん」(ちょいとお待ちよ車屋さん・・)も良く聴いていたとか
今回の内容の一部には尾崎榮里子を追悼してご主人の尾崎俊二氏が彼女の死去1年後に自費出版された・・「語り合う日々・・尾崎榮里子を思う」という本(全251頁)を参考にさせていただきました "尾崎榮里子が与謝野晶子の直系の孫ではなく 晶子の妹の孫"ということを 私はこの本を読んで初めて知らされた次第です

そう言えば・・本日11月7日夜9時からBS朝日の「昭和偉人伝」という番組で “女王 美空ひばりを支えた二人”として「車屋さん」などを作詞・作曲した米山正夫と石本美由起をとりあげるようです 偶然とは言え何かを感じます
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