◎超常識の接骨医 吉田増蔵 氏
かつて私が住んでいた町 東京都 豊島区 椎名町(現 南長崎)には凄い接骨医がいることで その名を知られた吉田接骨院がありました
ここはごく普通の民家と変わらぬ造りで しかも看板も出していないのに 全国から患者が押しかけ 朝早くから300人が並んだこともあったそうです
また後にここは野球の読売巨人軍のお抱え接骨院として更に有名になりました
骨折でも2週間で治すことで知られた伝説の接骨医は 吉田増蔵 氏・・テレビや新聞にもその名がでることも度々ありました
1955(昭和30)年ころだったかに・・
私の弟(当時5才?)が高い所から飛び降りて 脚を捻挫したか骨折なのか判然としないが非常な痛みを訴えるので 祖父が翌朝早くに 弟を背負って歩いて吉田接骨院に行きました これに私も一緒について行き 午前7時半頃(だったか?)に着いたら まだ格子の門は閉じられた状態でしたが 門前の路上(大通りには面していませんでした)には既に15人くらいの人たちが待っていました
その門の格子目が粗いので門外から中が良く見えるのですが やがて・・
吉田先生が 越中ふんどし一枚だけという裸に近い格好で建物の中から庭に出てきました
越中ふんどし:「褌屋」カタログから
先生は門前で待つ人々に目を遣ることもなく 無言で庭の植物にじょうろで水遣りをしてから また家の中に入っていきました
これも文字で表せば「傍若無人」でしょう(言葉の意味としてはズレますが)
まだ小学校低学年だった私は 変わった先生もいるものだと驚きましたが このシーンは脳裏にしっかりと焼き付いています
しばらくして開門されて治療が始まったのですが なにしろ今で言う「ゴッドハンド=神の手」ですから 一人当たりの施術時間は短く しかし効果抜群で 私の弟もあっという間の施術で治ったようで
その後通院しませんでした
※平日で学校があるのに 私が朝に 吉田接骨院へと同行できたのは 当時の小学校では「二部授業」という授業形態がとられていたためで これは生徒数が多くて教室が足りないため、一教室を二学級が使うという方式で 午前と午後に分けて それを一週間ごとに交代して使っていたので たまたま その日の私は 午後授業だったからです・・そんな時代でした
◎読売巨人軍の選手達が驚異の治癒 王も長嶋も
『 昭和40年代の野球アニメ『侍ジャイアンツ』(原作・梶原一騎)で主人公のジャイアンツ投手である番場蛮(ばんば ばん)が足首骨折で吉田整骨院に入院するシーンが登場している
元巨人選手でコーチやスカウトも務めた上田武司氏が その著書である「プロ野球スカウトが教える 一流になる選手 消える選手」(祥伝社黄金文庫)で次のように書いている・・
「背中にデッドボールと食らって少々足に痺れがあったが 大したことは無いと思ったものの 試合後 同じく足を捻った黒江選手と一緒に吉田整骨院に診察を受けに行くよう川上監督から命じられて行ったところ 足が痛くて歩けないほどの黒江選手の施術が済むと・・「黒江の足はもう大丈夫 明日の試合には出られる」と言い 一方私には レントゲン撮影もなく 背中を触っただけで 実は脊髄骨折で そのまま放置しておけば半身不随になるほどの重傷であると診断されて その後 試合復帰まで半年の療養をしたが あのまま試合に出ていたらどうなっていただろうと思うと 背筋が寒くなった
またある年の試合中にデッドボールを受けて病院で診断を受けたら ボール直撃部分が骨折しているだけではなく亀裂骨折も確認されて 安静必要と言われたものの移動して吉田整骨院に行ったら 吉田先生は「治るから、心配するな」と言って患部に親指の第一関節まで入れるので 激痛だったが 治療を終えると「脳内出血はもう止めた」と説明して 次はボールが当たった箇所以外にできていた亀裂骨折も治してくれた
東大や慶大の医師が「治療法を調べてみたが科学的には解明できない」と驚き 新聞の一面に登場したこともあったという 「私には命の恩人 先生がいなければ選手生命が絶たれるどころか 今ごろこの世に存在していなかったかもしれない」
また 文藝春秋Number 掲載の・・「"最強の阪神"を粉砕した陰の男 吉田増蔵の伝説をたずねて」という記事では・・昭和43年9月に王選手が頭部にデッドボールを受けた際に 吉田先生に施術を依頼したら 右手の親指でボールの当たった箇所を根気よくグウッグウッと押さえられてて激痛だったが その晩は湿布をして 翌朝目が覚めたら すぐ立って歩けと言い 湿布をはがすと熱く蒸したバスタオルを四つ折りにして頭を温める それを何回も何回も繰り返す こうして王選手の頭蓋骨陥没は奇跡的に回復した 王選手は事故から数日で復帰し その復帰試合で特大ホームランを打った』( 『 』内は 「blog:将軍様のぼやき」 より引用一部割愛 )
こうして 『吉田増蔵先生のもとには 怪我の場合だけではなく体調管理の指導を受ける目的でも 巨人軍の荒川コーチ、王、長嶋、広岡、山内選手』たちが来ていたそうです その頃の私はまだ吉田整骨院が在る同じ町に住んでいたのでした ( 『 』内は「小林道場 総師範ブログ」より引用一部割愛 )
吉田先生は読売巨人軍のお抱え接骨院となってからは 原則 一般人の診療は一切されなくなりましたが それでも 神にすがる思いで一般の方が来たようです
現在 吉田接骨院は それが在った場所には存在していません
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◎歌手の曽根史郎さんも 住んでいました
東京都 豊島区 椎名町(現 南長崎) の私が住んでいた家から直線距離にして100メートルくらいの所に 歌謡曲「若いお巡りさん」を1956(昭和31)年にヒットさせた頃の曽根史郎 (現 史朗)さんも住んでいました (1930=昭和5年生まれで今年88才)
Wikipediaから
しかし私はそこでお顔を拝見することは無いままに 曽根さんは転居されてしまいました それはヒット曲が出てまもなくのことでした その後NHK紅白歌合戦にも4回連続出場しています
「若いお巡りさん」 作詞:井田誠一 作曲:利根一郎
もしもしベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 夜が更ける 野暮な説教 するんじゃないが ここらは近頃 物騒だ 話のつづきは 明日にしたら そろそろ広場の 灯も消える
もしもしベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 夜が更ける 野暮な説教 するんじゃないが ここらは近頃 物騒だ 話のつづきは 明日にしたら そろそろ広場の 灯も消える
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