終戦直後日本で例外的に許された河野兼光先生の剣道場 !
※ お断り:前回ブログで予告の「野辺かほる、美空ひばり関連のお話」は今回の急な話題挿入によりまして 次回にさせていただきます
その剣道場の名は 「明武館」
存在した場所は 東京都 豊島区 椎名町 (現、南長崎)
右側が明武館の2階の瓦屋根で 道場はこの下1階部分に連なって左側に在った(昭和42年頃)
実は私は子供の頃から この道場の隣に20年間ほど住んでいましたので 今回の居合道の事件に因んで お話します
河野兼光先生は明治29(1896)年 高知県生まれ 昭和43(1968)年9月25日に72歳で亡くなりました
警察官として目白警察署(東京都 豊島区 目白)に勤務しながら昭和12年に 明武館を開きました
その流派は 無双直伝英信流 という居合道 その流祖は江戸時代・永禄年間の人で その後 第7代目が 発展させて 無雙直傳英信流 を生み出し 延宝二(1675)年に第9代目が土佐藩に仕えてから無双直伝英信流は土佐藩で広まったそうです
土佐藩の坂本龍馬は藩内では 小栗流を 江戸に出ては北辰一刀流を修得したとされますが
慶応3(1867)年 京都の近江屋で暗殺された際には帯刀していなかったそうで もし 居合の無双直伝英信流を修得していて 帯刀していたら難を逃れていたかもしれません
河野兼光先生は第19代目だそうですが 実際は居合道と剣道両方を指導されていました
※この稿を書くにあたって色々調べましたら無双直伝英信流も河野兼光先生より前の時代に分派しているようです
GHQに直談判した河野先生
GHQが終戦の年昭和20年末には学校教育での剣道禁止、翌年には町の剣道場でのそれも禁止・・という命令を発しました (柔道なども同様)
「武道禁止令出したGHQに強硬異議申し立てた河野先生」については 先生の死後に 某スポーツ紙がとりあげたことで 私も初めて知った次第で その記事の内容は 殆ど覚えていないのですが ・・・
GHQに直接出向いたのか 文書を送ったのかは 忘れましたが 河野先生は「現在の剣道というものは(GHQが心配するような )人を殺傷するための剣術ではなく 克己して精神を磨くものである」(「 」内は私の想像で恐縮です) ・・というようなことを力説されたのではないでしょうか
とにかく結果として 日本で只一か所 剣道場として開場の許可をとりつけた・・そうです
明武館 寸描
GHQをも説得するほどに威厳に満ちておられた河野先生のお姿は・・ツルツルの禿げ頭で 常に稽古着で 私は 洋服姿は見たことがありませんでした
道場には 5~6人の制服の警察官のグループも竹刀など剣道具を持って 頻繁に稽古に来ていました 当時は その理由が分かりませんでしたが 後年になって 先生が目白警察署に勤務されたことがあるということを知って納得しました
というわけで 私は物心ついた頃から 道場から聞こえてくる竹刀の打ち合いの音が 心地よいBGMとなっていました
道場の音と言えば もう一つ 耳に残っているのが・・
月に三回 ( 一日、十日、二十日・・だったか ? ) 朝に先生が打ち鳴らす大太鼓の音で・・最初の一打と次の二打の間は5秒、そして三打との間は4秒、・・のように 打数が増えるにしたがって段々と間隔が短くなって最後は連打でドドドドド・・・・・となるものでした
今思うに これも精神統一的な意味合いがあるような気がします
道場の隣に私は祖父とも一緒に住んでいましたが その祖父が 年間通して色々な花を栽培していていたので 時々 切り花を何本か束ねたものを 道場に差し上げるために届ける役目を私がしていました その花はいつも奥様に渡していましたが 私の帰り際に・・「お駄賃 (今では死語 ? ) がわりですよ」 と言って鉛筆を3本下さるのでした
こうして先生が建てられた道場は 先生亡き後も昭和48(1973)年に新道場に建て替えられるまで存在していました その後 後継の方がそこで指導を続けられたようですが その道場も移転した結果 現在は一般の住宅が建っています
厳格であった河野先生 今回の居合道の事件をどのように見ておられるのでしょうか ?
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