そして現在 小泉八雲とその妻をモデルにNHKテレビ放送中の連続テレビ小説(朝ドラ)の「ばけばけ」。
それにちなんで今回は古今東西、夫婦の協力で大きなことを成し遂げた事例を少々とりあげます。
ただし、そのほとんどが男性である夫の成果として語られるのですが、実際には、夫と共同(共働)した、あるいは夫を助けた妻があればこそ大きな事が成し遂げられたケースが多い。
有名な”妻”たちとしては、まず冒頭の「花岡青洲の妻」や「山内一豊の妻」があり、”夫を助けると言うより共同”した「キュリー夫人」がいますが、よく知られているだけに、ここでは概略を後記してみます。
上記3人ほどは有名ではないものの”やはり、夫を大きくした妻”たちには・・
◎「小泉せつ(小泉節子)」(1868~1937)

小泉八雲の妻であり、夫であるラフカディオ・ハーン(1850~1904:ギリシャ生まれのイギリス育ち。日本に帰化して小泉八雲)が来日して鳥取県の松江尋常中学に英語教師として滞在中の家に住み込み女中となってそのまま結婚。
夫が日本語をあまり理解できないので、彼女なりの英和辞書のようなものも作るなどして、夫婦の間だけに通じる「ヘルンさん言葉」を編み出して、日本の怪談や伝説を口伝のカタチで伝えて夫の「Kuwaidan(怪談)」などのストーリーの素を作って執筆を助けた。
↑画像はWikipediaより
松下幸之助の妻であり、結婚時、夫である幸之助は電力会社の電気工だったが、工事の改良案を思いついて提案しても会社に採用されずに落胆し、病弱だったこともあって退職して「おしるこ屋でも始めるか」と切り出したところ、むめのは激しく反対して勝手知ったる電気関係の仕事に打ち込むようにと叱咤激励。
覚醒した幸之助は電気器具製造を始め、これが後の松下電器(現、パナソニック)の基となるのだが、当初は資金繰りが厳しかったが、むめの夫人は自分の着物や貴金属類を夫に知られないようにして売却し、おカネの工面をした。
後に「日本民間3大発明」の一つと言われる「二股ソケット」※の生産販売で成功して増やした従業員の面倒をよくみたのもむめのだった。 ※他の二つは「地下足袋」と「亀の子たわし」
もう一つ間接的に貢献したカタチになったのが、むめのの弟である井植歳男を入社させたことで、歳男は病弱だった幸之助の手となり足となって事業拡大に大きく貢献した。(詳細は省略しますが、井植歳男は戦後、会社を辞して三洋電機を創業した)
↓松下電気器具製作所創業時の松下幸之助(後列左)、松下むめの(後列右)、井植歳男(後列中)

カール・ベンツの妻であり、夫が世界初のガソリンエンジン自動車を開発して1886年に特許まで取って販売開始したが2年経過しても低迷していた。
1889年8月のある日、ベルタは夫がまだ就寝中の早朝に、息子二人を起こして3人連れ立って“そっとその3輪自動車を動かして”なんと約100キロ先の実家を目指して走り出した。
100キロというのは意味があり、当時馬車は一日に90キロ走ったからで、これに対抗するためでもあった。
しかし道路地図もなく、田舎道の走行はスムーズにはいかないし、パワーが無いから上り坂では息子たちに押してもらって乗り越えた。
そしてベルタの知見と機転が発揮されたのが・・途中のガソリン補給するにもガソリンスタンドなど当然無いから、どうしたかと言えば・・薬局で石油系の溶剤を購入して燃料にして走行を続けられたことや・・
効きがあまいブレーキパッドには、途中で思いついて革を貼ってもらって改善したこと。
こうして、100キロを12時間で走破して、その日の夕方には見事に実家に到着!
↑画像は「ディスカバリーチャンネル」より
ベルタのこの快挙によって、その後の自動車製造販売にハズミがついたのは言うまでもない。
ただし1900年時点では電気自動車が1/3を占めていた。
ドイツでは、昔にベルタが走破した経路としてマンハイムとプフォルツハイムの間の道路を2008年に「ベルタ・ベンツ メモリアル ルート」としてドイツ観光街道に設定されている。
◎「上山ゆき」
1890(明治23)年に世界最初の蚊取り線香を発明した上山英一郎※の妻である。
(※後の金鳥ブランドの大日本除虫菊株式会社の創業者)
(※後の金鳥ブランドの大日本除虫菊株式会社の創業者)
当初の蚊取り線香は、その形が仏壇などで使われるお線香と同様なものだったため火もちが40分しかなかったので、長もちする方法を夫が考え悩んでいたところ
「ゆき」夫人が、線香を渦巻型にすることを思いつて提案したので、
英栄一郎はこの案に基づいて渦巻型蚊取り線香を1902(明治35)年に誕生させた。
ただし初期の蚊取り線香の断面は丸型で、現在のような長方形ではなかった。
一説には「ゆき夫人は庭でとぐろを巻いている蛇を見つけて、渦巻の形を思いついた」という話が流布されているが、その真偽のほどは分からない。

以下は有名な“妻”たちの概略です
「花岡青洲の妻」
江戸時代の1804年に夫である花岡青洲が、60才の女性の乳がん手術を全身麻酔によって行い成功させたが、そこに至るまでは妻のみならず母や親類の”麻酔の実験台”になるという文字通り「献身」があり、その過程で妻は失明、母は死亡した。
「山内一豊(やまのうちかずとよ)の妻」(1557~1617)
本名「千代」または「まつ」で、後の「見性院=けんしょういん・・夫である山内一豊が欲しがっていた名馬の購入のために自分の懐からお金(持参金ともへそくりとも言われる)を出し、一豊が手に入れたその馬を見た信長は、その馬主にふさわしいようにと一豊への禄高を加増させた。
その他、後に「笠緒文」と呼ばれる“機転をきかした妻の行い”(詳細割愛)が一豊の評価を上げて家康から土佐藩の初代藩主の身分を与えられた。
「マリー・キュリー」(別称キュリー夫人:1867~1934)

夫であるピエール・キュリーとの夫婦共同作業で放射線関連分野へ貢献して夫婦でノーベル物理学賞受賞したり、ラジウムやポロニウムの発見などをした。夫が交通事故で亡くなった後も夫人は放射性物質関連の研究開発を継続してノーベル化学賞も受賞している。
夫婦共同作業の成果と言えば・・
「坂口教子(のりこ)」
「T細胞」の発見により今年2025年のノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文(しもん)氏の妻であり、長年、夫婦で二人三脚に近いカタチで研究・実験を行ってきた結果、夫の受賞を呼び込んだ。
以上は目だった例ですが、世の中には目立たなくとも"良い伴侶"どうしで良い成果を得ていることが、当たり前のようにあるものです。
以上は目だった例ですが、世の中には目立たなくとも"良い伴侶"どうしで良い成果を得ていることが、当たり前のようにあるものです。
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