徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2026年01月

    日頃、私が愛用しているエコバッグ(木綿製)は”お相撲さんが四股を踏んでいる柄”!
    sumou-bag

    しかしながら、正直に申して、私は最近の相撲をあまり観ていない。その一つの理由が・・

    ◎最近の大相撲は”投げ”で勝負が決まるということが少ない!
    私が久しぶりにテレビで観戦して気になったのは、決まり手で多いのが、しっかり四つに組むこと無しの”押し出し””寄り切り””突き出し”で、

    ↓”押し出し”の例 
    (Wikipediaより)
    Oshidashi

    これに対して”四つに組んでから”上手投げ”や” 下手投げ”などの、取り組みが極端に少なすぎると感じたこと。

    ↓”上手投げ”の例 
    (Wikipediaより)
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    試しにこの初場所の”中入り後”の全取り組み数315の中で”投げ”の決まり手数は34

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    つまり1割強しか”投げ”がうたれていない。

    ※ここでは、初場所の中で使われた「上手投げ」 「下手投げ」 「すくい投げ」 「小手投げ」 「上手出し投げ」 「首投げ」 「上手ひねり」を”投げ”として勘定した。

    総じて”押し出し””寄り切り””突き出し”などは勝負が決まるまでの時間は短い(四つに組んだ後にこれらの決まり手で決着という場合は少し時間がかかるが)ということは、

    大相撲の全取り組みの合計時間が昔よりは短縮されていることは間違いなさそうだ。

    その結果、NHKがテレビ中継する大相撲番組は(私は完全には把握していませんが)午後6時までに終了するようになっているようで、

    そうなると昔、テレビのプロレスリング試合中継では必ず番組終了直前になって勝負をつける決まり?になっていたことが連想されて、まさか大相撲も同じなのか・・と思ってしまうが・・

    ↓プロレスの様子 
    (miruhon.netより)
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    昔は、力士どうしが”四つに組み”互いに相手の”まわし”を掴み、しばしどちらも土俵の中央で動きを止めているように見える状態を続けながら、勝負に出るタイミングを探って動き出す・・というように時間がかかる取り組みも多かった。

    極端に長時間同じ態勢をとったままで動かずに膠着状態(約4分以上)になった場合には「水入り」という処置を行うが、これは両力士を一旦離れさせて、力士には文字通り”口に水を入れてすすがせて”からまた元の同じ態勢に戻して、”気合を入れなおさせて”勝負の決着を急がせるということも昔は時々あったが、今はどうだろうか?

    記録が残る中で最長取り組み時間(取り直しでしかも水入りも含んでの総合計)は1951(昭和26)年9月場所で生まれた32分とのこと。その他現在までに20分を超えたものも数回ある。

    とにかく”組んで、投げる”という相撲が少ないのは観客からすれば”手に汗にぎる”ような面白みに欠けると言える。

    以前にも書きましたが、小学生のころの体育の時間に相撲をとった際に私は相手を”投げて勝つ”ことに喜びを感じ、あるいは投げられて負けたとしても充分に相撲をとったという充実感を得ていた経験があるからことさらだ!

    ・・と、ここまで述べたものの、超短時間決着したのに“ある意味でこれも面白い”試合だったので私の記憶に強く残っているのが・・

    1960(昭和35)年ごろ?のことだったかに、当時大関の松登(まつのぼり)と横綱の栃錦(とちにしき)の対戦で、立ち合いと同時に松登が栃錦に対して体全体をドーンとぶつけるだけの”ぶちかまし”をして、

    アッという間に栃錦は土俵外に飛ばされて勝負が決まったことがあった。その間は2秒ほど! 当時の松登は”ぶちかまし”が得意だったとは言え、これほどキレイに決まったのは他に知らない。

    ↓松登(左
    :Wikipediaより)と栃錦(日本相撲協会HPより)
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    しかし、相撲の決まり手の中には他にも超短時間決着する”叩きこみ”があり、これで相手の両手をバタンと地面につけさせてしまう手もあるが、その中でも” 立ち合いとほぼ同時の叩きこみは、まともなぶつかり合いではないだけにあまり面白くはない。

    ◎混同認識の恐れ!「日本相撲協会」と「日本相撲連盟」
    私は今まで知らなかったことなのですが、相撲界には「日本相撲協会」と「日本相撲連盟」という2つの大きな組織があり、おおまかに言えば・・

    「日本相撲協会」はプロの力士による相撲興行とその関連業務を行う。

    「日本相撲連盟」はアマチュアの相撲を奨励し、試合開催を支援する。

    ※今回のブログ文章中の「大相撲」という表記は「日本相撲協会」主催の興行相撲のことです。

    ◎”大相撲”は神事の形式をとり、男だけで行うことを”伝統”とすることを選んだ!
    近年は男女機会均等が叫ばれる流れの中で、”大相撲”が”土俵に女性は上がってはならない”とする「女人禁制」が問題視されているが、それは見当違い、検討違いと言える。

    何故なら、現在の日本相撲協会が主催する大相撲は、その”発生起源を神事に結び付けるカタチを採用しているので、神事における女人禁制の伝統も自然に付帯することとなる。ちなみに仏教では「女人禁制」は無いのだそうだが。

    そして、人間の男女間には肉体的、生理的相違が厳然として存在する以上、いくら鍛錬を重ねても差異を生じるから、男女は文字通り”同じ土俵には立てない”ことになる。

    しかし、(後述するように)女性による相撲も古代から例があり、それが江戸時代からは興行として成り立ち、昭和の戦後まで続いたが結局は”興行としての女相撲”は消滅してその伝統は途絶えた。

    ということは、相撲興行とは言え伝統を重んじる日本相撲協会の方針に女相撲はそぐわない。

    ここで女相撲の歴史を少々・・

    ◎女相撲の発生から興行形態の隆盛と消滅、その後
    古くは日本書紀に、雄略天皇が(469年頃)女官たちに褌だけの裸のままで「女相撲」をとらせたという記述あり。

    その後室町時代には”尼僧の力士”による相撲も登場している。

    このように女相撲は神事としてではなく、男性側特有の欲望に基づいて女性の取り組み姿を鑑賞するための相撲が求められ、この傾向が後の時代にも続いて・・

    江戸時代中期には大衆による人気が高まり、興行としても成り立つようになり、裸でまわしを着けただけの女力士どうしの取り組みだけでなく、女力士と盲人の男の取り組みも出現。

    こうして女相撲興行の人気は昭和時代の戦争前まで続いたが終戦直後になると急激に衰退して、

    遂に“興行としての女相撲”は消滅。

    ↓1948(昭和23)年に消滅した最後の女相撲興行
    「サン写真新聞」の昭和23年2月8日号の記事によれば、『戦前には女相撲興行主は東北に5つ、関西に1つ存在して、女力士の総数は約300名になり、各地に巡業して絶大な人気を博していたが、

    戦後は急速に衰微して昭和23年初頭には遂に1つの興行体を残すのみとなった』とあるが、その後いつ消滅したかは不明。

    下の画像は、その最後に残った女相撲興行が「女角力劇団」と名乗って、宮城県名取市の「ゆりあげ港」で行われた際のもので、相撲だけでなく浪曲劇(名月赤城山など)の上演も併せ持って行われていた。

    (2枚とも「サン写真新聞」昭和23年2月8日号より)
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    しかし、プロの女性力士が消滅したとはいえ、やはり”女性の、女性による、女性のための相撲”が望まれて、アマチュアとして相撲をとる女性も増え、

    1946(昭和21)年に発足した日本相撲連盟は、広く相撲の普及発展を促す目的に沿って、アマチュア女性の相撲も支援開始。

    なお、初期の女性相撲では、肌着に”まわし”姿だったが、その後はレオタードまたは無地水着の着用に“まわし”締めの格好となった。

    そして1996(平成8)年に日本女子相撲連盟が発足。当時は女性の相撲を“新相撲”とも称した。

    現在では、小学生女子、中学生女子、高校生女子の大会なども盛んに行われているが、今でも”女子”相撲と称しているのは、この低年齢層の女子の参加も意識したものだろうか。

    今や女子相撲はむしろ日本以外の方が盛んであるとも言われ、2001年には国際相撲連盟主催の第1回世界女子相撲選手権大会が開催され、以後毎年行われているほど。

    ↓第13回国際女子相撲選抜 堺大会で
    (日本女子相撲連盟のHPより)
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    なお、日本各地に伝統的に存続する神事(五穀豊穣祈願、農作物作況占いなど)としての相撲がある中で、”雨乞い”神事として一部地方で女相撲が行われている例もある。
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    また、大相撲では相撲そのものの他にも、土俵作りに特別に栽培された藁を使っての特殊な作製や力士の化粧まわしの手織り製作ができる会社は、現在ではそれぞれ1社のみとなっていて、技術の後継者不足から今後 伝統が受け継がれるのか心配されているとのこと。
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    余談ですが、”投げ”を得意とした力士は少なからずいる中でも私の印象に残っているのは横綱の千代の富士で、対戦相手の重い力士を”投げ”るためにはまわしを掴む力、すなわち握力が必要ゆえに、彼の握力は(私が過去にテレビで知った値としては)120数キログラムもあったとされたものの、最近のネット上では92キロという数字も見えるがどちらが本当か?

    とにかく力士の握力は凄い! 私も昔は握力60キロと 男性平均よりは上で、自慢気味だったが・・
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    以下、”大相撲と女性問題”の参考として・・

    議論を呼ぶ発端は、平成2年 海部内閣での内閣官房長森山真弓氏(女性)が内閣総理大臣杯の授与を希望したが、当時の理事長の二子山親方は伝統を理由に断り、

    その後も太田房江大阪府知事も土俵上にての某賞の授与が断られ、

    ある地方巡業では宝塚市長の中川智子氏が挨拶を土俵上からと希望したが土俵脇に設置されたお立ち台で行われたことがあった。

    さらに大きな問題となったのが、2018年の舞鶴市での地方巡業時に多々見市長が挨拶途中で体調不良で倒れた際に、女性が土俵に上がって市長への心臓マッサージを始めると、「女性は土俵から退去してください」という場内アナウンスが流れて、「人命より伝統が大事なのか」と大きな問題になり、後刻 相撲協会は謝罪をしたが・・

    そして昨2025年の大相撲九州場所千秋楽の内閣総理大臣杯の授与には高市首相ではなく、代理の首相補佐官が行ったが、これは高市首相が「相撲文化というものに対しては、伝統文化を大切にしたいという意向を持っている」からだそうだが、今後の政府と日本相撲協会の正式な対応は明確になっていない。

    日本相撲協会の八角理事長は2018年に、女性を土俵に上げない理由として下記内容の談話を発表している。
    (以下の【】内は「nippon.com」の滝口隆司氏の記事より)

    【 「歴代の理事長や理事は、次の3つの理由を挙げてきました。
    第一に相撲はもともと神事を起源としていること、
    第二に大相撲の伝統文化を守りたいこと、
    第三に大相撲の土俵は力士らにとっては男が上がる神聖な戦いの場、鍛錬の場であること、
    この3つです。

    第一の『神事』という言葉は神道を思い起こさせます。そのため、『協会は女性を不浄とみていた神道の昔の考え方を女人禁制の根拠としている』といった解釈が語られることがありますが、これは誤解であります。

    昭和53年当時の伊勢ノ海理事(元 柏戸)は、『けっして女性差別ではありません。そう受け取られているとしたら大変な誤解です。土俵は力士にとって神聖な闘いの場、鍛錬の場。力士は裸にまわしを締めて土俵に上がる。そういう大相撲の力士には男しかなれない。大相撲の土俵には男しか上がることがなかった。そうした大相撲の伝統を守りたいのです』」と説明いたしました」 】

    先日亡くなった内館牧子氏は子供の頃より相撲ファンだったそうで、東北大学大学院で相撲について研究し、氏の修士論文を基にした著書『女はなぜ土俵にあがれないのか』を出すなどして横綱審議委員会委員も務めた人。

    その氏の結論的見解が、”土俵には女性が上がれないことを是として、神事としての大相撲の歴史と伝統の領域に、一般論としての男女共同参画の観点を持ち込む風潮に異議を唱えた。

    ↓故 内館牧子氏
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    また、角界への取材歴約40年の相撲ジャーナリスト・横野レイコ氏はこう語る。

    【歌舞伎で女性が舞台に立てないのと同じように、相撲において土俵は『神が宿る聖域』として男たちの手で守られてきました。それは男尊女卑とは別の話です。賞を渡す、あいさつをするといった外部の事情によって、一方的に歴史と伝統を崩すよう求めるのは、暴力的な感じがします。もし高市首相に内閣総理大臣杯を手渡したい意向があるなら、土俵脇に表彰台を作り、優勝力士が歩み寄って受け取ればいいのではないかと思います】
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    今、大相撲初場所が開催中でもあり、今回も相撲についての続きを・・

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    私が最近知って意外だったのが・・

    ◎天保水滸伝の二人の親分両人とも力士を目指していたことがある!
    小説や講談で有名な「天保水滸伝」は江戸時代後期に現在の千葉県の北東部に実在した二人の侠客、飯岡(の)助五郎(いいおかのすけごろう)と笹川繁蔵(ささがわしげぞう)の勢力闘争を題材にしたものだが・・

    意外にもこの二人は双方とも元は力士を目指して相撲部屋に入門して修行していた経験があることから、最初は仲が良かったが、その後両者の勢力がぶつかるようになり、1844(天保15)年に起こった「大利根河原の決闘」では笹川繁蔵が勝ったカタチだったが、その後も抗争が続き、結局は笹川繁蔵は暗殺されてその一家も消滅した。

    「大利根河原の決闘」の図(芳虎画、船橋市西図書館蔵:千葉県香取郡東庄町のHPより)
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    一方、実在人物の話ではないが戯曲「一本刀土俵入り(いっぽんがたなどひょういり)」は歌舞伎、大衆演劇、映画、ドラマになって人気があり、その主人公である駒形茂兵衛は博徒だが、彼も元は力士見習いだった。

    ↓映画版「一本刀土俵入」のポスター(一般社団法人日本映画製作者連盟の画像より)
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    さて、相撲に関連してよく使われる言葉、「国技」と「伝統」について・・

    ※以下文章中で”日本相撲協会主催の大相撲”を短く”大相撲”と表記します。

    ◎「国技」の決まりは無い!
    法律や政令での「国技」という言葉も規定も存在せず、ただ一般に流布された呼称としての「国技」があるのであって、つまり「国技は通称」という存在。

    したがって大相撲も国技であるとは公式には表明できないから・・

    昨2025年暮れ、日本相撲協会は財団として100周年を迎えた広告として、同協会の八角理事長の長文の挨拶が新聞に掲載されたが、その文中には「大相撲の伝統」や「相撲道」という言葉が使われているものの「国技」という言葉は一つも無い。

    もし大相撲が”国技”という言葉をつかったならば問題が生じる。それは他にも”国技”と言えるとされるものに「剣道」「柔道」「弓道」などがあって、しかもそれらには(後述する問題点である)女性参加が普通になっているから。

    ◎「伝統」とは?
    ”伝統”とは、ある技や所作が一定の形式となり、その当事者によって継承され存続すると同時に、それを共感して受け入れる人たちも存続しなければ成立しない。

    この「伝統」の解釈に基づいて“大相撲”をみてみると、確かに”大相撲なりの伝統”というものはある。ただし大昔からの相撲の形態が多様にある中で、取捨選択された結果を伝統として継承していることになる。

    例えば・・

    相撲の始まりとされるのは古事記の中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者である建御雷神(たけみかずちのかみ)と大国主命(おおくにぬしのみこと)の息子である建御名方神(たけみなかたのかみ)が戦い、後者が負け、その際の傷がもとで亡くなったと記され、

    日本書紀の中では、垂仁天皇が力自慢の二人である当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿彌(のみのすくね)を戦わせた結果、後者が前者の骨まで砕くほど叩きのめして死に至らしめたと記されている。

    当麻蹴速と組み合う野見宿禰(右) (月岡芳年 作『芳年武者无類』より)
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    しかし現在の大相撲は”相手の死を招くほどの決着”のカタチは継承しなかったかわりに“決まり手”による決着方法をとってきた。

    また、前期の垂仁天皇が”力自慢の二人の取り組み”を観たという事例は”展覧試合”の始まりとされ、奈良時代以降にもこれが続いた記録があることから、現代の大相撲も展覧試合を設けて伝統としている。

    江戸時代には庶民にも相撲人気が出て支持され、プロの力士が登場、収益を目的の興行形態が生まれ、これを継承して現在の大相撲があるが、

    ただし、江戸時代の相撲興行にあたっては”寺社への寄進”のためという「勧進相撲」とうたっていたのだが、現在の大相撲は勧進相撲ではない代わりに前出の”古代の神の関係した戦い”につなげて神事とし、

    また、古くから神に農作物の豊作を祈願するための相撲を行う行事も行われ、例えば平安時代初期には宮中で支持されて「相撲節会(すもうせちえ)」と言われる行事として長年続けられていたこと、

    あるいは農作物の作況を占うための相撲を行う行事もあり、現在でもこれが継承されて神社で行われる事例もあることなどの神事的な意味合いも継承して、

    現在の大相撲においても大相撲場所開始前日に行う「土俵開き(土俵祭)」と称した行事を行い、本場所中の安全祈願、相撲興行の成功祈願とともに農作物の豊作祈願のために、土俵上中央の穴に米、昆布、塩などを入れて神への捧げものとし、また御神酒を添えて神への感謝をあらわすという神事にしている。

    「土俵開き」の様子 (サンケイスポーツより)
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    ◎板垣退助が大相撲のために取捨選択したもの!
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    板垣退助(1837~1919=大正8年)は尊王主義でありながら自由民権運動を推進するなど多様な改革を行ったが、改革に付きものの反対勢力も多く、生涯で6度の暗殺未遂に会い、中でも有名なのは岐阜での事件の際「板垣死すとも自由は死せず!」という言葉を発したことは有名。

    その板垣は大の相撲好きであり、大相撲に対しても良い伝統を残し将来への存続のため、言わば今で言う”サステナブル”な大相撲であるための改革に貢献したが、これも取捨選択の行為。

    例えば、江戸時代中期から江戸の両国にある回向院という寺の境内で勧進相撲として始まり、現在の大相撲の基となった興行は屋外のため天候に左右される欠点があったが、明治時代になりこの状態を打開するため、及び海外に向けても大相撲の安定した興業の体裁を整えるために相撲用の屋内施設が求められ、板垣はその建設のために尽力した結果、初代”両国国技館”が誕生した。

    また、江戸時代から一部で行われていた”八百長相撲”の撲滅にも注力した。
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    以上、太古からの相撲の歴史の中で多様な形態が生まれた中から取捨選択されて今に至る”大相撲”の姿ですが、もう一つの大事な件である”大相撲における女人禁制と女相撲”については、長くなるので次回の「相撲と私(3)」に続けます。

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    蛇足ながら、土佐藩出身の板垣退助は剣道居合術と柔術の達人でもあったが、居合の流派は土佐の「無双直伝英信流」だったとのことで、そうであれば以前に私のブログで紹介した「マッカーサーの武道禁止令でも唯一閉鎖しなかった剣道場」(https://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/4443891.html)の道場主であった河野兼光氏も「無双直伝英信流」だったので、板垣退助は河野氏の先輩にあたることになります。
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    昨2025年末の12月17日、脚本家であり「横綱審議委員会委員」でもあった内館牧子氏が死去され、

    その11日後の12月28日の新聞には(この日)「公益財団法人 日本相撲協会」が財団設立100周年を迎えたと広告された。

    ↓内館牧子氏 / 日本相撲協会」財団設立100周年の新聞広告(部分)
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    そして1月11日から25日まで大相撲初場所が開催。

    ・・というわけで、今回は相撲関連を・・


    ◎小学2年時に国技館で観た相撲
    私が小学校2年生の時、それは相撲界では横綱が4人、第40代の東富士、41代の千代の山、42代の鏡里、43代の吉葉山の時代だった。

    また 当時の小学生でも、昔の有名な力士「雷電」「谷風」「明石志賀之助」たちの名を知っている子は少なからずいた。

    そう言えば、小学校の体育の時間に生徒同士で相撲をとらされたことを思い出した。

    これらの経験をしたというのも、今よりは相撲人気があった時代だったからかも知れない。

    その当時、私は東京・豊島区に住んでいたが、ある日、祖父母と私の弟の4人で相撲を観に出かけた。

    その地は当時の私の認識(メンタルマップ)には無かったが、後年にそれは東京都台東区蔵前に在った国技館だったと知った。

    国技館の中では、いわゆる「枡席(ますせき)」という、大人4人が正座または胡坐で座れる広さの席に着いた。(調べたら現在の相撲枡席の広さは1.3 X 1.3メートルで昔も同じだったか?)

    これも後年に知ったことが、”枡席に座れた理由”は、当時私の父親が勤めていた会社がその枡席の年間貸し切り契約で確保していたものを、その中の一日だけその席を利用できるように父親が会社に申請して許可されていたからなのであった。

    肝心な相撲観戦はと言えば、大人はともかく小学生低学年の私と弟は、あまり真剣には観ていなかった。ただ、千代の山は角ばった顔でしかもお腹が出ていないこと、対照的に鏡里は見事に丸く大きく綺麗に(“だらん”とではなく)突き出たお腹が印象に残っている。(以後私は鏡里以上に見事なお腹は見たことがない)

    ↓千代の山(左) と 鏡里(右)
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    観戦そのものより楽しみだったのは、途中で枡席に運び込まれる弁当やお菓子で、特にお菓子はあられやせんべい類が多く、それが相撲関連の図柄をあしらったデザインの紙箱や箱型缶に詰められていて、さらにそれらがまた大きな紙袋にまとめて入れられて届けられるので、その袋を開けるのはまるで”福袋”の感だった。

    ↓70年前のその箱缶はモノ入れとして今でもまだ私が使用中
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    (寸法19X13X4センチの箱缶の蓋面には「國技」の文字と「天下泰平と書かれた軍配」の絵)

    なお、この箱缶の横面には「浅草仲見世 評判堂 製」とあり、そうであればその中身は(私の記憶にはないが)同店が元祖である「げんこつあられ」だったはず。
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    ↑元祖「げんこつあられ」 ↓店主が手に持っているのが「げんこつあられ」
    (両画像とも「東京新聞」web版より)

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    (ただし、同店は職人不足とコロナ禍で2020年に閉店して135年の歴史に幕を閉じている)

    ◎現在の国技館は3代目
    小学生の私はもう1回 蔵前国技館で相撲観戦しているがこの時は父と一緒だった。実はこの蔵前国技館”は二代目であって、現在は三代目。その歴史は・・

    一代目: 「両国国技館」=存在地:東京・墨田区、1909(明治42)年開館~(相撲興行用途としては)1946(昭和21)年
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    その後はGHQに接収されて「メモリアルホール」とされ、返還後は「国際スタジアム」に売却、さらに日本大学に売却されて「日大講堂」として使われてたが、多くは歌手のライブやプロレス会場に使用された。

    二代目: 「蔵前国技館」=存在地:東京・台東(たいとう)区、仮設で1950(昭和25)年、正式開館は1954(昭和29)年~1984(昭和59)年閉館
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    三代目: 「両国国技館」=存在地:東京・墨田区、1985(昭和60)年~現在
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    ◎現在の国技館の住所は一瞬勘違いする?
    さて現在の国技館の詳しい住所は、東京都墨田区横網1丁目3番28号ですが・・

    町名の横網(よこあみ)を横綱(よこづな)と読み間違えた方も多いのでは?

    私も35年ほど前に、ある用事でこの国技館近くを訪ねた際に、付近にある住居表示のプレートに「横網O丁目O-O」と表記されているのを見て思わず、「横綱(よこづな)とはさすが国技館にちなんだ町名だな!」とその時は思っていたのですが、後日それは誤りであり横網(よこあみ)と知って、ちょっとがっかりしたものです。

    こうなると、「横網」という町名の由来を知りたくなって、ちょいと調べたら、"江戸時代初期のこの地には海苔を採るための網を干す場があったので、江戸中期には「南本所横網町」と呼ばれていたことからきた名前"という説があるとのこと。
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    相撲と私(2)に続く
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    明けましておめでとうございます 

    本年も皆様が元気におすごしなされますよう お祈りいたします 
                           

    さて今年は午年(うまどし)ということで・・

    「ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露、呼べば答えてめんこいぞ オーラ 掛けて行こうよ丘の道 ハイド ハイドウ 丘の道」という歌詞で始まる童謡「めんこい子うま」は・・

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    元は映画「馬」(監督:山本嘉次郎、主演:高峰秀子)の主題歌として昭和15年に、作詞:サトウハチロー、作曲:仁木他喜雄で作られたのですが、どういうわけか使われず、代りに、作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男による曲が使われた。

    ↓映画「馬」の高峰秀子(当時16才)
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    しかし、この映画は山本監督が”岩手県のある 軍用の馬のせり市”の様子をヒントにして映画にすることを思いたち、それを実現するために ”陸軍省による映画製作指示”を受けたカタチにして作られたものなので、前出の二つの主題歌?は両方とも”陸軍省指定国民歌謡”として認定された。

    サトウハチロー作詞の歌は5番まであったが、戦後になって戦時色強い3番と5番は抜いて新たな歌詞が加えられて全4番になった。

    映画「馬」のモデルとなった馬は、岩手県九戸郡のある農家の農耕馬だったが軍用馬として買い取られて「勝山号」と名付けられ、戦場で負傷しながらも活躍したので戦地から送還されて明治神宮の御神馬となりました。

    この映画の監督は山本嘉次郎となっていますが、山本は当時、複数の映画や脚本を抱えていて多忙を極めていたので、この”馬”の実際の撮影や演出の(少なくとも)半分以上は、助監督の黒澤明が代行したので、この映画が黒澤のデビュー作とも言われています。

    そして、この映画の三年かけた撮影の間に、高峰秀子と黒澤明は恋人関係になったとされるが、高峰の義母(養母)らの反対工作で、解消されてしまったという話はよく聞くものの、後年に高峰は“そんな二人の関係は無かった”と否定していますが、これは聡明な高峰が関係各人への配慮をした言葉ともとれます。
    Hideko_Takamine

    ※映画「馬」はモノクロだが、最近カラー化して見やすくなったYouTube 動画でUPされています。(2時間8分)   →  馬  [カラー化 映画 ] https://www.youtube.com/watch?v=55NdsFm8BYI
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    ・・というわけで午年の今年もよろしくお願いいたします !
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