徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2025年11月

    (文中、敬称略します)
    ◎岡田嘉子(おかだよしこ:元人気女優)の声を日本向けモスクワ放送で聴いていたことになる私

    私は中学、高校生時代に、短波放送が聴けるトランジスタラジオや自作の短波専用受信機(真空管式:高1中2型)でアマチュア無線の傍受や「日本短波放送(現ラジオNIKKEI)」そして外国からの日本向け放送をよく聴いていた。

    外国語は苦手なので、おのずと日本向けの日本語放送、とりわけ近隣国からの明瞭に聴こえる局の電波を拾うことになるから「モスクワ放送(現「ロシアの声」)」と「北京放送」が多かった。

    これらは1日あたり数時間の放送で、放送開始時には必ずソ連や中国の国歌が流れ、その後に女性や男性の日本語によるナレーションが始まり、ニュースや民族音楽などが流されたが、露骨なプロパガンダのようなものは無かった。

    私が最近になって知ったのは1947年以降のモスクワ放送の日本語アナウンサーの女性は二人いて、その内の一人があの岡田嘉子だったということ。

    そうすると私が1960年代に聴いていたモスクワ放送の女性の声の半分は岡田嘉子だったようで、どうりでキレイな日本語だった。

    岡田嘉子(1902=明治35年~1992=平成4年)は戦前、舞台女優から映画へ進出して大女優の名声を得ていて一時は女優人気投票で1位だった。
    ↓岡田嘉子
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    しかし、スキャンダル事件を起こして所属していた日活を解雇され、自分で演劇一座を立ち上げて地方巡業し、その後1930(昭和5)年に「大衆キネマプロダクション」という映画会社を作り、千葉県我孫子市の手賀沼を見下ろす丘の上に撮影所を建設して、1年数カ月の間にトーキー映画を数本製作したが(事情詳細は省略しますが)廃業して、今度は松竹に入社した。しかしその頃には往年の華やかさにやや欠けるようになっていたところ、

    日中戦争が始まり、出演作品にも軍国主義の影響を受け始めたので、日本に嫌気がさしていたことに加えて、演劇レベルが高い評判もあったソ連で学ぼうという思いもあって1938(昭和13)年にプロレタリア演出家であり恋人の杉本良吉と共に樺太から国境線を超えてソ連に向かった。

    しかし二人はソ連当局にスパイ容疑で捕まり、引き離されて杉本は翌年に銃殺処刑され、岡田は1947年まで強制収容所にて労役その他(1939年のノモンハン事件の際の拡声器による日本軍への降伏勧告の音声は岡田の声だったのではないかと言われている)を強いられた。

    そして解放後の1947年からモスクワ放送の日本向けアナウンサーとなって少なくとも1970年代初期まで続けていた。・・この間の1960年代に私は“モスクワ放送の電波に乗った岡田嘉子の声”を聴いていたことになることを、今になって知ったという次第。

    ↓1970年頃、モスクワ放送スタジオで日本語原稿を読む岡田嘉子
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    (↑写真は「東京新聞」より)

    岡田は1972(昭和47)年に一時帰国し、日本の舞台や映画に出演したが、その最初の仕事が山田洋次監督の映画「男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け」の中で、大きな旅館の女将としての出演だった。

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    この映画には宇野重吉も”ある高名な日本画家”に扮して出演しているが、宇野は共産党員でもあった人だから、ソ連という社会主義国に長年 生活してきた岡田嘉子が帰国した直後から何かと支援していたこと、そして日頃から共産党支持を公表している山田洋次監督、この二人と”岡田嘉子の起用”には深い関係があるように思われる。

    岡田嘉子(左)  と宇野重吉 (映画「男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け」の1シーン
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    またこの映画には、”宇野重吉が創立者の一人であった「劇団民藝」”の団員あるいは元団員だった大滝秀次、佐野浅夫、(この映画シリーズ定番役の)下条正巳、三崎千恵子らが出演している。

    もう一つ繋がりを感じること、それは、(後述しますが、この映画の舞台となった)龍野市が生んだ有名人の一人である三木清(1897=明治30年~1945=昭和20年)の存在で、三木清は左派の哲学者で、一時は共産党へ資金援助もしたことあり、戦中に治安維持法違反で逮捕投獄されて獄死した。著書多数の中でも「人生論ノート」はロングセラー。

    ある評論家(名前を失念)はこの映画を評して、(私の記憶による表現が正確ではないかもしれないが)「観る者を馬鹿にするような内容」というようなことを新聞のコラム欄に発表されていたことがあり、”どの点がどう気に入らないのか”が私にはよくわからなかったので気になるところ。

    私はと言えば、この映画を最近テレビ放映版でたまたま観た際に岡田嘉子が出演していることを知って”ここで伝説の女優が見られた”ことに、ちょっとした感動をおぼえたのだった。

    しかし岡田は、自分の安住の地はソ連であるとして、日本滞在10数年たった1986年に離日し、その6年後の1992年(ソ連崩壊でロシアとなった翌年)にモスクワで死去した。

    ※映画「男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け」への私の思い入れ!
    この映画では、葛飾柴又以外の舞台となったのが兵庫県龍野市(現、たつの市)。

    私はその地を訪れたことがあり、今調べたらこの映画が公開されたのが1976(昭和51)年なので、その2年後の1978年のことだった。(私の当時の住まいからクルマで70分くらいの地だった)

    たつの市は姫路市の西隣に位置し、龍野城の城下町だったということで風情あり、「播磨の小京都」と言われている。
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    (↑上画像はたつの市HPより/下画像はyoutube「重伝建を巡る油屋ヒマンニャム」より引用)

    たつの市を訪れると記念碑や案内パンフレットで必ず目にする、この地出身の有名人には、前出の三木清の他に同姓の詩人「三木露風」(1889=明治22年~1964=昭和39年)がいて・・

    童謡「赤とんぼ」を作詞したことで知られる。(作曲は山田耕作)

    歌ってみれば・・「ゆうやーけ こやけえの あかとーんーぼー ~」・・そうです! 龍野市を舞台にした「男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け」という題名の由来がピンとくる! ちなみにこの地には国民宿舎「赤とんぼ荘」もあるが(コロナ禍以降)現在営業休止中。

    また、たつの市は全国的に有名なそうめん「揖保乃糸」の生産地でもあり薄口しょうゆの代表的メーカー「ヒガシマル醤油(株)」の本社工場はじめとするいくつかの醤油会社があり、私が訪れた時もその一帯は町中に醤油の香りが漂っていたし、「しょうゆ饅頭」を売る店もあった。

    ↓「揖保乃糸」
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     ↓ ヒガシマル醤油「うすくち龍野醤油資料館」(レンガ建物)
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    (↑画像はyoutube「重伝建を巡る油屋ヒマンニャム」より引用)

    ・・というわけで、「男はつらいよ寅次郎夕焼け小焼け」の映画を観ながら、龍野の風物を大いに懐かしんだ次第。

    ◎正岡子規は”野球”の命名者ではなかった
    野球好きでも有名だった俳人:正岡子規が野球をして楽しんだのみならず、英語の野球用語を訳して「打者」「走者」「四球」「死球」などの現在に至るまで使われている言葉を作ったという話はよく知られている。

    ↓正岡子規:右はベースボール姿 (Wikipediaより)
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    そこで、ベースボールという言葉も子規が「野球」と訳した・・と流布されている話を私も信じていたところ・・

    つい最近の新聞やネット上で、この”野球命名説”は完全に間違いであることを知りました。

    日本の「野球」の命名者は中馬庚(ちゅうま かのえ)↓であるのだそうだ。
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    中馬は明治・大正時代の教育者で、学生野球育ての親とされる。旧制一高のベースボール部でプレーし、指導者としても活躍。1894(明治27)年に「ベースボール」を「野球」と訳して、これが日本初の呼称とされる。

    一方、正岡子規は、1890(明治23)年に発表したある文集では、自分の名前を、幼名時の「升(のぼる)」をもじって「野球」と書き、「のぼーる」と読み仮名を付けているので、後にこれが誤解を生んだとされる。

    ともかく野球の発展に貢献した中馬庚と正岡子規は二人とも野球殿堂入りしているとのこと。

    ◎辻本清美(国会議員)は世界一周船旅などのピースボート設立人の一人
    辻本清美(1960=昭和35年生まれ)は現在、立憲民主党の参議院議員だが過去の所属政党は社会民主党をはじめ多数。しかし政治家としての主な主張は一貫していて”天皇や皇族の存在を否定はしないが、これに関する憲法第1条から8条までを廃止するべき”というもの。過去には”秘書給与詐欺事件”で有罪となったこともある。
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    そんな辻本だが、「国際交流NPO法人ピースボート」の設立人の一人でもあることを私はつい最近まで知らなかった。
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    antarctic

    2012年6月17日の朝日新聞に掲載された”辻本へのインタビュー記事”によれば・・

    『早稲田大学生だった1983年に同志と「みんなが主役となって船を出そう」というコンセプトで「ピースボート」を立ち上げた。

    その動機となったのは、中学生の時に読んだ、小田実(おだまこと)著「何でも見てやろう」の精神を具体的な形にしてみようという思いだった。

    私の友人に、ご夫婦でピースボートのクルージングに2回も参加されている方がいますが、その旅の経験談をうかがうと、訪問先は定番の観光地だけではない所も多く、まさに「何でも見てやろう」方針が実践されている。

    ちなみにピースボートの今後の予定の一つは・・

    『横浜発着106日間 2028年12月14日~2029年3月29日』
    横浜 → アピア(サモア)→ パペーテ(タヒチ) → イースター島(チリ)→ バルパライソ(チリ)→ プンタアレナス(チリ)→ 南極遊覧 → ウシュアイア(アルゼンチン)→ プエルトマドリン(アルゼンチン)→ ブエノスアイレス(アルゼンチン)→ モンテビデオ(ウルグアイ)→ リオデジャネイロ(ブラジル)→ ウォルビスベイ(ナミビア)→ ケープタウン(南アフリカ)→ ポートエリザベス(南アフリカ) → ポートルイス(モーリシャス)→ ペナン島(マレーシア)→ シンガポール→ ダナン(ベトナム)→ 基隆(台湾)→ 横浜

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    有名な人の意外な話、また次回に続けます!
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    前回は”青木繁と福田蘭堂と石橋エータローの関係”、グレタ・ガルボ、イングリッド・バーグマン、石井四郎軍医についてのあまり知られていないと思われる話
    ( https://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/28793420.html )でしたが、
    今回も続いて、”ある人たちに関して、私が「へー、そうだったのか」と思ったこと”のいくつかです。

    ケネディは上杉鷹山(うえすぎようざん)を尊敬していた!
    アメリカ合衆国の第35代大統領だったジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(JFK=1917~1963年)。
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    氏は来日した際に、米沢藩(現在の山形県南部)の藩主:上杉鷹山(1751~1822年)を尊敬していると発言したことは私も知っていたのですが・・

    ↓上杉鷹山
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    有名な”大統領就任演説”の中で、これまたよく知られている発言部分が鷹山の施政方針を範としていたことは知りませんでした。

    そのケネディ演説の部分とは・・

    「アメリカ国民の皆さん、国があなたに何をするかを問うのではなく、あなたが国に何ができるかを自問してください。」

    「世界の市民の皆さん、アメリカがあなた方に何をするかではなく、私たちが一緒になって、共に人類の自由のために何ができるかを問うてください。」

    では上杉鷹山が行った数ある優れた施策※の中で、ケネディが範としたのは・・

    財政困窮状態の藩政を任された鷹山が見事に立ち直らせた施策の根本的方針を示したもの。
    それは次の”3助”・・

    ・自ら助ける、「自助」

    ・近隣社会が互いに助け合う、「互助」

    ・藩政府が手を施す、「扶助」

    これの自覚をもって武士も領民も実践した。

    鷹山は「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という古代中国の諺も唱えていた。

    ※上杉鷹山の施策は同じ米沢藩で鷹山より約200年前に家老だった直江兼続(なおえかねつぐ)の施策
    を受け継いだものもいくつかある。

    余禄1:ケネディ大統領暗殺は1963年11月22日(日本時間23日)で、この日は日米間で初の「宇宙中継(後年に「衛星中継」と称するようになった) 」の映像が流されたのだが、その内容は大統領狙撃事件のニュースとなってしまった。
    当時高校生だった私はこの勤労感謝の日の朝に起床するやいなや突然の事件報道に驚いたことをハッキリ覚えている。

    余禄2:アメリカの大統領は過去に4人(リンカーン、ガーフィールド、マッキンリー、ケネディ)暗殺されているが、リンカーンとケネディの暗殺時には二人とも副大統領はジョンソンだったので、リンカーンもケネディも後継者としてジョンソン大統領が誕生している。

    ◎マッカーサー元帥は乃木希典(まれすけ)将軍を尊敬していた

    ↓マッカーサー元帥 / 乃木希典将軍
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    終戦後の日本を占領・統治する連合国軍最高司令官となったダグラス・マッカーサー(1880~1964年)元帥は、日本へ到着して間もない時期に、東京の旧乃木希典邸(今も港区赤坂に現存)に出向いて、庭に一本のアメリカハナミズキの木を植樹した。

    ↓アメリカハナミズキの木(後ろは旧乃木邸)とその説明板
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    マッカーサー元帥のとったこの行動の理由は、日露戦争時にアメリカから派遣された”軍事オブザーバー(観察官)”※の一人だった父親であるアーサー・マッカーサー・ジュニアから、日露戦争の際の乃木将軍の武士道精神に基づく立派な行動を聞かされていて感銘をうけていたから。

    乃木のその行動とは・・

    日露戦争でロシア側の旅順要塞を陥落させた乃木将軍は 降伏した敵将ステッセルと1905(明治38)年1月5日に水師営という村(現在の大連市内)で会見したが、

    敗戦の将ステッセルに対する乃木大将の対応はことごとく仁愛と礼節に満ちた武士道精神的であり 例えば・・詰めかけた内外の報道陣、に ステッセルが屈辱感を味わうような映画や写真を撮らせなかったり、各国の軍事オブザーバーの立ち合いを禁止したので その乃木の振る舞いは全世界に配信されて 称賛された。 

    ↓水師営での写真:中列中央の二人が乃木将軍とステッセル将軍
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    ※日露戦争時の軍事オブザーバーは世界9カ国から総勢50人以上、その他各国からのマスコミ特派員も100名近くが参加していた。彼らによる戦況、戦術情報は分析・研究されて、後の第一次大戦に活かされた。

    ◎ヘレン・ケラーは塙保己一(はなわほきいち)を尊敬していた
    目が見えず、耳は聴こえず、言葉が発せられない(声そのものは出たので後に話せるようになった)、という三重苦のアメリカ人のヘレン・ケラー女史(1880~1968年)は、その全生涯を教育と福祉、そして世界平和に尽力したことで世界的に有名。

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    ヘレン・ケラーが障害にめげずに希望をもって生き、努力した行動を支えたのは尊敬する”日本の江戸時代の盲目の学者:塙保己一“の存在だった。

    塙保己一(1746~1821年)は武州児玉郡(現在の埼玉県本庄市)に生まれ、7才で失明したが、手のひらに指で字を書いてもらって文字を覚え、周囲の人が語ったことは完璧に覚えるなど記憶力が優秀だった。
    ↓塙保己一
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    向学心が強く、江戸に出て国学、漢学、神道、医学、和歌などを学習したうえで、34才で「群書類従」(様々な記録や文献、文学作品、手紙などを集めて整理したもので666冊)の作成にとりかかり74才で完成。続いて「続群書類従」(1885冊)の編纂にも着手したが、これは世に出ずに終わった。

    その他、国の歴史に関する資料も編纂して「史料」も作っているが、現在これを引き継いだカタチの東京大学から「大日本史料」として出版されている。

    このような塙保己一をヘレン・ケラー女史がどれほど尊敬していたかを紹介する”さいたま市のホームページ”から一部を引用させてもらいます。(【】内)

    【ヘレン・ケラー女史は、昭和12(1937)年に初来日した際、渋谷の温故学会※を訪れ、母親から『日本の塙保己一先生はあなたの人生の目標となる方ですよ。』と教えられたことに触れ、こう話しています。

    『今日、こうして温故学会を訪問して先生の像に触れることができましたのは、日本への訪問の中で最も意義深いものでした。

    使い古された質素な机と、優しそうに首をかしげた先生の像に触っていると、先生のお人柄が伝わってきて、心から尊敬の気持ちがいっそう強くなりました。

    先生のお名前は、水が流れるように、永遠に後世に伝えられていくに違いありません。』

    また、埼玉会館で開かれた講演会では、『私は特別の思いをもって、埼玉にやって参りました。それはつらく苦しい時でも、この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ、”今の私”があるからです』と話しています。

    ※「温故学会」は塙保己一の功績を讃え、広く世に知らしめるために渋沢栄一らによって設けられたもので、「群書類従」の版木(17,244枚)などを保管し、一般にも公開している。

    さて、このヘレン・ケラー女史には彼女に付き添った優秀な女性家庭教師「アン・サリヴァン」(俗称「サリヴァン先生」:1866~1936年)の存在を抜きには語れない。

    ケラーが7才の時、家庭教師になったサリヴァン先生はヘレンに、互いに指を触りながらで文字を伝える指文字で言葉を教え、学習させて遂には彼女を大学卒業まで導き、その後の社会的な活動にも寄り添って約50年間も支援した。

    ↓アン・サリヴァン
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    ◎電話発明者グラハム・ベルが関与したサリヴァン、ヘレンケラー
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    アレクサンダー・グラハム・ベル↑(1847~1922年)は実用的な電話を発明したものの、自分の妻や母が難聴者だったために、自分の発明が身内には役に立たないので、自身ではその成功をあまり喜べず、後に電話技術を応用した補聴器を作ったが大型すぎて実用化できなかった。

    ベルの家系は、祖父、父、兄弟が弁論術や発声に関した仕事についていたので、彼自身も聴覚や発声の研究を進める過程での電話器発明だった。

    ベルの活躍は幅広く他の分野の発明品もいくつかあるが、聴覚障がい者のための学校も設立した。

    ヘレン・ケラーの両親は、視覚・聴覚障がい者である娘の教育をまかせられる人物を探すために、手を尽くした結果、グラハム・ベルに会い、彼の尽力でパーキンス盲学校から、同校を優秀な成績で卒業したアン・サリヴァンが派遣されて、以後ヘレンの家庭教師となった。

    ↓左からヘレン・ケラー、アン・サリヴァン、グラハム・ベル
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    (↑写真はロバート・V・ブルース著「孤独の克服ーグラハム・ベルの生涯」より引用)

    ※グラハム・ベルの"音声に関係する機器の開発"などの功績から”音の強度を示す単位”を氏の名前をとって「デシベル」と決められた。

    3月3日が「耳の日」と決められたのは3・3=ミ・ミの語呂合わせだけでなく、グラハム・ベルの誕生日が1847年3月3日だから。

    ※グラハム・ベルの母親は難聴だったために大きな補聴器を使っていたそうで、ということはベートーベンが完全に聴力消失する前の段階で使用していたラッパのようなモノ↓だったか?
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    画像はr/classical_circlejerk•より引用

    舞台劇や映画になった「奇跡の人」とは・・アン・サリヴァンのことであり、ヘレン・ケラーのことではないのだそうで、私は題名だけ知っていたものの観ていないので誤解していました。
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    人物に関する意外なことはまだありますので次回に・・
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    皆さまそれぞれに、意外に感じる事や話に出会ったことがあると思います。そこで”私が「へー、そうだったのか」と思ったこと”のいくつかをご紹介。勿論、中には”知る人ぞ知る”というものもあって「そんなことは知っているよ」と言われるものもあるとは思いますが、まず今回は”人物”に関して・・

    ◎青木繁の息子は福田蘭堂、孫は石橋エータロー
    青木繁(1882=明治15年~1911=明治44年)は
    画家で代表作「海の幸」↓で有名だが28才で夭折。
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    青木繁の息子が福田蘭童(1905=明治38年~1978=昭和51年)で、
    尺八奏者、作曲家、随筆家、釣りマニア、料理も得意。

    青木繁とその愛人である福田たねの間に生まれたが、戸籍上たねの弟とされたので福田姓。

    上の絵の右から4人目の白い顔は福田たねと言われる。

    福田蘭童が有名になったのは1953(昭和28)年から翌年にかけてNHKのラジオドラマ「新諸国物語」として放送された中の「笛吹童子(ふえふきどうじ)」や「紅孔雀(べにくじゃく)」のテーマ曲を作曲したこと。

    団塊世代以上の年齢層には懐かしい歌声で、私などは両曲とも(1番だけですが)今でも歌うことができる。

    また彼は釣りマニアでもあって関連の著作が「蘭童つり自伝」などいくつかあり、作家であり釣りマニアでもあった開高健の師匠的存在だったのこと。

    福田蘭童の息子が石橋エータロー(1927=昭和2年~1994=平成6年)で
    一世を風靡した音楽付きコミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のピアノ担当だった。

    蘭堂の若いころは、いわゆる”女ぐせが悪く”ために離婚、再婚したが、最初の妻との子が石橋エータローで、これも姓がつながっていない・・

    ↓福岡県久留米市にある青木繁の碑の前で記念撮影する福田蘭童(右)と石橋エータロー
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    というわけでエータローが父である蘭堂に会ったのは20代になってから。しかし会ってみれば音楽、釣り、料理など共通の嗜好があるので意気投合して、この親子は昭和42年、渋谷に酒と料理の店「三漁洞(さんぎょどう)」を開いた。

    店には釣りの同好の士もよく集まり、開高健も来店していた。

    そして蘭堂、エータロー亡き後も「三漁洞」を守っているのが・・

    エータローの妻である
    石橋光子さん↓ (写真は「東京新聞デジタル」より)
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    さすが、店内の壁には青木繫の絵(たぶん複製)も飾っている。

    ( 「三漁洞」ホームページ: http://sangyodo.com/)

    ◎グレタ・ガルボは整形美人だった
    1930年代頃のハリウッドには、何かと対峙する2人の大女優、ドイツ出身のマレーネ・ディートリッヒとスウェーデン出身のグレタ・ガルボがいた。

    グレタ・ガルボのスウェーデン映画出演ころの顔は丸ポチャで前歯が出気味で、眉もまばら、モジャモジャ頭という状態だったが、

    ハリウッドでは歯の矯正、メークアップ、ほっそり綺麗な眉、すっきりとかされた髪に3年かけて仕上げられた。
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    (↑写真は芳賀書店発行「グレタ・ガルボ マレーネ・ディートリッヒ」より)

    ※現代のスウェーデンでは別のグレタさんが気候変動対策や環境保護を唱えて活躍中。

    ◎イングリット・バーグマンの双子の娘の一人は女優で活躍中
    映画「カサブランカ」や「ガス燈」などに出演した女優のイングリット・バーグマン。
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    ↓自分が産んだ双子を連れるイングリット・バーグマン (この前に3人産んでいるから子供は計5人)
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    (↑写真は「マグナム」より)

    ↓イングリット・バーグマンが産んだ双子の一人:イザベラ・ロッセリーニ
    つまり上の写真の双子のどちらかが成人して映画俳優になっている。父親が名監督のロベルト・ロッセリーニ(ただし、彼女が5才時に両親は離婚)
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    ◎石井部隊長は731部隊員に彼の出身地の人を多く登用し重要ポストに就かせた
    小説家の森村誠一の著作「悪魔の飽食」によって広く知られることになった旧日本陸軍の731部隊:通称=関東軍防疫給水部の部隊長であった石井四郎軍医(最終階位:中将)は

    彼の出身地である千葉県千代田村加茂(現、芝山町)の住民を自分の部隊に多く登用し、しかも重要なポストに就かせたので、別名「加茂部隊」とも言われたほどだった。

    その理由は明らかで、この部隊が旧満州ハルビン郊外で行った”捕虜などの中国人やロシア人”を使ったコレラ菌やペスト菌感染の生体実験を行って細菌兵器の研究・開発や強制的な凍傷実験などを秘密にしなければならなかったからで、それには石井軍医の地縁、血縁である人が信用できたから。

    ↓石井軍医(前列右から5人目)と加茂集落の住民の集合写真
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    (↑写真は「東京新聞」より)

    終戦後、石井軍医が戦犯にならなかったのは、訴追免除の交換条件として731部隊の秘密資料を米国側に(ほんの一部はソ連側にも)引き渡したからだとされている。
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    まだ他に"人についてのお話"ありますが、長くなるので続きは次回に・・
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