かつての私の学童・学生時代に教えを受けた先生方の数が50人くらいにはなるだろう中でも特にユニークさで印象的な3人の先生がおられたのが中学校(東京都豊島区立)だった。
社会科のN先生は大柄で丸メガネをかけられていて、いわゆる美男子という部類の人ではないが、生徒に対して威圧的なところが全く無くて、親しみやすい感じだった。
入学後に先生の授業を受け始めて間もなく、ある生徒が「N先生の奥さんってミス渋谷なんだってさ」と言いだして、その噂は瞬く間に生徒間に拡がったのだが・・
その真偽を確かめるために先生に直接聞いてみるというようなことは当時の我々生徒にはできなかった。
しかし日頃感じる人柄に加えて、授業の合間にちょっとした”渋谷がらみの話”が少なからずあったので、やはり“奥様がミス渋谷”というのもなんとなく「さもありなん」と思えたものだったが、その”先生の話”とは・・
「私は、渋谷でプロレスラーのユセフ・トルコ(※1)が荷車を引いて歩いているのを見たことがあるぞ」
「渋谷じゃソーライス(※2)っていう、白いご飯にソースをかけただけのものが5円(私の記憶があいまいで10円だったかも?)で食べられる店があるんだ」
「私は株もちょっとやっていて、株主優待券っていうものを使って渋谷の映画館にはよく観に行くよ」
※1:ユセフ・トルコ(1931~2013)は、亡命トルコ人の両親のもと樺太生まれ。トルコ語と日本語が話せるちょっとひょうきんな面もあるプロレスラーでもありレフェリーでもあった。私はテレビのプロレス中継でレフェリーとしての氏を何度か観ていた。


※2:ソーライスが最初に生まれたのは1930(昭和5)年の昭和恐慌のさ中、大阪の阪急百貨店梅田本店の食堂で、5銭のライスだけを注文してそれにテーブル備え付けのウスターソースをかけて食べる人が現れた。その後これが広まった。
◎「アーニーパイル」自慢のK先生
理科のK先生はちょっと強面だが、いつも授業の最初の10分くらいは理科とはあまり関係ない話だった。
したがって相当な数の”そのての話”を聞いているのだが、特に一つだけ強く記憶に残っているのが・・
「日比谷にある東京宝塚劇場のビルは終戦直後から昭和27年までアーニーパイル劇場(※3)という名前になっていたんだが、あのビルについていたアーニーパイルというネオンは私が作ったんだ」
↓「アーニーパイル劇場」(毎日新聞社刊 毎日ムック 「戦後50年」より)

それを聞いてまず思ったのは、このK先生は先生になる前に意外な仕事をしていた人なんだ!
そして(勉強には関係ない)「アーニーパイル」という言葉がなぜ記憶に残ったかと言えば、その2年ほど前(1957=昭和32年)にテレビでアメリカ製の西部劇の連続ドラマの「アニーよ銃をとれ」が放送されていて、似た名前だったから。
私は後年になって、「アニーよ銃をとれ」は実在した射撃の達人である女性アニー・オークレイ(1860~1926)をモデルにしたものだったことを知った。
※3:アーニーパイル(1900~1945)は太平洋戦争中の優秀な従軍記者で1944年にピューリッツア賞を受賞していたが1945年4月に沖縄で戦死した。氏の死後の沖縄・那覇には「アーニーパイル国際劇場」が建設され、東京・日比谷の東京宝塚劇場はGHQが接収して「アーニーパイル劇場」という名称がつけられていた。
◎「赤穂浪士討ち入り」の日の I 先生
美術の I 先生はちょっと神経質そうな細面の人だった。ある日のこと、授業の時間になんと両手首を紐でしばったまま教室に現れて、「今日(12月14日)は赤穂浪士が討ち入りした日だから、この格好で授業をします」と理解に苦しむ理由をのべて、その状態でチョークを握り、黒板に文字を書き始められた。
我々生徒はあっけにとられるばかりで、私はその日の授業内容を覚えていない。先生のそんな言動があって数か月後?だったかに・・
突然 I先生が亡くなられた。しかし生徒たちには死因は知らされないままだったことに加えて、先生の以前のあの言動もあったことから生徒たちの間では「I 先生は自殺されたに違いない」という認識で一致したのだった。
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このようなユニークな先生方がおられた中学校だったが、近年の統廃合によって廃校となり今や校舎の跡形もない。ただ想い出のみが残っている。
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このようなユニークな先生方がおられた中学校だったが、近年の統廃合によって廃校となり今や校舎の跡形もない。ただ想い出のみが残っている。
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