徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2025年05月

    かつての私の学童・学生時代に教えを受けた先生方の数が50人くらいにはなるだろう中でも特にユニークさで印象的な3人の先生がおられたのが中学校(東京都豊島区立)だった。
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    ◎奥様が「ミス渋谷」のN先生
    社会科のN先生は大柄で丸メガネをかけられていて、いわゆる美男子という部類の人ではないが、生徒に対して威圧的なところが全く無くて、親しみやすい感じだった。

    入学後に先生の授業を受け始めて間もなく、ある生徒が「N先生の奥さんってミス渋谷なんだってさ」と言いだして、その噂は瞬く間に生徒間に拡がったのだが・・

    その真偽を確かめるために先生に直接聞いてみるというようなことは当時の我々生徒にはできなかった。

    しかし日頃感じる人柄に加えて、授業の合間にちょっとした”渋谷がらみの話”が少なからずあったので、やはり“奥様がミス渋谷”というのもなんとなく「さもありなん」と思えたものだったが、その”先生の話”とは・・

    「私は、渋谷でプロレスラーのユセフ・トルコ(※1)が荷車を引いて歩いているのを見たことがあるぞ」

    「渋谷じゃソーライス(※2)っていう、白いご飯にソースをかけただけのものが5円(私の記憶があいまいで10円だったかも?)で食べられる店があるんだ」

    「私は株もちょっとやっていて、株主優待券っていうものを使って渋谷の映画館にはよく観に行くよ」

    ※1:ユセフ・トルコ(1931~2013)は、亡命トルコ人の両親のもと樺太生まれ。トルコ語と日本語が話せるちょっとひょうきんな面もあるプロレスラーでもありレフェリーでもあった。私はテレビのプロレス中継でレフェリーとしての氏を何度か観ていた。
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    ※2:ソーライスが最初に生まれたのは1930(昭和5)年の昭和恐慌のさ中、大阪の阪急百貨店梅田本店の食堂で、5銭のライスだけを注文してそれにテーブル備え付けのウスターソースをかけて食べる人が現れた。その後これが広まった。

    ◎「アーニーパイル」自慢のK先生
    理科のK先生はちょっと強面だが、いつも授業の最初の10分くらいは理科とはあまり関係ない話だった。

    したがって相当な数の”そのての話”を聞いているのだが、特に一つだけ強く記憶に残っているのが・・

    「日比谷にある東京宝塚劇場のビルは終戦直後から昭和27年までアーニーパイル劇場(※3)という名前になっていたんだが、あのビルについていたアーニーパイルというネオンは私が作ったんだ」

    ↓「アーニーパイル劇場」(毎日新聞社刊 毎日ムック 「戦後50年」より)
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    それを聞いてまず思ったのは、このK先生は先生になる前に意外な仕事をしていた人なんだ!

    そして(勉強には関係ない)「アーニーパイル」という言葉がなぜ記憶に残ったかと言えば、その2年ほど前(1957=昭和32年)にテレビでアメリカ製の西部劇の連続ドラマの「アニーよ銃をとれ」が放送されていて、似た名前だったから。

    「アニーよ銃をとれ」のアニー(東京ニュース通信社刊「テレビドラマ全史1953~1994」より)
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    私は後年になって、「アニーよ銃をとれ」は実在した射撃の達人である女性アニー・オークレイ(1860~1926)をモデルにしたものだったことを知った。

    ※3:アーニーパイル(1900~1945)は太平洋戦争中の優秀な従軍記者で1944年にピューリッツア賞を受賞していたが1945年4月に沖縄で戦死した。氏の死後の沖縄・那覇には「アーニーパイル国際劇場」が建設され、東京・日比谷の東京宝塚劇場はGHQが接収して「アーニーパイル劇場」という名称がつけられていた。

    ◎「赤穂浪士討ち入り」の日の I 先生
    美術の I 先生はちょっと神経質そうな細面の人だった。ある日のこと、授業の時間になんと両手首を紐でしばったまま教室に現れて、「今日(12月14日)は赤穂浪士が討ち入りした日だから、この格好で授業をします」と理解に苦しむ理由をのべて、その状態でチョークを握り、黒板に文字を書き始められた。

    ↓歌川国貞「仮名手本忠臣蔵十一段目」(jb pressのHPより)
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    我々生徒はあっけにとられるばかりで、私はその日の授業内容を覚えていない。先生のそんな言動があって数か月後?だったかに・・

    突然 I先生が亡くなられた。しかし生徒たちには死因は知らされないままだったことに加えて、先生の以前のあの言動もあったことから生徒たちの間では「I 先生は自殺されたに違いない」という認識で一致したのだった。
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    このようなユニークな先生方がおられた中学校だったが、近年の統廃合によって廃校となり今や校舎の跡形もない。ただ想い出のみが残っている。
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    5月に入って木々のやわらかい葉が出揃ってきたので、木の芽が出始める時期を指す「木の芽時」を過ぎてからひと月くらい経っているはいるが、私はこの「木の芽時」という言葉には、ある意味がつい連想されてしまう。

    ところで・・

    ◎「木の芽時」の正しい読み方は?
    「木の芽時」という言葉、恥ずかしながら後期高齢者の私は今までこれを「きのめどき」と読んでいたのだが、正しくは「このめどき」と知った。

    試しに広辞苑をひいてみたら・・「きのめ」も「このめ」もどちらも個別の項目が在る。しかし双方共に「木の芽」の文字が当てられているものの、関連語としては「きのめ」の項には「きのめどき」は無く、「このめ」のほうに「このめどき」がある。

    ◎「木の芽時」に現れる異常?
    もともと季節の変わり目には自律神経不調が元となって体調不良が出やすく、それが顕著なのは春先なのだが、この時期にはメンタル面でも異常が起きて・・

    昔から、”「木の芽時」には、精神に異常をきたす人が出ることが多い”と言われており、事実この現象は医学界でも認知されているとのこと。

    先ごろ、ある女優が自ら運転するクルマで事故を起こした際に奇異な行動をし、その後の病院では看護師に危害を加え、警察ではまともな応答ができないなどの症状が現れていたが・・

    後日の診断結果では”躁うつ病”と”甲状腺分泌過多”が原因の行動だったとされたが、これも「木の芽時」現象の範疇に入るのだろうか?

    ◎藤村操(ふじむらみさお)も「五月病」だったのか?
    さて五月に入って現れると言われる「五月病」。 医学上ではそのような病名はないのだそうだが、実際には日本の社会で4月に行われる入学、進級、入社、転勤などによって、新しい勉学や仕事の環境に馴染めない人やついていけない人、あるいは疑問を抱く人たちが、ストレスや苦悶をつのらせて一か月経った5月になると、精神不安定、うつ状態、無気力、疲労感、不眠などの症状が出ることが多い。

    1903(明治36)年、旧制一高の学生の藤村操(16才)が栃木県は日光の華厳の滝(高さ97m)から投身自殺した。

    ↓藤村操と華厳の滝
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    彼は自殺直前に「巖頭之感」と題して、自分が死を決する理由を述べた文を、傍らのミズナラの木の幹に刻んで残した。

    「巖頭之感」の全文・・
    悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て
    此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
    オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
    眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
    我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。
    既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の
    不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
    大なる樂觀に一致するを。

    華厳の滝に投身自殺した日は、まさに5月の22日。やはり彼も「五月病」だったのだろうか?

    余談だが、彼の投身自殺によって華厳の滝は自殺名所になって、彼の死後4年間で自殺をはかった者185名、内40人が死亡。

    のちの自殺名所となった伊豆大島の三原山火口では、『投身自殺第1号は1928(昭和3)年の男性26才。さらに1933(昭和8)年の1月から2月にかけて実践女学校(東京)の学生が二人自殺したことが発端となって・・

    この年昭和8年の自殺者の男性130人、女性13人、未遂は687人。翌昭和9年は死者187人、未遂671人。昭和10年は死者164人、未遂は574人となり、翌昭和11年※から下降線をたどりはじめた』 (『』内は「毎日グラフ別冊 サン写真新聞昭和27年版」より)

    ※昭和11年は「2.26事件」があった年

    ◎やはり自殺者も多い3,4,5月
    警察庁発表の年間月別自殺者数をみると、冬季は少ないものの、木の芽時から急増して五月病の時期にかけての3か月が年間でもピークとなっている。

    令和6年自殺者数 合計18647人 

    12月1371人 / 1月1688人 / 2月1559人
              
    3月1894人 / 4月1903人 / 5月1853人
              
    6月~11月は1700~1500人台

    ◎藤村操の妹と結婚した安倍能成(あべよししげ)
    藤村操の妹の藤村恭子は、旧制一高の藤村操の同窓生でもあった安倍能成(1883=明治16年~1966=昭和61年)と結婚した。安倍氏は知る人ぞ知る哲学者、教育家、政治家で東京帝国大学卒業後、旧制一高校長、学習院院長、文部大臣などを務めた。

    ↓安倍能成
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    この”安倍能成氏の妻は(有名な) 藤村操の妹であった”ということを私はつい最近までは知らなかったが、世間でもあまり知られていないのももっともで、私の知人で中学、高校、大学まで学習院で学んだという人物に聞いてみても、「確かに丁度安倍先生が院長の時期だったので訓示などを直接聞いたことはあるが、先生の奥様の件は知らなかった」と言っている。

    余録
    ご存知のように、料理の世界においては「木の芽(きのめ)」と言えば「山椒の葉」のこと。
    我が家のプランターにも山椒が自然に生えて20年くらいになるが、丁度今頃は若葉がやわらかいのでチョイチョイ摘んでは利用している。
    ただし、山椒は雌雄があり、ウチのは雄なので実はならないのが残念!

    ↓我が家の山椒 (枝の棘には要注意)
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