徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2024年01月

    「蔵出し」とは、金庫からお金を取り出すことや、倉庫に保管しているモノを取り出すことを言うのだそうですが、通例は特に酒類の場合に貯蔵されている蔵から出したばかりのモノを言いますね。

    ここで、酒以外にも「蔵出し」を使っている例をちょっと紹介!

    ◎トヨタ博物館「お蔵出し展」
    丁度今、2024年1月26日から6月30日まで 
    トヨタ博物館(愛知県長久手市)文化館2階 企画展示室で、
    秘蔵の国内外の名車400台の中からレアな13台を
    (トヨタいわく)「蔵出し」して展示する。(常設の140台とは別に)

    toyota-poster

    5つのテーマに分けて紹介
      (A)60年前に日本や欧州の道を庶民の足として走り回った大衆車
    (B)1960-1970年代の日米欧の伝説的なスポーツカー
    (C)1964年の東京オリンピックで選手の移動をサポートしたコミューターバス
      (D)日本車でありながら日本には導入されなかった海外市場専用車
    (E)二輪車

    (A) 1. DAF 600(1959年・オランダ)
      2. トラバント 601 ユニバーサル(1965年・東ドイツ)
      3. 三菱 コルト1000F(1968年・日本)

    (B)4. シボレー コルベット スティングレイ(1963年・アメリカ)
        5. 日産 スカイラインGT-R(1970年・日本)
        6. ロータス エランS4(1972年・イギリス)

    (C)7. トヨタ バンデランテ(2001年・ブラジル)
        8. トヨタ ハイラックス VIGO(2005年・タイ)
        9. トヨタ アイゴ(2006年・チェコ)

     (D) 10. トヨタ ライトバス(1963年・日本)

     (E) 11. 三菱 十字号 自転車(1947年・日本)
      12. 三菱 シルバーピジョン(1949年・日本)
      13. ホンダ スーパーカブCA100型(1962年・日本)

    DAF 600(1959年)
    daf600

    シボレー コルベット スティングレイ(1963年)
    stinglay

    トヨタ バンデランテ(2001年)
     toyota-banderante
     
    その他 ・オープンカー走行披露:トヨタ 2000GT ロードスター(1967年)
             レクサス LFA スパイダー(2012年)
          ・別途展示:MR2プロトタイプ(1983年)・・など
      
    詳細はトヨタ博物館公式Webサイトで

    ◎「蔵出しガソリン」 !
    国道16号線が千葉県市原市の姉崎海岸と称する町を通るエリアの道路より西側=海岸側は多くの大企業の工場や研究所(出光興産、三井化学、AGC、日本板硝子、ENEOS、UBEなど)があるが、中でも出光興産の精油所や研究所の敷地は広大。

    この出光興産側とは国道16号を挟んで反対側沿道には幾つかのガソリンスタンドがある中で、当然のように出光スタンドがあるのですが、そこの道路沿いに立っている旗には・・
    「蔵出しガソリン」と大書してあるので目立つと同時にちょっとしたユーモアを感じてしまう。

    このスタンドは目と鼻の先にある石油精製工場から確かに出来立てのガソリンを供給しているだろうから、このような表現が自然に出たのでもあろう。

    しかし石油業界には「蔵出し税」というものがあり、これは石油を精製してガソリンを製造した業者がその出荷時に課せられる税のことだそうで、この税の名も” 「蔵出しガソリン」という表現”に影響しているのでしょう。※軽油には「蔵出し税」ではなく地方税がかかる。

    ちなみに酒造業界にも同じ「蔵出し税」があるそうで、これも酒造業者が酒類を出荷する際にその業者に課せられる税。

    ↓出光興産 千葉事業所 (下航空写真の赤色矢印が「蔵出しガソリン」のスタンド)
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    ↓海側から見た出光興産石油精製工場 (写真:hitoshi Matsuzawa氏)
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    ◎蔵出しをされずに見つかった大量のヴィンテージカー!
    2007年のこと、米国ニューヨーク在住の老夫婦が定年を機にポルトガルのある農地を納屋付きで購入して驚いた。
    前所有者が入り口の鉄製扉を溶接して閉鎖していた大きな納屋を、開けてみたらなんとヴィンテージカーが180台。びっしりとしかし埃で白くなった状態で発見された。
    その価値は概算で2600万ドル(日本円146円換算で約38億円)。

    調べたら、クルマのディーラーをしていた前オーナーが趣味で集めていたが納屋が満杯になったところで封印して死去してしまったらしく、その後15年経過しての発見となった次第。

    クルマに限らないが、集めていたモノを何らかの理由でその一部または全部を身内や他人に譲る、売却する、あるいは博物館などに寄贈する例も多く、それは”蔵出し”というカタチになるのでしょうが、このポルトガルの納屋の場合は、大量のヴィンテージカーが蔵出しされずにいたということになる。

    ↓これが”お宝満杯の納屋”
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    ↓埃をかぶったヴィンテージカー
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    ↓この納屋内部の様子の動画(一部は年式・車種説明付き)YouTube
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    ◎李香蘭(リコウラン)登場!
    先日のNHKの連続テレビ小説(通称:朝ドラ)「ブギウギ」の中で、李香蘭が「夜来香(イエライシャン)」という曲を歌うシーンがあった。

    李香蘭(1920~2014)は旧姓名かつ芸名:山口淑子(よしこ)/米国ではシャーリーヤマグチ/本名:大鷹淑子。
    日本人だが中国で生まれ中国語も堪能だったために、満州映画協会(通称:満映)※専属の”中国人俳優”として、また歌手として戦前戦中の中華民国、満州国、日本で活躍し、戦後は香港や米国で活躍(米国での名はシャーリーヤマグチ)。その後日本のテレビ司会者や参議院議員(3期)をつとめた。

    ↓李香蘭 (コロムビアのHPより)
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    ※「満州映画協会」は国策会社と言われ、理事長は甘粕大尉。彼はその以前は国内で憲兵大尉時にアナキストの大杉栄や伊藤野枝らを虐殺して服役したこともある人物で満州国建国にもかかわったが終戦と同時に服毒自殺した。 映画「ラストエンペラー」では故・坂本龍一が甘粕に扮して出演した。

    さて「ブギウギ」の中で李香蘭に扮して登場したのはミュージカル俳優の昆夏美さん(失礼ながら私はこの方を知りませんでした)で、きれいな歌声で見事に (私ども高齢者はその元歌を知る者が多いのでそう判断できる) 歌い上げていました。

    ↓李香蘭に扮した昆夏美 ((C)NHK© MANTANWEBより)
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    このドラマの制作統括者によれば、もともと昆さんにはこのドラマのオーディションを受けてもらっていて、その際の魅力的な印象が強かったので、たった一話の一シーンだけでも登場願ったとのこと。

    戦前戦中の中国を舞台にした日本製の叙情歌では「支那の夜」と「蘇州夜曲」が双璧だと私は思っていますが、もう一つ同時期に日本でも流行った歌が「夜来香」で、これも私は今まで日本製と思っていたのですが、実は中国の民謡を基に中国の作曲家の黎錦光が作曲したものだそうです。

    朝ドラ「ブギウギ」では実在した笠置シズ子や服部良一は別名にしてありますが、なぜか李香蘭とこの黎錦光は実名で登場しました。

    ◎服部良一、西條八十、李香蘭、渡辺はま子らが交錯してからんだ!
    先述の「支那の夜」、「蘇州夜曲」、「夜来香」に加えて「夜来香幻想曲」という曲があって、これらの作詞家、作曲家、歌手が絡み合ってのちょっと複雑な関係とは・・(カバー版歌う近年の歌手は割愛)

    ・「支那の夜」=作曲:竹岡信幸 / 作詞:西條八十 / 歌手:渡辺はま子
    ・「蘇州夜曲」=作曲:服部良一 / 作詞:西條八十 / 歌手:李香蘭、後に渡辺はま子も
    ・「夜来香」  =作曲: 黎錦光  / 作詞:黎錦光  / 歌手:李香蘭、後に渡辺はま子も
    ・「夜来香幻想曲」=作曲: (黎錦光の原曲を基に) 服部良一

    さらに混乱させる要素として、これらの歌がからんだ映画の存在がある。

    ・映画「支那の夜」=主演:長谷川一夫 / 共演:李香蘭 / 1940(昭和15)年製作
    ・映画「蘇州夜曲”支那の夜”より」=主演:長谷川一夫 / 共演:李香蘭 / 1952(昭和27)年製作
    (1940年製作の「支那の夜」から30分カットして改題のうえ再上映したもの)

    そして「蘇州夜曲」という名の曲は映画「支那の夜」の中で劇中歌として李香蘭が歌うように作られたものなのでこの二つの映画双方ともで「蘇州夜曲」を李香蘭が歌うシーンがある。

    ↓映画「蘇州夜曲”支那の夜”より」のタイトル
    movie-title

    ↓同上映画の出演者名
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    ↓同上映画の中の李香蘭(ITによる着色化したもので本来はモノクロ)
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    ↓同上映画で出演の長谷川一夫と李香蘭(本来モノクロ)
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    上記画像4枚は「なつかしの映画をカラーで」サイトより

    ◎李香蘭はイサム・ノグチと結婚していた時期あり!
    イサム・ノグチ(1904~1988)は日系人で彫刻家、造園家、インテリアデザイナーその他の多才人。
    手掛けた彫刻や庭園などは日本と世界の各地に存在するが、インテリア用品でよく目にするのは、”提灯から発想して和紙と竹ひごで構成する「あかり/AKARIシリーズ」”と”シンプルな木製脚とガラス板で構成する(通称)「ノグチテーブル」”

    ↓「あかりシリーズ」の代表作(商品:現在価格1万6千円台など)
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    ↓「ノグチテーブル」(商品:現在リプロダクト品=ジェネリック家具が多く価格は4万円台~27万円台など)
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    李香蘭とは1951年に結婚したが1956年に離婚。

    ↓結婚(式)直後?の二人
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    実は上の写真は、二人が結婚(式)を電撃的に行ったために報道各社がその様子撮影できなかったのでその後に撮影されたもので、実際は1951(昭和26)年12月15日午前9時に明治神宮拝殿前にて二人で拍手しただけで済ませてしまったのだった。”結婚(式)”と表記したのはこのためで、これは「形式はともかく魂で結ばれるのが本当の結婚」という二人の考え方があったから。

    そもそも明治神宮で挙式(虚式?)することになった経緯は・・結婚はマスコミなどがウルサイので、二人でアメリカからイタリアのシシリー島に行って挙式する予定だったが資格取得に3か月もかかるということであきらめ、かわりにインドで挙式と考えたが宗教上の問題で駄目となって結局日本でということになったのだそうです。

    こうして日本に到着したのが挙式1か月前の11月で、ただしイサム・ノグチ一人。理由は途中で李香蘭が急遽 香港の友人に会うことになり遅れて来るためだった。

    空港で二人を待ち構えていた人たちと報道陣は肩透かしをくらって、用意していた花束を半分はイサム・ノグチに、残り半分は”姉を迎えるべく来ていた李香蘭の妹:山口勢子さん”に渡された。その時の写真↓で中央はノグチで左が勢子さん。

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    (上写真2枚と結婚関連内容は「毎日グラフ別冊 サン写真新聞 昭和26年版より抜粋」)

    それにしても、さすが国際的に活躍の二人は考え方も行動もスケールが大きいですね。

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    李香蘭はノグチと離婚の2年後1958(昭和33)年に外交官の大鷹弘 氏と再婚し2001(平成13)年に死別しているので彼女の本名は大鷹淑子のまま亡くなった。
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    現在の日本では「支那(シナ)」の呼称は使わないのがよいとされている。古来から世界各国が中国を指して「シナ」に近いような呼称を使っていて、それが英語では「CHINA」になっているほどだが、ある時期から日本人の一部が"
    支那(シナ)"を蔑称的に使うようになった過去があるためである。

    私が子供の頃(昭和20年代)に「支那そば」と呼んでいたものが、その後「中華そば」になり現在では「ラーメン」が大勢を占めている。同様に「メンマ」を昔は「シナチク」と言っていた。
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    新春を迎えられたお祝いとともに 今年のご健勝をお祈り致します

    さて、今年は辰年ということで・・ 

    神温泉(りゅうじんおんせん:和歌山県田辺市)は「日本三美人の湯」の一つです。※
    弘法大師が難陀王のお告げによって温泉場のかたちを整えたという言い伝えがあり、
    また中里介山の「大菩薩峠」という超長編にして未完の小説の中で
    主人公”机之介が眼を癒した”温泉とされて有名になりました。

    あとの二つは、島根県「湯の川温泉」と群馬県「川中温泉」

    龍神温泉
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    実は私、龍神温泉に一度だけ1972(昭和47)年に行っております。
    当時の職場の先輩にさそわれて、この年に運航開始した「神紀フェリー」に神戸から乗り
    白浜で下船してから約30キロ先の山あいの川沿いにこの温泉は在りました。 

    神紀フェリー
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    「神紀フェリー」は神戸~白浜間を結んでいて、当時はその2地点の間を陸路で往来するには
    道路事情の悪さで時間がかかったので、フェリーの採算がとれると見込まれたのでしょう。

    (正月の話としては恐縮ですが) その後の神紀フェリーは経営不振となって
    1975年に廃止され、船は以後国内の他のフェリー会社、さらに海外へと転売され
    最後は事故で沈没したそうです。

    ついでに同様の例として私が思い出すのは、かつて存在した「セントラルフェリー」。
    これを運営した「セントラルフェリー(株)」は神戸と川崎を結ぶ海路の動脈を目指して、三洋電機創業者でもあった井植歳男氏が設立して開業準備していたが始業前に死去したため弟の井植祐郎氏が三洋電機の2代目社長になるとともに、この「セントラルラルフェリー」会社の社長にも就任している。

    この会社は、大型トラックなら130~150台を積載できる6000トン級の船を5隻も神戸~川崎間に就航させて1971(昭和46)年6月に運航開始したが、なんと当初より陸路輸送に押され気味で翌1972(昭和47)年11月には運航停止になり、その後に船はギリシャの船会社に売却された。

    セントラルラルフェリー 
    (ブログ「N.Eの玉手箱」より引用)
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    このフェリー会社の元々の設立者は明らかに”市場の読みを失敗”しているが、私の経験からみるとほんの少しだけ同情できる部分があり、それは・・

    私は1970(昭和45)年頃は大阪と東京間をクルマで年に2~3回往復していましたが、東名神高速道を夜中の2、3時頃に走行していると、自分のクルマの前後に1台も走行車が無いという区間がいくつもあった(今では考えられない)状態だったのですが、

    その5年後には前述と同じ道路の同じ夜間時間の同じ区間でさえも“大型トラックに前後左右を挟まれて走行”するような状態に、つまり特に深夜ではトラックが圧倒的に多いという状況にあっという間になってしまったからで、トラックによる陸路輸送時代の到来スピードが読めなかったのでしょう。

    蛇足ながら、龍神温泉から南西約28キロにある田辺港は、
    私の両親たちが戦後、台湾からの引き揚げ船で帰還して上陸した地でした。

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    それでは みなさま今年もお元気に !
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