※以下文中の「西武百貨店」は現在「西武」と称しています
◎百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位なのに・・
(株)そごう西武の労働組合は、親会社であるセブン&アイ・ホールディングスがそごう西武を米国の投資ファンド会社に売却する方針発表したことに反対して、先日(2023.9.1)に旗艦店である西武池袋本店でストを行った。しかし同じ日に売却決定が発表された。
ここではスト決行に至った細かい理由は省略しますが、特に西武池袋本店の誇りある従業員の思いは察するに余りあるもの。なにしろ百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位(2022年)※を誇っていて、これだけ頑張っているのに・・という思いだろう。
※1位:伊勢丹新宿本店3276億円 / 2位:阪急うめだ本店2610億円 / 3位:西武池袋本店1768億円 / 4位:JR名古屋高島屋1724億円 / 5位高島屋日本橋店1430億円 / 6位:三越日本橋本店1384億円(以下省略しますが、全店舗総額では高島屋が7611億円でトップ)
かつて東京都豊島区南長崎に在った我が家から最寄りの西武池袋線の東長崎駅から2駅先の池袋駅(終点)に直結した西武百貨店まで”ドア・ツー・ドア”の所要時間は15分・・なので私は、もの心がついてから東京を離れる22才までの間、最も利用したデパートが西武池袋店だったから、現在の状況には寂しさを感じながら今後を心配するものであります。
◎私が最初に見た大きなビルが池袋の西武百貨店
私が5才の頃、祖父に連れられて池袋に行った時のこと、西武百貨店の建物に面した歩道を歩きながら祖父から「どうだい、ずいぶん高い建物だろっ!」・・と上を指さしながら言われたことを覚えている。※
ただし、その時は建物の完成直前で、まだ一部工事が行われているような状態ではあった。しかも現在のように南北に長い建物になる前だったので南側半分の長さだったのだが・・。
今、調べてみると西武百貨店の前身である武蔵野百貨店の跡に建物が完成したのは1952(昭和27)年9月だそうで、私はその工事を見ていたことになる。西武はその後に北側へ増築や改装を重ねている。
※「高い建物」と言っても、当時は高さ制限で31メートル止まりで、普通は8階建てが限度だった! これは1919(大正8)年に制定された「市街地建築物法」によって建物の高さにいわゆる「百尺制限」が適用され、百尺=30.303メートル以下に制限されていたものが・・
1931(昭和6)年に同法が改正されてメートル表記にして31メートル以下とされて以後、1961年の建築基準法改正で容積率による制限方式への変更を経て、1970年に絶対的高さ制限が撤廃されるまで続いたから。
◎東に西があり、西に東がある池袋?!
現在の池袋駅”東”口には”西”武(百貨店)が在り、”西”口には”東”武(百貨店)が在るので、そのようによく言われるのだが、昔は”東に西があり、西に東がある”のは今と変わらないものの中身がちがっていた・・
というのは・・”東”口には”西”武(百貨店)が在って、”西”口には”東”横(百貨店)が在った時代があったから。(後に、西口に東横と東武が短期間だが並立した時期もある)
昔の池袋には百貨店が最多で5店存在したことがあり・・
西武百貨店(東口)=開業1949(昭和24)年~
東横百貨店(西口)=開業1950(昭和25)年~閉店1964(昭和39)年(東武に譲渡)
丸物百貨店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店1969(昭和44)年(西武に譲渡後パルコ第一号店になった)
三越池袋支店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店2009(平成21)年(現在、ヤマダ電機「LABI 1」店)
東武百貨店(西口)=開業1962(昭和37)年~
↓左は東横百貨店(高木進一氏1963年撮影)、右は建設中の三越池袋支店(1957年、撮影者不明)
◎西武百貨店の火事(1)捨てたマッチの火が招いた大惨事
1963(昭和38)年8月22日12時50分頃、西武池袋店7階から出火。
死者7名、負傷者216名となる。(当日は休業日で来店客は無し)
出火原因はマッチの残り火。休業日を利用して店内消毒を専門業者7人が行っていたが、作業員がタバコに火をつけた後のマッチを床に捨てたところ、床にこぼれていた消毒液に引火し、さらに塗装業者のシンナーにも引火したので火のまわりが速く、当時はスプリンクラー設置義務もなかったために初期消火にも失敗して、100台の消防車が出動して梯子を伸ばしても7階までなので8階にも延焼して鎮火したのは同日20時35分。
消毒会社と西武店員の死者・負傷者を出すに至った。被害総額は当時の金額で200億円。この火事を契機にスプリンクラー設置義務が制定された。
↓燃える西武百貨店(同上ニュース映画より)
私が子供の頃は、空気が乾燥する冬には子供たち数人のグループが拍子木をカッチ、カッチと叩きながら「火の用心、マッチいっぽん火事のもと!」と大声を出しながら町内を歩いて巡っていたものだが、まさに西武百貨店の火事は"その言葉どおり"になった。
◎西武百貨店の火事(2) 鎮火直後セールで汚点
なんと火事の2日後、同店は「冠水商品大安売り」を告知したものの、それを知った人たち5万人が押し寄せたために中止となったが、これには「多くの死者、犠牲者を出した直後で不謹慎である」との批判が出たことも影響している。
私は当時これを聞いた時、「さすが近江商人! 何はともあれ商売か!?」と思ったものでした。
しかし後年になって、”近江商人”とは近江の国(現在の滋賀県)に自家、拠点を構えてそこから全国に向けて行商する人たちを称したものであることを知ったことにより、”西武経営者は厳密には近江商人ではない”ことになると認識した。
ちなみに、創業者が近江国(おうみのくに)または滋賀県生まれの会社は・・西川(寝具) / 小泉産業(家電その他) / 高島屋(百貨店) / 伊藤忠商事・丸紅(商社::両社とも創業者は同一人物) / 日本生命(保険) / ワコール(女性用下着その他)など。
しかし、”西武”が近江商人と全く無関係ではないとは言えるその理由は・・
現在の西武関連の多数の会社の基を一代で作り上げたのは滋賀県(昔の近江)生まれの堤康次郎(やすじろう:1889~1964)氏であり、早くに父を亡くした氏は母方の祖父と一緒に、行商はしなかったものの色々な仕事をした中には、滋賀県内での耕地整理と土地改良というものがあって、
これが後に氏による伊豆、箱根の観光地、軽井沢の別荘地、東京の高級住宅地「目白文化村」などの開発に影響を与え、西武鉄道、西武百貨店の展開につながったものと考えられる。なお氏は一方で政治家の一面をもち、衆議院議長を務めたこともある。
これが後に氏による伊豆、箱根の観光地、軽井沢の別荘地、東京の高級住宅地「目白文化村」などの開発に影響を与え、西武鉄道、西武百貨店の展開につながったものと考えられる。なお氏は一方で政治家の一面をもち、衆議院議長を務めたこともある。
そしてなんと現在の「近江鉄道(株)」は創業者が滋賀県出身であり、第二次大戦中に苦境にあった同社を同郷の堤康次郎が救うために西武グループの子会社にして今に至っているもので、
同社の鉄道車両は関東で走っていた西武鉄道の車両の"お下がり"を利用している。このように"西武と近江はつながっている"。
堤康次郎氏の死後,”西武鉄道(現、西武)グループ”(土地開発などの不動産関連や西武鉄道)の経営を氏の三男の堤義明(1934=昭和9年~)氏が、”西武流通(後のセゾン)グループ”(西武百貨店など流通部門)の経営を二男の堤清二(1927=昭和2年~2013=平成25年)氏が継承した。(二人は異母兄弟)
同社の鉄道車両は関東で走っていた西武鉄道の車両の"お下がり"を利用している。このように"西武と近江はつながっている"。
堤康次郎氏の死後,”西武鉄道(現、西武)グループ”(土地開発などの不動産関連や西武鉄道)の経営を氏の三男の堤義明(1934=昭和9年~)氏が、”西武流通(後のセゾン)グループ”(西武百貨店など流通部門)の経営を二男の堤清二(1927=昭和2年~2013=平成25年)氏が継承した。(二人は異母兄弟)
↓堤義明氏(左)と堤清二氏(右) (写真は日本経済新聞より引用)
・・というわけで、西武百貨店火災の時点で堤清二氏は同店のオーナー店長だったのだが、”東京大学経済学部卒で経済学博士である一方で「辻井喬(つじいたかし)」というペンネームをもつ小説家・詩人”でもあった氏が何故に“鎮火直後の「冠水商品大安売り」という失策”をしてしまったのだろうか?
これだけのご仁も余程 気が動転していたのだろうか?・・結果として西武百貨店の歴史に汚点を残した一件であった。
◎西武百貨店の火事(3) イカリ消毒社は堤氏に赦免されて後の発展につながる
イカリ消毒(株)は1957年に創業して間もなく創業者が死去したため、その息子二人(黒澤眞次氏、黒澤敬氏)が事業継承して間もない1963年に西武の火事を起こしてしまった。時に眞次氏23才、敬氏21才だった。
鎮火後、イカリ消毒の経営者の二人は「刑務所に行って死んでお詫びする」ことも考えながらすぐさま堤清二氏のもとへ謝罪にうかがったところ、清二氏から驚くべき言葉を聴いた、それは・・
「君たちはまだ若い。それに君たちの仕事は今後ますます必要とされるだろう。このような事故を二度と起こさないことを誓い、世のため人のために頑張りなさい」
その上でさらに清二氏は”損害額のほとんどを西武側で負担”したのだった。
その有難い言葉と処置の意味を肝に銘じた二人は、それ以来”知恵と技術の向上と絶対の安全”を誓ったが、先ずはこの火事は自分たちが”危険物取扱い”に資格が必要なことさえ知らなかったという無知に気づき、以後は” 危険物取扱主任”資格をはじめとして各種資格取得をして、
特に黒澤眞次氏は82種もの資格を得た。社員にも奨励した結果、現在では社員650人全員の取得資格総数は4500におよんでいるとのこと。
特に黒澤眞次氏は82種もの資格を得た。社員にも奨励した結果、現在では社員650人全員の取得資格総数は4500におよんでいるとのこと。
その他にも”世のためになること”に注力するなどで信用と実績を積み、今や「イカリ消毒(株)」は・・消毒・害虫駆除の分野のトップ企業として年商150億円となった。・・これは堤清二氏の偉業というか英断による結果とも言えるだろう。
◎西武百貨店の火事(4)パトカーの交信内容を聴いていた私
この火事が起きた日は高校生の私にとって夏休みの最中だった。当時の私の趣味の一つに”アンプや受信機の製作”があったのですが、その流れで”市販のFMラジオの中身のコイルを少し細工して”警察無線を傍受できるように改造していた。今は傍受不可能だが当時は”パトカーと警視庁の交信”などが聴けた。
その日の昼過ぎにたまたま改造ラジオのスイッチを入れて警察無線傍受を始めたら、池袋の西武百貨店の火事に(消防車だけでなく)出動したパトカーの無線交信が入ってきたので、慌てて2階の窓から東方の池袋方向を見たら確かに大量の煙が見えた。(自宅から西武百貨店までは直線距離にして約2.5キロだった)
私にとってこの火事発生のニュースは新聞はもちろんテレビでも伝わる前に知ったことになったのですが、ここからお話が飛んで・・
1961(昭和36)年4月12日にソ連(現、ロシア)のユーリイ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功しましたが、これもたまたまこの日の午後(時刻は記憶にないのですが)に短波放送が聴けるラジオのダイヤルをまわしていたら、普段は昼には聞こえない「モスクワ放送(日本語版)」が聞こえて、なんとその内容が「今、ソ連の宇宙飛行士が地球の周り回っています!という実況中継のようなものだった」ので私も興奮した。
なぜなら世界初の人工衛星がこれもソ連によって打ち上げ成功した(忘れもしない)1957年10月4日から3年半しか経っていなかったから。
この有人宇宙飛行の件もまた” 新聞、テレビで伝わる前に知った”ことになったわけですが、後年に知ったのは”ソ連はこの有人宇宙飛行が成功するか否か分からないために、ガガーリン(本来は軍人)が宇宙飛行中に「2階級特進」を本人に伝達した”ということなので、
ひょっとすると私が聴いたモスクワ放送の内容は”ガーリンが地球の周りを一周して無事帰還に成功”した後に録音版を流したのではないかと思える。それはもちろんリアルタイム放送中に失敗したらマズイでしょうから。
↓ユーリイ・ガガーリン(写真は「スプートニク日本ニュース」より)
今、窮地に立つ西武百貨店だが、その旗艦店である「西武池袋本店」は、かつて「日本一」や「日本初」を誇るものが沢山ありました。
・売上高日本一:1983年に、当時それまでトップだった三越本店を抜いて売り上げ1位になっていた。
↓1963年師走の西武百貨店の売り上げ金勘定での札束の山 (以下の写真3枚はTBSテレビ「ひるおび」より)
・百貨店として初の「パリ オフィス」開設。その結果、エルメス、アルマーニなど有名ブランドを多数導入し、特にラルフローレンを日本へ初めて紹介して普及させた。
・百貨店屋上にヘリポート設けて観光事業は日本初・・最盛時には6台のヘリコプター発着。
↓「西武スカイ ステーション」と名付けた屋上ヘリポート(1959=昭和34年)
・百貨店の包装紙デザインに外国人を日本初採用。1959(昭和34)年にスウェーデンのデザイナー「スティグ・リンドベリ」氏によるデザインを包装紙に採用。図柄は”百貨店の多様な品揃えを表して楽しさを感じる”もので人気があった。
↓スティグ・リンドベリ氏デザインの包装紙 (私の保有品)
しかし西武のイメージ変化に対応させるべく、その使用は1975(昭和50)年までにして同年から日本の著名なグラフィックデザイナー田中一光氏による”青と緑の円で構成する清楚な感じ”のデザインを採用している。
↓田中一光氏のデザイン(これは紙袋版)
ちなみに日本初の”百貨店オリジナル包装紙”は三越のもので、”濃いピンクの丸っこい石が転がっているようなデザイン"は著名な画家の猪熊弦一郎氏のもの。
・日本で最初に「バルサミコ酢」を紹介販売して現在の普及につなげた。
このバルサミコ酢の件は、今から35年くらい前に故田中千博氏(フードシステム研究所所長、食卓懇話会など主催、食関連著書多数)から私が直接お聞きしたのですが、
「毎年、相当な期間を海外で"食"関連事情を調べることに費やしている中で、イタリア北部で”ワインと濃縮ぶどう果汁を原料にして熟成させて作る酢”で「アチェート・バルサミコ」と称しているものに出会ったが、これがすばらしいので日本に紹介するべく、西武池袋店に”展示紹介・販売”するよう提案して採用された」・・ということでした。
「毎年、相当な期間を海外で"食"関連事情を調べることに費やしている中で、イタリア北部で”ワインと濃縮ぶどう果汁を原料にして熟成させて作る酢”で「アチェート・バルサミコ」と称しているものに出会ったが、これがすばらしいので日本に紹介するべく、西武池袋店に”展示紹介・販売”するよう提案して採用された」・・ということでした。
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さてさて、百貨店が「諸行無常」のならいに抗う方法を見つけてほしいものです。
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