徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2023年09月

    ※以下文中の「西武百貨店」は現在「西武」と称しています

    ◎百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位なのに・・
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    (株)そごう西武の労働組合は、親会社であるセブン&アイ・ホールディングスがそごう西武を米国の投資ファンド会社に売却する方針発表したことに反対して、先日(2023.9.1)に旗艦店である西武池袋本店でストを行った。しかし同じ日に売却決定が発表された。

    ここではスト決行に至った細かい理由は省略しますが、特に西武池袋本店の誇りある従業員の思いは察するに余りあるもの。なにしろ百貨店店舗別売上で西武池袋本店は全国第3位(2022年)※を誇っていて、これだけ頑張っているのに・・という思いだろう。

    ※1位:伊勢丹新宿本店3276億円 / 2位:阪急うめだ本店2610億円 / 3位:西武池袋本店1768億円 / 4位:JR名古屋高島屋1724億円 / 5位高島屋日本橋店1430億円 / 6位:三越日本橋本店1384億円(以下省略しますが、全店舗総額では高島屋が7611億円でトップ)

    かつて東京都豊島区南長崎に在った我が家から最寄りの西武池袋線の東長崎駅から2駅先の池袋駅(終点)に直結した西武百貨店まで”ドア・ツー・ドア”の所要時間は15分・・なので私は、もの心がついてから東京を離れる22才までの間、最も利用したデパートが西武池袋店だったから、現在の状況には寂しさを感じながら今後を心配するものであります。

    ◎私が最初に見た大きなビルが池袋の西武百貨店
    私が5才の頃、祖父に連れられて池袋に行った時のこと、西武百貨店の建物に面した歩道を歩きながら祖父から「どうだい、ずいぶん高い建物だろっ!」・・と上を指さしながら言われたことを覚えている。※

    ただし、その時は建物の完成直前で、まだ一部工事が行われているような状態ではあった。しかも現在のように南北に長い建物になる前だったので南側半分の長さだったのだが・・。
    今、調べてみると西武百貨店の前身である武蔵野百貨店の跡に建物が完成したのは1952(昭和27)年9月だそうで、私はその工事を見ていたことになる。西武はその後に北側へ増築や改装を重ねている。

    西武池袋店最初の建物(私はその完成直前の姿を見ていた)(写真は1950年代前半撮影か?:ブログ「あの町 この道」より引用)・・その後、同店は写真手前=北方向に増築して伸びた)
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    ※「高い建物」と言っても、当時は高さ制限で31メートル止まりで、普通は8階建てが限度だった! これは1919(大正8)年に制定された「市街地建築物法」によって建物の高さにいわゆる「百尺制限」が適用され、百尺=30.303メートル以下に制限されていたものが・・

    1931(昭和6)年に同法が改正されてメートル表記にして31メートル以下とされて以後、1961年の建築基準法改正で容積率による制限方式への変更を経て、1970年に絶対的高さ制限が撤廃されるまで続いたから。

    ◎東に西があり、西に東がある池袋?!
    現在の池袋駅”東”口には”西”武(百貨店)が在り、”西”口には”東”武(百貨店)が在るので、そのようによく言われるのだが、昔は”東に西があり、西に東がある”のは今と変わらないものの中身がちがっていた・・

    というのは・・”東”口には”西”武(百貨店)が在って、”西”口には”東”横(百貨店)が在った時代があったから。(後に、西口に東横と東武が短期間だが並立した時期もある)

    昔の池袋には百貨店が最多で5店存在したことがあり・・

    西武百貨店(東口)=開業1949(昭和24)年~
    東横百貨店(西口)=開業1950(昭和25)年~閉店1964(昭和39)年(東武に譲渡)
    丸物百貨店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店1969(昭和44)年(西武に譲渡後パルコ第一号店になった)
    三越池袋支店(東口)=開業1957(昭和32)年~閉店2009(平成21)年(現在、ヤマダ電機「LABI 1」店)
    東武百貨店(西口)=開業1962(昭和37)年~

    右に丸物百貨店、左に西武百貨店(松井一彦氏1967年撮影)
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    左は東横百貨店(高木進一氏1963年撮影)、右は建設中の三越池袋支店(1957年、撮影者不明)
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    上の写真3枚は全て豊島区立郷土資料館発行誌「かたりべ」掲載より引用

    ◎西武百貨店の火事(1)捨てたマッチの火が招いた大惨事
    1963(昭和38)年8月22日12時50分頃、西武池袋店7階から出火。
    死者7名、負傷者216名となる。(当日は休業日で来店客は無し)

    出火原因はマッチの残り火。休業日を利用して店内消毒を専門業者7人が行っていたが、作業員がタバコに火をつけた後のマッチを床に捨てたところ、床にこぼれていた消毒液に引火し、さらに塗装業者のシンナーにも引火したので火のまわりが速く、当時はスプリンクラー設置義務もなかったために初期消火にも失敗して、100台の消防車が出動して梯子を伸ばしても7階までなので8階にも延焼して鎮火したのは同日20時35分。

    消毒会社と西武店員の死者・負傷者を出すに至った。被害総額は当時の金額で200億円。この火事を契機にスプリンクラー設置義務が制定された。

    西武百貨店火事のニュース映画タイトル (中日ニュースより)
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    燃える西武百貨店(同上ニュース映画より)
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    私が子供の頃は、空気が乾燥する冬には子供たち数人のグループが拍子木をカッチ、カッチと叩きながら「火の用心、マッチいっぽん火事のもと!」と大声を出しながら町内を歩いて巡っていたものだが、まさに西武百貨店の火事は"その言葉どおり"になった。

    ◎西武百貨店の火事(2) 鎮火直後セールで汚点
    なんと火事の2日後、同店は「冠水商品大安売り」を告知したものの、それを知った人たち5万人が押し寄せたために中止となったが、これには「多くの死者、犠牲者を出した直後で不謹慎である」との批判が出たことも影響している。

    私は当時これを聞いた時、「さすが近江商人! 何はともあれ商売か!?」と思ったものでした。
    しかし後年になって、”近江商人”とは近江の国(現在の滋賀県)に自家、拠点を構えてそこから全国に向けて行商する人たちを称したものであることを知ったことにより、”西武経営者は厳密には近江商人ではない”ことになると認識した。

    ちなみに、創業者が近江国(おうみのくに)または滋賀県生まれの会社は・・西川(寝具) / 小泉産業(家電その他) / 高島屋(百貨店) / 伊藤忠商事・丸紅(商社::両社とも創業者は同一人物) / 日本生命(保険) / ワコール(女性用下着その他)など。

    しかし、”西武”が近江商人と全く無関係ではないとは言えるその理由は・・

    現在の西武関連の多数の会社の基を一代で作り上げたのは滋賀県(昔の近江)生まれの堤康次郎(やすじろう:1889~1964)氏であり、早くに父を亡くした氏は母方の祖父と一緒に、行商はしなかったものの色々な仕事をした中には、滋賀県内での耕地整理と土地改良というものがあって、

    これが後に氏による伊豆、箱根の観光地、軽井沢の別荘地、東京の高級住宅地「目白文化村」などの開発に影響を与え、西武鉄道、西武百貨店の展開につながったものと考えられる。なお氏は一方で政治家の一面をもち、衆議院議長を務めたこともある。
    堤康次郎氏
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    そしてなんと現在の「近江鉄道(株)」は創業者が滋賀県出身であり、第二次大戦中に苦境にあった同社を同郷の堤康次郎が救うために西武グループの子会社にして今に至っているもので、

    同社の鉄道車両は関東で走っていた西武鉄道の車両の"お下がり"を利用している。このように"西武と近江はつながっている"。


    堤康次郎氏の死後,”西武鉄道(現、西武)グループ”(土地開発などの不動産関連や西武鉄道)の経営を氏の三男の堤義明(1934=昭和9年~)氏が、”西武流通(後のセゾン)グループ”(西武百貨店など流通部門)の経営を二男の堤清二(1927=昭和2年~2013=平成25年)氏が継承した。(二人は異母兄弟)

    堤義明氏(左)と堤清二氏(右) (写真は日本経済新聞より引用)
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    ・・というわけで、西武百貨店火災の時点で堤清二氏は同店のオーナー店長だったのだが、”東京大学経済学部卒で経済学博士である一方で「辻井喬(つじいたかし)」というペンネームをもつ小説家・詩人”でもあった氏が何故に“鎮火直後の「冠水商品大安売り」という失策”をしてしまったのだろうか?

    これだけのご仁も余程 気が動転していたのだろうか?・・結果として西武百貨店の歴史に汚点を残した一件であった。

    ◎西武百貨店の火事(3) イカリ消毒社は堤氏に赦免されて後の発展につながる
    イカリ消毒(株)は1957年に創業して間もなく創業者が死去したため、その息子二人(黒澤眞次氏、黒澤敬氏)が事業継承して間もない1963年に西武の火事を起こしてしまった。時に眞次氏23才、敬氏21才だった。

    鎮火後、イカリ消毒の経営者の二人は「刑務所に行って死んでお詫びする」ことも考えながらすぐさま堤清二氏のもとへ謝罪にうかがったところ、清二氏から驚くべき言葉を聴いた、それは・・

    「君たちはまだ若い。それに君たちの仕事は今後ますます必要とされるだろう。このような事故を二度と起こさないことを誓い、世のため人のために頑張りなさい」

    その上でさらに清二氏は”損害額のほとんどを西武側で負担”したのだった。

    その有難い言葉と処置の意味を肝に銘じた二人は、それ以来”知恵と技術の向上と絶対の安全”を誓ったが、先ずはこの火事は自分たちが”危険物取扱い”に資格が必要なことさえ知らなかったという無知に気づき、以後は” 危険物取扱主任”資格をはじめとして各種資格取得をして、

    特に黒澤眞次氏は82種もの資格を得た。社員にも奨励した結果、現在では社員650人全員の取得資格総数は4500におよんでいるとのこと。

    その他にも”世のためになること”に注力するなどで信用と実績を積み、今や「イカリ消毒(株)」は・・消毒・害虫駆除の分野のトップ企業として年商150億円となった。・・これは堤清二氏の偉業というか英断による結果とも言えるだろう。

    ◎西武百貨店の火事(4)パトカーの交信内容を聴いていた私
    この火事が起きた日は高校生の私にとって夏休みの最中だった。当時の私の趣味の一つに”アンプや受信機の製作”があったのですが、その流れで”市販のFMラジオの中身のコイルを少し細工して”警察無線を傍受できるように改造していた。今は傍受不可能だが当時は”パトカーと警視庁の交信”などが聴けた。

    その日の昼過ぎにたまたま改造ラジオのスイッチを入れて警察無線傍受を始めたら、池袋の西武百貨店の火事に(消防車だけでなく)出動したパトカーの無線交信が入ってきたので、慌てて2階の窓から東方の池袋方向を見たら確かに大量の煙が見えた。(自宅から西武百貨店までは直線距離にして約2.5キロだった)

    私にとってこの火事発生のニュースは新聞はもちろんテレビでも伝わる前に知ったことになったのですが、ここからお話が飛んで・・

    1961(昭和36)年4月12日にソ連(現、ロシア)のユーリイ・ガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功しましたが、これもたまたまこの日の午後(時刻は記憶にないのですが)に短波放送が聴けるラジオのダイヤルをまわしていたら、普段は昼には聞こえない「モスクワ放送(日本語版)」が聞こえて、なんとその内容が「今、ソ連の宇宙飛行士が地球の周り回っています!という実況中継のようなものだった」ので私も興奮した。

    なぜなら世界初の人工衛星がこれもソ連によって打ち上げ成功した(忘れもしない)1957年10月4日から3年半しか経っていなかったから。

    この有人宇宙飛行の件もまた” 新聞、テレビで伝わる前に知った”ことになったわけですが、後年に知ったのは”ソ連はこの有人宇宙飛行が成功するか否か分からないために、ガガーリン(本来は軍人)が宇宙飛行中に「2階級特進」を本人に伝達した”ということなので、

    ひょっとすると私が聴いたモスクワ放送の内容は”ガーリンが地球の周りを一周して無事帰還に成功”した後に録音版を流したのではないかと思える。それはもちろんリアルタイム放送中に失敗したらマズイでしょうから。
    ユーリイ・ガガーリン(写真は「スプートニク日本ニュース」より)
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    ◎西武百貨店の「日本一」「日本初」(バルサミコ酢も)
    今、窮地に立つ西武百貨店だが、その旗艦店である「西武池袋本店」は、かつて「日本一」や「日本初」を誇るものが沢山ありました。

    ・売上高日本一:1983年に、当時それまでトップだった三越本店を抜いて売り上げ1位になっていた。
    1963年師走の西武百貨店の売り上げ金勘定での札束の山 (以下の写真3枚はTBSテレビ「ひるおび」より)
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    ・百貨店の建物の長さ日本一・・現在の池袋本店に増築完了した際には「日本一どころか東洋一」。

    ・百貨店として初の「パリ オフィス」開設。その結果、エルメス、アルマーニなど有名ブランドを多数導入し、特にラルフローレンを日本へ初めて紹介して普及させた。

    ・百貨店屋上にヘリポート設けて観光事業は日本初・・最盛時には6台のヘリコプター発着。
    「西武スカイ ステーション」と名付けた屋上ヘリポート(1959=昭和34年)
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    ↓屋上ヘリに乗り込み新婚旅行に向かうカップル(1959=昭和34年)
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    ・日本最初のセレクトショップと言われる「SEED館」設置。

    ・百貨店の包装紙デザインに外国人を日本初採用。1959(昭和34)年にスウェーデンのデザイナー「スティグ・リンドベリ」氏によるデザインを包装紙に採用。図柄は”百貨店の多様な品揃えを表して楽しさを感じる”もので人気があった。
    ↓スティグ・リンドベリ氏デザインの包装紙 (私の保有品)
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    しかし西武のイメージ変化に対応させるべく、その使用は1975(昭和50)年までにして同年から日本の著名なグラフィックデザイナー田中一光氏による”青と緑の円で構成する清楚な感じ”のデザインを採用している。
    田中一光氏のデザイン(これは紙袋版)
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    ちなみに日本初の”百貨店オリジナル包装紙”は三越のもので、”濃いピンクの丸っこい石が転がっているようなデザイン"は著名な画家の猪熊弦一郎氏のもの。

    ・日本で最初に「バルサミコ酢」を紹介販売して現在の普及につなげた。
    このバルサミコ酢の件は、今から35年くらい前に故田中千博氏(フードシステム研究所所長、食卓懇話会など主催、食関連著書多数)から私が直接お聞きしたのですが、

    「毎年、相当な期間を海外で"食"関連事情を調べることに費やしている中で、イタリア北部で”ワインと濃縮ぶどう果汁を原料にして熟成させて作る酢”で「アチェート・バルサミコ」と称しているものに出会ったが、これがすばらしいので日本に紹介するべく、西武池袋店に”展示紹介・販売”するよう提案して採用された」・・ということでした。
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    さてさて、百貨店が「諸行無常」のならいに抗う方法を見つけてほしいものです。
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    ◎科学博物館(略称:科博)に1日で1億円の寄付集まったが・・
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    国立科学博物館(東京・上野)は、同館へ国から支給されている運営費交付金が年々削減されている中、コロナ禍で来館者減となって入館料による収入も減り、さらなる光熱費や物価の高騰で収蔵用の標本や資料の収集と500万点以上ある標本類の保存のための資金繰りが苦しくなっていることを理由に先日(2023.8.7)、インターネットを通じて寄付を募るクラウドファンディング(CF)を始めたところ、驚くべきスピードで募金が寄せられて開始9時間20分後の午後5時20分には目標としていた1億円を達成した・・というニュースが流れて、私はそのスピードと集金額よりもむしろ”日本の人たちの文化度、民度の高さの現れ”として感動した。

    このクラウドファンディングは11月5日まで続行する予定だそうだが、何と今日(2023.09.09現在で7億4800万円超も集まっている!

    科学博物館内展示物一例、右は「フタバスズキリュウ」の骨格化石
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    ◎牧野博士の植物標本も収蔵する「小石川植物園」もCFが!
    牧野富太郎博士はその94年の生涯で1500種の植物に命名し、約40万点に及ぶ植物標本や観察記録(図)を残したが、その多くは”終の棲家”として約30年間住んだ東京都練馬区の自宅(現、練馬区立牧野記念庭園)に残されていたものの、(牧野博士は名誉都民第一号でもあり)その後東京都が譲り受けて現在「東京都立大学 牧野標本館」(東京都八王子市)に収蔵されているが・・

    当然のように、長年在籍した東京大学にも一部が残っていてそれらは博士が37年間もかかわった「小石川植物園」(←通称であり、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」:東京都文京区)に収蔵されている。

    小石川植物園内の植物学教室で撮影された牧野富太郎博士(東京大学HPより)
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    5万坪弱の植物園に囲まれた本館(建物内は非公開)
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    本館内には研究室、実験室、図書館、80万点の植物標本の収蔵庫が在るが、1939(昭和14)年に完成した建物は雨漏り、外壁損傷が発生し、標本収蔵庫は満杯なうえに保管のための湿度温度調整用機器も老朽化などで早急な対策が必要だが「資金が無い」と園長の北川篤教授は訴えて・・

    丁度、小石川植物園発足150周年でもあり、募金を受け付けるキャンペーンを行っていて、うたい文句は・・「緑の命を、未来につなごう」・・として「Life in Green Project」と銘打っている。

    期間は2023年4月から2024年3月。目標金額3億円。・・ところが・・現在(2023年9月)のところ約1536万円しか集まっていないようだ。

    先日、私がたまたまテレビで観たのですが、”科学博物館1日で1億円集まる”のニュースに関連して、この小石川植物園の窮状も伝えたシーンでは・・同園の一研究員(なんと白い肌の欧米系外国人)が標本収蔵庫の中で”牧野博士が学名を与えたとしてよく知られる「キンモクセイ」の標本を博士自ら作製してサインも記入した現物”を見せてくれながら指さしたのはキンモクセイの葉の先端付近が”虫に喰われたか乾燥しすぎてパリパリになって折れたか?”で欠損している状態であり、こう言った「このように標本管理がうまく行っていないので困っています!」。

    ↓キンモクセイ:博士が命名した学名は・・Osmanthus fragrans Lour. Var. aurantiacus Makino
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    ここで、科学博物館と小石川植物園の両者はインターネットも使って募金しているのに結果の差は何が原因かを考えると・・両者とも募金に至った詳細説明では運営資金不足を訴えているものの、各々のキャッチフレーズの方向が異なり、前者は「国立科学博物館500万点のコレクションを次世代へ」とやや具体的な内容で語り、後者は「緑の命を、未来につなごう」、「Life in Green Project」という抽象的な表現.。

    もう一つ影響しているのが・・前者は今流に「クラウドファンディング(CF)」という言葉を使っているのに対し、後者は「寄付」という言葉を使っていること。

    後者は前述の”牧野博士作製の標本がダメージを受けた現物”を見せて窮状を訴え、「クラウドファンディング(CF)」という言葉を使ったほうが良いのではないだろうか!

    ◎大賀ハス存続の危機にもクラウドファンディング !
    3000年も地中で眠っていたという貴重な大賀ハスなのですが、どうやらその存在が危うくなっているようで、千葉市役所前に在った大賀ハスも消滅し、安藤忠雄氏設計の本福寺・水御堂(みずみどう:兵庫県淡路島)の大賀ハスも非常に少なくなっている様子。

    大賀ハスと大賀一郎博士
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    安藤忠雄設計の本福寺・水御堂の屋根の池の大賀ハスが衰退・・
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    また”大賀ハスと外国ハスの交配種”が千葉市の「みなと公園」の池に2種類植わっているのですが、これも消滅が近い様相を呈していて、一つは「中日友誼蓮(ちゅうにちゆうぎれん)」で、このハスは大賀博士と坂本祐二(和歌山県御坊市在住のハス研究家。ハスに関する著書もある)氏が大賀ハスの種を二人それぞれ50粒ずつ計100粒を、日本と中国の友好と平和の象徴として中国に寄贈したところ、中国武漢植物園にてその大賀ハスの種と中国古代ハスを交配した種が作られ、これが日本に贈られたもの。

    ↓「みなと公園」(千葉市)の池に建つ「中日友誼蓮」と「舞妃蓮」の説明看板
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    もう一つは「舞妃蓮(まいひれん)」で、これは1966(昭和41)年に坂本祐二氏が大賀ハスと王子蓮(アメリカ黄蓮)を交配して作ったもので、花弁が舞うように閉じるさまが優雅な花。これを1968(昭和43)年に当時の皇太子殿下(現、上皇)ご夫妻がご覧になられたのを機に、美智子妃の美しさになぞらえて命名されたもの。

    この2種のハスは私が10数年前に観た際には池全体にわたって大量に生えていた(残念ながら花は観ていない)のですが今年(2023年)7月に観たら、「中日友誼蓮」は姿が無く、説明看板によると、一旦別の場所に移して元気回復させてから再びこの池に戻す予定とのこと。一方の「舞妃蓮」は極端に少なくなっていてかろうじて存在しているような状態です。

    ここの池ではハスの代わりにスイレン(睡蓮)がはびこっていて、この状況は安藤忠雄氏設計の水御堂の池も同じように見えますから、”スイレンは強し!”と感じます。

    「舞妃蓮」はスイレンに囲まれてわずかに存在。(2023年7月下旬/千葉市・みなと公園)
    大きく丸い葉がハス、小さく「パックマン」のような葉がスイレン
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    ハスの毎年開花にはボランティアとクラウドファンディング必要
    大賀ハスに限らずハスの花を継続的に毎年咲かせるために理想的には、3年に一度は土を入れ替え、土中で増えすぎて密集している蓮根を間引いて整理するなどの手入れの必要があるそうで、これをしないと花咲かずに葉ばかり出るようになり、やがては衰退するそうで、前述のような”各地のハスの衰退状況”はこの手入れが行き届いていない結果だろう。

    千葉市に在る「ハス品種見本園」は東京大学の旧、緑地植物実験所に在ったハスの管理を受け継いだもので、大賀ハスをはじめ世界各地のハス約120種をそれぞれの種類ごとに”一辺280センチの正方形で深さ60センチのコンクリート製の枡(ます)”などで栽培維持していますが、前述のように土(”田土”が最適)の入れ替え、蓮根の整理、肥料やりなどの作業を「大賀ハスのふるさとの会」のボランティアの人たちが行っている。

    枡で育成中の大賀ハスを見学する中国の「大連市普蘭店区古蓮研究所」の視察団:2016年10月 
    (大連市普蘭店の地はかつて大賀博士が中国古代ハスを発見した所)    
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    毎年持続してハスの花が咲くためのこのような作業には人の労力の必要のみならず、土や肥料代など経費が発生して、この「ハス品種見本園」では1枡当たり年間3万円かかるそうで、毎年開催の「ハス祭り」や「観蓮会」で”花托(かたく)※”や”ハスの絵葉書”などのハス関連グッズを販売したりして資金捻出していたが、コロナ禍の影響で収入激減してしまったので・・

    「ハス品種見本園」の維持管理継続のためのクラウドファンディングをすることになり、目標額:35万円として、2021年3月から約一か月かけて72人から46万8千円が集まって、その後の運営が継続されているとのこと。

    「花托」とは、ハスの場合は花の中央の黄色い円形部分で表面に10数個~30数個の小さな穴があるもので、花びらが散った後はその直径が大きくなり緑色に変化し穴も少し大きくなり、最終的には直径10センチぐらいなどになり茶色になる。穴が大きくなった花托は蜂の巣のような印象となり、それぞれの穴には種(実)が入っている状態になる。
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    (↑真ん中の写真は「舞坂の自然を守る会・ちゅうなあ通信」より引用)  
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    秘話:現在日本では大賀ハスの他にも古代ハスが発見されていて、一つは埼玉県行田市の「行田ハス」で、推定1400~3000年前のものと言われているが、その発見の契機がおもしろく、1971年にある公共施設の工事現場で開花したもので、ハスの種というものは堅い殻に包まれていてしかもその表面は撥水性があるため水を吸わない状態で何千年も休眠できるようだが、工事用の重機によって殻の一部が破れてそこから水が入ったために眠りを覚まされて発芽したと考えられている。
    (現在、園芸用にハスを種から育てる場合には必ず種の尻部を切り欠いてから水に漬ける手順がとられる。)
    もう一つは、群馬県館林の城沼のハスで、これも前述の行田ハスと同様、推定1400~3000年前のものと分析されているが、ここのハスは太古の昔から絶えることなくこの沼で生き続けていると考えられている。
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    飛話:近年は非正規就労者や介護職などの給与水準の低さが指摘されていますが、最近は学芸員(博物館や美術館で働く専門職)についても同様の指摘がでてきました。

    そこで思い出すのは・・私が小学校高学年時に上野の科学博物館に(父親に付き添われて)行き、アンモナイトの化石とデスモスチルス
    (日本やサハリンあたりに生息して1300万年前くらいに絶滅したとされる海獣)の骨の一部の化石(と思われるモノ)を、同館の地下に在った地学課で鑑定をしてもらって、前者は約2億年前のセラチテスという部類。後者はデスモスチルスではない他のもっと新しい時代のモノであるが種類は判定不能という結果でしたが・・

    鑑定して下さった地学課長の尾崎博さんは当時のテレビにもコメンテーターとして出演するほどの方だったのですが、私がお礼を言っての帰り際に尾崎課長から「君、地学で将来食っていくのは難しいよ」というショッキングな言葉を投げかけられたのでした!・・

    それは、今から70年ほど前の昔も博物館の学芸員は薄給だったという背景があったからでしょうが、最近の各所で行われているクラウドファンディングの結果で学芸員給与アップに反映されれば良いのですが・・。
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