今や「東京タワー」は「東京スカイツリー」の登場後、やや影が薄い感がありますが、私は丁度その東京タワーの建設途中から完成までの姿を遠くからですが眺めていた経験があり、また後年には建設に従事した職人たちが超高所で命綱もつけずに作業して、特に鉄骨のリベット打ちに特殊な技が使われたことなどを知ったこともあって愛着があります。
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TOKYO TOWERのHPより

◎昔は9キロ離れても日増しに背が伸びる東京タワーが見られた
東京タワーは1957(昭和32)年6月29日に着工して、1958(昭和33)年12月23日に完成。その時点でパリのエッフェル塔の高さ321(現在は330)メートルを抜いて、333メートルの”塔としては世界一”の建造物が約1年半で出来上がったことになります。

この時期は私が小学6年生から中学1年生だった。通った東京都豊島区立椎名町小学校(現存)と同豊島区立長崎中学校(現在、廃校で解体消滅)はともに東京タワーの建設地からは直線距離にして9キロ強の地に在ったが、たまたまその間に高いビルなどの視界をさえぎるものが無かったという(今では考えられない※)状況だったために、この小学校の教室の窓から(推定ですが)地上100メートルくらいまでに伸びた骨組みが見えることに気が付いてからは徐々に上に伸びていく姿を見るのが楽しみでした。

しかし、その途中で卒業して中学校入学となって、「もう見られない」と思っていたら、中学校の教室からも見えることがわかって心中密かに喜んだもので、結果、見事東京タワー完成を見届けたのでした。

※東京タワーを足元で見上げる以外に、やや離れた地点からでもそのほぼ全体の姿がすっきり見える場所は現在の東京都内でも在ります。私が知っている例は六本木交差点(有名な「アマンド」という洋菓子と喫茶の店がある)から東麻布方面(旧、飯倉地区)に向けて東南東に伸びる道路が向かう正面に1.3キロ先の東京タワーがほぼすっきり見えるケースです。

六本木交差点から望む東京タワーは”額縁効果”(←小津安二郎監督が多用した)に近い見え方
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↑写真は「townphoto.net」より引用

◎リベット16万8千個で結合した鉄骨で東京タワーが建った!
使われた鉄骨は塔本体に3600トン、電波送受信部に80トン、計3680トン。それを組み立てるために16万8千個のリベットが使われた。(ボルトとナットも多数使われてはいる)

建造中に高所で鉄骨どうしを接合する際には(さすがに、タイタニック号建造時に部分的に使われた”手持ちのハンマーによるリベットの打ち込み(かしめ)という方法”はとられなかったが)職人の使う自動ハンマー工具でリベットを一本一本打ち込まなければならなかった。

◎800度Cのリベットを投げる人と受ける人のスゴ技
建設現場で800度に加熱されて赤熱したリベットを、一人の職人が”柄の長いヤットコ”のようなものでつまむと同時に10~20メートル上方に居るもう一人の職人が持つ” メガホンのような形をしたリベット受け”にめがけて正確に投げるという至難の業が使われた。それはあたかも野球の投手が捕手のミットにストライクの球を投げるようなものだが、野球のスピードあるボールと違って、投げ上げられたリベットが放物線を描いてその頂点での静止に近い状態で受け手に届くようにするという技だった。しかも、投げる方も受ける方も高所の足場が悪い中で、赤熱のリベットを取りこぼせば大やけどどころか死をまねく恐れがあるという危険をともなう作業だった。

↓建設中の鉄骨に多数のリベットが見られる
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↓炉から摘まみ出された800度のリベット
(以下5枚の写真はNHKテレビ番組「探検バクモン」から引用)
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↓受け手に向けて投げられたリベット
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↓この取っ手の付いた受け器でキャッチ
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↓飛んできたリベットをキャッチしようと身構える職人
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↓まだ赤熱のリベットがかしめられる様子
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◎鉄骨素材:東京タワーは軟鉄と鋼鉄、エッフェル塔は錬鉄
東京タワーの主体を成す鉄骨は中間の大展望台(メインデッキ)までは軟鉄材、それより上層は鋼鉄材が使われた。鋼鉄材にはアメリカ軍から払い下げられたM4やM47戦車の鋼材を溶かしたものが使われた。

一方、1889年に完成したエッフェル塔の鉄骨は錬鉄(れんてつ)材が使われた。この錬鉄という素材はあのタイタニック号の船体一部のリベットにも使われ、炭素含有量が少ないために、鉄材の中では軟らかいものだった。それゆえに塔全体の強度を確保するためには、軟鉄や鋼鉄を使った東京タワーより多くの鉄骨が構造的に必要だった。

その結果は、東京タワーの使用鉄骨3680トンに対して、エッフェル塔は7300トンと約2倍となっている。しかしそのためエッフェル塔の方が重厚で力強く見える。ちなみに使用リベット数も前者16万8千に対して後者250万。

◎東京タワー誕生理由
それまではNHKテレビ、日本テレビ、TBSテレビは各局独自のテレビ電波送信アンテナをそれぞれ東京都内の異なった場所に立てていたが、そうすると家庭などでの受信アンテナをチャンネルを変える度にそれぞれの局方向に向けなければならないことになり、それを一本のアンテナで対応するのは無理というケースも多く発生していた。しかも各社の送信アンテナの高さは153~177メートルであり、広い関東平野に電波を届けるには低かった。

そこで各社の送信アンテナを文字通り一本化して同時に高さのある塔が必要という声が民間から、そして電波や放送を管轄する郵政省からも出ていた。そこに目を付けたのが、なんと”大阪の新聞王”と言われた前田久吉氏。日本工業新聞社、後の産業経済新聞社や大阪放送(ラジオ大阪)、 関西テレビ放送などを経営していたので、”東京に新テレビ塔を立てる”という事業は参入しやすかった。

ちなみに関西のテレビ放送各社は、大阪府と奈良県の県境に位置する生駒山の山頂に送信アンテナを立てているので電波は楽に関西一円に届いている。アンテナ自身は低いが、なにしろ生駒山の山頂は海抜642メートルだから、アンテナの足元の高さだけで、海抜0かそれに近い土地に立つ東京スカイツリーの634メートルを超えているという好立地を活かしている。(生駒山は大阪市の最西部からでも15キロくらいしか離れていない) このような関西から見れば関東のテレビ電波送信アンテナは”低すぎる!”と前田氏が考えたのは自然でしょう。

かくて、前田氏は「日本電波塔株式会社」を作り、多方面から資金を集めて総工費30億円(当時)で東京タワーを完成させた。それとほぼ同時に産業経済新聞社を手放した。

◎「マザー牧場」もつくった前田氏
前田氏にはもう一つ夢があった。それは大阪の貧しい農家に生まれた氏が子供の頃、夜中にふと目を覚ますと母親が小さな灯りのもとで針仕事をしていた。その母親は日頃「ウチに牛の一頭でもいたら楽になるんやけどな~」と言っていたこともあり、牧場をつくってみようとした。そこで目を付けたのが”日本の畜産業の発祥地である(・・と氏が知っていたか否かはわかりませんが)千葉県”。こうして千葉県富津市の鹿野山に広さ250ヘクタールの土地を入手して、かつての母親の願いにちなんで「マザー牧場」と名付けて1962(唱和37)年に始業。以後、牛、羊、その他の動物も増やし広大な花畑もつくり、観光地化して現在に至っている。

↓マザー牧場のイベントの一つ
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というわけで、東京タワーもマザー牧場も日本電波塔株式会社が経営し、創業から現在まで経営は前田一族が行っている。(現在は創業者の息子さんが社長) ただし同社は2019年に社名変更して「株式会社TOKYO TOWER」となっている。

◎美空ひばり?「東京タワー」エトセトラ
◎東京タワーの出現によって、新たな東京のシンボル(ランドマーク、アイコン)ができ、新しい風景が生まれて、多くの人が様々な思いを抱いた結果、「東京タワー」という言葉の入った曲名あるいは歌詞が入った歌が数えきれないほど多く作られた。

私の中では、ある
うろ覚えの歌謡曲の歌詞「~東京タワーの見える街~」が気になっていて、それが誰の何という曲なのかを覚えていないので、これを機会に調べても依然不明状態。かわりに、あの美空ひばりの「東京タワー」という曲があったことがわかった。(1959年、作詞:野村俊夫/作曲:船村徹)

◎冒頭で”影が薄い”東京タワーと言ってしまいましたが、一部のFM放送電波発信に利用され、また東京スカイツリーが何らかの事情で機能不全に陥った際には、東京タワーが代わって電波を発信できる体制になっており、まだまだ存在価値はあります。

◎2011年3月の東日本大震災では震源地から遠く離れた地に在る東京タワーでもその先端のアンテナ部分が曲がってしまったという情報を私も耳にしていたのですが、地震の2週間後くらいにたまたま六本木のスウェーデン大使館の建物越しに、先端がやや右(西側)に曲がっている姿が見えたので、持っていたガラケーのカメラで撮ったのですが、その映像を他の媒体に移さないままそのガラケーを処分してしまったのでここに載せられないのが残念です。(ちがう方向から見ればもっと曲がっていたかもしれません)

◎東京タワーにまたがれている恰好の地上ビル(地上16階地下2階)の中には昔、日本の大手電機、家電メーカー各社のショールームが存在していたので、私は時々覗きに行きましたが、その際にタワーに上ることはありませんでした。

◎東京タワーが完成した10年後の1968(昭和43)年に、当時の日本テレビ会長の正力(しょうりき)松太郎氏※が「高さ550メートルのテレビ電波送信塔建造の構想」を発表した。これを世間では「正力タワー」と称して一時期は騒がれたものの、様々な理由で結局頓挫したのですが、これについて語るとまた長くなるので割愛します。

正力松太郎=創立させた「日本テレビ」は日本初の民放テレビ局。また「読売新聞」を発行部数世界最大にした。そして野球の「読売巨人軍」を創設した。

P.S.・・ちなみに現在世界最高建築のブルジュ・ハリファ(828m) のいくつかある展望台の内、中間は555mにあり、幻の正力タワーとほぼ同じ高さだが、最高位置の展望フロアは585mにある。

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