徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2022年10月

    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを大学生仲間4人グループがクルマ旅。前回は札幌を出発したところまでのお話。今回はそれより少し西を回ってから帰路につきます。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)
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    ◎余市のニッカウイスキー工場
    札幌から西の小樽を(なぜか)素通りして、積丹(しゃこたん)半島の北側の付け根に当たる余市町(よいちちょう)に至り、ニッカウイスキーの工場(正式名:余市蒸留所)入り口まで来たが中には入らなかった。それには、奇跡的?にも我ら全員が”酒好きではなかった”ということも影響しています。しかし、門の外からでも見えた工場建物独特の”とんがり帽子”の姿は印象に残りました。

    ↓ニッカウイスキー余市蒸留所の正門前からの撮影だけ行った
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    今、調べてみると、ニッカウイスキー(株)※の創業者:竹鶴政孝(1894=明治27年生まれ)氏※はウイスキー作りを学んで英国からリタ夫人を伴っての帰国直後はこの余市工場内敷地に建てた住宅に住み、後に工場外に居をかまえたが、亡くなる1979(昭和54)年まで一貫して余市町内に住んだそうなので、我らが1968年にここを訪れた際にはまだお元気でこの工場内に居られたかも知れない。ただし、奥様のリタさんは1961(昭和36)年に他界されていた。

    ※ニッカウイスキー(株)は2001年にアサヒビール(株)(現、アサヒグループホールディングス)の完全子会社となった。
    ※竹鶴政孝をモデルにしたNHKの朝ドラ「マッサン」が2014年に放送された。

    ◎「ローソク岩」は何か感じる?
    余市町の中心から10キロほど西に(同じ余市町だが奇妙な町名の)「余市町豊浜町(よいちちょうとよはまちょう)」という所があり、そこの沖合約500mの海面からニョキっと垂直に立って高さ約45mになる細長い岩が「ローソク岩」。その姿だけでもその名に値するが、朝日が丁度その岩の先っぽに重なって、ローソクが灯ったように見えると、ピッタリの名となる・・とのことですが・・これが見られるのは夏至を挟んで前後各2回のある限られた時期のみだそうで・・
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    ↑画像は余市町のHPより

    我らがここを訪れたのは、時期、時刻とも完全にずれていて”火が灯っていないローソク”を見たのですが・・この岩の根元に在る岩の形と相まって、全体が”あるシンボル”のようにも見えます。

    後述しますが、現在のローソク岩が過去にはもっと大きく太い形であった時代にアイヌの人たちはこの岩のことを「カムイ・イカシ」(男神)と称していたとのことで”さもありなん”です。

    ↓我ら二人の視線の先に在るのは”ローソク”か、それとも・・
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    この岩の組成は溶岩が水中で冷え固まったもので脆いのだそうで、太古にはそうとう大きかったものが時代とともに崩壊が進み、ついに1940(昭和15)年の積丹半島沖地震の津波によって半分に割れてほぼ今の形になったそうですが、その後も小さな崩壊・崩落があり、2016(平成28)年にも先端が欠けたそうなので、我らが半世紀前に撮った写真と現在のものを比べてみたのが次の画像で、明らかに現在は”短小”化して先が尖っています。

    ↓左:1968年に我らが撮影/右:最近(DomingoのHPより引用)
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    ↓ローソク岩を見た海岸で (ここも砂利道だった)
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    ◎再び通った八雲町は木彫りの熊の発祥地だった!
    いよいよ帰路に向かって内浦湾(噴火湾)沿いの往路と同じ道を南下して、途中で再び通過した八雲町は、(先記のように)立ち寄ったガソリンスタンドで粗悪ガソリンを入れられたという良からぬ印象があったのですが、後で知ったことは、この八雲町は食品以外の北海道土産としてポピュラーな”木彫りの熊”の発祥地であり製作地でもあるということです。ただし現在は旭川市も製作地だが八雲では熊だけの姿なのに対して旭川は熊が鮭をくわえている姿・・という違いがあるとのこと。

    ↓左:八雲の木彫り熊(八雲町木彫り熊資料館HPより)/右:旭川の木彫り熊(ヤフーショッピングのサイトより)
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    ◎駒ヶ岳が見える大沼国定公園で道内最後の休憩
    この地は”行き”に通過していたもののよくは見ていなかったこともあり、休憩がてら北海道で最後の風景として眺めた。本来は大沼という名の湖とその後ろにみえる雄大な裾野の駒ヶ岳(1133m)をセットで眺めるのが定番だが、時間の関係で我らは大沼に隣接する小沼という湖越しに駒ヶ岳を見ることになりました。
    ↓駒ヶ岳遠望
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    そしていよいよ南へ20キロほど先の函館港へ到着し、そこから往路と同じフェリーに乗船して大間へ夕刻に到着。夕食をとっった後すぐに、大間から一気に飛ばして(立ち寄り地の)千葉県の太平洋側の某所経由で東京までの約850キロを走行して(途中2回の食事をとって)午後5時頃に新宿へ到着しました。

    ◎大間~千葉~東京をぶっ飛ばし走行で得たテクニック?
    帰路の内、青森県から東京近くまでは長い国道4号線を使ったのですが、クルマが極端に少ない夜間走行の部分が長かったので、その間は(違反ですが時効?)時速50~60キロで飛ばしました。

    そこで起きたのが・・当時の幹線道路は舗装されているとはいえ、平たんな道路の途中に(コブ状態ではなく道幅全体が)こんもり盛り上がっている部分が在るという箇所が少なからずあって、スピードを出して走行中にこの部分に出会うと、車体はその道路の盛り上がり頂点では少し浮き上がるか又は空中に浮く(ラフロードのラリーでよく見られる)状態となり、盛り上がり部分が終わって平たん部分に着地すると車体はガックン、ガックンと揺れます。

    これでは夜間で眠っている他の同乗メンバーを起こしてしまうので、何とかならないかと2,3回試行錯誤の結果、体得した方法が・・

    道路の盛り上がり頂点で車体が浮き上がり気味または空中に浮く状態となった状態では車輪(動輪)が空回りするのでアクセルから足先を離しますが、次に車体が着地すると同時※にアクセルをグッと強く踏むと、車体がガックン、ガックンすることが無くスムーズに前椎する・・というもの。ただしこれを実行したクルマは後輪駆動車であり、他の前輪駆動車や四輪駆動車でも同様な効果があるのかは分かりません。

    ※ここで言う「同時」とは・・接地の瞬間には駆動輪のタイヤにエンジンのパワーが伝わっていなければならないので、アクセルとの間のタイムラグを考えて、接地のコンマ数秒前。

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    後年、社会人になってある時に上司を乗せて社用車を運転中に、道路の盛り上がり部分があったので、前述の方法で対処した途端に、その上司が私に向かって「○○君は運転がうまいなあ」と言われたことがあります。

    ◎泥汚れを「満身装衣」して新宿到着
    全4200キロ走行中に(窓ガラスとライト以外は)一度も洗車しなかったので、新宿駅前に到着した車体には泥の膜がこびりついていた。そこで車体横腹に指で文字を書いたのが下の写真。

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    ◎(参考)同時期に「カニ族」が北海道に大発生していた!
    1960年代後半から1970年後半にかけて、大学生など長期の夏休みが取れる者たちのあいだに、鉄道の周遊券を利用するなどで交通費を抑え、かつ安い宿泊施設、ユースホステルに泊る、あるいはテントで野宿しながら旅をすることが流行り、その実行者たちが背負ったリュックが当時は(現在の様な縦長ではなく)横長でしかも幅約80センチが主流(女性用は少し小型)だったので、列車内通路や乗車口ではリュックを背負った状態では横歩きしなければならず、これがカニの歩き方のようだということで付いた名が「カニ族」。これは今で言う「バックパッカー」。
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    ↓帯広駅前には無料宿泊テント「カニの家」が設置され、ここだけでもひと夏に約3000人の利用があった。(画像は「北海道ファンマガジン」のHPより引用) 
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    現在は帯広駅からクルマで20分の所にログハウス調の無料宿泊所あり、オール電化のキッチン付き。女性専用スペースあり。・・なので年間約1000人が利用。

    カニ族にとっては特に北海道が人気だった。その影響の一つが国鉄広尾線の”「愛国」駅から「幸福」駅行きの切符」の入手がブームになったこと。

    私の手許に在る切符(戴きもの)
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    ただし、我らが9月に入ってから訪れた北海道ではもう肌寒いせいか、カニ族は見当たりませんでした。

    ◎只一つ見た花「エゾリンドウ」
    この北海道の旅で見かけたのは本当にこの「エゾリンドウ」だけ。ただし「エゾオヤマリンドウ」という種があり、こちらは高地に咲くという違いだけで、この2種の見分けはかなり難しいとのことで、花名は後者かも知れません。
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    ◎今にして思えば・・
    我らが北海道クルマ旅をした1968年は、カニ族も隆盛の一方で、ベトナム戦争の最中でもあり、派兵拒否米兵が北海道経由で亡命したり、また大学紛争(闘争)、学園紛争も過激化しているという時期だったことは複雑な気持ちになるものです。

    この旅の実行にあたっては事前の十分な下調べも無く、かつ”定番の観光地訪問は将来にその機会があるだろうとして”それ以外の地をなるべく訪ねようとしたため、殆ど手つかずの自然に多くふれられた一方で、北海道ならではの文化を見逃したことは否めませんが、このレポート型ブログ5編が何らかのお役に立てば幸いです。
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    以上、北海道クルマ旅シリーズは、この(5)を最終回といたします。
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを大学生仲間4人グループがクルマ旅。前回は根室から知床半島を巡ったところまでのお話。今回はそれより西に向かって進みます。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)

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    ◎大雪山 早くも初冠雪、ストーブ活躍の地も・・
    9月に入ってまだ間もない8日(だったか?)に、北海道の最高峰にして大雪山(系)の主峰である旭岳(2291m)に初冠雪があったというニュースをカーラジオで聴きました。ちょうど今年2022年の10月5日に旭岳に初冠雪があったというニュースがあり、それによると昨年より1日早いが平年より10日遅いというから、平年の初冠雪は9月25日頃ということになり、やはり半世紀前に比べれば温暖化が進んでいる影響なのでしょうか?

    ↓(参考)雪を頂く大雪山系(美瑛からの遠望:Wikipediaより)
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    初冠雪のニュースを聴いた直後に通った北見市の町の店などでは、すでにストーブを焚いていたのでビックリしましたが、さすがに北海道のほぼ中央で内陸性気候の証だと感じたもの。しかし、いつ頃から焚き始めていたのでしょうか?それを聞き忘れてしまいました。

    ◎層雲峡は滝もさることながら柱状節理もみごと!
    北見市と旭川市の中間、大雪山の北側の麓にあたる地域に、高さ約200メートルの断崖絶壁が24キロにわたって続く層雲峡。その崖下に沿って流れる石狩川はまだ上流にあたるので川巾が細く、これにまた沿う道路を我らは走ったので、見上げる崖は迫力あり、途中にはいくつかの滝も見られた。その代表は「銀河・流星の滝」という一対を成して落差約100メートルの見事さで「日本の滝100選」の一つ。
    ↓「銀河・流星の滝」(層雲峡観光協会のHPより引用)
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    もう一つの見どころは、この層雲峡の崖全体の「柱状節理」。それが延々と続く様子が見られる所が日本では他にあるだろうか?福井県の東尋坊(自殺名所、ドラマロケ多数)も有名ですが、どうなんでしょうか?  「柱状節理」はマグマや溶岩が固まる際にほぼ法則的な形の亀裂が入り、その結果、断面がほぼ6角形(または5角形)の石柱を束ねたようなカタチとなるもの。
    その石柱1本分の太さは各地さまざまで、層雲峡は不明ですが、兵庫県の玄武洞のモノは直径約20センチなど。東尋坊では場所によって大きくちがい30~100センチ近いものまであるとのこと。

    ↓層雲峡の「柱状節理」の崖
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    今にして思えば、我らが層雲峡見物した時代は良かった。というのは上の写真でも見られるように、「柱状節理」の崖下には剥がれ落ちた”石柱部分”が砕けて転がっていて、崩落が多いことがわかります。従来から小さな崩落で、我らが通った道路にも岩石が転がることがあったそうですが、1987(昭和62)年に大規模崩落が発生して道路にも大量岩石が落下して走行中のトラックの運転手とサイクリング中の人の計3人が死亡、重軽傷が数人という事故が発生。その後も小規模崩落ありで、現在はこの道路を封鎖した代わりに、より崖から離れた位置に、安全のためのトンネルがほとんどを占めるという新道がつくられているとのことで、今は景色が見られる区間が狭まっているのです。

    層雲峡で見られるような”柱状節理のある所に滝がある”というケースは多いようで、私は日光「華厳の滝」、和歌山県「那智の滝」、宮崎県「高千穂峡の〇〇滝」、伊豆半島の「浄蓮の滝」を思い浮かべますが、調べたら伊豆には他にも「萬城の滝」、「初景滝」などがこれにあたるそうです。

    ◎ラジエーターホース亀裂で蒸気漏れてピンチ!
    我らが層雲峡を抜け、西にある旭川市に向けてしばらく走行していると、突然、ハンドル握っている彼が「あれっ!オーバーヒートかなっ!」と叫んだ。(エンジンの)水温警告表示が出たので気づいたそうだが、昇りでもない道を普通に走行しているのにおかしい?ということで、停車してボンネットを開けてみたら、なんとラジエーターホースの一部に亀裂が入って、そこから蒸気が噴出しているではないか! 

    ラジエーターホースとは、エンジンとラジエーターの間で冷却液を循環させるためのホースで、液がエンジンから出ていくためのホースと戻って来るためのホースの二つが存在する。この時は前者のホースなので発見しやすかったのではありました。

    ↓ラジエーターホース例:車種などによって太さ(2~5cm)、長さ(10cm~)、曲がり具合いが異なる。(指先より右部分がホース)
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    もしこのまま冷却液の水分が蒸発して無くなってしまえばエンジンが焼き付いて大変な事になる。ということで、すぐにでもホースを交換したいが、周囲はまだ原野でどうしようもない。しかしあと10キロほど進めば旭川なので、そこまでソロソロ気味で走行してヒヤヒヤしながらもなんとか到着し、修理工場を見つけて事態は解決した。

    ◎札幌での体験(1)時計台、ポプラ並木、札幌ラーメン
    旭川から札幌に到着。先ずはお決まりの「時計台」(旧、札幌農学校演武場)へ。この建物自体は良い感じなのに、我らが訪れた半世紀前、既にその周囲にはビルが建ち並んでいて、噂通りムードをこわしていたので、写真も撮らなかった。つくづく、フランス・パリのエッフェル塔周囲の景観維持の意識の高さを感じ入る。

    日本三大「がっかり観光スポット」の筆頭にあげられるのが「札幌時計台」、2位は高知「はりまや橋」、3位は諸説あって、長崎「オランダ坂」、沖縄「守礼門」、「京都タワー」、「名古屋テレビ塔」など。不名誉なランクから逃れる方策はないのでしょうか?

    ↓(参考)現在の「時計台」(エムエムエス マンションマネジメント サービス(株)のHPより)
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    実は、仲間の一人のお兄様がちょうど北海道大学の医学部に在学中ということで、お会いすることになりましたが、その前に有名な「北大ポプラ並木」と(Boys, be ambitious!の)「クラーク博士胸像」を観た。ポプラ並木は当時、300メートル続くすべてを観られた。ここのポプラの木の正式名称は「セイヨウハコヤナギ」であるが、樹高20メートルで根も浅くて、柳の仲間にしては”風を受け流す”ことができずに過去に何度も台風で折れたり倒れたりで、その後は全面通行禁止だった時期があったものの、現在は80メートルだけは解放されているということで、我らが訪れた際は制限は無くイイ時代だった。

    ↓「北大ポプラ並木」(uu-hokkaido HPより引用)/「クラーク胸像」(Wikipediaより引用)
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    そのお兄様にお会いして挨拶した後、有名な商店街「狸小路」を案内いただき、その中の中華ソバ屋さんで本場札幌の「味噌ラーメン」をおいしく食べて満足の夕食となったのでした。

    ↓(参考)現在の「狸小路」
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    ◎札幌での体験(2)お菓子のテスト販売品もらう!
    時間が前後しますが、まだ明るい時分に札幌市内の繁華街を歩いていたら、明治製菓(現、明治)の旗を立てた横に居並ぶ二人の女性が、なにやら小箱入りのキャラメルのようなもの(だったか)を配りながら、言うことには「一口召し上がってみてお味はいかがでしょうか。これはまだ東京などでは発売していない商品なんです!」・・ということは、いわゆるテストマーケティングとして、東京などに近い文化傾向があると言われる札幌の地を選んで”味などの評価を得られるか否かの試し”が行われていたのでしょう。

    札幌での体験(3)東京と全く同じ新聞!?
    札幌に在るYH(ユースホステル)で宿泊をした翌朝に、ふと目にした新聞に驚きました! それは、掲載広告が全て東京のデパート、例えば銀座の松屋、その他の東京近辺のショップなどのものだったからで、そこで記事内容を読んでみるとやはり東京とその近隣県関係の内容なのです。その新聞名を忘れましたが、ある全国紙だったので、これは東京版紙面をそのまま電送(今でいうファクス?)されたものを札幌などで受けて印刷したものか、あるいは新聞現物が空輸されたものか、たぶん前者だったと思いますが、詳しいことをご存知の方は教えてください。
    それにしても、ご当地「北海道新聞」というものがあるにもかかわらず、このような新聞が存在するというのは、札幌は東京文化的志向が強いゆえの事象だったのでしょうか。

    そして次の目的地へ向けて出発して市内の大通り公園の「さっぽろテレビ塔」の横を通過したのが午前8時22分・・と細かいのは、たまたま我らメンバーの誰かが撮影していた8ミリフィルムの動画にテレビ塔の中間位置に在る大型の(日本初とされる)電光時計が映っていたからでした。

    ↓現在の「さっぽろテレビ塔」:中間位置に電光時計。(さっぽろテレビ塔(株)のHPより引用)
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    次回は「北海道 半世紀前のクルマ旅 道中苦楽と珍事!!(最終回)」です。
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    1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを4人グループのクルマ旅。前回は道東の根室半島の花咲港でカニを食べたところまでのお話。
    今回は根室から北上して知床半島へ進んだものです。

    ↓道内を反時計回りに進んだ走行経路図(クリックで拡大)

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    ◎根室はベトナム戦争と関係があったとは知らずに!?
    花咲ガニが目当ての花咲港に行ったために素通りした根室市に、あらためて戻って昼食をとった。市のほぼ中央に在る根室駅は、釧路と根室を結ぶ国鉄(現JR)根室本線(別名:花咲線)の終着駅「東根室」の一つ手前だが”有人駅”としては日本で最も東に位置する

    根室駅舎前にて(左後ろの壁に小さく「ねむろ」の文字が・・)
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    ↓2022年、初冬の夕刻に釧路と根室の中間の落石(おちいし)海岸の”樹木が無く寂しい風景”の中を行く根室本線の車両。写真右方向に進むと根室に至る。左の海は太平洋 (朝日新聞より引用)
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    根室駅は東端に在り、そして根室港からは向うに国後島が見え、最も近いケレムイ岬までは約40キロ
    という地理的条件を背景に・・なんと、我らが根室を訪れたわずか4か月半前に、根室駅や根室港が関係して”ソ連、日本、米国がからんだある事件”が、起きていたのです。その事件とは・・

    1968(昭和43)年4月22日、ベトナム戦争への被派兵を拒否する米兵6人が根室港からいわゆる「レポ船」※で国後島に渡り、そこからソ連のモスクワへ、最終的に中立国スウェーデンに亡命したもの。この亡命ルートは日本側では「根室ルート」と呼んでいた。

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     (↑2019年7月27日発行の朝日新聞より引用)

    この時期には、同じ目的ながら別ルートによる亡命の事例もあり、それらを日本側で支援する2大組織が、当時有名な「べ平連」※と地下組織「ジャテック」(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)であり、この「根室ルート」には双方が関与した。

    前述の米兵6人の内5人は、「べ平連」の支援で空路で釧路まで来てそこからクルマで根室へ向かい、もう一人は「ジャテック」支援で札幌から列車に乗って根室駅まで来てから6人が合流した。

    この種亡命が多発したため、米国政府か米軍かはわからないが、スパイを使い米兵亡命工作実施途中に潜入させていた結果、この年11月には”根室ルートを使った亡命”寸前の米兵1人が釧路で逮捕された。

    ・・というわけで、我らが9月に、ちょうど根室駅前で写真を撮ったりしていた様子も米国スパイが監視していたかも知れなかったのです。・・というのも、根室ルート使用事例の中には”日本人ガイド付きの外国人観光グループ”を装ったケースもあったそうなのです。

    ※「レポ船」とは・・根室には、ソ連による北方領土占拠によって漁場を奪われた漁民たちが多かったが、彼らがソ連側に拿捕されることなく元の漁場での操業を黙認してもらえるように、日本の海上保安庁や自衛隊関連の情報、つまりレポート、略してレポをソ連の国境警備員に渡すために国後島などに渡った船が「レポ船」と呼ばれた。また、情報の代わりにラジオや衣類など金品が使われることもあった。しかし、レポ船は1991年のソ連崩壊の頃に消滅したとされる。

    「ベ平連」とは・・正式名称「ベトナムに平和を!市民連合」で1965(昭和40)年に小説家の小田実(おだまこと:1932~2007)が代表となって数人の知識人らで発足させた”反戦”、”反米”の運動体であったので反戦目的脱走米兵の支援などもしたが、規則や登録名簿などは無かったので、後に自称「ベ平連」の単なる左翼グループなど似非「ベ平連」が多発したので、純粋な反戦主張者たちは脱退していき、1974(昭和49)年に解散。ソ連崩壊後の公文書開示によれば、KGB(ソ連国家保安委員会)は米兵亡命のための支援金を「ベ平連」に渡していたとされる。

    ◎国後島を見ずに悔いが残る!
    根室半島から次に目指す知床半島へ向かう途中の野付半島の先端からは、国後島までの距離は約16キロであるが、そうでなくとも海岸線を走る国道244号線からでも約23キロしかないので、島影ははっきり見えたはずなのに我らはそれを見逃していた。道東地域では「呼び戻そう 北方領土」と書かれた看板を頻繁に目にしていたにもかかわらずであり、後日これに気づいて悔やんだのです。

    (参考)国後島を国道244号線沿い海岸から望む写真(標津町の「北方領土館」のサイトより引用)
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    ◎知床半島の「知床五湖」に行き着いたが・・
    知床半島の根元から先端までの間のちょうど半分くらいの位置の西側海岸近くに在る「知床五湖」は小さな湖が文字通り5個あり、静寂だが比較的明るい感じがする風景だった。しかし我らが訪れた半世紀前には湖周囲の道はあまり整備されていなかったので、すべての湖を巡ることはしなかった。

    知床五湖の一つをバックに。周囲にエゾマツ、トドマツが多い
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    後年になって気づいたのは、まだヒグマが出没する時期であったことを我らは意識せずに、なんと無防備であったことかということで、今、調べてみたら「知床五湖」を観光地として整備され始めたのは1970年代後半から(=昭和50年ころ~)だそうで、五湖を巡る遊歩道が整備され、ヒグマ対策上、春から夏の終わりまではガイド人を頼まないと歩行不可。しかし遊歩道の一部に沿って、自由に安全に歩けるように、地上2メートルくらい?の高さに柵付きの渡り廊下のような「高架木道」(全て木製)が設けられている。

    ◎狭い道では何度となく「デフ」をこすった? !
    「デフ」は「ディファレンシャルギア」の略称で、これは(詳しい原理は省略しますが)自動車がスムーズに曲がるために左右の車輪の回転を調整するための”歯車を組み合わせた装置”で、その全体をくるむケースが特に”前エンジン・後輪駆動車”や”4輪駆動車”では車体の下側に出っ張ったカタチで左右両輪の中間に見えやすい。(下写真参照)
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    大型トラックの「デフ」(のケース)は後ろをちょっと低い位置から見ると覗き込まなくてもよく見えることがある。ちなみに現在のEV(電気自動車)にはデフがありません。

    ところで、クルマの運転では、「コブ(地面の出っ張り)は乗り越える」 「穴や凹みはまたぐ」という鉄則のようなものがあります。(下図参照)
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    しかし、道幅が狭い場合は”わだち”がほぼ定位置に出来てしまい、それがどんどん深くなり、前述の鉄則もツカエズニ、デフ(ケース)が地面にツカエル(こする)・・ことになる。(下図参照)

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    ・・というわけで、知床五湖へ向かう道もまだ整備されておらずに狭かったために・・走行車内での録音には「ゴツッ」という音にすかさず「あっ デフをこすった!」という声が残っていますが、この”デフこすり”はこのクルマ旅では他の場所でも何回かありました。これも半世紀前ゆえのことだったのでしょう。

    ◎「オシンコシンの滝」の名を観光船沈没ニュースで・・
    知床五湖から次に南へ14キロほどの距離のやはり沿岸部にある「オシンコシンの滝」に向かった。「オシンコシン」とはアイヌ語で”川下にエゾマツが群生する所”という意味とのこと。落差は30メートルで北海道の中では大きい滝で、「日本の滝100選」の一つ。

    ↓「オシンコシンの滝」(参考写真:知床斜里町観光協会のサイトより引用)
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    滝を見下ろす場所で
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    ところで、今年2022年4月23日に発生した”知床遊覧船KAZU Ι沈没事故”関連ニュースの中で、(我らにとっては懐かしい)「オシンコシンの滝」の名が登場しました。それは4月29日に「カシュニの滝」(知床五湖より北18キロ)の沖の海底に沈んでいるのが発見され、その後にやや持ち揚げて曳航中の5月24日に、「オシンコシンの滝」の沖合10キロのところで落下させてまた海底に沈んだので、それを再度引き揚げする作業が5月26日に行われたからで、その様子は「オシンコシンの滝」横の駐車場から観察できたそうです。

    ↓知床遊覧船KAZU Ι(「知床遊覧船」HPに掲載されていた姿)
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    合掌
    ・・・・・・・・・・・・・
    今回はここまで。次回は道内を西に進みます。
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