5月半ばの今、ハコネウツギの紅白の花が咲いている。この赤と白の色を見て連想するのは、”かつてロシア革命時期には赤系と白系の人たち?がいた”・・ということ。
◎ロシアから亡命した「白系ロシア人」
「白系ロシア人」とは、1917年に労働者や農民によってロシア革命が起きて帝政が終わり、レーニンが主導する社会主義体制にしたものの、対抗する反革命勢力も生まれて、これを掃討するためにトロツキーによって編成された「赤軍」と反体制派の「白軍」が3年間戦った末に「赤軍」が勝利したが、革命直後から白軍敗戦直後にかけて、それまで帝政側にいた貴族や富豪、一部市民らは他国に亡命した。
その亡命した人たちが「白系ロシア人」と呼ばれ、その総数は約200万人と言われる。
ちなみに、現在のロシアには居られないとして”ロシアから脱出したロシア人”は今年1~3月の間に388万人に達している。
※革命後のロシアがソ連(ソビエト社会主義共和国連峰)として建国宣言したのは1922年12月30日であり、国際的に国家承認されたのは1924年2月1日なので、革命直後から国家承認されるまでの約7年の間に亡命した人たちは"ソ連人"ではないので、白系の"ロシア人"と呼べることになる。
ちなみに、現在のロシアには居られないとして”ロシアから脱出したロシア人”は今年1~3月の間に388万人に達している。
※革命後のロシアがソ連(ソビエト社会主義共和国連峰)として建国宣言したのは1922年12月30日であり、国際的に国家承認されたのは1924年2月1日なので、革命直後から国家承認されるまでの約7年の間に亡命した人たちは"ソ連人"ではないので、白系の"ロシア人"と呼べることになる。
◎日本に亡命した白系ロシア人
白系ロシア人の多くは西側ヨーロッパに向かったが、日本にも若干数の人たちが来て定住した。1936年(昭和11=2.26事件起きた年)の内務省調査では、日本在留外国人数は4万865人。その内の白系ロシア人の数は1294人で横浜や神戸に住んでいる人が多かった。
白系ロシア人の中でも日本で活躍して名を残した人たちは・・
〇 スタルヒン(1916~1957)
日本のプロ野球の草創期において投手として巨人軍などで活躍し、生涯通算303勝・176敗。父はロシア帝国の将校だったので革命後は白軍に加わったが結局は亡命してシベリア経由で妻とスタルヒンを連れて北海道・旭川にたどり着いて、そこでスタルヒンは育ち、学生野球の投手として有名になるまでになっていたものを、当時始まった日米親善野球での日本側の弱体を打開するために引っ張り出されて(同目的で引っ張りだされたのが沢村栄治)、以後彼は有名になった。しかし40才で事故死するまでも日本国籍を得られず無国籍だった。彼の最初の妻も白系ロシア人だった。
ロシア革命後に亡命してきて神戸で、ある人から出資を受けて「神戸モロゾフ製菓」を創業。しかしその後に出資者と対立して裁判の結果、退社を余儀なくされた上に「モロゾフ」の商標も使用できなくなり、以後の経営は出資者側が行って現在の菓子メーカー「モロゾフ(株)」に至っている。モロゾフ氏側はその後に息子が「バレンタイン製菓店」開業し、戦後「(有)コスモポリタン製菓」と改称。しかし、こちらの会社は2006年に廃業した。
モロゾフ氏は創業翌年の1932年には”バレンタインデーにはチョコレート”を推奨して、これが日本最初と言われているが、「メリーチョコレートカムパニー」も同様に最初とされていて、決着不明。
ロマノフ王朝の宮廷菓子職人だったため、革命後に日本へ亡命。1923(大正12)年に神戸にてチョコレート工房を創業。日本最初のウイスキーボンボンを製造販売した。しかし1934(昭和9)年に退社してその後は不詳だが会社は存続して現在の「ゴンチャロフ製菓(株)」に至っている。
本人ではなく父親か母親が白系ロシア人の人たち
〇 大鵬(1940=昭和15年~2013=平成25年)
父はロシアのウクライナ・ハリコフのコサック騎兵将校だったが、コサック兵が革命新政府に対して最も抵抗したため、赤軍からの強力な攻撃を受けるのは必至ゆえに
当時の樺太の日本領に亡命。日本人女性と結婚。生まれたのが後の相撲横綱の大鵬。
〇 ヘレン・ヒギンス(生没不詳)
母が白系ロシア人で父は日本人。1953(昭和28)年に当時の表現として”日本最初の混血モデル”と称されてデビュー。翌1954(昭和29)年~1958(昭和33)年にかけて映画俳優として活躍。その他、テレビ出演もした。
父が白系ロシア人で母は日本人。モデル、女優、ファッションデザイナー。前出のヘレンヒギンスに次いで”日本で2番目の混血モデル”と言われる。夫は指揮者の小澤征爾で息子は小澤征悦。
白系ロシア人だが、ご本人ではなく夫が活躍した・・
〇 クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワ(生没年不詳)
満州のハルビン在任中の杉原千畝(多数のユダヤ人の命のビザを発給) から、白系ロシア人ながら見初められて結婚し1919(大正8)年~1935(昭和10)年まで妻だった。彼女が当時の日本の関東軍からソ連のスパイであるとの噂を流されたので、杉原は彼女とその一族のために苦渋の決断をして離婚した。(その後杉原の二人目の妻となるのが幸子=ゆきこ)
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私が「白系ロシア人」という言葉を最初に聞いたのは小学4年か5年生の頃だったが、それは母からであって「ヘレンヒギンスは白系ロシア人の血が流れているそうよ」というものだったかで、それ以後私は”ヘレンヒギンス本人が白系ロシア人”であると思い違えていた。その上、彼女がモデルだったことから白系ロシア人とは"同じロシア人の中でも特に色が白い人たちのこと"だと勝手に思い込んでいたというお粗末な思考だったのだが、最近になってやっと間違いとわかったというお恥ずかしい次第。
蛇足ながら・・テレビやラジオで今のような芸能ニュース、エンタメ情報など殆ど無い時代に、私の母はその分野の情報に詳しかったが、私は後年にその理由が分かった。それは美容院でパーマネントをかける際に、店側が用意した週刊誌をミッチリ読んでいたからだったのでした。
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