前回、岩手県を流れる猿ケ石川の中流に在る「田瀬ダム(田瀬堰堤=たせえんてい)」をとりあげましたが、実はこのダム建設途中の現場を実際に使って撮影された映画があったのです。主演の三船敏郎は石原裕次郎と共同で映画「黒部の太陽」も作っていますが、その16年前の"ダム建設関連映画"出演でした。その映画とは・・
◎映画「激流」
主演:三船敏郎、その他に久慈あさみ、島崎雪子、若山セツ子、多々良純
監督:谷口千吉 脚本・編集:黒澤明 1952(昭和27)年 東宝作品
↑三船敏郎と島崎雪子
戦時中に中断していた田瀬ダム工事が1950(昭和25)から再開されて2年経過した1952(昭和27)年7月から8月にかけて、この工事中のダムとその関係施設をロケに使って撮影された映画で、32才の三船敏郎を主役にすえた谷口監督(夫人は八千草薫)は、もともと映画「銀嶺の果て」に、当時27才の三船を起用してデヴューさせた人。
映画のあらすじは・・『熱血ダム技術者(三船)が、戦後日本の復興期に使命感に燃えてダム現場に立ち向かい、水没地域住民の抵抗、金目当ての不逞の輩による工事妨害、死傷事故発生などに真正面からぶつかり、まさに激流にもまれながら大きな人間として成長する。その途中では、東京に残してきた恋人(島崎)との遠距離恋愛の悲哀、新たな恋人との出会いなどがからんだ人間模様も織り込まれている。』
ロケによる映像は・・『劇映画ではあるが、全編のほとんどが実際の現場でロケーションが行われたので、コンクリート打設現場、現場事務所の活気ある雰囲気、従業員宿舎や食堂の生活風景など昭和20年代当時の空気を感じられ、記録映画的な一面がある。』・・つまりドキュメンタリー部分も多かった。(『』内は、一般財団法人 日本ダム協会のホームページの「このごろ」欄の北川征男氏の文章より引用)。
実際の「田瀬ダム(堰堤)」は工事開始前に、水没地域住民には補償金が払われて皆は移住していたところ、前述のように、戦時中に工事中断になり、当該住民たちは元の家に戻っても良いことになり、(全ての人がそうしたかはわかりませんが)戻った人たちがいました。ところが戦後また工事再開となったので、再び移転補償費が払われて再度住民移住がありました。このようにダム建設において”二度も移転補償費が払われた”例は他にないそうです。・・このような事情で住民との交渉が大変だったことも、この映画のシナリオに反映されたのでしょうか。
↓映画「激流」出演俳優たちの田瀬ダム工事現場ロケでの記念撮影写真(東北地方建設局発行の小冊子「田瀬堰堤」に掲載のもの)。前列右から2番目が三船敏郎。前列中央の洋服女性が島崎雪子。
※三船敏郎の「激流」の前後の出演映画は・・
1947(昭和22)年 : 「銀嶺の果て」(監督:谷口千吉)
1948(昭和23)年 : 「酔いどれ天使」(監督:黒澤明)
1950(昭和25)年 : 「羅生門」(監督:黒澤明)
1952(昭和27)年 : 「激流」(監督:谷口千吉)
1954(昭和29)年 : 「七人の侍」(監督:黒澤明)
(以後多数出演)
※ダム建設現場を舞台にした映画について綴りたいことがもう少しあるのですが、長くなるので次回にまわすとして、ここで脇道に逸れ、話は飛んで・・
◎映画「もぐら横丁」
この映画をとり上げた理由は・・主役の夫婦の夫を演じるのは佐野周二ですが、妻を演じるのが島崎雪子、そうです、前述の映画「激流」で三船敏郎の”東京の恋人”役を演じた女優が出演しているからで、しかもこの映画は面白い。「激流」公開の翌年のことです。
出演者:佐野周二、島崎雪子、森繁久彌、宇野重吉、千秋実、天地茂 、(その他、特別出演の小説家本人:尾崎一雄、丹羽文雄、檀一雄=女優・エッセイストの檀ふみの父) / 監督:清水宏 / 1953(昭和28)年 / 新東宝
原作は尾崎一雄(1899=明治32年~1983=昭和58年)の私小説である「もぐら横丁」、「なめくじ横丁」、「芳兵衛物語」、そして芥川賞をとった「暢気眼鏡」などであり、これらのほとんど実話の中から抽出したものが基になっている。
↑妻をおんぶする夫。このスチール写真はモノクロながら背景が青空に綿雲が浮かんでいるようで良い効果をだしています。(写真はwikipediaより引用)
↑妻をおんぶする夫。このスチール写真はモノクロながら背景が青空に綿雲が浮かんでいるようで良い効果をだしています。(写真はwikipediaより引用)
ストーリーは・・東京の淀橋区(今の新宿区)に「落合」という地域があって、そこには有名・無名(後に有名)な小説家たちが多く住んでいた。映画中でも(実際に近くに住んでいた)林芙美子にあたる人物も登場。そのような作家の一人が、うだつのあがらない男である緒方一雄(尾崎一雄)であり、若い妻の芳枝(実名は松枝)と貧乏暮らしで、質屋通いの常連という状態。住む家にも困っていた。(実話では、檀一雄が借りていた家の一階に住まわせてもらい、檀は二階に住んだ) 最初に住んでいた所から事情により引っ越した先の家の在るあたりが「もぐら横丁」と呼ばれる所だった。(確かに今でも”もぐら”が出るそうですが・・) 夫の原稿を清書して手伝い、貧乏も苦にしない明るい妻に支えられながら、そして周囲の善意の人たちにも恵まれて、遂に一雄は芥川賞を受賞。しかし賞金も借金返済などですぐに消え、しかたなく賞品の腕時計を質屋に入れて、二人で浅草に出かけて映画を観て、美味しいものを食べたその後で大混雑の人ごみの中ではぐれるが、やっと見つけて互いに呼び合う・・。
↑実際に檀一雄と同居した時期には既に子供がいた(写真は、落合道人ブログ「落合学」から引用)
映画というものをあまり観ない私ですが、なぜかこの映画「もぐら横丁」は2回観ています。(ただしテレビ画面を通じてですが)・・それは昭和初期の時代の”物は無くても心が豊かな人間模様”に魅かれるからでしょう。
そして、ある”映画好きの人”は自身のブログ「パラパラ映画手帳」の中で、”妻の芳枝”についてこう述べています・・「私が男だったら、こんなお嫁さんがほしかった。私が女だったら、こんなお嫁さんになりたかった。そんな映画です。」・・ジェンダー云々という時代では反発する方もありましょうが、芳枝のように自分の信念でこういう生き方をする人に他人がとやかく言うものではないでしょう。 この映画の詳しい内容も含めて興味ある方は→
No1151『もぐら横丁』~群衆の中ではぐれ、互いに呼び合う夫と妻~ - パラパラ映画手帖 (goo.ne.jp)
それにしても、関口宏さん、お父さんはイイ味を出していますよね!
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実は私、この映画・小説の舞台となった淀橋区で生まれました。(まだ新宿区になる前のことでした。) また淀橋と言えば、1898(明治31)年から1965(昭和40)年の間、新宿駅の西側には約34万平米(約10万坪)を占める「淀橋浄水場」が在って、水をたたえた大きなプールのようなものが沢山並んで、実に殺風景なものでしたが、現在はその跡地に新宿副都心高層ビル群が華々しく建っています。そして「ヨドバシカメラ」の名前の由来の地でもあります。
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次回は、ダム映画作りを石原裕次郎が実現できた例と、できなかった例です。
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