徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2021年04月

    前回、岩手県を流れる猿ケ石川の中流に在る「田瀬ダム(田瀬堰堤=たせえんてい)」をとりあげましたが、実はこのダム建設途中の現場を実際に使って撮影された映画があったのです。主演の三船敏郎は石原裕次郎と共同で映画「黒部の太陽」も作っていますが、その16年前の"ダム建設関連映画"出演でした。その映画とは・・

    ◎映画「激流」
    主演:三船敏郎、その他に久慈あさみ、島崎雪子、若山セツ子、多々良純
    監督:谷口千吉 脚本・編集:黒澤明 1952(昭和27)年 東宝作品
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    三船敏郎と島崎雪子

    戦時中に中断していた田瀬ダム工事が1950(昭和25)から再開されて2年経過した1952(昭和27)年7月から8月にかけて、この工事中のダムとその関係施設をロケに使って撮影された映画で、32才の三船敏郎を主役にすえた谷口監督(夫人は八千草薫)は、もともと映画「銀嶺の果て」に、当時27才の三船を起用してデヴューさせた人。

    映画のあらすじは・・『熱血ダム技術者(三船)が、戦後日本の復興期に使命感に燃えてダム現場に立ち向かい、水没地域住民の抵抗、金目当ての不逞の輩による工事妨害、死傷事故発生などに真正面からぶつかり、まさに激流にもまれながら大きな人間として成長する。その途中では、東京に残してきた恋人(島崎)との遠距離恋愛の悲哀、新たな恋人との出会いなどがからんだ人間模様も織り込まれている。』

    ロケによる映像は・・『劇映画ではあるが、全編のほとんどが実際の現場でロケーションが行われたので、コンクリート打設現場、現場事務所の活気ある雰囲気、従業員宿舎や食堂の生活風景など昭和20年代当時の空気を感じられ、記録映画的な一面がある。』・・つまりドキュメンタリー部分も多かった。(『』内は、一般財団法人 日本ダム協会のホームページの「このごろ」欄の北川征男氏の文章より引用)。

    実際の「田瀬ダム(堰堤)」は工事開始前に、水没地域住民には補償金が払われて皆は移住していたところ、前述のように、戦時中に工事中断になり、当該住民たちは元の家に戻っても良いことになり、(全ての人がそうしたかはわかりませんが)戻った人たちがいました。ところが戦後また工事再開となったので、再び移転補償費が払われて再度住民移住がありました。このようにダム建設において”二度も移転補償費が払われた”例は他にないそうです。・・このような事情で住民との交渉が大変だったことも、この映画のシナリオに反映されたのでしょうか。

    ↓映画「激流」出演俳優たちの田瀬ダム工事現場ロケでの記念撮影写真(東北地方建設局発行の小冊子「田瀬堰堤」に掲載のもの)。前列右から2番目が三船敏郎。前列中央の洋服女性が島崎雪子。
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    ↑後方のダム本体の建設中の姿からは、複雑な形でコンクリートを重ねて作っていく様子が分かります。
    (蛇足ながら、右側の立て札の「その日その日が安全日間」という文字は私の父が書いたもの)

    三船敏郎(帽子かぶったままでは顔が影になり失敗だ!)
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    ※三船敏郎の「激流」の前後の出演映画は・・
    1947(昭和22)年 : 「銀嶺の果て」(監督:谷口千吉)
    1948(昭和23)年 : 「酔いどれ天使」(監督:黒澤明)
    1950(昭和25)年 : 「羅生門」(監督:黒澤明)
    1952(昭和27)年 : 「激流」(監督:谷口千吉)
    1954(昭和29)年 : 「七人の侍」(監督:黒澤明)
          (以後多数出演)

    ※ダム建設現場を舞台にした映画について綴りたいことがもう少しあるのですが、長くなるので次回にまわすとして、ここで脇道に逸れ、話は飛んで・・

    ◎映画「もぐら横丁」
    この映画をとり上げた理由は・・主役の夫婦の夫を演じるのは佐野周二ですが、妻を演じるのが島崎雪子、そうです、前述の映画「激流」で三船敏郎の”東京の恋人”役を演じた女優が出演しているからで、しかもこの映画は面白い。「激流」公開の翌年のことです。

    出演者:佐野周二、島崎雪子、森繁久彌、宇野重吉、千秋実、天地茂 、(その他、特別出演の小説家本人:尾崎一雄、丹羽文雄、檀一雄=女優・エッセイストの檀ふみの父) / 監督:清水宏 / 1953(昭和28)年 / 新東宝

    原作は尾崎一雄(1899=明治32年~1983=昭和58年)の私小説である「もぐら横丁」、「なめくじ横丁」、「芳兵衛物語」、そして芥川賞をとった「暢気眼鏡」などであり、これらのほとんど実話の中から抽出したものが基になっている。
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    妻をおんぶする夫。このスチール写真はモノクロながら背景が青空に綿雲が浮かんでいるようで良い効果をだしています。(写真はwikipediaより引用)

    ストーリーは・・東京の淀橋区(今の新宿区)に「落合」という地域があって、そこには有名・無名(後に有名)な小説家たちが多く住んでいた。映画中でも(実際に近くに住んでいた)林芙美子にあたる人物も登場。そのような作家の一人が、うだつのあがらない男である緒方一雄(尾崎一雄)であり、若い妻の芳枝(実名は松枝)と貧乏暮らしで、質屋通いの常連という状態。住む家にも困っていた。(実話では、檀一雄が借りていた家の一階に住まわせてもらい、檀は二階に住んだ) 最初に住んでいた所から事情により引っ越した先の家の在るあたりが「もぐら横丁」と呼ばれる所だった。(確かに今でも”もぐら”が出るそうですが・・) 夫の原稿を清書して手伝い、貧乏も苦にしない明るい妻に支えられながら、そして周囲の善意の人たちにも恵まれて、遂に一雄は芥川賞を受賞。しかし賞金も借金返済などですぐに消え、しかたなく賞品の腕時計を質屋に入れて、二人で浅草に出かけて映画を観て、美味しいものを食べたその後で大混雑の人ごみの中ではぐれるが、やっと見つけて互いに呼び合う・・。

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    実際に檀一雄と同居した時期には既に子供がいた(写真は、落合道人ブログ「落合学」から引用)

    映画というものをあまり観ない私ですが、なぜかこの映画「もぐら横丁」は2回観ています。(ただしテレビ画面を通じてですが)・・それは昭和初期の時代の”物は無くても心が豊かな人間模様”に魅かれるからでしょう。
    そして、ある”映画好きの人”は自身のブログ「パラパラ映画手帳」の中で、”妻の芳枝”についてこう述べています・・「私が男だったら、こんなお嫁さんがほしかった。私が女だったら、こんなお嫁さんになりたかった。そんな映画です。」・・ジェンダー云々という時代では反発する方もありましょうが、芳枝のように自分の信念でこういう生き方をする人に他人がとやかく言うものではないでしょう。 この映画の詳しい内容も含めて興味ある方は→
    No1151『もぐら横丁』~群衆の中ではぐれ、互いに呼び合う夫と妻~ - パラパラ映画手帖 (goo.ne.jp)

    それにしても、関口宏さん、お父さんはイイ味を出していますよね!
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    実は私、この映画・小説の舞台となった淀橋区で生まれました。(まだ新宿区になる前のことでした。) また淀橋と言えば、1898(明治31)年から1965(昭和40)年の間、新宿駅の西側には約34万平米(約10万坪)を占める「淀橋浄水場」が在って、水をたたえた大きなプールのようなものが沢山並んで、実に殺風景なものでしたが、現在はその跡地に新宿副都心高層ビル群が華々しく建っています。そして「ヨドバシカメラ」の名前の由来の地でもあります。
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    次回は、ダム映画作りを石原裕次郎が実現できた例と、できなかった例です。
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    ◎メガソーラーの環境問題
    今年(2021年)になって、一部のマスコミに次のような内容の記事が出た。・・『岩手県を流れる猿ケ石川(さるがいしがわ)の上流にあたる山奥の山林90万平方メートルを切り開いた造成地に設置されたメガソーラーの土地から土が雨などによって、まず近くの小川に流れ出し、その先で猿ケ石川に流れ込んで水は赤茶色に濁ってしまっている。(太陽光パネル10万枚の工事開始は2018年4月。川の濁水が発見されたのは翌年4月。抗議を受けて事業者は土の流出防止工事をしたがまだ不完全状態)

    問題のメガソーラー(岩手県)
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    その濁水は周辺流域の田んぼにも流れ込み、ヤマメの養殖も一時ストップし、アユの養殖量も減った。』

    つまり、環境のためになるはずのモノが、一方で環境を壊してしまっていることになる。この件に限らず、近年は日本全国でメガソーラー設置による周辺環境への弊害が問題化している。

    それは、土の流出による河川の汚濁による生態系の破壊、水源が確保できなくなる、森林伐採による保水力の低下による地滑りの危険性発生、自然景観を損なう、流れる水が不快な色になる、などで、各地の住民の反対運動が多発している。

    『そのために「現在全国で少なくとも138の自治体がメガソーラー施設の設置を規制する条例を定めている。

    遠野市も昨年(2020年)に「1万平方メートル以上の太陽光発電事業は許可しない」という全国的にも厳しい条例を定めた。』(以上『』内の内容と写真は読売新聞オンラインからの引用。一部編集)

    ◎猿ケ石川とは
    岩手県のほぼ中央部にある遠野市。ここは柳田国男の書いた「遠野物語」で知られる地。その市内を西へ流れて隣の花巻市内で北上川に合流するのが一級河川「猿ケ石川」

    この川の流域には「カッパ伝説」が多く残っている理由として、このような説もある・・「昔、この地方の農民は極貧で凶作も多く、いわゆる「口減らし」のためにと言ってもさすがに我が子を殺すわけにもいかず、捨てるに際してもせめて水が飲める川辺に置き去りにする。その子らがやがて骨と皮だけのような体になったところを見られたのが”カッパ”とされたのではないか。カッパは河童と書くように人間の大人の大きさのカッパはいないのはこのためである。」
    JR遠野駅前のカッパ像(townphoto.netより引用)
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    余談ですが、今は亡き私の両親は(父の勤務の関係で)岩手県に住んでいたことがあり、後年に、よく「さるがえし」という言葉を口にしていたので、私はてっきりそれは「猿返し(帰し)」という”猿も寄せ付けないほどの険しい地”を表すものだと思い込んでいたのですが、つい最近になって、それは「猿ケ石」のことだと知った次第。どうやら九州出身の両親でも東北風の発音に慣れて「い」が「え」になっていたのだと思います。

    ◎田瀬ダム(田瀬堰堤=たせえんてい)
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    写真は「岩手日日新聞社」のHPより引用

    猿ケ石川が遠野市を流れ出てすぐ西隣の花巻市に入った中流にあたる所に「田瀬ダム」が在り、それによって「田瀬湖」が出来ている。
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    (google map利用)

    田瀬ダム(田瀬堰堤)は・・
    高さ81,5m/長さ320m 重力式コンクリートダム。 
    北上川水系の5大ダムの内で最大。
    このダムは国の直轄建設ダム第1号。
    着工は1941(昭和16)年、戦況悪化で1944(昭和19)年に工事中断、戦後1950(昭和25)年に工事再開、完成1954(昭和29)年10月。

    終戦間もない時期で、物資や建設機械も不足しがちの中で工事を請け負ったのは、戦前の中国大陸や朝鮮半島で特に堰堤や隧道(ずいどう=トンネル)の施工などいわゆる"土木"分野を得意としていた西松建設。

    工事再開にあたっては、中断時点で約10分の1までコンクリートを”打っていた”部分の上に覆いかぶさるように新しいコンクリートを打つ方針にしたが、約6年の工事中断期間中に”コンクリート表面が風化・劣化“していたので、新旧のコンクリートの確実な接合のためには古い表面を”はつる(はがす)”という通常ではあり得ない余計な作業が必要だった。

    ダム完成時には、国も初の直轄ダムということで、時の建設大臣の小澤佐重喜氏(現在の衆議院議員の小沢一郎氏の父)をはじめとした要人出席のもと竣工式が行われ、(気合が入っていたか)その後日には”東北地方建設局“製作の「田瀬堰堤(たせえんてい)」という41ページからなる記念小冊子が発行された。

    ↓小冊子「田瀬堰堤」(西松建設で当時は当堰堤工事従事者の労務管理責任者だった父が残したもの)
    以下は、この小冊子に使用されている写真からピックアップしたものです。
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    ↓岩盤掘削作業
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    ↓骨材(セメントに混ぜる砕石)貯蔵地
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    ↓堰体カットオフボーリング作業
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    ↓旧堰体コンクリート表面の”はつり”作業(機械不足のため、この作業には増援要員として宮城刑務所の囚人40名が参加した)
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    ↓堰体コンクリート打設作業
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    ↓堰体コンクリート打設作業
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    ↓竣工直後の田瀬堰堤(下流側)
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    ↓竣工直後の”湛水(たんすい=貯水)”を待つ田瀬堰堤(上流側)
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     ↑こちら側が現在は水没して見られない風景。私の父によれば「ダム工事再開の翌年の昭和26年にダムより少し上流部分で、父に連れられた私を含めた兄弟3人で水遊びをした」そうですが、私は記憶にないものの、何やら感慨深いものがあります。

    ↓東北地方建設局長:左=池田徳治 右=伊藤 信
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    ↓西松建設社長:西松三好
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    ↓工事関係責任者たち(一部)
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    田瀬ダム建設再開の翌年か翌々年に、4、5才だった私は父に連れられて工事現場をちょっとだけ見せられたという貴重な経験をしました。そこでは多くの人が働いていて、張られたケーブルに吊られた大きなバケット(金属製の容器?)が右上の方に昇っていく様子が目に焼き付いていますが、子供ながらにも、その活気にワクワクしたことを覚えています。それはまさに戦後復興期のワンシーンだったと思います。
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    次回は、この田瀬ダムと関係する大物俳優についてです
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    国難の如き大事発生の状況の中で、その対処行動によって功績を残した人たちの中には、(1)”親から受け継いだ資質”、 (2)”親の教育方針による留学”、(3)”親からの潤沢な経済的援助”、この”親のお蔭・三拍子”に恵まれていた人が少なからずいる。・・というわけで・・前回は”白洲次郎”と”薩摩治郎八”の二人をとりあげましたが、今回とりあげるのは宋姉妹(そうしまい)。これは他に宋三姉妹、宋氏三姉妹、宗家三姉妹とも言われる。
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    「宗姉妹」伊藤純・伊藤真 共著 角川文庫

    ◎三姉妹とは宋靄齢(そう・あいれい)/宋慶齢/宋美齢
    近代中国において、国家の変革に重大な影響をもたらす行動を、彼女らそれぞれの夫と共に、あるいは夫の代わりに、またある時は単独行した。(生年は時代をつかみやすくするために日本年号を併記)
    宋靄齢(長女、1889=明治22年~1973年)
    宋慶齢(次女、1893=明治26年~1981年)
    宋美齢(三女、1897=明治30年~2003年)

    ※次女の慶齢誕生の翌年1894年から95年にかけて日清戦争が起こった。
    ※この三姉妹はそれぞれの自伝・回顧録などは無く、三女の美齢の生年は1898年説もあり、したがって没時年齢は106才または105才となる。
    ※以下文中に登場する「国民党」と「中華民国」は発生から現在まで非常に複雑な経緯があってわかりにくいのですが参考になるのは・・https://www.y-history.net/appendix/wh1403-091.html

    ◎宋靄齢(長女)
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    米国留学後、清朝を倒す辛亥革命へ準備中の孫文の秘書兼助手として孫文を助けた。一応革命成功して中華民国の建国宣言したものの、孫文が日本に一時亡命するはめになり、同行した際に中国の財閥の御曹司の孔祥熙(こうしょうき)と横浜で結婚。靄齢は日中戦争開始当初、中国工業界支援、婦人指導、児童福祉、負傷兵救護などの組織創設などに尽力したが、後年に蒋介石の国民党政府の財務部長になった夫による市場操作を利用して株で莫大な利益を得ていたことなど腐敗体質を追求されて夫婦で米国に移住して以後中国に帰国することはなかった。
    夫の孔祥熙と(画像は角川文庫「宗姉妹」より引用)
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    ◎宋慶齢(次女)
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    姉に続き米国留学後、”孫文の秘書”だった姉が結婚退職したために引き継いだ秘書業務をするうちに孫文と結婚。しかし10年後に孫文死去した後の国民党内で右派の蒋介石と対立して、左傾化した慶齢は単身でソ連に行って支援依頼するなどして中国共産党に接近。同党による中華人民共和国成立時には非党員ながら副主席の一人となったが、死去直前に入党が認められた。姉妹のうち慶齢だけが中国国内で亡くなった。
    ↓孫文(wikipediaより引用)
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    ◎宋美齢(三女)
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    米国留学から帰国後しばらくして、(後に中華民国総統となる)蒋介石と結婚。以後は国民党内の要職に就き、蒋介石の政治・軍事行動に背後から影響を与えた。流ちょうな英語力(但し、南部なまり)を駆使して特に日中戦争中には米国からの支援を引き出すために度々渡米してスポークスウーマンになり、ロビー活動をして成果をあげた。しかし第二次大戦後に中国共産軍との戦いに劣勢となった蒋介石の国民党軍と政府が台湾に移り、同行した以後再び世界に向けて共産国に対するネガティブキャンペーンを行った。
    蒋介石の死後は国民党内での影響力が弱まったこともあり、米国に移住。その後一時的帰国はあったものの米国で豪奢な生活を続けて106(又は105)才で死去。
    切手になった蒋介石 (切手は私の収集品)
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    ◎三姉妹を簡潔に表現して使われる常套句は・・
    「ひとりは金を愛し、ひとりは権力を愛し、ひとりは中国を愛した」
    または
    「靄齢は金と、美齢は権力と、慶齢は国家と結婚した」など。

    若い頃の三姉妹 左から、宋慶齢、宋靄齢、宋美齢
     (画像は角川文庫「宗姉妹」より引用)
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    上は姉妹がまだ仲良しだったころの写真だが、後に思想・行動的に(大まかに言えば)”慶齢=共産主義化VS他の二人=反共産主義化”という対立関係になってしまったために、抗日戦(日本との戦争)時に”見せかけの仲良しを演出するために”ほんの一瞬だけ顔を揃えたことなど例外はあったものの、1927(昭和2)年以降、慶齢は他の二人とは亡くなるまで会うことは無かった。

    ◎姉妹の父親:宗耀如(ソウヨウジョ)のお蔭とは
    ↓”宋嘉澍”と表記されることもある父親(1863~1918)
      
    (画像は角川文庫「宗姉妹」より引用)
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    1) 姉妹を含む子供たちに英語を教えることができた。・・父自身が少年の頃に叔父に連れられ渡米して華僑として商売も学んだ後に、バンダービルト大学で神学も学んでいる。(在米14年間)

    2) 豊富な財力を有していた。・・中国に帰国直後はキリスト教布教活動していたが、印刷会社を起こして聖書の印刷と出版で財を成して財閥となる基礎を築いた。

    3)子供6人(三姉妹と三兄弟)全員を米国留学させた。・・三姉妹全員を米国初の女子大学である「ウエスレイアン大学」に入学させた。三女の美齢は途中から名門のウエルズレイ大学に入り直させている。(その後のことだが、当大学卒業者には先代ブッシュ大統領夫人やヒラリークリントンがいる) 三兄弟の方は長男と三男は(米国の最高峰)ハーバード大学、次男は父親と同じバンダービルト大学を卒業させた。※後に三兄弟も蒋介石の国民党内で重要な地位を占めたが、特に長男の宗子文は活躍して中華民国財政部長も務めた。

    4)留学中の子どもたちに"中国人としてのアイデンティティ"を確保させた・・異国に居るこどもたちには中国の古典や歴史書の勉強も奨励し、中国の国内情勢も頻繁に伝えていた。

    5)父自身が米国在住中にキリスト教(メソジスト派)の洗礼を受けたことが全てにつながった・・これは”偉さ”とは関係ないが、結果として三姉妹の行動結果に大きく影響を与えた。

    ・聖書の印刷・出版で財力の基礎ができて、子供全員を米国留学させることができた。

    ・三姉妹を留学させたウエルズレイ大学はキリスト教系でもあった。

    ・教会で孫文と出会って、秘書兼活動資金提供者となり、当局から目をつけられている孫文をかくまったり、革命関連文書の密かな印刷も行った。

    ・”親密な孫文”の秘書にさせていた長女の靄齢が、孫文の日本への亡命に同行した際に、日本における”中国人YMCA”(キリスト教青年会)の幹部だった孔祥熙と結婚した。

    ・蒋介石と結婚した三女の美齢は夫にもキリスト教の洗礼を受けさせて、夫婦でクリスチャンとなっていた影響で、美齢が欧米に対して行う支援要請などが好意的に受け入れられた。

    ・”TIME””LIFE”誌の発行人の父親が中国でキリスト教の布教活動を行ったのに加えて発行人本人も中国生まれなこともあって、同誌の表紙や記事に度々、蒋介石と美齢を登場させたので影響が大きかった。
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    ◎親というものは子に越えられると嬉しいもの
    一般的に、人は何かにつけて他人に負けると悔しいが、負けて嬉しいのが”自分の子どもに負ける、あるいは越えられること”である。(まあそれだけでなく自分の子供同様の生徒、弟子、部下などもこれに準じるが)
    前回と今回で取り上げた白洲次郎、薩摩治郎八、宗三姉妹たちの親は自分にはできなかったことを子に託して、それを成就させるためには自分が蓄えた体力(財力)を惜しみなくつぎ込んでいる。そして結果は”親の自分を子が超えた(あるいは越えつつある)”喜びを味わえていただろう。

    "子が親を超える" "弟子が師を超える"ような状態を第三者から見て・・「ト(ン)ビがタカを生んだ」「出藍(の誉)=しゅつらん(のほまれ)」。という表現があるが、前者の場合の"トビ"は"平凡な親"のニュアンスがあるので、白洲、薩摩、宋三姉妹らの親には当てはまらない
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    ◎東大生の多くが”親のお蔭”に感謝している
    親の財力が無くても”子が我を超えてくれる”入り口に立たせてあげられる方法の一つとして大学へ遣ることがあるが、特に東京大学入学は効果が期待されるところ。最近は東大生の親の年収云々が言われるが、”年収300万円の家庭から東大に合格した”現役東大生の布施川天馬さんが語るには・・入学して実感したことは、「自分が東大に入れたのは、親を含めた環境のお蔭」と考えている東大生がびっくりするほど多いことだそうだ。
    そこでそう言う東大生に布施川さんが「何が、親のお蔭だったのか?」アンケートをとってみた結果が・・
    1) 親も一緒に頑張る
    親が「私も頑張ってみるから、一緒に頑張ろう」と言ってああらゆることを一緒に頑張ってくれたことでモチベーションが上がったこと。これは勉強を一緒に始めるということではない。

    2) 肯定する
    たとえ無謀と思える挑戦(無名校の成績中位の息子が東大受験希望するなど)でも、否定することなくなんでも受け止めてくれた。

    3) 信用する
    親から自分は信用されていたと感じていた。それゆえに親は「勉強しなさい」とは言っていない。
    (ESSEonlineより引用一部省略)

    この東大生たちの親も、財力は別にして、基本的に白洲、薩摩、宗らの親と通じるところがある。
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    余録(おまけ) 1
    孫文については中華人民共和国と現在の中華民国(台湾)、双方ともが国の礎を築いた偉人としているため、それぞれから孫文の肖像切手が出ている。
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    ↑左の切手は中華民国(台湾)発行で、左に孫文で、その下に氏の唱えた"三民主義"「民族/民権/民生」の三語。右にリンカーンと下に氏の唱えた「OF THE PEOPLE/BY THEPEOPLE/FOR THE PEOPLE 」の三語。右の切手は中華人民共和国の発行。(切手は私の収集品)
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    余録(おまけ) 2
    以下は姉妹それぞれを少しだけ詳しく説明したものです。(一部先記と重複)

    ◎宋靄齢(長女)
    14才で米国留学して20才で帰国後、辛亥革命※を準備中の孫文の秘書となった。革命は一応成功したものの、問題発生で、孫文は第二次革命起こすも失敗して日本へ亡命。靄齢も秘書として同行して日本滞在期間中に財閥の御曹司の孔祥熙(こうしょうき)と横浜で結婚。そのために後任の秘書として妹の慶齢が引き継いだ。
    日中戦争開始当初は抗日運動に没入して、各種団体組織を創設あるいは支援していた。また、国民党のために活動する妹の美齢を物心両面で支援するなど”国のための活動”をした。
    しかし、その後、蒋介石の中華民国の政府内で夫の孔祥熙が財政部長に就任して、米国から戦車や飛行機を輸入する際に多額の不正金を得るばかりでなく、夫の国内市場操作によって妻の靄齢は株で莫大な利益を得ていたなどの腐敗の追求が始まり戦争終結前年の1944年に解任された孔祥熙と靄齢は渡米して、二度と中国に戻らなかった。

    ◎宋慶齢(次女)
    姉に続いて14才で渡米・留学していた期間中に、尊敬する孫文による辛亥革命成功の報に歓喜した。20才で帰国して孫文の秘書となり、孫文が再度亡命した日本へも同行した際に東京において22才で49才の孫文と結婚。しかし結婚生活10年で孫文が1925年に59才で死去。その後、孫文が作っていた国民党は”帝国主義と結びついた軍閥を打倒するいわゆる「北伐」”が蒋介石を総司令官として開始するが、1927年に蒋介石がクーデターを起こして共産党組織と関係者を一斉に襲撃したため、左派の中心だった慶齢は非難声明を発して国民党を去る。以後、単独行動でソ連に行きスターリンに革命完遂のための支援を要請するが拒否されたが、その他の欧州諸国にも窮状を訴えた。日中戦争終結後に再開した国共(国民党軍vs共産党軍)戦は共産党の圧倒的優位で、蒋介石の国民党が台湾に移ったため、中華人民共和国が誕生して、主席は毛沢東であり、慶齢は6人の副主席の一人として(非共産党員ながら)選出された。
    しかしそれでも文化大革命の際は、蒋介石の義理の姉であり非共産党員でもあるという理由で攻撃対象になったが周恩来がこの動きを制止した。慶齢は死去2週間前に共産党入党を認められた。三姉妹の内で慶齢だけが中国で亡くなった。

    ◎宋美齢
    10才で姉の慶齢と一緒に渡米して15才で大学入学するまでは個人授業受けていた。大学を首席で卒業後に帰国して10年間は父親がかつて行っていたと同じキリスト教布教活動をしていた。その間に蒋介石と知り合い、1927年に結婚。
    以後は国民党内の要職に就き、西安事件で蒋介石が敵対する張学良に監禁された際にはピストルを携帯して救出交渉して成功したが、その条件として「国共合作」(国民党軍と共産党軍の協同)することを蒋介石に承諾させるなど、その後も蒋介石の政治・軍事活動に影響力を発揮。また英語力を駆使して欧米に向けてのスポークスウ-マンにもロビーストにもなった。特に米国ルーズベルト大統領とエレノア夫人とは親密につきあった。
    ルーズベルト大統領夫人と美齢
      (画像は角川文庫「宗姉妹」より引用)
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    日中戦争中、美齢は米国からの航空機購入やパイロット訓練官の招へいに尽力した。
    日本軍撤退後は再び共産党軍との戦いになったが、国民党軍劣勢となり1949年に蒋介石と共に台湾に移る。同時に毛沢東の中華人民共和国が建国したが、以後の美齢は世界の自由諸国に向けて、共産圏諸国に対するネガティブキャンペーンを強力に推進。
    1975年に蒋介石の死去後は美齢の存在力が弱まって、同年に渡米。その後一時台湾に戻るが再び渡米して以後帰国することなく米国で死去。
    美齢は靄齢の腐敗体質とは違うものの、生活は贅沢で高級腕時計は数百個、香水、靴、毛皮コート、高級なワインと料理、そして高慢な態度は例えば米国滞在中には要人以外の人間に対しては”使用人”扱いするなどで、ルーズベルト夫人も美齢を評して「民主主義の議論はできるが、民主主義的な生き方を知らない人間」と言っている。晩年もニューヨークの高級アパートの2フロア1000平米以上の広さに25部屋その他を備える生活をしていた。
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