そもそも全ての人間・殆どの生物の存在は”親の存在のお蔭”あってのもので、まず皆が持って生まれる資質が”親のお蔭”でありますが、何らかの功績によって名を残した人物たちというのは、一言で言えば”素晴らしい親のお蔭”が作用している。それは親から受け継いだ優れた資質を基に、親の考え方によった家庭環境作りや教育方針などの”お蔭”だった。例えば・・
古くは、孟子の母親が我が子の教育環境選びのために転居を繰り返して三ケ所目で理想の地を見つけたという”孟母三遷”。
↓孟子 / リンカーン / エジソン
リンカーンは、開拓民で農夫だった父親が”勉強は不要、ただ働けばよい”という考えだった。しかし母親の説得でリンカーンは学校に通い始めるが不運にも学校が遠くに移転して、通学期間わずかで終えた。それで母親は勉強がわりに聖書の内容を教えた。だがその母はリンカーン9才の時に死去。しかし父親の後妻(リンカーンにとっては継母)も教育に理解があったので、父親が説得されて”リンカーンは本を読んで勉強(独学)する”ことが出来るようになった。
エジソンも”小学校の授業で先生を質問攻めにするので問題児”とした学校に対して怒った母親は入学後わずか三か月で自主退学させて以後、母親が教育をした。そして自宅の地下をエジソンのための科学実験室になるようにあてがった。
湯川秀樹は、地質学者で京大名誉教授にもなった父親の”分野を問わない大量の蔵書”によって図書館のような家庭であった環境の中で育ち、秀樹がまだ5才のころには、漢学の素養のある”妻の父(秀樹からすれば母方の祖父)”に父が依頼して中国の儒教の古典”四書五経”を教えてもらった。父は子供たちに勉強を強いることをせずに、「学校の成績のために勉強することは愚かなことであり、自分が好きな学問こそを勉強しなさい」という教育方針だった。
↓湯川秀樹 / 平塚らいてう
平塚らいてう(読みは「らいちょう」)は、父親は紀州藩出身だが勉学に励んで維新後に中央の役人になり、欧米視察経験も経ていた人物で、明治初期の洋風文化積極的摂取の気運もあって、らいてうの家庭では、食事も洋風が多く、父はワインを飲みながら らいてう らに西洋童話を語り聞かせ、これからは女性も英語能力必要と、妻子に英語勉強させた。
ところが、らいてうが小学校入学の頃になると日清戦争開戦もあり、国を挙げて富国強兵体制になると、役人という立場にあったからか父が豹変して、国粋主義になり、女子は高等教育不要で良妻賢母であればよいなどと言うようになり、女性の権利と自由を奪うような言動をするようになったので、一度自由を味わったらいてうにとっては”父が反面(半面)教師”になったことで、後の”女性解放運動”につながった。・・これも見方によれば父親の”お蔭”と言えよう。
その他、日本と世界の偉人たちの子ども時代の逸話を集めた”いずみ書房の創業者である酒井義夫氏のブログ参照下さい→ http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/ijin/
さて、功績いろいろある中でも、“国難の如き大事※に立ち会い、行動して結果を残した”ような人には、(1)”親から受け継いだ資質”、 (2)”親の教育方針による留学”、(3)”親からの潤沢な経済的援助”、この”親のお蔭・三拍子”に恵まれていた人が少なからずいる。
※ここでは、鎌倉時代の文永弘安の役(蒙古襲来)や江戸幕末における欧米列強からの圧力などを除く近代の国難的な事象とします)
※ここでは、鎌倉時代の文永弘安の役(蒙古襲来)や江戸幕末における欧米列強からの圧力などを除く近代の国難的な事象とします)
無論、三拍子揃わずとも同様の功績を成した人たちはいる。例えばガンジーは自分の意志で英国の「インナーテンプル法曹学院」に留学しているが、苦痛の体験を重ねながらインド独立を導いた。
ホーチミンは儒学者だった父親から論語を習って中国語を話せ、官吏養成学校でフランス語も習得していたが、後に自らの意思で米国、英国で語学習得、フランスにて思想学習とその実践活動などしてベトナム独立を勝ち取った。・・などという例はありますが、先述の”親のお蔭・三拍子”揃いでの例について私が今、思いつくのは・・
一人は前回のブログでとりあげた”白洲次郎”が該当。父親は豪放磊落で米国ハーバード大学留学し、貿易商社を創業し、木綿輸入販売で得た財力で次郎を英国に留学させた。(後年、次郎はこれを「島流しされた」と表現していた) そして英国では高級車を複数買い与えて乗り回させて、次郎はガソリンを大量消費するので英国内では「オイリーボーイ」と呼ばれるほどであった。しかし帰国後には英国留学時の体験と知見を活かして戦後の国の対外処理に一助を成したことは前に述べた通り。
その他に、”親のお蔭三拍子揃い”の例を二つあげたいのですが、その一つが・・”薩摩治郎八”。
◎薩摩次郎八(さつまじろはち)とは
薩摩次郎八(1901=明治34年~1976=昭和51年・満74才没)は、東京・神田駿河台の木綿問屋の豪商の家に生まれた。(白洲次郎も薩摩治郎八も実家の財力が”木綿”由来であることが共通)
オックスフォード大学に2年間ほど留学。実家からの仕送りは現在価値に換算して”月額” 3000万円(一説では5000万円)。このロンドン在住期間に、藤原義江やアラビアのロレンスご本人らと親しくなる
↓薩摩治郎八(青年期 / 晩年)
次に渡仏してパリの高級住宅に転居。これ以後、実家からの多額の生活援助資金を湯水のように使って豪奢な生活を徹底し、華族出身の妻”千代”の美容と衣装には贅を尽くすなどしてパリ社交界にまで進出。
↓薩摩千代(1907=明治40年~1949=昭和24年)
美術、音楽、演劇関連の文化支援にも惜しみなく大金投入してそれらの分野の著名人との交流も多く、ジャン・コクトー(映画、劇、絵画、詩、小説などの多芸作家)、イザドラ・ダンカン(裸足で踊る近代的自由舞踏家)、早川雪州らと親しかった。また、藤田嗣二をはじめとするパリ在住の邦人画家たちを支援するパトロンにもなっていた。(但し、佐伯祐三には「気に入らない」として援助しなかった。)
このような生活行動によって、治郎八は正式な爵位は無いのに「バロン・サツマ(薩摩男爵)」と呼ばれた。
◎薩摩次郎八の最大功績「日本館」
当時、パリでは世界中からの留学生が増えていたため、フランス政府が各国に対して”パリ国際大学都市”の中にそれぞれの国からの渡仏者のための宿泊研修施設建設の必要を提唱したが、日本は関東大震災後の復興途上だったので資金不足を理由に政府としては拒否したため、元老(政界の最大重鎮で、首相を選定・指名する権限をもつ)の地位にあり、かつパリのソルボンヌ大学出身でもあった西園寺公望(さいおんじきんもち)が治郎八に建設支援の要請をしたので、総工費2億円を出資して(という表現で語られるが、そのカネも元はと言えば、息子のためを思う父親が与えたもの)、1929(昭和4)年に完成。ゆえにこの施設の正式名称「パリ大学・薩摩財団・日本人学生会館」通称「日本館」は別名「薩摩館」と呼ばれて、現在に至るまで多くの渡仏邦人(留学生に限らず)に利用されている。
↓パリの日本館 (薩摩館)
これらの文化貢献によって、フランス政府から治郎八に対しレジオンドヌール勲章を授与されている。
◎薩摩次郎八の華麗なる純銀の高級車
1928(昭和3)年、カンヌで開催された”自動車エレガンス・コンクール”のために”クライスラー・インペリアル”の車体全体を純銀色(箔か薄板金を貼ったのか、銀粉塗装なのか不明)にして、金属部品は純銀めっき、内装は紫色で統一。これに妻の千代も乗せて登場参加してグランプリ獲得。さらにその直後、車体全体に淡い紫色塗料を素地の銀色が透けるように上塗りしてパリに戻ってお披露目運転した。
↓この初代クライスラー・インペリアル同型車を総銀色にした
◎600億円使い切り最後は徳島で
薩摩の活躍は他にも多くあるがここでは割愛するとして、第二次大戦中はフランスにとって日本人の薩摩は敵国人ながら、特別扱いで滞仏を許され、終戦後もフランスで暮らしたが、1956(昭和31)年にほとんど無一文で帰国。(経済的支援を惜しみなく続けた父親の事業も、世界恐慌などの影響で1935(昭和10)年に廃業していて、仕送りは無くなっていた。)
かくて、薩摩治郎八は海外生活の約10年間で(現在貨幣価値換算で)600億円(900億円説もある)という大金を消費し尽くした。
帰国後はフランス文化や在仏体験などの講演や執筆などをしていたが、妻の千代が1949(昭和24)年に病没した後、薩摩は浅草のストリップ小屋の花形だった秋月ひとみ(本名:真鍋利子)と1956(昭和31)年に再婚。その後妻の郷里である徳島滞在中に脳卒中を起こして、そのまま徳島で10数年間の療養生活をして1976(昭和51)年に亡くなる。
薩摩治郎八の最後は、パリでの生活の”夢は彼の脳(枯野)をかけめぐる”(芭蕉に似た?)ことであっただろう。
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治郎八の面白いエピソード記述の一例は・・
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”親のお蔭三拍子揃い”のもう一つの例は次回に綴ります。
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