今回は、前回に紹介しました斎藤隆夫の演説は見習うところがあるとして、現代の主に議員スピーチの状況をみてみます。
↓斎藤隆夫の胸像(記念館「静思堂」)は、演説時に下を向かず、文字通りの上から目線でない姿をよく表している
写真はブログ「挙骨拓史の『眼横鼻直日記』」より引用
◎発言の仕方を考える!
スピーチの効果を決定する2大要素は、言うまでもなく「内容」と「伝達」。
「内容」については、そのスピーチが“国会での発言”や“学術的発表”あるいは“会社内会議での発言”など、何であれ、“その内容が受け手に理解されることが第一で、その結果で納得の可否ができること”が成り立てばよいもので、その方法については、長くなるのでここでは省略します。
「伝達」、この方法については、前回にも述べましたように、特に昨今の国会内外での議員のスピーチに問題が多いので、ここでは、この“議員スピーチ”の場合を例に取り上げてみます。
「伝達」の重要素は“誰に向けて” “どのように伝えるか”であり、議員というものは市民から付託を受けた身であり、それを背負っての発言であるので、テレビなどの音像メディアによっても伝えることが多い現代では、それを介しての受け手となる市民にも語り掛けるようにする必要がある。
そうすると、今の議員さんたちの中には、スピーチ内容がよく分かり好感がもてる人も若干いますが、スピーチのやり方としては不適切な人も多いので、どうにかならないものかと考えていたら昨日、丁度良いことに“プロの「スピーチ・コーチ」で、経営者やトップアスリートなどにスピーチトレーニングを行っている森裕喜子氏(VOICE IMAGE(株)社長)からの提言”がネット上で紹介されたので、引用させてもらいます。(一部割愛・意訳)
↓森裕喜子氏
◎スピーチ・コーチのプロの森裕喜子氏による提言
『菅総理の発信力低下がメディアで取り沙汰されています。しかしメディア自体も情報を編集して届けますから、実際のところどうなのか?
菅総理の「伝え方」は、メディアを通すと(編集されているので)より一層伝わりにくい性質があるようで、例えば、目線も落ちてしまいがちで、言葉もはっきりくっきり出さないので、スピーチのデリバリー(伝え方)としては、残念ながら良い例とは言えません。
でも、それを個性とするならばそれなりの対策を打ち、個性を活かすことができるはずで、ニコニコ動画で「ガースーです」などとおっしゃらなくともいい方法が。
例えば、落ちてしまいがちな目線、これは「いつどこを見るべきか」目線とタイミングを決めておけば解決です。
1) 原稿を確認しながら話すなら、まず、口を大きく動かすようにする。
2) 一文を言い終わったら、文末で一旦目線を上げて聞き手(カメラ)を見る。
3) 目線を上げたら、ほんのしばし黙り、目線を聞き手(カメラ)に送り続ける。
4) そののち、原稿に再び戻り、次の内容を話す。
これを繰り返すこと。そうすれば、言葉を間違えることなく、けれども原稿まる読みにならない方法で、皇室の方が良くやっていらっしゃいますね。
そして、原稿に向かって声を出す状態になれば、声は下に落ちて、小さくなる。ですから、そのような場合には“原稿の向こう側に届けるように大きめの声を出す”また“口の動きで言葉を見せる”という意識をもって話すことが有効です。
口をよく動かせば、自ずとほほの筋肉を動かすようになるので、笑顔にもなりやすくなり、そうなれば一石二鳥。
馴れるまで時間がかかるかもしれませんが、本番が多い総理ですから、一旦慣れればすぐに自分のものにできるでしょう。これからはカメラ目線で、直接国民にも語りかけて下さい。』
以上の引用文は総理に向けた内容になっているものの、汎用性があり、誰にもあてはまるようなこと。これに少し付け加えてみると・・
◎「鰯の腐れ目」にならないように!
“目線を上げる”場合でも、中途半端に上げずに、しっかりまぶたを開けて、「目力(めぢから)」を発揮するよう意識する。相手に訴えかけるような目ではなく、トロンとしたような目のことを「鰯の腐れ目=いわしのくされめ」という表現が、私の父が生まれ育った長崎県の五島列島の漁村地域では使われているそうですが、スピーチ時にこの”腐れ目”ではいけない。発言の場においても目のありようの“自覚”が必要。まさに「目は口ほどにモノを言う」ということに覚醒しなければならない。
意味合いは違うが、私の母は写真に撮られる際には常に意識して“目を大きく見開く”努力をしていた。それは“自分は目がやや細い”という“自覚”があったからでした。
国際弁護士の湯浅卓氏は「米国では、“自分は今、あることを強く主張して発言しているのだ”ということを表す常套手段として“眉を吊り上げて発言する”」※と言う。その際はやはり自然と目は大きく開くことにもなるわけだ。さすがディベート盛んな国の参考例。そう言えばトランプ大統領は眉を吊り上げて発言することが多いのは、生来なのか意識的なのだろうか?
※湯浅氏がテレビ番組の中で例として見せたのは、“バイデン氏の息子”が自分にロシアがらみの悪事の疑いをかけられているのに対して必死に弁解している際の”眉を吊り上げた顔”の写真パネルだった。(この疑惑事件は日本では極一部メデイアしか取り上げていない。)その他、湯浅氏はバイデン氏自体の過去の(文字通りの)性癖の問題も以前に紹介するなど、とにかく米国の状況に非常に詳しい。
さらなる蛇足ですが、湯浅氏が時々出演しているテレビ番組「モーニングクロス」は「東京MX」テレビが土日曜を除く毎朝7時~8時放送で、身近な問題から国際問題、地球問題まで、毎日ちがった二人の論客を迎えて、非常にためになる情報や意見を提示してくれるもので、朝の全局の全番組の中でも白眉の存在。残念ながらMXテレビはローカル局で電波が弱いために東京スカイツリーから半径50キロが視聴可能(東京多摩と島しょ地区は中継局存在で可能)範囲なので、全国ネットワークで他地域にも視聴可能化が望まれる。(現在、年末年始期で番組お休み中)
◎モデル?のマネをしない独自性
(ここでちょっとスピーチの内容の話になってしまいますが)他人が書いた原稿を読むのではなく、その人独自の言葉と内容のスピーチにこしたことはないもの。
独自ということはマネではないことでもある。「自助、共助、公助」という言葉を耳にした際、直ぐに私の頭に浮かんだのはケネディ(JFK)の大統領就任演説の中の言葉「・・国があなたのために何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるかを問おうではないか・・」.。
これは“自助などは当たり前のこととして、公助さえも求めるのではなく、むしろ(国を助けるような)逆公助をやらないか”ということになろうか。ここに米国民の気質が表れている。昔、新天地のアメリカ大陸に来た者たちは、未知なる困難にも立ち向かい、解決策を自らこうじなければならず、そのための気力と体力が無ければ生き残れなかった。結局総体的に“米国民は強くなくてはならない”という意識が身にしみ込んでいる。それゆえに例えば、シニア向けの住宅などでは、手すりが最初から設置されることを嫌い、杖をつくことを嫌う。いよいよそれらが絶対に必要になるまで拒否するのは“強さの義務的な保持”とも言うべき意識の表れで、米国での国民皆保険に抵抗が多いのもこの意識が影響しているのだろう。
↓ケネディ大統領就任演説全文(和文・英文)
↓ケネディ大統領就任演説全文(和文・英文)
話がそれてしまいましたが、「自助、共助、公助」という言葉(理念)は、従来から社会福祉関連分野では使われていたもので、目新しくもないそうですが、就任早々に持ち出されたことは、どうもこのケネディ大統領の就任演説において、 “自助”や“公助“を(その意味合いは違うものの)意識させたことをモデルにしたような気がします。
ある方(私はお名前を失念)が、こう言われた。・・『よく「ビジネスモデル」というからいけない!それでは他の人や企業などはそのモデルを真似するようになり進歩が生まれない。それを「ビジネスデザイン」と言えば、“あるコト・モノを創造したという行為”が重きをなして意識されるので、他の人や企業などは真似ではなく、なにかを生み出す動機になる』・・その意味でケネディ演説もモデルにせぬようにしたいもの!
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