徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2020年09月

    水素利用自動車が登場しているが、クルマそのもの以前に水素自体の生成コスト高、それと密接な関係の環境負荷の大きさ、関連インフラ不足などの理由で、現状ではLPガス自動車の方がマシという声も聞かれるが、今後に水素生成が再生可能エネルギー利用でまかなえるようになるなどすれば、水素利用状況は好転するようだ。
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    トヨタ「MIRAI」
    ホンダ「クラリティ」
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    ◎水素危険視の誤解
    もう一つ、水素利用の伸展にブレーキをかけていると言われるのが、”水素爆発の危険”意識であるが、これは過去の水素爆発事故の原因への誤解から生まれているそうだ。

    水素は”空気中と混じった場合に、水素が4%~75%、酸素が5%の状態のときに燃える気体となる”また”自然発火点は527度ではあるものの、それ以下の常温でも極小の火(静電気火花など)で着火する”という特徴があり、この二つの状態が揃えば爆発的燃焼に至る。しかし水素は最も空気より軽いので、解放空間で水素を放出してもすぐに拡散して4%~75%の混合気になることはまずないので、爆発的燃焼が起こる機会は無いに等しくなるのだそうだ。

    つまり過去の爆発事故は、前記の悪条件が揃った中で起こったものであり、その対策さえすればプロパンガスやガソリンと危険性は変わらない。むしろプロパンガスやガソリンは空気より重いので床や地面に滞留してしまうので、着火すれば、こちらの方が危険。

    さて過去の水素爆発事例だが、事故発生原因は総じて”密閉空間の中で充満状態の水素がまとまって一気に空気中に放出されて、水素が拡散する前に着火したこと”が原因だ。以下にその事例をあげてみる。

    ◎水素入り風船がバス内で爆発、車掌が火傷
    今から60年前の1960(昭和35)年に発行の雑誌「電波技術」9月増刊号が、まだ私の手許にあるが、その誌中に次のような新聞記事紹介と解説がある。
    『横浜市鶴見区のバスの停留所で降りようとしたご婦人の持っていたゴム風船が降車口の手すりに触れた途端に爆発して、車掌が顔や手に1週間の火傷を負ってしまった。警察が原因解明を横浜国立大学に依頼した結果、「犯人は静電気」とされた。当日は比較的好天気で湿度が低い中で、ご婦人はデパートでもらった風船を混みあったバスの中で持っているうちに衣服どうしが擦れ合ってゴム風船に静電気が帯電してしまった。ご婦人が足袋と下駄を履いていたために静電気はバスの床には逃げなかったのだ。』これは、水素で満たされたゴム風船がバスの金属製手すりとの接触した際に静電気放電火花が発生して、ゴムが裂けると同時に充満していた水素が一気に空気(酸素)と触れ合うことで爆発条件が整って引火爆発となったわけである。
    昭和35年の雑誌「電波技術」9月増刊号記事
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    記事に添えられたマンガ
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    当時のゴム風船には水素が使われていたゆえの事故だった。

    ◎水素充填の飛行船ヒンデンブルク号爆発
    1937年5月6日、ドイツのツェッペリン社製の飛行船「ヒンデンブルク号」が米国ニュージャージー州レイクハースト海軍航空基地に着船寸前に投下したロープの先端が接地したが、飛行船本体に帯電していた静電気の放電火花が地面側との間に発生せずに、本体後部とロープの接触部で発生したために、まず船尾付近の船体外皮に着火したが、その外皮は”アルミと酸化鉄の混合粉末※を含んだ塗料”を塗布した布”であって燃えやすかった(ツェッペリン社は事故後にその欠点に気が付いた)ので、寸時に燃えだして、ほぼ同時に機体長245mに含まれた20万立方メートルの水素を充填した袋に着火し、充満していた水素が空気に触れだして爆発条件が整い、爆発。30数秒で墜落して、乗員・乗客35人と地上要員1人の計36名が死亡した。

    実はヒンデンブルク号も安全なヘリウムを使いたかったが、当時ヘリウムを独占的に産出していた米国が、ナチス台頭のドイツへのヘリウム輸出を禁止していたためにやむなく水素を使用していた。

    事故直後は原因は単純な水素爆発によるものとされたが、その誘因があったことが解明されたのは1997年にNASAの水素担当専門家によってだった。

    ※アルミと酸化鉄の混合粉末は着火するとアルミが鉄の酸素を奪う、つまり還元作用を起こし、両者を液状にするほど高熱と光を出す。これは”テルミット反応”と呼ばれる。

    爆発炎上するヒンデンブルク号
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/より写真引用
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    ありし日のヒンデンブルク号
    http://www.seizando.co.jp/blog/sales/archives/3767より写真引用
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    爆発炎上動画(有名な ”実況アナの絶叫・涙声” あり)

    ◎福島第一原子力発電所の水素爆発事故
    2011年3月12日~15日にかけて3棟で起こった水素爆発で厚さ1m以上のコンクリート壁も崩壊するほどで、放射性物質はここからも飛散した。炉心メルトダウンにともなって発生した水素が”放射能漏れ防止のために超密閉空間である建屋”に充満した結果、何らかの発火エネルギー(未だに発火源は不明)が加わって爆発にいたったもの。

    以上のように、いずれにせよ水素は基本的には取り扱いに注意が必要。というわけで水素自動車はともかく、現代の風船や飛行船には水素ほどは軽くないが爆発しないヘリウムが使われる。ところが・・

    ◎ディズニーランドの風船消えた!?ヘリウム問題
    私は以前、通勤にJR京葉線を使っていて、夜に東京駅のコンコースから京葉線ホームに向かうには徒歩6~7分の長い通路を歩くのだが、その途中の天井には時々風船がへばりついていたもので、京葉線の舞浜駅が東京ディズニーランドの乗降駅なので、そこからの帰りに通るこの通路で子供(とは限れない)が風船の紐をうっかり離してしまったのであろう。

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    しかし、そのようなシーンがだんだん減り、最近は見なくなったと感じていたところ、昨年2019(令和元年)の大晦日の朝日新聞に「ディズニーランド 風船が消えた日」という表題の記事が掲載された。それによれば・・
    『風船や病院の磁気共鳴断層撮影装置(MRI)、半導体製造、JAXAの研究観測用の気球などに欠かせないヘリウムガスが供給不足に陥っている。大半を産出する米国が自国での消費を優先したこともあり、価格が高騰して日本への輸入が激減。ディズニーランドでは売り場に風船を並べられない日が発生している。その月用のヘリウムガスの在庫がなくなったためで、近年は月に数日間は販売中止となっている』

    「水兵リーベ僕の船・・」や「水兵離別バックの船・・」などと語呂合わせで、理系の人が暗記した元素周期(律)表で先頭が水素、2番目がヘリウム。双方はこの宇宙の中で存在量の多さでも1番と2番。ところが水素は基本的にはどこの国でも生成可能なものだが、ヘリウムは実際には天然ガス採取の際に副産物的に得られるもので、現在のところ、産出は依然トップの米国の他に数か国で、その総量も少なく世界的に供給不足。そこに”America First”なのか先行きを悲観した米国のガス会社がヘリウムを買い占めたから状況はさらに悪化。このような状況の中、すこし楽しいニュースが・・

    ◎イグ・ノーベル賞に「ワニにヘリウム吸わせた実験」
    今年2020年9月17日にイグ・ノーベル音響学賞が、京都大霊長類研究所の西村剛准教授、ルンド大(スウェーデン)のステファン・レバー博士らのチームに授与された。受賞対象となった実験は、中国の固有種のヨウスコウワニにヘリウムガスを吸わせて、”ワニの発声メカニズムは(人間などと同じ)「共鳴型」”であることをつきとめたからで、ちなみにカエルの発声は「振動型」。テレビのニュースでは“ワニがヘリウムを吸う前と吸った後の声の双方”を流したが確かにアフターは声が高音になっていた。人間がヘリウム吸って”ドナルドダック声”になるのと同じだ。これで日本人の受賞は14年連続だそう。
    ヨウスコウワニ(ジム・ダーリントン氏提供写真)
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    ワニにヘリウムを吸わせる方法(朝日デジタルより引用)
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    西村准教授(朝日デジタルより引用)
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    「日産フェアレディZ」が1969年に誕生してから、昨2019年に50周年を迎え、現在までに世界での販売累計180万台(北米だけで130万台)に達しているが、つい先日の9月16日に新たに「フェアレディZプロトタイプ」が発表された。
    フェアレディZプロトタイプ(日産自動車株式会社グローバルサイトより)
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    日産のグローバルデザイン担当専務執行役員であるアルフォンソ・アルバイサ氏いわく「今回のフェアレディZプロトタイプのデザインは初代とそれ以降の代の良い点を随所に意識しているが、特に初代フェアレディZへのオマージュを織り込みながら、過去から未来へと時代を超えるデザインとした。」

    その初代「日産フェアレディZ」が51年前に登場したときの姿が次の写真
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    ◎初代フェアレディZデザインの松尾良彦氏、逝去
    初代フェアレディZのデザインを語る際に必ず名前が登場するのが松尾良彦氏だった。しかし今年2020年7月11日に87才(一部ネット上で86才の誤記複数あり)で肺炎によりご逝去された。(1933.7.10―2020.7.11)
    松尾良彦氏 (2019年、Z生誕50周年記念トークショーより)
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    写真はhttps://news.mynavi.jp/article/20200719-1163468/より引用

    氏は1959年に日産自動車に入社。第一造形課・第四スタジオで1969年に発売の初代フェアレディZのデザインを生み出したチームのチーフだった。
    当時、日産のデザイン部門は国立の東京藝術大学や千葉大学工学部デザインコース出身者で占められていた中で、氏は日本大学芸術学部出身だが”子供の頃からクルマ大好きで、クルマをよく知っているデザイナー”として存在感を示していた。
    ↓当時の第一造形課・第四スタジオでの松尾氏
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    写真はhttps://news.mynavi.jp/article/20200719-1163468/より引用

    フェアレディZの世界的な大ヒットにより、会社からご褒美の欧州旅行など貰ったが、1974年に退社して”デザイン設計オフィス”を設立。以後は幅広い分野の製品デザインをする一方で、自動車デザイン評論家としても雑誌などで活躍された。(私は、テレビ出演された氏を拝見したこともある。)

    ◎松尾氏の一面を私は見た!
    今から35年くらい前に私は氏と少しだけお付き合いした期間があった。氏との初対面は、ある機関の主催でドイツ・ケルンで開催の欧州家庭用機器の見本市視察を主目的としたツアーに参加した際の同行メンバーとしてであった。この見本市会場は広大で展示機器の種類は多岐にわたり、その数が膨大なので、ここだけでの視察日程は4日間も設定されていた。その視察3日目になって、松尾氏は「私は今日これからオランダの〇〇〇に行ってヨーロッパの大型バス・トラックのショウの見学をしてきますよ」と言って別行動。このように氏のエネルギッシュな面は、その言動だけではなくお顔にも現れていたのが印象的だった。

    そして帰国後しばらくして氏から私に電話があり「実はウチで使っている掃除機は〇〇(私が勤務する会社名)製なのですが、長年使っていてモーターのカーボンブラシ※がすり減ってしまったようで最近調子が悪くなってきたのです。修理に出してその間に掃除機が使えなくても困るので部品さえ手に入れば自分で部品交換したいので機種名△△用のカーボンブラシを手配してもらえないだろうか」とおっしゃる。一般の人でそんなことをするのは聞いたことがなかったので驚くと同時に、氏がそこまで我が社製品を愛用して下さるのならと、私もこれに応じてカーボンブラシを用意して、来社された氏に手渡しした。(部品代は数百円) その際に氏は今はヨットの部品をデザイン中とおっしゃっていた。

    この一件で、松尾氏は”単に形や色を追うデザインではなく、モノの構造や機能を十分に把握して、自分でモノを作ってしまうというマインドをもって総合的にデザインをする”、言わば“ものづくりを本当に知っているデザイナー"なのであろうと、私は強い印象を受けた。

    ◎夢を追い続けた松尾良彦氏!
    晩年はデザイン事務所はたたんだが、日米各地で開催のフェアレディZのファンの集いなどに呼ばれたりして精力的に参加していた。そんな中で2014年には、米国の熱狂的フェアレディZフアンが企画した”初代フェアレディZをスポーツワゴン化するプロジェクト”が立ち上がったが、このスポーツワゴンバージョンは松尾氏自身が現役時代に構想した一つの形態だったので、当時すでに80才を超えていたが頼まれた監修役を喜んで受けたのだった。
    『このプロジェクトの監修にあたり、松尾氏はロサンゼルスの工房を度々訪れては、スケッチを描いたり、製作者へのアドバイスを行った。↓
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    実車が完成し、サンディエゴで開催されるフェアレディZ の集いでお披露目された瞬間には松尾さんの晴れやかな笑顔があった。 これは松尾氏の夢がまた一つ実現した瞬間だった。
    ↓完成した初代フェアレディZのスポーツワゴンを前に充実した笑顔の松尾氏(中央)。右は、松尾氏が描いたスケッチを元に初代フェアレディZ・スポーツワゴン プロジェクトを完遂させたロサンゼルスの「JDMカーパーツ」代表の安宅二弥氏。左は、同プロジェクトをサポートした、ダットサンフリーウェイ代表の畑中雅博氏。』
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    (『』内は写真も含めhttps://news.mynavi.jp/article/20200719-1163468/より引用、一部割愛)
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    以上の参考サイトはhttps://news.mynavi.jp/article/20200719-1163468/および
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    ※カーボンブラシ:モーターは目的・用途によって多種あるが、小型でパワーを要するモーターにはカーボンブラシと呼ばれる部品を使ったものが利用され、その用途の一つが電気掃除機用。この種のモーター使用の電気機器類は下記の表を参照下さい。
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    電気掃除機(東芝ライフスタイル(株)製)のモーター内部のカーボンブラシの写真
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    表及びモーター写真は(株)富士カーボン製造所のHPより引用
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    19年前の(米国では)本日である2001年9月11日、米国内での同時多発テロによりニューヨーク・マンハッタンのワールドトレードセンター(WTC)は崩壊したが、私の手許にこのビル完成前の屋上の写真が数枚あるので、一部を紹介しながら・・

    ◎WTCビル南棟の完成前の屋上
    このツインビルの完成は、北棟(テレビ電波送信アンテナがあった建物)は1972年で、南棟は1973年。ゼネコンと呼ばれる会社に勤務していた私の父は1972年(当時54才)、まだ南棟の屋上が出来上がったばかりで、これから屋上展望デッキを追加して設置する前の状態の現場を“日本のゼネコンということで特別扱い”の総勢14名の視察団の一員として見学した。

    縁周りに柵らしい柵も無く、高所恐怖症の父は恐々だっただろうが、突風が吹けば人間も、無造作に置いてある道具や資材も吹っ飛ぶことへの配慮が無いのは理解に苦しむ。
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    前列右から3人目が父
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    西側から見たWTCを視察団員が撮影(右が完成前の南棟)
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    ↓その後、完成したWTCの屋上(アンテナの無い左が南棟)
    (ディスカバリーチャンネルテレビより)
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    ◎設計者はミノル・ヤマサキ
    WTCビル崩壊時のニュースなどで、(米国内ではどうだったか知らないが)なぜか日本では、このビルの設計者が日系人のミノル・ヤマサキであることに言及したマスコミは少なかったように私は記憶しているが、その理由は、“あのようにもろく崩れ去るようなビルを設計した日系人”という意識が働いたからではないだろうか。

    しかし、彼の名誉のために申せば、彼の仕事は主に(勿論基本的構造強度を踏まえてはいるが)デザインであり、強度計算などは別の専門担当者が行っている。ちなみに強度計算でも、事件当該旅客機よりほんの少し小さい飛行機が衝突しても耐えられる設計になっていて、実際に事件後の日本の鹿島建設の膨大な実績データを駆使した綿密な解析では、あの飛行機の衝突でも建物は十分耐えていたことが立証されていて、ただし航空機燃料による火災で想定外の高熱発生で鉄材が耐えられなかった。

    一方でミノル・ヤマサキ氏自身の考え方に“建物は時代の要請に合わせて変わるべきで、10年先が読めないのに、何十年も先は読めず、したがって建物の寿命は20年と考えて、その際に解体しやすいことも重要”というものがあり、そこでWTCビルは“エレベータと非常階段を中心にして鉄柱47本で支えるコア部分”と“外壁を鉄柱240本の鉄材で囲んでチューブのようにした部分”と“コアから伸びる梁で支えられた床”で1棟が構成され、建物総重量37万トンをコア部分で60%、外壁部分で40%支える設計になっていた。そして結果は建築完成後28年でテロによってだが簡単に解体されたカタチとなった。
    フロア構成図(wikipediaより)
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    ◎ミノル・ヤマサキとは
    ミノル・ヤマサキ(1921~1966)は日本からの移民の子として生まれ、大学卒業後建築事務所勤務後に独立、米国建築家協会の「ファースト・オナー・アウォーズ」を4回受賞。日本でも「シェラトン都ホテル東京」などいくつか設計。日系人では初めて「TIME」誌の表紙を飾った。生涯で4回結婚(4回目は初婚相手と復婚)。
    ミノル・ヤマサキとWTCビル模型。氏は徹底的に模型作りを重視したそうだ。(写真はwww.skyscraper.comより引用)

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    ◎WTCビルのデザイン
    ミノル・ヤマサキのWTCビルのデザインテイストは「ゴシックモダン」であり、ル・コルビュジェの建築の影響も受け、イスラム建築のニュアンスも取り込んでいる。建物エントランスの幅広開口部分を除けば巾46センチの窓を挟むように “鉄材にアルミ合金板をかぶせた縦枠”が密集しながら天まで届くように見えるデザインだが、ここに至るまでには、その以前に手掛けた別の建築で“WTCビル同様の見え方を狙ったものの失敗”という経験を経ている。氏に限らず、有名建築家でも失敗はあるもので、雨漏りが多数発生する建築、雨風が吹き込みやすい建築などある。

    ↓写真はwww.skoutr.comより引用

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    ◎9・11事件画像
    南棟に突入寸前の旅客機(ナショジオチャンネルTVより)
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    南棟に突入直後(AFP=時事 写真より引用)
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    崩壊開始(AFP=時事 写真より引用)
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    残骸(Shutterstock/アフロより引用)
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    WTC跡地には新しく「One Wold Trade Center」が・・(写真はwikipediaより引用)
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    WTCビル群が在る場所は、元々は「ラジオ・ロウ」と呼ばれた“電気部品街が数ブロックを占めていた所”だそうで、WTCビル建設決定によりこのビルの施主であるニューヨーク港湾公社はラジオ・ロウの電気部品店に補償金を払って移転してもらった。ラジオ・ロウは言わば日本の秋葉原のようなものだったようだが、秋葉原の電気店街も元々は戦後に神田小川町や神田須田町あたりで電気部品などの露天商だった店が1949年のGHQによる露天撤廃令で総武本線ガード下やその付近に集中移転したのが始まり。
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    日本の食の歴史研究で著名な永山久夫氏は日本全国の納豆にまつわる地を巡り、それぞれの納豆の起源や伝説を調べている。それによると納豆というものは“戦=いくさ・戦争”と関係が深いことがわかる。(以降の文中青文字部分は永山氏の著書「なっとうの神秘」〔アロー出版社〕からの引用です)
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    糸引き納豆という言葉が確認できる最古のものは、室町時代中頃の御伽草子「精進魚類物語」であるとされるが、前回述べましたように、縄文時代には存在した竪穴式住居の中では、枯葉菌の一種である納豆菌が自然に潜んでいたワラや枯葉が敷き詰められ、中央に設けた炉による熱と煮炊きで住居内にこもった湿気によって自然発生的に納豆が生まれていたはずで、納豆発生の条件の一つである“摂氏約40度を安定して確保できる炉の火”を使う期間が長い東北地方に発生例が多い。
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    しかしこの納豆起源とは別に、歴史上のいくつかの戦いの際に“偶然に納豆を発見”した例も多い。しかも納豆は栄養豊富で消化吸収が良く、すぐエネルギーになり、食中毒も防ぐ。そして簡単に作れるので、戦(いくさ)・戦争においては兵糧として、あるいは薬として非常に重用された。それには前回に紹介しました“戦時中のドイツのUボートでも納豆が食べられ、家康は戦の際は唐納豆を携行した”という例の他に、次のような話がある・・

    [前九年の役・後三年の役での納豆発見]※1
    平安末期の奥州でのこの戦いで最も名前が挙がるのは源義家、またの名を八幡太郎。その彼が安倍貞任(あべのさだとう)になんとか勝利したものの、途中で一時は大敗するなど苦戦していた。
    「源義家の像」(東京都府中市)/「前九年公園」(岩手県盛岡市)
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    丁度この時期は奥州が凶作でもあったので、兵糧不足には悩まされ、一時は軍馬も殺して食らうほどだったという中で、納豆の出現は思わぬ救いであった。その様子は・・

    “陣中で馬糧(馬の餌)用に大豆を煮ていたところに敵の夜襲を受けて、急ぎ大豆を俵に詰め、馬の背にくくりつけて退却して翌日に俵を開けると(今で言う)納豆ができていた。”馬の体温が納豆菌の発酵をうながしたのだった。

    “軍馬が飼葉桶(かいばおけ)の中で(発酵して)糸を引いているような大豆を鼻をならしながら旨そうに食べているのを見た空腹の兵士たちが恐る恐るその大豆を食べてみたら旨い上に何やら元気が出た。”
    以後、義家は兵糧として大豆と納豆を重用した。
    これらの話から分かるように、戦においてもともと大豆は馬の飼料だったわけで、言わば「納豆出現には大豆とワラの他に馬がかかわっている」とも言える。
    飼葉桶(右)
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    その他、兵糧不足なので近隣住民に食糧提供を依頼した結果、“持ち込まれた煮大豆がワラに包まれていたので自然に納豆になった“という話もある。

    [安倍貞任の弟の宗任が九州で納豆製法伝授]
    これは戦いの後になる話だが、前九年の役で敗れて討ち死にした安倍貞任の弟である安倍宗任は、戦後に京に送られて次に伊予(現在の愛媛県)に流され、さらに九州の太宰府に移されて僧になり、この地で郷里東北の納豆を作り近隣住民に食べさせたところ、旨いと評判になり、ならばと製法を伝授した。これが現在の九州納豆のルーツになっている。この話は福岡県のみならず大分県・日田地方や熊本県にも残っている。

    [文禄・慶長の役の際に納豆「こるまめ」出現]
    豊臣秀吉の朝鮮征服目的のための“文禄・慶長の役(1592~1593年/1597~1598年)”で加藤清正が朝鮮に遠征中に、兵が“食べ残した大豆の煮豆を、干し味噌を入れていた俵に詰めて馬の背に乗せていたら、例によって馬の体温が作用して何とも香ばしい豆(今で言う納豆)になっていた”これを食せば美味しく元気が出るというわけで清正軍は肥後熊本に帰郷した後にもこの製法を伝えて現代に至っているが、これがいつの頃からか“香る豆”という言葉がなまって「こるまめ」になり、さらに江戸時代には納豆に塩をふって乾燥させた納豆のカタチが主流になって、今では「こるまめ」と言えば、この“ちょっと塩味の干し納豆”をさし、熊本県民はこれをソウルフードの一つとしている。
    「文禄の役」の図(釜山の城に迫る日本の軍船)
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    熊本県の「こるまめ」(くまもと手しごと研究所のHPより引用)
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    [日清・日露戦争で日本軍は納豆必携]
    明確な発生時期は不明ながら、糸引き納豆を乾燥させた「干し納豆」も食されるようになり、その納豆の栄養と抗菌力を把握していた日本軍は日清・日露戦争の戦地にも必ず携行して効果をあげた。

    さて、ここで話はちょっと飛んで・・
    [飛話1:現在の胃腸薬「正露丸」の元祖は1902年に大阪の薬商が発売した「忠勇征露丸」で、“征露”とは“ロシアを征伐する”という意味。納豆とは別に、この薬の強力な殺菌作用を認めた日本軍は、薬の主成分であるクレオソートに因んで「クレオソート丸」と称していたが日露戦争中は「征露丸」という名称で軍装品として、日露戦後も軍の常備薬とした。太平洋戦争後の1946年に「忠勇征露丸」の製造販売権が大幸薬品に継承されたが、“征露”という表現が不適切とされて1949年に「正露丸」に改称された]

    [飛話2:納豆の原料である大豆は発芽させて“もやし”にすれば、本来は豆の状態では含まれないビタミンCが、もやし100ℊ中に25~30mg発生する。日露戦争での旅順陥落後に日本軍側がロシア軍の要塞跡を調べたら大豆が山のように残っていた。ロシア兵の約半分はビタミンC欠乏症の壊血病にかかっていた記録があり、これが兵力減衰の一原因となっていたようで、もしロシア側が“大豆をもやしにする方法を知っていたら”戦局も変わっていたかも知れないと言われる。

    また、楠木正成が千早城にたてこもって戦った際には兵士たちに、大豆から作ったもやしを毎日欠かさずとらせて出血病(壊血病)を出さないようにしていた・・という話はよく語られる。ただし、大豆もやしのビタミンCは、近年のある科学的分析では発芽後1日経過で30%減少。別分析ではビタミンC含有量は発芽後6日(さらに別分析では8日)がピークで以降消滅に向かうとされるので、楠木正成の”毎日もやし”は理にかなっていた。]

    [真珠湾攻撃と納豆]
    .昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に向けて出動した連合艦隊の各艦内では、海上生活用食料として納豆作りが盛んに行われた。実は開戦前に軍部は、担当兵を納豆屋に派遣して、その作り方を習得させていたのだ。その頃の軍艦や輸送船の機関室は大変に換気が悪くて室温が高く摂氏40度以上あったそうで、バケツや大型食器に納豆菌をまぶした煮大豆を入れておけば、苦も無く旨い納豆ができたという。潜水艦は艦自体が“発酵むろ”のようなものであるから、もっと簡単に納豆ができたそうだ。
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    ※1:平安時代末期、今の岩手県に当たる地域で大勢力を誇っていた安倍氏は朝廷に抗して一つの独立国のようであったため、1051年に朝廷から安倍氏討伐を命じられた源頼義とその長男の源義家(鎌倉の鶴岡八幡宮で元服したので別名「八幡太郎」)は当初は苦戦するが、当地の清原氏の加勢によって1062年に勝利した。これが世に言う「前九年の役」。しかし、その後に奥州支配をまかされていた清原氏が内輪もめで争い出したので、1083年から源義家が一方に加担して戦い、1087年に治めた。これが「後三年の役」
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    ◎平安末期の安倍氏は八幡太郎らに敗北し、現代日本の首相の安倍氏は病魔に敗北した!?
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    ◎日本の昔、納豆が飼葉桶の中でも生まれ、西洋では2020年前に飼葉桶の中でキリストが生まれた!
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