◎ドイツ人も納豆のパワーに納得(納豆食う)!
とにかく納豆の効力が絶大なワケは後にして 日本の食の歴史研究の第一人者として テレビの番組にもよく出ておられる永山久夫氏 最近ではNHKの「チコちゃんに叱られる」にも解説者として登場 その永山氏の著書である「なっとうの神秘」によると・・(以降の文中青文字部分はこの本からの引用)
「日露戦争での日本の勝因を多方面から分析したドイツは 日本人の食生活における大豆の発酵食品その中でも特に納豆に注目して第二次大戦が始まると大量に輸入した満州産大豆(※1)を“ソーセージ風の燻製納豆”に加工したものを大いに利用して 潜水艦Uボートにも積み込んで保存のきく蛋白源として活用した」(永山氏は第二次大戦としているが この大戦開始前に満州からドイツへの大豆輸出は無くなっているので間違いの可能性がある ちなみにUボートは第一次大戦から活動している)
↓第一次大戦時のドイツのUボート(wikipediaより)
◎日本の納豆は「糸引き納豆」と「唐納豆」の2種
今年(2020年)7月に ある中国系のネットニュースメディアが次のような記事を掲載した・・「納豆は中国に起源をもち、日本に伝わったのち大いに発展した。現代の日本では毎年7月10日が『納豆の日』とされるなど、納豆の文化が広く浸透し、多くの人にとって食卓に欠かせない食べ物になっている」 しかしこの記事には誤解がある 中国伝来の納豆は「唐納豆(からなっとう)」と呼ばれ 現在日本で主流となっている納豆(糸引き納豆)とは全く違う種類であるからだ
◎納豆(糸引き納豆)はいつ何処で生まれたか
糸引き納豆は大豆が納豆菌によって発酵したもの この納豆は 大まかに言えば大豆とワラ(藁)があれば自然にできてしまうようなもの つまり納豆は他国から伝来などしなくても出現していたはず このため日本の納豆の歴史はほぼイコール日本での大豆栽培と稲の栽培が揃った時期が始まりと言えそうで それならば縄文時代後期の今から約3500年前と考えられる(※2)
↓ワラ苞(わらづと)に包まれて作られたた納豆
◎納豆(糸引き納豆)の特長
1) 栄養豊富:蛋白質(消化吸収良い状態)/ナットウキナーゼ(血栓防止)/ビタミン(B2特に多くK2は骨にカルシウム定着させる働き/血液を固める)/イソフラボン(ポリフェノールの一種で抗酸化作用/)レシチン(脳の活性化)/ミネラル(カリウム・鉄・マグネシウム・カルシウム)/脂質(大豆油とるほど豊富)
2) 同時に食べた他の食品の消化も助け 腸の善玉菌を助けて腸内環境もよくする
3) 納豆菌の強烈な繁殖力で腐敗菌や病原菌を抑え食中毒など起こりにくくする・・日本酒をつくる工場では、日本酒用の麹菌が負けてしまうのを防止するために杜氏など従業員は普段から納豆を食べることが禁止されているか長期の納豆食禁止期間があるほど
4) 基本的には作り方が簡単:“水に浸した後に煮た大豆 ”を“納豆菌が自然に潜むワラ”に触れさせて “少しの空気(密閉しないで適当な酸素)”を与えながら“40度くらいの保温状態”を保っていれば1~2日でできてしまう→現在の工場生産はこの応用の効率化
◎唐納豆(からなっとう)
古代中国で生まれたこの納豆の製法は大豆を麹菌で発酵させたもので 色は黒褐色 糸引き納豆よりは硬い この納豆は中国では「豉」(豆偏に支 発音は「シ」または「チ」)と称している それを宋・元時代の中国に渡った僧が持ち帰って日本では「豉」を「くき」又は「しと」と呼んでいたが その後に「唐納豆」と呼ばれ 塩辛いので「辛納豆」とも書く
現在は京都の「大徳寺納豆」や静岡県・浜名湖周辺の「浜なっとう」などとして残っている その食べ方としては“酒のつまみ”や“甘い菓子などの後口”“汁物の具”などになるが 昔は一種の薬(毒消し)になり 徳川家康は“戦の際には必ず「浜なっとう」を携行して水あたりを予防した”そうである
↓大徳寺納豆(本家磯田 のHPより)
◎中国で2100年前の「豉」が残っていた
1972年に中国の前漢時代の馬王堆(まおうたい)遺跡から2100年前の“世界で最も保存状態が良い”女性(利蒼の夫人)の遺体が出土したが同時に豉(生姜が混ぜられた豉)も副葬品の中にあって注目された
↓2100年前の女性遺体(wikipediaより)
・・・・・・・・・・・・
※1:日露戦争終結後の1906(明治39)年に発足した南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)は半官半民の国策会社で基本はいわゆる満州国圏内での鉄道事業だったが 炭鉱 製鉄 農業 畜産 航空 ホテルなど多分野に進出して一大コンツェルンとなり 農業では大豆に着目して農業関係の研究所とその支所を多数設置して大豆の新品種や大豆の加工法の開発に実に約30年間費やした それは大豆が増産されればその鉄道運送量増加および大豆と大豆油の輸出増加につながるからで 最盛時には満州国の年間輸出額の半分を大豆関連の輸出が占めていた 終戦とともに会社は閉鎖・消滅したが鉄道そのものなどはソ連と中国の合弁会社に移管された
※2:以前は“日本の稲作は弥生時代から始まった”とされたが 今やそれは完全に否定されて縄文時代からとされるが 縄文と言っても紀元前1万4千年~紀元前1千年と幅広く そのどの時期にあたるのか判断は確定していない 稲や大豆が食べられるようになった痕跡を探る方法として「レプリカ・セム法」があり これは土器を作る際にその表面に穀物などが付いてしまい その形の跡「圧痕」が残っていることを利用して その凹みにシリコン樹脂を流し込み それを取り出したモノは言わば元の形が再現されたことになり それが微細なモノであれば走査型顕微鏡で観察するもので この方法によって現在 各地から出土の縄文土器が調査されて年代特定の努力がされている その結果の一つが“大豆は今から5千年前” “稲は今から約3千500年前(ただし陸稲の可能性あり)”であるという
・・・・・・・・・・・・
“納豆と戦争の歴史” “納豆珍製法”など次回にまだつづきます!
・・・・・・・・・・・・