徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2020年08月

    ◎ドイツ人も納豆のパワーに納得(納豆食う)!
    とにかく納豆の効力が絶大なワケは後にして 日本の食の歴史研究の第一人者として テレビの番組にもよく出ておられる永山久夫氏 最近ではNHKの「チコちゃんに叱られる」にも解説者として登場 その永山氏の著書である「なっとうの神秘」によると・・(以降の文中青文字部分はこの本からの引用)
    「日露戦争での日本の勝因を多方面から分析したドイツは 日本人の食生活における大豆の発酵食品その中でも特に納豆に注目して第二次大戦が始まると大量に輸入した満州産大豆(※1)を“ソーセージ風の燻製納豆”に加工したものを大いに利用して 潜水艦Uボートにも積み込んで保存のきく蛋白源として活用した」(永山氏は第二次大戦としているが この大戦開始前に満州からドイツへの大豆輸出は無くなっているので間違いの可能性がある ちなみにUボートは第一次大戦から活動している)
    第一次大戦時のドイツのUボート(wikipediaより)
    u-boat

    ◎日本の納豆は「糸引き納豆」と「唐納豆」の2種
    今年(2020年)7月に ある中国系のネットニュースメディアが次のような記事を掲載した・・「納豆は中国に起源をもち、日本に伝わったのち大いに発展した。現代の日本では毎年7月10日が『納豆の日』とされるなど、納豆の文化が広く浸透し、多くの人にとって食卓に欠かせない食べ物になっている」 しかしこの記事には誤解がある 中国伝来の納豆は「唐納豆(からなっとう)」と呼ばれ 現在日本で主流となっている納豆(糸引き納豆)とは全く違う種類であるからだ

    ◎納豆(糸引き納豆)はいつ何処で生まれたか
    糸引き納豆は大豆が納豆菌によって発酵したもの この納豆は 大まかに言えば大豆とワラ(藁)があれば自然にできてしまうようなもの つまり納豆は他国から伝来などしなくても出現していたはず このため日本の納豆の歴史はほぼイコール日本での大豆栽培と稲の栽培が揃った時期が始まりと言えそうで それならば縄文時代後期の今から約3500年前と考えられる(※2)
    ワラ苞(わらづと)に包まれて作られたた納豆
    IMG_20200822_0002 (3)

    ◎納豆(糸引き納豆)の特長
    1) 栄養豊富:蛋白質(消化吸収良い状態)/ナットウキナーゼ(血栓防止)/ビタミン(B2特に多くK2は骨にカルシウム定着させる働き/血液を固める)/イソフラボン(ポリフェノールの一種で抗酸化作用/)レシチン(脳の活性化)/ミネラル(カリウム・鉄・マグネシウム・カルシウム)/脂質(大豆油とるほど豊富)
    2) 同時に食べた他の食品の消化も助け 腸の善玉菌を助けて腸内環境もよくする
    3) 納豆菌の強烈な繁殖力で腐敗菌や病原菌を抑え食中毒など起こりにくくする・・日本酒をつくる工場では、日本酒用の麹菌が負けてしまうのを防止するために杜氏など従業員は普段から納豆を食べることが禁止されているか長期の納豆食禁止期間があるほど
    4) 基本的には作り方が簡単:“水に浸した後に煮た大豆 ”を“納豆菌が自然に潜むワラ”に触れさせて “少しの空気(密閉しないで適当な酸素)”を与えながら“40度くらいの保温状態”を保っていれば1~2日でできてしまう→現在の工場生産はこの応用の効率化

    ◎唐納豆(からなっとう)
    古代中国で生まれたこの納豆の製法は大豆を麹菌で発酵させたもので 色は黒褐色 糸引き納豆よりは硬い この納豆は中国では「豉」(豆偏に支 発音は「シ」または「チ」)と称している それを宋・元時代の中国に渡った僧が持ち帰って日本では「豉」を「くき」又は「しと」と呼んでいたが その後に「唐納豆」と呼ばれ 塩辛いので「辛納豆」とも書く
    現在は京都の「大徳寺納豆」や静岡県・浜名湖周辺の「浜なっとう」などとして残っている その食べ方としては“酒のつまみ”や“甘い菓子などの後口”“汁物の具”などになるが 昔は一種の薬(毒消し)になり 徳川家康は“戦の際には必ず「浜なっとう」を携行して水あたりを予防した”そうである
    大徳寺納豆(本家磯田 のHPより)
    karanatto

    ◎中国で2100年前の「豉」が残っていた
    1972年に中国の前漢時代の馬王堆(まおうたい)遺跡から2100年前の“世界で最も保存状態が良い”女性(利蒼の夫人)の遺体が出土したが同時に豉(生姜が混ぜられた豉)も副葬品の中にあって注目された
    2100年前の女性遺体(wikipediaより)
    maoutai-woman

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    ※1:日露戦争終結後の1906(明治39)年に発足した南満州鉄道株式会社(略称:満鉄)は半官半民の国策会社で基本はいわゆる満州国圏内での鉄道事業だったが 炭鉱 製鉄 農業 畜産 航空 ホテルなど多分野に進出して一大コンツェルンとなり 農業では大豆に着目して農業関係の研究所とその支所を多数設置して大豆の新品種や大豆の加工法の開発に実に約30年間費やした それは大豆が増産されればその鉄道運送量増加および大豆と大豆油の輸出増加につながるからで 最盛時には満州国の年間輸出額の半分を大豆関連の輸出が占めていた 終戦とともに会社は閉鎖・消滅したが鉄道そのものなどはソ連と中国の合弁会社に移管された

    ※2:以前は“日本の稲作は弥生時代から始まった”とされたが 今やそれは完全に否定されて縄文時代からとされるが 縄文と言っても紀元前1万4千年~紀元前1千年と幅広く そのどの時期にあたるのか判断は確定していない 稲や大豆が食べられるようになった痕跡を探る方法として「レプリカ・セム法」があり これは土器を作る際にその表面に穀物などが付いてしまい その形の跡「圧痕」が残っていることを利用して その凹みにシリコン樹脂を流し込み それを取り出したモノは言わば元の形が再現されたことになり それが微細なモノであれば走査型顕微鏡で観察するもので この方法によって現在 各地から出土の縄文土器が調査されて年代特定の努力がされている その結果の一つが“大豆は今から5千年前” “稲は今から約3千500年前(ただし陸稲の可能性あり)”であるという 
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    “納豆と戦争の歴史” “納豆珍製法”など次回にまだつづきます!
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    ◎医学的大発見の内容論文なのに無視された?!
    『今年2020年1月24日付けの「ネイチャーコミュニケーションズ」誌に 東京医科歯科大学の岡澤均・神経病理学分野教授のチームによるある論文が発表されました それは認知症最大の原因となっているアルツハイマー病に関しての大発見ともいえるもので “これまで神経細胞死の原因と考えられてきたアミロイドβの脳内沈着より以前に一時的な神経細胞死が起きていることをつかんだもの”で アルツハイマー病に対する今後の治療法や予防法の開発の突破口になりそうであるというもの

    この大発見の内容は大学側が開いた記者会見で大勢の記者やテレビカメラに披露されたのですが なんとその内容を伝えるニュース類は無かったのだそうです まさにマスコミが完全無視したカタチになった』(『』内は「ロハス・メディカル」という名の“各病院内で無料で入手可能な情報誌2020年春号”からの引用

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     「ロハス・メディカル」誌の見解では・・「この分野で扱うアミロイド関係の研究機関などには巨額の公的研究費が分配されて来たこと 現在も関連の研究がそれぞれで続けられていることを考えると 東京医科歯科大学の発見の価値を矮小化したい者は多いという推測が成り立つ」としています 
    東京医科歯科大学と付属病院(写真はwikipediaより)
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    ◎日本の医系大学には序列(ヒエラルキー)がある
    医学界には 頂点となる旧帝国大学医学部から下位までの序列構造が存在する 大まかには設立年代の古い順になっていて 下記は最上位から下位に至る順に表したもの(以下各大学名の“大学”の表記省略)
    ・旧帝国大学医学部(通称:旧帝大/旧帝)・・東京/京都/大阪/名古屋/九州/東北/北海道(計7大学)・・設立自体が最も古い大学の医学部群

    ・旧制医科大学(通称:旧六)・・千葉/新潟/金沢/岡山/長崎/熊本(国立の計6大学)に加えて公立の京都府立医科・・参考:第一高等中学(一高)が東京帝大の予科であった時代の1887=明治20年に千葉に医学部を設立したものが後の千葉大である そして一高は戦後に東大教養学部につながるので 言わば千葉大は東大とルーツは一緒ということ

    ・私立旧制医科大学(通称:御三家)・・慶応/慈恵会医科/日本医科・・日本大学は御三家ではないものの この旧制医科大学群に入れられることもある

    ・新制八医科大学(通称:新八)・・東京医科歯科/弘前/群馬/信州/鳥取/徳島/広島/鹿児島・・この大学群は戦前に官立医学専門学校(医専)であったもので 旧制中学卒業後に旧制高校に行かずに直接医学の道に進むための学校で これが戦後に大学に昇格したもの

    旧設公立医科大学(通称:旧設)・・神戸/横浜市立/名古屋市立/岐阜/三重/札幌医科/福島県立医科/山口/大阪市立/奈良県立医科/和歌山県立医科(計11大学)

    ・旧設私立医科大学(通称:旧設)・・順天堂/昭和/東京医科/大阪医科/久留米/岩手医科/関西医科/東京女子医科/東邦(計9大学)

    ・新設医科大学(通称:新設)・・国立計17大学/私立計16大学・・文面量の関係で大学名を割愛します(これらと同時期に防衛医科大学も設立されている)※

    ・21世紀に設立の医学部・・東北医科藥科/国際医療福祉


    ◎医系大学群の中での東京医科歯科大の位置
    予備校が医系大学の偏差値・難易度について発表している情報によれば・・日本の医系大学には序列(ヒエラルキー)が存在する しかし偏差値・難易度のランキングなどは必ずしも序列通りにはなっているとは限らないという(偏差値の高さと難易度は一致するとも限らない)

    例えば“2020年度 国公立大学医学部偏差値(前期試験)ランキング”によれば《以下( )内は偏差値》・・
    1位:東大(74.8)/2位:京大(73.8)/3位:大阪大(72.7)/4位:東京医科歯科大(72.3)/5位(同率3大):千葉大(70.8)/東北大(70.8)/名古屋大(70.8)

    同じく私立大学については・・
    1位:慶応大(73.2)/2位(同率2大):東京慈恵会医科大(70.7)/順天堂大(70.7)
    (以上のランキングデータは武田医進館作成の「医学部受験ノート」による)

    一方 難易度で見ると現在・・1位:東大 2位:京大 3位:東京医科歯科大・・と言われている

    以上のように東大と京大は別格としても東京医科歯科大が旧来の序列から抜け出して高位置に在ることがわかる

    以前に(志望学部は不明だが)“受かった東大を蹴って慶応大に行く”という例は聞いたことがあるが 最近の医科では“慶応大を蹴って医科歯科大へ行く”例があるそうだ

    ◎発表論文(物理・科学分野)の被引用数と質でみると・・
    日本における大学や研究機関から出される物理・科学分野の論文の重要度を測る一つの方法として“その論文が引用された件数が世界の上位1%に入った数の比較(私には意味がよくわからないが・・)”というものがあり それによると 化学 生物学 物理学 地球科学などの分野では 東京大学がすべて1位で他の分野でも上位という圧倒的な強さである(2位は京都大学が多い)
    (クラリベイト・アナリティクス・ジャパン社調べ2019年4月に発表データによる)
    東京大学
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    しかし大学や研究機関から出る“論文の重み”を読み取る見かたとして“1論文あたりの被引用率”でみる方法があり これによれば 東京医科歯科大学が東京大学を抜いて日本一のみならずアジア一位を獲得している(2016年度)

    ◎国からの「科学研究費補助金(略称:科研費)」支給額でみると・・
    この科研費支給先は性格上 独立行政法人理化学研究所や東京工業大学も含んだものになるが ランキングはおおむね 医系大学序列と同じような結果となり・・令和元年度では・・
    1位:東大(220億1111万円)/2位:京大(128億7565万円)/3位:大阪大(108億8577万円)/・・・・/11位:慶応大(38億0005万円)/・・・・/20位:東京医科歯科大(16億8792万円)・・このように東京医科歯科大は東大の13分の1

    ◎勘ぐれば・・
    最近 実力と人気が出ている東京医科歯科大が ここで重要な発見の論文を出したら 序列上位の大学にとっては更なる脅威となるばかりか 序列に沿っているかのように支給される科研費に見合った成果を求められるので いわゆる“費用 対 効果(コスパ)”の面で面目がたたなくなる そこでマスコミに対して“どこか”の“あるチカラ”が働いたかも?・・これはあくまでも門外漢の私の拙い思いなので悪しからず・・
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    黒澤明の戦後初作品「わが青春に悔なし」
    黒澤明監督(当時36才)の戦後初作品である「わが青春に悔なし」は原節子の主演で1946(昭和21)年10月公開されたモノクロ映画
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    この映画製作にあたっては 戦後に日本の旧領土を除く本土部分を占領することになった米国が ポツダム宣言の全13項の第10項の中に在る「民主主義的傾向の強化 言論・宗教・思想の自由 基本的人権の尊重」の遵守を日本国民に指示していたので この映画もそれに沿った内容にする必要があり そのための米国による検閲もあった その結果この映画は”ファシズム的体制の悪しき実態とその中にあっても自我を貫いて強く生きる女性”を描いた

    ◎なぜか
    「米国戦略爆撃調査団」も来て撮影
    黒澤監督たちが京都でこの映画撮影最中の1946(昭和21)年5月16日に「米国戦略爆撃調査団」※の一行が現場にやってきて 日本側の映画撮影風景を撮影している それは映画の劇場公開5か月前のことだった
    「米国戦略爆撃調査団」とは 米国が第二次大戦における欧州での戦略爆撃の効果を検証するために設けていた組織で 日本敗戦によりその検証対象を日本関係にも広げて 広島や長崎は勿論 その他各地でも調査していた

    「わが青春に悔なし」撮影現場のカラー映像
    この映画はモノクロであるが 米国側はカラー撮影しているので カラーでの原節子(当時26才)たちが記録されたのだった 以下はその記録フィルム映画から切り取った画像です
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    ↑↓レンゲ畑の原節子(上図の原の"歯を見せての笑顔"は珍しい!)
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    レンゲ畑を駆ける原節子
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    映画冒頭シーンを米国側がやや俯瞰して撮影したもの
     原がおどけて携帯魔法瓶を頭に置くシーン
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    スタッフも真近な原節子 レフ板も左端に見える
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    撮影スタッフ
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    撮影カメラとスタッフ
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    日本で最初の国産カラーフィルムによる総天然色映画「カルメン故郷に帰る」(木下恵介監督・高峰秀子主演)が公開されたのは1951(昭和26)年だから 「わが青春に悔なし」の撮影風景とは言えその5年前の米国側撮影のカラーフィルム映像が存在することになる
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    「カルメン故郷に帰る」はカラー映像が不出来だった場合に備えて カラー撮影終了直後に再度モノクロフィルムでの撮影も行ったため 出演者は同じ演技を2回行ったことになる (カラーとモノクロを同時撮影したという話も流布しているが・・)

    ◎この映画の脚本が参考にした事件
    この映画「わが青春に悔いなし」の冒頭画面に出る説明文は「~この映画は京大事件に取材したものであるが 登場人物は凡て作者の創造である」・・としているが 現在一般的にはもう一つの事件からも影響を受けているとされる つまりこの映画の脚本内容の基となったのは戦前の「京大事件(別称:瀧川事件)」と太平洋戦争直前から戦中にかけての「ゾルゲ事件」である

    「京大事件」とは”1933(昭和8)年に京都大学法学部の瀧川教授が政府批判したため政府圧力(※2)によって罷免に追い込まれたことに端を発して法学部の他の教授たちが抵抗して多数の辞職者をだしてその影響は他の帝大や私大にも及んだ事件”(瀧川教授は終戦直後にGHQ指令により復権)  

    「ゾルゲ事件」とは”ソ連と通じたドイツ人ゾルゲや尾崎秀実らのスパイ事件“(しかしその裏には当時の近衛文麿首相が防共連盟の顧問と言う立場でありながら 深みにはまる日中戦争問題の解決のためにはむしろソ連と手を握る必要があると考えて 近衛のブレーンでもあった元朝日新聞記者の尾崎を動かしたことを検察側はつかんでいたが近衛は高い身分・地位にあったので 国政や人心の混乱回避のために逮捕はできなかった)

    (※2)京都大学に瀧川教授の罷免をするように指示したのは当時文部大臣だった鳩山一郎で 後に首相になった人物だが その孫である故鳩山邦夫も文部大臣になり その兄鳩山由紀夫も短期間だが首相になった
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    なお この映画の原節子は最後の方の場面で 珍しくも”きつい言動”と”日焼けした黒い顔で髪も乱した姿”をみせているのも印象的 !
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