徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2020年05月

    世の中に音楽を職業とする人が多い中で 天才モーツァルトのように子供の頃から成るべくして成ったような人 努力を重ねて成った人 いろいろな人がいるが ここでとりあげるのは・・

    一旦は違う道に入ったものの音楽の道へ進み直した人たち・・有名人を挙げてみれば
    (文中敬称略)・・
    (但し 私の不得意なポップス系ロック系などの分野には触れることができませんので悪しからず・・
    トラック運転手だったフランク永井 バスガイド嬢だった八代亜紀たちもいますが・・)

    ◎元は銀行員だった作曲家:古関裕而 / 小椋佳
    ↓古関裕而 (wikipediaより引用)
    koseki (2)
    古関裕而はちょうど現在NHKテレビで放送中の朝ドラ「エール」の主人公のモデル 不本意ながら地方銀行(福島県の旧川俣銀行)の行員となったが 夢捨てきれず 専業音楽家を目指し 独学ながらクラシック音楽の素養をベースに交響曲 オペラ 歌謡曲 軍歌 校歌 応援歌 行進曲など巾の広い分野で名曲多数を生み出した 

    その中でも最も日本中に流れているのはNHKラジオの正午のニュースの後に始まる「ひるのいこい」のテーマ曲ではないだろうか なにしろ50年もの間 日曜を除く毎日である

    ↓小椋佳 (wikipediaより引用)
    ogurakei
    小椋佳は旧日本勧業銀行の行員時代からシンガーソングライターを始めていて 名曲多数だが他の歌手向けに作った曲(「シクラメンのかほり」「愛燦燦」など) も多い

    またCMソングもあり おもしろいのは・・彼は東京大学出身であり将来の頭取と目されていたほどだったので 必須条件である”支店長経験“のために浜松支店長を任ぜられたことがあり その在任中の地元の縁で “浜松と言えば有名な春華堂の「夜のお菓子『うなぎパイ』」”のCMソングも作っている

    氏も銀行を早期退職して音楽専念の道を選んだ

    ◎医学生やめて作曲家になった小林亜星
    正確には”慶応大学医学部に入学したものの医者になる気は無いので 経済学部に転部した上で音楽の方に打ち込みながら卒業 わずか2週間の会社勤務を経て音楽勉強に専念 後に 私の前回のブログで紹介したように 作曲 作詞 役者 タレントもやり CM作曲多数(レナウンの「イエイエ」 日立の「この木なんの木」など)

    そして 私がかつてお付き合いがあった” 音楽へ進み直した人”が二人いる それが黒崎錬太郎と榊原栄・・

    ◎工業デザイナーから声楽家になった黒崎錬太郎
    氏の若い頃に私は大阪の地で少なからず面識があったもの 氏は某大手電機メーカーの工業意匠(今で言うインダストリアルデザイン)部に勤務する優秀な"電気製品デザイナー"だったが あるアマチュアコーラスグループにも属していて歌っているうちに 本格的な声楽の道に進みたくなり ついには退社して・・

    東京芸術大学音楽部に入学しなおして研鑽を重ねて卒業後 音楽界にバリトン歌手としてデヴューを果たした その後は複数の声楽コンクールで1位や金賞など獲得してオペラなどで活躍 近年はテノールに変更している

    ◎大学中退し東京芸大に入り直して音楽家になった榊原栄
    ↓榊原栄 (https://digital-sonic-design.jp/?p=7942から引用 )
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    彼と私は東京都豊島区で小・中学校が一緒 中学校の名は「豊島区立長崎中学校」(現在は廃校で校舎も消滅)で当時同校のブラスバンド(略称ブラバン)部は東京でも最上位クラスの実力だった そのブラバンで彼はトロンボーンを吹いていた 

    その後 彼は某大学(私の記憶があいまいで法政 中央 明治のどれか)に入学したものの 音楽こそ我が行く道と思い直して1年足らずで退学 東京芸術大学音楽部に入学しなおして 卒業後は作曲 編曲 指揮(日本各地の交響楽団を指揮と指導したことが多いが海外での客員指揮者もした) 楽器(特にトロンボーン)指導など巾広く活躍 その結果・・

    あの山本直純氏の後継者と言われるまでになっていたが 惜しくも還暦前59才で他界してしまった
    ・・・・・・・・・・・
    榊原栄氏と小椋佳氏に関連したお話 まだ尽きず 長くなるので次回に続けます

    アパレル大手の株式会社レナウンが株式一部上場会社としてはコロナ影響による民事再生法適用の第一号となってしまいました

    “レナウン”は日本語で”名声”・・レナウンの名声が復活することを祈ります・・ と言うのも かつて・・

    ◎レナウンのCMは新鮮だった
    レナウンと言えば 私らが若いころの1961(昭和36)年に 従来とは違った新しい感覚のCMソングをテレビで流したのです 

    それは「わんさか娘」と題名が付いていたとは知らない(オリジナルCMソングはほとんどそうなのですが)曲で 

    出だしは「ドライヴウエイに春が来りゃ イエイ イエイ・・」 

    この軽快な作曲をしたのは小林亜星(後にテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の親父さん役もした)
     
    CMソング「わんさか娘」(シルヴィ・バルタン版)は・・
    https://www.youtube.com/watch?v=NhQ5FO5RxB8

    小林は 次に1967(昭和42)年にも同社CMソング「イエイエ」も作曲
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    「イエイエ」のCMソングとともに流れた映像

    これを機会に 私が昔から”心に残るCM名曲”と 勝手に決めているものを挙げてみます

    ◎「オリエンタルカレー」のCMソング(株式会社オリエンタル)
    この曲は新しい感覚ではないが 流れるようなメロディーと情感にうったえる歌詞で歌いやすく覚えやすいものです 

    3番まである その1番は・・「なつかしい なつかしい あのリズム エキゾチックなあの調べ オリエンタルの謎を秘め 香るカレーよ 夢の味 あゝ 夢のひと時 即席カレー 君知るや 君知るや オリエンタルカレー」  

    この曲は1954(昭和29)年に出来て 日本最初の本格的CMソングとされて なんとレコード(盤)にもなっているのだそうです なるほど それに値すると納得できます

    そのCMソングは・・
    https://www.youtube.com/watch?v=78FJ3W4j2Ns

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    ↑↓
    新旧の商品
    oriental-curry-old (2)

    ◎「グンゼのナイロン靴下」のCMソング
    (グンゼ株式会社)
    雪村いずみが歌う このソングは・・商品名がからんだサビ的な部分の歌詞は・・
    「グ~ンゼの ナ~イロンく~つ下は~ な~んとも言~えない す~ばらしさ~」だが 

    この曲は出だしの歌詞とメロディーが良いのです しかし残念ながら 私はうろ覚えで ここにご紹介できません ネット上のyoutubeでも見つかりません 同社がナイロン靴下を製造開始したのは1952(昭和27)年ですから CMソングはその後に流れたのでしょうが年代も不詳です

    ◎「不二家のお菓子」のCMに使われた歌(株式会社不二家)
    この曲 私は子供の頃聴いていましたが 何となくシャレた歌であり 歌詞もメロディーも歌いやすく覚えやすかったものです 

    その後 長い間 これは不二家のオリジナルだと思っていましたら 数年前に この歌は古くから存在したものと知りました それは1928(昭和3)年に西條八十の作詞で 橋本國彦が作曲した「お菓子と娘」 

    その出だしは・・「お菓子の好きな巴里(パリ)娘 二人そろえば いそいそと 角の菓子屋へボンジュール・・」というもの → 
    https://www.youtube.com/watch?v=MxuXbI5D-e8

    この歌はシャンソン風なのですが 今にして思えば 当時不二家は「フランスキャラメル」を製造販売していたからでしょう 私も子供の頃によく食べましたが 調べたら なんと発売開始は1934(昭和9)年でした
    france-cyaramel
    戦後の昭和の一時期に数寄屋橋店に掲げられていた「フランスキャラメル」の大きな看板は目立った
    france-cyaramel-billboad

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    おまけ・・ “懐かしいテレビCMいろいろ”・・
    https://www.youtube.com/watch?v=OSOze2CP1Qc
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    テレビ番組「がっちりマンデー」(TBS系)は “独創(独走)的商品でがっちり儲かっている会社”をとりあげて毎週日曜日の朝に放送されていますが 

    去る5月3日には(コロナの影響で同番組の過去放送分からチョイスされて再登場の)“一芸家電”を誇る5社が紹介されました 

    これを観て私は実に感慨深いものがありました という理由は 5社の内なんと3社に私はご縁があるからです その3社とは・・

    [1](株式会社)「千石」(せんごく)
    発熱スピードが超速な独自開発のヒーターを使用した「グラファイトトースター」が売れ行き好調!
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    株式会社 千石の社屋(同社HPより)
    AGT-G13AG[1]

    グラファイトトースター(同社HPより)
    さてこの会社の本社所在地は兵庫県加西市 そこは昔の私の勤務地であり住んでもいた土地であり 

    しかも同社は私の勤務していた会社とも協力関係があったもので 当時は「千石鉄工」(株式会社)という名称で その工場に掲げられた社名看板はよく目立っていました 

    「千石」は創業者名であり現在の社長は千石唯司氏 

    ところで「千石イエス」と呼ばれた人をご記憶だろうか 本名は「千石剛賢(たけよし)」1970年代後半から 「イエスの方舟」という一団を主宰して東京・恋ヶ窪はじめ各地を転々としたが マスコミの間違った報道によってオカルト教団の教祖のようなとらえ方をされて批判にさらされたものの 実は彼の許に集まったのはDVなどを受けたりした女性たちで そこは「駆け込み寺」のような性格が強かった 

    その千石イエス氏(2001年78才で死去)も加西市出身であり 世間で注目を浴び始めたころに同市に住んでいた私は “千石家は土地の豪農だったもので千石鉄工社長と千石イエス氏は血縁関係がある”という話は聞いていました(加賀百万石とは比べ物にならないですが千石とは豪農らしい苗字ですね)

    [2]「タニカ電器」(株式会社)
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    冒頭で社長の「谷口幸子」氏自ら ヒット商品であるヨーグルトメーカーの「ヨーグルティア」を手に持って登場 

    いやお懐かしや 谷口氏と私は同じ大学の同じ学部・科だったのです この同社紹介番組収録は5年前ですが お歳を感じぬ若い声です
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    谷口幸子社長(同社HPより)
    この会社は岐阜県多治見市で現社長の父君が創業して当初製造していた電気式酒かん器の温度管理ノウハウを活かして 日本初のヨーグルトメーカーを製造した 

    ヨーグルトの生成に必要な一定温度を安定して保つ機能では 他の大手メーカーでも追随できないので同社のヨーグルトメーカーはシェアNo1であり 最新製品の「ヨーグルティアS」は設定温度を25~70℃まで可変にすることで様々な醗酵食を作ることができる醗酵器に進化させたので 作れるものは・・カスピ海ヨーグルト/天然酵母の醗酵/市販のヨーグルトを種菌とするヨーグルト/納豆/西京みそ/チーズ/発酵バター/甘酒/塩こうじ/醤油こうじ/温泉卵/低温調理(サラダチキン、ローストビーフ)など 谷口社長曰く・・「健康志向の中で重要視されている”腸の健康”のためになる発酵食は簡単にホームメードできるということをもっと多くの方に知っていただきたいと思っています」
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    ヨーグルティアS(同社HPより)

    [3](株式会社)「シリウス」
    同社も冒頭から社長の「亀井隆平」氏が“一芸家電”である「スイトル」を抱えて登場
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    亀井隆平社長(同社HPより)
    実は亀井社長が以前に勤めていたのは私と同じ会社だったのです しかも東京・御徒町駅に近い場所にあった会社のビル(中に当時は多数の部署があり社員も数百人いた)その中で短期間ながら同時期にこの二人が勤務していた可能性が高いのです 現在のシリウス社の所在地はそのかつてのビルから500メートルくらいの位置にあります 

    さて社長自慢の「スイトル」ですが “じゅうたんなどにこぼれたコーヒーや醤油などの汚れやペットのおしっこもきれいに吸い取る「世界初の水洗いクリーナー」”であり 家庭用の掃除機につないで使うもので その仕組みはここで文章で説明するのは長くなるので割愛するとして 掃除機の吸引力とスイトル内部の水を利用して“水を吹き出しながら汚れを吸い取る”ものです
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    「スイトル」(右横部分に掃除機ホースをつなぐ)(同社HPより)
    以上 私がご縁ある会社・人ですが 70数年生きていれば今回のようなことが起こるものですね

    ちなみに「がっちりマンデー」で紹介された他の2社は・・
    ◎「テスコム電機」(株式会社)
    ヘアドライヤーのメーカーで 特にプロ用では圧倒的シェアで“日本の理美容店の70%が採用” その理由は“風速”が強大 その分大きくてやや重いので小型化して軽くした一般用も製造販売

    ◎「富士工業」(株式会社)
    レンジフード・換気扇では64%のシェアを誇る 大手電機メーカー製には無い 個性的なデザインで多様な商品陣容 その一環として開発された“一芸家電”が「クーキレイ」 でシーリングペンダント(天井吊り下げ)型照明器具と吸煙装置を合体させたもので好評
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    現在NHKの朝ドラの「エール」に故志村けんが“小山田耕三”として登場していますが そのモデルが“山田耕筰(改名前は耕作)”(1886=明治19年~1965=昭和40年) 

    耕筰は作曲家・指揮者の大御所であって交響曲から童謡(赤とんぼ ペチカ 待ちぼうけ など) 校歌 軍歌まで非常に多くの作曲をしました
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    山田耕筰(wikipediaより引用)
    ◎映画「ここに泉あり」に本人役で出演しています

    映画ですから山田耕筰の生前の動く姿が“楽団を指揮するシーン”などで見られます 

    出演当時は68才ですが62才の時の脳溢血の影響で身体の動きがやや不自由な状態でした 
    ◎「ここに泉あり」とは
    高崎の市民楽団が“群馬交響楽団”に成長した実話に基づいたストーリーを名脚本家である水木洋子が手掛け 監督:今井正 主演:岸恵子 その他:岡田英次 小林圭樹 加東大介 草笛光子など豪華メンバー(子役から出て後に日活で活躍する浜田光男も少年で)出演し 音楽は山田耕筰の弟子であった団伊久麿が担当した 1955(昭和30)年公開のモノクロ映画 

    私はこれをテレビ放映されたもので観ましたが 全編にわたり“楽団経営の難しさ”が描かれていて 今またコロナウイルス禍による楽団経営のさらなる苦境は如何ばかりかと思わずにはいられません 

    また印象的なのは 楽団が草津にあるハンセン病療養所で演奏した際に 入所者たちが不自由な手で“音が出ない拍手”をするシーンです 

    この映画のダイジェスト版(1分57秒)は
    youtubeで観られ山田耕筰氏が指揮するシーンなどが観られます
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    映画の中で楽団を指揮する山田耕筰本人(上記写真2枚とも新井まり子氏制作のyoutubeより引用)
    ◎私が通った学校の校歌も山田耕筰作曲 北原白秋作詞

    我が校歌の作曲者が山田耕筰だったなんて 今回調べて気が付いたわけですが それもそのはずで在校中にその校歌を歌った記憶は全くないのです 

    ちなみに私の心中で日頃から気になっていたことがあり それは・・小・中・高・大と通った学校の校歌を覚えているのが小学校と高校のものだけで中間期と最後期の校歌の記憶が“完全に無い”ことなのです こんなことがあるものでしょうか?
    ・・・・・・・・・・・

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