五輪開催は来年に延期となりましたが とにかく何とか聖火だけは日本にやって来ました
その「何とか」と言うわけは アテネで採火された聖火を日本側が受け取る儀式には当初の予定では日本オリンピック委員会の森会長 柔道の野村忠宏氏とレスリングの吉田沙保里氏の3名が出席することになっていたものが コロナウイルス対策のためギリシャ側が入国規制を開始したために不可能になり 急遽 井本直歩子(いもとなおこ)氏が日本代表に抜擢されて聖火受け取りが行われたからです
(詳しくは井本直歩子氏のブログ「地球散歩」の2020年3月21日と30日の発信分を参照ください)(以下文中敬称略)
↑聖火受け取る井本 日本国旗表す赤ジャケットに白ブラウスで(NHKニュースから)
◎井本直歩子(いもとなおこ)とは
1976年 愛知県生まれの東京都育ち 43才
1996年アトランタオリンピックの競泳選手で千葉すずらと組んだ800メートル自由形リレーで4位入賞
引退後 慶応大学 サザンメソジスト大学 マンチェスター大学大学院を卒業・修了 橋本聖子参議院議員(現・五輪担当相)の秘書 国際協力機構インターンを経て
2007年から国連児童基金(ユニセフ)職員となり その後この組織の中で事務所教育専門官として世界各地の主に発展途上国や大規模被災地(ガーナ スリランカ ハイチ フィリピン マリ 東日本大震災被災地など)のような生活困窮地において人道支援や子供たちの教育支援に尽力している
そして2016年から現在まで 難民滞留地でもあるギリシャに赴任して在住中です
というわけで 井本自身が五輪出場経験者 橋本五輪担当相とは旧知の関係 現在ギリシャ在住と これ以上の人選はあり得なかったのです
しかし元々井本直歩子は世界も日本も認めるスゴイ人なのです
2009年にはニューズウィークが「世界が尊敬する日本人100人」の一人として選出 2019年12月には日本財団主催の「HEROs AWARD 2019」を受賞
そしてこの3月に雑誌「AERA」(2020年3月23日号)には〈現代の肖像〉として井本が登場 現在の仕事の道に進んだ経緯や信念など詳しく述べられています その一部を紹介すると・・
“アスリートとしての現役時代 恵まれない環境で練習せざるを得ない外国の水泳選手を目の当たりにしたことで格差があることを知った井本が引退後に選んだのが人道支援の道だった
特に教育は、係争地域や難民の子どもたちをリスクから遠ざける一番の武器と信じてやまない
そして「競技生活で培った絶対にあきらめない心と 最高の結果を求める信念は この道でも同じ どんな困難があろうと諦めずに突き進み 子どもたちの未来に最高の結果を出すのが私の任務」と言う”・・
井本直歩子は まさに名前の通り 目標に向かってひたすらに真っすぐ歩んでいる人です
↑AERAの掲載記事から
井本直歩子は強さと優しさを併せ持った人 生まれながらに体は大きく 子供の頃はガキ大将だが弱い子には優しかった 障がいのある子はおぶって保育園に通った
その優しさとともに 五輪選手になるほどの根性で磨いた心身の強さで 例えばギリシャでは難民のためにギリシャ政府にかけあうことも行う・・
そこで想起するのは「強くなければ優しくなれない」という言葉 井本はまさにこれを体現しているようです
2014年9月8日NHKテレビ番組〈視点・論点〉で井本は「自然災害と開発途上国」と題して 2013年の台風30号によるフィリピンの大災害後の支援の実際を説明しながら その大切さ 難しさを訴えています
その中で方策の一例として「クラスター制度」というものも紹介していましたが ここでは詳細を割愛します 現在はコロナウイルス関連で頻出している「クラスター」という言葉は元々昔から広い分野で使われていることの一端です
↑NHK〈視点・論点〉放送画面から
◎井本直歩子の父とは
父親の名前は井本雄司 彼の高校生時代は私も同じクラスでしたのでちょっと紹介しますと
彼は身長180センチ超のクラス一の大男(直歩子の身長が172センチなのは父親ゆずり?)でした しかし彼は派手な言動はせずに目立つことはしませんでした むしろ静かで優しい・・一言で言えば“ジェントル”な秀才でした
実は私のすぐ後ろの席が彼でしたからクラスの中でも私が最も“彼のつぶやき”を聴いていました 声が背後からなのでよく聞こえ しかし“つぶやき”なので他の級友には聞こえていなかったでしょう その声というのが優しかった(それは心のやさしさの反映である)ことを半世紀以上経ても私ははっきり覚えています
雑誌AERAの記事によれば 井本直歩子が12才の時に水泳の能力を見込まれて大阪のスイミングスクールの名門「イトマン」に勧誘された際に それを受け入れれば 親元を離れることになるために 大阪行きを反対する父親と賛成する母親で意見が分かれ その決断をまかされた直歩子自身が出した答えは「大阪に行く」 だった その時のことを母親である三恵子(70)は「直歩子の言葉を聞いて 彼は娘に背を向け肩を震わせていた」と語っています・・その彼の所作のシーンは私には容易に想像できるのです
しかしながら その後の結果は 諺「かわいい子には旅をさせよ」の立場を三恵子が主張したことがよかったわけです
彼は千葉大学工学部に進み 卒業後は某企業の設計管理職を経て独立して建築設計事務所をご夫婦で経営していましたが 平成30年2月に亡くなりました
しかし ご夫婦の教育方針である「他人(ひと)とくらべない」ことが見事に井本直歩子の中で開花して立派な仕事をしていること そして今 日本代表として聖火受け取りしたことには彼岸から喜んでいることでしょう
そして彼の高校時代の級友たちも 直歩子の活躍を賞賛し“わが子”のことのように喜んでいます 今回もAERAの井本紹介記事掲載号を 売り切れ店が多い中を探しだして入手し その記事内容を級友仲間に伝えてくれた者もいるほどです(級友間にはSNSならぬCNS=クラスメイト・ネットワーク・システムとも呼ぶべきものがあり これを介してです)
このような級友の動きは 直歩子のみならず雄司もの人徳によるものでしょう
◎“秀吉の醍醐の桜”より“西行の桜”
井本雄司の他界直後に級友が弔文を奥様に送ったことにたいして返信いただいた文面が他の級友の皆にも(CNSを介して)公開されました・・
奥様の文面には「『願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃』という西行の歌の通り 願うことなら旧暦2月15日の満月の頃 満開の桜の下で死ぬ・・ということ叶わず 急足でいってしまった良人 今春は彼のいない桜を愛でながら 和船に乗ってしのびました(以下割愛)」・・とありました
これに対して浮かぶのは“豊臣秀吉が催した『醍醐の花見』”で
慶長3(1598)年3月15日 京都の醍醐寺において総勢1300人が参加した盛大な花見の宴で 男性は秀吉 秀頼 前田利家だけ 他はすべて女性で北政所 淀殿 まつ(利家の妻)の3人以下は女房・女中がしめた 女性には着物が3着ずつ与えられて 宴の途中で衣装替えが義務付けられたので その衣装代の総額は現在価値に換算して39億円にものぼった・・というほど派手なもの
井本雄司と三恵子のご夫妻にふさわしいのは 言うまでもなく“西行の桜”ですね
ちなみに西行はこの歌を詠んだ10年後の2月16日に亡くなったのでお釈迦様入滅の2月15日に1日だけずれたことになり 願いはほぼ叶っています 一方 秀吉は醍醐の桜の宴の5か月後に亡くなっています
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その「何とか」と言うわけは アテネで採火された聖火を日本側が受け取る儀式には当初の予定では日本オリンピック委員会の森会長 柔道の野村忠宏氏とレスリングの吉田沙保里氏の3名が出席することになっていたものが コロナウイルス対策のためギリシャ側が入国規制を開始したために不可能になり 急遽 井本直歩子(いもとなおこ)氏が日本代表に抜擢されて聖火受け取りが行われたからです
(詳しくは井本直歩子氏のブログ「地球散歩」の2020年3月21日と30日の発信分を参照ください)(以下文中敬称略)
↑聖火受け取る井本 日本国旗表す赤ジャケットに白ブラウスで(NHKニュースから)
◎井本直歩子(いもとなおこ)とは
1976年 愛知県生まれの東京都育ち 43才
1996年アトランタオリンピックの競泳選手で千葉すずらと組んだ800メートル自由形リレーで4位入賞
引退後 慶応大学 サザンメソジスト大学 マンチェスター大学大学院を卒業・修了 橋本聖子参議院議員(現・五輪担当相)の秘書 国際協力機構インターンを経て
2007年から国連児童基金(ユニセフ)職員となり その後この組織の中で事務所教育専門官として世界各地の主に発展途上国や大規模被災地(ガーナ スリランカ ハイチ フィリピン マリ 東日本大震災被災地など)のような生活困窮地において人道支援や子供たちの教育支援に尽力している
そして2016年から現在まで 難民滞留地でもあるギリシャに赴任して在住中です
というわけで 井本自身が五輪出場経験者 橋本五輪担当相とは旧知の関係 現在ギリシャ在住と これ以上の人選はあり得なかったのです
しかし元々井本直歩子は世界も日本も認めるスゴイ人なのです
2009年にはニューズウィークが「世界が尊敬する日本人100人」の一人として選出 2019年12月には日本財団主催の「HEROs AWARD 2019」を受賞
そしてこの3月に雑誌「AERA」(2020年3月23日号)には〈現代の肖像〉として井本が登場 現在の仕事の道に進んだ経緯や信念など詳しく述べられています その一部を紹介すると・・
“アスリートとしての現役時代 恵まれない環境で練習せざるを得ない外国の水泳選手を目の当たりにしたことで格差があることを知った井本が引退後に選んだのが人道支援の道だった
特に教育は、係争地域や難民の子どもたちをリスクから遠ざける一番の武器と信じてやまない
そして「競技生活で培った絶対にあきらめない心と 最高の結果を求める信念は この道でも同じ どんな困難があろうと諦めずに突き進み 子どもたちの未来に最高の結果を出すのが私の任務」と言う”・・
井本直歩子は まさに名前の通り 目標に向かってひたすらに真っすぐ歩んでいる人です
↑AERAの掲載記事から
井本直歩子は強さと優しさを併せ持った人 生まれながらに体は大きく 子供の頃はガキ大将だが弱い子には優しかった 障がいのある子はおぶって保育園に通った
その優しさとともに 五輪選手になるほどの根性で磨いた心身の強さで 例えばギリシャでは難民のためにギリシャ政府にかけあうことも行う・・
そこで想起するのは「強くなければ優しくなれない」という言葉 井本はまさにこれを体現しているようです
2014年9月8日NHKテレビ番組〈視点・論点〉で井本は「自然災害と開発途上国」と題して 2013年の台風30号によるフィリピンの大災害後の支援の実際を説明しながら その大切さ 難しさを訴えています
その中で方策の一例として「クラスター制度」というものも紹介していましたが ここでは詳細を割愛します 現在はコロナウイルス関連で頻出している「クラスター」という言葉は元々昔から広い分野で使われていることの一端です
↑NHK〈視点・論点〉放送画面から
◎井本直歩子の父とは
父親の名前は井本雄司 彼の高校生時代は私も同じクラスでしたのでちょっと紹介しますと
彼は身長180センチ超のクラス一の大男(直歩子の身長が172センチなのは父親ゆずり?)でした しかし彼は派手な言動はせずに目立つことはしませんでした むしろ静かで優しい・・一言で言えば“ジェントル”な秀才でした
実は私のすぐ後ろの席が彼でしたからクラスの中でも私が最も“彼のつぶやき”を聴いていました 声が背後からなのでよく聞こえ しかし“つぶやき”なので他の級友には聞こえていなかったでしょう その声というのが優しかった(それは心のやさしさの反映である)ことを半世紀以上経ても私ははっきり覚えています
雑誌AERAの記事によれば 井本直歩子が12才の時に水泳の能力を見込まれて大阪のスイミングスクールの名門「イトマン」に勧誘された際に それを受け入れれば 親元を離れることになるために 大阪行きを反対する父親と賛成する母親で意見が分かれ その決断をまかされた直歩子自身が出した答えは「大阪に行く」 だった その時のことを母親である三恵子(70)は「直歩子の言葉を聞いて 彼は娘に背を向け肩を震わせていた」と語っています・・その彼の所作のシーンは私には容易に想像できるのです
しかしながら その後の結果は 諺「かわいい子には旅をさせよ」の立場を三恵子が主張したことがよかったわけです
彼は千葉大学工学部に進み 卒業後は某企業の設計管理職を経て独立して建築設計事務所をご夫婦で経営していましたが 平成30年2月に亡くなりました
しかし ご夫婦の教育方針である「他人(ひと)とくらべない」ことが見事に井本直歩子の中で開花して立派な仕事をしていること そして今 日本代表として聖火受け取りしたことには彼岸から喜んでいることでしょう
そして彼の高校時代の級友たちも 直歩子の活躍を賞賛し“わが子”のことのように喜んでいます 今回もAERAの井本紹介記事掲載号を 売り切れ店が多い中を探しだして入手し その記事内容を級友仲間に伝えてくれた者もいるほどです(級友間にはSNSならぬCNS=クラスメイト・ネットワーク・システムとも呼ぶべきものがあり これを介してです)
このような級友の動きは 直歩子のみならず雄司もの人徳によるものでしょう
◎“秀吉の醍醐の桜”より“西行の桜”
井本雄司の他界直後に級友が弔文を奥様に送ったことにたいして返信いただいた文面が他の級友の皆にも(CNSを介して)公開されました・・
奥様の文面には「『願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃』という西行の歌の通り 願うことなら旧暦2月15日の満月の頃 満開の桜の下で死ぬ・・ということ叶わず 急足でいってしまった良人 今春は彼のいない桜を愛でながら 和船に乗ってしのびました(以下割愛)」・・とありました
これに対して浮かぶのは“豊臣秀吉が催した『醍醐の花見』”で
慶長3(1598)年3月15日 京都の醍醐寺において総勢1300人が参加した盛大な花見の宴で 男性は秀吉 秀頼 前田利家だけ 他はすべて女性で北政所 淀殿 まつ(利家の妻)の3人以下は女房・女中がしめた 女性には着物が3着ずつ与えられて 宴の途中で衣装替えが義務付けられたので その衣装代の総額は現在価値に換算して39億円にものぼった・・というほど派手なもの
井本雄司と三恵子のご夫妻にふさわしいのは 言うまでもなく“西行の桜”ですね
ちなみに西行はこの歌を詠んだ10年後の2月16日に亡くなったのでお釈迦様入滅の2月15日に1日だけずれたことになり 願いはほぼ叶っています 一方 秀吉は醍醐の桜の宴の5か月後に亡くなっています
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