徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2019年07月

    このテーマシリーズ(不定期)の手始めに・・

    ◎高齢化社会高齢社会超高齢社会
    まず 高齢者が多い社会の状況を 国際的に通用する表現で使い分ける必要があります・・その理由は
    国連やWHO(世界保健機構)が下記のように定義しているからです
    ・高齢者=65才以上
    ・高齢化社会
    (aging society)
     =高齢者が総人口の7%以上
    ・高齢社会 
    (aged society) 
     =高齢者が総人口の14%以上
    ・超高齢社会
    (super aged society)
       =高齢者が総人口の21%以上  
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    ◎日本は「超高齢国(社会)」
    日本は・・
    1935(昭和10)年 
    高齢者が総人口の4.7%
    統計開始以来最低

    1970(昭和45)年 
    高齢化社会
    (高齢者が総人口の7.1%)到達※

    1995(平成7)年  
    高齢社会
    (高齢者が総人口の14.5%)到達
    2007(平成19)年 
    超高齢社会
    (高齢者が総人口の21.5%)到達

    2018(平成30)年9月 
    高齢者が総人口の28.1%に
    なり 
    高齢者人口は 3557万人で
    全国民の3.5人に1人が高齢者

    2035(令和17)年 
    推計で高齢者が総人口の33.4%
    となり 
    全国民の3人に1人が高齢者となる予想
    ※1970年は大阪で万国博覧会開催の年
     
    ◎高齢者の多い社会の認識上の要注意点
    1)日本はとっくの昔に超高齢社会になっているのに 未だに高齢化社会と表現している例・人があります(私が国連の定義を知ったのは35年くらい前ですが それより以前からあったのでしょう それほど経年してます) 
    2)「日本は平均寿命・高齢者人口率・高齢者人口率上昇スピードは世界一」と言うのは 過去の話で(高齢者人口率以外は)今では間違いです
     平均寿命(2017年)は 
    女性1位=香港(87.66才) 
       2位=日本
    (87.26才)
    男性1位=香港(81.70才) 
      2位=スイス(81.50才) 
      
    3位=日本(81.09才)
    高齢者人口率上昇スピードについては・・“「高齢化社会」から「高齢社会」への移行に要した年数”で比較すると 大韓民国=17年 日本=24年 ドイツ=42年 フランス=114年 (韓国は2000年に高齢化社会になり 2017年には高齢社会に到達)
     
    3)日本の超高齢社会は手放しでは誇れない それは日本の高齢者人口比率が多い原因が・・
     A)医療技術進歩による死亡率低下で平均寿命延長・・つまり長生きする人が増えた
    B)出生率の低下傾向が続き65才未満の人口が減少
    上記Aは一応 望ましい状態ですが Bは望ましくない状態で 欧州のいくつかの国では過去に低下した出生率を改善して向上することに成功しているのに日本はこれに至っていない
     
    4)中国の高齢者関連の数字には要注意
    中国では高齢者は60才以上として各種統計数字を発表しているので 単純に国際的比較ができない(これも中華思想ゆえなのでしょうか?)
     
    中国の高齢者(60才以上)
    ・2013年:1億9390万人 対総人口比率:14.3%(総人口13億5千万人)高齢者だけで日本の総人口をはるかに超えている
    ・現在では2億人を超えた世界初の国とされる
    ・高齢者増加スピード:1999~2018年の19年間で1億1800万人増加
      ・2050年:4億8700万人になると推計
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    ◎敬老の日と言えば・・
    1965(昭和40)年に
    9月15日を「敬老の日」
    と制定 その後
    2003(平成15)年に 
    9月の第3月曜日を「敬老の日」
    と改定
    しかし その改定に異議も多かったので 
    老人福祉法改定によって
    9月15日を「老人の日」とし 
    9月21日までの1週間を「老人週間
    としました
     
    しかし高齢者を大切にし敬う行為を「敬老の日」や「老人の日」や「老人週間」だけに行うのもおかしな話で しかも日本人の4人に1人以上が高齢者という現在の社会になれば 多くのことに高齢者が
    関与したり 高齢者に関与するようになり 高齢者の存在は大切だが当たり前のようになり(理由後日説明)大げさに言えば一種の“空気のような存在”に近くなっています
     
    私が仕事上で高齢者に関する調査をしたり情報を収集し始めたのが 今から35年ほど前でしたが 当時「敬老の日」とその前後数日くらいはテレビや新聞で“高齢者に関する特集”が非常に多かったもので
    当時ある年の「敬老の日」1日だけのテレビ各局の特集番組は・・その数 合計15件はありました ところが近年では「敬老の日」のテレビでの高齢者関連番組は ほんの数件となりました
    これは 高齢者とその関連事が前述のように“空気のように”当たり前になって 関連番組が日常に分散している証でしょう
     
    ◎高齢者に関する“言葉”色々
    「老人」「シルバー」「高齢者」「後期高齢者」
     これらの言葉は使い方に注意が必要で この中でも「老人」は使われなくなった 但し「特別養護老人ホーム」「介護老人保健施設」等には使われている 他のシルバー」「高齢者」「後期高齢者」も
    施設名や文書の中では使われるが 商品やサービスなどで「これはシルバー向けの〇〇です」などと高齢者に向けて直接的な表現には使わないのが常識となっている
    「熟年」:熟年という言葉に定義は無い※ゆえに 例えば40才以上の人たちの総称として使うこともある これならば・・「私はまだシルバー(高齢者)ではない」という拒否感も生じない ※「熟年」は作家の邦光史郎氏が1978年に発表した造語で50才前後を想定したものだったが 現在は一般に中高年をさす 
    「シニア」:カタカナ表現としては多く使われる 
    「セニア」:シニアが「死にあ」につながるとして代替表現したもので もともと原語は「senior」だから こちらが妥当か?
    実際例:自動車メーカーのスズキが長年製造販売している”高齢者・身障者向け電動4輪車「スズキ セニアカー」”に使用
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     ↑
    スズキセニアカー

    「ゴールド世代」・「プラチナ世代」:少ないが使われることがある
    「百寿者」「センテナリアン」:いずれも百才以上の人たちを表します まれに「センチナリアン」 表記もあります
    日本の百寿者は6万9785人(2018=平成30年)で 女性が9割 1963(昭和38)年は 僅か153人でした
    「スーパーセンテナリアン」:110才以上の人たちを表します
    「グランデージ」「GRANDAGE」:GRAND+AGEで GRANDには“素晴らしい”や“堂々とした”などの意味もあり またGRANDFATHER(MOTHER)にも通じ AGEは年や時代の他に老齢という意味もある
    この造語は 素晴らしい高齢者そのもの 又は そんな人達が使用・利用するであろう商品に向けたもので 実際例としては 某インスタントコーヒー名 日産の自動車のあるバージョン名 某電機メーカーの商品用の登録名称となっている
     
    「老いるマネー」:高齢者特有の消費(後日述)に使われるお金を 中東産油国のオイルマネーにひっかけたもの
    「サンデー毎日」:高齢者の あたかも“毎日が日曜日”な状態を 同名の週刊誌から引用
    高齢者)「GNP」:“元気で 長生きして ポックリ亡くなる”を ローマ字で書く場合の頭文字・・昔 使われたGNP(国民総生産)から・・
    「ピンピンコロリ」:”最後まで元気”を表して 上記GNPと同義だが 語感としてはGNPに劣ります
    「きょういく」と「きょうよう」が大切:高齢者の認知症予防や介護予防には 今日(何処かに)行く”ことや“今日(何か)事がある”というような生活行動が必要ということ
    「老老介護」:高齢者が高齢者を介護
    「認認介護」:認知症者が認知症者を介護
    ・「ジェロントロジー」「老年学」:高齢者関係の学問
       ・・・・・・・・・・

    これまで私は  東京都豊島区南長崎 あるいは その旧町名である椎名町に関係した題材を多く取り上げてきましたが 皆さんの中には「椎名町」という地名を聞けば・・あの「帝銀事件」を思い出される方もおられることでしょう
    今や「椎名町」という名は 西武池袋線の「椎名町」駅と私がかつて通い  今も存続する「椎名町小学校」にしか残っていません この小学校も近年の少子化による統廃合で名前が消えるかもしれません
    しかし「帝銀事件」は日本の社会史または犯罪史の中に残るでしょう それゆえに「椎名町」の名は消えることはないでしょう
     
    ◎帝銀事件のあらまし
    1948(昭和23)年1月26日
    東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店で 
    行員たち16人が毒を飲まされて12人が殺され現金と小切手が奪われた事件・・これが通称「帝銀事件」
    ※帝国銀行は後の三井銀行 現在の三井住友銀行
    椎名町支店は1950年に統合閉鎖され廃店
    事件詳細は「シェアチューブ」(sharetube.jp/article/12965/)など参考下さい
     
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    事件直後の帝国銀行椎名町支店jaa2100.orgより引用

    警察の捜査の結果 テンペラ画家(※1)の平沢定通(ひらさわさだみち)が逮捕され  1955(昭和30)年に死刑が確定したものの 冤罪の可能性は否定できないために 代々の法務大臣が平沢の恩赦請求は退けながら死刑執行命令書には署名しないまま年月が過ぎ 平沢は 獄中生活30余年経過した
    1987(昭和62)年5月10日 肺炎のため95才で死去
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    平沢貞通 
    en.wikipedia.comより引用

    1:テンペラ画とは“顔料に卵黄を混ぜて作った絵具”を使って描いたもの

    ◎平沢貞通は犯人か?
    平沢が犯人とされた決定的証拠は無く ただ過去に銀行詐欺4回の犯歴があるくらいで その他は“可能性はあるが確定はできない”理由ばかりです
    中には “後日 いわゆる「面通し」として被害者に平沢の顔を見せたが 犯人の顔と断言できる者は皆無だった“ということもあったとのこと そして 犯行に特殊な毒薬を使った手口は 高度な知識と経験を持つ者以外では不可能なもの
     
    「歴史に“もしも”は無い」と よく言いますが “ある一つの歴史”がその後の人や社会に悪い状況を招いたならば それは いわゆる「歴史の教訓」として反省材料としなければならないもので そこで必要となるのは“もしも”の状況設定です
     
    帝銀事件に関しては大量の研究・考察結果情報が出ているようですが 私が読み取った範囲から言えるのは・・平沢貞通は 下記のような“もしも”によって そもそも逮捕もされず 獄死もせずに済んだのでは?ということ
     
    “もしも1”・・事件で奪われた金額とほぼ同等の大金を事件直後に所持していたことが判明していて 平沢はそのカネの出どころをガンとして説明しなかった ゆえに これが証拠の一つとされたが・・
     
    平沢の養子となって“冤罪追求”活動をしていた故平沢武彦氏が 生前の2000(平成12)年6月に『平沢貞通氏を救う会』のホームページhttps://www.gasho.net/teigin-case/jiken/shunga/shunga.htm「平沢が 死刑確定の約8年後に『平沢貞通氏を救う会』の初代事務局長であり武彦の実父であった作家の森川哲郎に・・「実は(あの大金は)『秘画12カ月』(春画)というものを描いて得たカネです」と告白していたし 小樽在住の“平沢の親族は 終戦後に 平沢が春画をよく描いていた事実を認めている」・・と発表している
    そして同じ2000年にNHKテレビが“小樽のある家で発見された 平沢作の『秘画12カ月』とみられる巻物を武彦が実際に見て調べているシーン” を放映している・・
    このことから・・もしも 平沢が「所持している大金は春画を描いて得たものです」と一言 言えば 罪を被せられることも無かったのではないだろうか・・まさに“言うは一時の恥 言わぬは一生の獄中生活”

    ※戦後の混乱と生活困難期には 大物の画家の中にも春画を描いていた人が多くいたことは後年 知られるようになったが 当時 平沢は文展無鑑査(現在の日展にあたる美術展に審査無しで出品できる) および日本水彩画会の審査員という高い身分であったゆえに 春画を描いているとは とても言えなかったことは想像に難くない
     
    “もしも2”・・帝銀事件での毒殺の手口は 前述のように とても 一般人では不可能ゆえに 犯人は旧陸軍「731部隊」または同「登戸(のぼりと)研究所」(双方とも毒や細菌で人体実験などして 兵器化の研究など行った)の関係者が容疑者であるとにらんで 捜査が進んだが すぐにGHQから その筋の捜査中止命令が出された
    GHQは旧日本軍の「731部隊」や「登戸研究所」の存在を感知していたので そこに関与した者たちへの戦犯不問とする交換条件として 研究結果資料や証言を731部隊長だった石井中将をはじめ 元部隊員や元登戸研究所員から収集していた そこに帝銀事件発生で警察が動き さらにマスコミまでが動くと “731や登戸”などの存在と資料が・・当時既に 米国が敵視し始めていたソ連側に漏れることを恐れたことは間違いないだろう
    もしも ソ連敵視の米国が中心のGHQの存在が無かったら・・「731部隊」か「登戸研究所」の関係者が真犯人となり 平沢は逮捕さえされなかったことになる
     
    ◎帝銀事件以前に同様な事件が2件発生していた
    第1件目:1947(昭和22)年10月14日 安田銀行(後に富士銀行 現みずほ銀行)荏原支店で 後の帝銀事件と全く同じ手口で犯行が行われようとしたが 毒殺も金品奪取も未遂に終わっている
     
    第2件目:1948(昭和22)年1月19日 つまり帝銀事件の1週間前に 三菱銀行中井支店で 現れた男が“前年の安田銀行の場合と同様な言動をした”ものの支店長の機転で未遂に終わっている
     
    ◎三つの事件はGHQがやらせた? 
    GHQは敗戦した日本を占領した「連合国軍最高司令部」のことであり 形式的には 米国 英国 ソ連 中華民国が関与したが 実質は米国の独占的権限が行使されて 米国は自国の軍事的優位性確保のために 前述のように 独占的に また秘密裏に“旧日本陸軍の毒薬や細菌による兵器開発資料“を731部隊あるいは登戸研究所に関与した人間から引き出して利用しようとするが・・
    ここからは私の推測ですが・・ 
    その引き出した情報を本国に送る前に その真偽性を確認しておこうとして 一つ“特殊な毒薬”の効果を“731または登戸にいた人間”に実証させようとしたのではないか その実行役を指名された人間は“実行すれば 戦犯不問にする”という交換条件を出され また絶対的権力を持つGHQの指示は拒否できるものではなかったであろう・・この推測の背景となるのが・・
    『帝銀事件の捜査主任であった成智(なるち)英雄警視は昭和47年に 雑誌の中でこのように述べている「アリバイが無いことと 事件の生き残りの者の証言による犯人像にピッタリ一致したのは 731部隊に所属していた医学博士のS軍医中佐ただ一人であった」(実際は“S”部分は実名)』
    『』内は「シェアチューブ:12人を一度に毒殺した「帝銀事件」とは」sharetube.jp/article/12965/より引用一部省略
    これに加えて・・
    帝銀事件の際 犯人は「GHQのホートク中尉の指示で先に来た」「ホートク中尉は消毒班を連れて後から来る」‥のように“GHQ”と“ホートク中尉”を口にしている
    ホートク中尉はGHQに実在する防疫関係の軍人であり その名前がスラスラと出るというのは 犯人がGHQと何らかのつながりがあったと考えられるので “SはGHQの指示で犯行せざるをえなかったのではないか”とも思える
     
    ◎帝銀事件現場跡は今・・
    帝銀椎名町支店が在った場所は 現在の東京都豊島区長崎1-7-1で 西武池袋線の椎名町駅から北に40mほどの距離に在り 現在はマンションが建っています 私も最初は場所が特定できずに 駅に張り付いたカタチで在る交番で「元帝銀事件が在った場所」を訊ねたのですが・・「分からない」という答えが返ってきたのには驚いた 聞けば「時々同じ問い合わせはある」と言うのにもかかわらず・・であり これは“何かある?” と勘繰らざるをえない 
    そう言えば 最近 帝銀跡地のマンションの住人が “大量殺人事件があった跡地とは知らされていなかった”として クレームをつけた・・というような話を聞いています
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    帝銀跡地に建つ茶色のマンション 
    この道路を40mほど先に進めば椎名町駅 

    この道路左側に在るのが長崎神社(下写真)
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     ・・・・・・・・・・

    今回は東京都豊島区に関係する「山口百恵」と「トキワ荘」関連のことをとりあげます(文中敬称略)
     
    ◎山口百恵出生地は東京都豊島区椎名町(現 南長崎)
    山口百恵(現 三浦百恵)の誕生日は1959(昭和34)年1月17日だそうですが  その出生地についての記述の間違いのなんと多いこと! 何しろ 多くの人が書き込み合って作り上げ かつ利用する存在の“山口百恵Wikipedia”さえも間違っています
    出生地は「東京都渋谷区(恵比寿)」とされて語られることが最も多く 次に多いのは「東京都」 その他「神奈川県横須賀市」や「東京都豊島区大塚」としている例もあります
    まあ「東京都」というのは間違いではないのですが その他の地は何を根拠に出現したのでしょうか 誕生後しばらくして横浜市に転居 再び転居した先が 小学校2年から中学校卒業(デビュー時)まで過ごした横須賀市だったことと 百恵自身が度々「わたしのふるさとは横須賀」と発言していたので “横須賀出生地説” が生まれたと考えられます 多分 百恵には豊島区での生活の記憶が定着していなかったところに横須賀の強い印象が勝っていたからでしょう
     
    試しに“山口百恵出生地が東京都豊島区である”という指摘が ネット上やその他のメディアであげられているかを調べたら・・ありました 
    最古は 1980年に「週刊平凡12月4日号」に登場 続いて1983年に藤原新也(写真家・作家)が著書「東京漂流」の中で 次に2012年8月の「berkeleyさんのブログ:アーバンダイアリー」で そして今年2019年5月に「百恵ちゃん大好き親父サーファーボバチャンのブログ」で発信されていました 
     
    そこで私は それらの指摘の正しさを証明するために このブログで確証を提示し補完することにしました

    ◎母親が百恵出産時に住んでいた「富士見荘」は現存
    実を申せば 私も“山口百恵出生地の真実”を知ったのは つい最近で「豊島区立郷土資料館」で豊島区史の本を閲覧して記事を見つけたのです それによると・・
    豊島区椎名町(現 南長崎)と言えば かつてマンガ家たちが住んだ「トキワ荘」が有名ですが そこから1キロも離れていない所にもう一つ・・
    “山口百恵が生まれた時期に その母親が住んでいた「富士見荘」”があります そのアパートの真横には西武池袋線が通っています そのアパートのすぐ近くにあった「西武診療所」(現在は廃所)で百恵を“とりあげた”と その診療所の「坂本俊二・スミエ院長(まま)夫妻」が証言されています』・・と 院長夫妻を昭和56年に撮影した写真付きで記されています。 
    夫妻の後ろに百恵が生まれた西武診療所の看板が見られます。(ご両人はその後に他界されています)
    seibusinryousyo
     ↑この写真は「百恵ちゃん大好き親父サーファーボバチャンのブログ」から引用させてもらいましたが、私は前出の書籍「豊島区史」の中でも全く同じ写真を見ています

    現在の富士見荘の入り口の門柱 奥に玄関が見えます
       この雰囲気のためか オーナーのお話では
    「時々 テレビドラマの
    撮影に使われています」とのこと
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    現在の富士見荘の建物(右側面に玄関あり)2枚とも↑↓撮影2019年6月21日
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    ◎「富士見荘」オーナーの貴重な証言が決定打
    所在地の現住所は・・東京都豊島区南長崎6丁目22番14号
    このブログ作成のため 私が写真撮影をしようと現地に向かったところ このアパートの門から数メートル手前の路地に 一人の高齢婦人が椅子に座って 膝の上の猫を撫でているので もしかしてと思い 声をかけたら なんと偶然にも・・その方が 富士見荘のオーナーだったのです
    早速 山口百恵の件を確認したところ 確かに事実と明言されました また 百恵の生まれた診療所は ここから歩いても1分とかからない所に在ったとも聞きました

    ◎「富士見荘」は近いうちに取り壊されます 
    現オーナーの先代が戦後間もなくに新潟県からこの地に来られて 自宅兼アパートとして建てた富士見荘の建物は1980(昭和55)年に改築されて現在に至っています
     
    現オーナーは今年82才と高齢なのでアパートの実際の運営は息子さんに任せているそうですが 建物の老朽化で 近いうちに取り壊すことを息子さんが考えているそうです
     
    ◎映画「潮騒」と「伊豆の踊子」両方に主演は二人のみ 
    正確には女優では山口百恵と吉永小百合だけで 男優の三浦友和も両方に百恵とコンビで出ています
     
    三島由紀夫原作の「潮騒」は 古代ギリシャで書かれた「ダフニスとクロエ」という“エーゲ海に浮かぶレスボス島を舞台にした恋愛物語”から着想を得て 三重県鳥羽市の海に浮かぶ「歌島(かじま)=現 神島」という実在の島を舞台にした小説で 過去に映画化は5回 同じ文芸モノの「伊豆の踊子」の映画化6回に迫るものです (他に「青い山脈」も5回ありました)
     
    1:1954(昭和29)年 青山京子 久保明     
           監督:谷口千吉
    2:1964(昭和39)年 吉永小百合 浜田光夫   
           監督:森永健次郎
    3:1971(昭和46)年 小野里みどり 朝比奈逸人 
           監督:森谷司郎
    4:1975(昭和50)年 山口百恵 三浦友和    
           監督:西河克己
    5:1985(昭和60)年 掘ちえみ 鶴見辰吾    
           監督:小谷承靖
     
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    ↑東宝のポスターより

    映画化された潮騒は・・
    「第3作目の
    小野里みどり 朝比奈逸人版だけは見ていない」という人が多いようですが 私は逆に第3作目のみを映画館で観ています

     
    ◎「トキワ荘」風の交番が「富士見荘」近くに出現
    今春 西武池袋線の「東長崎」駅南口前(東京都豊島区南長崎)に“かつてのトキワ荘”を模した造りの交番ができました
    元々この駅前に普通の交番があったのですが少し移動したのを機会に“マンガの聖地”の街にふさわしいように変身したものです
     
    実はこの交番と 先述の「富士見荘」との間は50メートルほどしか離れていません そして 山口百恵が生まれた「西武診療所」は「富士見荘」と この交番の中間にあたる地点に在ったのです
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                       トキワ荘を模した交番(新築なのに昭和レトロ感)↑
        富士見荘は この交番左横の道を先に少し進み 右折した所に在る

           トキワ荘を模した交番の側面と背面 
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                                        西武池袋線の東長崎駅南口↑
     
    ・・・・・・・・・・
    なお かつてのトキワ荘をほぼ復元するカタチにして来春完成目標で建設中の「(仮称)マンガの聖地としまミュージアム」は町内の「豊島区立花咲公園」の敷地内で 現在(2019=令和元年6月)は
    完成時の大きさがわかるような形の骨組みが現れています
           
    ・・・・・・・・・・

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