徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2019年06月

    ◎アキバのパーツ屋が無いとロケットも飛ばない!?
    今や家電量販店の各地への進出で あるいはネット販売などで 家電製品は どこでも購入できるようになりました しかし電気・電子部品(通称:パーツ 例えばコンデンサ 抵抗 IC  真空管 配線用リード線など)は家電量販店では売っていませんし ネットでは一部買えても 目的にぴったりの部品を見つけることは難しい状態です・・これを解決できるのがアキバのパーツ屋です

    私も高校生時代に アンプ製作で 部品探しに三日連続でアキバに通ったこともありました
     
    ところで アキバ以外で電気・電子の街と言えば 大阪市中央区の日本橋※が有名で 「電気のまち でんでんタウン」というキャッチフレーズで約40店舗ありますが 残念ながらパーツ屋はごく僅かしかありません(※日本橋は大阪では「にっぽんばし」と読み ゆえに日本橋1丁目は通称「日本一」)・・というわけで・・
     
    電気・電子を使った新製品のために試作品を作ろうとする 色々なメーカーの人たち あるいは 電気・電子を使って実験を行おうとする大学や研究機関の人たちが必要とする部品はアキバで調達することが多いものです
     
    今年2019年5月4日に打ち上げ成功で話題になった 民間製の小型ロケット(ホリエモンこと堀江貴文氏が出資する 宇宙ベンチャーのインターステラテクノロジズ=ISTの「MOMO3号機」)にはアキバで調達した部品が多く使われているそうです
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                             撮影:白井伸洋氏

    そして アキバと筑波研究学園都市を最短45分(1190円)で結ぶ「つくばエクスプレス」に乗って 各種研究機関から多くの研究者が部品調達に来ています
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                      新型車両TX-3000系電車の外観イメージ(画像:首都圏新都市鉄道)

    ・・という訳で アキバのパーツ屋は 国家にとっても重要な存在なのです
     
    アキバの街でパーツ屋が 集合している建物がいくつかあって それぞれに名前があり・・「ラジオスーパー」「ラジオガーデン」「ラジオデパート」などです もう一つ「ラジオストア」というのもありましたが残念ながら2013(平成25)11月30日に閉館しました 残ったパーツ屋さんには 何としても存続を切望せずにはいられません
     
    ◎「ヤマギワ」のロゴマークは亀倉雄策氏のデザイン
    アキバの電気街が隆盛を極めた頃 中には品格のある店舗がいくつか存在しました その筆頭が「山際電気(ヤマギワ) 現YAMAGIWA」で その他 「山田照明」「シントクエコー」などでした
     
    「ヤマギワ」は昔も今も 商品陣容をほぼ照明器具に特化していますが アキバに店舗を持つ会社としては異例と言える・・“有名グラフィックデザイナー亀倉雄策氏に依頼してロゴマークを作ったのです
    1966(昭和41)年に亀倉氏作成のマーク(正確にはコーポレートロゴマーク)が下図上段です
    ※当図はモノクロですが 当初はアタマの角が丸い十字のような部分は紺色がベースで 中に黄色の放射光のような細線というデザインでした
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    しかし近年 ヤマギワは経営苦境に陥ったため 現在は 電子部品メーカーのMARUWA」の完全子会社となり 2014(平成26)年に 再び有名デザイナーの佐藤卓氏にマークを改作依頼して 現在使用されているものが上図下段です・・前者よりアタマの図を小さくし アルファベットの字間を広げ カラーはモノクロです
     
    現在 YAMAGIWAは実店舗を持たないもののショールームは3都市にあるという変わった営業スタイルですが オンラインショップ(ネット販売)注力しています
    その扱い品目は やはり照明器具がメインですが その中でも内外の有名なデザイナーの手掛けたものが多いのが特色です
     
    一例は・・NHK朝の連続ドラマ「まんぷく」で安藤サクラ演じるヒロインの今井福子が勤めるホテルのフロントのカウンターに置かれていたフランクロイドライトがデザインした照明スタンド・・
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    ライトがデザインしたライト 
    TALIESIN(タリアセン)1」74,520円(税込み)

    さてヤマギワ以外にも 品格があった「山田照明」はアキバの街の北端とも言える地に 昔も今も在り ケバケバしい看板など無く ホームページでも高い意識のコンセプトをあげています この会社の最大のヒット作は・・
    「ゼットライト」 1954(昭和29)年に登場してから改良を続けながら65年の長きにわたるロングセラーです
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    そして大型電器店「シントクエコー」はと言えば 昔のアキバで食事をしようにも ちょっとした店が無かった時代に このビルの上層階に 正装をしたウエイターがいるレストランありました そして一階には某放送局のサテライトスタジオもあったシャレた店舗でした 
    現在はゲームの「SEGA」の店舗になっています(下写真)
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    ◎亀倉雄策と言えば1964東京オリンピックのポスターが超有名なのですが・・
    ここからはアキバから飛んでしまう飛話ですが・・(文中敬称略)
    亀倉雄策(1915=大正4年~1997=平成9年)は前述のように当時有名なグラフィックデザイナーで 代表作が1964年の東京オリンピックのポスターです 
    但し 図や写真を使ったデザインは亀倉作ですが 文字デザインは 別のやはり某有名デザイナーの作だそうです 
    “文字の書体とその文字を並べるデザイン”を「レタリング」または 最近では 本来の意味から拡大した言葉として「タイポグラフィー」とも言いますが 文字の並べ方の基本は・・文字が複数並んだ場合に 全体的に見て “文字どうしの間隔”が“感覚的に等しいか” です
    その観点からすると このポスターのレタリングにおいては 英文字の並べ方に少し難点があると言われます・・パッと見て KとYの間が広いですね その他細かいにも問題があると言えるでしょう
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    これらは連作で 大きな赤丸のポスターが第一作目で1961(昭和36)年 つまり58年前のことでした この事例も影響したのか・・1970(昭和45)年に開催された「日本万国博覧会(大阪万博)」では 英文字を使った各種の表記(レタリング)は(以下 私の記憶があいまいなのですが) 英語圏の外国人の専門家に“任せた”か“指導を得た”か どちらかの方法で行われています
    半世紀前では日本人の英文字レタリングのレベルが未熟だったのでしょう
     
    飛んで 2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」のエンブレムのデザインは ご存知のように すったもんだの末 野老朝雄(ところ あさお)氏作のデザインに決定しました
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                                野老朝雄と作品のエンブレム(出典:Tokyo2020)
    今回のエンブレムではTOKYOのレタリングは良くなっていますが 惜しむらくは 文字太さがやや細いことで 遠くから見た際の判読性がやや劣ることです
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    前回のブログで綴りましたように “悲運の人 内田秀男氏が研究開発生活の一方で経営していた店である「内田秀男アマチュアラジオショールーム」が秋葉原に在った”というつながりで 今回は 秋葉原 俗称「アキバ」について・・です
     
    ◎メイドカフェのカリスマ
    アキバと言えば ひと昔前は電器街 しかし近年は「オタク」の街になり 「アニメ」「フィギュア」「メイドカフェ」「ゲーム」の店で占められていますが 特に「メイドカフェ」は現在100軒以上もあり それを目当てに男性だけでなく 最近は女性も来ます・・ですから 以前は 来店時に「お帰りなさいませご主人様」だけだったのが・・「お帰りなさいませごお嬢様」も使われます そして外国人の来店が増え また あいかわらず修学旅行の目的地の一つとして来ている生徒達も見かけます 
    アキバのメイドカフェのカリスマと言われる「ヒトミ」(志賀瞳)嬢は この道14年で 彼女が生み出した“メイドカフェ独特の呪文や仕草”は 今やアキバの全てのメイドカフェに浸透しています 彼女は現役メイドでありながらカフェ運営会社の幹部役職も与えられるまでになっています
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    ↑個人のフィギュアを店の透明展示ケースに入れて委託販売する形式の店内
                        
    今のアキバについて このように綴りましたが 近年増えたものが もう一つあります それはITに関連した”施設と新しいプチ起業”です(これについては次回以降に述べたいと思っています)

    私は60年以上アキバの街によく通い その内の20数年間はアキバに隣接する地に在ったオフィスに 秋葉原駅を利用して通ったので この街の変遷は感慨深いものがあります 
     
    ◎ジャンク屋
    アキバで電子部品(パーツ)探しするには 普通に新品の部品を売る店の他に 昔は中古品を売る店が多くあり それらの店は「ジャンク屋」と言われていて 私は 大いに利用していました 
    そこでは“中古の製品”や“一つの製品を
    分解して出る部品”などがあり それらは元はと言えば メーカーが作ったモノ または メーカーが使った部品なので 性能が良く 厳選されたモノなので アキバのパーツ屋さんに並ぶ普通の部品より優れているモノも多く それを見つけるのは楽しく ここは一種の“宝探し”のような場所でした 惜しくもジャンク屋は昔より減りましたが 今も存在しています
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    現在のジャンク屋 店内の一部 中古真空管ラジオ 右は日本で最初にプラスチックのキャビネット採用の「5球スーパーラジオ」1万6千円(三洋電機製」
     
    「ジャンク」は日本語では「がらくた」ですからピッタリの呼び方です
    しかし・・「ジャンク」という言葉は 最近では「ジャンクフード」(栄養の偏った 体に良くない加工食品)に使われ また 私より年齢が上の方たちには 「中国の帆掛け船であるジャンク」
    戦前の歌
    支那の夜から思いだされることでしょう
     
    作詞:西條八十 作曲:竹岡信幸 歌うは 渡辺はま子・・「シナの夜 シナの夜よ 港の灯 紫の夜に 上るジャンクの 夢の船 ああ忘られぬ胡弓の音 シナの夜 夢の夜」

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    中国のジャンク船(y-history.netより引用)

    ◎バッタ屋
    かつてアキバには大型の電器店が多数存在していましたが 一方で非常に小さい店構えで電器製品も店頭に殆ど置いていないような電器店がいくつか在りました
    その営業形態は・・秋葉原駅の改札を出てきた人たちをつかまえては 「アキバの中でも他店より必ず安い店」「ソニー製品でも2割引き販売」・・などと記した小さなチラシを手渡して店まで誘導してから お客の希望の品を売るもので その店に在庫が無い時は そのお客を店で待たせたまま 店員が自転車などで急いで アキバの“ある場所”へ行って調達してきて 確かに安い価格で販売するというもので このような店は「バッタ屋」と呼ばれていました
    「バッタ」とは・・古物商の業界の隠語で“投げ売り”を意味して 関西では「バッタ」に“偽物”という意味が加わって「バッタもん」という言葉が使われます(かつて島田紳助がよく使っていた言葉のようです)
     
    ◎60年前 アキバで買った“米軍払い下げ品”は優れモノだった
    私がアキバに行き始めの頃 あるジャンク屋で買った「カーボンマイク」(昔のマイクロフォンの一種)は“米軍の払い下げ品”で本体はアルミの鋳物製なので頑丈 さらに通話オン/オフ用のプッシュスイッチは “厚い手袋をしていても確実に押せる”作りになっていて さすが軍用と思わされましたが 更に感心したのが“マイクの感度”でした 別に日本の有名メーカーの新品の「カーボンマイク」も買っていたのですが マイクの感度では雲泥の差で米軍中古品が勝っていました
     
    ◎テレビはキットで手作りすれば圧倒的に安かった
    アキバの電器店は戦後には手作りラジオ用のキットや部品が売れた時代を経て 1953(昭和28)年にNHK(東京)と民間の日本テレビが本放送を開始してからは テレビ販売を始めましたが 人気があったのは テレビを手作りする人たちのための 組み立てキットでした
     
    1954(昭和29)年時 メーカー製テレビ価格は14インチ型で約10万円 1960(昭和35)年の“お米の価格”は10キログラム850円 今年2019(平成31)年4月では 同4282円 と5倍になっているので 当時のテレビは現在では50万円以上・・という計算になります
     
    ちなみに 1958(昭和33)年時の大学卒の初任給は大企業で 約1万5千円 近年の大学卒の初任給は約21万円なので14倍になっています
     
    一方 テレビをキットで作れば・・1例をあげると 14インチ型が何と2万8800円で出来上がりました
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    ↑雑誌「電波実験」1958年12月創刊号に
      掲載のテレビキット広告
    ↓その拡大
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    同雑誌に掲載の別広告 
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    実は私の実家の最初のテレビは キットによる手作りテレビでした
    それを作ったのは・・東京都の電気研究所に勤務していた叔父でした 叔父は少なくともテレビを3台 手作りしていますが その内の1台は完成したテレビを 製作依頼主の住む千葉県市川市まで東京都の豊島区からタクシーで運びました・・高額なタクシー料金と 製作手間賃を払っても 手作りテレビは いかに安あがりだったかがわかります
     
    という訳で 昭和30年代前半ころまではテレビキットが盛んに売れたと思われます 1959(昭和34)年4月10日の皇太子(上皇)ご成婚パレードをテレビで観ようと その直前にテレビ普及率が上がったとされますが その時点でメーカー製品と手作り品の比率は どんなものだったでしょうか?
     
    内田秀男氏が発見した“空中浮遊の放射能塵がテレビ画面にノイズとなって現れる現象”を 私も確かめていたのは この叔父の手作りテレビの画面からでした
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    秋葉原については 次回にも続けます
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    前回に “トランジスタ(三極鉱石)を発明したのにノーベル賞を逃した内田秀男氏”(以降文中敬称略)のお話をしましたが 今回はその後の内田の研究と夫人から伺った秘話などをご紹介します
    とは申したものの・・ 
    本当の“秘話中の秘話”というのは文字通り 秘密にしておかないと 人さまと社会に波風をたてるであろう性格のものがあるので 特に具体的名称や人名は記述できない部分もあることをご了承下さい
     
    ◎内田秀男の“その後”(1)横型マジックアイの開発
    内田がNHK放送技術研究所を退職の数年後に画期的開発をしたのが・・
    「横型マジックアイ」 マジックアイとは ラジオやテレビが放送電波を正確にとらえているか つまりチューニングの度合いを示すもので それまでは “視力検査の判読記号のC”のような形をした緑色に光る丸い帯で 〇の形の一部が欠けてCの文字のように表したもので その欠けている部分が少ないほどチューニングが正確で 受信最高状態では完全な丸い帯の輪で表示されるもの“で これも一種の真空管でした これは私もよく目にしたものです
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    マジックアイ:上が内田が開発のもの 
           下が従来品
    内田は 丸い帯状の表示ではなく直線の帯状の表示にして 見やすいマジックアイの真空管を開発して1961(昭和36)年に発売されて 多くの機器に使われました

    ◎内田秀男の“その後”(2)超常現象の研究
    世の中の超常現象を科学的に解明しようと 様々なテーマに取り組みました
    例えば・・「事故が多い“魔の踏切”」「13日の金曜日」「地震予知」「虫の知らせ」「テレパシー」「夜泣き石」「相性」「心霊写真」など これらについては雑誌の「電波技術」に連載されて 後に単行本の「四次元世界の謎」シリーズとして1970(昭和45)年から出版されました
     
    ◎内田秀男の“その後”(3)大型イオンクラフト開発
    その後の大きな研究テーマは 「イオンクラフト」でした これは“高電圧の電気をかけて発生するコロナ放電によって起こる風で 空中に浮く飛行体”であり 米国のマジョール・デ・セパルスキーが発明したものです
    内田は 軽いバルサ材木を骨組みにして円形に組み それに銅やアルミの電極と電線を付けて作りました
    1971(昭和46)年頃 日本テレビの当時の人気番組「11PM」を担当していた矢追純一(超常現象やUFO関連番組で当時有名なディレクター)が内田宅を訪ねてきて “番組の中で「イオンクラフト」の浮遊実験をする”という依頼され 後日テレビで見事実験成功の様子が放映されて大反響を呼びました
    その後内田は 「イオンクラフト」の大型化と効率化に取り組み 最大規模は 直径2,5メートルまでになりました
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    保管用の箱に入った直径1.3mのイオンクラフト
     
    私が内田夫人から直接聞いた話では 「イオンクラフト」に関しての ある特許申請したところ 通常は申請書類の文章と説明図だけで審査が行われるものを 特許庁の審査官から 実物の稼働状態の
    確認の必要があるとされ 大型の「イオンクラフト」試作機を特許庁まで運び入れ 庁舎屋上で稼働させて見せた・・そうです
     
    ◎内田秀男の“その後”(4)オーラメーターの開発
    夫人の著書によれば・・「オーラを辞書で引くと『その人から発散されていると感じられる、並の人には無い、独特の雰囲気』とありますが、ここでわたしたちがいうオーラとは、霊能者だけに見える、人体を取り巻く謎の光と言った方がよいかもしれません。その正体は『気』という人もいれば、『エネルギー』という人もいて、いまも議論されていますね。(中略)主人はオーラを微弱な電場と仮定しました。それならば、非常に感度の良い電流計で、人間のまわりを測定すれば、オーラの形がわかるのではないか、そういう意図で作られたのが『オーラメーター』です。」
     
    『オーラメーター』が人の周囲で反応する点を 沢山記録して その点を三次元的に並べてみるとオーラとみられる形が現れました 測定事例からは“過去の手術跡や骨折箇所に特殊反応があり また冷房病ではオーラが減少する”ことなどが分かったので 医学に利用できないか研究していましたが 内田は道半ばで世を去りました

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    据え置き型オーラメーター

    私は内田ご本人に直接会ったことはありませんでしたが 電気関連雑誌に掲載の写真でお顔は見ていました 最後に拝見したのは 『オーラメーター』を使って 植物からのオーラの感知を試みる姿がテレビで放映された時でした

    ◎夫人の内田久子さんについて
    1926(大正15)年 神奈川県箱根生まれ 箱根の老舗旅館 環翠楼の支配人の長女として生まれ 内田秀男と結婚し2男1女をもうけ 内田(夫)がNHK放送技術研究所を退職後に始めた各種研究の助手的役割もはたした
    夫が1985(昭和60)年に脳梗塞で倒れてからは 夫が研究仕事と並行して経営していた「内田ラジオアマチュアショールーム」店頭にも出るようになり 2014(平成26)年に88才で亡くなるまで店を続けた(晩年近くからは週に4日 店に出てその他はアルバイトや店員にまかせました)
     
    久子の父は陸軍のパイロット 久子の二人の兄も一人は飛行機内の通信士 もう一人は海軍で 戦後は日本航空でパイロットになり 連合赤軍による「ダッカ事件」でハイジャックされた飛行機の機長でした
     
    育てた長男と次男はともに東海大学の理学系の教授となり 長女はバイオリニストでしたが他界 長男の妻とその息子(久子の孫)も理学博士など 理系一族で特に次男さんが内田秀男の研究を一部引き継いでいるようです
     
    このような環境の中 久子自身は子供の頃から活発で 健康優良児で表彰されたり 現在で言う「山ガール」で富士山は二度登山 駒ヶ岳や雪山にも登っています また 眼を悪くしていた夫に代わって自動車の運転が必要になり1958(昭和33)年に免許取得しましたが その時点では東京都での女性免許は5番目か6番目と言われています そして乗り回したのが米軍の払い下げたクライスラー社の大きなクルマ
     
    そのような資質なので 内田の研究の多くも手伝い 例えば・・
    「イオンクラフト」の浮遊には2万ボルトの電気を供給する可変変圧器の操作を担当しました また 内田が執筆担当していた電気雑誌の記事のテーマ決めに際して 久子が「超常現象」を提案して これが後に内田の一つの研究テーマに発展 そして内田の店を任されるようになってから 電気電子の基礎や電気機器の猛勉強をしました 
     
    ◎内田久子が語った秘話
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    私が久子夫人に直接お会いしたのは計3回 いずれも 秋葉原電気街の「ラジオスーパー」という 電気電子部品の店や中古ラジオの店などの小規模店舗が集まる建物の2階にある「内田ラジオアマチュア
    ショールーム」の店頭で 最初は1996(平成8)年なので 内田秀男死去1年後で 最後は2013(平成25)年でしたが 久子夫人の記憶力は抜群で 昔のことでも人名や固有名詞が ポンポン出てきました・・そして こんな話が・・(個人名 会社名などは伏せました)
     
    ・夫人は内田の「三極鉱石」を はなから否定した上司の名前をはっきりと口にされ それほどまでにその名前を夫婦共有記憶していたことに 私は驚きました
     
    ・内田がNHK放送術研究所を退職後 某電気メーカー勤務の時期があって その頃の同僚の一人が 後にノーベル物理学賞を授与されましたが その授賞理由となった”あるモノの発見発明”については その発見のいきさつの話があるのですが このブログでは書けないのが残念です
     
    ・2013年に夫人からお聞きした時には その少し前に 三極鉱石発明にからんだ その後の周囲の対応に落ち度があったとして ある関係者が謝罪をしにこられたそうです
     
    ・沢山のマスコミからの取材に対応しましたが なぜか因縁のNHKからの取材が最も多くありました その中の一つが2009(平成21)年の「ブラタモリ」シリーズ番組でタモリが秋葉原を探索する中で来店して 店頭に並ぶ真空管の中でも特に「807」という真空管で話は盛り上がったが それもその筈 タモリの多趣味の一つ「アマチュア無線(通称:ハム)」で この「807」を使った送信機を持っていたからだそうです
    私はハム免許を持っていなかったのですが 自作の短波受信機でハムの人たち同士の会話はよく聞いていて その中で「807」という名称は頻繁に飛び交っていたのを覚えています
    『ブラタモリのロケの数日後 タモリは一人で来店して真空管を数点購入していきました』・・この『』内の内容は 久子夫人著の本の中で語られていますが 同じことを私も直接聞きました
     
    ◎後を受け継いだ「池之谷ラジオ商会」
    高齢になった久子夫人に乞われて 店の運営補佐をしていたA氏は 夫人亡き後 店を引き継ぎ 店名は変えたものの 真空管や電気部品の販売 真空管アンプやラジオの修理 アンティークラジオの販売などの業務を引き続き行っています
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    ↑晩年の久子夫人と後継者のA氏 店の中は今も同様で変わらない(A氏がこの写真パネルを店に置いておられます)
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    A氏と「池之谷ラジオ商会」店頭
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    「ラジオセンター」内の他の店の様子
    現在の秋葉原は「フィギュア」「ゲームソフト」そして「メイドカフェ」どの店が多数を占めてかつての「電器街」の面影はほぼ無くなりましたが・・
    実は電気電子部品(パーツ)や真空管を販売する店が固まって存在するのは ここ秋葉原以外には無く まだまだ貴重な電気街なのです
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    文中挿入のモノクロ写真は全て内田久子著「秋葉原、内田ラジオでございます」より引用
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    このブログを綴るにあたってネット上からも補足資料を得ようとした中で 内田秀男についてのウィキペディアの記述で 明らかに かつて私がある所に向けて今回のブログ内容の一部と同じことを書いて印刷されたものが参考に使われていることが判明しましたので 驚きとともに 私も少しは役に立っているのかな?と思っている次第です
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