徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2019年05月

    世の中には 画期的な発明や発見あるいは偉業を成したにもかかわらず  何らかの不運な事情で正当な評価を得られなかった人が大勢います
    このような人たちをとりあげた日本のマンガ「栄光なき天才たち」というタイトルのシリーズ(作:伊藤智義 画:森田信吾)が1986(昭和61)年から マンガ雑誌「週刊ヤングジャンプ」で連載が始まり 
    1992(平成4)年で終了したものの その後も (別の作者たちによる) 続編が続きました
    また 2017年にはアニメとドキュメンタリーを組み合わせたテレビ番組としても放映されました
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    その間 登場人物は約40人に及びましたが  私が このシリーズに取り上げてほしいと思っている人が登場していないのです 
    その人が・・内田秀男氏 (以降文中敬称略)



    内田秀男(1921=大正10年~1995=平成7年)は 福井県生まれの電気・電子技術者 NHK技術研究所などに勤務した後に「内田ラジオ技術研究所」など経営しながらラジオや無線関連の雑誌への寄稿も多かったゆえに  かつてラジオ少年などとよばれていたラジオやテレビやアンプなどを自作していた人たちの間では誰でもが知る存在でした
     

    ◎トランジスタを発明していた!?内田秀男 
    内田秀男は小学生の頃から鉱石ラジオ(方鉛鉱や黄鉄鉱という鉱物と細い銅線を巻いたコイルと 今で言うヘッドホン から成るラジオ)自作するラジオ好き少年でした 長じてNHKの放送技術研究所に勤務するようになり ラジオ技術の研究を始めました
    イメージ 2 内田秀男
     (写真はwww.fureai.or.jp/~oomiya/UFO_jinbutu_gaide1.htmlより引用)

    イメージ 3 初期の鉱石ラジオ
     
    ところで当時既に存在していた真空管は 言わば真空の電球”の中の2点(2極)の間で電子を移動させる2極真空管というものがあり  発展形として2極の間にもう1極を加えた3極真空管 同様に4極 
    5極と出現するのですが  2極真空管の働きは「検波」(放送電波から音声信号を取り出すこと)または「整流」 (交流を直流にすること)  そして3極真空管以上の働きは「電流の増幅」です
    一方 鉱石ラジオで使われる鉱物は その鉱物の表面上のある2点に接触している金属を通じて「検波」作用をするので2極真空管と同じ働きをすることになります
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    ↑図の灰色部分が鉱物(方鉛鉱など)で左側の箱型の金属部分を1点として右側の矢印で表されている部分(実際は金属製の針先)をもう一つの点とします 図は(株)ティーアンドシーテクニカルのHP「古典音響機器ギャラリー」より引用
     
    内田は それならば・・
    その鉱物に3点で接触する金属を通じれば電流の「増幅」作用が得られるのではないかという着想が浮かび 実験を開始
    多くの種類の鉱物で効果を試すため 方々で鉱物を探し回り ある時は栃木県の日光付近の山奥に入って鉱物採取もしましたが 幸いにも叔父が秋田鉱山専門学校(※1)の教師をしていたため 様々な鉱物を提供してくれたりして実験を進めた結果 結局は質の良い ある方鉛鉱を使って それを3点で接触する金属線を介すると・・
    従来の鉱石ラジオでは不可能
    だった北京やハブロフスクの放送が聴こえるようになり これは真空管の3極管と同様に 電流を増幅するような効果が発生していると理解して 内田はこれに「三極鉱石」と名付けました それは戦時中の1943(昭和18)年のことでした
     
    その後 軍隊に応召しましたが 戦後 NHKの放送技術研究所に戻り 直ちに画期的な効果の「三極鉱石」の研究を再開しようとしたところ 上司から「そんな効果はありえない」と はなから否定された上に・・「君は朝 味噌汁で顔を洗ってきたのか」とまで言われてしまい
    研究テーマに採用されなかったが内田個人で密かに研究を進めた結果 1947(昭和22)年に「三極鉱石」が電流を3倍に増幅することを確認しました
    これこそ後にトランジスタと呼ばれるものと同じものでした
     
    内田はこの発明を直ちに上司に報告しましたが まったく認められないので雑誌に発表しようとしましたが (内田本人や事情通の人たちの推測では 研究所またはGHQによる阻止で)掲載されませんでした
    また特許出願しようにも研究所組織の中では上司の承認なしでは無理でした そのうちGHQが研究所に来て 内田の研究成果も含まれた資料を持ち去っていきました その半年後の1948(昭和23)年に
    米国のベル研究所の3人(ジョンバーディーンとウォルターブラッテンとウイリアムショックレー)連名の固体による増幅素子の発明発表されてしまいました 
    これは後に「トランジスタ」と呼ばれるモノの発明とされ この3人は1956年にノーベル物理学賞を受賞した
     
    ところで内田は1948(昭和23)年の5月6日に結婚しましたが それから間もない6月30日にベル研究所からトランジスタ発明の発表があったため
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    内田秀男夫妻の結婚記念写真

    新婚の気分は吹っ飛び 「地団駄踏んで悔しがった」と・・内田から聞いたとしてNHK放送技術研究所の先輩である杉本哲は 氏の著書「初歩のトランジスターの研究」(1958=昭和33年 山海堂)の中で記しています また「内田さんは たしかに三極鉱石の増幅作用があることがわかり(中略)相談にきた これがアメリカでトランジスタの発表になった年のお正月のことです 内田さんの発明はその前年の秋ごろなのです」と記述して証言しています 
     
    私も小学生の高学年時の鉱石ラジオの自作から始めてラジオ少年はしくれみたいになっていましたから 前出の杉本哲著の本「初歩のトランジスターの研究」を読みました 
    それは薄緑青色の表紙で厚さは1センチに満たない本でしたが その中に内田秀男の三極鉱石(トランジスタ)の発明という記述があったので衝撃を受けた記憶は今でも忘れていません
     
    実はベル研究所でトランジスタ的効果の基礎的発見は1947年であり 内田は 同様な効果を1943年に発見していたのですから・・その効果を上司が認め 現代のように先ず画期的効果発見または発明
    として世界に発信してから 組織的に強力な研究推進をしていたならば こちらの方がノーベル賞を受賞していたのではないでしょうか

    内田のこの件について”「たら・れば」話の例が多くある”としてネガティブに言われているようですが これは よくあるように 歴史上の「たら・れば」語りのようなやや興味半分のようなモノ
    とは異なり 切実さが存在しているのではないでしょうか
     
    このような事態の後どうなったか・・内田の奥様である内田久子さんが2012(平成24)年に上梓した「秋葉原 、内田ラジオでございます」中で・・「主人は研究所生活に嫌気がさしてきたようで、
    のちの決定的事件で辞めることになります」と記しています・・その事件とは・・
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    内田久子著「秋葉原 、内田ラジオでございます」
     
    ◎“放射能の影響がテレビ画面に出る”発見の発表
    内田は失意の中 NHK放送技術研究所内で今度はテレビ受像機の研究に着手していましたが 当時 ソ蓮や米国の核実験による放射能を帯びた塵が日本へも飛来して大気中に浮遊していると テレビ画面に“あたかも塵が浮いているように見える”(ノイズ)状態が現れることを発見して研究所内で発表したものの これも無視されたので 多分 三極鉱石の件の二の舞はイヤだと思ったのでしょう 内田は意を決して この発見内容を1956(昭和31)年に 職場の許可無しに雑誌「科学朝日」に寄稿した結果 国内外の新聞に取り上げられ 朝日新聞では内田の顔写真付き記事でした そこで研究所にも取材者が押し寄せることになるのですが 研究所側は当所には関係ないこととして 取材拒否しました
     
    そこで(久子夫人の著書によれば)・・「以前からの思いがオリのように積もって、たえられなくなったんでしょう。『辞表を出してきた』と、主人がタクシーに荷物を積み込んで帰ってきたのが昭和32年
    (1957)のことでした。」・・という結果になりました
     
    当時 私も確かにテレビ画面で放射能によるノイズ現象を見ていましたが 多分 この現象を見られたご年配の方も多いのではないでしょうか 
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    以上は 文中にも記した 杉本哲 著「初歩のトランジスターの研究」内田久子 著「秋葉原 、内田ラジオでございます」からの引用がありますが 実は私 20数年前に 内田秀男の奥様 久子さんにお会いして直接お話を伺っていますので その際の内容も記しています
     
    次回には 内田久子さんからお聞きした秘話も含めて綴りたいと思っています
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    ※1・・秋田鉱山専門学校は財界からの寄付もあって 当時 鉱物資源が豊富であった秋田県に   1910(明治10)年に官立校として設立され 1949(昭和24)年に国立秋田大学鉱山学部になり 2014(平成26)年に 同大学の国際資源学部と工学資源学部になった
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    ◎「水師営の会見」の場に生えていた棗(なつめ) その孫木が東京の旧乃木邸敷地にあります

    これは 歴史のワンシーンを見つめていたであろう ある樹木にまつわるお話です

    日露戦争でロシア側の旅順要塞を陥落(※1)させた乃木希典(まれすけ)大将は 降伏した敵将ステッセルと1905(明治38)年1月5日に水師営という村(現在の大連市内)会見しました(※2)
    その場所には一本の棗の木が生えていました
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     ↑自邸玄関前に立つ乃木希典大将(以下文中一部敬称略)
     
    ※1:要塞攻略における乃木大将の戦法に否定的見方があり これは多分にS氏の小説内容による
    影響があるようですが  軍事専門家によれば S氏の小説には事実との違いが多々あり 乃木戦法は正しかったのだそうです
    ※2:敗戦の将ステッセルに対する乃木大将の対応はことごとく仁愛と礼節に満ちた武士道精神的であり 例えば・・詰めかけた内外の報道陣に ステッセルが屈辱感を味わうような映画や写真を撮らせなかったりしたので その乃木の振る舞いは全世界に配信されて 称賛された 
     
    私の亡父は7年間も戦場にいた経験からか 戦後も軍歌と国威発揚の歌のレコードを時々聴いていましたので子供の私らも それらの歌が一部記憶に残っていて その中に「水師営の歌」があります  
    その作詞はあの歌人・佐々木信綱 作曲は岡野貞一 で昔は文部省唱歌になっていたそうです その歌詞が・・
    旅順開城 約成りて(やくなりて) 敵の将軍ステッセル
    乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営
    庭に一本(ひともと) 棗の木 弾丸跡もいちじるく(“いちじるしく”ではない)
    くずれ残れる民屋(みんおく)に 今ぞ相(あい)見る二将軍
    ・・(この後にまだ歌詞は 続きますが 割愛します 実は私もここまでしか覚えていません)
     
    歌詞の中に出てくる「棗」 その棗の孫になる木が かつての乃木邸がそのまま保存されている敷地に植えられています 
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     旧乃木邸の門 
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    旧乃木邸(左側が正面玄関)
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    旧乃木邸玄関に向かって左手前に棗の木があります
     
    この旧乃木邸の所在地は現在の東京都港区赤坂8丁目 その東側には乃木神社  南側に小さな乃木公園がありますが ここに隣接しているのが乃木坂で 現在では女性アイドルグループの「乃木坂46」で有名になりましたが・・ここの住所は赤坂といっても 地下鉄の六本木駅から歩いても8~9分で 六本木ヒルズから直線距離で850メートルです
     
    実は乃木希典は長州藩の支藩である長府藩の武士の子なのですが 江戸の上屋敷で生まれたもので その場所こそが現在の六本木ヒルズの地でした
     
    そして乃木希典はこの赤坂の自邸で亡くなったのです それは ご存知のように明治天皇崩御に伴う殉死 静子夫人も一緒にでした
    この現存する乃木邸で 二人が自刃した部屋が建物外から見られるようになっています 遠い過去のことですが 思いいたせば やはり衝撃を感じます
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     乃木邸南東角のこの窓のある部屋で二人は自刃(手摺が付いた回廊が邸外側に在り そこから部屋内部が見える)

    ◎マッカーサーが植えたハナミズキ
    さて この旧乃木邸敷地に もう一本注目すべき木があります
    それは・・戦後日本に君臨したダグラスマッカーサー連合国軍最高司令官が 日本到着後の早い時期に この乃木邸を訪れて植樹したハナミズキです

    その行為の理由については確定的な説が無いものの 大きくは二つの説があり
    一つは・・
    マッカーサーの父親が日露戦争後に乃木大将に会ったことがあり 
    その際に乃木大将の武士道精神的な話を聴き感銘を受けたため 息子のダグラスマッカーサーには常日頃「サムライ精神をもった乃木希典のような軍人になれ」というような教育をしていたため 敬意を表したもの

    もう一つは・・
    1912年(第一次世界大戦勃発2年前)に日米親善のために
    米国に桜が贈られ 返礼として米国からはハナミズキが贈られたが 太平洋戦争中に 敵国の樹木として多くが伐採されたので それを知っていたマッカーサーは意趣返しの意味でハナミズキを植えた・・というもの

    いずれにせよ マッカーサーの心の中には乃木希典の存在が大きかったことは間違いないことです
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    マッカーサーが植樹したハナミズキと説明看板
     
    昨年8月の私のブログで取り上げた❝マッカーサーの剣道禁止令に抗議して 日本で唯一 閉鎖されなかった剣道場の主 河野兼光先生❞を思い出しました
    多分 河野先生は武士道精神的な内容を含めた言葉でマッカーサーを説得したのではないでしょうか

    ◎水師営の棗の❝ひ孫❞作りには・・
    旧乃木邸の棗の話に戻りますが・・水師営に植わっていて 歴史の1シーンを見ていたであろう棗の木の“ひ孫の木“を育てたいと考える方がいましたら・・ 
    この旧乃木邸の棗の木は 毎年9月頃に この木の下の植え込みに実を多数落としますから その実を拾って中の種から“ひ孫”を誕生させられることでしょう
    ただし この植え込み部分を含めて庭をよく掃除する方たちがいて 実も片付けられてしまうので 実を入手するタイミングがむずかしいものです

    東京の旧乃木邸に隣接の「乃木神社」ですが 京都にも伏見桃山陵(明治天皇陵)の麓に同名の「乃木神社」があります また栃木県の那須塩原市にもあります
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    ◎寿命尽きて枯れた 庭の「たらの木」
    現在 ウチの庭に幹直径約5センチのたらの木が2本 立っていますが これらは この庭においては2代目で 初代は直径約1.5センチのときに庭に植えて20数年経ち 幹直径が約8センチになっていた昨2018年に命が絶えました その日はまさに突然やってきた・・という感じでした 
    虫に喰われたわけでもなく 病気になったでもない そして段々と弱ったふうでもなく まさに突然死 言わば“ピンピンコロリ”でした 
    調べたら たらの木の平均寿命は7年くらいとの指摘が多いので ウチの木は超長寿命だったわけです
    草花はともかく 樹木の突然死を目のあたりにして 人の死のような妙な気分になったものです
     
    “山菜の女王”と称される“たらの芽”ですが 戦時中の食糧難の中で この芽のおいしさを味わった人が増えたと言われます
    我が家でも自家製?の“たらの芽”を毎年 少量ですがてんぷらにして味わってきました 初代亡き後 今年は2代目だけの“たらの芽”を頂戴するはずでしたが 忙しかったこの4月のある日 ふと気が付くと なんと“たらの芽”は芽の時期を通り過ぎてしまっていました 残念!
     
    近年 “たらの芽”はスーパーマーケットでも買えるようになりましたが これらは種類が少し違うもので しかも発芽を人工的に操作したりで 天然ものより味が落ちるそうなので 来年こそはウチの“たらの芽”を忘れずに食べようと思います 
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    ↑今年4月22日のたらの芽 左写真真中に細く一本まっすぐ伸びているのが 食べるには 成長し過ぎた芽 右の写真のように全体に葉が出揃いかけてしまっていました
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    5月初旬の丁度今 町のあちこちで ジャスミンの花の香りが漂っています
    昔から香の強い植栽として 金木犀 クチナシ 沈丁花などがありましたが 近年は ジャスミンも増え、これもイイ香りで私は好きですが しかし これらの香りを嫌いという人も実際にいますし 最近の洗濯洗剤の強い香りが付いた服を着た生徒が多い教室では気分が悪くなる者が出ている また そのような服を着た者に スズメバチが寄ってくるそうで 事実 昨年 庭に金木犀が咲いた際に スズメバチが確かに飛来してきました・・というわけで “密かに香る”  ”秘めて薫る”良さを再評価する必要もありそうです
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     近所のお宅のジャスミンの花

    ◎我が家で紅白の花咲くめでたい植物
    世は祝賀ムード 考えたら自宅の小さい庭にも めでたい植物がありました
    先ず松竹梅があります その内の松は 以前にブログでも紹介しましたように 近所の公園で拾ってきた松ぼっくりからこぼれ落ちた種から生えて大きくなったものです
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    そして 梅ですが 紅白の花が一緒に咲く品種でこれだけでもめでたいもの
     
    もう一つ 毎年5月中旬から6月にかけて紅白の花が咲くのが・・
    多分「ハコネウツギ」・・“多分”と言う訳は・・これによく似た「ニシキウツギ」という種があって見分けがつきにくいからで この二種のちがいを調べても 私には判別がつかないという状態です いずれにせよこの二種の花は 最初は白色なのが 次第に赤(実際は濃いピンク)になるもので 全部の花が同時に色変化しないので紅白混在となります
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     ↑ハコネウツギの花の大きさは私の手の指との比較で ご判断下さい

    その他 センリョウ マンリョウ ナリキンソウ(金のなる木)もあります それなのにウチはおカネに縁が薄いのです
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    ↑センリョウ←写真は「NHKみんなの趣味の園芸HP」より引用→↑マンリョウ
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    ナリキンソウ

    ◎あの花たちはどこへ行った
    私は22才まで東京都豊島区に住んでいましたが 子供の頃は近所には 小さいながらも麦畑がまだあったような所で 私の祖父はその豊島区の自宅敷地内で色々な花を栽培していました と言ってもプロではなく しかし趣味の域は越えていました 大量に作るので それを隣近所や学校・幼稚園などに贈呈していました そのため町の花屋さんからは“商売に差し障る”からと苦情が出たほどでした
     
    当時 祖父が栽培していた花は・・
    ダリア 百日草 キンセンカ 矢車草 鶏頭 グラジオラス カンナ 葉ボタン 向日葵 コスモス など

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    ↑A)ダリア
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    ↑B)百日草    
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    C)キンセンカ(マリーゴールド)
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    D)矢車草 
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    E)鶏頭   
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    F)グラジオラス
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    G)カンナ 
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    H)葉ボタン   
    ※上記写真引用先
    A,D=「ヤサシイエンゲイ」HP/B,C=「Garden Memo」のHP E=「sozai.cms.am」のHP/F=「japaneseclass」HP G=「city.tonami.toyama.jp」HP/H=gardenia12.net」HP  
    しかし現在では これらの中には 花屋さんであまり見かけなくなったものがあります
    中でも私が気になるのはダリア それも大型の花のダリア その他 “鶏のトサカ”のような形が大きな鶏頭 大輪の向日葵 など 同じ品種でも大きなタイプを見なくなりました

    そこで私などは「花はどこへ行った」(Where have all the flowers gone)という言葉が頭に浮かびます これは本当はベトナム反戦歌として米国ピートシガーが作詞作曲して1955年に発表した後の60年代にキングストントリオやPPM(ピーターポールアンドマリー ) 変わったところでは あの女優マレーネディートリッヒがドイツ語とフランス語で歌ったりして 日本でも広まったものです ※PPMの歌:https://www.youtube.com/watch?v=bOTCa1F3F0c

    また 以前 雑誌「サライ」が「あの花はどこへ行った」という表題だったか?で特集を組んだことがありましたが (私はその記事をよく読んでいないものですが)これはストレートに昔の花を懐かしむ
    内容だったのだと思います やはり私と同じ思いを抱く人たちが存在しているのです
     
    ◎このテスト問題は問題?
    ここで“ダリアつながり”で 話は飛びますが・・
    私が実際に経験した 学校でのテスト問題や入学試験の中には・・“はたして この問題は何のためのものか?”と思ってしまうものがありました それゆえにこれらの問題だけは60年経過しても忘れません
     
    中学生の時の 「全国共通模擬テスト」だったか?で“職業・家庭科”(現在の“技術・家庭科”)の科目で出された問題が・・
    「ダリアの球根の分割の正しい方法を 次の三つの図の中から選びなさい」・・というもので 私は ダリアを栽培していた祖父が 毎年 花が咲き終わると 土中でいくつか束になってできる球根を分ける作業をよく目にしていましたから 勿論正解できましたけれど 学校では全く教えられていない問題内容でした これが全国対象のテスト問題として妥当なのか疑問をもちました
     
    また 東京都内の某私立中学校を受験した際に出された問題は・・
    「カニの『ふんどし』と呼ばれる部分は何にあたるのか」・・というもので これは 親が水産業に従事していたり 魚屋さんの子供ならともかく 都会の12才の子供が学校では習わないものであり 知っていることにこしたことはないものの 試験問題としては普遍性 公平性を欠いたものでした 

    それはともかく ではその正解は何なのか周囲の大人に聞いたら・・「それは カニのエラ」ということでした ところが その後 詳しく調べたら“問題の問題”が現れたのです
    結論から申せば“カニのふんどしの部分はエラではなく かと言って一言で答えられるようなものではない複雑な部位である”ので このような問いは中学入試問題に出すには不適切である・・ということです
     
    カニのふんどしとは・・カニの腹部分の下方にあるもので カニの種類によって 腹全体に占める大きさや形が違うものの 大まかに言えば 雄では三角形の形  雌は半円形のような形という相違があり 
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    雌雄のふんどし
     
    雌雄どちらのふんどしも薄く軟らかな殻のようなもので それ自体の裏側には少量の肉が付いているものの通常は捨てられることが多いが タラバガニのふんどしの肉は食べると 脚などの身と違う食感で
    おいしいそうです
    ふんどしは簡単にはがせて それがあった部分の“中身”側にはいわゆる“ミソ”と称されるものが一部存在し 唯一特徴的なのは産卵期近くの雌だけは ふんどし部分に粒々の卵を沢山抱える・・ものです

    つまり ”カニのふんどしはエラにあたる部分である”というのは間違いで エラというものは ふんどし部位から離れた所にある左右の脚の付け根に近い部分に 灰色の“魔女の爪”ような形で 左右5~6本ずつくらいが存在しているもので これは毒ではないが雑菌や寄生虫がいる可能性があるので食べられないものだそうです
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    カニのエラ 写真は「最北の海鮮市場」

    ・・このように“カニのふんどし問題”への解答は複雑な記述になってしまうのです
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