徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2019年04月

    ◎大山(おおやま)は神奈川県に在り
    まず ご注意あれ 「大山」と書くと 関西以西の方は鳥取県にある大山(だいせん)のことと思われる方が多いでしょうが 「大山詣」の対象となる大山は・・
    神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市にまたがる標高1252mの山で 現在は「丹沢大山国定公園」の一部ともなっています
    江戸(東京)から18里(約70km)の地にあり そこには不動明王を祀る相州阿夫利山大山寺 俗に言う大山大権現があります
    イメージ 1

    ◎なぜ大山が崇められるのか
    元来 日本では万物に神宿るとされ 特に山は この対象になりやすく この大山は スッキリと尖がった良形である上に『山頂には巨石があり それがご神体とされて「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」となって山岳信仰の山となりました 山頂には 縄文時代の祭祀跡や土器などが発見されているので 少なくともこの頃から人々の崇敬の対象であったことがうかがえます
     
    さらに 大衆の信仰を集める要素があり それは・・
    大山では 相模湾から
    水蒸気を大量に含んだ気流が山頂に向かって立ち昇るので山上には雨雲が発生しやすく 『別名「雨降山(あめふりやま)」それが転じて「阿夫利山(あふりやま)」などと呼ばれ 農民たちは作物のために雨乞いの祈りを捧げるようになります また漁師たちからは相模湾からの目印にもなった大山は海洋の守り神 さらには大漁の神として信仰を集めました』(『』内は小田急電鉄のPRページより)
     
    昨年のテレビ番組で 埼玉県のある農業関係者が大山詣をしている様子を放映していましたが 現在でも信仰が続いていることを確かに伝えていました
     
    ところで 大山にも出羽三山と同様に寺と神社の両方が存在します
    「大山阿夫利神社」(2200余年前に創建)と「大山寺」(1260余年前の奈良時代に創建 通称「大山のお不動さん」)
    イメージ 2 
    「大山阿夫利神社」
    イメージ 3
    「大山寺」

    ◎こんな人達が登拝した
    大山大権現にお参りするのは 商売繁盛や病気治癒などを願う普通の庶民の他に 前述のように 農民 漁師 船乗り は勿論・・
    火消し・・これは(雨)水に関連してか  その他 鳶職 大工も多く この三職はいずれも高い所に上る仕事で いつも江戸から見える大山に 憧れをいだいていたからとも言われます
    刀鍛冶 鍛冶屋・・頼朝の太刀奉納に始まる 木製太刀奉納に関連か? 一部の鍛冶屋では息子が7才または12才になると父子で大山登拝して鍛冶若衆の仲間入りへの通過儀式としました
    十五参り・・江戸時代当時 15才で成人になるとして大山登拝を済ませば一人前とされました これは“出羽三山参りを済まして一人前”と同様ですが 特に 火消し 鳶職や大工たちは粋で威勢のよさを見せるには先ず一人前になるための大山登拝を済ませることは必須だったのでしょう
    芸能人・・浮世絵師は大山詣で多かった火消したちに目をつけて 当時の歌舞伎の人気役者を火消しに仕立てた姿を盛んに描いて好評だったので 役者たちも大山大権現にお礼参りをしました
    博打打ち・・賭け事の勝ちを願っての登拝者も多かった
    借金取り立て逃れ目的の者・・取り立て人が来る頃を見計らって大山詣に出かけるということが横行したそうです
    イメージ 4
                歌川豊國 作の浮世絵

    ◎江戸時代の大山詣 講も梵天もあり 御師もいた
    大山詣は 江戸時代の宝暦(1751年~)の頃に始まったとされます
    現在の千葉県市原市にある出羽三山登拝記念の石碑群の中には 宝暦13年と刻まれているものがあり 大山詣が始まった頃には出羽三山参りも行われていたことが分かるのですが やはり大山詣は出羽三山参りやお伊勢参りにくらべて日数と費用の点で格段に実行しやすかったことに加えて 箱根の関所越えも必要なかったことも影響しています 当時 江戸からの大山詣は5泊6日が標準的だったようです
     
    『これにも やはり「大山講」があり その中の人たちが旧暦6月28日から7月17日までの登山が許されている期間に参詣に出かける
    まず お参りの先導者「先達」(せんだち)を選ぶと お参りの人たちは 両国橋東詰の垢離場(こりば)へ行き 素っ裸で大川に入り それぞれ手にした「さし」と称する“穴あき銭を通すわらしべ”を一本一本流しながら・・「南無帰命頂来 懺悔懺悔(さんげさんげ) 六根罪障 お注蓮(しめ)に 八大金剛童子 大山大聖不動明王 石尊大権現 大天狗小天狗」・・と祈念し 身を清めて 揃いの装束金剛杖で 納太刀を持って参詣に出かける 納太刀というのは奉納する木太刀で 帰りには自分の納めた太刀の
    代わりに 神前に納められた他人の太刀を持って帰り お守りにするのである※
     
    この大山詣は 長屋の男どもにとっては 別の楽しみがあり 
    大山詣の帰途 箱根 江の島 鎌倉に寄り道して遊んだり あるいは 品川まで来たら そのまま江戸へ入らずに 精進おとしといって 品川の遊郭で楽しんだりする者もいた』(『』内は岸井良衛 監修 「江戸町人の生活」より引用)
     
    特に江の島へ寄ることは流行ともなったのですが その理由は・・
    大山は男神が祀られ 江の島には女神の弁天様が祀られているので 男女神の両方を遥拝しなければならない・・という俗信が流布したからです
     
    ※「納太刀(おさめだち)の起源は・・
    源頼朝が“天下泰平 武運長久”を願って
    太刀を奉納したことに 始まるとされ 江戸時代には庶民にも広まり 参詣時に “奉納大山石尊大権現”などと書いた木製の太刀を納めたもので 次第に形や大きさがエスカレートして 一般には長さ6尺(1.8m)だったものが7mにも及ぶものもあったとか」・・(「」内と下の絵と木製太刀写真は 小田急電鉄PRページから)
    イメージ 5
    長さ8尺くらいの奉納太刀を持つ絵↑と木製太刀↓
    イメージ 6

    また出羽三山参りと同様に梵天(ぼんでん)が使われましたが その名残が 家を建てる際の上棟式で竹や木材に白い和紙のお飾りをつけたものをたてる習わしだそうです

    このように関東一円で大人気の大山詣は江戸時代の最盛期には年間20万人の登拝者があったそうで 当時の江戸の町の人口は世界最多の100万人であり 大山詣する人が殆ど江戸住人だと仮定してみると 実に江戸の5人に1人が登拝したことになります
     
    また 富士山や出羽三山と同じく御師(おし)もいて江戸時代の最盛期には160人もいたそうです
     
    ところで 「師走」の語源は“秋から冬にかけての大山詣ができない期間に 御師たちは江戸の町をはじめ関東各地に出向いて 布教と登拝勧奨をするために走り回った つまり師が走る・・というところからきている”という説があり もっともな感じがします
     
    ◎青山通り(国道246号線)は大山へ続く道
    大山へは関東地方の各地から多くの人が参るため 大山に通じる道となる「大山道」が8通りあります・・
    羽根尾通り大山道/六本松通り大山道/
    蓑毛通り大山道/田村通り大山道/柏尾通り大山道/八王子通り大山道/府中通り大山道/青山通り大山道
    その中でも「田村通り大山道」は 東海道の四ッ谷の宿(現在の藤沢市辻堂付近)からつながっているため 参詣の帰途に江の島に寄るのに都合がよく 人気の道でした
    イメージ 12

    西洋の諺の「All roads lead to Rome」は「全ての道はローマに通ずる」と日本語訳され その意味は「同じ目的を達するにも方法は色々ある」とされていますが  その意味はともかく 「全ての道は大山に通ずる」・・と つい言いたくなります
     
    青山通り大山道」は現在の国道246号線であり その赤坂から渋谷までの部分は「青山通り」と呼ばれ 沿道にはお洒落な店舗やビルが並んでいます・・例えば「ブルックス・ブラザーズ」「サマンサ・タバサ」「マックス・マーラ」「スパイラルビル」・・ゆえに この通りは しばしば格好つけて「ルート ニイヨンロク」とも言われます
    イメージ 7イメージ 8

     
    イメージ 9

    イメージ 10
     

     
    「ルート ニイヨンロク」と言えば 私はすぐに思い出す曲があります それは・・三田明が歌った「タートルルックのいかす奴」(レコードは1969=昭和44年発売)
    1番から3番までの歌詞の中に一カ所ずつ「ルート ニイヨンロク」が入っています
     

    作詞:東次郎 作曲・編曲:吉田正                      
     1番歌詞   紫色の 夜がくる 白い扉の スナックに 待たせた あの娘はもういない 霧が流れる ルート246 口笛吹いて 消えてった 
    タートルルックの いかす奴

      イメージ 11
    これを機会に調べたら 三田明は別に「青山通り」という歌も唄っていました 彼の歌以外にも 歌詞に「青山通り」が入った歌は多く存在していることも知りました
     
    ◎三軒茶屋は大山詣の途中のお休み処だった
    江戸っ子の大山詣のコースは・・先ず神田明神にお参りして→赤坂→三軒茶屋→二子の渡し(二子玉川)→長津田→伊勢原→大山の約18里 大山詣の道中で一休みする人たち目当ての茶屋が三軒あったから
    三軒茶屋の名がつきました
     
    ◎古典落語「大山詣り(おおやままいり)」と「百人坊主」
    「大山詣り」は江戸落語 「百人坊主」は上方落語ですが 双方ともに共通点があり “お参りと坊主頭“がでてきます これはどちらも原典が狂言の「六人僧」であるからとされています お参り先の設定が 江戸では大山参り 上方ではお伊勢参り となっていて その他 話の筋と内容がちがっています
     
    ◎現在の大山詣は速く楽にできます
    新宿→小田急電鉄で約60分→伊勢原→神奈川中央交通バスで30分大山ケーブルバス停→徒歩15分→大山ケーブル駅→大山観光電鉄の大山ケーブルカーで6分→阿夫利神社駅(ここは阿夫利神社下社であり ここまでのお参りが定番ですが さらに上の阿夫利神社本社へは徒歩登山90分が必要) 
    イメージ 13
    ←大山ケーブルカー
    ・・・・・・・・・・・・

    <出羽三山参り>
    私の認識不足でした 「出羽三山参り」は西の「伊勢参り」と対峙するほどの存在であり 「西の伊勢参り 東の奥参り」と言われるそうです (“奥参り”は“出羽三山参り”の別称)
     
    ◎出羽三山とは
    出羽三山は山形県のほぼ中央部にある 羽黒山(はぐろさん414m)  月山(がっさん1984m) 湯殿山(ゆどのさん1504m)ですが  それぞれは独立峰ではなく連峰です
    イメージ 1
       最前が羽黒山 すぐ後ろが月山 最奥が湯殿山
     
    ◎昔は神仏習合 今は神社だが・・
    今から約1400年前に開山して山岳信仰が始まり 修験道の地となり 日本三大修験山の一つとされています (他は熊野三山と英彦山)一方で 三山巡りで五穀豊穣を願い 先祖を供養し 自身が生まれ変わられるという信仰が一般民衆の間に広まり 神仏習合のかたちで修験と信仰が続いてきましたが 明治政府によって強制的に神道系にされ 現在は三山にそれぞれ神社があり・・
     
    羽黒山・出羽神社=羽黒山は本来は伊氏波神(稲倉魂命)を祀るが 出羽神社の三神合祭殿には他の二山の祭神も併せて祀っている
    月山神社 =月読命 を祀る
    湯殿山神社=大山祗神 大巳貴命(大国主神)少彦名神(3神)を祀る
    イメージ 2 
    羽黒山の三神合祭殿(A)
    イメージ 3 
    ↑羽黒山の国宝 五重塔(B)
    イメージ 4 
    月山山頂と月山神社(C)
    写真ABCとも出羽三山神社のHPより引用
     
    しかしながら三山信仰の実態は以前のような神仏習合の性格が残っていて それを表す例として・・
    “三山登拝は 過去 現在 未来を巡ることになる”と
    されることで ここでは仏教上の意味が与えられています・・羽黒山=現世(祀る正観世音菩薩の観音浄土は現在を表す) 月山 =前世(祀る阿弥陀如来の阿弥陀浄土は過去を表す) 湯殿山=来世(祀る大日如来の寂光浄土は未来を表す)
    これによって 三山を巡ることを「三関三渡(さんかんさんど)の旅」とも「生まれかわりの旅」とも言います また「男の死支度」とも言われました
    イメージ 5
    写真はhagurokanko.jpより引用
    もう一つの例は・・信仰する人たちが「梵天(ぼんでん)」と称する祭器を使うことで 「梵天(ぼんでん)」は 仏教の守護神として帝釈天とともに対を成す存在の「梵天(ぼんてん)」が由来考えられるからです(梵天の実際は後述)
     
    なお 湯殿山にある いくつかの寺には「即身仏」が存在していますが これも 死してもなお仏法による救世済民をしようとしたからだと言われています
     
    ◎出羽三山信仰は東日本で特に現在は千葉県で目立つ
    昔は当然のように現在の山形県 宮城県 福島県で出羽三山参りは盛んで 江戸時代後期からは 現在の千葉県でも特に市原市や袖ケ浦市などの上総(かずさ)地域でも盛んになりました
    “男は一生に一度は「三山(みつやま 又は さんやま)」に行くもの”と言われていて 江戸時代から現在に至るまで三山登拝が盛んです ※出羽三山は1997(平成9年)までは女人禁制でした 但し山麓には女性が遥拝できる施設は以前からありました
     
    また他の参詣地と同様に「御師(おし)」が存在していて 各地に出向いて 登拝の勧奨を現在でも行っていて それによってできた“信者の集まっている地域”を「檀那場」と呼んでいます
     
    ◎ここでも「講」が存在
    出羽三山参りを行うにあたって 伊勢参り 金毘羅参りと同様に「講」が組織され 現在でも存在していて 千葉県では少なくとも33カ所に存在します これが前出の檀那場ともなっているわけです 現代の講は拝礼と親睦の場となっています
    出羽三山参りを経験した人を特に「行人(ぎょうにん)」と称し その行人の集会所のことを「行屋(ぎょうや)」と称しています
     
    ◎登拝記念碑が多数存在
    出羽三山登拝を終えて行人となり一人前と認められる記念にと 各地には碑が建てられています 下の写真は私が撮影した千葉県市原市のもので 高さ約3mの塚に大小10数基の石碑があり 碑の裏面にある年号で 判読可能なものでは 「宝暦13年」(1763) 「明治11年」(1878) 「平成28年」(2016)などがあり 江戸中期から つい最近までも登拝が続いていることがわかります
    イメージ 6
    イメージ 7

    ◎梵天(ぼんでん)
    講の中で出羽三山登拝前や年間行事 そして行人の葬儀には “竹棒の先に 出羽三山や行人を表した紙飾りをつけた「梵天」と称するものを立てます その様式や作製方法は講により全て異なり同じものは一つとしてありません 
    イメージ 8
    イメージ 9
    イメージ 10
    イメージ 11
    梵天関連の写真は全て「千葉県立中央博物館」制作「梵天に見る房総の出羽三山信仰」より引用
     
    ◎江戸末期の出羽三山参りの旅の記録一例
    (浅井 信氏作成資料より引用)
    江戸時代末期1840年頃に出羽三山登拝した人の記録によれば・・
    現在の千葉県袖ケ浦市出発→日光東照宮→出羽三山登拝→松島→筑波山→銚子→袖ケ浦・・細かくは途中に沢山の寄り道があり 全行程   :1400km 所要日数:42日 費用      :3両(現在価格約30万円)
     ・・・・・・・・・・
    次回は「大山(おおやま)詣」についてです

    前回は富士山参詣に関係する講や富士塚についてふれましたが・・
    その他 遠路はるばるの旅を伴う参詣 それは「〇〇参り」や「〇〇詣」と呼ばれて有名なものがあります・・お伊勢参り 金毘羅参り 善光寺参り などのあまり知られていないものとしては・・大山(おおやま)詣 出羽三山参り 日光東照宮参り など
     
    これらを行うには 長い日数と大金が必要になるために 「富士講」と同様に地域ごとに「講」を作って 順番に代表者を「お参り」に送り出すという仕組みが多く採用されました その講は現在でも一部が残っています
     
    ただし現代の「四国八十八カ所巡礼」の旅の途中で色々なおもてなしや施しがいただけるように 昔もお参りの旅の道中に施しが得られて「懐」が助かったので 中には その施しだけを目的にした不届きな連中も現れたそうです
     
    またこれも富士山の場合と同様に お参り先への勧誘や案内 現地での世話などをする「御師(おし)」という人たち または これらの役目も兼ねる「山伏」が存在していているところがありましたが これも一部 現在でも続いています
     
    江戸時代には 天下泰平となり 江戸を中心とした「五街道」(東海道 中山道 日光街道 奥州街道 甲州街道)が整備されて 各地へのお参りは盛んになり 普段は農民・町人などは関所通過は簡単ではなかったものの こと「お参り」目的と申告すれば簡単に通行手形が得られて 街道通過がほぼ自由にできたそうで その結果 驚くほど多くの庶民が「お参り」をしています(ただしキリシタンは許可されなかった)
     
    例えば「お伊勢参り」に関する記録によれば 江戸時代では特に多数の集団がまとまって押し寄せた状態を「お陰参り」「お陰詣」と呼び これが約60年周期で3回あったとされ その内の一つは・・
    江戸中期の1705(宝永2)年の ある2か月間に約350万人が伊勢神宮にお参りしたそうで 当時の日本の全人口が約2770万人の内で 長旅が可能な年齢を16才から60才までとして この層はこの当時の人口の約6割を占めていたので お伊勢参りが可能な人口は約1660万人となり その内の350万人は約21%にあたります
    つまり2か月の間に 日本人の(子供と老人を除いて)5人に一人は伊勢神宮にお参りしたという超驚異的現象だったことがわかります
    イメージ 1
     歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」の図では「おかげまいり」と書いたのぼりも見える
     
    これらの大きなお参りの旅は 信仰が深まるだけではなく 途中の各地で見聞を広め 新情報が得られ また一般的なお土産だけではなく 自分たちの住む地域のものより優れた技術や道具 優良農作物の苗や種も持ち帰ったりして 各地の発展にも寄与しました また帰り旅の途中では名所旧跡歓楽地などに寄り道する楽しみがありました
     
    今回 調べて気が付いたのは “一生に一度は〇〇参り”という言葉が 「お伊勢参り」に限らず 他の「〇〇参り」でも使われていることです それだけ「〇〇参り」は大切で 一大事なことであることがわかります 
     
    ◎お伊勢参り
    〇〇詣 〇〇参り と称される中では最も有名で最も参詣者数が多い“お参り”です 
    伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の神であり  五穀豊穣の守り神でもあったので 親や店の主人は 子や奉公人が“お伊勢参りの旅”に出かけたいと申し出たら これを認めなければならないとされていたそうで さらには 親や主人に無断で“お伊勢参りの旅”に出ても お参りした証拠のお札などを持ち帰れば許されたので お伊勢さんに比較的近い関西※の子供や奉公人が この無断の旅に出た事例が多いようで 「抜け参り」という言葉があり その由来には諸説あるものの  “無断で家や職場を抜けて旅に出た”ことを表現したとも言えましょう
     
    ※伊勢神宮への旅の所要日数は・・江戸からは片道15日  東北の陸奥国釜石から100日に対して 大阪から5日 名古屋から3日 
     
    富士講と同様な「お伊勢講」が各地で作られて 選ばれた者が代表で参詣する所謂 「代参」が行われました 一方 参詣に行きたくても事情で行けない人に代わって犬を参詣の旅に出すこともあって その場合の犬を「おかげ犬」と言うそうです 「おかげ犬」は お伊勢参りに行く人たちに連れられて行きますが 道中は多数の人たちが世話をしてあげて お守りなど受けて無事に帰還します
     イメージ 2
      歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」の図の中には「おかげ犬」も   首にお札のようなものを着けて描かれています
     
    ◎金毘羅参り
    現在の」香川県仲多度郡琴平町の象頭山にある神社が金刀比羅宮(ことひらぐう)別名「こんぴらさん」また「金毘羅宮」「琴平宮」とも書かれる
    御利益は・・五穀豊穣 大漁祈願 商売繁盛・・と幅広い
     
    平安時代から栄えたものの戦国時代には荒廃したが 江戸時代初期には盛り返して 江戸中期には ここでも「金毘羅講」ができて お参りは非常に盛んになって それは お伊勢参りに次ぐ規模になったとされます
     
    そして江戸後期には あの有名な民謡「金毘羅船々」・・こんぴらふねふね)追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ  まわれば 四国は 讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり)象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現こんぴらだいごんげん)・・が流行り出しました
     
    お参りするには1368段の石段を登ってこその献身感がご利益をあずかることにつながると考えての有難みで人気があるのでしょう
     
    「こんぴら狗(いぬ)」登場・・お伊勢参りの「おかげ犬」と同じ役目をする犬が 金毘羅参りにも使われました 首にかけた袋には お札や賽銭 餌をくれた人への礼金 などが入っていて それで道中の人々に助けられながら 飼い主の代わりにお役目をはたして帰還しました
    イメージ 3
     「こんぴら狗」の像 写真は「ウラスピNAVI」より引用
     イメージ 4
    神札授与所では「こんぴら狗」の置物や絵馬などがあるそうです 写真はwww.konpira.or.jp/about/dog/dog-2011.htmlより引用
    ・・・・・・・・・・・・
     次回は 他の「〇〇参り」の例をとりあげます
    ・・・・・・・・・・・・

    このページのトップヘ