徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2019年03月

    以前に「文化」と「文明」の解釈を綴ってみましたが 江戸・東京において・・富士山が見えなくても別に生活に困るわけでもないのに何かとこのお山に関する人々の行為が多様に生まれ それは文化になっています
     
    現代の東京から見える富士山・・特に冬はクッキリ見え しかも黒っぽく見える丹沢山地などの後ろに真っ白な姿が強調されて 東京から見ても心が洗われてスッキリするような感じになります
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      (画像は田代博「東京から見る富士山と丹沢山地との関係」のHP yamao.lolipop.jp/fuji/tokyo/fuji.htm より引用)
    ◎葛飾北斎や歌川広重の富士山入り浮世絵
    葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「江戸名所百景」「富士三十六景」も江戸っ子に人気の富士山を素材に浮世絵文化を盛り上げました
     
    『北斎の「富嶽三十六景」は、通称「赤富士」と呼ばれる「凱風快晴」を含む名作で1831年頃に刊行されたと言われ 当初はタイトル通り36の富士山を描いた風景画でしたが 好評だったため10景追加され 最終的に46景にまでなりました このことは 江戸っ子たちの富士山に対する愛着や篤い信仰心があったからでしょう
    一方、広重の「富士三十六景」が刊行されたのは「富嶽三十六景」が大ヒットの約30年後 1859年のこと 実は広重が亡くなったのは前年の1858年のことであり 晩年描きためたものを預かっていた版元が 没後に刊行したと言われている 広重が北斎の「富嶽三十六景」を強く意識して描いていたことは間違いない』『』内はism.excite.co.jp/art/rid_Original_05323/より引用一部割愛
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    葛飾北斎 富嶽三十六景武州玉川
    (現在の多摩川 六郷の渡し)
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    歌川広重 名所江戸百景「日本橋雪晴」
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    歌川広重 名所江戸百景「水道橋駿河台」(すいどうばしするがだい)
    (以上の浮世絵画像は全て「アダチ版画研究所」サイトより引用)
     
    ◎「富士講」
    古来 日本では万物に神宿るの思想あり 特に山に対しては その思いが強く ついには山岳信仰となり文化となってきました 日本各地には特に信仰の対象として崇められて多くの参詣者が参る有名な山がいくつかありますが 中でも富士山は日本一の高さで独立峰として気高くそびえ 裾野は末広がりの縁起の良い美しい姿で 当然のように人気あり 富士山信仰する人たちが多くいますが その人たちの作る組織が「富士講」と呼ばれて江戸時代から現代まで各地に存在しています
     
    「富士講」の歴史は・・
    江戸時代の初期に富士山で修行した角行藤仏(かくぎょうとうぶつ)という行者が富士山信仰を起こし その後継行者が18世紀に 富士信仰を真面目に働く庶民のための宗教とするとともに 信仰の男女平等提唱して女性の富士登山を可能にしたために信者は江戸を中心に関東で大いに増えて その勢いが好ましくないとして幕府から何回も禁止令が出たものの講の勢いは衰えず・・江戸時代後期には「江戸八百八講 講中八万人」と言われたそうですイメージ 5
    江戸時代の富士山に登る富士講の人たち(二代目 歌川国輝)(matome.never.jpより引用)
     
    富士講というのはその信仰の結社を指すとともに信仰行為そのものも指す言葉になっています その講は町や村ごとにあって 毎月に祈祷などを行うとともに 講の参加者の中で順送りに数名の代表者を決めて毎年の夏富士山に派遣していました(その費用は共同で積み立てしました)


    富士山の各登山口には「御師(おし)と呼ばれる人が居て 講から派遣
    されてきた人たちに 信仰を説き 宿を提供し 登山の道案内もするなどしました また各地に出向いて布教兼富士登拝勧誘もしました 江戸時代の最盛期には富士吉田口には御師の家が百軒近く在ったそうです

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     富士山での富士講の人たち  (画像はFuji-news netより引用)                     

    1871(明治4)年に御師という職業を政府が認めなくなったりして 富士講も衰退していきますが 現在でも御師と富士講は残っています
    講の数は激減したものの その所在は日本全国にあって北は北海道から南は長崎県まで約70か所あります やはり最多は東京で20数か所 僅差で千葉県の約20か所ですが実は千葉県の特に東京湾に近い地域から見える富士山は東京(都内)から見える大きさとあまり変わらず 視界をさえぎる高層ビルも東京ほどには多くなく しかも東京湾越しに見えることになるので障害物が無いという好条件なのです

    面白いのは 富士講の存在が 静岡県でゼロ 山梨県でわずか一つという現状で これは以前にもふれましたが 富士山が常に身近に存在して見える静岡や山梨よりも たまに小さくちょっとだけ見える東京のほうが
    有難みを感じやすく 感激度合いが強くなるというウェーバーフェフィナーの
    法則的な現象の影響でしょう

     
    ◎「富士塚」
    富士講によって毎年順番に富士山詣でしますが 中には順番がなかなか回ってこない人や健康上の問題で実行困難な人たちが出てくるので 江戸時代後期から現在に至るまで 特に江戸・東京で人工のミニ富士山が作られ それは「富士塚」と呼ばれて そこに多くの人々がお参りするようにもなりました。

    江戸最古の富士塚は1779(安永8)年に高田藤四郎によって造られたもので 「高田の水稲荷境内の富士塚」と言われています その後 各地に富士塚が作られました。その多くは富士山から持ち帰った溶岩も使われ 中には小山に三合目 五合目など標識を設けた塚もあります

    また本来は富士塚頂上からは本物の富士山が見えるように作られたものの 現在はビルなどに囲まれて直視不可能となっています しかも通常は登山禁止の富士塚も多く 本家の富士山の山開きと同日の7月1日と他のもう1日の 年間2回だけ解禁とする所が多いようです

     

    多数あった富士塚も 東京都内に現存するのは約50か所と言われる中で特に東京都内の3か所と埼玉県の1か所が 国の重要有形民俗文化財に指定されています
    ()「江古田の富士塚」(東京都練馬区小竹町・茅原浅間神社境内) ()「豊島長崎の富士塚」(東京都豊島区高松・富士浅間神社境内) ()下谷坂本の富士塚(東京都台東区下谷・小野照崎神社境内) ()木曽呂の富士塚(埼玉県川口市東内野)
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    「江古田の富士塚」普段は柵から入られない
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    江古田の富士塚」本体
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    音羽富士塚(頂上)
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       東京都内現存最大富士塚の「品川富士」(品川神社境内)
       
    ◎東京の銭湯の「富士山の壁絵」
    銭湯は最盛期の1968(昭和43)年に日本全国で1万8325軒あったものの 現在では激減して4000軒を切るまでになりました その内 東京では約600軒 スーパー銭湯の類を含めば700余軒あるそうです
     銭湯は東京(関東)と大阪(関西)では ちがいがあります 
    東京の銭湯の壁には「富士山」の絵がある・・浴場奥中央の壁には富士山を中心とした風景がペンキで描かれています 大阪の銭湯にはそれが殆どありませんが 絵があるとしたらそれは別の題材をタイル片で 構成する絵であることが多いそうです
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    「銭湯に初めて富士山が描かれたのは大正元年 東京千代田区にあった銭湯『キカイ湯』の経営者が施設を増築する際 「子どもたちに喜んで湯船に入ってほしい」と浴室の壁にペンキで絵を描くことを発案して 川越広四郎という画家に依頼したところ 彼が 故郷の富士山を描いたのがはじまりで これが評判になり 真似をする銭湯が続出して広まりました」(「」内は日本銭湯文化協会談を載せた「ライブドアニュース」http://news.livedoor.com/article/detail/11022269/より引用)
    早朝6時から開く銭湯として有名な「燕湯」(東京都台東区上野)浴場は富士山の絵だけではなく富士山の溶岩を使った岩風呂まであります まさに“富士山好きの東京人”向けの銭湯です↓
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    東京には神社仏閣のような宮づくり様式の「東京型銭湯様式」が定番で 特に建物の入り口屋根が特徴的です その起源は 関東大震災(1923=大正12年)の復興時期に ある腕の良い大工が 世の中を元気付けようと銭湯の建物に「唐破風」を取り入れたところ 人気が出て 以降の銭湯がこのスタイルを採用した この様式は関西では殆どありません(道後温泉と京都の某銭湯にはあります)
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    唐破風の銭湯「明神湯」(東京都・大田区)
     

    ・大阪は混浴の銭湯が多かった・・江戸時代は全国的に混浴風呂が多かったのですが 明治10年に政府から混浴禁止令が出て 消滅に向かうものの大阪には混浴銭湯がいくつか残り 私の記憶でも 昭和30年代にはまだ在ることが当時のテレビで紹介されていました
    ・大阪では 温泉でなくても「〇〇温泉」と称した銭湯が多くありましたが 東京では それはありません
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    ◎川端康成と坂
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    前回に坂の在る所に文士ありと綴りましたが 中でも川端康成(大阪生まれ)とは特に縁が深いようです 例えば・・
     ・川端は現・文京区の「中富坂」に住んでいた菊池寛を頼っていた
    川端は1920(大正9)年に一高を卒業し東京帝大に入学して 間もなく今東光らとともに文芸雑誌「新思潮(第6次)」※を自分たちで継承して復刊しようとして その了解を得るべく 「中富坂」にある菊池の居宅を訪問した 以後川端は何かと菊池からの支援を受けている (菊池は川端が大学生の頃から文才を認めていた) ※「新思潮」は1907(明治40)年に小山内薫が創刊したがふるわず以後 休止と復刊を繰り返して第3次と第4次復刊時には菊池が関与した
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    菊池寛
    ・「伊藤初代」と出会ったのが「壱岐坂」のカフェ
    下戸である川端は友人たちとカフェや食堂によく出かけたが 1919(大正8)年のある日に 現・文京区の「壱岐坂」にある「カフェ・エラン」で可愛い少女の女給の「伊藤初代」に出会って 彼女を見染めてしまい 1921(大正10)年9月に 婚約までしたものの 11月になって彼女から一方的に婚約破棄されています
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    初代との婚約記念写真まで撮ったのだが・・
    ・「切通坂」にある料理屋「江知勝」で牛鍋(すき焼き)をよく食べた
    1921(大正10)年11月に菊池寛宅で「横光利一」と初めて会った折に 現・文京区「切通坂」にある牛肉料理屋の「江知勝」に行き 牛鍋を菊池の驕りで3人一緒に食べた その後も川端はこの店を利用しています (その他にも夏目漱石 芥川龍之介 森鴎外らもこの「江知勝」をよく利用 この店は明治4年の創業以来 現在も続いておりすき焼きの老舗として また川端の贔屓の店として知られています)所在地は東京都文京区湯島2-31-23(湯島の白梅でおなじみの湯島天神そば)
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    ↓川端が1953(昭和28)年に「江知勝」を訪れた際の芳名録に名前が残っている
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    店入口と芳名録の画像はイントゥジャパンWARAKU MAGAZINEhttps://intojapanwaraku.com/travel/20160301/695/p3 より引用
    ・坂の多い「馬込文士村」の住人だった時期がある
    尾崎士郎に誘われて現・大田区のいわゆる「馬込文士村」に1928(昭和3年)5月から1929(昭和4)9月まで住んでその間に・・宇野千代 子母澤寛 萩原朔太郎 室生犀星 川端龍子 伊東深水らと交流しました
    ・妻の秀子が「臼田坂」で転倒して流産した
    臼田坂」は馬込地区の坂の一つであり そこで1928(昭和3年)の夏に 妊娠6カ月の秀子が風呂の帰りに転倒して流産してしまいました
    ・東京・千代田区駿河台の坂の上にある「山の上ホテル」も執筆場所にした
     このホテルについては後述します
     小説「伊豆の踊子」冒頭部分にある期待を抱きながら坂を駆け登るという記述をした
    「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨足が杉の 密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。(中略) 私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。(中略)  折れ曲がった急な坂道を駆け登った。・・」
    これは以前にふれましたが坂の持つ効用・性質の一つである坂の上に待つ あるいは存在するであろうモノやコトへの希望・期待を 誘発する”ことを まさに表現したものでしょう・・
    この小説では旅の途中で何度か遭遇している旅芸人の一行の中で可憐な魅力を感じさせる踊子にまた会える のではないかというのが”一つの期待だったわけです
     
    ◎「菊富士ホテル」と「山の上ホテル」
    東京で文人がよく利用したことで有名なホテルがあります これらのホテルはいずれも坂の上に建っていました(建っています)
     
    ≪菊富士ホテル≫
    前回にふれました文京区に多い坂の中の一つの「菊坂」 この菊坂の上に かつて「菊富士ホテル」(と称しても実態は高級下宿とも言われています)大正3年の開業から戦災で焼失するまで在り 世に名前を知られた多くの人たちが利用したそうです
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    かつての菊富士ホテル
    止宿した人たちとは・・宇野千代 尾崎士郎 直木三十五 広津和郎 竹久夢二 谷崎潤一郎 宮本百合子 坂口安吾 大杉栄 伊藤野枝 正宗白鳥などの文士 アナーキスト 政治家 学者など
     
    建物は戦災を受け焼失しましたが、跡地には昭和52年にこのホテルの創業者の羽根田氏の子孫により止宿者の名を刻む石碑が建立されました

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    菊富士ホテル跡地に建てられた碑
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    詳しくは近藤富枝 著「本郷菊富士ホテル」を参照下さい 
    ≪山の上ホテル≫
    東京・JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口(西口)から南に 緩い下り坂になっている明大通り(めいだいどおり)を歩いて5分に在る小道を右に曲がって 一方通行の坂を登ると「山の上ホテル」があります
    (現在では昔と異なりJR駅以外にも地下鉄4駅が利用できます)
    少し詳しい住所では東京都千代田区神田駿河台なのですが 神田という地域はかつて出版社が多数存在していたこともあり 小説家が滞在して執筆したり 出版社が遅筆な作家をいわゆる「缶詰」にするために利用されました
    ここを定宿とした人たちは・・川端康成 三島由紀夫 池波正太郎 伊集院静
     
    このホテルが利用された基本的理由は・・
    ・坂上の丘※に在り 気分よく静かで落ち着いた環境 ※このホテルの英語表記は「HILLTOP HOTEL」
    ・建物の外観・内部は(外国人の設計)アールデコ調を採用して美しいこと
    ・客室35部屋の内部は全てレイアウトが異なり 中には日本庭園付きのスイートルームや畳部屋付きルームもある
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    このホテル常用者の三島由紀夫は こういう言葉を残している
     

    「東京の真中にかういう静かな宿があるとは思わなかった。設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人っぽい処が実にいい。ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」


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    以上のように「坂」の在る所に文士・芸術家ありなのです
     
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    ◎「大阪に坂が無いから文化が育たない」(私の上司の言)
    前回に「文化」と「文明」の解釈を綴ってみました
    そこで昔 私の上司(生まれも育ちも大阪)が発した言葉・・
    「大阪に文化が育ちにくいのは 坂が無いからや」・・の意味について考えてみます

    繰り返しますが 東京の坂の多さには比べられないものの大阪にも坂は沢山ありますし 大阪からも文化人・文化作品が多く生まれています
    近松門左衛門(浄瑠璃:曽根崎心中 心中天網島) 竹本義太夫(浄瑠璃語り)
    この二人は大阪を代表する文化の人形浄瑠璃(文楽)を大いに発展させ その他・・
    井原西鶴(浮世草紙:好色一代男 浄瑠璃) / 上田秋成(読本作者:雨月物語) / 織田作之助(作家:夫婦善哉) / 開高健(作家:オーパ) / 小出楢重(ならしげ:洋画家) / 小松左京(SF作家:日本沈没) / 安藤忠雄(建築家:住吉の長屋)・・など 大阪に生まれ 大阪で活躍して文化に貢献した(している)人たちは多くいます
    しかし惜しいことに 大阪生まれながら成年して江戸・東京()に移住して開花した文化人も多いもので・・与謝蕪村(俳人 俳画創始者) / 与謝野晶子(歌人 作家:みだれ髪) /佐伯祐三(東京よりパリ在住が長かった洋画家:郵便配達夫) / 川端康成(作家:雪国) / 小田実(作家:何でも見てやろう)  /
    丹下健三(建築家:東京都庁舎)など
     
    逆に 東京生まれだが大阪に行った文化人を 私は多くを知りませんが・・早川徳次(シャープ創業者) / ミヤコ蝶々(コメディアン) / 茶川一郎(コメディアン) / 藤田まこと(コメディアン 俳優) 
    ※ただし早川徳次と谷崎潤一郎は関東大震災での被災を契機に移住したもので しかも谷崎は大阪ではなく京都と神戸に住み 後に静岡県の熱海に定住しました
     
    というわけで せっかくの大阪生まれの人材 とその人から生まれる文化は 一部が東京などへ流れてしまっているのも文化が生まれにくいという感じを助長させているのでしょう
     
    さて坂と文化の関係については前回にふれましたが 坂によって得られる感動・憧憬・発奮など文化的所作の原動力は 坂の数に比例して増えることになり そうすると 坂の数が大阪より多い東京に利点があることになりますが それだけではなくて・・
    これも前回ふれましたように坂の位置と構造によって 坂から見える情景の質のちがいを生じてこれも影響します 東京では谷底のくぼ地のような景色がみえる坂があったり 向きも東西南北さまざまで それぞれから得られる情景は変化に富んでいます
    見える山に関して言えば・・富士山が見える坂もあれば見えない坂もあり・・という具合ですが それに対して大阪の坂は基本的に上町台地の西側のやや急な坂からは六甲の山 東側のなだらかな坂からは生駒の山が常にと言ってよいほど近くに見えるので 大まかに言えば 大阪の坂から見える情景は東京のそれに比べればやや単調で 感動・憧憬・発奮の発生も多くはないことになるのでしょう
    東京からわずかにでも見える富士山は 文化のための材料となるものの 大阪から生駒と六甲の山は ランドマークという利便性を担った性格なので 文化的な意味合いを感じにくいものです
     
    ただし六甲山が文化に影響した例で有名なのは・・石坂洋次郎原作の「青い山脈」の映画化での主題歌で西條八十作詞に服部良一が作曲する際に 「梅田から省線※に乗って 京都に向かう途中のこと 日本晴れのはるか彼方にくっきりと描く六甲山脈の連峰をながめているうちに にわかに曲想がわいてきた」と氏の著書の中で述べています ※”省線”とは鉄道省の鉄道のことであり 鉄道省はのちの国鉄 現在のJR 私の祖父もよく「省線電車」という言葉を使っていました
     
    また 大阪の人が東京など関東に行って帰ってきた際には・・「生駒山と六甲山に囲まれるようにみえる大阪に帰ってきてホッとする 山の見えない東京では落ち着かなかった」というような言葉がよく聞かれるそうですが この場合は生駒と六甲の存在が心情的に作用して文化的ニオイがします
     
    蛇足ながら・・大阪では「浪速の商人」の伝統なのか・・「〇〇してなんぼ」という意識のもと 何事もスピード重視で 言葉は短縮して  例えば・・
    東京では「日本橋一丁目」が大阪では「日本一」 牛丼を食べ終わる速さは東京より確実に早い 信号が赤から青になって発進するクルマや歩き出す人の早さは大阪がリード 券売機は初期には硬貨を一枚ずつ入れていたのを数枚まとめて入れられるようにしたのも大阪から・・などなど これらの所作は 
    文化というより文明的な性格が優先されているきらいがあることも影響しているのではないでしょうか
     
    ◎坂と文士・芸術家
    以前に取り上げました東京の中の いくつかの文士村・・実は これらは皆 坂のある地域()だったのです
     
    「田端文士村」は東京都北区田端に在って芥川龍之介らが居住したのですが 田端駅に近い芥川の居宅から南に向かって下る坂の村でした
     
    「馬込文士村」東京都大田区・馬込 山王 中央の地域(現 地下鉄馬込駅の南東部の約2.5キロ四方)に 芥川の死後に求心力を失った田端から関東大震災を契機に移り住んだ文士も多かったのですが この地も坂が多く 山王から馬込にかけては「九十九谷」と言われるほどです
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    「落合文士村」は東京都新宿区上落合から中井にかけての地域にありましたが ここも坂が多い地域があって「一の坂」から「八の坂」までの連番の坂のほかにも 名前の付いた坂がいくつかありました
    ここでの文士や芸術家たちは坂下に居住した人たち坂沿いまたは坂上に住した人たちの2派がありました 前者は主にプロレタリア作家 のちに大勢が入れ替わって 尾崎一雄らの新興芸術派作家たち 後者は美術家と林芙美子たち
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    「四の坂」脇にある旧林芙美子邸入り口
    (私の母を車椅子に乗せてのこの坂の上り下りは大変にきつくて苦労しました)
     
    そして文士村とまでは言えないものの東京のその他の坂沿いには文士が多く住み または坂沿いや坂の上に在るホテルなどに宿泊しました
     
    ところで東京で「坂」と言えば文京区 ! なにしろ東京23区で名前の付いた坂最も多いのが文京区で126か所 僅差で港区が121か所・・というわけ     
     
    東京都文京区にある団子坂」は その周りに住んだ小説家も多く しかも彼らが執筆した小説に団子坂が出てくる作品も多くて・・森鴎外・・「青年」の中で  ・二葉亭四迷・・「浮雲」で ・夏目漱石・・「三四郎」の他
    多くの作品にも登場させました そして江戸川乱歩は団子坂住人ではないものの この坂の名を小説名にしたのが・・D坂殺人事件」 
     
    同じ文京区の「炭団坂」沿いには正岡子規が住みながら団子坂の情景を詠んだ句も作っています そして坪内逍遥もこの坂の上に住んで「小説神髄」を執筆しました
     
    また同じ文京区の「菊坂」沿いには樋口一葉が住み この地では処女作の「闇桜」などを執筆したそうです また宮沢賢治も住んでいたことがあります
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    在の菊坂 写真は「佳景探訪」www.natsuzora.com/dew/tokyo-east/hongo-kikuzaka.html より引用

    同じく「中富坂」には菊池寛が住んでいました
     
    このように坂のあるところ文士・芸術家・文化ありですが・・まだ続きがありますものの 長くなるので次回にまわすことにします
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    “東京と大阪の坂のちがいの続きですが 
    その前にちょっと・・
    ◎ウェーバー・フェヒナーの法則から
    人は 常に存在する又は当たり前のように存在するモノやコトに対しては意識が無いか もしくは薄い・・という性質があります 結果としてそれらの存在の意義 有難み“感動を感じにくい
    ものです 例えば・・空気” ”家の周囲の見慣れた風景などに対してなど またこの性質の結果強い臭いをかいでいると それに慣れてしまって 感じなくなることにもなります
     
    このような人間の感覚の性質には「ウェーバー・フェヒナーの法則というものがあり その説明には必ず数式が出てくるものなのですが ここでは省略して簡単に言えば・・人は・・
    (A) 小さな刺激を受けている状態では 刺激量が少し増減しただけで変化を感じる 
    (B)大きな刺激を受けている状態では その刺激量が激増または激減しない限り 変化したと感じない・・というものです
    もう少し具体的にこの法則が現れる例で言うと・・小音量で聴いている音楽を2倍に聞こえるようにするためには ほんの少しの音量アップですみ 例えば・・強さが2の音を4にするだけで 2倍の音量に聞こえますが・・大音量で聴いている音楽の音量を2倍の大きさに感じるように聴こうとするには 音量を単純に2倍にしたのでは全くだめで 2乗倍しなければならないというもので 例えば強さが10の音の場合は10倍の100にまで上げないと2倍に聞こえない
     
    この感覚現象の法則は 刺激を増やす場合だけでなく 減らす場合も同様で ある感覚が減ったと感じるためには その刺激の量を大幅に減らさないとダメなのです

    この法則があてはまるのは「五感」すべてにおいてで・・したがって視覚においてもです
     
    ◎東京には富士山が見える(見えた)坂が多い
    前述のウェーバー・フェヒナーの法則を踏まえて・・富士山を見ての感じ方にちがいが出るケースを
    前記の(A)(B)に当てはめると・・
    (A)富士山からちょっと離れた一都六県(東京 神奈川 埼玉 群馬 栃木 茨城 千葉)では 富士山が遠くに小さく見え しかも天候や大気汚染で 常には見られないという状態なので たまにその小さな富士山が見えるだけでも 小さな視覚的変化(刺激)になり 感動をおぼえます
     
    (B)静岡県や山梨県で富士山が常に間近に大きく見えることが当たり前の人々の感覚では 少々の変化は
    気にならず 例えば富士山が噴火でもして
       非常に大きな変化(刺激)あったなら あらためて富士山の大きな存在を感じることでしょう (ちなみに 記録が残る富士山噴火は過去16回で その内 平安時代が最も多くて10回  江戸時代の「宝永噴火」以降無し)
     
    私が住んでいた東京都豊島区椎名町では昭和30年代なら 二階から富士山を見ることができる家は多かったものです (余談ですが 私が中学生の時に2階の教室の窓から 建設中の東京タワーが日ごとに高くなっていくのが見えていました)
     
    しかし東京では高層ビルなどが増えて 富士山が見える機会も激減して 現在では よほどの高所からしか富士山が見えませんので たまにチョットでも小さいながら富士山が見えることは 前述の(A)のような状態に当たり つまり ちょっとしたことが刺激に感じる=感動になるわけです
     
    そこで 東京では昔も今も富士山がよく見える場所として意識されてきたのが「坂」で 坂の上から風景を眺めた場合の視線を遮るものは無いか少ないのが普通で 東京には神奈川県にある丹沢山地とその後ろの富士山がセットで見える坂が多く それらには「富士見坂」という名がついて 東京23区では16カ所以上あり さらに 本名がありながら別称として富士見坂と呼ばれるものも含めると24カ所以上ある言われています しかし現在は坂と言えども視界を邪魔するビルが前方に建つことが多くなり 
    今 実際に富士山が見える坂は・・文京区の護国寺(ちなみに歌手の尾崎豊の葬儀が行われた寺)の脇の
    富士見坂や 目黒区の大岡山の富士見阪などで 少なくなってきました その他 有名だった荒川区西日暮里の富士見坂は現在 ビルとビルの間からかすかに覗ける「すきま富士」状態になりました 
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    1999(平成11)年のこの富士見坂と富士山
     荒川区報200011日号表紙より

    この坂での見え方の変遷を記録された方の写真から引用させてもらいますと この25年間で「すきま富士」になったことが下の2枚の写真からわかります
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    1994,1,4↑ ↓ 2019,1,10
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    「西日暮里富士見坂からの眺望の変遷」yamao.lolipop.jp/fuji/fujimizaka/nishinippori.htmより
     
    このように東京には富士山が見えるまたは見えた坂が多いのですが  大阪の場合は坂からに限らず台地上や台地以外の平野部からでも ビルなどが視界を邪魔しない限り 東方向には「生駒山地」(奈良県との県境に主峰の生駒山(642m)に数個の山が連なったもの)近くに見え 北西方向には六甲山(931mで兵庫県南東部にある)山並みが これも近くに見えるので 大阪ではこの二つの山並みがランドマークなっています つまり二つの山並みは大阪では視覚的にも身近な存在であり 東京での富士山の見え方と比べれば 刺激・感動は湧きにくいものなのです
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    近鉄線の新石切駅からみる生駒山地
    https://tozanmotetai.com/ikoma-date/から引用   

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    六甲山系立体図:大阪はこの地図の右下方向
    「やまつみ」のHPより引用 

                                                                       
    ◎文化と文明のちがい 
    文化と文明それぞれの解釈・定義と相互のちがいに関しては 辞書のみならず 学者から一般人までから実に様々な説明がなされていますが 私が調べた限りでは 完璧なものは無いようなので 諸説の一部私見を加えて大まかに表しますと
    「文化」は地域性があり 効率を追求するものではなく” 心を満たすもの” 結果として基本的には持続性がある” 無くても生活には困らない

    「文明」は”普遍・汎用性があり” 効率を追求するもので” 心を満たす為のモノが満ちるもの結果として 常に変化し時には消滅する “生活に便利なもの
    ・・このように言えるでしょう 
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    次回は 今回の「文化と文明の観点」をふまえて "大阪の文化"と"坂と文士"についてみてみます

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