葛飾北斎 富嶽三十六景「武州玉川」
歌川広重 名所江戸百景「日本橋雪晴」
歌川広重 名所江戸百景「水道橋駿河台」(すいどうばしするがだい)
富士山の各登山口には「御師(おし)」と呼ばれる人が居て 講から派遣されてきた人たちに 信仰を説き 宿を提供し 登山の道案内もするなどしました また各地に出向いて布教兼富士登拝勧誘もしました 江戸時代の最盛期には富士吉田口には御師の家が百軒近く在ったそうです
1871(明治4)年に御師という職業を政府が認めなくなったりして 富士講も衰退していきますが 現在でも御師と富士講は残っています
講の数は激減したものの その所在は日本全国にあって北は北海道から南は長崎県まで約70か所あります やはり最多は東京で20数か所 僅差で千葉県の約20か所ですが実は千葉県の特に東京湾に近い地域から見える富士山は東京(都内)から見える大きさとあまり変わらず 視界をさえぎる高層ビルも東京ほどには多くなく しかも東京湾越しに見えることになるので障害物が無いという好条件なのです
面白いのは 富士講の存在が 静岡県でゼロ 山梨県でわずか一つという現状で これは以前にもふれましたが 富士山が常に身近に存在して見える静岡や山梨よりも たまに小さくちょっとだけ見える東京のほうが
有難みを感じやすく 感激度合いが強くなるというウェーバーフェフィナーの法則的な現象の影響でしょう
江戸最古の富士塚は1779(安永8)年に高田藤四郎によって造られたもので 「高田の水稲荷境内の富士塚」と言われています その後 各地に富士塚が作られました。その多くは富士山から持ち帰った溶岩も使われ 中には小山に三合目 五合目など標識を設けた塚もあります
また本来は富士塚頂上からは本物の富士山が見えるように作られたものの 現在はビルなどに囲まれて直視不可能となっています しかも通常は”登山禁止”の富士塚も多く 本家の富士山の山開きと同日の7月1日と他のもう1日の 年間2回だけ解禁とする所が多いようです
「江古田の富士塚」普段は柵から入られない
音羽富士塚(頂上)
「銭湯に初めて富士山が描かれたのは大正元年 東京千代田区にあった銭湯『キカイ湯』の経営者が施設を増築する際 「子どもたちに喜んで湯船に入ってほしい」と浴室の壁にペンキで絵を描くことを発案して 川越広四郎という画家に依頼したところ 彼が 故郷の富士山を描いたのがはじまりで これが評判になり 真似をする銭湯が続出して広まりました」(「」内は日本銭湯文化協会談を載せた「ライブドアニュース」http://news.livedoor.com/article/detail/11022269/より引用)
唐破風の銭湯「明神湯」(東京都・大田区)
・大阪では 温泉でなくても「〇〇温泉」と称した銭湯が多くありましたが 東京では それはありません
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