ヒヨドリ(wikipediaより引用)
ムクドリ(wikipediaより引用)
昨年に東京の東武デパートで盆栽展をやっていたのをたまたま観たのですが 定番の松や楓などの他にピラカンサの盆栽も多く展示されていました
アケビがなっている様子
食べごろの我が家のアケビ
そして 坪田譲治は豊島区・西池袋(ここも旧高田)に住みながら「赤い鳥」に「河童の話」という童話を寄稿しています 坪田は小川未明と浜田広介らとともに「戦後童話界の三大御所」の一人となりました なお坪田を鈴木三重吉に紹介したのは・・池袋モンパルナスの童画画家の深澤省三でした
同じ1912(明治45)年に「成蹊実務学校」が開校 後年に中学校 小学校なども開校 後に成蹊大学(現在地:東京・吉祥寺)にまで発展 (安倍晋三首相も同大学の卒業生)
目白文化村は多くの部分が高台に在り眺めも良い高級住宅地でしたが 戦災で多くが焼失し その後は新しく「山手通り」や「新目白通り」が文化村を分断するように開通したので往時の面影は薄れましたが一部は残っています
1927(昭和2)年になるとここに西武鉄道(西武新宿線)が通るようになって便利になったこともあり 若く収入の少ない文士が多く住むようになりました
最初期の1923(大正12=関東大震災の年)には 前衛芸術家が住居を構え それに触発されてアナーキストや共産賛主義者たちが集まるようになり 遂にこの地はプロレタリア文学の牙城になりました この特異性が他の地域の文士村と違う点です
含まれるかもしれません(参考文献によって相違があります)・・丹羽文雄 中野重治 壷井繁治 壷井栄 芹沢光治良 小野十三郎 神近市子 古谷綱武・・そして住人ではないが頻繁にこの地に来訪したのが太宰治
後年林芙美子らを除き 多くの文士達は落合を去って行ったので 落合文士村は第二次大戦前には ほぼ消滅しました
小林古径 川端龍子 伊東深水らが集まって住み始め 大正12年の関東大震災後に田端などから転居してくる文士が増えて 「馬込文士村」と呼ばれるようになりました
そうそうたる人達で交流も盛んに行われましたが 1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦間近な頃に この村も急速に衰退しました
※赤いセメント瓦の屋根の木造でアトリエは直射日光の影響を受けない北側の大きな窓と屋根からの明り取りの定番スタイルが多く15畳と広いが 居住部は3~4.5畳に小さな台所と便所付きの独身者向けが大半を占めました
世に芥川の「河童忌」 太宰の「黄桃忌」 織田作之助の「善哉忌」 正岡子規の「獺祭(だっさい)忌」など文学忌という”文人の命日”に当たるものがありますが・・小熊の命日11月20日は「長長忌(じゃんじゃんき)」と言うそうです これは彼の長編詩「長長秋夜」に由来していて 「ジャンジャンチュウヤ」読み・・実は朝鮮語で”長い長い秋の夜”という意味とのこと