徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2019年01月

    先日のNHKテレビで植物学者「牧野富太郎」博士と奥様の話が放送されたようですが 私は見逃してしまいました ・・というわけで今回は植物のちょっとしたしたことを・・

    ◎ピラカンサ
    我が家の垣根の一部には「ピラカンサ」を植えていますが 毎年冬には直径6ミリくらいの真っ赤な実をびっしりつけます 
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     昨年12月のピラカンサ
    この実は青いうちは毒があるそうで それを知っている鳥は これが熟すのを待ってやってきます ウチは「ヒヨドリ」と「ムクドリ」が毎年やってきては「ビービー」「ヒヨヒヨ」などと 決してきれいではない鳴き声をあげながら約1か月半から2か月かけて食い尽くしますが 実を食い散らかすわ
    紺色や茶色の糞はするわで こっちとしては掃除が毎日必要になりますイメージ 10
            これからピラカンサを狙おうと集合した?ムクドリ約40羽
     
    たちは 実を毎年12月初頭から食べ始めますが 面白いことに食べ尽くしきる時期が年によって違い 早い年は元日にキレイに実が無くなったことがありますが 今年は1月21日に無くなりました
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    2019年1月21日のピラカンサ
     
    鳥の種類を多くは知らない私なので 最初はヒヨドリもムクドリも知らず ネットで調べてやっと特徴を覚えた次第です ヒヨドリはムクドリよりやや大きく 頭には後ろ向きにボサボサの毛があり ムクドリはくちばしと脚が黄色いのが特徴
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    ヒヨドリ(wikipediaより引用) 
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    ムクドリ(wikipediaより引用)
     
    ピラカンサは非常に生命力が強くて 鳥が食べこぼした実がアスファルト道路面などのちょっとしたヒビに落ちても簡単にヒョイヒョイ生えてきて成長も早いものです 
    昨年に東京の東武デパートで盆栽展をやっていたのをたまたま観たのですが 定番の松や楓などの他にピラカンサの盆栽も多く展示されていました
     
    ◎オハツキイチョウ
    季節はずれのイチョウ・銀杏についてですが・・
    イチョウは「生きた化石」と呼ばれるほど大昔 2億年前には地球上に広く分布していたので アジア 欧州 北米から化石が出ているそうです イチョウの葉には認知症改善成分が含まれるということで欧州では早くから薬となってきましたが 日本でも最近になってやっとサプリメントとして市販されるようになってきました
     
    さて普通 銀杏の実は葉の付け根に数個付いてできますが
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    ごく稀に 実が葉っぱの先の方にくっついてできるイチョウの木があります それは「オハツキイチョウ」と呼ばれています その数は当然少なく 日本中でわずか20本と言われています 茨城県 山梨県 奈良県 新潟県などで見つかっていますが 私が実際に見て実も拾ったのは 今から40年も前に
    兵庫県加西市殿原という場所の「オハツキイチョウ」でした だいたい実全体の数の1割くらいがお葉付きでした 当時その写真を撮らなかったのが残念ですが 現物は今も持っています それが下の画像です 実がひからびてしまっていますが 葉に実が付いているのはお分かりでしょう
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     「オハツキイチョウ」というカタチは“胞子を葉の上に付けるシダ類と同様に 種子を葉の上に付ける状態であり これは いわゆる「先祖帰り」を表す貴重な例である“ と言われています
     
    ◎アケビの実の甘さに勝るもの無し!?
    里山に近い我が家は 雑木林に生えていたアケビ(調べたらミツバアケビ)を自宅庭に植えて30年あまり 毎年秋には実がいくつもなるものの 実は今まであまり食べなかったのですが昨年は大量にできたので あらためて食べてみたところ なんとその甘さは・・私が今まで生きてきた中でこれより甘い果物は食べたことがない!・・というほどの甘さ それも純粋に甘さだけで酸味など他の味は全くないことに気が付きました 
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    アケビがなっている様子
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    食べごろの我が家のアケビ
    ご存知の方も多いでしょうが 残念なことに通常は実の中の無数の種の周りについているわずかな部分だけを味わうのですが山形県では実の外側の肉厚部分も食べるとテレビで報じていました 
     ・・・・・・・・・・・・・

    ◎童話・童謡の発信「児童文化運動」発祥地であった豊島区
    (文中敬称略します)
    1918(大正7)年に現在の豊島区・目白(旧 高田)の地で鈴木三重吉により児童向け雑誌「赤い鳥」が創刊されました 三重吉のモットーは・・「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して 子供の純性を保全開発する」というもので芸術性の高い童話や童謡を子供たちに提供しました
     
    これに創刊時から参加した北原白秋は童謡歌詞「からたちの花」や「この道」を発表し その他 芥川龍之介は童話「蜘蛛の糸」を 新美南吉は童話「ごん狐」を 西条八十は童謡歌詞「かなりや」を それぞれ誌上で発表しました
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    「赤い鳥」第一号

    そして 坪田譲治豊島区・西池袋(ここも旧高田)に住みながら「赤い鳥」に「河童の話」という童話を寄稿しています 坪田は小川未明と浜田広介らとともに「戦後童話界の三大御所」一人となりました なお坪田を鈴木三重吉に紹介したのは・・池袋モンパルナスの童画画家の深澤省三でした

     
    「赤い鳥」に続いて同様な雑誌「おとぎの世界」「金の船」「童話」が創刊されて 童話・童謡・童画など「童心主義」とも称される清新な内容とスタイルを採用しました
    この子供のための文化推進をした動きを「児童文化運動」と称しましたが それは東京の豊島区から生まれたものでした
     
    ◎「自由教育運動」の発祥地でもあった豊島区
    一方 ”公立学校の画一的で個性の芽を摘み取るような教育に反対して 子供の自由を教育の基本理念にした私学校が続々と豊島区に現れました

    1912(明治45)年に「帝国小学校」が開校

    同じ1912(明治45)年に「成蹊実務学校」が開校 後年に中学校 小学校なども開校 後に成蹊大学(現在地:東京・吉祥寺)にまで発展  (安倍晋三首相も同大学の卒業生)

     1921(大正10)年 羽仁吉一/羽仁もと子夫妻により「自由学園」開校※
    1924(大正13)年 「池袋児童の村 小学校」開校・・と続きました
     
    ※羽仁夫妻は現在も続く婦人雑誌出版の「婦人之友社」をつくりましたが 児童向け雑誌の「子供之友」も出版して坪田譲治の童話も同誌に掲載されました つまり児童文化運動と自由教育運動が結びつくかたちになっていたわけです 
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    ↑東京都豊島区池袋の東京芸術劇場の近くに在る「成蹊学園発祥の地」の碑 右の石板には成蹊の由来となった中国の古い諺 「桃李不言 下自成蹊」※の文字が 創立者の中村春二による書で刻まれています   ※成蹊学園のホームページによると その書き下し文は・・「桃李(とうり)ものいはざれども 下 おのづから蹊(こみち)を成す」と なっています   俳優の松坂桃李の名前はこの諺が由来と公言しています
     
    ◎大正時代から漫画家が住み 集っていた豊島区
    1920(大正9)年に子供向け漫画を描いた山田みのるは晩年には豊島区・要町に居住 岡本一平(漫画家で岡本太郎の父)の弟子の宮尾しげるも豊島区・巣鴨に住んで 本格的に子供漫画を開拓 初山滋は大正期から豊島区・長崎に住んで 童画や4コママンガを描いていました
     
    現豊島区南長崎ではトキワ荘が在った地点から200メートルと離れていない所に1934(昭和9)年まで「プロレタリア美術研究所」があり(黒澤明も通ったそうです) そこではマンガの講座もあったので 所属メンバーにはマンガ本を出版した者がいて それが吉賀たかしで 彼が小熊秀雄に児童漫画の
    出版社「中村書店」を紹介して 小熊はそこの編集顧問をしながら(以前のブログで紹介したマンガ)「火星探検」の原作を書きました
     
    「プロレタリア美術研究所」の消滅後も同所出身者たちはマンガのレベル向上に貢献しました
     
    ◎紙芝居は山の手随一の繁盛地であった豊島区
    豊島区立中央図書館発行の広報紙「図書館通信」に浅岡靖央(白百合女子大学教授)寄稿された文章によれば・・
    『1929(昭和4)年に起きた世界大恐慌が波及した日本でも大量派生した失業者が飛びついた職業の一つが紙芝居屋であった 1930(昭和5)年には 紙芝居最大のヒット作「黄金バット」が東京・台東区で生まれて紙芝居屋は大繁盛した 
    街角のあちこちで紙芝居を見せながら駄菓子を売り歩く紙芝居屋は その紙芝居を有料で貸し出す貸元に所属していたが その貸元の所在地のほとんどは 荒川区 台東区 墨田区などの下町であったが 
    豊島区にも貸元が一つ存在していた 紙芝居屋の人数も最も多い荒川区の93人に対して豊島区も32人いた つまり豊島区は山の手では唯一 街頭紙芝居の盛んな地域であり それだけの営業を可能にする 庶民的子供とその親が大勢いたということになる 』  (一部意訳)
     
    私も豊島区育ちですから 昭和20年代後半から30年代中頃まで 近所に来る紙芝居屋さんをよく見かけました 紙芝居そのものは殆ど見ませんでしたが  紙芝居を始める前に 子供たちにそのおじさんが来たことを知らせるために自ら近所を回り歩きながら鳴らす太鼓または拍子木の音が頻繁に聞こえていました
     
    ◎こうしてマンガ人の梁山泊トキワ荘へとつながりました
    これまでみてきましたように 豊島区には児童・少年少女の文化向上や自由と個性育成をめざした 児童文学者 童画家 漫画家たちが存在し また新しい組織・学校が多く生まれました 
    これらが成り立つためには それを
    受け入れる土地柄つまり そこに暮らす人々の文化・気風が合っていたからでしょう 豊島区に住む庶民たちは特に子供達向けの自由で新しい文化に寛容であり 戦後の日本中で「マンガ雑誌は悪書」とされて追放運動まで起こっていても  マンガや紙芝居などに総じて
    拒否反応を示さなかったようです
     
    こうして豊島区が後に漫画の聖地と呼ばれるトキワ荘を生み出すことにつながるのですが その最大の牽引力となったのが 言うまでもなく手塚治虫
    手塚がトキワ荘に入る事になった理由は・・1951年に当時の児童マンガの巨匠である島田啓三(「冒険だん吉」作者)会長とする「東京児童漫画会」が結成されて入会した手塚治虫 馬場のぼる 福井英一の三人は「児童漫画界の三羽ガラス」とよばれていたが 
    島田啓三が練馬区桜台に 馬場のぼるが同じく練馬区練馬に住んでいて また前出の初山滋は豊島区長崎に居たというように 西武池袋線沿線にマンガ家が多く住んでいたので 手塚はその近くに住むことを希望していたところ 同じ沿線で近い豊島区椎名町(現南長崎)に建てられて間もないトキワ荘に先に入居していた加藤宏泰※に勧誘されて1953(昭和28)年に入居したのです
     
    ※加藤は有名なマンガ雑誌「漫画少年」を出版する学童社の編集者で 手塚は同誌で掲載のジャングル大帝を執筆しながら 同誌が設けていた「読者による漫画投稿」の審査もしていたので 同じところに居住すれば互いに便利だったわけです
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      「漫画少年」投稿欄入賞記念メダル
     
    学童社側の思惑として 同様に当時自社の雑誌に執筆中の他のマンガ家たちも入居させたので ある者が製作時間的に窮地に陥れば 他の者が手助けするなど互助体制がうまく機能していました
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    手塚のすぐ後に寺田ヒロオが入居したが その10か月後に手塚が同じ豊島区の雑司ヶ谷の「並木アパート」に転居した後は 寺田がマンガ家住人たちのリーダー格となり 以後は 入居資格基準を設けて
    人選したので トキワ荘のマンガ家たちは優秀で 後にほとんどが「大先生」になりました
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    寺田ヒロオのヒット作 「スポーツマン金太郎」

    (その後のトキワ荘関連は 以前のブログで綴りました)
     
    「トキワ荘の夏」という演劇(竹内一郎 作・演出)は2010年以降に何回か公演され 2012年には頼 三四郎(故加藤剛の次男=俳優座)出演しました
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    劇シーン
     
    近年は豊島区・池袋は秋葉原や中野ブロードウェイと並んでアニメファンの集う街ともなりましたが 池袋には「乙女ロード」よばれる地域も登場しています ここでは自らアニメキャラのコスチューム着用して楽しんでいる女性が圧倒的に多く  対する秋葉原で見かけるコスチュームは この街に多数存在するメイドカフェの類のものがほとんどで そのお客となる「萌え」る男性が多いのも異なるところです
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    ↑マップ中央やや右下のピンクハートが10個「く」の字に曲がっている通りが「乙女ロード」
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     池袋ハロウィンコスプレフェスの案内ページから  
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    アキバ(秋葉原)に多いコスチューム系

    先日 豊島区ではアニメがテーマの成人式が行われました
    (豊島区主催)
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    NHKニュースから
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      参考資料・雑誌
    「豊島区と童話」(宮田航平「図書館通信」2017年 寄稿文) 「豊島区とマンガ」(小出幹雄「図書館通信」2018年 寄稿文) 「マンガがいつもあった」(「東京人」2012年11月号 桐木憲一 寄稿文)
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    前回に 東京において現れては消えた芸術家と文士が寄り集まった地域三カ所紹介しましたが もう一つ追加します(文中敬称略)

    実はこの四カ所目に当たる地域が東西に細長くてかつての文人宅もばらけて存在していた様子なので 三カ所以外の「その他の注目スポット地」しようかと迷っていたのですが 大きくくくってとりあげることにしました・・というわけで今回はその第4の地域・・大まかに言って「新宿区落合」 を中心とした地域についてです

    少し詳しくは・・東京都新宿区落合(下落合/中落合/上落合/西落合) + 新宿区中井の一部  +  中野区上高田の一部=JR山手線目白駅の西側 x 西武新宿線中井駅北側=東西に約2.5キロ x 南北に約1.5キロの範囲
     
    この落合地区と中井地区併せて大正時代末期には東京府豊多摩郡落合村と称しました
     
    以下今回は少しややこしいので下のマップを参照されながらお読み下さい
    ※「落合記念館散策マップ」(公益財団法人新宿未来創造財団作成)  流用改作したものです

    マップ上部に東西に走るのが「目白通り」で これより北が豊島区  南が新宿区です
    マップ左上で目白通りと交わりその南側に東西に延びているのが「新目白通り」で 中央に南北に走るのが「山手通り」(環状6)です

    左上では現豊島区南長崎のトキワ荘(跡地)が近いことがわかりますイメージ 7
    ※以下文中で誤解と混乱を避けるために・・現在では「目白」という地名は  豊島区に属しており 上のマップで 目白通りより北側かつ山手通りの東側が 目白です

    JR山手線目白駅も豊島区に在り また「目白台」という地名は文京区に属しています

    新宿区に目白という地名はありません 但し目白通りに沿ったすぐ南側の  一帯までは「目白台地」と呼ばれて この表現は新宿区の落合側でも 使われているようです
     
    この落合地域をかつての文化傾向によって大まかに分類すれば・・「目白文化村」と「落合文士村」に分けられますが それに属さない文化人もいました
     
    ◎佐伯祐三と中村(なかむらつね)
    この二人は後述します文化村や文士村の出現以前から落合にアトリエを構えて住んだ画家です
     
    佐伯祐三:1898(明治31)年~1928(昭和3)年 佐伯はパリでの絵が有名ですが落合の絵も30枚くらい残しています 
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    佐伯祐三 「下落合風景」     「テラスの広告」
     
    中村 彝:1887(明治20)年~1924(大正13)年 新宿中村屋の相馬夫妻の援助を受けていて 同家の長女・俊子をモデルにした絵があり俊子に求婚するものの結核を理由に夫妻から反対されての失恋は有名
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    中村 彝「自画像」と 「少女」
     
    ◎「目白文化村」
    新宿区下落合の土地を 西武鉄道・西武百貨店の創業者の堤康次郎が1922(大正11)年に分譲開始 先進的インフラを採用して 電柱無し ガス 水道 下水完備 クラブハウスやテニスコートも備えて これが後に「目白第一文化村」と称しました その後 第二 第三 と続き 1985(大正14)年の「目白第四文化村」まで分譲 ※前出マップの点線囲いの数字の1~4部分が分譲範囲
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      目白文化村紹介絵葉書
                                    
    高級住宅地ゆえに購入者は医者 学者 大学教授 国会議員が多かった 例えば・・ 
    会津八一(早大教授) 安倍能成(文部大臣) 石橋湛山(首相)鎌田弥彦(中将) 信夫淳平(法学博士) 島峰徹(医博)末高信(早大教授) 関口存男(独文学者)等々 一部を除きなじみがない人が圧倒的に多いので割愛しますが 文芸関係は少なく 吉屋信子 

    ※その他 “目白文化村に住んだかは明確にはわからず しかし落合と名の付くいずれかの町に住んだ人”としてあげられるのが・・武者小路実篤 平林たい子 船橋聖一  安井曽太郎(目白にも自邸在り)   
     

    目白文化村は多くの部分が高台に在り眺めも良い高級住宅地でしたが 戦災で多くが焼失し その後は新しく「山手通り」や「新目白通り」が文化村を分断するように開通したので往時の面影は薄れましたが一部は残っています


    ◎落合文士村
    目白文化村が(住所で言うと下落合の)主に高台に造られたのに対して 「上落合」地域は 前出マップで下の方に流れる二本の川「妙正寺川」と「神田川」(あの「南こうせつとかぐや姫」にも歌われた川)が落ち合う(これが「落合」の由来)ので低地であり 自ずと住居費が安いので 初めはコミュニストたちが住み始め・・

    1927(昭和2)年になるとここに西武鉄道(西武新宿線)が通るようになって便利になったこともあり 若く収入の少ない文士が多く住むようになりました

    そこで「落合文士村」と言われるカタチができるのですが この「村」については明確な範囲が分かりづらく 前出マップの左下部分あたりを指すのでしょうか とにかく目白文化村地域よりは南西部分のようです

    最初期の1923(大正12=関東大震災の年)には 前衛芸術家が住居を構え それに触発されてアナーキストや共産賛主義者たちが集まるようになり 遂にこの地はプロレタリア文学の牙城になりました この特異性が他の地域の文士村と違う点です


    昭和初期にはプロレタリア文士の定住者が出始めて最盛期の1932 (昭和7)年時点での居住者は70人にのぼりました しかし同年から 政府による思想弾圧が厳しくなり 1933(昭和8)年には 急速に衰退しました 代わって尾崎一雄らの非プロレタリア系の新興作家(いわゆる芸術派)たちが住むようになりました

    この事態が起こる少し前の1930(昭和5)年に 林芙美子がこの地で 先ず借家住まいを始めます その後落合の中で転居を繰り返して 最終的には文士村の中では例外的な高台へ向かう傾斜地に立派な終の棲家を建てて終生住みました 同じ落合に住んだ吉屋信子は最終的には鎌倉に移住しましたが 芙美子はよほど落合が気に入ったのでしょう 
    過去の苦労の生活と国内外を見聞した経験をふまえて 家の設計にあたっては 腕利きの大工さんを伴って京都にまで行って建築の研究までしたという有名な逸話があります
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    林芙美子
    その後 尾崎一雄壇一雄(小説家・女優の壇ふみの父)が現西武新宿線の「中井駅」南西約300メートルに在った二軒長屋に入居しましたが この長屋が数棟あるこの一帯を尾崎は「なめくじ横丁」と称したのは この一帯が低地でじめじめしているためのナメクジの多さを表しているのでしょう
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    壇一雄
    その他 文士村の有名文士たちは・・(下記の人名には 落合文士村以外の「落合」領域に住んだ人が

    含まれるかもしれません(参考文献によって相違があります)・・丹羽文雄 中野重治 壷井繁治 壷井栄 芹沢光治良 小野十三郎 神近市子 古谷綱武・・そして住人ではないが頻繁にこの地に来訪したのが太宰治


    後年林芙美子らを除き 多くの文士達は落合を去って行ったので 落合文士村は第二次大戦前には ほぼ消滅しました


    ◎「アビラ村」別名「芸術村」は村人一人で終わった
    旧落合の一部だが現在は中井となっている地には南北に走る坂が多数在り 「一の坂」から「八の坂」までの名前がついていますが 1923(大正12)年ころに画家の金山平三が「二の坂」を上った丘の上に芸術家の村 その名も「アビラ村」の建設を構想した アビラとはスペインの首都マドリッドの西北約100キロに位置する小さな村の名で「二の坂」の上あたりはアビラに似ていたのが由来

    賛同者を募った結果 北村西望 満谷國四郎 南薫造 金子保 新海竹太郎らが集まり 皆で土地購入した しかし購入直後に関東大震災がおきて 丘の上の土地に危険を感じたのか 建物を作ったのは金山だけに終わった

    ※林芙美子の最後の邸宅(現 林芙美子記念館)はここの「四の坂」の脇にあります

    ◎その他 落合居住人と越境往来人とエピソード
    先掲のマップでも分かりますが新宿区の落合地区と豊島区の目白と南長崎は目白通りを境に隣接しているので当然のように人も文化も相互交流がありました

    赤塚不二夫:豊島区南長崎のトキワ荘を離れた後に新宿区中落合に住みましたがトキワ荘から直線距離で800メートルの近さでした 現在は「フジオプロ」事務所になっています

    九条武子 :1887(明治20)年~1928(昭和3)年 「大正三美人」の一人 ※他の二人は柳原白蓮と江木 欣々(えぎ きんきん 1877=明治10年~1930=昭和5年)
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    白蓮の娘である宮崎蕗苳(ふき)は白蓮も居た豊島区西池袋の家に住んでいますが「九条武子さんや村岡花子さんは よくいらしてました」・・と述懐しています 実は白蓮宅は武子が住んでいた下落合から歩いても15分くらいで行き来できたのでした

    諸橋轍次(もろはしてつじ 1883=明治16年~1982=昭和57年) 西落合に住んだ 有名な『大漢和辞典』を編纂した漢学博士 文化勲章受章者 三男の諸橋晋六は三菱商事社長 会長 特別顧問にまでなった人だが 轍次氏宅のすぐ近所の豊島区南長崎に住んでいましたから親子互いの行き来は楽にできたでしょう ※
    私の弟が晋六の息子さんと小学校で同級だったので諸橋家の情報は時々聞いていました
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    本田宗一郎:ホンダ創業者は西落合に住んでいましたが すぐ近くの豊島区南長崎の有名な鰻料理の店「鰻屋(うなぎや)」を贔屓にしていたこともよく知られ  現在は本田氏の息子さんが通われていると先日のテレビが伝えていました 残念ながら私は 店前を時々通るのですが入店したことありません
    (西武池袋線「東長崎」下車徒歩4分 又は大江戸線「落合南長崎」下車徒歩10分
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    写真は「ロケットニュース24」https://rocketnews24.com/2014/06/03/448295/より引用「鰻屋 

    篠沢秀夫 :仏文学者 学習院大学名誉教授 過去にテレビのクイズ番組の迷・珍解答で人気でした 落合に住んでいたので お元気な頃は自転車に乗って目白界隈や豊島区南長崎の方まで来られていました その後 筋萎縮性側索硬化症(ALS)という 手足その他の筋肉を動かせなくなる難病を患い2017年に逝去されました  闘病には奥様や娘さんたちも動作介助しましたが それだけでは まにあわずに介助ヘルパーさんも参加しました 私はそのヘルパーさんの一人を知っていますが その人から聞いた話では・・闘病中でも篠沢教授は講演依頼があれば積極的に受けていたので ある時は教授を介助しながら名古屋の会場までなんとタクシーで往復したこともあったそうです
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    江森盛彌 :プロレタリア詩人 以前に私のブログで紹介した“与謝野晶子の妹のである尾崎栄里子(旧姓江森)“の父で 1935(昭和10)年頃に落合寄りの東中野付近に住んでいた これは明らかに(当時既に退潮だったとは言え)かつてプロレタリア文士の集まった地域を意識しての居住地選択

    盛彌は少年時代に住んでいた鎌倉で 既に名のあるアナーキストから話を聴いたり 鎌倉に移住してきた大杉栄が伊藤野枝との間にもうけた「魔子」を連れて盛彌は栄と一緒に海岸を散歩した・・このような環境から 向かうは左派運動と左派文学

    左派の詩誌に寄稿したり 仲間と社会風刺雑誌を発刊したりした同時期に小熊秀雄(←これも前回のブログで紹介した) 中野重治  村山知義ら左派詩人や芸術家と一緒に「サンチョクラブ」と称する
    団体を立ち上げた 

    江森が後に追想した文章の中に“小熊秀雄が池袋モンパルナスの方から新宿区の落合まで越境してきて交流した”ことを次のように書いています
     
    『そのころ(1935=昭和10年~1940=昭和15年) 国電の東中野の周辺には当時の国家からすると要注意人物が大勢住んでいた 彼らは皆 奥さん子供を含めて家族ぐるみの交流をしていた 
    私の家からは 詩人の壷井繁治(妻の壷井栄はまだ小説は書いていなかった)中野重治 宮本百合子 戸板潤 村山知義らの家が近かった 詩人小熊秀雄は池袋のほうから 一里以上もの道を その細長い顔を空のほうへななめに向けながらブラブラと歩いてちょいちょいやってきた(散歩のためと また電車賃がないせいでもあった

    この地域の住人は 特高に しつこく監視されながら 狭い土地でウロウロとくらしていて みんなふだんは和服をきていたが いつも洋服ばかりきていたのは 西洋の浮浪者みたいな小熊秀雄だけだった』尾崎俊二 著「語りあう日々――尾崎栄里子を思う」より抜粋一部意訳

     尾崎一雄の小説には“小熊が「なめくじ横丁」にも来ていた”という記述があります
     
    その他 山本寛斎 ジョージ秋山(漫画家) 泉麻人なども落合住人です また かつて李香蘭(山口叔子) も住んでいました
      ・・・・・・・・・・・・
    次回は 「トキワ荘を生んだ豊島区の文化的土壌」の予定です

    東京には明治30年代から大正・昭和にかけて 芸術家あるいは文筆家が寄り集まって住んだ地域がいくつか出現しては消えています 
    大きな所では・・北区 大田区にそして トキワ荘が在った豊島区にもそのような地域がありました
    これらを年代順にあげてみますと・・
    ◎「田端文士村」
    現在の北区・田端の地域には明治30年代後半から陶芸家や画家が住み始め 大正初年当時はさながら芸術家村のようでしたが その後に・・芥川龍之介を最初として次々に文筆家が入村して 数で芸術家たちを超えたので・・「田端文士村」と呼ばれるようになりました そこに住んだ有名人は30数人・・例えば・・板谷波山(入村芸術家第1号・陶芸家)  芥川龍之介 室生犀星 萩原朔太郎 中野重治 堀辰雄 菊地寛 佐多稲子 小林秀雄 土屋文明 平塚らいてう 岩田専太郎 高見沢路直(田河水泡)
    北村西望(彫刻家 長崎県の平和記念像の作者)・・ 
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    平和記念像
    そこに芸術家のパトロンだった鹿島組(現 鹿島建設)の創業家2代目の鹿島龍蔵も住みました
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    ↑↓近藤富枝 著「田端文士村」より引用
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    国鉄(JR)田端駅の南側約1000mX700mの範囲に集中居住(赤字が文士・芸術家邸) 芥川邸は田端駅のすぐ近くでした 
     
    立地としては・・田端は明治時代末期でも一面畑の緑が多かったこと 
    坂が多く風情ある眺めが得られたこと 
    蛍飛び交う藍染川も流れていたこと
    上野の美術学校(現 東京藝術大学)も近かったこと
    など条件が良かったのです
     
    中心的存在の芥川をはじめ各人は相互にインスパイアされて 創作活動に励みました
    居住人同士の交流も盛んで 中にはテニスコート2面備えてクラブハウスまで設けたグループもありました
     
    しかし大正12年9月1日に関東大震災があり 焼け出された下町の人たちが高台の日暮里や田端に逃れてきてそのまま居をかまえる人も多く 以後急速に人口が激増して それまでの田端の雰囲気が失せたことで 文士たちの転居が進み さらに昭和2年7月に田端文士村の求心的存在だった芥川が自死して 文士村は崩壊に向かい・・
    萩原朔太郎は1925(大正14)年に 鎌倉へ移り更に1年後に現在の大田区馬込に移り 続いて室生は1928(昭和3)年に大森谷中という馬込の近くの地に移り・・田端文士村は消えました
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    近藤富枝 著「田端文士村」全268ページ

    ◎「馬込文士村」
    現在の大田区・馬込 山王 中央の地域(現 地下鉄馬込駅の南東部の約2.5キロ四方)は 東京の都心から離れた別荘地として開かれたので 大正10年頃 やはり田端と同様に最初は画家など芸術家・・

    小林古径 川端龍子 伊東深水らが集まって住み始め 大正12年の関東大震災後に田端などから転居してくる文士が増えて 「馬込文士村」と呼ばれるようになりましたイメージ 4


    左上が馬込駅 右端近くが大森駅 青丸青字が文士・芸術家邸:大田区馬込特別出張所作成物から引用
     
    その住人メンバーはざっとあげても40人以上・・例えば・・
    石坂洋次郎 尾崎士郎 川端康成 倉田百三 佐多稲子 萩原朔太郎 藤浦洸(詩人 美空ひばりの「悲しき口笛」作詞も) 稲垣足穂 川端龍子 三島由紀夫 吉屋信子 川瀬巴水 北原白秋 小林古径 高見順 三好達治 山本周五郎 和辻哲郎 宇野千代 子母澤寛 室生犀星 山本有三 伊東深水 村岡花子(NHKドラマ「花子とアン」のモデル)・・
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    藤浦洸 
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    村岡花子(東洋英和女学院HPより)
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    宇野千代(同氏HPより)
     

    そうそうたる人達で交流も盛んに行われましたが 1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦間近な頃に この村も急速に衰退しました

     
    ◎「池袋モンパルナス」
    まず1910年代(大正時代初期)に上野の東京美術学校(現 東京藝術大学)学生達が豊島区・池袋に住み始めました 池袋は家賃が安く上野にも近い利点があったからです
    それが1923(大正12)年の関東大震災以後 同じ豊島区でも池袋の西側に隣接する地域への画家など芸術家の移住者が増え 1930年代になると若き芸術家向けの「培風寮(ばいふうりょう)」というアパートのようなものが現在の要町に登場して 以後 アトリエ付き貸家※がまとまって建つ地域が
    やはり池袋西側に隣接する千早や長崎に そしてまた一部は隣の板橋区にと 計5カ所出現しました


    ※赤いセメント瓦の屋根の木造でアトリエは直射日光の影響を受けない北側の大きな窓と屋根からの明り取りの定番スタイルが多く15畳と広いが 居住部は3~4.5畳に小さな台所と便所付きの独身者向けが大半を占めました
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        齋藤求 「パルテノンへの道」  (北側の窓と明り取り付き屋根のアトリエ群)
     
    それらは地域ごとに愛称がついて・・「すずめが丘アトリエ村」(約20軒) 「さくらが丘パルテノン」(約60軒) 「つつじが丘アトリエ村」 「みどりが丘アトリエ村」 「ひかりが丘アトリエ村」
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    国鉄池袋駅西側と武蔵野線(現 西武池袋線)椎名町駅北側地域にアトリエ村
     
    それぞれは池袋から徒歩10~20分圏内なので そこの住人たちは池袋で映画を観たり 喫茶店で芸術論をたたかわせたりしたそうです 大きな作品は荷車に積んで上野の美術館まで運べました
     
    小熊秀雄(詩人 画家)アトリエ村には住まなかったものの 池袋 長崎 千早などに住み アトリエ村の芸術家たちとは広く交流して この地域をまとめて「池袋モンパルナス」と命名しました
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    この地域に定住した芸術家は少ないのですが若き日にこのアトリエ村に住み または 住人ではないもののここに足繁く訪れ 互いに切磋琢磨して この地で あるいはここを出た後に有名になった人たちは・・
    ・靉光(あいみつ):日本のシュルレアリズムの先駆者 
    ・長谷川利行:漂泊の画家 日本のゴッホ アトリエ村へ頻繁来訪
    ・丸木位里(まるきいり)・丸木俊(まるきとし)夫妻:1941(昭和16)から住み始め 1945(昭和20)年に広島へ転居した後 1950(昭和25年から 有名な「原爆の図」連を夫婦共同で連作開始
    ・長沢節::ファッションイラスト学校の「セツモードセミナー」の経営で有名で  卒業生には・・
      
    花井幸子 金子功 穂積和夫(IVYファッションのイラストで有名)
    ・熊谷守一(くまがいもりかず):極端に単純化した画風に到達した画家
          1932(昭和7)年からこの地域の中の千早に自宅を構えて97才まで 終生住み     モンパルナス芸術家たちの理解者だった 現在 自宅は「熊谷守一美術館」になっています
    ・寺田政明:画家で この地域の芸術家たちの面倒をみて兄貴分的存在で 前出の小熊秀雄の絵の師でもありました ご子息は俳優の寺田農(てらだみのり) 
    ・高山良策:画家だが円谷プロの特撮用の怪獣(ガラモン レッドキングなど)の製作者として有名

    イメージ 11←丸木夫妻
     原爆の図↓
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    寺田政明の絵「発芽A
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    田政明の息子:寺田農  (有名人データベースPASONICA JPNより引用)
    イメージ 15 ガラモン

    芸術家たちは戦争近くなると 特に前衛的画家などは警察の監視が厳しくなったり ある者は徴兵で去り 戦争中はアトリエ住宅も多くが焼失した上に 終戦直後の社会は食べるだけでも大変なのに芸術どころではない状態なので 池袋モンパルナス一帯は衰退していきました
     
    ◎小熊秀雄と手塚治虫の関係
    前述しましたが 小熊は「池袋モンパルナス」の名付け親  
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    小熊秀雄↑ (常にこのような頭髪スタイルでした)                                 
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    小熊秀雄「夕陽の立教大学」
    1901(明治34)年 北海道小樽生まれ1928(昭和3)年に上京して 池袋近辺を転々とした プロレタリア詩人 童話作家 画家ですが 最晩年はマンガの原作者でもありました そのマンガ原作の最初が「火星探検」で・・小熊のペンネーム旭太郎作 大城のぼる画 となって出版されました この「火星探検」というマンガは手塚治虫が描くSFマンガの原点となりました
    小熊が1940(昭和15)年に39才で亡くなった時 手塚は12才でしたが 小熊の原作が手塚少年の心に深くつながっていたのです 
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            火星探検の表紙

    小熊のその他の原作は続いて5編あり それぞれが科学や世界地理に関する内容を含んだ知的レベルの高いもので 当時の児童マンガとは一線を画すものでした・・この点が 後に医学博士号を持つまでに
    なった手塚の知的
    マインドを共振させたのでしょう
     

    世に芥川の「河童忌」 太宰の「黄桃忌」 織田作之助の「善哉忌」 正岡子規の「獺祭(だっさい)忌」など文学忌という文人の命日に当たるものがありますが・・小熊の命日11月20日は「長長忌(じゃんじゃんき)」と言うそうです これは彼の長編詩「長長秋夜」に由来していて 「ジャンジャンチュウヤ」読み・・実は朝鮮語で長い長い秋の夜”という意味とのこと

     
    ※ここでちょっとお話がそれますが・・「獺祭」と言う言葉は 山口県の旭酒造が作る日本酒で「獺祭」という銘柄が近年 人気最高位にありますから 私もそれで知ったのですが・・さて「獺祭」のそもそもの意味が分からないので 調べましたら・・
    「獺祭」・・元々の意味は 《「礼記」月令から》獺(カワウソ)が自分の獲った魚を並べることで これがあたかも 人が物を供えて先祖をるのに似ているところから出た言葉で それを念頭に置いて 唐の詩人李商隠が 文章を作る際に多数の書物を座の周囲に置いて参照して 自ら「獺祭魚」と号したので・・多くの書籍を自分の周囲に広げて 思索し詩文を作ること獺祭」と称するようになり 正岡子規も自らをそれになぞらえて「獺祭書屋主人」と称しました
     旭酒造の説明では・・この会社が在る獺越(おそごえ) という地の名の由来は「川上村に古い獺がいて 子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれており この地名から「獺」の一字をとるとともに   明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が獺祭書屋主人」と号したことに因んで「酒造りは夢創り拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに 伝統とか手造りという言葉に安住することなく 変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする思いで「獺祭」と命名したそうです
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    今回こうしてみますと 田端文士村と馬込文士村は既に有名になっていた作家たちが寄り集まって形成された地域ですが 池袋パルテノンは まだ無名の芸術家がほとんどの 寄合いでの形成という相違がありますが いずれも関東大震災や大戦が盛衰に関係していることがわかります 
    しかし池袋パルテノンの小熊秀雄がマンガに関与した例ばかりでなく 東京・豊島区地域はその後のトキワ荘に続くマンガ文化の醸成のための素地があったのですが それについては次回に続けます
     
    参考書籍・資料
    ・田端文士村(近藤富枝 著)
    ・図書館通信:豊島区とマンガ(小出幹雄 著)
    ・池袋・椎名町・目白 アトリエ村散策マップ(豊島区文化商工部 作成)
     
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