◎男ばかりのトキワ荘の中で・・(文中敬称略します)
トキワ荘は1952(昭和27)年から1982(昭和57)年まで存在したアパートで 二階部分の賃貸部屋10室は全て四畳半に押し入れ付きで 共同調理場と共同トイレがありました
共同調理場には広く長い「流し台」(今で言う「シンク」)があって 蛇口は3つ付いていたが 赤塚不二夫はそれを全部開いて水を張り 「流し台」でしょっちゅう行水をしていたそうで ある晩に行水しているところを石ノ森に見つかりましたが とがめるどころか 一緒になって行水をしたこともあったと語っています
そういう行為は トキワ荘の住人が殆ど男性マンガ家(最多時8人)ばかりだったこと そして住人ではないものの ここに入り浸りの男性マンガ家たちの いわゆる「通い組」も多く なかでも つのだじろう(作品:カラテ馬鹿一代 5五の龍 など)は隣の新宿区から (本人曰く)"1年に366日"スクーターに
乗って通ったそうですが・・このような"男だらけの環境"なのでできたのでしょう
そんな中で このトキワ荘に住んだ女性が数名いました (1階に入居の普通の家族の奥さんたちについてはここでは触れられませんが・・2階のマンガ家たちが夜遅く集まって騒いでいると下の部屋の奥さんが箒の柄か何かで天井を突いて文句を言っていたそうです)
◎水野英子(みずのひでこ):女性マンガ家の先達
1939(昭和14)年 山口県下関生まれ
小学5年生時からマンガを描き始め 15才で雑誌掲載デビュー 日本の少女マンガ家の草分けであり
また少女マンガに男女の恋愛題材を初めて取り込んだパイオニアであり 後の竹宮恵子 萩尾望都などの少女マンガ家に多大な影響を与えたので「女の手塚」とも言われる (作品:星のたてごと ファイヤーなど)
↑74才頃 (朝日新聞2013年2月12日記事写真)
↑作品「銀の花びら」のキャラクター
1958(昭和33)年3月にトキワ荘に入居して 石ノ森章太郎 赤塚不二夫との三人合作のマンガを3作ほど描いた その三人統合ペンネームは「U・マイア」
しかし入居7か月後の10月に退居・・これは前述のように トキワ荘が男だらけなことの上に共同トイレなどにも耐えられなかったことは想像に難くないことです
トキワ荘を出てから住んだのは 手塚治虫もトキワ荘から移住した町である豊島区・雑司ヶ谷でした
◎「小野寺由恵」:石森章太郎の世話した3才上の姉
章太郎が宮城県の実家の親からははマンガ家になることを反対される中で 由恵は賛成して 上京した章太郎の面倒をみるために 由恵は持病の喘息の治療にかこつけて自分も上京してトキワ荘で一緒の生活をした
「ジャガイモ」と呼ばれていた章太郎と比べて姉弟とは思えないほど由恵さんは美人で トキワ荘のマドンナだったと言われていたが 本人は藤子不二雄Aに好意をもっていることを弟の章太郎には告白していたそうです
しかし ある日 喘息の発作がひどくなり 緊急入院して直後に亡くなってしまいました 23才の誕生日の前日のことでした 生前 弟には「私の分まで好きなことをやってほしい」と言っていたそうです・・私は知らなかったのですが この姉弟の話はテレビドラマ化されて 今年2018年の日本テレビ系列の24時間テレビで放送されたそうですから ご存知の方も多いのでは・・
※小野寺由恵については・・「のんびり主婦ブログ」 https://chipipi.info/wp/onoderayosie/ より一部引用
◎赤塚リヨ:赤塚不二夫の母
夫「赤塚藤七」と共に トキワ荘に一時住んでいて 不二夫の食事や身の回りの世話をしました
当時の不二夫は「トキワ荘一の美男子」と同僚だったマンガ家たちの誰もが認めるほどで その頃の写真を見るとなるほどと言えるもので 中年以降にマスコミに登場した容姿からは考えられないほどです それゆえに東京での女性問題発生を危惧しての親心もあったのでしょう
不二夫の母は丁度その頃に向かいの部屋に住んでいた水野英子を気に入り 不二夫に彼女との結婚をしきりに勧めたそうです
因みに水野英子はその後1970年代初頭に「未婚の母」の道を選んで男児出産しています
◎遠藤景子:元NHK松山放送局初の女性局長
トキワ荘で生まれ 幼少期をここで過ごした NHKに入局して制作部門に勤務する中で 自分の生まれ育ったトキワ荘が老朽化で解体されるという情報を掴むや NHK特集『わが青春のトキワ荘』という番組制作スタッフとなった その放送は1981(昭和56)年にあったが2001(平成13)年の1月5日にも再放送されています 放送内容の中には トキワ荘解体前に元住人による”同荘会”を行った様子が含まれていて 手塚 石ノ森 藤子 赤塚などの中に紅一点の水野英子も参加していました
遠藤景子はその後2009年にNHK松山放送局長となりました これはNHKの地方キーステーションとしては初の女性局長でありました
◎レコード店「目白堂」の奥様
トキワ荘住人マンガ家でレコードをよく聴いていた赤塚不二夫 石ノ森章太郎 水野英子らはレコードを買うのは専ら トキワ荘から徒歩約15分にあるこの店だったのです
後に赤塚不二夫は「あの当時僕らの1か月の食費が3000円だったのに LPレコードが2500円もしたけれど 買って 腹をすかしながら聴いたことは 今考えると あれがイイ栄養になっていたんだと思う」・・と語っています (昭和30年のトキワ荘の家賃も3000円)
実は私もこの店をよく利用しました バスに乗ってこの店の前を通過する際には松尾和子似の美人の奥さんが店のレコードをキレイに揃えるような仕事をしている姿がよく見られました
(バスの中で立っていると目白堂の売り場が丁度良い角度で見下ろせた)
赤塚らのマンガ家たちも この奥さんの容貌と優しい対応に好印象をもっていたそうで 後年 奥さんが病気で聖母病院(この地域では有名大病院)に入院した時には・・“水野英子”と”小出幹雄(現在 としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会の広報担当)”の二人でお見舞いに行ったほどでした
松尾和子に似ていました
目白堂のEP盤レコード用ポリ袋
目白堂の30センチLP盤レコード用紙袋の裏面
残念ながら レコード衰退の流れの中で2007年の10月末に目白堂は閉店しました ネット上でも閉店を惜しむ一般の人たちからの声が多数あがりました
これが閉店間近の目白堂
写真は「SARADA BLOG」さんから引用sarada-sarada.sblo.jp/article/5743978.html
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次回もまだトキワ荘関連内容が続きます