2018年11月
林真理子、太宰治、文学賞、幸福書房
(以下文中敬称略します)
「直木賞をいただいたあと ヒットが出ない時期が長かった中で初めて挑戦した歴史小説が好評だった
※晶子と白蓮関連のNHK番組内で そのラブレターは700通以上もあり 中には一日に2通 3通も書いているものもあると紹介されました
林真理子(1954=昭和29年4月1日~)氏の受賞・受章歴は・・直木賞 1986(昭和61)年 (前年発表の『最終便に間に合えば』 『京都まで』の評価による) / 柴田錬三郎賞 1995(平成7)年 (『白蓮れんれん』の評価による) / 吉川英治文学賞 1998(平成10)年 (『みんなの秘密』の評価による) / 島清恋愛文学賞 2013(平成25)年 (『アスクレピオスの愛人』の評価による) / 紫綬褒章 今年2018(平成30)年11月3日 / レジオンドヌール勲章のシュヴァリエ※ 2011年(※フランスへの「卓越した功績」のあった者に与えるもの但しシュヴァリエは最下等級)
「有名な文学賞は芥川賞 直木賞であるが これがゴールというわけではない。作家は次のハードルに向けて頑張る。芥川賞を受賞した作家なら、野間文学賞、直木賞ならば、柴田錬三郎賞、吉川英治賞というものが待っているのだ 直木賞をいただいた私であるが ヒットが出ず それからが長くつらかった。 『それ見たことか』という声がきこえてくるような気がした。作家によっては いったん名前を知られた後はエッセイや講演 テレビ出演などで それなりに稼げる人もいて 私もそのタイプと思われていたので、なおさら努力した。そうして柴田錬三郎賞をいただいて、新聞のインタビューを受けたら、『馬に喰わせるほどある文学賞の一つを貰ったことが、そんなに嬉しいのか』とかなり皮肉られたが、それは作家の実態を知らないからだ。直木賞の後、作家は必至で書く。書いて書いて、前を走っていくグループに入らなくてはならない。そうした作家にとって、出版社が出す大きな賞はどれほど励みになるだろう」と述べています
学生時代のノート余白には芥川龍之介の名前や似顔絵を多数書きこんだ落書が残されています
出典NHKニュース/kajipon.sakura.ne.jp
芥川龍之介
芥川の1927(昭和2)年7月24日の自殺を知った太宰は 当時旧制弘前高等の学生で 相当のショックを受けて 住んでいた下宿にしばらく閉じこもっていたそうです また友人に「作家はこのようにして死ぬべし」というようなことも言っています そして太宰は最後の自死までに数回の自殺未遂までして芥川の真似をしたような行動をとります
「昔 この店をよく利用していた人」が遠くの移住先から駆けつけてくれたり 閉店日には店前の路上にまで溢れるほどの人たちが感謝の言葉を伝えに来たということで いかに素晴らしい本屋さんであったことかが分かります 例えば・・
・そして 日本中でここだけというサービスが・・『林真理子の本を買うと その本に直筆サインがもらえる』というものでした
実は林真理子は代々木上原に住んでいて 幸福書房を贔屓にしてくれていたので 「ある日 林さんにサインをお願いしたのがきっかけで 5,6年前から林さんのサイン本のサービスを始めたのです 店内の一番目立つ場所には林真理子コーナーを設けて 新刊が出るたびに全国からファンが訪れて買う「聖地」のようになり 新刊が出るたびに 遠くは関西や東北などから来店してサインを依頼する熱心なファンがいます ここから読者に届けられた林さんのサイン本は約1万冊にものぼります」・・と岩楯さんは言う 「」内は「弁護士ドットコムhttps://www.bengo4.com/internet/n_7461/」より引用
林真理子は本屋の娘だったので この幸福書房を愛していて 閉店日には来店して 集まった皆さんの前で 店主への感謝と惜別の挨拶を 涙を流しながら述べたそうです (ネット上ではその際の涙の挨拶写真も流れています)
まだ「幸福書房」の看板が・・
外から見たブックカフェ店内 中央右のダンボール箱には「一人二冊まで 無料でさし上げます」と文庫本が在中
柳原白蓮の孫と与謝野晶子の妹の孫とは高校で一緒でした(2)
(以下文中敬称略します)
そして「鳳 里」が「志知善友」と結婚して「志知 里」となり⇒ 生まれたのが「志知仁保榮」で
⇒「仁保榮」が「江森盛彌(もりや)」と結婚して⇒生まれたのが「江森榮里子」⇒「榮里子」が「尾崎俊二」と結婚して⇒「尾崎榮里子」となりました・・というわけで この「尾崎榮里子」が「与謝野晶子の妹の孫」となるわけで 晶子と“血”はつながっていることになります
しかし「尾崎榮里子」は残念ながら2012(平成24)年11月に永眠しました
私が何故に「尾崎榮里子」のことを今回の表題で ” (の妹)の孫”というような表記をしたかと言いますと 彼女の顔とカタチが与謝野晶子に非常に似ているので 直系の孫として「与謝野晶子の孫」と言ってもおかしくないほどであったというのが一つの理由です
それを表すエピソードとして・・榮里子の友人が昔 榮里子の母親である江森仁保榮から・・「榮里子が誕生したときは 晶子の生まれ変わりみたいにそっくりだったのよ」・・と聞かされたそうです
厳密に言えば榮里子は晶子ほどには面長な顔ではないのですが 目元をはじめ他は総じて似ています (全集の案内パンフから)
夫・鉄幹とともに 写真はWikipediaより引用
そしてもう一つの理由が・・バイタリティ溢れる行動をしたこと それをもって 女性の生活・地位向上を目指したというところが 似ている点です
晶子は・・
- 歌会で出会った歌人・与謝野鉄幹と不倫関係となる
- 女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行 以後世間から何と言われようと “その時々の”本音の歌を 発表した
- 鉄幹と結婚して子供を12人産み11人育てた(一人は生後二日で死亡)
- 鉄幹の収入が無い時期には超多忙・多彩な文筆仕事で家計を支えた
- 鉄幹をフランス・パリ遊学に送り出したものの 彼のいない寂しさに耐えられず 半年後に子供達を残して 一人パリへ逢いに行く それも船では50日かかるので シベリア鉄道利用して14日で行ける短縮策をとって・・
- 鉄幹及び建築家の西村伊作や画家の石井柏亭らとともに 日本最初の男女共学校である文化学院を創設
- 残した歌は5万首 『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』詩作 評論活動も多く
- 女性解放思想家として婦人参政権を唱えるなどして巨大な足跡を残した
- 外国語大学の中国語科へ進み
- 同科で知り合った尾崎俊二が同大学の学友会の執行委員長になったと同時に榮里子は副委員長になり 当時日本中の大学で学生運動が激しく展開される時期であり 学友会民主化運動やベトナム戦争反対運動 など行った
- 大学卒業半年後には尾崎俊二と結婚
- 会社員や中学校教員を務めたのち 埼玉県の生協の運営の中枢で活躍 その後医療生協 (医療・介護の事業をおこなっている生協)の理事として重要な活動をする
- ジェンダー(社会的・文化的に作り上げられている男女の相違のことで ”「男らしさ」「女らしさ」は こういうものである こうであるべき”という通念を意味するので近年はこれを是正しようということで「ジェンダーレス」や「トランスジェンダー」という表現が使われる) に対する勉強にも注力して仕事に活かした
- 日本婦人団体連合会(婦団連)に勤務して 特に婦団連の発行する「婦人通信」の編集部署では 優れた知見をもって指導的役割を果たした
- 以上の行動の間 一貫して「憲法九条」や「女性の地位」などの勉強は続けた
柳原白蓮の孫と与謝野晶子の妹の孫とは高校で一緒でした(1)
しかも私は柳原白蓮の孫である宮崎黄石とは同じクラスでしたし 与謝野晶子(の妹)の孫である江森榮里子とは小学校と中学校でも同じクラスでした (高校では別クラス)
↑展示会に行きましたが彼には会えませんでした
↑3年前の「目白新聞」掲載の顔写真です
◎柳原白蓮とは
1967(昭和42)年に死去(満81才)
大正・昭和の情熱の歌人 戦後は平和運動も行った 本名は宮崎燁子(みやざきあきこ) 大正天皇とは従妹に当たる
◎二人の「香織」
以前にブログで男女兼用の名である「香織」の男性版の例として「宮崎香織」をあげ さらにもう一人「野口香織」という私の高校で同クラスだった者をあげました(ということで野口香織と宮崎黄石と私は同じクラスだったのです)
この二人の「香織」は「白蓮の孫の宮崎黄石」にとって 一人は伯父であり もう一人は高校のクラスメート しかも同じラグビー部の仲間だったという縁があったのです
◎伊藤家と宮崎家のその後
「旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会」から出版されていますし
2017年には宮崎黄石が 「旧伊藤伝右衛門邸開館10周年記念トークイベント(座談会)」にゲストとして 伝右衛門の孫の伊藤興十郎と俳優の中村嘉津雄(1985=昭和60年にNHK銀河テレビドラマ
宮崎黄石は先述のように 曽祖父が中国の辛亥革命の孫文を支援した宮崎滔天でもあるので中国との関連も強くて 例えば・・2011年7月には 香港財界訪日団が日本経団連など各経済団体との交流の他に 熊本県荒尾市の宮崎滔天の生家を訪問しましたが その際に蒲島県知事や黄石も同席し 続いて隣接の福岡県大牟田市において九州観光推進機構・九州運輸局の主催で中国のマスコミによる黄石へのインタビューが行われました
また 蕗苳と黄石は同年10月に中国政府の招待で辛亥革命100周年記念大会に出席しました
同年12月には 辛亥革命100年記念切手が日本郵便から発行されるにあたって 蕗苳と黄石はその切手発行式に出席 その切手のデザインは宮崎蕗苳と孫文の書の文字を一緒に入れたものになりました
西池袋の宮崎邸の外塀と格子門
与謝野晶子(の妹)の孫の話へ続く⇒柳原白蓮の孫と与謝野晶子の妹の孫とは高校で一緒でした(2) :