徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2018年11月

    11月17日に 私の母が永眠しました 95才の天寿を全うしたと言えるのでしょう
     
    母は優しくて 私は子供の頃より怒られたことはありませんでしたが それは誰に対してもでした
    とにかく声を荒げて怒ることなど全く無く 人の悪口なども言いませんので 喧嘩などしませんでした
     
    親戚の女性からの弔電の中に心に響く文言が・・「あこがれの おばさまでした・・」

    晩年 骨折して椅子に座ったままなので 私たちが茶碗にお茶を注いであげたり 割り箸を割る力が無くなったので代わりにしてあげると そのたびに「ありがとう」と言って 小さく頭もさげるのでした 他人ならともかく子の私たちが行っても そのような反応を示されるので 私はその姿を見るたびに胸が熱くなりました
     
    一方 「強くなければ 優しくなれない」・・と言われるように 力はともかく 確かに芯は強い人でした 何事にも動ぜず 慌てず騒がず我慢強く・・グチも言いませんでした
     
    母は父親(私の祖父)の仕事の関係で 戦前には台湾で暮らしていましたが 終戦近くには戦火をくぐり 終戦直後に結婚 翌年に超満員の引きあげ船に乗って和歌山県田辺港に上陸した後は福岡県へそして東京へと移住 その後は(私の父)の転勤に伴って東北各地を転々として最後はまた東京に落ち着きましたが 戦争体験とその後の変化の多い生活が強さの醸成に関わっていたと思います
     
    母の母(私の祖母)は 九州は久留米藩の武士の家の生まれだったそうですから 私の母は・・「武士の娘の娘」・・だったことも少し影響しているかも知れません(NHKの朝ドラ「まんぷく」の中でよく聞くような・・)
     
    しかし「優しさ」の中だけで子供が育つとマズイことが起こるのです・・それは 学校や社会に出てから「人が怒る」ことや「人から怒られる」ことへの免疫が無いために それらの場になると非常にショックが大きくて深く落ち込むのです やはり免疫は必要でしょう・・つまり私の母も非のうちどころが無いとは言えなかったのです
     
    もう一つ 特筆に値すると思われることがあります・・これは私の父も一緒で つまり夫婦揃ってのことですが・・それは 私の両親から「おなら」の音を聞いたことも 臭いもしたことが全く無いことです 人間ですから腸内ガスは発生していたはずですが どうしてそんなことができたのか本当に不思議でした 昔 私の弟が父から「おならは したくなったらトイレでするものだ」と言われたと言っていましたから 父母ともそのように対処していたのかもしれませんが そのような品性は私には到底まねができませんでした・・変なお話で恐縮でした 
     
    追記・・野辺かほるさんの本名がわかりました・・鈴木みつ子・・でした
    ・・・・・・・・・・・・
    母死去にともなう事後処理 手続きなどで 特殊事情もありまして 長男である私がどうしても まだ動かなければならず また次のブログまでには日にちをいただきます
    ・・・・・・・・・・・・

         前回の柳原白蓮に関連して・・
    ◎林真理子の『白蓮れんれん』
    (以下文中敬称略します)
    林真理子は 現在NHKで放送中の大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』の原作者でもありますが

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    柳原白蓮の伝記小説『白蓮れんれん』も書いています(1994=平成6年から雑誌「婦人公論」連載 のち文庫化) 
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    その“白蓮の伝記”を書いた前後の状況・心境をKADOKAWA発行の「本の旅人」という文芸小冊子
    (とでも言うのでしょうか?2015年11月号)への寄稿文で次のようなことを述べています

    「直木賞をいただいたあと ヒットが出ない時期が
    長かった中で初めて挑戦した歴史小説が好評だった
    ためか伝記小説の依頼が来て 選んだ題材が柳原白蓮」でした 幸いに宮崎家から門外不出の"白蓮と龍介のラブレター”※を見せていただくなどして    書いたのが『白蓮れんれん』である うまく書けて 柴田錬三郎賞をいただいたことは大変嬉しかった その後この本は文庫で細々ではあるが売れ続けていたところ 思いがけないことが起こり NHKの朝のドラマ『花子とアン』によって柳原白蓮がスポットライトを浴びることとなった そして20年前に書いた『白蓮れんれん』文庫本は にわかにベストセラーになり この本は私を語る時に欠かせないものなった」

    ※晶子と白蓮関連のNHK番組内で そのラブレターは700通以上もあり 中には一日に2通 3通も書いているものもあると紹介されました

    その他にも林真理子は 『流転の歌人柳原白蓮 紡がれた短歌とその生涯』という本を馬場あき子 東直子 白蓮の娘である宮崎蕗 との共著(NHK出版)で2014(平成26)年に出しています

    ◎文学賞を渇望した林真理子
    林真理子(1954=昭和29年4月1日~)氏の受賞・受章歴は・・直木賞 1986(昭和61)年 (前年発表の『最終便に間に合えば』 『京都まで』の評価による) / 柴田錬三郎賞 1995(平成7)年  (『白蓮れんれん』の評価による) / 吉川英治文学賞 1998(平成10)年 (『みんなの秘密』の評価による) / 島清恋愛文学賞 2013(平成25)年 (『アスクレピオスの愛人』の評価による) / 紫綬褒章 今年2018(平成30)年11月3日 / レジオンドヌール勲章のシュヴァリエ※ 2011年(※フランスへの「卓越した功績」のあった者に与えるもの但しシュヴァリエは最下等級)
     
    このように多くの賞を授与されていますが 氏は31才の時に直木賞をもらった直後から 次なる賞の獲得を必死に目指したことを率直に公言しています 前出の「寄稿文」で・・

    「有名な文学賞は芥川賞 直木賞であるが これがゴールというわけではない。作家は次のハードルに向けて頑張る。芥川賞を受賞した作家なら、野間文学賞、直木賞ならば、柴田錬三郎賞、吉川英治賞というものが待っているのだ 直木賞をいただいた私であるが ヒットが出ず それからが長くつらかった。 『それ見たことか』という声がきこえてくるような気がした。作家によっては いったん名前を知られた後はエッセイや講演 テレビ出演などで それなりに稼げる人もいて 私もそのタイプと思われていたので、なおさら努力した。そうして柴田錬三郎賞をいただいて、新聞のインタビューを受けたら、『馬に喰わせるほどある文学賞の一つを貰ったことが、そんなに嬉しいのか』とかなり皮肉られたが、それは作家の実態を知らないからだ。直木賞の後、作家は必至で書く。書いて書いて、前を走っていくグループに入らなくてはならない。そうした作家にとって、出版社が出す大きな賞はどれほど励みになるだろう」と述べています

     
    そして今年の紫綬褒章受章直後のコメントは・・世間からちゃんと作家として認めてもらえるまで本当に時間がかかった 愚直にひたすら書いてきたことが認められて とても光栄に思います 小説を書くことが私を成長させてくれました」
     
    そして今 林真理子は直木賞をはじめ 講談社エッセイ賞 吉川英治文学賞 中央公論文芸賞 毎日出版文化賞の審査委員になっています
     
    ◎芥川賞を審査員に懇願した太宰治
    太宰 治(本名:津島修治)  (1909=明治42年6月19日-1948=昭和23年6月13日※)
     ※愛人の山崎富栄と入水心中した日は6月13日だが発見されたのは 太宰の誕生日と同じ6月19日でした
     
    太宰は学生時代から芥川に異常なほど傾倒していたことはよく知られています
    学生時代のノート余白には芥川龍之介の名前や似顔絵を多数書きこんだ落書が残されています
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    出典NHKニュース/kajipon.sakura.ne.jp
     
    また芥川の有名な写真のポーズを真似ていたこともよく知られています
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     芥川龍之介       
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    若い頃の太宰 出典takro.blog25.fc2.com

    芥川の1927(昭和2)年7月24日の自殺を知った太宰は 当時旧制弘前高等の学生で 相当のショックを受けて 住んでいた下宿にしばらく閉じこもっていたそうです また友人に「作家はこのようにして死ぬべし」というようなことも言っています そして太宰は最後の自死までに数回の自殺未遂までして芥川の真似をしたような行動とります

     
    このような芥川への心酔者である太宰にとって芥川死後に菊池寛が創設した『芥川龍之介賞』は絶対に必要なものとなりましたが その第一回選考で候補者になったものの 結果は次点で落選
     
    そこで第二回芥川賞を獲得したいがために 『当時選考委員の一人だった佐藤春夫に 受賞できるように懇願する手紙を複数送っていますが 2015(平成27)年になって4メートル超の長さの和紙の
    巻紙に毛筆で書いた手紙(1936=昭和11年1月28日付け)発見されました その文中では・・
     
    「芥川賞は、この一年、私を引きずり廻し、私の生活のほとんど全部を覆ってしまひました・・第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます。私はきっと、佳い作家に成れます。御恩は忘却いたしませぬ・・」・・ということを述べています』『』部分は朝日新聞2015年9月8日の記事より一部引用 (下の写真も)
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    しかしながら芥川賞は「過去に選考候補になった者は対象外とする」という選考規定が設けられたことで 太宰は芥川賞を貰うことはありませんでした
     
    ◎実家が本屋だった林真理子と「幸福書房」
    今年2018年2月に東京・代々木上原の駅前で40年間ひらいていた書店「幸福書房」が閉店しましたが そのニュースが複数の新聞やNHKのニュースにまでもとりあげられ また閉店予告をして以後は
    「昔 この店をよく利用
    していた人」が遠くの移住先から駆けつけてくれたり 閉店日には店前の路上にまで溢れるほどの人たちが感謝の言葉を伝えに来たということで いかに素晴らしい本屋さんであったことかが分かります 例えば・・
    ・店主の岩楯幸雄さん(68才)が弟さんと奥さんと家族経営で 8時から夜11時まで 元日除く364日営業
    ・小さな書店ながら単行本などの中身は硬いが本好きが食いつくような本を厳選して並べていた(経営採算のため雑誌販売もしたが 量的には全体の半分以下)
    ・「書棚へ置く本を通じてお客さんと会話する」と岩楯さんは言い 常連客には その人の好みに合わせた本を仕入れて並べるなど  魅力的な本棚だった

    そして 日本中でここだけというサービスが・・林真理子の本を買うと その本に直筆サインがもらえる』というものでした 
    実は林真理子は代々木上原に住んでいて 幸福書房を贔屓にしてくれていたので 「ある日 林さんにサインをお願いしたのがきっかけで 5,6年前から林さんのサイン本のサービスを始めたのです 店内の一番目立つ場所には林真理子コーナーを設けて 新刊が出るたびに全国からファンが訪れて買う「聖地」のようになり 新刊が出るたびに 遠くは関西や東北などから来店してサインを依頼する熱心なファンがいます ここから読者に届けられた林さんのサイン本は約1万冊にものぼります」・・岩楯さんは言う 「」内は「弁護士ドットコムhttps://www.bengo4.com/internet/n_7461/」より引用

     
    林真理子は本屋の娘だったので この幸福書房を愛していて 閉店日には来店して 
    集まった皆さんの前で 店主への感謝と惜別の挨拶を 涙を流しながら述べたそうです (ネット上ではその際の涙の挨拶写真も流れています)


    ◎幸福書房は南長崎でブックカフェになった
    代々木上原の店を閉じる前に予告していた通り 閉店後間もなく 岩楯さんは東京都豊島区南長崎の地にブックカフェを開きました 実は元々昔からこの場所にご自宅があって岩楯さん自身はここから毎日 自転車で1時間をかけて店まで通っていたのです しかも1977(昭和52)年にこの南長崎に最初の幸福書房を開店して1980(昭和55)年に代々木上原の店を開店するまでは ここが自宅兼本屋だったのです こうして原点の地でブックカフェ開店にこぎつけたのですが ご本人が言うように  なにぶん未経験の業態なので試行錯誤の状態だそうです
     
    先日の夜に私はそのお店の前まで行ってみました 閉店もまじかなようで中には入らなかったのですが 率直に申し上げて お店としての体裁は未完成で 岩楯さんの予告では店名を幸福茶房」とするようだったのですが まだお店の入り口の上には「幸福書房」のままの看板がありました 今後の発展整備の余地が多くあるので むしろこれからが楽しみです
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    まだ「幸福書房」の看板が・・        
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    外から見たブックカフェ店内 中央右のダンボール箱には「一人二冊まで 無料でさし上げます」と文庫本が在中
    林真理子の通った日本大学藝術学部(略称:日芸)文芸学科のある東京都練馬区江古田にあるキャンパスもこのブックカフェから直線距離にして2、3キロの近くですから 日芸出身の名士である林真理子には 講演依頼などされて江古田に来られた際には店に寄っていただけるのではないでしょうか・・
    ・・・・・・・・・・・・

    前回の「柳原白蓮の孫」の話に続きます
    ◎与謝野晶子(の妹)の孫=尾崎榮里子
    (以下文中敬称略します)
    それを語る前に・・「与謝野晶子の直系の孫」で有名人がいました・・与謝野 馨(よさの かおる=昨2017年に死去)でした 氏は晶子の11人の子供の中の次男の息子にあたります 政治家で文部大臣や通商産業大臣を歴任し 祖父母(鉄幹・晶子)夫妻らが創立した文化学院の院長でもありました
     
    さて まず与謝野晶子の妹とは・・晶子の5才下で旧姓は「鳳」(ほう)名は「里」のことです (ゆえに与謝野晶子の旧姓も「鳳」)

    そして「鳳 里」が「志知善友」と結婚して「志知 里」となり⇒ 生まれたのが「志知仁保榮」で 
    ⇒「仁保榮」が「江森盛彌(もりや)」と結婚して⇒生まれたのが「江森榮里子」⇒「榮里子」が「尾崎俊二」と結婚して⇒「尾崎榮里子」となりました・・というわけで この「尾崎榮里子」が「与謝野晶子の妹の孫」となるわけで 晶子とはつながっていることになります


    しかし「尾崎榮里子」は残念ながら2012(平成24)年11月に永眠しました

    私が何故に「尾崎榮里子」のことを今回の表題で (の妹)の孫というような表記をしたかと言いますと 彼女の顔とカタチが与謝野晶子に非常に似ているので 直系の孫として「与謝野晶子の孫」と言ってもおかしくないほどであったというのが一つの理由です

    それを表すエピソードとして・・榮里子の友人が昔 榮里子の母親である江森仁保榮から・・「榮里子が誕生したときは 晶子の生まれ変わりみたいにそっくりだったのよ」・・と聞かされたそうです

     
    また 榮里子と私は(前回のブログで述べましたように)小・中・高と同じ学校に通ったのですが 小・中学校では榮里子と同じクラス(高校では別クラス)だったので ある時 中学校のPTAの集りで聞いた話として私の母親が私に「江森榮里子さんは あの与謝野晶子の孫だそうよ」・・と言っていました(この時点で既に事実と少しズレた情報になっていたようです) 以来 私はそう信じ込んでいましたがそう信じる背景には先述のように 榮里子に与謝野晶子の面影が確かにあったからです
    同様に「榮里子は晶子の孫」説は榮里子の友人の間にも流布されていたようで 榮里子の葬儀の場での友人達の会話の中にも その表現があったと聞きます・・それほど榮里子は晶子に似ていたということでしょう


    尾崎榮里子の顔は “数ある晶子の顔写真”の中でも 最もこれに近いかもしれないのが下の写真
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    厳密に言えば榮里子は晶子ほどには面長な顔ではないのですが 目元をはじめ他は総じて似ています (全集の案内パンフから)


    また 首をやや傾げる所作が多いことも同じでした(下の晶子の写真のように)
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    夫・鉄幹とともに 写真はWikipediaより引用

    そしてもう一つの理由が・・バイタリティ溢れる行動をしたこと それをもって 女性の生活・地位向上を目指したというところが 似ている点です


    晶子は・・

    • 歌会で出会った歌人・与謝野鉄幹と不倫関係となる
    • 女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行 以後世間から何と言われようと その時々の本音の歌を 発表した
    • 鉄幹と結婚して子供を12人産み11人育てた(一人は生後二日で死亡)
    • 鉄幹の収入が無い時期には超多忙・多彩な文筆仕事で家計を支えた
    • 鉄幹をフランス・パリ遊学に送り出したものの 彼のいない寂しさに耐えられず 半年後に子供達を残して 一人パリへ逢いに行く それも船では50日かかるので シベリア鉄道利用して14日で行ける短縮策をとって・・
    • 鉄幹及び建築家の西村伊作や画家の石井柏亭らとともに 日本最初の男女共学校である文化学院を創設
    • 残した歌は5万首 『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』詩作 評論活動も多く
    • 女性解放思想家として婦人参政権を唱えるなどして巨大な足跡を残した 
    一方 榮里子は・・
    • 外国語大学の中国語科へ進み 
    • 同科で知り合った尾崎俊二が同大学の学友会の執行委員長になったと同時に榮里子は副委員長になり 当時日本中の大学で学生運動が激しく展開される時期であり 学友会民主化運動やベトナム戦争反対運動 など行った
    • 大学卒業半年後には尾崎俊二と結婚
    • 会社員や中学校教員を務めたのち 埼玉県の生協の運営の中枢で活躍 その後医療生協 (医療・介護の事業をおこなっている生協)の理事として重要な活動をする
    • ジェンダー(社会的・文化的に作り上げられている男女の相違のことで ”「男らしさ」「女らしさ」は こういうものである  こうであるべき”という通念を意味するので近年はこれを是正しようということで「ジェンダーレス」や「トランスジェンダー」という表現が使われる) に対する勉強にも注力して仕事に活かした
    • 日本婦人団体連合会(婦団連)に勤務して 特に婦団連の発行する「婦人通信」の編集部署では 優れた知見をもって指導的役割を果たした
    • 以上の行動の間 一貫して「憲法九条」や「女性の地位」などの勉強は続けた

     
    ※『日本婦人団体連合会(婦団連)は 朝鮮戦争中の1953年に「平和を願う女性の力をひとつに」しようと設立され 初代会長は、「元始、女性は太陽であった」(『青鞜』発刊の辞)で有名な平塚らいてうです 現在 婦団連は女性の生活と権利・地位向上、子どもの幸せ、平和と独立、民主主義の実現のために広範な女性の共同・連帯の力で運動していて 現在23団体90万人が結集しています』『』内は婦団連ホームページより        

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    ◎尾崎榮里子らしいエピソード
    ) 私が小学1年生の3学期末に 担任の高橋先生から 「終業式の時のこのクラスの総代は〇〇君になってもらいます」と私が指名されたのですが その時 榮里子が・・「なんで〇〇君なの?」と 疑問というか不満というのか そう発言したのには驚いたことをハッキリ覚えています 今思うに 彼女の父はプロレタリア詩人 母は師範学校教員の免許を持っていた そして与謝野晶子とつながるというインテリ一家に育った彼女は学力に自信があったのでしょう この頃すでに納得出来ぬことには しっかり追及・発言していたのです
     
    ) 榮里子と私が同じ高校に通っていたもののクラスはちがっていましたが 2年生のある時に 入学以来 会話することもなかった彼女が私の教室に来て「人文地理の授業のノートを貸して」と言うので貸しました 後日「キレイに書かれて読みやすかったわ」と言って返してくれたのですが・・これも今思えば 彼女のクラスメートに頼めば済むはずを そうせずに  私が試されたのではないかと思えます すなわち・・ノートの書き方を見れば そのヒトの思考回路が分かり しかもノートをキレイに書くという作業は  授業などの内容の理解と記憶のむしろ邪魔になるということを知っているかどうかも分かるということで私のレベルを測ったのでしょう
     
      その後も 時々 私の意識のレベルを試されたようなことがあり 例えば高校3年のある日に彼女から電話がかかってきて 「自衛隊の存在については どう思っているの?」・・とか 私が社会人になってからの中学校のクラス会で会った時には 「今 日本の意匠権の制度の状況はどうなっているの?」・・などと質問(尋問)され その際の私の答えは・・ 最近のNHK人気番組チコちゃんに叱られるでまさに「ボーっと 生きてんじゃねーよ」と言われそうなレベルで あとで私は自己嫌悪に陥ったものです・・このような彼女の行為は モノゴトの価値の判断ができるほどの広く深い知識を持っていたからできたのでしょう それをもって どうも私は彼女から高校生以来 知的品定めをされていたような気がします
     
    以上の文章からは尾崎榮里子は 堅物でガンガン進むイメージの人のようすが違います・・発する言葉の内容は的確で時に辛辣ですが 伝え方は柔らかく静かで 時にはおどけていた風だったそうです それは昔に学生運動やウーマンリブなどの時代を経験して過激な言動は結局 効果が出ないということを知っていたからだと思われます

    そして彼女の言動の基盤となる広く深い経験と知識は 絶え間ない勉強(大学での聴講やセミナーへの参加など) 文学はもとより美術 音楽 演劇 映画などの鑑賞 自らの作陶 国内外各地の訪問 などで溜まった知のプールから湧き出ていました しかもそれらは硬軟あり 例えば・・音楽ではクラッシックもあればフランク永井やB‘zそして美空ひばりの歌も好きで・・「車屋さん」(ちょいとお待ちよ車屋さん・・)も良く聴いていたとか
     
    今回の内容の一部には尾崎榮里子を追悼してご主人の尾崎俊二氏が彼女の死去1年後に自費出版された・・「語り合う日々・・尾崎榮里子を思う」という本(全251頁)を参考させていただきました  "尾崎榮里子が与謝野晶子の直系の孫ではなく 晶子の妹の孫"ということを 私はこの本を読んで初めて知らされた次第です 
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    そう言えば・・本日11月7日夜9時からBS朝日の「昭和偉人伝」という番組で “女王 美空ひばりを支えた二人”として「車屋さん」などを作詞・作曲した米山正夫と石本美由起をとりあげるようです 偶然とは言え何かを感じます 
       ・・・・・・・・・・・・

    今回のテーマでは柳原白蓮と与謝野晶子が登場しますが、その文章作成中の10月31日に丁度良いタイミングでNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」が柳原白蓮と与謝野晶子の二人の新情報を流しましたが・・その中で1927(昭和2)年に歳末助け合い企画として その二人が一緒に並び座って歌を詠んで 色紙か何かに書いているという貴重な映像(写真)が流されました 白蓮は7才年上の晶子を敬愛していましたから 心中は如何だったのでしょうか ※文中 敬称略します

    ◎柳原白蓮の孫の名は宮崎黄石(こうせき)
    私が通った高校の同じ学年に柳原白蓮の孫と与謝野晶子(の妹)の孫がいました
     

    しかも私は柳原白蓮の孫である宮崎黄石とは同じクラスでしたし 与謝野晶子(の妹)の孫である江森榮里子とは小学校と中学校でも同じクラスでした (高校では別クラス)

    宮崎黄石については 高校時代には柳原白蓮の孫とは知りませんでしたが 後年に知ってから振り返ってみれば・・在校中の彼は男ながらにも白蓮さんの面影が確かにありました 70才を過ぎた現在は そのように見えませんが・・(彼の高校時代の白蓮似の顔の写真はあるもののここに掲載できないのが残念)
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    ↑展示会に行きましたが彼には会えませんでした
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    ↑3年前の「目白新聞」掲載の顔写真です


    ◎柳原白蓮とは

    有名なので詳細は割愛しますが 
    1885(明治18)年に誕生 
    1967(昭和42)年に死去(満81才)
    大正・昭和の情熱の歌人 戦後は平和運動も行った 
    本名は宮崎燁子(みやざきあきこ) 大正天皇とは従妹に当たる
    大正三美人の一人(他は九条武子 江木欣々)
    二人目の夫で九州の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門に対して絶縁状のみならず その内容を新聞紙上で発表して 7才年下の東京帝大生ながら社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちして 世に言う「白蓮事件」となり 結婚に至る
     
    龍介は“中国の辛亥革命の孫文を支援した日本人の一人である宮崎滔天(とうてん)”の長男
     
    白蓮と龍介との間に生まれた長男が「宮崎香織」ですが学徒動員で戦死 長女が「宮崎蕗苳(ふき)」でその息子が「黄石」になります


    ◎二人の「香織」

    以前にブログで男女兼用の名である「香織」の男性版の例として「宮崎香織」をあげ さらにもう一人「野口香織」という私の高校で同クラスだった者をあげました(ということで野口香織と宮崎黄石と私は同じクラスだったのです)


    この二人の「香織」は「白蓮の孫の宮崎黄石」にとって 一人は伯父であり もう一人は高校のクラスメート しかも同じラグビー部の仲間だったという縁があったのです


    ◎伊藤家と宮崎家のその後

    2014年のNHK朝ドラ「花子とアン」は「赤毛のアン」の日本語訳者である村岡花子の半生を原案としたもので 主人公は実名と同じ村岡花子として吉高由里子が演じましたが 白蓮はこのドラマの中に仲間由紀恵が演じる葉山蓮子として登場し  白蓮の二度目の夫の伊藤伝右衛門も吉田鋼太郎が演じる嘉納伝助として登場しました
     
    伊藤伝右衛門にしてみれば 絶縁状を突拍子もない格好で示されて妻に逃げられたのですが  その後には白蓮側の宮崎家との和解はあったようで・・ 
    2007年には白蓮の娘である宮崎蕗苳の語りを書き起こした本である『白蓮~娘が語る母燁子~』が
    「旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会」から出版されていますし
    2017年には宮崎黄石が 「旧伊藤伝右衛門邸開館10周年記念トークイベント(座談会)」にゲストとして 伝右衛門の孫の伊藤興十郎と俳優の中村嘉津雄(1985=昭和60年にNHK銀河テレビドラマ
    「恋の華~白蓮~」で伝右衛門役を演じた)とともに出席
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    旧伊藤伝右衛門邸  (福岡県)(同邸ホームページより)
                                                  

    ◎宮崎家と中国

    宮崎黄石は先述のように 曽祖父が中国の辛亥革命の孫文を支援した宮崎滔天でもあるので中国との関連も強くて 例えば・・2011年7月には 香港財界訪日団が日本経団連など各経済団体との交流の他に 熊本県荒尾市の宮崎滔天の生家を訪問しましたが その際に蒲島県知事や黄石も同席し 続いて隣接の福岡県大牟田市において九州観光推進機構・九州運輸局の主催で中国のマスコミによる黄石へのインタビューが行われました
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    宮崎黄石と中国のマスコミの皆さん(荒尾市のホームページより)
     

    また 蕗苳と黄石は同年10月に中国政府の招待で辛亥革命100周年記念大会に出席しました

    同年12月には 辛亥革命100年記念切手が日本郵便から発行されるにあたって 蕗苳と黄石はその切手発行式に出席 その切手のデザインは宮崎蕗苳と孫文の書の文字を一緒に入れたものになりました
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     蕗苳と黄石が発行式で切手シートを手にして
    duan.jp/news/jp/20111203.htmより引用

    ◎白蓮も暮らした宮崎邸を訪れた人たち
    そこは東京都豊島区西池袋の地

    宮崎蕗苳によると 孫文や黄興など革命指導者は何度も池袋の家に来ていたそうですし また宮崎一家と孫文らの子孫の人達との交流が現在も続いているそうです
     
    一方 これも蕗苳によると 村岡花子は白蓮とは東洋英和女学校の同窓生でもあり よく池袋の家にも来られてお茶を飲みながら歓談するなど親交も長く深かったそうです
     
    私が実家の母を車いすに乗せて散歩がてらに宮崎邸の前を通りかかった際に 50~60才くらいの女性5人のグループが向こうから来てこの家の前で立ち止まりましたので ちょっと話を聞いてみたら なんと伊藤伝右衛門の地元である福岡県から「白蓮さんが暮らした東京の家を観にきた」のだそうで 
    こんなに熱心な人達もいるものだと驚いた 2015年夏のことでした
    ※宮崎家宅内は非公開です
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    西池袋の宮崎邸の外塀と格子門
    ・・・・・・・・・・・・

    与謝野晶子(の妹)の孫の話へ続く⇒柳原白蓮の孫と与謝野晶子の妹の孫とは高校で一緒でした(2) : 

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