徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2018年10月

    ◎ジェネリック家具とは?
    前回のブログで テレビドラマに出てきた有名な椅子の名前と およその価格をご覧いただきましたが 同じ椅子でも価格に大きな差があることを示しました その原因は「ジェネリック家具」と呼ばれるモノの存在があるからです
     
    「ジェネリック家具」は以前にはリプロダクト家具や復刻家具などと呼ばれていましたが・・ある元祖(オリジナル)デザインの家具が誕生してから年数が経って その意匠権(権利期間は日本は20年ですが各国により10年~25年と異なります)や 特許権が消滅した場合に それとそっくりに作られた家具のことです
     
    ただし その元祖デザイン家具と比べて・・「製造方法」「使用素材・表面処理」「製造場所(国・地域)などの点でちがいが出るので「同じ椅子でも価格に大きな差が出る」ことになるわけです 具体的には・・ 牛革素材を人工皮革に変える・皮革の厚さを薄いものにする / クッションの中身を羽毛からポリエステル綿やウレタンフォームやポケットコイルというスプリングに変える / パイプフレームを「鉄にクロムメッキしたもの」からステンレスを磨いたもの」に変える / イタリアで製造していたものを中国で製造する / 表面に出ない部分の構造を簡略化する・・など
     
    これらの変更を各ジェネリック家具メーカーがどの程度行うかによって コスト削減額に差が出て 同じような商品で価格の巾がでるわけです
     
    「ジェネリック家具」という呼び方はジェネリック医薬品の呼称が浸透してきたから登場したことは明らかですが・・医薬品の場合はジェネリックであっても元の(先発の)医薬品と比べて成分や効能は変わらないかほぼ変わらない・・という点が家具の場合と違います
     
    つまり大まかに言えば・・「ジェネリック医薬品」は・・外観・形状は違っても 中身は同じ/「ジェネリック家具」は・・外観・形状は同じでも 中身は違う・・ということになります
     
    ◎ジェネリック椅子の代表はル・コルビュジエの作!
    現在 日本で出回っている外国デザイン家具のジェネリック物で目立つものがいくつかあるのですが その代表的なものが・・

    近代建築設計の巨匠ル・コルビュジエ(日本の国立西洋美術館も設計)デザイン※した椅子「グランコンフォート」(「大いなる快適」という意味)でしょう
    その完成されたシンプルな構造とフォルムで1928年に初登場してから丁度90年を経過した今でも変わらぬ魅力があることが人気理由でしょう

    ※この椅子を含めて「コルビュジエ作」とされる家具デザインの大部分は実際は氏とその従兄弟であり建築のパートナーでもあるピエール・ジャンヌレとシャルロット・ペリアンとの3人の共同作業で生まれました
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    「グランコンフォート」の椅子たち・・「水平と垂直」の「線と面」で構成したデザインです(写真はカッシーナ・イクスシー社のHPより)

    ◎この椅子「グランコンフォート」はTVのドラマやCMに度々登場しています!
    例えば・・ドラマ「黒革の手帳」の中で / 小泉孝太郎が出ている住宅メーカーのCMの中で / 何のドラマかCMかで見たか覚えていないのですが・・木村拓也が座っているシーンや ビートたけしが座ったシーンで / 有名人のお宅訪問番組では岩城滉一邸にも置かれていました
     
    それに小規模病院や歯科医院など「クリニック」の待合室に置いてあるのを見かけますので  なぜかお医者さんは この椅子がお気に入りのようです
     
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    ↑東京・池袋の「ハルデンタルクリニック」(屋外から待合室のグランコンフォート3脚を見る)
    その他 東京・文京区の「ゆしまクリニック」の待合室でも見られます
     
    この椅子のジェネリック化は発展して・・オリジナル色の黒の他に 白 灰色 赤 オレンジ 茶色 こげ茶色 ネービイブルーなど多様な色も登場してきました また 金属フレーム部分を一部形状を変えてオリジナル品より座り心地を改良しようとしたと思われるものが登場・・それが前回ブログでも掲載しました"NHK朝ドラの「半分青い」の中の秋風羽織先生のオフィスの赤い椅子”です
    (背もたれ部分は高く伸ばした上で後ろに傾斜)
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    ◎こんなに違うグランコンフォートの価格!
    この椅子は「一人掛け用」「二人掛け用」「三人掛け用」の3種あり そのジェネリック製品は 主にイタリアと中国メーカーの併せて数十社それぞれの会社方針に基づいて オリジナルに忠実で高価なものから 徹底的に低価格なものまで 多様な仕様の製品が登場しています
    以下にその価格例をあげてみます(税込価格/一部除いて送料込価格)
    「一人掛け用」72万3,600円~15万2,228円~2万0,800円(約35倍のひらき)
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    「二人掛け用」114万4,800円~24万6,000円~2万9,900円(約38倍のひらき)
    「三人掛け用」164万1,600円~31万0,000円~10万4,480円(約16倍のひらき)
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    ◎「ジェネリック家電」というものもあります!
    ジェネリック家電とは大手以外に存在する優秀な準大手や中堅の電器メーカーが大手メーカーの旧技術を購入利用した上で 必要機能を絞り込んで製造した低価格の家電製品のことです・・結果として総じてシンプルデザインの製品が多いものです
    ジェネリック家電がジェネリック医薬品と違うのは・・ジェネリック医薬品が大手医薬品メーカーの旧技術をそっくり利用して機能(効能)も同じにしているのに対して・・
    ジェネリック家電は大手メーカーの旧技術を利用するものの 機能は必要最小限に削減して抑えている点です

    「以前は 日本国外メーカーの低品質の家電製品と一緒にして「B級家電」と呼ばれていた状況を流通ジャーナリストの近兼拓史氏が憂いて、粗悪なB級家電と、大手に劣らない高品質低価格の優良家電を明確にわけるために2013年に作った和製造語です

    毎年度末に、その年度中に発売されて最も優秀だった製品に「ジェネリック家電大賞」が与えられ 2015年には、近兼拓史氏を代表理事として、非営利の業界団体である・・一般社団法人ジェネリック家電推進委員会が設立されました」(「」内はWikipediaより)

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    ◎旧帝国ホテル(フランクロイドライト氏設計)が使われています 
    今 NHKで放送中の朝の連続ドラマ「まんぷく」で安藤サクラ演じるヒロインの今井福子が勤めるホテルとして使われているのが 元 帝国ホテルの中央玄関部分で 東京に1923年に建てられましたが
    1970年の
    建て替え時に その一部を愛知県犬山市の「博物館 明治村」に移築されたものです 
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    帝国ホテル中央玄関外観と内部↑
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    博物館 明治村」 公式ページより」
     
    この建物の設計者はFrank Lloid Wright=フランク・ロイド・ライト(1867~1959)氏は近代建築設計家の巨匠 
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    生涯に1000件以上の公共建築から一般住宅まで設計をした他に 家具 照明器具 テーブルウェア ガラス器 など多様なデザインも手掛けました

    ◎ライトが デザインの ライト
    「まんぷく」のホテルのフロントのシーンで目に付く照明スタンドもライト氏のデザインです これは TALIESIN 1(タリアセン 1)」 という名がついていますが 背の高さが何種類かある中の ドラマで使用のものはミニサイズです 
     
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    の照明スタンド(ミニ)は市販されています
    税込みで6万円強くらいです
     ●高・406巾・285 奥・325mm Kg 

    その他 ライト氏デザインの照明器具でよく見かけるのは(ドラマでの使用はあったか不明ですが)・・TALIESIN 2(タリアセン 2)」 と称するもので 細長く背が高いフロアスタンドで間接照明的な使い方をするものです
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    このフロア照明スタンドも市販されています
    税込で31万円くらいです 

    TALIESIN 2(タリアセン 2)は1952年に開発されたもので 四角い箱と合板製の遮光板で構成したユニットが多数積まれているカタチです 高・2038 巾&奥行・410mm 20Kg 

    ◎フランク・ロイド・ライト氏の先見性
    氏は「鉄筋コンクリートは木に準じて使うべし」「柔道の理論は建築にも当て嵌まる」として今で言う「建築の柔構造」のような設計をしたことが功を奏して・・んと『このホテルが竣工式を行なった
    1923(大正12)9月1日に関東大地震が発生したのに 被害は出なかった』『』内は下山眞司 氏のブログ「建築をめぐる話・つくることの原点を考える」から一部引用

    ◎ライト設計建築を東京で見るなら・・「自由学園 明日館(みょうにちかん)
    この建物は、1921(大正10)年に 羽仁吉一、もと子夫妻(月刊誌「家庭之友」(婦人之友」の前身)を創刊 息子は映画監督の羽仁進)が創立した自由学園の校舎として ライトの設計により 東京都豊島区西池袋に建設されました (この建物も完成2年後の関東大震災に耐えました)道路を隔てた場所にはライトの弟子の「遠藤新」設計の講堂が在り、併せて国指定重要文化財になっています。』『』内は「明日館ホームページ」www.jiyu.jp/tatemono/myonichi.html引用一部省略
    学校機能移転により内部見学でき 貸会場 カフェ 結婚式場もあります
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    講堂内部

    ◎朝ドラ「半分、青い」では世界的有名家具(主に椅子)が沢山登場
    ドラマの中の 秋風羽織のオフィス内には ちょっとしつこいほどに有名家具が配置されていました   これは美術担当デザイナー掛幸善 氏によるものでした 
    下の3枚のシーン写真は「NHK 半分青い 特集ページより引用 https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/special/column/13.htm 」ただし それぞれの椅子の説明は私が記載しました
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    ↑左奥の網目の椅子は「ハリー・ベルトイア氏のデザインの『ダイヤモンドチェア』」(3~5万円台)
     右の椅子は「ル・コルビュジェ氏デザインのLC4シェーズロング』」(50~80万円台)
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    「フリッツハンセン氏デザインの
    『エッグチェア』」(50~120万円台)
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    の椅子は「ル・コルビュジェ氏デザインの『グランコンフォート』」というリーズ からの
     派生デザインものです
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    ◎真理ちゃんの「水色の恋」の話は少々厄介なのです・・
    この歌の原曲は『小さな私 』という曲名で その作詞は田上えり  作曲は田上みどり の姉妹だということは 天地真理ファンの間では よく知られているそうですが・・
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    https://www.youtube.com/watch?v=6RnMkwUzro0 で 「小さな私」 と「水色の恋」両方聴けます
     

    実は その『 小さな私 』には さらに原曲があったのです( この“原曲の原曲”を 以降文中では「元祖曲」と表示します )

     
    正確には「元祖曲」からの部分的引用があったと言うべきですが・・私はこのことを 1972(昭和47)年に購入したタンゴ曲集のLPレコードの中に見つけていました※このレコードの発売は1969(昭和44)年
    その元祖曲(タンゴ曲)の名は・・Gran Hotel Victoria (グラン オテル ビクトリア)」(スペイン語ではオテルです)
     
    天地真理のシングルデビュー曲「水色の恋」のレコード発売は1971(昭和46)年ですから その翌年にこの元祖曲を聴いた私は「水色の恋」は一部盗作だ ! 』 と思わず心の中で叫びました
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     ↑ これが46年前のレコード (30センチLP2枚組の1枚目)でサイド1の3曲目が 「グラン・オテル・ビクトリア」
     
    私が今でも所持しているそのタンゴ曲集レコードで聴ける・・「グラン オテル ビクトリア」 は 歯切れのよいタンゴの名演奏で人気があったファン・ダリエンソ楽団のもので・・現在 Youtubeで聴けますhttps://www.youtube.com/watch?v=SWp3SeKlv38 ※問題部分のメロディーは 途中から出てきます
     
    今回私はこの記事を書くにあたって この「元祖曲」の存在の認知状況をネット上で調べましたら・・
     
    タンゴ演奏のプロモートや評論の専門家であり ラジオの西日本放送で昨2017年までタンゴ専門番組を62年間担当された岡田 寛 氏は2011年頃に西日本放送のホームページで・・「グラン オテル ビクトリア」について「ボクは前からこの曲の後半をどこかで聞いた覚えがあると番組ではいい続けてきたが、果たして「天地真理」1971年のデビュー曲「水色の恋」が正体だった」と・・気づかれたと述べられています(つまり私の発見から約40年経っていますね)
     
    一方 一般の人の間では 昨2017(平成29)年から この「元祖曲」情報が複数出てきているようです
     
    さらに話がややこしいのは・・「グラン オテル ビクトリア」はフェリシアーノ・ラタサ作曲 カルロス・ペッセ作詞で 1906年1月にアルゼンチンのコルドバ゙市に誕生した曲名にもなったホテルの開業式で初演されたタンゴで その後 無名だったこの曲は1935年にファン・ダリエンソ楽団による演奏で復活したという曲で 作者没後50年以上経ているので著作権は消滅しているのですが・・
    『天地真理デビュー時のシングルレコードでは 作詞:田上えり 作曲:田上みどり 補作:森岡賢一郎・・とってなっていますが その後2006(平成18)年10月発売のプレミアム・ボックス(CD)では・・作詞:田上えり/Carlos Pesce 作曲:田上みどり/Feliciano Latasa・・なっています


    つまり30年以上経ってから前述の外国の作詞者と作曲者が追加表記されています

    さらに関連しますが この曲は日本音楽著作権協会(JASRAC)での登録上は 「 外国作品 」 扱いになっているそうです』

    ※『』内はブログ「真理さんと」 から引用一部割愛 https://ameblo.jp/usagi-windy2/entry-12242971652.html

    この30年の間に どこかからの指摘があって 盗作とまでは言えないまでも 一部引用と判断され しかも やはり元祖は外国の曲であると判断されたからでしょう
     
    そして現在この曲の隣接著作権はヤマハ音楽振興会と日本アメリカーナ音楽出版㈱の所有とのこと
     
    このように「水色の恋」については 非常に複雑なことになっているのです
     
    ◎「上海帰りのリル」もタンゴ調のヒット曲でしたが・・
    これもある曲からの一部引用で作られていました
    船を見つめていた  ハマのキャバレーにいた  風の噂は リル 上海帰りの リル リル 甘いせつない 思い出だけを   胸にたぐって 探して歩く リル リル どこにいるのか リル   だれかリルを 知らないか」
                                     
     上海帰りのリル)は1951年に発売された津村謙のタンゴ調メロディーの歌で 大ヒット(翌年には同名映画も公開)しましたが 1950年代の日本は丁度タンゴブームになっていたことも影響しているでしょう (https://www.youtube.com/watch?v=19n7uyalzmc で聴けます)
     
    作詞:東條寿三郎/作曲:渡久地政信/編曲:林伊佐雄となっていますが・・
    タイトルや歌詞の内容やイントロの一部は1933年の米国映画である『フットライトパレード(英語版)』の主題歌『 Shanghai Lil 』および同曲を唄川幸子 ディックミネ 江戸川蘭子 らがそれぞれの訳詞で競作した『上海リル』 から引用していて 出だしのメロディーにも模倣が見られるそうです
     

    同曲自体が『上海リル』のアンサーソングであるのに 本家を凌ぐ大ヒットの余波で 同一の作詞家・作曲家・歌手によって 『リルを探してくれないか』(1952年) 『心のリルよなぜ遠い』(1953年)が製作されて これらもヒットしたそうです

    1952年には映画俳優である三条美紀が『私がリルよ』和田隆夫作詞、東為二作曲)で歌手としてもデビュー  他にも三条町子の『私は銀座リル』 三鳩ひとみの『私がリルの妹よ』 久慈あさみ までも『霧の港のリル』 を出すなど関連の歌が連なりました

    ◎タンゴと言えば・・
    昔からタンゴ好きの私は タンゴが主体の専門雑誌であった「中南米音楽」(現 「ラティーナ」 )よく読み 1970年代はレコードの他にも8トラックカートリッジテープを何本も買って一日中エンドレスでタンゴを聞き流したりしていましたが その後はカセットテープとなり 現在はCD主体です
     
    私の捨てがたいレコードの中でも最も大切なのは「タンゴの歴史」と題した3枚組LP(1969=昭和44年発売)で そのハードケースの内側には・・「愛蔵家番号 001207』というラベルが貼ってありました

    その中には 最も有名なタンゴ曲「ラ・クンパルシータ」が1917年に世界最初に録音されたもの入っています
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    「藤沢嵐子」(ふじさわ らんこ)さん (1925年7月21日 -2013年8月22日)は日本人にして本場アルゼンチンでもタンゴ歌手として評価の高かった人で 1950年代の日本のタンゴブームの立役者の一人であり 「タンゴの女王」と呼ばれました
     
    35年ほど前になりますが 私は東京都 千代田区 内幸町にあるプレスセンタービルに立ち寄った際に1階にある書店で 藤沢嵐子さんの著書の表紙を開けたところに ご本人直筆サインが入ったものが展示販売されているのを見つけたものの 仕事先に向かう途中だったので 後で購入しようとして・・ 帰りに店に寄ると既に売れてしまっていました
     
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    ↑プレスセンタービル 1976年竣工  
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    ↑表紙開けたところに直筆サインがあった
     
    東京都千代田区の神保町には・・タンゴファンには有名な喫茶店『ミロンガ・ヌォーバ』あります
    元々は昭和28年(1953年)にタンゴ喫茶「ミロンガ」としてオープンしたもので ビールをメニューに加えた際に現在の呼称になったとのこと 名物は「ピザ・ミロンガ」


    店内はやや仄暗く 哀愁をおびたアルゼンチンタンゴの調べがマッチしています ときにはタンゴのライブ・コンサートも行われているようです

    実は私は短い店名だった頃の『ミロンガ』にしか行ってません

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    ※写真は「神保町ポータルサイト」から引用
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     ※タンゴについては またいつか次の機会に!
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    ◎超常識の接骨医 吉田増蔵 氏
    かつて私が住んでいた町 東京都 豊島区 椎名町(現 南長崎)には凄い接骨医がいることで その名を知られた吉田接骨院がありました 
    ここはごく普通の民家と変わらぬ造りで しかも看板も出していないのに 全国から患者が押しかけ 朝早くから300人が並んだこともあったそうです

    また後にここは野球の読売巨人軍のお抱え接骨院として更に有名になりました
     
    骨折でも2週間で治すことで知られた伝説の接骨医は 吉田増蔵 氏・・テレビや新聞にもその名がでることも度々ありました
     
    1955(昭和30)年ころだったかに・・
    私の弟(当時5才?)が高い所から飛び降りて 脚を捻挫したか骨折なのか判然としないが非常な痛みを訴えるので 祖父が翌朝早くに 弟を背負って歩いて吉田接骨院に行きました これに私も一緒について行き 午前7時半頃(だったか?)に着いたら まだ格子の門は閉じられた状態でしたが 門前の路上(大通りには面していませんでした)には既に15人くらいの人たちが待っていました

    その門の格子目が粗いので門外から中が良く見えるのですが やがて・・
    吉田先生が 越中ふんどし一枚だけという裸に近い格好で建物の中から庭に出てきました
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    越中ふんどし:「褌屋」カタログから
    先生は門前で待つ人々に目を遣ることもなく 無言で庭の植物にじょうろで水遣りをしてから また家の中に入っていきました
    これも文字で表せば「傍若無人」でしょう(言葉の意味としてはズレますが)
     
    まだ小学校低学年だった私は 変わった先生もいるものだと驚きましたが このシーンは脳裏にしっかりと焼き付いています
     
    しばらくして開門されて治療が始まったのですが なにしろ今で言う「ゴッドハンド=神の手」ですから 一人当たりの施術時間は短く しかし効果抜群で 私の弟もあっという間の施術で治ったようで 
    その後通院しませんでした

    ※平日で学校があるのに 私が朝に 吉田接骨院へと同行できたのは 当時の小学校では「二部授業」という授業形態がとられていたためで これは生徒数が多くて教室が足りないため、一教室を二学級が使うという方式で 午前と午後に分けて それを一週間ごとに交代して使っていたので たまたま その日の私は 午後授業だったからです・・そんな時代でした
      
    ◎読売巨人軍の選手達が驚異の治癒 王も長嶋も
    『 昭和40年代の野球アニメ『侍ジャイアンツ』(原作・梶原一騎)で主人公のジャイアンツ投手である番場蛮(ばんば ばん)が足首骨折で吉田整骨院に入院するシーンが登場している


    元巨人選手でコーチやスカウトも務めた上田武司氏が その著書であるプロ野球スカウトが教える 一流になる選手 消える選手」(祥伝社黄金文庫)次のように書いている・・
    「背中にデッドボールと食らって少々足に痺れがあったが 大したことは無いと思ったものの 試合後 同じく足を捻った黒江選手と一緒に吉田整骨院に診察を受けに行くよう川上監督から命じられて行ったところ 足が痛くて歩けないほどの黒江選手の施術が済むと・・「黒江の足はもう大丈夫 明日の試合には出られる」と言い 一方私には レントゲン撮影もなく 背中を触っただけで 実は脊髄骨折で そのまま放置しておけば半身不随になるほどの重傷であると診断されて その後 試合復帰まで半年の療養をしたが あのまま試合に出ていたらどうなっていただろうと思うと 背筋が寒くなった

    またある年の試合中にデッドボールを受けて病院で診断を受けたら ボール直撃部分が骨折しているだけではなく亀裂骨折も確認されて 安静必要と言われたものの移動して吉田整骨院に行ったら 吉田先生は「治るから、心配するな」と言って患部に親指の第一関節まで入れるので 激痛だったが 治療を終えると「脳内出血はもう止めた」と説明して 次はボールが当たった箇所以外にできていた亀裂骨折も治してくれた

    東大や慶大の医師が「治療法を調べてみたが科学的には解明できない」と驚き 新聞の一面に登場したこともあったという 「私には命の恩人 先生がいなければ選手生命が絶たれるどころか 今ごろこの世に存在していなかったかもしれない」


    また 文藝春秋Number 掲載の・・
    "最強の阪神"を粉砕した陰の男 吉田増蔵の伝説をたずねて」という記事では・・昭和43年9月に王選手が頭部にデッドボールを受けた際に 吉田先生に施術を依頼したら 右手の親指でボールの当たった箇所を根気よくグウッグウッと押さえられてて激痛だったが その晩は湿布をして 翌朝目が覚めたら すぐ立って歩けと言い 湿布をはがすと熱く蒸したバスタオルを四つ折りにして頭を温める それを何回も何回も繰り返す こうして王選手の頭蓋骨陥没は奇跡的に回復した 王選手は事故から数日で復帰し その復帰試合で特大ホームランを打った』( 『 』内は 「blog:将軍様のぼやき」 より引用一部割愛 )


    こうして 『吉田増蔵先生のもとには 怪我の場合だけではなく体調管理の指導を受ける目的でも 巨人軍の荒川コーチ、王、長嶋、広岡、山内選手』たち来ていたそうです その頃の私はまだ吉田整骨院が在る同じ町に住んでいたのでした ( 『 』内は小林道場 総師範ブログより引用一部割愛 ) 

    吉田先生は読売巨人軍のお抱え接骨院となってからは 原則 一般人の診療は一切されなくなりましたが それでも 神にすがる思いで一般の方が来たようです


    現在 吉田接骨院は それが在った場所には存在していません

      ・・・・・・
    ◎歌手の曽根史郎さんも 住んでいました
    東京都 豊島区 椎名町(現 南長崎) の私が住んでいた家から直線距離にして100メートルくらいの所に 歌謡曲「若いお巡りさん」を1956(昭和31)年にヒットさせた頃の曽根史郎 (現 史朗)さんも住んでいました  (1930=昭和5年生まれで今年88才)

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     Wikipediaから
      
    しかし私はそこでお顔を拝見することは無いままに 曽根さんは転居されてしまいました  それはヒット曲が出てまもなくのことでした その後NHK紅白歌合戦にも4回連続出場しています

    「若いお巡りさん」 作詞:井田誠一 作曲:利根一郎
    もしもしベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 夜が更ける 野暮な説教 するんじゃないが ここらは近頃 物騒だ 話のつづきは 明日にしたら そろそろ広場の 灯も消える
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