徒然G3(ツレヅレジイサン)日話秘話飛話

兼好法師ならぬ健康欲しい私がつれづれなるままに お伝えしたいこと綴ります。 時には秘話もあり!

    ジャンルは不特定で硬軟織り交ぜながら 皆様に何かお役に立てば幸いです

    2018年08月

    ◎ひばり御殿を見たのはエントツ・タクシーの中から
    美空ひばりさんの最初の「ひばり御殿」は神奈川県 横浜市 磯子区の間坂(まさか) という所にありました 『この「御殿」は昭和28(1952)年 美空ひばりさん16歳の時に建築された当時の彼女の年収は2,700万円 (大卒初任給78千円の時代) 800坪の敷地に 106坪の白亜の2階建で15部屋 芝生庭に10mプール、下には海が広がっていた』・・そうです(Author:Bunkichiおじさん」のブログ「横浜彷徨録」より引用一部割愛  bunkichiojisan.blog58.fc2.com/blog-entry-62.html)


    私はそれを 小学校低学年の時に 親と乗ったタクシーの中から見ましたが それが 御殿を見た最初で最後の経験になりました

    それは昭和30(1955)年のことでした ある用事で東京から鎌倉近くまで行くという親に連れられて 途中まで電車で行ったところで 残りの道のりはタクシーを使うことになりました 乗車前に 親と運転手さんとの間で 目的地まで いわゆる「エントツ」走行することで ”商談成立”
     
    「エントツ」とは・・客が乗車して走行を始める際に 通常は 運転手さんが料金メーターを始動するためにメーター横のレバーを 倒すところ これをせずに 空車状態での走行ということにして お客さんは格安料金を支払い 運転手さんは会社を通さずにマルマル現金収入になる・・というもので 当時 主に長距離走行の場合に少なからず使われた方法でした
     
    メーター横の「レバーが立ったままの状態」を煙突に見立てて生まれた呼び名だそうですが 小学生の私でも知っているほど流布した言葉でした
     
    現在ではタクシーの運行状態は管理が徹底されG P Sで監視している会社もあるなどで 「エントツ」走行などとんでもない昔話になりましたが・・
     
    さてそのエントツ走行のタクシーに乗って横浜繁華街を過ぎて鎌倉方面へ向かう途中 (当時は知るはずもなかったのですが 今 調べると 国道16号線上です) 
    運転手さんが右方向を指さして・・「あれが有名なひばり御殿ですよ」と言ったので 見ると 小高い所に白い大きな建物が見えたことを 60年以上経った今でもハッキリ覚えています
     
    ひばり御殿(の見える場所)は 当時すでに観光名所になっていて 御殿の下の国道(16号)には 頻繁に観光バスが停車していたそうです
      
    話は飛びますが・・私は かつて 京都・嵐山に在った「美空ひばり館」の外観を見ただけで入館しなかった経験があります それは仕事での団体行動中に たまたま前を通ったからでした しかしその外観は残念ながら 少々ケバケバしくて嵐山の景観には不向きな感じでした なにしろ渡月橋のたもとの公衆電話ボックスまで木製で和風の落ち着いたデザインにしているという土地柄なので 少々違和感を生じていたのです
     
    「美空ひばり館」は平成6(1994)年に ひばりさんの衣装や小道具などを展示して開館したものの 平成18(2006)年に閉館 それを平成20(2008)年に「京都嵐山美空ひばり座」と改名し、
    リニューアルオープン しかし平成25(2013)年5月に 再び閉館 それでも同年10月に今度はそれまでの展示内容を受け継いで 京都・太秦にある「東映太秦映画村」の中に「京都太秦美空ひばり座」として開館して落ち着いたようです
     
    私は20数年前に太秦映画村にも行ったことがありますが ここなら景観問題も起きずに 好立地ですから京都太秦美空ひばり座」は安泰まちがいなしでしょう
    イメージ 1
    『京都太秦美空ひばり座』(「京都観光Navi」から引用)
     
    他方 東京都 目黒区 青葉台にある ひばりさんの住んでいた邸宅は 現在 「東京目黒美空ひばり記念館」として一部公開されていることはひばりさんフアンには 申し上げるまでもないことでしょうが・・

    ◎小説・映画の「伊豆の踊子」イメージの歌の多いこと!

    私は今まで「伊豆の踊子」関連の歌は 三浦洸一の「踊子」しか知りませんでした 小学校高学年頃にラジオから流れたものを初めて聴いて これはイイと感じたので 二番まであるものを一番だけ覚えて 今でも時々口ずさみます
     
    ところがネットで調べましたら「伊豆の踊子」関連の歌は他にもいくつかあるのでした しかも大変詳しい方がいました・・その「遊星王子の青春歌謡つれづれ」というブログ投稿されている「遊星王子」
     さんによれば・・
     
    『 文芸歌謡というジャンルの代表は「伊豆の踊子」でしょう。梶光夫の「伊豆の踊り子」高田美和の「旅の踊り子」二代目コロムビア・ローズの「河津川」・・などありますが 歌謡曲としての最高は三浦洸一の「踊子」で格調高い しかし実は「伊豆の踊子」の世界を歌って私がいちばん好きなのは・・美空ひばりが主演した映画の主題歌「伊豆の踊り子」です
     ”三宅出るとき 誰が来て泣いた 石のよな手で 親さまが まめで暮せと ほろほろ泣いた 椿ほろほろ 散っていた 散っていた
    絵島生島 別れていても 心逢島(大島) 燃ゆる島 おらが親さま 離れていても 今度逢うときゃ 花も咲く・・・” 』と綴られています(引用一部割愛)

     
    ◎三浦洸一の「踊子」について
    三浦洸一の歌「踊子」は 喜志邦三 作詞 / 渡久地政信 作曲 で
    一番の歌詞は・・”さよならも 言えず 泣いている 私の踊子よ ああ 船が出る 天城峠で 会うた日は 絵のように あでやかな 袖が雨に 濡れていた 赤い袖に 白い雨”
     
    「作詞の喜志邦三氏は 三木露風に師事した詩人で 代表作に「ラララ、紅い花束 車に積んで」と始まる「春の唄」があります これは「国民歌謡」として発表された昭和12年の曲です」「遊星王子」さんの文章を引用
     
    このような立派な方が作詞されて 詩情あり格調高く素晴らしいと感じいります しかし 僭越ながらと申しましょうか畏れながら申しあげるならば・・私にはこの「踊子」の歌詞の中でスッキリしない部分がありまして・・
    それは・・「・・袖が雨に濡れていた 赤い袖に 白い雨 」の部分で「袖」という言葉が互いに近くで繰り返されて出てくることです
    そこで私は昔からこの部分を・・「・・袖が雨に濡れていた 赤い たもと(袂)に 白い雨」と勝手に変えて歌ってしまいます
     
    文学的素養が全く無く ボキャブラリー欠乏症の私なので どなたか ご教示ください・・やはり原詞がベストなのでしょうね
     
    なお この歌「踊子」は 元々 昭和32(1957)2月に ラジオの朝日放送から放送された呉羽紡績提供の番組『クレハ・ホームソング』の中で流されたら それが大変好評なので 同年8月にレコード化されて発売に至ったものだそうです (呉羽紡績は吸収合併されて 現在は東洋紡株式会社)
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    映画「伊豆の踊子」6作品の中では 美空ひばりさんが年格好などの点で最も合っていますが 演技力は完成していなかったので 野村芳太郎監督は一計を案じて・・演技撮影以外の時間に普通でいるひばりさんのシーンも撮影して それを映画の本編に挿入して効果的に使ったそうですが・・
     
    ◎「社会の負の部分」も描かれました
    「伊豆の踊子」の映画ではストーリーの主体となる部分は別にして 冷たく流れるのが・・当時の芸人に対する差別・蔑視の状況表現です 
    まず6作品すべてに「物乞い 旅芸人 村に入るべからず」という立て札が在るシーンが出てきます
    (作品によって各々の立て札の文言や設置場所に若干違いはあります)
     
    そして茶店のおばさん(又はお婆さん)は 旅芸人たちに対する侮蔑的言葉を使います・・「あんな連中・・」「あんな者・・」「あんなの・・」などと (ただし 鰐淵晴子・津川雅彦版では 茶店のお婆さんは旅芸人たちに好意的  しかし村の子供達から薫は石を投げられ追われるシーンはあります)
     
    その一方で差別の裏返しとして・・当時の「一高」の制帽をかぶった学生を「旦那さん」とまで呼び上げます その上 少なくとも2作品(全作品を完全には視ていないので)では 学生が茶店を出ても 店のおば(お婆)さんは 学生の鞄をかかえて途中まで送ってついてきます
     
    この2作品の内の1作品が 美空ひばり版であり この作品では更に・・学生が店に落としていったお札(紙幣)に後で気が付き それを届けるべく 息子に託して後を追わせる・・ということまでしています

    つまり6作品の内で 美空ひばり版における 茶店のおばさんが 最も詳細に描かれていることになり・・そのおばさん役を演じたのが野辺かほるさん でした !
     
    私のブログにコメントを戴いた方は・・
    「茶店のおばさん役の野辺かほるさんの演技が印象的」と述べられています これは演技のうまさとともに その内容が 旅芸人たちへの対応と学生へのそれの 違いを執拗なまでに表現している・・
    ・・と言えるからではないでしょうか
     
    また 監督の野村芳太郎さんが「砂の器」などの社会派的映画も手掛けた方だったから このような表現になったとも言われます
     
    ◎野村芳太郎監督が住まわれた町には 時として警官が・・
    野村芳太郎さんは・・大正8(1919)423 京都市生まれで 平成17(2005)年48日に死去 生後まもなく東京市浅草区に移ったそうですが・・私が拝見したお宅は東京都 新宿区のある町にありました
    今から25年ほど前から数回 私は仕事の関係でこの町を訪れましたが そこに 御影石を荒く削った感じの背の高い2本の立派な石材に「野村芳太郎」と書かれた表札が埋め込まれた門柱を構えたお宅でした しかし野村さん亡き後にはどうなっているのでしょうか 因みに この近辺には有名な俳優や彫刻家などのお宅もありました
     
    さて JRや地下鉄の四谷駅をおりると約500メートル先に赤坂迎賓館が正面に見える広い道路があります(つまり この道路の突き当りが迎賓館) 迎賓館に向かうその道路の右側の少し入った所にこの町がありますが迎賓館が近いので・・国賓などVIPが来る当日だけなのか数日前からなのかわかりませんが 広い道路から奥に入り込んだ細い路地にまで その辻ごとに警官が見張りに立ちます 私もこういう日に当たってしまったことがあり 持っていた鞄の中をあらためられました 
     
    ◎「辻に立つ」と言えば・・
    私は兵庫県のほぼ中央に位置する某市にある事業所に勤務していた時期がありますが ある日の夜に 街で異様な光景を目にしました・・それは・・メイン道路からはずれた細い路地の辻という辻に かがり火を焚いて数人の男たちが立っているのです 
    何かを見張っていることはすぐに分かりましたが 目的がわかりませんでしたので 翌日に地元出身の職員に聞いたところ・・(近く行われる)市議会議員の選挙に向けて 選挙人の買収や抜け駆けを
    防ぐため」ということで驚きました (今から40年前のことですが・・)
     
    そう言えば 今年 2018年6月28日の朝日新聞の「天声人語」に・・『明治初め まだ交番が無い時代に巡査たちはまちの角々に交代でたたずんで「立番(たちばん)」をしていた 雨や雪 夏の夕立や雷に悩まされたと 篠田鉱造著「明治百話」にある やがて交代で番をする建物が各地に造られるようになった さて現代 交番は駐在所とあわせ1万2千カ所を上回る』・・とありますので 新宿区のこの町の路地の辻は 時々 明治時代初期のような様相を呈するとも言えるのでしょう
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    終戦直後日本で例外的に許された河野兼光先生の剣道場 !
      お断り:前回ブログで予告の「野辺かほる、美空ひばり関連のお話」は今回の急な話題挿入によりまして 次回にさせていただきます
     
    その剣道場の名は 「明武館」 
    存在した場所は 東京都 豊島区 椎名町 (現、南長崎)
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    右側が明武館の2階の瓦屋根で 道場はこの下1階部分に連なって左側に在った(昭和42年頃)
     
    実は私は子供の頃から この道場の隣に20年間ほど住んでいましたので 今回の居合道の事件に因んで お話します
     
    河野兼光先生は明治29(1896)年 高知県生まれ 昭和43(1968)年9月25日に72歳で亡くなりました
    警察官として目白警察署(東京都 豊島区 目白)に勤務しながら昭和12年に 明武館を開きました
     
    その流派は 無双直伝英信流 という居合道 その流祖は江戸時代・永禄年間の人で その後 第7代目が 発展させて 無雙直傳英信流 を生み出し 延宝二(1675)年に第9代目が土佐藩に仕えてから無双直伝英信流は土佐藩で広まったそうです
     
    土佐藩の坂本龍馬は藩内では 小栗流を 江戸に出ては北辰一刀流を修得したとされますが
     慶応3(1867)年 京都の近江屋で暗殺された際には帯刀していなかったそうで もし 居合の無双直伝英信流を修得していて 帯刀していたら難を逃れていたかもしれません
     
    河野兼光先生は第19代目だそうですが 実際は居合道と剣道両方を指導されていました
     ※この稿を書くにあたって色々調べましたら無双直伝英信流も河野兼光先生より前の時代に分派しているようです
     
    GHQに直談判した河野先生
    GHQが終戦の年昭和20年末には学校教育での剣道禁止、翌年には町の剣道場でのそれも禁止・・という命令を発しました (柔道なども同様)
     
    「武道禁止令出したGHQに強硬異議申し立てた河野先生」については 先生の死後に 某スポーツ紙がとりあげたことで 私も初めて知った次第で その記事の内容は 殆ど覚えていないのですが ・・・
     
    GHQに直接出向いたのか 文書を送ったのかは 忘れましたが 河野先生は「現在の剣道というものは(GHQが心配するような )人を殺傷するための剣術ではなく 克己して精神を磨くものである」(「 」内は私の想像で恐縮です) ・・というようなことを力説されたのではないでしょうか
     とにかく結果として 日本で只一か所 剣道場として開場の許可をとりつけた・・そうです
     
    明武館 寸描
    GHQをも説得するほどに威厳に満ちておられた河野先生のお姿は・・ツルツルの禿げ頭で 常に稽古着で 私は 洋服姿は見たことがありませんでした
     
    道場には 5~6人の制服の警察官のグループも竹刀など剣道具を持って 頻繁に稽古に来ていました 当時は その理由が分かりませんでしたが 後年になって 先生が目白警察署に勤務されたことがあるということを知って納得しました
     
    いうわけで 私は物心ついた頃から 道場から聞こえてくる竹刀の打ち合いの音が 心地よいBGMとなっていました
     
    道場の音と言えば もう一つ 耳に残っているのが・・
    月に三回 ( 一日、十日、二十日・・だったか ? ) 朝に先生が打ち鳴らす大太鼓の音で・・最初の一打と次の二打の間は5秒、そして三打との間は4秒、・・のように 打数が増えるにしたがって段々と間隔が短くなって最後は連打でドドドドド・・・・・となるものでした
    今思うに これも精神統一的な意味合いがあるような気がします
     
    道場の隣に私は祖父とも一緒に住んでいましたが その祖父が 年間通して色々な花を栽培していていたので  時々 切り花を何本か束ねたものを 道場に差し上げるために届ける役目を私がしていました その花はいつも奥様に渡していましたが 私の帰り際に・・「お駄賃 (今では死語 ? ) がわりですよ」 と言って鉛筆を3本下さるのでした
     
    こうして先生が建てられた道場は 先生亡き後も昭和48(1973)年に新道場に建て替えられるまで存在していました その後 後継の方がそこで指導を続けられたようですが その道場も移転した結果 現在は一般の住宅が建っています
     
    厳格であった河野先生 今回の居合道の事件をどのように見ておられるのでしょうか ?
    ・・・・・・・・・・・・・・

    野辺かほる美空ひばり明日待子(あしたまつこ)・・ムーランルージュでつながる三人
     
    ◎ムーランルージュにも出た「野辺かほる」さん
    前編に述べました名脇役女優「野辺かほる」さん その娘さんの鈴木雅さんが登場するYouTubeのなかで語られていますが 野辺かほるさんは いつ頃のことかは不明確なのですが 映画の他に・・東京・新宿に在った「ムーランルージュ新宿座」(通称「ムーラン」) という劇場にも出ていたことがあったそうです 
    「ムーランルージュ新宿座」
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    ムーランは昭和6(1931) 年の営業開始から昭和26(1951)年の閉館まで続いた「軽演劇とレヴュー」 「歌ありコントありのバラエティーの元祖」という性格の劇場だったようですが 「エスプリとユーモアの殿堂」とも言われたようで 当初からインテリ層向けを意識したので 大学生や著名な文筆家たちにも人気があり 太平洋戦争直前頃には 黒澤明(後の名監督)も頻繁に通っていたそうです
     
    ムーランには後の芸能界でも活躍する人が多く在籍しました 70才代前半の私が 顔と声をはっきり思い出せる人達だけを挙げると
     
    森繁久弥 望月優子 有島一郎 益田喜頓 由利徹 谷幹一 水谷八重子 三木のり平 武智豊子 左卜全 三崎千恵子(寅さんのおばさん役でも活躍) 若水ヤエ子 春日八郎(当時は別名) 楠トシエ 市村俊幸(愛称ブーちゃん) 三島謙(後の曾我廼家五郎八〉
    そして水島道太郎も出ていた・・ということは・・私が野辺かほるさんのお宅前で目にしたのは水島さんだったのでしょうか ?
     
    ◎ムーランで一度だけ歌った「美空ひばり」さん
    ひばりさんが有名になる前の貴重な証言があります・・ムーランの役者として短期在籍した経験のある小説家の柴田悦男氏によれば・・
    『 昭和21年の11月頃に“加藤”と名乗る少女が母親と一緒にムーランに来て 母親が・・「ちょっとでいいからこの子に舞台で歌わせてやって下さい」と言うので 舞台がはねた後に 追加で 彼女に歌わせたんです それが翌年に「天才少女歌手現る」として一躍 有名になって あの晩のあの娘が 美空ひばり だったと分かりました 彼女のムーランへの登場はこれっきりでした ムーランの関係者であの晩、あの現場にいた人は少ないので この話はあまり知られていないでしょう 』(海城中学高等学校のホームページより抜粋・要約)https://www.kaijo.ed.jp/students/832 
     
    美空ひばりさん(昭和12=1937年5月29日~平成元年=1989年6月24日)12才の時(昭和24=1949年)「悲しき口笛」のレコードと映画主演デビューしたことはよく知られていますが それ以前の第二次大戦中から人前で歌い 終戦直後は加藤家が自前で設立した劇団で歌い 昭和21(1946)年には各種の のど自慢大会に出て 古賀政男先生にも歌を直接披露して高評価を得たりして 昭和22(1947)年には横浜の杉田劇場に漫談や俗曲の前座歌手として出演し その後この一行と地方巡業するようになったそうなので ムーランに売り込みに来たのは 杉田劇場とかかわる前のことになり それは昭和21(1946)年11月だったそうなので ひばりさんが9才 つまりレコード、映画主演デビュー3年前の事でした

     
    ◎ムーランのトップスターだった「明日待子」さん今年98才 !
    ムーランには看板娘だった「明日待子(あしたまつこ)」さん がいました
    大正9(1920)年 岩手県に生まれ 13才で上京してムーランの舞台に立ち始め きれいな目鼻立ちで笑顔もイイということで大人気となり 多くの大手会社の宣伝ガールになり ポスター 映画 レコードも出し 元祖アイドルとも言われ 当時の諏訪根自子 李香蘭(山口淑子) 原節子と並ぶ存在で
    学生にも人気で 戦時中は学徒出陣前に見納めとして観に来る者もいたそうです
    そして昭和24(1949)年の結婚を機に引退して札幌住まいになりました
    イメージ 2
    当時の「明日待子」さん
     
    ムーランについては野辺かほるさんつながりで 気にしていた私は明日待子さんについても ある程度知っていたのですが・・昨年 平成29 (2017)年12月8日 たまたま視たテレビ番組「爆報 ! T H E フライデー」(T B S系列)の中で 97才の明日待子さんが登場して 学生時代からのファンという95才のおじいさんと75年ぶりに感動の再会を果たしたシーンが視られました

    明日待子さんは現在も札幌在住で 日本舞踊の師範としてご活躍されているそうです                              イメージ 3 
    昨年97才の「明日待子」さん
    額にかかるバング(前髪)スタイルが 昔と変わらないのが素敵です 益々の御長寿を・・

    ※後日追記:明日待子さんは、このブログ発信の翌年に99才でお亡くなりになりました

    ※ムーラン、その設立者の佐々木千里氏、明日待子さんについての追加情報を2022年8月19日にブログ発信しました・・
    http://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/16348104.html
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    ここで ひばりさんについて もう一題・・
    ◎美空ひばりさんの魅力の「鼻濁音」以外の「鼻清音?
    ひばりさんの歌の魅力の一つとしての「鼻濁音」について多くの人が語っています
     
    日本語における「鼻濁音」は今や この言葉自体が消滅に向かっているとされますが 「鼻濁音」を知らない若い方のために ちょっと説明すると
     
    「が、ぎ、ぐ、げ、ご」の「が行」の音が 言葉の語頭以外に来た場合 又は 助詞の「が」を 音が鼻に抜けるように発音するものが「鼻濁音」で 
    例えば 「がっこう」の「が」は語頭に来ているから「鼻濁音」にせず 「おんがく」の「が」は言葉の中にあるから「鼻濁音」にします
     
    発音を文字で表記するのは難しいのですが あえてするなら・・「が」は「が」になります 同様に「ぎ」は「ぎ」のようになります
     
    元来この「鼻濁音」は主に東京とその近隣県あたりで使われていたもので 九州 中国 四国では(一部地域を除いて) もともと無かったか 早くに消滅していたと言われます
     
    私は60数年 前に 小学校の国語の時間で「鼻濁音」を習いましたが 現在では 学校の指導要領で これを教えるようにはなっていないそうです 
    それに この「鼻濁音」を使わないと困るようなことは無い・・というのは 消滅に向かっても仕方ないところがあります 
     
    しかし ! ! !「鼻濁音」を使った言葉は・・やはり やわらかく感じます
    そして・・この「鼻濁音」を顕著に感じさせてくれたのが・・美空ひばりさんの歌です
    ひばりさんは横浜育ちの上に 天才的音感の持ち主なので「鼻濁音」を大切にしたのでしょう
     
    先述のように 多くの人が ひばりさんの歌での発音の魅力要素として「鼻濁音」を指摘されていますが・・それだけではないと私は思います・・と言うのも・・
     
    ひばりさんは 歌の中の「か行」という清音も鼻に抜け気味にして これもまた やわらかさを出しています 言わば 「か行」の「鼻清音」とでも言うのでしょうか ?
     
    例えば 「悲しき口笛」の歌では・・「おかのほてるの・・」の「か」が これに当たります (この歌は特に「か行」音が多いのでよく分かります)
     
    こうして美空ひばりさんは 「鼻濁音」と「鼻清音」の二段構えで 常人の歌ではない魅力を醸し出していたのでしょう
     
    ・・なので ひばりさんの歌を真似る時は「鼻濁音」だけでなく「鼻清音」  も意識して歌えば ひばりさんに より近づくことができるのでは? ただし カラオケ採点機は 反応しないでしょうが・・
     
     
    ここで 話はちょっと飛びますが・・
    が」ではなく「ぐ」と発音する明治・大正生まれの人がいました それは 三木武夫 元首相(徳島県出身) そして私の父(長崎県出身)・・
     
    ただし この「ぐ」は言葉の語頭にも使われていました 例えば 「学校」を「ぐっこう」・・というふうに それは この人たちの場合 出身地が四国や九州という 元々「鼻濁音」が無い地域で 発音が難しかったから代替の発音方法だったかもしれません ・・と思いきや
     
    ネット上の Q & Aで ある50才代の方の回答文には・・『 私の祖母の世代は「か行」を「か」と「く」の2種類に言い分けていて お菓子 は「おくぁし」 と発音していました 』・・とあります
    このように 清音も「く」の例がありますので そうなると「ぐ」「く」の発生経緯や使われ方など知りたいところです
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    ◎「野辺かほる」さんは戦前から活躍!戦後のあの映画にも! 
    「野辺かほる」 さんは 大正6年(1917年)に東京で生まれ 91才で亡くなったそうですから、没年は平成20(2008)年か21(2009)年でしょう
     
    戦前から昭和30年代まででしょうか 数々の映画に出演していて 戦後だけで少なくとも40本以上です
    戦前の昭和12年には・・溝口健二監督の「愛怨峡」でアパートの管理人 の妻として
    昭和29年の美空ひばり、石浜朗が主演、野村芳太郎 監督 の「伊豆の踊子」では峠の茶屋のおばあさんとして 
    昭和32年の高峰秀子、佐田啓二が主演、木下恵介 監督の「喜びも悲しみも幾年月」では観音埼灯台長の夫人として
    昭和35年の鰐淵晴子、津川雅彦が主演、川頭義郎(かわずよしろう)監督の「伊豆の踊子」に 今度は 木賃宿「甲州屋」の老女中として出演
     
    私の知るかぎりの「野辺かほる」さん出演の映画の中では美しい女性役というのはありませんでしたが
    戦前作品の「愛怨峡」 (現在YouTubeで全編観られます) では すでに演技とセリフまわしに自然なウマサを感じさせる女優さんでした 言うまでもなく一般的に映画は美男美女だけでは成り立たないので重要な脇役だったのです
     
    ちなみに「愛怨峡」の中での 野辺かほるさんの台詞の量は脇役としては多いと思いますが 「喜びも悲しみも幾年月」では短い台詞の一言だけで 仕草のほうで存在感を出しています
     
    この文章作成中の平成30(2018)年8月に津川雅彦さんが亡くなりました 映画「伊豆の踊子」で鰐淵晴子相手の58年前の津川さんは やはり若い
    この映画終盤に登場の野辺かほるさん扮する「宿の老女中」の台詞量も多いです (鰐淵・津川版もYouTubeで全編見られます)

    ◎近所で見た実際の姿、お宅、娘さん
    さて 私は「野辺かほる」さんが昭和30年代初めまで住んでおられたお宅から25メートルくらいしか離れていない所に住んでいました・・
    それは東京都 豊島区 椎名町 (現、南長崎)・・の地
     
    さすがは映画女優で 映画での役どころのイメージとは大違いで お宅の玄関前からお出かけする様子を拝見した時のお姿は やはり ふつうの御婦人とは明らかにちがって 華やかなお化粧と装いで ある時はふさふさの毛皮の襟がついたコートを身にまとわられ その横に立っていたのは ご主人でしょうか? これがまたイイオトコで 小学校低学年生だった私の目に焼き付いたお顔を今、思い起すと それは 丁度そのころの映画俳優だった水島道太郎さんに ちょっと似ていたように思います
     
    ある日の夕方 居合わせた叔父が 「野辺かほる」さん宅を指さして「ほら あの家の青白い光は 蛍光灯という新しい電球のものだよ」と教えてくれました それは私にとって 新鮮な光景でした
     
    叔父は当時 東京都電気研究所に勤務していましたから 電気には詳しかったのです 日本での家庭用蛍光灯は昭和30年ころから普及を始めたそうなので 映画俳優の野辺さん宅はまさにその先頭にあったのでしょう なにしろ隣近所ではまだ黄色がかった光の白熱電灯ばかりでしたから
     
    野辺さんには二人の娘さんがいました お姉さんの名は「雅( みやび )」 妹さんの名は正確には分からず 私たち近所の子供は 「 かっちゃん 」 と呼んでいました
     
    ある時 私は その「 かっちゃん 」(私より1~2才上だったか ?) と ちょっとした取っ組み合いをしました その場所は野辺さん宅と私の家の間にあった300平米くらいの空き地の草むらで その時の「草いきれ」の感じは覚えています
    今から思えば なぜ女の子を相手にそんなことをしたのか分かりませんが 「 かっちゃん 」は心身ともに活発な女子だった記憶はあります とは言え この一件は ほろ苦い思い出です
     
    一方 「雅」 お姉さんの方は 長女然として しかも年齢が離れていたせいか 私らと活発に遊ぶということはありませんでしたが・・
    なんと 最近のお姿をネットで拝見することができます 題して 「 鈴木雅さん、母野辺かほるを語る 」( YouTube 2012年公開 2分19秒 )https://www.youtube.com/watch?v=-Z7m9LroCUQ
    60年ぶり ! そこには小気味よいおしゃべりと仕草の雅さんが 大変お元気そうに出ています
     
    ◎伊豆の「踊子」の名は「薫(かほる)」だからか?・・ さらに・・
    川端康成 原作「伊豆の踊子」は映画化実に6回 (テレビドラマ化も多い)
    1 )  主演 田中絹代  昭和8 (1933)
    2 )  主演 美空ひばり 昭和29 (1954)
    3 )  主演 鰐淵晴子  昭和35 (1960)
    4 )  主演 吉永小百合 昭和38 (1963)
    5 )  主演 内藤洋子  昭和42 (1967)
    6 )  主演 山口百恵  昭和49 (1974)
         
    野辺かほるさんが この内の2作品に出演しているのには何かありそう ?

    思うに 踊子の名前が「薫」(かほる) なので 出演者を選定する人に「かほる つながり」で影響を与えたのではないでしょうか
     
    さらに この物語のモデルとなった実際の踊子の兄の実名が「時田かほる」であり 川端康成が伊豆の旅から戻った後も しばらくは二人の間に文通があって 差出人が「芸人 時田かほる」の川端宛の年賀状(大正7年12月31日の消印)残っているそうなので これも因縁を感じます

    残念ながら 私が実際に映画館で観た「伊豆の踊子」は野辺かほるさんが出演していない「主演 内藤洋子、黒沢年男 版」だけでした
    イメージ 1
    伊豆・初景滝 の前の踊子像 
    右横に学生像があるのですが・・私がそれを遮って立ち 踊子の手を握っている写真なのでカット) 

     次回は「野辺かほる」さんのお話から さらに続きながら飛びます
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