◎ひばり御殿を見たのはエントツ・タクシーの中から
美空ひばりさんの最初の「ひばり御殿」は神奈川県 横浜市 磯子区の間坂(まさか) という所にありました 『この「御殿」は昭和28(1952)年 美空ひばりさん16歳の時に建築された当時の彼女の年収は2,700万円 (大卒初任給7~8千円の時代) 800坪の敷地に 106坪の白亜の2階建で15部屋 芝生庭に10mプール、下には海が広がっていた』・・そうです(「Author:Bunkichiおじさん」のブログ「横浜彷徨録」より引用一部割愛 bunkichiojisan.blog58.fc2.com/blog-entry-62.html)
私はそれを 小学校低学年の時に 親と乗ったタクシーの中から見ましたが それが 御殿を見た最初で最後の経験になりました
それは昭和30(1955)年のことでした ある用事で東京から鎌倉近くまで行くという親に連れられて 途中まで電車で行ったところで 残りの道のりはタクシーを使うことになりました 乗車前に 親と運転手さんとの間で 目的地まで いわゆる「エントツ」走行することで ”商談成立”
「エントツ」とは・・客が乗車して走行を始める際に 通常は 運転手さんが料金メーターを始動するためにメーター横のレバーを 倒すところ これをせずに 空車状態での走行ということにして お客さんは格安料金を支払い 運転手さんは会社を通さずにマルマル現金収入になる・・というもので 当時 主に長距離走行の場合に少なからず使われた方法でした
メーター横の「レバーが立ったままの状態」を煙突に見立てて生まれた呼び名だそうですが 小学生の私でも知っているほど流布した言葉でした
現在ではタクシーの運行状態は管理が徹底されG P Sで監視している会社もあるなどで 「エントツ」走行などとんでもない昔話になりましたが・・
さてそのエントツ走行のタクシーに乗って横浜繁華街を過ぎて鎌倉方面へ向かう途中 (当時は知るはずもなかったのですが 今 調べると 国道16号線上です)
運転手さんが右方向を指さして・・「あれが有名な”ひばり御殿”ですよ」と言ったので 見ると 小高い所に白い大きな建物が見えたことを 60年以上経った今でもハッキリ覚えています
ひばり御殿(の見える場所)は 当時すでに観光名所になっていて 御殿の下の国道(16号)には 頻繁に観光バスが停車していたそうです
話は飛びますが・・私は かつて 京都・嵐山に在った「美空ひばり館」の外観を見ただけで入館しなかった経験があります それは仕事での団体行動中に たまたま前を通ったからでした しかしその外観は残念ながら 少々ケバケバしくて嵐山の景観には不向きな感じでした なにしろ渡月橋のたもとの公衆電話ボックスまで木製で和風の落ち着いたデザインにしているという土地柄なので 少々違和感を生じていたのです
「美空ひばり館」は平成6(1994)年に ひばりさんの衣装や小道具などを展示して開館したものの 平成18(2006)年に閉館 それを平成20(2008)年に「京都嵐山美空ひばり座」と改名し、
リニューアルオープン しかし平成25(2013)年5月に 再び閉館 それでも同年10月に今度はそれまでの展示内容を受け継いで 京都・太秦にある「東映太秦映画村」の中に「京都太秦美空ひばり座」として開館して落ち着いたようです
私は20数年前に太秦映画村にも行ったことがありますが ここなら景観問題も起きずに 好立地ですから「京都太秦美空ひばり座」は安泰まちがいなしでしょう
『京都太秦美空ひばり座』(「京都観光Navi」から引用)
他方 東京都 目黒区 青葉台にある ひばりさんの住んでいた邸宅は 現在 「東京目黒美空ひばり記念館」として一部公開されていることはひばりさんフアンには 申し上げるまでもないことでしょうが・・
◎小説・映画の「伊豆の踊子」イメージの歌の多いこと!
私は今まで「伊豆の踊子」関連の歌は 三浦洸一の「踊子」しか知りませんでした 小学校高学年頃にラジオから流れたものを初めて聴いて これはイイと感じたので 二番まであるものを一番だけ覚えて 今でも時々口ずさみます
ところがネットで調べましたら「伊豆の踊子」関連の歌は他にもいくつかあるのでした しかも大変詳しい方がいました・・その「遊星王子の青春歌謡つれづれ」というブログ投稿されている「遊星王子」
さんによれば・・
『 文芸歌謡というジャンルの代表は「伊豆の踊子」でしょう。梶光夫の「伊豆の踊り子」高田美和の「旅の踊り子」二代目コロムビア・ローズの「河津川」・・などありますが 歌謡曲としての最高は三浦洸一の「踊子」で格調高い しかし実は「伊豆の踊子」の世界を歌って私がいちばん好きなのは・・美空ひばりが主演した映画の主題歌「伊豆の踊り子」です
”三宅出るとき 誰が来て泣いた 石のよな手で 親さまが まめで暮せと ほろほろ泣いた 椿ほろほろ 散っていた 散っていた
絵島生島 別れていても 心逢島(大島) 燃ゆる島 おらが親さま 離れていても 今度逢うときゃ 花も咲く・・・” 』と綴られています(引用一部割愛)
絵島生島 別れていても 心逢島(大島) 燃ゆる島 おらが親さま 離れていても 今度逢うときゃ 花も咲く・・・” 』と綴られています(引用一部割愛)
◎三浦洸一の「踊子」について
三浦洸一の歌「踊子」は 喜志邦三 作詞 / 渡久地政信 作曲 で
一番の歌詞は・・”さよならも 言えず 泣いている 私の踊子よ ああ 船が出る 天城峠で 会うた日は 絵のように あでやかな 袖が雨に 濡れていた 赤い袖に 白い雨”
「作詞の喜志邦三氏は 三木露風に師事した詩人で 代表作に「ラララ、紅い花束 車に積んで」と始まる「春の唄」があります これは「国民歌謡」として発表された昭和12年の曲です」(「遊星王子」さんの文章を引用)
このような立派な方が作詞されて 詩情あり格調高く素晴らしいと感じいります しかし 僭越ながらと申しましょうか畏れながら申しあげるならば・・私にはこの「踊子」の歌詞の中でスッキリしない部分がありまして・・
それは・・「・・袖が雨に濡れていた 赤い袖に 白い雨 」の部分で「袖」という言葉が互いに近くで繰り返されて出てくることです
そこで私は昔からこの部分を・・「・・袖が雨に濡れていた 赤い たもと(袂)に 白い雨」と勝手に変えて歌ってしまいます
そこで私は昔からこの部分を・・「・・袖が雨に濡れていた 赤い たもと(袂)に 白い雨」と勝手に変えて歌ってしまいます
文学的素養が全く無く ボキャブラリー欠乏症の私なので どなたか ご教示ください・・やはり原詞がベストなのでしょうね
なお この歌「踊子」は 元々 昭和32(1957)年2月に ラジオの朝日放送から放送された呉羽紡績提供の番組『クレハ・ホームソング』の中で流されたら それが大変好評なので 同年8月にレコード化されて発売に至ったものだそうです (呉羽紡績は吸収合併されて 現在は東洋紡株式会社)
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