1968(昭和43)年9月2日~11日までの10日間、東京→北海道巡行→(千葉県経由) →東京の4200kmを4人グループのクルマ旅。前回は道東の根室半島の花咲港でカニを食べたところまでのお話。
今回は根室から北上して知床半島へ進んだものです。
◎根室はベトナム戦争と関係があったとは知らずに!?
花咲ガニが目当ての花咲港に行ったために素通りした根室市に、あらためて戻って昼食をとった。市のほぼ中央に在る根室駅は、釧路と根室を結ぶ国鉄(現JR)根室本線(別名:花咲線)の終着駅「東根室」の一つ手前だが”有人駅”としては日本で最も東に位置する。
↓根室駅舎前にて(左後ろの壁に小さく「ねむろ」の文字が・・)

↓根室駅舎前にて(左後ろの壁に小さく「ねむろ」の文字が・・)

根室駅は東端に在り、そして根室港からは向うに国後島が見え、最も近いケレムイ岬までは約40キロ
という地理的条件を背景に・・なんと、我らが根室を訪れたわずか4か月半前に、根室駅や根室港が関係して”ソ連、日本、米国がからんだある事件”が、起きていたのです。その事件とは・・
1968(昭和43)年4月22日、ベトナム戦争への被派兵を拒否する米兵6人が根室港からいわゆる「レポ船」※で国後島に渡り、そこからソ連のモスクワへ、最終的に中立国スウェーデンに亡命したもの。この亡命ルートは日本側では「根室ルート」と呼んでいた。

(↑2019年7月27日発行の朝日新聞より引用)

(↑2019年7月27日発行の朝日新聞より引用)
この時期には、同じ目的ながら別ルートによる亡命の事例もあり、それらを日本側で支援する2大組織が、当時有名な「べ平連」※と地下組織「ジャテック」(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)であり、この「根室ルート」には双方が関与した。
前述の米兵6人の内5人は、「べ平連」の支援で空路で釧路まで来てそこからクルマで根室へ向かい、もう一人は「ジャテック」支援で札幌から列車に乗って根室駅まで来てから6人が合流した。
この種亡命が多発したため、米国政府か米軍かはわからないが、スパイを使い米兵亡命工作実施途中に潜入させていた結果、この年11月には”根室ルートを使った亡命”寸前の米兵1人が釧路で逮捕された。
・・というわけで、我らが9月に、ちょうど根室駅前で写真を撮ったりしていた様子も米国スパイが監視していたかも知れなかったのです。・・というのも、根室ルート使用事例の中には”日本人ガイド付きの外国人観光グループ”を装ったケースもあったそうなのです。
※「レポ船」とは・・根室には、ソ連による北方領土占拠によって漁場を奪われた漁民たちが多かったが、彼らがソ連側に拿捕されることなく元の漁場での操業を黙認してもらえるように、日本の海上保安庁や自衛隊関連の情報、つまりレポート、略してレポをソ連の国境警備員に渡すために国後島などに渡った船が「レポ船」と呼ばれた。また、情報の代わりにラジオや衣類など金品が使われることもあった。しかし、レポ船は1991年のソ連崩壊の頃に消滅したとされる。
※「ベ平連」とは・・正式名称「ベトナムに平和を!市民連合」で1965(昭和40)年に小説家の小田実(おだまこと:1932~2007)が代表となって数人の知識人らで発足させた”反戦”、”反米”の運動体であったので反戦目的脱走米兵の支援などもしたが、規則や登録名簿などは無かったので、後に自称「ベ平連」の単なる左翼グループなど似非「ベ平連」が多発したので、純粋な反戦主張者たちは脱退していき、1974(昭和49)年に解散。ソ連崩壊後の公文書開示によれば、KGB(ソ連国家保安委員会)は米兵亡命のための支援金を「ベ平連」に渡していたとされる。
◎国後島を見ずに悔いが残る!
根室半島から次に目指す知床半島へ向かう途中の野付半島の先端からは、国後島までの距離は約16キロであるが、そうでなくとも海岸線を走る国道244号線からでも約23キロしかないので、島影ははっきり見えたはずなのに我らはそれを見逃していた。道東地域では「呼び戻そう 北方領土」と書かれた看板を頻繁に目にしていたにもかかわらずであり、後日これに気づいて悔やんだのです。
◎知床半島の「知床五湖」に行き着いたが・・
知床半島の根元から先端までの間のちょうど半分くらいの位置の西側海岸近くに在る「知床五湖」は小さな湖が文字通り5個あり、静寂だが比較的明るい感じがする風景だった。しかし我らが訪れた半世紀前には湖周囲の道はあまり整備されていなかったので、すべての湖を巡ることはしなかった。
↓知床五湖の一つをバックに。周囲にエゾマツ、トドマツが多い
↓知床五湖の一つをバックに。周囲にエゾマツ、トドマツが多い

後年になって気づいたのは、まだヒグマが出没する時期であったことを我らは意識せずに、なんと無防備であったことかということで、今、調べてみたら「知床五湖」を観光地として整備され始めたのは1970年代後半から(=昭和50年ころ~)だそうで、五湖を巡る遊歩道が整備され、ヒグマ対策上、春から夏の終わりまではガイド人を頼まないと歩行不可。しかし遊歩道の一部に沿って、自由に安全に歩けるように、地上2メートルくらい?の高さに柵付きの渡り廊下のような「高架木道」(全て木製)が設けられている。
◎狭い道では何度となく「デフ」をこすった? !
「デフ」は「ディファレンシャルギア」の略称で、これは(詳しい原理は省略しますが)自動車がスムーズに曲がるために左右の車輪の回転を調整するための”歯車を組み合わせた装置”で、その全体をくるむケースが特に”前エンジン・後輪駆動車”や”4輪駆動車”では車体の下側に出っ張ったカタチで左右両輪の中間に見えやすい。(下写真参照)


大型トラックの「デフ」(のケース)は後ろをちょっと低い位置から見ると覗き込まなくてもよく見えることがある。ちなみに現在のEV(電気自動車)にはデフがありません。
・・というわけで、知床五湖へ向かう道もまだ整備されておらずに狭かったために・・走行車内での録音には「ゴツッ」という音にすかさず「あっ デフをこすった!」という声が残っていますが、この”デフこすり”はこのクルマ旅では他の場所でも何回かありました。これも半世紀前ゆえのことだったのでしょう。
◎「オシンコシンの滝」の名を観光船沈没ニュースで・・
知床五湖から次に南へ14キロほどの距離のやはり沿岸部にある「オシンコシンの滝」に向かった。「オシンコシン」とはアイヌ語で”川下にエゾマツが群生する所”という意味とのこと。落差は30メートルで北海道の中では大きい滝で、「日本の滝100選」の一つ。
ところで、今年2022年4月23日に発生した”知床遊覧船KAZU Ι沈没事故”関連ニュースの中で、(我らにとっては懐かしい)「オシンコシンの滝」の名が登場しました。それは4月29日に「カシュニの滝」(知床五湖より北18キロ)の沖の海底に沈んでいるのが発見され、その後にやや持ち揚げて曳航中の5月24日に、「オシンコシンの滝」の沖合10キロのところで落下させてまた海底に沈んだので、それを再度引き揚げする作業が5月26日に行われたからで、その様子は「オシンコシンの滝」横の駐車場から観察できたそうです。
↓知床遊覧船KAZU Ι(「知床遊覧船」HPに掲載されていた姿)

合掌
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今回はここまで。次回は道内を西に進みます。
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