明日待子をモデルにしたNHKドラマ「アイドル」が8月11日に放映された直後に、私が2018年8月18日に発信したブログ・・http://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/4443890.html・・を閲覧された方が多数いらっしゃったので、少し関連情報を追加してみます。

※再放送はNHKのBSプレミアムで8月29日(月)21時~22時30分

※佐々木千里(ささきせんり)とはムーランルージュの設立者であり、NHKのドラマの中では椎名桔平が扮していた人物。

※ドラマの中でも使われた「ムーランルージュ」という呼称はていねいな表現では「ムーランルージュ新宿座」とも呼びますが、正式名称は「新宿座」。しかしここでは以下、当時の通称である「ムーラン」を使います。

◎ムーランの在った場所はどこか?
現在の住所で言えば東京都新宿区新宿3丁目(昔は淀橋区角筈=つのはず・・と称した所)。現JR山手線新宿駅南口(甲州街道側)を出て北へ徒歩約3~4分くらいか。現在は「ドンキホーテ」のお店があるビルあたり。下地図の赤印位置。(左側の桃色の帯部分は新宿駅ホーム)(クリックで拡大)
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↓ムーラン跡地に建つビル(ディスカウントショップ「ドンキホーテ」などが入っている)
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◎佐々木千里は隣の豊島区で区議会議員にもなったのか?
答は・・NO! 新宿区に在ったムーランの設立者である佐々木千里とは別に、すぐ隣の豊島区に区議会議員などをして活躍した同姓同名でしかもほぼ年齢が同じと思える人がいたのです。私を含めた70才以上の人で昭和30年代に豊島区の住民だったか、あるいは東京都に住んでいた人の一部は「佐々木千里」という名前を聞けば、昔は選挙運動で連呼される名前をさんざん聞いていたからこちらの議員さんのことしか思い浮かばない。ですから昔に豊島区在住者だった私もムーランの佐々木千里を知った時点で「ムーランをやめてから議員にもなったのか?と思わずつぶやいたのですが、私と同じ思いをした人がネット上でとりあげたら一時、騒ぎになり、当初は「それって絶対に同一人物だ!」という声もあったものの最終的には「どうやら、別人のようです」ということで終息。・・というわけでご両人について今回少し調べてみました。(実際は10才ちがいでした)

《ムーランの佐々木千里》
静岡県生まれ。1891(明治24)年~1961(昭和36)年 69才没。
浅草オペラでチェロ奏者だったが後に浅草の他の演劇場の支配人となる。新宿に移り1931(昭和6)年の大晦日に「新宿座(ムーランルージュ新宿座)」を設立。劇団も作り、多くの人材を育てた。その内の一人が明日待子。↓(写真は「ライブドアニュース」より引用)
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佐々木千里は当時人気のエログロナンセンスの風潮とは異なる路線をとったが、前年の昭和5年に、純潔性をうたって宝塚歌劇(レビュー)が関西で始まったことも意識にあったものと私は思う。

当時の出し物の構成は”世相を反映した芝居3本とダンス(ラインダンス含む)”など。
人気女優らのラインダンス(明日待子さん所持の写真を朝日新聞がムーラン関連記事(2011年2月16日発行)用に借用したもの)
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ムーランの周囲には大正から昭和にかけて10数軒の映画館があって、その内の1軒を改装して誕生したのがムーランなので、一時期は映画上映も行った。
『戦時中も興行は中止することなく続いたが、空襲警報が出ると観客と一緒に地下の防空壕に潜った。しかし45(昭和20)年春の空襲でムーランは表側だけを残して焼け落ちた』(『』内は朝日新聞2014.10.10記事より抜粋)
氏は劇場経営は松竹などに任せていたが、丁度還暦の頃1961(昭和26)年に閉館した。

閉館間近の時期にムーランの劇団員をまとめていたのは、当時座長夫人でその後映画「男はつらいよ」シリーズでおばちゃん役をつとめた三崎千恵子だった。三崎は後年「ムーランは私の人生!」と言っていた。

《議員であり実業家だった佐々木千里》
長野県生まれ。1901(明治34)年~1975(昭和50)年以降没で不詳。
27才で上京以降、商社、造船会社、製塩会社、漁業会社など創業。昭和28年には「東京丸物百貨店」※を開業。
更に学校法人設立。東京商工会議所豊島支部設立同時に支部長就任。そして昭和22年から豊島区議会議員。昭和26年から44年までは都議会議員。その間に自民党幹事長にも就任。
1975(昭和50)年に勲四等旭日しょう(糸へんに賞)受章。
・・というわけで、この方は東京都板橋区の松月院にブロンズ胸像があるほどの人でした。

※丸物百貨店は東京・池袋東口の西武百貨店の北側に隣り合わせて存在したが後に西武側に売却されて「パルコ」になった。これはその後各地に出来たパルコの第1号。

まあ、それにしても「佐々木千里」という名前は世の中には少なそうで実は結構多いもので、今回とりあげた二人の他にネット上だけでも多数存在していたのは意外でした。

◎暗い世相ゆえに明るく咲いたムーランか?
ムーラン開業の1931(昭和6)年とその前後の社会は総体的には暗い時代であり、その中で生まれ、存在し続けたのは、民衆の心に少しでも明るい光を提供しようとしたからであろう。

1927(昭和2)年には経済恐慌が始まり、銀行の休業が相次ぎ、都会では失業者が多数。土管の中や無料宿泊施設に寝泊まりする人は多く、東北・北海道では昭和6年と10年の冷害で農作物収穫量は平年の3分の1以下で困窮して、ナラの実やワラビの根を粉にしたものまで食べ、それでもしのげずに娘を売りに出す農家が続出した。

↓土管に寝泊まりする人たち(昭和5年)(以下写真5枚は毎日新聞社刊の「昭和全史」より引用)
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↓東京市の無料宿泊所は満杯(昭和6年)
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↓大根かじって空腹まぎらわせるか?
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その上、軍靴の足音高くなり、丁度昭和6年9月18日、日本の関東軍は中国・奉天郊外柳条湖の南満州鉄道の線路を自作自演で爆破したものを、蒋介石率いる国民党軍の仕業ということにして戦闘開始で満州事変勃発。以降15年間におよぶ戦争に突入していくことになる。
翌7年には満州国建国。8年には国際連盟脱退。

↓チチハル(中国北東部の町)に出撃直前の関東軍第2師団歩兵(昭和6年)
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一方で世の中には「エログロナンセンス」がもてはやされ、「モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)」が都会を闊歩し、上流階級は女性でもゴルフに興じるという現象も現れたが、これは今ほどは情報伝達が機能しなかったから農村の窮状がピンとこないこともあったかも知れないが、暗い先行きの不安をまぎらわす一時のあだ花だったようにも思われます。

↓モガたち(昭和6年)
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そして戦争激化で学徒出陣体制にまでなり、出征前にせめての見納めにと多くの大学生がムーランを訪れた。その彼らの内で生還できた人はどれくらいいたのでしょうか。

◎明日待子さんの亡くなる2年前のお顔
2017年に97才でテレビ番組「爆報THEフライデー」(TBS系)の取材に応じた際のお顔です。小ジワが無いのには驚きます。
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2014年の朝日新聞の取材時には、「上京して間もない頃、ムーランの屋根裏部屋の壁に『この部屋は屋根裏の天国だ』と落書きしました」、「本当に楽しかったんですよ」と語っている。

結婚後の札幌では日本舞踊のお師匠さんをされていましたが、亡くなったのは2019年7月14日・・そう、この日は「パリ祭」(フランス革命記念日)であり、ムーランルージュの本家が在るパリに因んだ日とは・・明日待子さん、さすがに粋でしたね。

↓谷中安規 作「ムーランルージュ」(昭和8年)
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