野辺かほる美空ひばり明日待子(あしたまつこ)・・ムーランルージュでつながる三人
 
◎ムーランルージュにも出た「野辺かほる」さん
前編に述べました名脇役女優「野辺かほる」さん その娘さんの鈴木雅さんが登場するYouTubeのなかで語られていますが 野辺かほるさんは いつ頃のことかは不明確なのですが 映画の他に・・東京・新宿に在った「ムーランルージュ新宿座」(通称「ムーラン」) という劇場にも出ていたことがあったそうです 
「ムーランルージュ新宿座」
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ムーランは昭和6(1931) 年の営業開始から昭和26(1951)年の閉館まで続いた「軽演劇とレヴュー」 「歌ありコントありのバラエティーの元祖」という性格の劇場だったようですが 「エスプリとユーモアの殿堂」とも言われたようで 当初からインテリ層向けを意識したので 大学生や著名な文筆家たちにも人気があり 太平洋戦争直前頃には 黒澤明(後の名監督)も頻繁に通っていたそうです
 
ムーランには後の芸能界でも活躍する人が多く在籍しました 70才代前半の私が 顔と声をはっきり思い出せる人達だけを挙げると
 
森繁久弥 望月優子 有島一郎 益田喜頓 由利徹 谷幹一 水谷八重子 三木のり平 武智豊子 左卜全 三崎千恵子(寅さんのおばさん役でも活躍) 若水ヤエ子 春日八郎(当時は別名) 楠トシエ 市村俊幸(愛称ブーちゃん) 三島謙(後の曾我廼家五郎八〉
そして水島道太郎も出ていた・・ということは・・私が野辺かほるさんのお宅前で目にしたのは水島さんだったのでしょうか ?
 
◎ムーランで一度だけ歌った「美空ひばり」さん
ひばりさんが有名になる前の貴重な証言があります・・ムーランの役者として短期在籍した経験のある小説家の柴田悦男氏によれば・・
『 昭和21年の11月頃に“加藤”と名乗る少女が母親と一緒にムーランに来て 母親が・・「ちょっとでいいからこの子に舞台で歌わせてやって下さい」と言うので 舞台がはねた後に 追加で 彼女に歌わせたんです それが翌年に「天才少女歌手現る」として一躍 有名になって あの晩のあの娘が 美空ひばり だったと分かりました 彼女のムーランへの登場はこれっきりでした ムーランの関係者であの晩、あの現場にいた人は少ないので この話はあまり知られていないでしょう 』(海城中学高等学校のホームページより抜粋・要約)https://www.kaijo.ed.jp/students/832 
 
美空ひばりさん(昭和12=1937年5月29日~平成元年=1989年6月24日)12才の時(昭和24=1949年)「悲しき口笛」のレコードと映画主演デビューしたことはよく知られていますが それ以前の第二次大戦中から人前で歌い 終戦直後は加藤家が自前で設立した劇団で歌い 昭和21(1946)年には各種の のど自慢大会に出て 古賀政男先生にも歌を直接披露して高評価を得たりして 昭和22(1947)年には横浜の杉田劇場に漫談や俗曲の前座歌手として出演し その後この一行と地方巡業するようになったそうなので ムーランに売り込みに来たのは 杉田劇場とかかわる前のことになり それは昭和21(1946)年11月だったそうなので ひばりさんが9才 つまりレコード、映画主演デビュー3年前の事でした

 
◎ムーランのトップスターだった「明日待子」さん今年98才 !
ムーランには看板娘だった「明日待子(あしたまつこ)」さん がいました
大正9(1920)年 岩手県に生まれ 13才で上京してムーランの舞台に立ち始め きれいな目鼻立ちで笑顔もイイということで大人気となり 多くの大手会社の宣伝ガールになり ポスター 映画 レコードも出し 元祖アイドルとも言われ 当時の諏訪根自子 李香蘭(山口淑子) 原節子と並ぶ存在で
学生にも人気で 戦時中は学徒出陣前に見納めとして観に来る者もいたそうです
そして昭和24(1949)年の結婚を機に引退して札幌住まいになりました
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当時の「明日待子」さん
 
ムーランについては野辺かほるさんつながりで 気にしていた私は明日待子さんについても ある程度知っていたのですが・・昨年 平成29 (2017)年12月8日 たまたま視たテレビ番組「爆報 ! T H E フライデー」(T B S系列)の中で 97才の明日待子さんが登場して 学生時代からのファンという95才のおじいさんと75年ぶりに感動の再会を果たしたシーンが視られました

明日待子さんは現在も札幌在住で 日本舞踊の師範としてご活躍されているそうです                              イメージ 3 
昨年97才の「明日待子」さん
額にかかるバング(前髪)スタイルが 昔と変わらないのが素敵です 益々の御長寿を・・

※後日追記:明日待子さんは、このブログ発信の翌年に99才でお亡くなりになりました

※ムーラン、その設立者の佐々木千里氏、明日待子さんについての追加情報を2022年8月19日にブログ発信しました・・
http://lddesigneruk.livedoor.blog/archives/16348104.html
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ここで ひばりさんについて もう一題・・
◎美空ひばりさんの魅力の「鼻濁音」以外の「鼻清音?
ひばりさんの歌の魅力の一つとしての「鼻濁音」について多くの人が語っています
 
日本語における「鼻濁音」は今や この言葉自体が消滅に向かっているとされますが 「鼻濁音」を知らない若い方のために ちょっと説明すると
 
「が、ぎ、ぐ、げ、ご」の「が行」の音が 言葉の語頭以外に来た場合 又は 助詞の「が」を 音が鼻に抜けるように発音するものが「鼻濁音」で 
例えば 「がっこう」の「が」は語頭に来ているから「鼻濁音」にせず 「おんがく」の「が」は言葉の中にあるから「鼻濁音」にします
 
発音を文字で表記するのは難しいのですが あえてするなら・・「が」は「が」になります 同様に「ぎ」は「ぎ」のようになります
 
元来この「鼻濁音」は主に東京とその近隣県あたりで使われていたもので 九州 中国 四国では(一部地域を除いて) もともと無かったか 早くに消滅していたと言われます
 
私は60数年 前に 小学校の国語の時間で「鼻濁音」を習いましたが 現在では 学校の指導要領で これを教えるようにはなっていないそうです 
それに この「鼻濁音」を使わないと困るようなことは無い・・というのは 消滅に向かっても仕方ないところがあります 
 
しかし ! ! !「鼻濁音」を使った言葉は・・やはり やわらかく感じます
そして・・この「鼻濁音」を顕著に感じさせてくれたのが・・美空ひばりさんの歌です
ひばりさんは横浜育ちの上に 天才的音感の持ち主なので「鼻濁音」を大切にしたのでしょう
 
先述のように 多くの人が ひばりさんの歌での発音の魅力要素として「鼻濁音」を指摘されていますが・・それだけではないと私は思います・・と言うのも・・
 
ひばりさんは 歌の中の「か行」という清音も鼻に抜け気味にして これもまた やわらかさを出しています 言わば 「か行」の「鼻清音」とでも言うのでしょうか ?
 
例えば 「悲しき口笛」の歌では・・「おかのほてるの・・」の「か」が これに当たります (この歌は特に「か行」音が多いのでよく分かります)
 
こうして美空ひばりさんは 「鼻濁音」と「鼻清音」の二段構えで 常人の歌ではない魅力を醸し出していたのでしょう
 
・・なので ひばりさんの歌を真似る時は「鼻濁音」だけでなく「鼻清音」  も意識して歌えば ひばりさんに より近づくことができるのでは? ただし カラオケ採点機は 反応しないでしょうが・・
 
 
ここで 話はちょっと飛びますが・・
が」ではなく「ぐ」と発音する明治・大正生まれの人がいました それは 三木武夫 元首相(徳島県出身) そして私の父(長崎県出身)・・
 
ただし この「ぐ」は言葉の語頭にも使われていました 例えば 「学校」を「ぐっこう」・・というふうに それは この人たちの場合 出身地が四国や九州という 元々「鼻濁音」が無い地域で 発音が難しかったから代替の発音方法だったかもしれません ・・と思いきや
 
ネット上の Q & Aで ある50才代の方の回答文には・・『 私の祖母の世代は「か行」を「か」と「く」の2種類に言い分けていて お菓子 は「おくぁし」 と発音していました 』・・とあります
このように 清音も「く」の例がありますので そうなると「ぐ」「く」の発生経緯や使われ方など知りたいところです
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